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横山よこやま大観たいかん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
横山よこやまよこやま 大観たいかんたいかん
1952ねん
生誕せいたん 横山よこやま 秀麿ひでまろ(よこやま ひでまろ)
1868ねん9月18にち?(異説いせつあり)
常陸ひたちこく水戸みと現在げんざい茨城いばらきけん水戸みと
死没しぼつ (1958-02-26) 1958ねん2がつ26にち(89さいぼつ
東京とうきょう台東たいとう
墓地ぼち 谷中たになか霊園れいえん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう
著名ちょめい実績じっせき 日本にっぽん
運動うんどう動向どうこう 日本にっぽん美術びじゅついん
受賞じゅしょう 朝日あさひ文化ぶんかしょう
1934ねん
文化ぶんか勲章くんしょう
1937ねん
文化ぶんか功労こうろうしゃ
1951ねん
勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう
1958ねん
公式こうしきサイト 横山よこやま大観たいかん記念きねんかん
選出せんしゅつ 帝国ていこく美術びじゅついん
影響えいきょうけた
芸術げいじゅつ
岡倉おかくら天心てんしん

横山よこやま 大観たいかん(よこやま たいかん、きゅう字体じたい橫山よこやま 大觀たいかん慶応けいおう4ねん明治めいじ元年がんねん1868ねん〉- 昭和しょうわ33ねん1958ねん2がつ26にち)は、日本にっぽん美術家びじゅつか日本にっぽん画家がか本名ほんみょう横山よこやま 秀麿ひでまろ(よこやま ひでまろ)。旧姓きゅうせい酒井さかい(さかい)。幼名ようみょう秀松ひでまつ。(生年月日せいねんがっぴについては記録きろくにより小異しょういがある。詳細しょうさい後述こうじゅつ。)

常陸ひたちこく水戸みと現在げんざい茨城いばらきけん水戸みと下市しもいち出身しゅっしん近代きんだい日本にっぽん画壇がだん巨匠きょしょうであり、今日きょう朦朧もうろうたい(もうろうたい)」とばれる、線描せんびょうおさえた独特どくとくぼつ線描せんびょうほう確立かくりつした。帝国ていこく美術びじゅついん会員かいいんだい1かい文化ぶんか勲章くんしょう受章じゅしょう死後しごせいさん勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょう追贈ついぞうされた。茨城いばらきけん名誉めいよ県民けんみん東京とうきょう台東たいとう名誉めいよ区民くみん

経歴けいれき

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1868ねん慶応けいおう4ねん / 明治めいじ元年がんねん)、水戸みとはん酒井さかい捨彦の長男ちょうなんとしてまれた。東京とうきょう府立ふりついちなか、および私立しりつ東京とうきょう英語えいご学校がっこう学齢がくれい時代じだいから絵画かいが興味きょうみいだき、洋画ようが渡辺わたなべ文三郎ぶんざぶろう鉛筆えんぴつまなぶ。1888ねん明治めいじ21ねん)、母方ははかた縁戚えんせきである横山よこやま養子ようしとなる。東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう受験じゅけんすることにめると急遽きゅうきょ結城ゆうき正明まさあき狩野かの芳崖ほうがいなどにおしえをける(その期間きかんは2、3かげつ程度ていどだったとわれる)。また、受験じゅけんさい受験じゅけんしゃすう300にんちゅう、 200にん鉛筆えんぴつでの受験じゅけんをし、しかもかれらは有名ゆうめいなんねんおそわってきたとくや、試験しけん直前ちょくぜん鉛筆えんぴつから毛筆もうひつへの試験しけん変更へんこう申請しんせい見事みごと東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうへと合格ごうかくした。1889ねん明治めいじ22ねん)、東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうだい1期生きせいとして入学にゅうがく岡倉おかくら天心てんしん橋本はしもと雅邦がほう黒川くろかわ真頼まよりらにまなぶ。同期生どうきせいには下村しもむら観山かんざん西郷さいごう孤月こげつだい2期生きせいには菱田ひしだ春草しゅんそうなどがいる。

美術びじゅつ学校がっこう卒業そつぎょう京都きょうとうつって仏画ぶつが研究けんきゅうはじめ、同時どうじ京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ工芸こうげい学校がっこう予備よび教員きょういんとなった。またこのころよりみやびごう大観たいかん」を使つかはじめるようになった。1896ねん明治めいじ29ねん)、同職どうしょくすと、母校ぼこう東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう助教授じょきょうじゅ就任しゅうにんした。しかし2ねん当時とうじ校長こうちょうだった岡倉おかくら天心てんしんへの排斥はいせき運動うんどうこり、天心てんしん失脚しっきゃく天心てんしんあお大観たいかんはこれにしたがって助教授じょきょうじゅしょくし、同年どうねん日本にっぽん美術びじゅついん創設そうせつ参加さんかした。

美術びじゅついん活動かつどうなかで、大観たいかん春草しゅんそうとも西洋せいようほうれたあらたな画風がふう研究けんきゅうかさね、やがて線描せんびょう大胆だいたんおさえたぼつ線描せんびょうほう絵画かいが次々つぎつぎ発表はっぴょうする。しかしその先進せんしんてき画風がふう当時とうじ画壇がだん守旧しゅきゅうから猛烈もうれつ批判ひはんびた。現在げんざいではその画風がふう的確てきかくあらわ言葉ことばとされる「朦朧もうろうたい」という呼称こしょうも、当初とうしょは「いきおいにける、曖昧あいまいでぼんやりとした画風がふう」という意味いみで、批判ひはんてき使用しようされた言葉ことばであった。保守ほしゅてき風潮ふうちょうつよ国内こくないでの活動かつどうまりをはじめたため、大観たいかん春草しゅんそうとも海外かいがいわたった。インドのカルカッタや、アメリカのニューヨークボストン相次あいついで展覧てんらんかいひらき、たか評価ひょうかた。そのヨーロッパにわたり、ロンドンベルリンパリでも展覧てんらんかいひらき、ここでもたか評価ひょうかける。この欧米おうべいでのこう評価ひょうかけて、日本にっぽん国内こくないでもその画風がふう評価ひょうかされはじめた。1907ねん明治めいじ40ねん)には、このとしよりはじまった文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい文展ぶんてん)の審査しんさいん就任しゅうにん欧米おうべい外遊がいゆうでの経験けいけんから、西洋せいようあざやかな色彩しきさい琳派との共通きょうつうせいがあること見出みいだし、大正たいしょう時代じだいにおける琳派ブームを牽引けんいんした。1913ねん大正たいしょう2ねん)には、守旧しゅきゅうされて活動かつどう途絶とだえていた日本にっぽん美術びじゅついんを、下村しもむら観山かんざん木村きむら武山ぶざんひとしとも再興さいこうした。

文化ぶんか勲章くんしょう佩用はいようした大観たいかん

以後いご大観たいかん日本にっぽん画壇がだん重鎮じゅうちんとして確固かっこたる地位ちいきずき、1934ねん昭和しょうわ9ねん)に朝日あさひ文化ぶんかしょう受賞じゅしょう1935ねん昭和しょうわ10ねん)には帝国ていこく美術びじゅついん改革かいかくともな会員かいいんえらばれたが、翌年よくねん平生ひらお文相ぶんしょう改革かいかく試案しあん反対はんたいして日本にっぽん芸術げいじゅついんメンバーらと会員かいいん辞任じにん[1]1937ねん昭和しょうわ12ねん)には、同年どうねん制定せいていされた文化ぶんか勲章くんしょうだい1かい受章じゅしょうしゃ1人ひとりとなった[2]同年どうねん帝国ていこく美術びじゅついん改組かいそして発足ほっそくした帝国ていこく芸術げいじゅついん会員かいいんとなる。

太平洋戦争たいへいようせんそうしたには日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかい顧問こもんとなり[3]アドルフ・ヒトラーへの献呈けんていえが[4]など、戦争せんそう協力きょうりょくおこなった。

戦後せんご1951ねん昭和しょうわ26ねん)に日本にっぽん美術びじゅついん会員かいいん辞任じにん同年どうねん文化ぶんか功労こうろうしゃとなった。大観たいかん1958ねん昭和しょうわ33ねん2がつ26にち東京とうきょう台東たいとうにある自宅じたくにて89さい永眠えいみんした。大観たいかん永年えいねんわた日本にっぽん美術びじゅつ発展はってんへの貢献こうけんによりせいさんじょせられ、勲一等くんいっとう旭日大綬章あさひだいじゅしょうおくられた。なお、大観たいかんのう現在げんざいもアルコールけにされた状態じょうたいで、東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ保管ほかんされている。

作品さくひん

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国際こくさい観光かんこうねん記念きねん切手きってとして1967ねん発行はっこうされた(『霊峰れいほうづる』)
秩父ちちぶ霊峰れいほう春暁しゅんぎょう
こごめはら

美術館びじゅつかん博物館はくぶつかんといった公共こうきょう施設しせつ保管ほかんされている以外いがいに、個人こじん所蔵しょぞうおおいことが大観たいかん作品さくひん特徴とくちょうである。2018ねん開催かいさいされた「生誕せいたん150ねん 横山よこやま大観たいかんてん」では、所有しょゆうしゃかさない条件じょうけんされて公開こうかいされた作品さくひんもある[5]

画題がだいとしては富士山ふじさんこのみ、富士山ふじさんえがいた作品さくひんは『心神しんしん』(1952ねんやましゅ美術館びじゅつかんくら)など2000てんえる[6]作品さくひんぼつ50ねん翌年よくねん2009ねん1がつ1にち著作ちょさくけん消滅しょうめつパブリックドメインとなった。

代表だいひょうさく

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無我むが』1897ねん

エピソード

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  • 大観たいかん大変たいへん酒好さけずきとしてられ、人生じんせい後半こうはんの50ねんめしをほとんどくちにせず(たまにべるときいちつぶつぶかぞえるほど)、さけさかな少量しょうりょう野菜やさい)だけでませていたという。んでいたさけ広島ひろしまの「よいしん[8]で、これは昭和しょうわ初期しょき広島ひろしま三原みはらよいこころ山根やまね本店ほんてんさん代目だいめ社長しゃちょう山根やまねかおるった大観たいかんたがいに意気投合いきとうごうし、「一生いっしょうぶん約束やくそく」した山根やまねより無償むしょう大観たいかんおくられていたものだった。しかし山根やまねとしよんだるなんほん注文ちゅうもんるのでおどろいたという。代金だいきんのかわりとして大観たいかん毎年まいとし1まいずつ自分じぶん無償むしょうおくり、結果けっかよいこころ酒造しゅぞうに「大観たいかん記念きねんかん」ができることとなった[9]。もっとも、最初さいしょから酒好さけずきだったわけではない。わかころ猪口ちょこ2 - 3はいになってしまう下戸げこだった。しかし大観たいかん天心てんしんに2しょうともいわれる酒豪しゅごうであり、「さけいちしょうくらいめずにどうする」と大観たいかん叱咤しったしたため、んではきながら訓練くんれんした結果けっかであった。なお1955ねん昭和しょうわ30ねんごろまでは毎日まいにちやく1しょうものさけんでいたものの、晩年ばんねん酒量しゅりょうり、1957ねん昭和しょうわ32ねんごろになると1にちに4ごうむのがやっとだったという。さい晩年ばんねんの1958ねん昭和しょうわ33ねん)になると1にちに5しゃく(1ごう半分はんぶん)しかさけめなくなっていた。鯨飲げいいんはしていたもののアルコール中毒ちゅうどくにはならず、大病たいびょうもせずに90ねんちか寿命じゅみょうまっとうした。
  • 東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう同期生どうきせいである菱田ひしだ春草しゅんそうとは無二むに親友しんゆうつね行動こうどうともにし、『はるあさあきゆう』『帰路きろ入船いりふね』などを合作がっさくしている。1911ねん明治めいじ44ねん)に春草しゅんそうが36さい夭折ようせつすると大観たいかんおおいになげいた。菱田ひしだ春草しゅんそう追悼ついとうてん開催かいさい主導しゅどうし、みずからも『やなぎ先生せんせい』(東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんくら)を出品しゅっぴんした。大観たいかん晩年ばんねんいたるまで、自身じしん日本にっぽん巨匠きょしょうばれるたびに「春草しゅんそうこそ本当ほんとう天才てんさいだ。もしもあいつ(春草しゅんそう)がきていたら、おれなんかよりずっと上手うまい」とかたっていたという。
  • 熱烈ねつれつ勤王きんのうであったちち・捨彦、思想家しそうかとしても著名ちょめいであり国粋こくすい主義しゅぎしゃともしょうされた天心てんしん影響えいきょう色濃いろこけた大観たいかんは、自身じしん国粋こくすい主義しゅぎてきめんっていた。日本にっぽん象徴しょうちょうであるいさむよし富士山ふじさんこのんで題材だいざいとしたほか、皇室こうしつにも度々たびたび献上けんじょうしていた。また、ささえ事変じへん太平洋戦争たいへいようせんそうだい東亜とうあ戦争せんそう当時とうじ日本にっぽんでは、銃後じゅうご個人こじん団体だんたい陸海りくかいぐんたいして兵器へいき生産せいさん費用ひようぶん寄付きふする運動うんどうさかんにおこなわれていた(対象たいしょうおも戦闘せんとうばくげきなど軍用ぐんようおおく、これらは愛国あいこく報国ほうこくしょうされていた)。大観たいかんみずからが売却ばいきゃくした代金だいきん帝国ていこく陸軍りくぐん寄付きふし、きゅうななしきじゅう爆撃ばくげきの「愛國あいこく445(大観たいかん)」ごうなどを献納けんのうしている。終戦しゅうせんにはGHQより戦犯せんぱん容疑ようぎしゃとして調しらべをけたこともあった。
  • 太平洋戦争たいへいようせんそう末期まっき1945ねん昭和しょうわ20ねん)3がつ9にち空襲くうしゅうあんじた弟子でしけん山南さんなんふう仲介ちゅうかいにより、東京とうきょう世田谷せたがや小坂こさかじゅんづくりやしきげんきゅう小坂こさか住宅じゅうたく)のはなれの茶室ちゃしつせた[10]大観たいかん自宅じたくげん横山よこやま大観たいかん記念きねんかん)は翌日よくじつ東京とうきょうだい空襲くうしゅう焼失しょうしつした[10]ため、九死きゅうし一生いっしょうることになった。
  • 大観たいかんのタッチは独特どくとくながら一見いっけん模倣もほうしやすいとかんがえられ、戦前せんぜん一時期いちじき大観たいかんかた地方ちほう素封そほう食客しょっきゃくとなってわたある無名むめい画家がか多数たすうあらわれた。このときかれらによってえがかれた作品さくひん数多かずおお現存げんそんしている。地方ちほう名士めいし子孫しそんには、真筆しんぴつしんじて所蔵しょぞうしているものおおい。これらの模倣もほうさくないし贋作がんさくして、揶揄やゆてきに「田舎いなか大観たいかん」とぶことがある。これらもふくめて贋作がんさく非常ひじょうおお画家がかとしてもられ、鑑定かんてい結果けっか真筆しんぴつ判定はんていされた作品さくひんには「大観たいかん番号ばんごう」という番号ばんごうをつけて保護ほごされている。
  • ぼつ線画せんがほうは、天心てんしんに「空気くうきえが工夫くふうはないか」とわれ、春草しゅんそうらとともにかんがしたもの。
  • 晩年ばんねん80だいころは、歌手かしゅ笠置かさぎシヅ子しづこきだったとわれ、「東京とうきょうブギウギ」や「買物かいものブギー」のレコードをあい聴していた。
  • 自称じしょう弟子でし一人ひとりである渡邉わたなべつつみおっとは、テレビ東京てれびとうきょうのバラエティー番組ばんぐみ開運かいうん!なんでも鑑定かんていだん』の鑑定かんてい軍団ぐんだん一員いちいんであった。
  • 1908ねん制作せいさくられる『白衣はくい観音かんのん』は、1912ねん刊行かんこうの『大観たいかん画集がしゅう掲載けいさい所在しょざい不明ふめいとなっていたが、2017ねん10月に東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんが、やく100ねんぶりに発見はっけんしたと発表はっぴょうした[11]同館どうかん京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかんで2018ねん開催かいさいの「生誕せいたん150ねん 横山よこやま大観たいかんてん」で公開こうかいされた[12]

略歴りゃくれき

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  • 1868ねん慶応けいおう4ねん / 明治めいじ元年がんねん):誕生たんじょう誕生たんじょうについては後述こうじゅつ)。ちちは、水戸みとはんとして「水戸みとまなぶ」の尊皇そんのう攘夷じょうい思想しそうにより志士ししとして活躍かつやく大観たいかん皇室こうしつへの忠誠ちゅうせいはここにはっするものともわれる。はつは、酒井さかい秀松ひでまつのち秀蔵しゅうぞう秀麿ひでまろ大観たいかん誕生たんじょうは、東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこうの「きゅう職員しょくいん履歴りれきしょ」には8がつ18にち台東たいとう戸籍こせきには8がつ19にちとある。古田ふるたあきら大観たいかん旧暦きゅうれきの8がつまれであることは間違まちがいないとする。東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう記録きろく台東たいとう戸籍こせきあいだには1にちのずれがあるが、「慶応けいおう」から「明治めいじ」へ改元かいげんされたのは旧暦きゅうれき慶応けいおう4ねん9がつ8にちなので、いずれにしても大観たいかんは(明治めいじ元年がんねんではなく)慶応けいおう4ねんまれということになる。大観たいかんは『大観たいかん自叙伝じじょでん』において自身じしん誕生たんじょうを9月18にちとしている。慶応けいおう4ねん8がつ18にち新暦しんれき換算かんさんすると(9がつ18にちではなく)1868ねん10がつ3にちになるが、大観たいかん自身じしんが9月18にちまれとしるしていることから、通常つうじょうはこの日付ひづけ採用さいようされている[13]
  • 1878ねん明治めいじ11ねん):一家いっか上京じょうきょう
  • 1881ねん明治めいじ14ねん):東京とうきょう府中ふちゅうがく現在げんざい都立とりつ日比谷ひびや高校こうこう)に入学にゅうがく優秀ゆうしゅう成績せいせき卒業そつぎょうするが、しょ事情じじょうにより「東大とうだい予備よびもん試験しけん」では入学にゅうがく資格しかく消失しょうしついたかたなく、当時とうじ進学しんがく予備校よびこうとしてられていた私立しりつ東京とうきょう英語えいご学校がっこう現在げんざい日本にっぽん学園がくえん高校こうこう)に入学にゅうがく受験じゅけん英語えいごいそしみ、その大観たいかん海外かいがいでの生活せいかつおおきなちから発揮はっきする。
  • 1883ねん明治めいじ16ねん):絵画かいが興味きょうみをいだいた大観たいかんは、渡辺わたなべ文三郎ぶんざぶろうという画家がか師事しじした。その狩野かの指導しどうた。狩野かの芳崖ほうがいにも影響えいきょうされる。当時とうじ日本にっぽん画家がか貧乏びんぼうで、副業ふくぎょうにより生活せいかつしていた。このためちちは、画家がかよりは東大とうだい進学しんがく切望せつぼうしていた。
  • 1888ねん明治めいじ21ねん):東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう受験じゅけん横山よこやまとの養子ようし縁組えんぐみにより、酒井さかい秀麿ひでまろから横山よこやま秀麿ひでまろとなった。
  • 1889ねん明治めいじ22ねん):東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう1期生きせいとして入学にゅうがくちち画家がかになることにだい反対はんたい卒業そつぎょうするまで書籍しょせき図版ずはん模写もしゃするアルバイトで生活せいかつ学費がくひた。
  • 1893ねん明治めいじ26ねん):東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう卒業そつぎょう。そのは、京都きょうと修養しゅうよういにしえ模写もしゃ仕事しごとはげむ。
  • 1895ねん明治めいじ28ねん):京都きょうと市立しりつ美術びじゅつ工芸こうげい学校がっこう現在げんざい京都市立芸術大学きょうとしりつげいじゅつだいがく教諭きょうゆ。この京都きょうと修行しゅぎょう時代じだい推定すいていされるが、雅号がごうを「大観たいかん」とす。大観たいかんとはあらゆる大局たいきょくてき観点かんてんから世界せかいるという意味いみ法華経ほけきょう経文きょうもんからとったというせつもある。
  • 1896ねん明治めいじ29ねん):東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう助教授じょきょうじゅ就任しゅうにんする。
  • 1897ねん明治めいじ30ねん):滝沢たきざわ文子ふみこ結婚けっこん
  • 1898ねん明治めいじ31ねん):岡倉おかくら天心てんしん東京とうきょう美術びじゅつ学校がっこう校長こうちょう辞任じにんし、大観たいかん橋本はしもと雅邦がほうら14にんつづいて辞職じしょくした。その天心てんしん日本にっぽん美術びじゅついん設立せつりつ。そして下村しもむら観山かんざん寺崎てらさき広業こうぎょう菱田ひしだ春草しゅんそう木村きむら武山ぶざんらがこれにしたがって、私財しざい投入とうにゅうして設立せつりつ運営うんえい奔走ほんそうする。
  • 1899ねん明治めいじ32ねん):長女ちょうじょ誕生たんじょう
  • 1903ねん明治めいじ36ねん):つま文子ふみこ死去しきょインド訪問ほうもんし、釈迦しゃか実像じつぞうえがこうとした。天心てんしんすすめるものであったが、天心てんしん日本にっぽん原点げんてんをインドとかんがえたのではないかというせつもある。
  • 1904ねん明治めいじ37ねん):天心てんしんすすめでニューヨーク。へ
  • 1905ねん明治めいじ38ねん):ロンドンへ。長女ちょうじょ死去しきょのため帰国きこく
  • 1906ねん明治めいじ39ねん):遠藤えんどう直子なおこ再婚さいこん天心てんしんんでいた茨城いばらきけんうら転居てんきょうらでの活動かつどう、つまり「日本にっぽん美術びじゅついん絵画かいが」は、天心てんしん大観たいかん春草しゅんそう観山かんざん武山たけやまの5めい
  • 1907ねん明治めいじ40ねん):ちち死去しきょくに主催しゅさいとなって、官営かんえいの「文展ぶんてん」(文部省もんぶしょう美術びじゅつ展覧てんらんかい)が開催かいさいされ、大観たいかん観山かんざん文展ぶんてん審査しんさいんつとめる。
  • 1910ねん明治めいじ43ねん):中国ちゅうごく出発しゅっぱつ。ロバをってかえる。だい4かい文展ぶんてん審査しんさいん作品さくひんすわえすいまき』。地球ちきゅう接近せっきんしたハレはれ彗星すいせい題材だいざい水墨すいぼく彗星すいせい』をえが[14]
  • 1912ねん明治めいじ45ねん):だい6かい文展ぶんてん
  • 1913ねん大正たいしょう2ねん):つま直子なおこ死去しきょだい7かい文展ぶんてんで、最後さいご審査しんさいん作品さくひん松並まつなみ』。9月に天心てんしん死去しきょし、門人もんじん代表だいひょうとして弔辞ちょうじんだ。
  • 1926ねん昭和しょうわ元年がんねん):福井ふくいけん越前えちぜんきゅう大滝おおたきむら滞在たいざいしたおり岩野いわの平三郎へいさぶろう製紙せいししょにて当時とうじ世界せかい最大さいだいといわれた5.4m四方しほうおかまさる[15](おかふとかみ)をいた。
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん):イタリアの最高さいこう指導しどうしゃベニート・ムッソリーニに『立葵たちあおい』が献呈けんていされた。
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)6がつ30にち前年ぜんねん死去しきょした下村しもむら観山かんざん後任こうにんとして15ねんぶりに帝室ていしつ技芸ぎげいいん任命にんめいされる[16][17]
  • 1938ねん昭和しょうわ13ねん):ドイツ総統そうとうアドルフ・ヒトラー献呈けんていするため作品さくひん旭日きょくじつ霊峰れいほう』を完成かんせいさせる。
  • 1954ねん昭和しょうわ29ねん):茨城いばらきけん名誉めいよ県民けんみんとなる[18]
  • 1958ねん昭和しょうわ33ねん):死去しきょ[19]。89さいぼつ
  • 1976ねん昭和しょうわ51ねん):自宅じたく横山よこやま大観たいかん記念きねんかんとして公開こうかい
  • 2009ねん平成へいせい21ねん):作品さくひん著作ちょさくけん消滅しょうめつ、パブリックドメインとなる。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ さい改組かいそ反対はんたい大観たいかんじゅうよんにん辞任じにん東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ11ねん6がつ13にち夕刊ゆうかん昭和しょうわニュース事典じてんだい5かん 昭和しょうわ10ねん-昭和しょうわ11ねん本編ほんぺんp414-415 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  2. ^ 長岡ながおか半太郎はんたろう幸田こうだ露伴ろはんきゅうにん受賞じゅしょう東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ12ねん4がつ17にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい7かん 昭和しょうわ14ねん-昭和しょうわ16ねん本編ほんぺんp654)
  3. ^ 袴田はかまだ茂樹しげき (2017ねん8がつ23にち). “正論せいろん戦後せんご72ねんおもう】戦時せんじ裏返うらがえしの「平和へいわ主義しゅぎしゃ新潟にいがた県立けんりつ大学だいがく教授きょうじゅ袴田はかまだ茂樹しげき(2/4ページ)”. 産経新聞さんけいしんぶん産経さんけいニュース. 産経新聞さんけいしんぶんしゃ. 2024ねん8がつ23にち閲覧えつらん。 “42ねん創設そうせつされた日本にっぽん文学ぶんがくほう国会こっかい会員かいいんやく4000にんで、会員かいいん文人ぶんじんまれ(まれ)だった。役員やくいん徳富とくとみ蘇峰そほう会長かいちょう)、久米くめ正雄まさお菊池きくちひろし折口おりぐち信夫しのぶ佐藤さとう春夫はるお柳田やなぎだ國男くにお…ら錚々(そうそう)たる文人ぶんじんだ。岩波いわなみ茂雄しげお賛助さんじょ会員かいいん顧問こもんには横山よこやま大観たいかん藤山ふじやま愛一郎あいいちろう正力しょうりき松太郎まつたろうつらねた。女性じょせい役員やくいん会員かいいんには、壺井つぼいさかえはやし芙美子ふみこ宮本みやもと百合子ゆりこ左翼さよくもと左翼さよく作家さっかもいる。”
  4. ^ 柴崎しばざき信三しんぞう. “来歴らいれき⑤なぜ「富士ふじ」をえがいたか”. FACTA ONLINE. ファクタ出版しゅっぱん. 2024ねん8がつ23にち閲覧えつらん。 “このとし72さい横山よこやま大観たいかんは、ドイツの総統そうとうヒトラーに富士山ふじさんえがいた『旭日きょくじつ霊峰れいほう』を寄贈きぞうするなど、美術びじゅつとおして戦争せんそう翼賛よくさん国民こくみん動員どういんする「彩管さいかん報国ほうこく」の指導しどうてき役割やくわりになっていた。”
  5. ^ あらたな横山よこやま大観たいかんれて/回顧かいこてんあす前半ぜんはん終了しゅうりょう千代田ちよだ毎日新聞まいにちしんぶん朝刊ちょうかん2018ねん5がつ5にち東京とうきょうめん[リンク]
  6. ^ 目利めききのイチオシコレクション】近代きんだい日本にっぽん絵画かいが(うえ)やましゅ美術館びじゅつかん画家がか交流こうりゅう作品さくひん収集しゅうしゅう佐藤さとう道信みちのぶ)、『朝日新聞あさひしんぶん夕刊ゆうかん2017ねん12月19にち(2018ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  7. ^ 瀟湘八景はっけい
  8. ^ よいこころ山根やまね本店ほんてん公式こうしきサイト
  9. ^ 横山よこやま大観たいかん画伯がはくよいしん | よいこころ山根やまね本店ほんてん公式こうしきサイト
  10. ^ a b きゅう小坂こさか住宅じゅうたく茶室ちゃしつあと解説かいせつばん(2022ねん10がつ現在げんざい)より。
  11. ^ “100ねん行方ゆくえ不明ふめい横山よこやま大観たいかんの「白衣はくい観音かんのん発見はっけん. 読売新聞よみうりしんぶん. (2017ねん10がつ12にち). https://web.archive.org/web/20171013091044/http://www.yomiuri.co.jp/culture/20171012-OYT1T50108.html 2017ねん10がつ13にち閲覧えつらん 
  12. ^ 生誕せいたん150ねん 横山よこやま大観たいかんてん
  13. ^ 古田ふるたあきら、2018)、pp.4 - 5
  14. ^ ほしへのまなざし・日本にっぽん近代きんだい美術びじゅつより(1)横山よこやま大観たいかん彗星すいせい東京とうきょう国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん主任しゅにん研究けんきゅういん 鶴見つるみ香織かおり日本経済新聞にほんけいざいしんぶん朝刊ちょうかん2017ねん11がつ20日はつか文化ぶんかめん
  15. ^ 越前えちぜん和紙わしおかまさる画像がぞう提供ていきょう岩野いわの平三郎へいさぶろう”. Google Arts & Culture. 2017ねん10がつ26にち閲覧えつらん
  16. ^ 官報かんぽうだい1351ごう昭和しょうわ6ねん7がつ2にち
  17. ^ 下村しもむら観山かんざん後任こうにん横山よこやま大観たいかん東京日日新聞とうきょうにちにちしんぶん昭和しょうわ6ねん7がつ1にち(『昭和しょうわニュース事典じてんだい3かん 昭和しょうわ6ねん-昭和しょうわ7ねん本編ほんぺんp445 昭和しょうわニュース事典じてん編纂へんさん委員いいんかい 毎日まいにちコミュニケーションズかん 1994ねん
  18. ^ 茨城いばらきけん名誉めいよ県民けんみんについて”. 茨城いばらきけん. 2022ねん7がつ26にち閲覧えつらん
  19. ^ 横山よこやま大観たいかんさん死去しきょ89さい昭和しょうわ毎日まいにち 1958ねん2がつ26にち[リンク]

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん文献ぶんけん

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※「自伝じでん以外いがい一部いちぶである。

自伝じでん回想かいそう

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  • 大観たいかんだん」、横山よこやま大観たいかん、1951ねんだい日本にっぽん雄弁ゆうべんしゃ講談社こうだんしゃ
  • 大観たいかんだん」、横山よこやま大観たいかん、1968ねん講談社こうだんしゃ名著めいちょシリーズ。
  • 大観たいかん自伝じでん」、横山よこやま大観たいかん、1981ねん講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ
  • 大観たいかん自叙伝じじょでん日本にっぽん自叙伝じじょでん19」、横山よこやま大観たいかん、1982ねん平凡社へいぼんしゃ
  • 大観たいかんろん」、横山よこやま大観たいかん記念きねんかんへん、1993ねん鉦鼓しょうこほら
  • 横山よこやま大観たいかん 大観たいかんだん」、横山よこやま大観たいかん、1999ねん、「人間にんげん記録きろく103」日本にっぽん図書としょセンター。
  • 大観たいかんのことば」、横山よこやま大観たいかん記念きねんかんへん、2001ねん鉦鼓しょうこほら

評伝ひょうでん

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  • 横山よこやま大観たいかん難波なんば専太郎せんたろう美術びじゅつ探求たんきゅうしゃ、1954ねん
  • 横山よこやま大観たいかん斉藤さいとう隆三りゅうぞう中央公論ちゅうおうこうろん美術びじゅつ出版しゅっぱんしゃ、1958ねん
  • 横山よこやま大観たいかんでん横山よこやま大観たいかん伝記でんき編集へんしゅう委員いいんかいへん、1959ねん茨城いばらきけん
  • 本朝ほんちょう人傳ひとづて」の1しょう村松むらまつ梢風しょうふう 中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ 新版しんぱん・1972ねん中公ちゅうこう文庫ぶんこ、1977ねん
  • 大観たいかんでん近藤こんどうあきら太郎たろう中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、のち中公ちゅうこう文庫ぶんこ新版しんぱん講談社こうだんしゃ文芸ぶんげい文庫ぶんこ、2004ねん
  • 近代きんだい日本にっぽん巨匠きょしょうたち」 近藤こんどうあきら太郎たろう新潮社しんちょうしゃ、1980ねん。「横山よこやま大観たいかん」のあきら

画集がしゅう図録ずろく

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  • 現代げんだい日本にっぽん美術びじゅつ全集ぜんしゅう2 横山よこやま大観たいかん」、細野ほその正信まさのぶ、1979ねん集英社しゅうえいしゃ
  • 画業がぎょう100周年しゅうねん記念きねん 横山よこやま大観たいかんてん図録ずろく1987ねん朝日新聞あさひしんぶん西部せいぶ本社ほんしゃ企画きかく
  • 横山よこやま大観たいかん名作めいさくてん図録ずろく、1994ねん茨城いばらきけん近代きんだい美術館びじゅつかん
  • 天心てんしん傘下さんか巨匠きょしょうたち」、1991ねん飯田いいだ美術びじゅつ博物館はくぶつかん
  • 横山よこやま大観たいかん 明治めいじ大正たいしょう昭和しょうわぜん6かん横山よこやま大観たいかん記念きねんかん監修かんしゅう、1993ねんだい日本にっぽん絵画かいが
  • 横山よこやま大観たいかん記念きねんかん所蔵しょぞう品目ひんもくろく」、1993ねん鉦鼓しょうこほら
  • 日経にっけいポケット・ギャラリー 横山よこやま大観たいかん」、河北かわきた倫明みちあき解説かいせつ、1993ねん日本経済新聞社にほんけいざいしんぶんしゃ
  • 横山よこやま大観たいかんてん図録ずろく、1994ねん東武とうぶ美術館びじゅつかん
  • 横山よこやま大観たいかん時代じだい 1920'~40'」図録ずろく宮内庁くないちょうへんさんまるなお蔵館くらだてへん、1997ねん
  • 横山よこやま大観たいかん―そのしん芸術げいじゅつ図録ずろく、2002ねん
朝日新聞社あさひしんぶんしゃ東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん共編きょうへん
  • 「「横山よこやま大観たいかんてん図録ずろく 近代きんだい日本にっぽん画壇がだん巨匠きょしょう」、2004ねん
京都きょうと国立こくりつ近代きんだい美術館びじゅつかん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ共編きょうへん
  • 横山よこやま大観たいかん海山みやまじゅうだいてん 発見はっけんされたまぼろし名画めいが」、2004ねん
東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがくNHKプロモーション共編きょうへん
東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん足立あだち美術館びじゅつかん開催かいさい
  • 巨匠きょしょう日本にっぽん2 横山よこやま大観たいかん はるかなる霊峰れいほう」、2004ねん学研がっけん
  • 横山よこやま大観たいかん世界せかい」、横山よこやま大観たいかん記念きねんかん、2006ねん美術年鑑社びじゅつねんかんしゃ
  • 特別とくべつ企画きかく 近代きんだい日本にっぽん巨匠きょしょう横山よこやま大観たいかんてん」、図録ずろく
福岡ふくおか美術館びじゅつかん西日本新聞社にしにっぽんしんぶんしゃ共同きょうどう企画きかく編集へんしゅう、2006ねん
  • 気魄きはくひと 横山よこやま大観たいかん別冊べっさつ太陽たいよう日本にっぽんのこころ142、2006、平凡社へいぼんしゃ
  • 横山よこやま大観たいかん あらたなる伝説でんせつ没後ぼつご50ねん」、図録ずろく、2008ねん1がつ-3がつ
国立こくりつしん美術館びじゅつかん横山よこやま大観たいかん記念きねんかん朝日新聞社あさひしんぶんしゃ古田ふるたあきらへん

その文献ぶんけん全集ぜんしゅう

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  • 横山よこやま大観たいかん近親きんしん人々ひとびと」、長尾ながお正憲まさのり、1984ねん鉦鼓しょうこほら
  • 日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねん」、日本にっぽん美術びじゅついんひゃくねん編集へんしゅうしつへん、1989ねん財団ざいだん法人ほうじん日本にっぽん美術びじゅついん
  • 東京藝術大学とうきょうげいじゅつだいがくひゃくねん」、2003ねん 東京とうきょう藝術げいじゅつ大学だいがく
  • 流転るてん横山よこやま大観たいかん 海山うみやまじゅうだい」、細野ほその正信まさのぶ・NHK取材しゅざいはん、1987ねん日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい
  • 岡倉おかくら天心てんしん全集ぜんしゅう」、1980ねん平凡社へいぼんしゃ
  • 漱石そうせき全集ぜんしゅう」、1996ねん岩波いわなみ全集ぜんしゅう
  • 吉川よしかわ英治えいじ全集ぜんしゅう」、1983ねん講談社こうだんしゃ
  • 完本かんぽん 茶話ちゃばなし」、薄田うすだ泣菫きゅうきん、1983ねん冨山とやまぼう百科ひゃっか文庫ぶんこ ぜん3かん
  • 三渓さんけい はら富太郎とみたろう」、白崎しらさき秀雄ひでお、1988ねん新潮社しんちょうしゃ
  • 昭和しょうわ画壇がだん巨匠きょしょうたち」、遠山とおやまたかし、1989ねんさとぶん出版しゅっぱん
  • 証言しょうげん戦時せんじ文壇ぶんだん」、井上いのうえ司朗しろう、1984ねん人間にんげん科学かがくしゃ
  • 岡倉おかくら天心てんしん 日本にっぽん文化ぶんか世界せかい戦略せんりゃく」、ワタリウム美術館びじゅつかん編集へんしゅう
  • 日本にっぽん美術びじゅつ歴史れきし」、つじおもんみゆう、2005ねん東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい
  • 絵筆えふでのナショナリズム フジタと大観たいかんの〈戦争せんそう〉」、柴崎しばざき信三しんぞうまぼろしおどけ書房しょぼう、2011ねん
  • しょぜん」、大森おおもり曹玄、1975ねん 新装しんそうばんだいはん 春秋しゅんじゅうしゃ p.42 芸術げいじゅつ無窮むきゅうを趁うの姿すがた

出演しゅつえん番組ばんぐみ

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雑誌ざっし

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  • 絵画かいが清談せいだん」2がつごう、1920ねん絵画かいが清談せいだんしゃ
  • 日本にっぽん文化財ぶんかざい」3・4ごう、1955ねん奉仕ほうしかい出版しゅっぱん
  • 近代きんだい美術びじゅつだい10ごう、1972ねん至文しぶんどう

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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