横山 大観
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1934 1937 1951 1958 | |
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経歴
[1868
作品
[代表 作
[- 『
屈 原 』1898年 厳島 神社 蔵 - 『
迷児 』1902年 個人 蔵 - 『
流 燈 』1909年 茨城 県 近代 美術館 蔵 - 『瀟湘
八景 [7]』1912年 東京 国立 博物館 蔵 ※重要 文化財 - 『
柳 蔭 』1913年 東京 国立 博物館 蔵 六 曲 一双 屏風 - 『
游 刄有余地 』(ゆうじんよちあり)1914年 東京 国立 博物館 蔵 再興 第 1回 院展 - 『
群青 富士 』1917年 頃 静岡 県立 美術館 蔵 - 『
生々流転 』1923年 東京 国立 近代 美術館 蔵 ※重要 文化財 - 『
夜桜 』1929年 大倉 集 古館 蔵 - 『
紅葉 』1931年 足立 美術館 蔵 六 曲 一双 屏風 再興 第 18回 院展 - 『
大楠公 』1938年 湊川 神社 蔵 - 『
日 出処 日本 』1940年 宮内庁 三 の丸 尚 蔵館 蔵 - 『
海 に因 む十 題 ・山 に因 む十 題 』(連作 20点 、通称 『海山 十 題 』)1940年 各所 分 蔵 - 『
或 る日 の太平洋 』1952年 東京 国立 近代 美術館 蔵
エピソード
[大観 は大変 な酒好 きとして知 られ、人生 後半 の50年 は飯 をほとんど口 にせず(たまに食 べる時 も一 粒 二 粒 と数 えるほど)、酒 と肴 (少量 の野菜 )だけで済 ませていたという。飲 んでいた酒 は広島 の「醉 心 」[8]で、これは昭和 初期 に広島 ・三原 の醉 心 山根 本店 の三 代目 社長 ・山根 薫 と知 り合 った大観 が互 いに意気投合 し、「一生 の飲 み分 を約束 」した山根 より無償 で大観 に送 られていたものだった。しかし山根 は年 に四 斗 樽 で何 本 も注文 が来 るので驚 いたという。代金 のかわりとして大観 は毎年 1枚 ずつ自分 の絵 を無償 で送 り、結果 、醉 心 酒造 に「大観 記念 館 」ができることとなった[9]。もっとも、最初 から酒好 きだったわけではない。若 い頃 は猪口 2 - 3杯 で真 っ赤 になってしまう下戸 だった。しかし大観 の師 の天心 は日 に2升 ともいわれる酒豪 であり、「酒 の一 升 くらい飲 めずにどうする」と大観 を叱咤 したため、飲 んでは吐 きながら訓練 した結果 であった。なお1955年 (昭和 30年 )頃 までは毎日 約 1升 もの酒 を飲 んでいたものの、晩年 は酒量 も減 り、1957年 (昭和 32年 )頃 になると1日 に4合 飲 むのがやっとだったという。最 晩年 の1958年 (昭和 33年 )になると1日 に5勺 (1合 の半分 )しか酒 を飲 めなくなっていた。鯨飲 はしていたもののアルコール中毒 にはならず、大病 もせずに90年 近 い寿命 を全 うした。東京 美術 学校 の同期生 である菱田 春草 とは無二 の親友 で常 に行動 を共 にし、『春 の朝 ・秋 の夕 』『帰路 、入船 』などを合作 している。1911年 (明治 44年 )に春草 が36歳 で夭折 すると大観 は大 いに嘆 いた。菱田 春草 追悼 展 の開催 を主導 し、自 らも『五 柳 先生 』(東京 国立 博物館 蔵 )を出品 した。大観 は晩年 に至 るまで、自身 が日本 画 の巨匠 と呼 ばれるたびに「春草 こそ本当 の天才 だ。もしもあいつ(春草 )が生 きていたら、俺 なんかよりずっと上手 い」と語 っていたという。熱烈 な勤王 派 であった父 ・捨彦、思想家 としても著名 であり国粋 主義 者 とも称 された師 ・天心 の影響 を色濃 く受 けた大観 は、自身 も国粋 主義 的 な面 を持 っていた。日本 の象徴 である勇 美 な富士山 を好 んで題材 としたほか、皇室 にも絵 を度々 献上 していた。また、支 那 事変 ・太平洋戦争 (大 東亜 戦争 )当時 の日本 では、銃後 の個人 や団体 が陸海 軍 に対 して兵器 生産 費用 分 を寄付 する運動 が盛 んに行 われていた(対象 は主 に戦闘 機 や爆 撃 機 など軍用 機 が多 く、これらは愛国 機 ・報国 機 と称 されていた)。大観 も自 らが売却 した絵 の代金 を帝国 陸軍 に寄付 し、九 七 式 重 爆撃 機 の「愛國 445(大観 )」号 などを献納 している。終戦 後 にはGHQより戦犯 容疑 者 として取 り調 べを受 けた事 もあった。太平洋戦争 末期 の1945年 (昭和 20年 )3月 9日 、空襲 を案 じた弟子 ・堅 山南 風 の仲介 により、東京 都 世田谷 区 の小坂 順 造 邸 (現 ・旧 小坂 家 住宅 )の離 れの茶室 に身 を寄 せた[10]。大観 の自宅 (現 ・横山 大観 記念 館 )は翌日 の東京 大 空襲 で焼失 した[10]ため、九死 に一生 を得 ることになった。大観 のタッチは独特 ながら一見 、模倣 しやすいと考 えられ、戦前 の一時期 、大観 を騙 り地方 の素封 家 の食客 となって渡 り歩 く無名 画家 が多数 現 れた。この時 、彼 らによって描 かれた作品 が数多 く現存 している。地方 名士 の子孫 には、真筆 と信 じて所蔵 している者 も多 い。これらの模倣 作 ないし贋作 を指 して、揶揄 的 に「田舎 大観 」と呼 ぶことがある。これらも含 めて贋作 が非常 に多 い画家 としても知 られ、鑑定 の結果 、真筆 と判定 された作品 には「大観 番号 」という番号 をつけて保護 されている。没 線画 法 は、天心 に「空気 を描 く工夫 はないか」と問 われ、春草 らとともに考 え出 したもの。晩年 80代 の頃 は、歌手 の笠置 シヅ子 が好 きだったと言 われ、「東京 ブギウギ」や「買物 ブギー」のレコードを愛 聴していた。自称 弟子 の一人 である渡邉 包 夫 は、テレビ東京 のバラエティー番組 『開運 !なんでも鑑定 団 』の鑑定 士 軍団 の一員 であった。- 1908
年 制作 と見 られる『白衣 観音 』は、1912年 刊行 の『大観 画集 』掲載 後 に所在 不明 となっていたが、2017年 10月に東京 国立 近代 美術館 が、約 100年 ぶりに発見 したと発表 した[11]。同館 と京都 国立 近代 美術館 で2018年 に開催 の「生誕 150年 横山 大観 展 」で公開 された[12]。
略歴
[- 1868
年 (慶応 4年 /明治 元年 ):誕生 (誕生 日 については後述 )。父 は、水戸 藩 士 として「水戸 学 」の尊皇 攘夷 思想 により志士 として活躍 。大観 の皇室 への忠誠 はここに発 するものとも言 われる。初 名 は、酒井 秀松 。後 に秀蔵 、秀麿 。大観 の誕生 日 は、東京 美術 学校 の「旧 職員 履歴 書 」には8月 18日 、台東 区 の戸籍 には8月 19日 とある。古田 亮 は大観 が旧暦 の8月 生 まれであることは間違 いないとする。東京 美術 学校 の記録 と台東 区 の戸籍 の間 には1日 のずれがあるが、「慶応 」から「明治 」へ改元 されたのは旧暦 の慶応 4年 9月 8日 なので、いずれにしても大観 は(明治 元年 ではなく)慶応 4年 の生 まれということになる。大観 は『大観 自叙伝 』において自身 の誕生 日 を9月18日 としている。慶応 4年 8月 18日 は新暦 に換算 すると(9月 18日 ではなく)1868年 10月 3日 になるが、大観 自身 が9月18日 生 まれと記 していることから、通常 はこの日付 が採用 されている[13]。 - 1878
年 (明治 11年 ):一家 で上京 。 - 1881
年 (明治 14年 ):東京 府中 学 (現在 の都立 日比谷 高校 )に入学 。優秀 な成績 で卒業 するが、諸 事情 により「東大 予備 門 試験 」では入学 資格 を消失 。致 し方 なく、当時 は進学 予備校 として知 られていた私立 の東京 英語 学校 (現在 の日本 学園 高校 )に入学 。受験 英語 に勤 しみ、その後 の大観 の海外 での生活 で大 きな力 を発揮 する。 - 1883
年 (明治 16年 ):絵画 に興味 をいだいた大観 は、渡辺 文三郎 という画家 に師事 した。その後 、狩野 派 の指導 を得 た。狩野 芳崖 にも影響 される。当時 の日本 画家 は貧乏 で、副業 により生活 していた。このため父 は、画家 よりは東大 進学 を切望 していた。 - 1888
年 (明治 21年 ):東京 美術 学校 を受験 。横山 家 との養子 縁組 により、酒井 秀麿 から横山 秀麿 となった。 - 1889
年 (明治 22年 ):東京 美術 学校 1期生 として入学 。父 は画家 になることに大 反対 。卒業 するまで書籍 の図版 を模写 するアルバイトで生活 費 と学費 を得 た。 - 1893
年 (明治 26年 ):東京 美術 学校 卒業 。その後 は、京都 で修養 。古 画 の模写 の仕事 に励 む。 - 1895
年 (明治 28年 ):京都 市立 美術 工芸 学校 (現在 の京都市立芸術大学 )教諭 。この京都 修行 時代 と推定 されるが、雅号 を「大観 」とす。大観 とはあらゆる大局 的 な観点 から世界 を見 るという意味 の法華経 の経文 からとったという説 もある。 - 1896
年 (明治 29年 ):東京 美術 学校 助教授 に就任 する。 - 1897
年 (明治 30年 ):滝沢 文子 と結婚 。 - 1898
年 (明治 31年 ):岡倉 天心 が東京 美術 学校 校長 を辞任 し、大観 や橋本 雅邦 ら14人 も続 いて辞職 した。その後 、天心 は日本 美術 院 を設立 。そして下村 観山 、寺崎 広業 、菱田 春草 、木村 武山 らがこれに従 って、私財 を投入 して設立 運営 に奔走 する。 - 1899
年 (明治 32年 ):長女 誕生 。 - 1903
年 (明治 36年 ):妻 ・文子 死去 。インドを訪問 し、釈迦 の実像 を描 こうとした。天心 の勧 めるものであったが、天心 は日本 画 の原点 をインドと考 えたのではないかという説 もある。 - 1904
年 (明治 37年 ):天心 の勧 めでニューヨーク。へ - 1905
年 (明治 38年 ):ロンドンへ。長女 死去 のため帰国 。 - 1906
年 (明治 39年 ):遠藤 直子 と再婚 。天心 が住 んでいた茨城 県 の五 浦 へ転居 。五 浦 での活動 、つまり「日本 美術 院 絵画 部 」は、天心 、大観 、春草 、観山 、武山 の5名 。 - 1907
年 (明治 40年 ):父 死去 。国 が主催 となって、官営 の「文展 」(文部省 美術 展覧 会 )が開催 され、大観 と観山 は文展 の審査 員 を務 める。 - 1910
年 (明治 43年 ):中国 へ出発 。ロバを買 って帰 る。第 4回 文展 。審査 員 。作品 『楚 水 の巻 』。地球 に接近 したハレ ー彗星 を題材 に水墨 画 『彗星 』を描 く[14]。 - 1912
年 (明治 45年 ):第 6回 文展 。 - 1913
年 (大正 2年 ):妻 ・直子 死去 。第 7回 文展 で、最後 の審査 員 。作品 『松並 木 』。9月に天心 が死去 し、門人 代表 として弔辞 を読 んだ。 - 1926
年 (昭和 元年 ):福井 県 越前 市 旧 大滝 村 に滞在 した折 、岩野 平三郎 製紙 所 にて当時 世界 最大 といわれた5.4m四方 の岡 大 紙 [15](おかふとかみ)を漉 いた。 - 1928
年 (昭和 3年 ):イタリアの最高 指導 者 ベニート・ムッソリーニに『立葵 』が献呈 された。 - 1931
年 (昭和 6年 )6月 30日 :前年 に死去 した下村 観山 の後任 として15年 ぶりに帝室 技芸 員 に任命 される[16][17] - 1938
年 (昭和 13年 ):ドイツ総統 アドルフ・ヒトラーに献呈 するため作品 『旭日 霊峰 』を完成 させる。 - 1954
年 (昭和 29年 ):茨城 県 名誉 県民 となる[18]。 - 1958
年 (昭和 33年 ):死去 [19]。89歳 没 。 - 1976
年 (昭和 51年 ):自宅 が横山 大観 記念 館 として公開 。 - 2009
年 (平成 21年 ):作品 の著作 権 が消滅 、パブリックドメインとなる。
脚注
[- ^
再 改組 に反対 の大観 ら銃 四 人 が辞任 『東京日日新聞 』昭和 11年 6月 13日 夕刊 『昭和 ニュース事典 第 5巻 昭和 10年 -昭和 11年 』本編 p414-415昭和 ニュース事典 編纂 委員 会 毎日 コミュニケーションズ刊 1994年 - ^
長岡 半太郎 、幸田 露伴 ら九 人 受賞 『東京日日新聞 』昭和 12年 4月 17日 (『昭和 ニュース事典 第 7巻 昭和 14年 -昭和 16年 』本編 p654) - ^
袴田 茂樹 (2017年 8月 23日 ). “【正論 ・戦後 72年 に思 う】戦時 下 と裏返 しの「平和 主義 者 」新潟 県立 大学 教授 ・袴田 茂樹 (2/4ページ)”.産経新聞 :産経 ニュース.産経新聞 社 . 2024年 8月 23日 閲覧 。 “42年 に創設 された日本 文学 報 国会 は会員 約 4000人 で、非 会員 の文人 は稀 (まれ)だった。役員 は徳富 蘇峰 (会長 )、久米 正雄 、菊池 寛 、折口 信夫 、佐藤 春夫 、柳田 國男 …ら錚々(そうそう)たる文人 だ。岩波 茂雄 も賛助 会員 、顧問 には横山 大観 や藤山 愛一郎 、正力 松太郎 も名 を連 ねた。女性 の役員 や会員 には、壺井 栄 、林 芙美子 、宮本 百合子 ら左翼 (元 左翼 )作家 もいる。” - ^
柴崎 信三 . “美 の来歴 ⑤なぜ「富士 」を描 いたか”. FACTA ONLINE. ファクタ出版 . 2024年 8月 23日 閲覧 。 “この年 72歳 の横山 大観 は、ドイツの総統 ヒトラーに富士山 を描 いた『旭日 霊峰 』を寄贈 するなど、美術 を通 して戦争 翼賛 に国民 を動員 する「彩管 報国 」の指導 的 役割 を担 っていた。” - ^
新 たな横山 大観 に触 れて/回顧 展 あす前半 終了 ・千代田 『毎日新聞 』朝刊 2018年 5月 5日 (東京 面 )[リンク切 れ] - ^ 【
目利 きのイチオシコレクション】近代 日本 絵画 (上 )山 種 美術館 /画家 と交流 し作品 を収集 (佐藤 道信 )、『朝日新聞 』夕刊 2017年 12月19日 (2018年 5月 14日 閲覧 ) - ^ 瀟湘
八景 - ^
醉 心 山根 本店 公式 サイト - ^
横山 大観 画伯 と醉 心 |醉 心 山根 本店 公式 サイト - ^ a b
旧 小坂 家 住宅 茶室 跡 の解説 板 (2022年 10月 現在 )より。 - ^ “100
年 行方 不明 、横山 大観 の「白衣 観音 」発見 ”.読売新聞 . (2017年 10月 12日 ) 2017年 10月 13日 閲覧 。 - ^
生誕 150年 横山 大観 展 - ^ (
古田 亮 、2018)、pp.4 - 5 - ^
星 へのまなざし・日本 近代 美術 より(1)横山 大観 「彗星 」東京 国立 近代 美術館 主任 研究 員 鶴見 香織 『日本経済新聞 』朝刊 2017年 11月 20日 (文化 面 ) - ^ “
越前 和紙 《岡 大 紙 》画像 提供 :岩野 平三郎 家 ”. Google Arts & Culture. 2017年 10月 26日 閲覧 。 - ^ 『
官報 』第 1351号 、昭和 6年 7月 2日 。 - ^
下村 観山 の後任 に横山 大観 『東京日日新聞 』昭和 6年 7月 1日 (『昭和 ニュース事典 第 3巻 昭和 6年 -昭和 7年 』本編 p445昭和 ニュース事典 編纂 委員 会 毎日 コミュニケーションズ刊 1994年 ) - ^ “
茨城 県 名誉 県民 について”.茨城 県 . 2022年 7月 26日 閲覧 。 - ^
横山 大観 さん死去 89歳 (昭和 毎日 1958年 2月 26日 )[リンク切 れ]
参考 文献
[関連 文献
[※「
自伝 ・回想
[- 「
大観 画 談 」、横山 大観 、1951年 、大 日本 雄弁 社 講談社 。 - 「
大観 画 談 」、横山 大観 、1968年 、講談社 名著 シリーズ。 - 「
大観 自伝 」、横山 大観 、1981年 、講談社 学術 文庫 。 - 「
大観 自叙伝 ―日本 の自叙伝 19」、横山 大観 、1982年 、平凡社 。 - 「
大観 の画 論 」、横山 大観 記念 館 編 、1993年 、鉦鼓 洞 。 - 「
横山 大観 大観 画 談 」、横山 大観 、1999年 、「人間 の記録 103」日本 図書 センター。 - 「
大観 のことば」、横山 大観 記念 館 編 、2001年 、鉦鼓 洞 。
評伝
[- 「
横山 大観 」難波 専太郎 、美術 探求 社 、1954年 。 - 「
横山 大観 」斉藤 隆三 、中央公論 美術 出版 社 、1958年 。- 「
横山 大観 」 オンデマンド版 中央公論 美術 出版 、2005年
- 「
- 「
横山 大観 伝 」横山 大観 伝記 編集 委員 会 編 、1959年 、茨城 県 。 - 「
本朝 画 人傳 」の1章 、村松 梢風 中央公論社 新版 ・1972年 、中公 文庫 、1977年 。 - 「
大観 伝 」近藤 啓 太郎 、中央公論社 、のち中公 文庫 。新版 ・講談社 文芸 文庫 、2004年 - 「
近代 日本 画 の巨匠 たち」近藤 啓 太郎 、新潮社 、1980年 。「横山 大観 」の章
画集 ・図録
[- 「
現代 日本 美術 全集 2横山 大観 」、細野 正信 、1979年 、集英社 。 - 「
画業 100周年 記念 横山 大観 展 」図録 1987年 、朝日新聞 西部 本社 企画 部 。 - 「
横山 大観 名作 展 」図録 、1994年 、茨城 県 近代 美術館 。 - 「
天心 傘下 の巨匠 たち」、1991年 、飯田 市 美術 博物館 。 - 「
横山 大観 明治 ・大正 ・昭和 」全 6巻 、横山 大観 記念 館 監修 、1993年 、大 日本 絵画 。 - 「
横山 大観 記念 館 所蔵 品目 録 」、1993年 、鉦鼓 洞 。 - 「
日経 ポケット・ギャラリー横山 大観 」、河北 倫明 解説 、1993年 、日本経済新聞社 。 - 「
横山 大観 展 」図録 、1994年 、東武 美術館 。 - 「
横山 大観 の時代 1920'~40'」図録 、宮内庁 編 、三 の丸 尚 蔵館 編 、1997年 。 - 「
横山 大観 ―その心 と芸術 」図録 、2002年 。
朝日新聞社 、東京 国立 博物館 共編 。
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横山 大観 の世界 」、横山 大観 記念 館 、2006年 、美術年鑑社 。 - 「
特別 企画 近代 日本 画 の巨匠 横山 大観 展 」、図録 。
- 「
気魄 の人 横山 大観 」別冊 太陽 ・日本 のこころ142、2006、平凡社 。 - 「
横山 大観 新 たなる伝説 へ没後 50年 」、図録 、2008年 1月 -3月 。
国立 新 美術館 、横山 大観 記念 館 、朝日新聞社 、古田 亮 編 。
その他 文献 ・全集
[- 「
横山 大観 と近親 の人々 」、長尾 正憲 、1984年 、鉦鼓 洞 。 - 「
日本 美術 院 百 年 史 」、日本 美術 院 百 年 史 編集 室 編 、1989年 、財団 法人 日本 美術 院 。 - 「
東京藝術大学 百 年 史 」、2003年 東京 藝術 大学 。 - 「
流転 ・横山 大観 海山 十 題 」、細野 正信 ・NHK取材 班 、1987年 、日本 放送 出版 協会 。 - 「
岡倉 天心 全集 」、1980年 、平凡社 。 - 「
漱石 全集 」、1996年 、岩波 全集 。 - 「
吉川 英治 全集 」、1983年 、講談社 。 - 「
完本 茶話 」、薄田 泣菫 、1983年 、冨山 房 百科 文庫 全 3巻 。 - 「
三渓 原 富太郎 」、白崎 秀雄 、1988年 、新潮社 。 - 「
昭和 画壇 の巨匠 たち」、遠山 孝 、1989年 、里 文 出版 。 - 「
証言 戦時 文壇 史 」、井上 司朗 、1984年 、人間 の科学 社 。 - 「
岡倉 天心 日本 文化 と世界 戦略 」、ワタリウム美術館 編集 。 - 「
日本 美術 の歴史 」、辻 惟 雄 、2005年 、東京 大学 出版 会 。 - 「
絵筆 のナショナリズム フジタと大観 の〈戦争 〉」、柴崎 信三 、幻 戯 書房 、2011年 。 - 「
書 と禅 」、大森 曹玄、1975年 新装 版 第 二 版 春秋 社 p.42芸術 は無窮 を趁うの姿
出演 番組
[雑誌
[- 「
絵画 清談 」2月 号 、1920年 、絵画 清談 社 。 - 「
日本 文化財 」3・4号 、1955年 、奉仕 会 出版 部 。 - 「
近代 の美術 」第 10号 、1972年 、至文 堂 。
関連 項目
[土浦 亀城 甥