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山本やまもとかおるみどり

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山本やまもとかおるみどり
十二支じゅうにし』のうち『うし牽牛けんぎゅうぼし」』 1892ねん法人ほうじんぞう

山本やまもと かおるみどり(やまもと ほうすい、よしみひさし3ねん7がつ5にち1850ねん8がつ12にち) - 明治めいじ39ねん1906ねん11月15にち[1])は、明治めいじ時代じだい日本にっぽん洋画ようが版画はんがである。

人物じんぶつ来歴らいれき

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よしみひさし3ねん1850ねん)、美濃みの恵那えなぐん明智あけちむら野志のし現在げんざい岐阜ぎふけん恵那えな)で農業のうぎょう養蚕ようさんいとな山本やまもと権八ごんぱち長男ちょうなんとしてまれる[1]本名ほんみょうためぞう為之助ためのすけためつぎろう

すでに10さいごろからきで、れば手当てあたり次第しだい模写もしゃしたと、後年こうねんよしみどり回想かいそうしている。慶応けいおう元年がんねん1865ねん)15さいときふとにとった『北斎ほくさい漫画まんが』に啓発けいはつされて画家がかこころざす。はじめは京都きょうとにおいて、しょう田海たうみ門人もんじん久保田くぼた雪江ゆきえ南画なんがまなぶ。そのうち、本当ほんとう南宗画なんしゅうが勉強べんきょうするため中国ちゅうごくこうと、明治めいじ4ねん(1872ねんごろ横浜よこはまてくる[2]渡航とこう世話せわをしてくれるひとはなく困窮こんきゅうしていると、はつ五姓田ごせだ芳柳ほうりゅういえまえかざられていた横浜よこはまきているようだと感心かんしんしてそのもんはいり、南画なんがから転向てんこう洋画ようがまなんだ。当時とうじ芳柳ほうりゅう次男じなん五姓田ごせだ義松よしまつチャールズ・ワーグマンならっており、よしみどりもこれに同行どうこうして西洋せいようれる。1873ねん明治めいじ6ねんまつには横浜よこはまから東京とうきょううつり、1875ねん明治めいじ8ねんごろには津田つだせんがく農舎のうしゃ寄留きりゅうし、肖像しょうぞう一家いっかすまでになった。

1876ねん明治めいじ9ねん)、こう美術びじゅつ学校がっこう入学にゅうがくし、アントニオ・フォンタネージ指導しどうけた。翌年よくねん退学たいがくし、同年どうねんだい1かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかいに『勾当こうとう内侍ないしつきえい』を出品しゅっぴんはなもんしょう受賞じゅしょう宮内庁くないちょうげの栄誉えいよける。1878ねん明治めいじ11ねん)、かねてより知遇ちぐうていた津田つだせん岸田きしだ吟香ぎんこう斡旋あっせんで、パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい事務じむきょくやといとしてフランス留学りゅうがくする。当地とうちエコール・デ・ボザールジェローム絵画かいが技法ぎほうまなぶ。よしみどり多芸たげい料理りょうり上手うまく、当時とうじざいふつ日本人にっぽんじん日本にっぽんしょくべたくなると、みなよしみどり下宿げしゅくってご馳走ちそうになったという。黒田くろだ清輝きよてるもそうした一人ひとりだったが、よしみどり黒田くろだ画家がかになるようつよすすめ、法律ほうりつ志望しぼう黒田くろだ洋画ようが転向てんこうさせる。

1887ねん明治めいじ20ねん)に帰国きこく。そのさい当時とうじ日本にっぽん海軍かいぐんがフランスに注文ちゅうもんし、日本にっぽん回航かいこうする予定よていだった巡洋艦じゅんようかん畝傍うねびわたりおうちゅう制作せいさくした作品さくひん積載せきさいされた。しかし同艦どうかん南シナ海みなみしなかい原因げんいん不明ふめい消失しょうしつげ、300てんとも400てんともわれる作品さくひんのすべてがうしなわれてしまった。本人ほんにん無事ぶじ帰国きこくたし、版画はんが合田あいだきよしとともにじゅくなまたくみかん」を主宰しゅさいおし湯浅ゆあさ一郎いちろう藤島ふじしま武二たけじ白滝しらたきいくこれすけきたはちすぞう広瀬ひろせ勝平しょうへいなどがいる。1889ねん明治めいじ22ねん)、松岡まつおか寿ひさし浅井あさいただし小山こやま正太郎しょうたろう原田はらだ直次郎なおじろうらと明治めいじ美術びじゅつかい設立せつりつにこぎつけた。よしみどりはほぼ毎回まいかい、この展覧てんらんかい出品しゅっぴんしている。

しかし、本人ほんにんにとっては黒田くろだ清輝きよてるまでのつなぎのつもりだったらしく、「いま黒田くろだかえってくる。そうしたら日本にっぽん洋画ようが本物ほんものになるでだろう。黒田くろだならきっとうまく画壇がだんみちびいてひきいていくよ。このなまたくみかんなんかも黒田くろだにあけわたして、そのじゅくにしてしまって、おれ万事ばんじ黒田くろだまかせでやってもらうつもりだ。お天道てんとうさまがたら、行燈あんどんらなくなるよ」[3]かたっていた。1894ねん明治めいじ27ねん)に黒田くろだがフランスから帰国きこくすると本当ほんとうじゅく黒田くろだゆずり、黒田くろだじゅくを「天真てんしん道場どうじょう」とあらためた。なまたくみかんから開放かいほうされたかおるみどりは、京都きょうと仏事ぶつじ仏教ぶっきょう博物館はくぶつかんて、そこに油彩ゆさいによる釈迦しゃか生涯しょうがい展観てんかんして、その入場にゅうじょうりょう洋画ようがこころざ若者わかもの留学りゅうがくさせようとこころざす。しかし、借金しゃっきん保証人ほしょうにんにはなれ詐欺さぎうなどまったくの徒労とろうわり、今度こんど大阪おおさか豊臣とよとみ秀吉ひでよしぞうみずからののこそうとするが、これもみのらなかった。東京とうきょうもどったかおるみどりは、にちしん戦争せんそう従軍じゅうぐんよく1895ねん2がつ帰国きこくしている。1896ねん明治めいじ29ねん明治めいじ美術びじゅつかい脱退だったいし、黒田くろだ結成けっせいした白馬はくばかいにも参加さんかしている。晩年ばんねん1903ねん明治めいじ36ねん)には、演劇えんげき歌劇かげきにおける洋風ようふう舞台ぶたい装置そうち制作せいさくおこなった。このとし日本人にっぽんじんによる最初さいしょのオペラ公演こうえんとなったグルック作曲さっきょくオルフェウス」(オルフェオとエウリディーチェ)の上演じょうえんケーベル博士はかせとう指導しどうによる)では背景はいけい一部いちぶ担当たんとうした。

1906ねん明治めいじ39ねん11月15にち自宅じたく脳溢血のういっけつにより死去しきょした[1]まん56さいぼつ法名ほうみょうまつひかりいんよしせんみどりおう居士こじ泉岳寺せんがくじほうむられた。サイレント映画えいが時代じだい剣戟けんげき映画えいがトーキー現代げんだいげき活動かつどうした俳優はいゆう山本やまもとあや三郎さぶろう次男じなんである[4]

代表だいひょうさく

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作品さくひんめい 制作せいさくねん 技法ぎほう素材そざい サイズ(たてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 備考びこう
福地ふくち源一郎げんいちろう肖像しょうぞう 1876ねん-77ねん明治めいじ9-10ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 55.0×42.8 岐阜ぎふけん美術館びじゅつかん
勾当こうとう内侍ないしがつえい 1877ねん明治めいじ10ねん 宮内庁くないちょう だい一回内国勧業博覧会西洋画部門花紋賞
天女てんにょ 1878ねん明治めいじ11ねん 法人ほうじん
裸婦らふ 1880ねん明治めいじ13ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 83.0x134.0 岐阜ぎふけん美術館びじゅつかん 重要じゅうよう文化財ぶんかざいとどこおふつ作品さくひん
わかむすめ肖像しょうぞう 1880ねん明治めいじ13ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 61.0x43.7 岐阜ぎふけん美術館びじゅつかん
西洋せいよう婦人ふじんぞう 1882ねん明治めいじ15ねん いた油彩ゆさい 41.0x32.9 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん 後述こうじゅつ
月下げっか裸婦らふ[5] 1882-86ねん明治めいじ15-19ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 60.6x80.3 愛知あいちけん美術館びじゅつかん
九州きゅうしゅう沖縄おきなわ連作れんさく 1888ねん明治めいじ21ねん キャンバス・油彩ゆさい さんまるなお蔵館くらだて 明治めいじ20ねん11月から12がつにかけて伊藤いとう博文ひろぶみ首相しゅしょういちぎょうによる沖縄おきなわ巡視じゅんし旅行りょこう同行どうこうしたとされるよしみどりえがき、伊藤いとう献上けんじょうした作品さくひん献上けんじょうしたのはぜん20めん油彩ゆさい一部いちぶパステル)だが、現在げんざいそのうち8めんさんまるなお蔵館くらだて現存げんそんする。よしみどり伊藤いとう同行どうこうしたことをしめ確実かくじつ資料しりょういまのところ確認かくにんされていないが、のこされたスケッチからどう時期じきよしみどり沖縄おきなわ鹿児島かごしまおとずれていたのは間違まちがいない。
磐梯山ばんだいさん破裂はれつ 1888ねん明治めいじ21ねん キャンバス・油彩ゆさい さんまるなお蔵館くらだて 1888ねん磐梯山ばんだいさん噴火ふんかすると、よしみどり東京とうきょう朝日新聞あさひしんぶん要請ようせいで1週間しゅうかん現地げんちおもむき、現地げんちでスケッチや写真しゃしん撮影さつえいおこない、それらをもと噴火ふんか当時とうじ様子ようすえがいて新聞しんぶん掲載けいさいした。ほんは、その下敷したじきにえがいた油彩ゆさいで、同年どうねん8がつ伊藤いとう博文ひろぶみより明治天皇めいじてんのう献上けんじょうされた。
十二支じゅうにし 1892ねん明治めいじ25ねん 法人ほうじん だい4かい明治めいじ美術びじゅつかいてん出品しゅっぴんぜん12てんのうち「」と「たつ」は現存げんそんしない[6]
乙女おとめ 1892ねん明治めいじ25ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 岐阜ぎふけん美術館びじゅつかん寄託きたく フランス留学りゅうがくから帰国きこく直後ちょくご作品さくひん
婦人ふじんぞう 1892ねん明治めいじ25ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 56.1x36.2 ウッドワン美術館びじゅつかん
猛虎もうこ一声いっせい山月やまつきだか 1893ねん明治めいじ26ねん キャンバス・油彩ゆさい 136.0x103.1 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん だい5かい明治めいじ美術びじゅつかいてん出品しゅっぴん
猛虎もうこ逍遥しょうよう しょう キャンバス油彩ゆさい 90.0x130.0 神戸こうべ市立しりつ博物館はくぶつかん[7]
浦島うらしま 1893-95ねん明治めいじ26-28ねん キャンバス・油彩ゆさい 122.0x168.0 岐阜ぎふけん美術館びじゅつかん だい7かい明治めいじ美術びじゅつかいてん出品しゅっぴん
伊藤いとう博文ひろぶみおおやけ肖像しょうぞう 1903(明治めいじ36ねん キャンバス・油彩ゆさい 65.4x50.3 岐阜ぎふけん美術館びじゅつかん
木戸きど孝允たかよしぞう しょう キャンバス・油彩ゆさい 67.0x55.0 京都きょうと美術館びじゅつかん
木戸きど松子まつこぞう しょう キャンバス・油彩ゆさい 67.0x55.0 京都きょうと美術館びじゅつかん
旅順りょじゅんこう爆沈ばくちん 1905ねん明治めいじ38ねんごろ キャンバス・油彩ゆさい 30.3x109.2 恵那えな[8]
龍虎りゅうこ 1903-06ねん明治めいじ30年代ねんだい後半こうはん 絹本けんぽんちょしょく 大幅おおはば 静嘉堂文庫せいかどうぶんこ美術館びじゅつかん
富士山ふじさん 1897-1906ねん明治めいじ30年代ねんだい 絹本けんぽん油彩ゆさい 126.7x84.7 神奈川かながわ県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん[9]

ギャラリー

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関連かんれん項目こうもく

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c 山本やまもとかおるみどりちょうにち日本にっぽん歴史れきし人物じんぶつ事典じてん朝日新聞あさひしんぶん出版しゅっぱん、コトバンク、2009ねん11月11にち閲覧えつらん
  2. ^ よしみどり本人ほんにんは「洋画ようが研究けんきゅう経歴けいれきだん」にいて、明治めいじ元年がんねん横浜よこはまて、翌年よくねん芳柳ほうりゅう入門にゅうもんかたっている。しかしすみもと謙次郎けんじろう山本やまもとかおるみどりについて」(『美術びじゅつ研究けんきゅう』239ごう、1966ねん3がつ)では、よしみどり入門にゅうもんしょう日付ひづけは「明治めいじ5ねん3がつ3にち」と記載きさいされていることから、入門にゅうもんを5ねんとし、前年ぜんねん横浜よこはまたと推測すいそくしている。
  3. ^ 高階たかしな秀爾ひでじ山本やまもとかおるみどり」(『日本にっぽん近代きんだい美術びじゅつ史論しろん講談社こうだんしゃ講談社こうだんしゃ学芸がくげい文庫ぶんこ〉、1990ねん9がつ、410-411ぺーじISBN 978-4-0615-8941-4)。
  4. ^ 山本やまもとあや三郎さぶろう日本人にっぽんじんめいだい辞典じてん講談社こうだんしゃコトバンク、2009ねん11月11にち閲覧えつらん
  5. ^ [ID_4796] 月下げっか裸婦らふ作品さくひん情報じょうほう _ コレクション検索けんさく _ 愛知あいちけん美術館びじゅつかん
  6. ^ 」と「たつ」は昭和しょうわはじめに東京とうきょう焼失しょうしつしたとのつたえがあるが、その来歴らいれき不明ふめいであるという。これら2めんについては、よしみどり弟子でしきたはちすぞう記憶きおくたよりにえがいたスケッチの写真しゃしんのこるのみである(高階たかしな絵里加えりか岩崎いわさき弥太郎やたろう山本やまもとかおるみどりの≪十二支じゅうにし≫」『三菱みつびし夢見ゆめみ美術館びじゅつかん』(展覧てんらんかい図録ずろく三菱みつびしいち号館ごうかん美術館びじゅつかん、2010)所収しょしゅう、による)。
  7. ^ 神戸こうべ市立しりつ小磯こいそ記念きねん美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう神戸こうべ市立しりつ博物館はくぶつかん所蔵しょぞう 洋画ようがコレクション』 2018ねん5がつ22にちだい13
  8. ^ 下関しものせき市立しりつ美術館びじゅつかん編集へんしゅう発行はっこう下関しものせき市立しりつ美術館びじゅつかん企画きかくてん図録ずろく 日本にっぽん絵画かいが・20世紀せいき草創そうそう きよしにち戦争せんそう時代じだい』 2004ねん11月11にちだい13
  9. ^ 神奈川かながわ県立けんりつ歴史れきし博物館はくぶつかん編集へんしゅう発行はっこう特別とくべつてん図録ずろく 明解めいかい明治めいじ美術びじゅつ増殖ぞうしょくするしん(ニュー)メディア』 2018ねん8がつ3にち、pp.220-221。

参考さんこう資料しりょう

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論文ろんぶん
  • 児島こじまかおる, はら舞子まいこみずのと園遊会えんゆうかい関連かんれん資料しりょう紹介しょうかい山本やまもとかおるみどり活人画かつじんが」について」『実践女子大学じっせんじょしだいがく美學びがく美術びじゅつ史學しがくだい23ごう、2009ねん3がつ、(1-21)ぺーじNAID 120005552800 
  • 高階たかしな絵里加えりか岩崎いわさき弥太郎やたろう山本やまもとかおるみどりの《十二支じゅうにし》」(『三菱みつびしいち号館ごうかん美術館びじゅつかん開館かいかん記念きねんてん〈2〉三菱みつびし夢見ゆめみ美術館びじゅつかん 岩崎いわさき三菱みつびしゆかりのコレクション』てん図録ずろく、2010ねん所収しょしゅう

外部がいぶリンク

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