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選挙せんきょ粛正しゅくせい運動うんどう

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選挙せんきょ粛正しゅくせい運動うんどう(せんきょしゅくせいうんどう)とは、1920年代ねんだいから1930年代ねんだい日本にっぽんにおいて普通ふつう選挙せんきょほう制定せいてい公正こうせい明大めいだい選挙せんきょ実施じっし目指めざしておこなわれた選挙せんきょ浄化じょうか運動うんどうのことである。

だい2護憲ごけん運動うんどう結果けっか普通ふつう選挙せんきょほう制定せいていされて政党せいとうないかく一時いちじ慣例かんれいした。だが、その一方いっぽう選挙せんきょとうにまつわる買収ばいしゅう贈収賄ぞうしゅうわいなどの問題もんだい浮上ふじょうしてきた。これを憂慮ゆうりょした後藤ごとう新平しんぺいらによって国民こくみん選挙せんきょへの関心かんしんたかめるべく啓蒙けいもう活動かつどうおこなうことによって選挙せんきょにまつわる腐敗ふはい防止ぼうししようとした。これが、「選挙せんきょ粛正しゅくせい(あるいは選挙せんきょかわただし)」とばれるようになる。その濱口はまぐち内閣ないかくにおいて「選挙せんきょかわせい審議しんぎかい」が設置せっちされるが、いち事件じけんによる政党せいとうないかく事実じじつじょう終焉しゅうえんけて、ほん運動うんどう頓挫とんざするかたちとなった。

政党せいとうないかくわり、中間ちゅうかん内閣ないかく時代じだいとなると、この運動うんどう注目ちゅうもくしたのがいわゆる「革新かくしん官僚かんりょう」であった。かれらは、政党せいとうこそが政治せいじ行政ぎょうせい腐敗ふはい根源こんげんであり、最終さいしゅうてきには政党せいとう解体かいたいする必要ひつようせいがあるとかんがえた。これは上記じょうき後藤ごとう1929ねん死去しきょ)の理念りねんとは根本こんぽんてき相反あいはんするものであったが、政界せいかい浄化じょうかもとめる国民こくみん世論せろん背景はいけいにこれを推進すいしんしようとつとめた。

斎藤さいとう内閣ないかくによって選挙せんきょ法制ほうせい改正かいせいおこなわれて選挙せんきょ違反いはんなどへの厳罰げんばつおこなわれ、つづいて岡田おかだ内閣ないかく1935ねんには道府県どうふけん知事ちじ会長かいちょうとする選挙せんきょ粛正しゅくせい委員いいんかい設置せっちした。さら斎藤さいとうみのるまえ首相しゅしょう会長かいちょうてて各種かくしゅ民間みんかん団体だんたい糾合きゅうごうして選挙せんきょ粛正しゅくせい中央ちゅうおう連盟れんめい組織そしきした。こうした一連いちれんうごきのかげには当時とうじ革新かくしん官僚かんりょうからの絶大ぜつだい支持しじけていた後藤ごとう文夫ふみお内務ないむ大臣だいじんかれひきいる内務省ないむしょうはたらきかけが存在そんざいした。また、同省どうしょうによる町内ちょうないかい組織そしき平行へいこうしたうごきとして、選挙せんきょ粛正しゅくせい運動うんどう関連かんれんして開催かいさいされた「部落ぶらく懇談こんだんかいとうにおいて愛国心あいこくしん啓発けいはつ活動かつどうおこなわれるなど、ぜん国民こくみんてき教化きょうか運動うんどうとしてまれた。

その1942ねんに「翼賛よくさん選挙せんきょ貫徹かんてつ運動うんどう」に発展はってんてき解消かいしょうげた。

この運動うんどうのもたらした影響えいきょうおおきく、戦後せんご一旦いったん選挙せんきょ活動かつどう原則げんそく自由じゆうされたものの、1950ねん制定せいていされた公職こうしょく選挙せんきょほうによって様々さまざま選挙せんきょ規制きせい復活ふっかつし、日本にっぽんほう制度せいどにおける選挙せんきょかんする言論げんろん活動かつどう表現ひょうげん活動かつどうは、国際こくさいてきもっときびしく規制きせいされている部類ぶるいはいるとされる。

なお、「きよ一票いっぴょう」「しゅったいじんよりしたいひと」なども選挙せんきょ粛正しゅくせい運動うんどうつくした言葉ことばである。