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関 晃(せき あきら、1919年(大正8年)1月5日 - 1996年(平成8年)4月20日[1])は、日本の歴史学者[1]。東北大学名誉教授[1]。専攻は日本古代史[1]。熊本県飽託郡古町村(現・熊本市二本木)生まれ、東京都出身[1]。
学説と人物[編集]
- 東京大学教授坂本太郎の教え子の一人。
- 大学卒業後は軍隊に入るが、終戦のため除隊し大学院へ。
- 大化の改新の研究を通じ、日本における古代国家の形成について、「大和政権とは畿内の豪族による連合政権であり、それが他の地域を凌駕し、日本列島各地、更に朝鮮半島南部の勢力を服属させることによって国家が形成されていった」「首長としての天皇の権力は相対的に弱いものであった」と考える「畿内王権論」(畿内政権論)を初めて主唱した学者として著名。 石母田正に代表される唯物史観(マルクス主義史学)に基づく「在地首長制論」が隆盛する歴史学界の中では当初少数派であった。その後「畿内王権論」は吉田孝や早川庄八による律令制研究によって確立。吉田は関の学説を積極的に継承・発展させた。早川は石母田らの学説も取り入れていたが、事実上関の示した枠組みに基づいた研究を行った。関・吉田・早川らの学説は笹山晴生・平野邦雄らの賛同を得て、通説化した。「畿内王権論」は現在大津透らにより更に研究が継承されている。
- 唯物史観に対し一貫して批判的であり、軽視さえしていた。マルクス主義史学者でありながら研究をすすめる上で葛藤していたといわれる北山茂夫から厳しい批判を受けたこともあったが、これをほぼ無視して研究を進め、自説を変えることはなかった。石母田正の主著の一つ『日本の古代国家』についても強く批判している。学界におけるマルクス主義の衰退後は「畿内王権論」の祖形を作った学者として、学史に重要な地位を占めることになった。
- 帰化人の研究者としても知られる。帰化人の位置づけについて、「帰化人はわれわれの祖先なのである。彼らのした仕事は、日本人のためにした仕事ではなくて、日本人がしたことなのである。」(『帰化人-古代の政治・経済・文化を語る-』)と述べた。その後帰化人を「渡来人」とい換える上田正昭や、更に「渡来人」に戦後の在日朝鮮人のイメージを投影する金達寿の主張が広まったが、これにも批判的で、学術用語として不適切であることを指摘し、疑問を投げかけていた[2]。
単著
共編著
校注
監修
- 『狩野文庫本類聚三代格』(熊田亮介校注・解説)吉川弘文館(東京)1989.11(ISBN 464202235X)
- ^ a b c d e 産経新聞、1996年4月21日、社会面
- ^ 『国史大辞典』「帰化人」の項(関晃執筆。著作集にも収録)参照。