有間皇子ありまのおうじ

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有間皇子ありまのおうじ
続柄つづきがら 孝徳天皇こうとくてんのう皇子おうじ

出生しゅっしょう 舒明天皇てんのう12ねん640ねん
死去しきょ ひとし明天めいてんすめらぎ4ねん11月11にち658ねん12月11にち)(享年きょうねん19)
父親ちちおや 孝徳天皇こうとくてんのう
母親ははおや 阿倍あべないしょうあしひめ
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有間皇子ありまのおうじはか和歌山わかやまけん海南かいなん[1]

有間皇子ありまのおうじ(ありまのみこ、舒明天皇てんのう12ねん640ねん) - ひとし明天めいてんすめらぎ4ねん11月11にち658ねん12月11にち))は、飛鳥あすか時代ときよ皇族こうぞく孝徳天皇こうとくてんのう皇子おうじははしょうあしひめ

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

舒明天皇てんのう12ねん(640ねん)、けい皇子おうじ孝徳天皇こうとくてんのう)の皇子おうじとして誕生たんじょうはは左大臣さだいじん阿倍内麻呂あべのうちまろむすめしょうあしひめ天智天皇てんぢてんのう父方ちちかた従兄じゅうけいにあたる)のむすめ明日香あすか皇女おうじょしん田部たなべ皇女おうじょ姉妹しまい母方ははかた従妹じゅうまいになる。

すめらぎごく天皇てんのう4ねん6がつ14にち645ねん7がつ12にち)にちち即位そくい孝徳天皇こうとくてんのうとなる。孝徳天皇こうとくてんのう同年どうねん大化たいか元年がんねん12がつ9にち646ねん1がつ1にち)に難波なんばみやうつしたが、それに反対はんたいする皇太子こうたいし中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇てんぢてんのう)はしろ4ねん653ねん)にやまときょうもどすことをもとめた。孝徳天皇こうとくてんのうがこれをききいれなかったため、ちゅう大兄たいけい勝手かってやまときょううつり、皇族こうぞくたちや群臣ぐんしんたちのほとんどや孝徳天皇こうとくてんのう皇后こうごうであるあいだじん皇女おうじょまでも、ちゅう大兄たいけいしたがってやまときょうもどってしまった。失意しついなか孝徳天皇こうとくてんのうしろ雉5ねん10がつ10日とおか654ねん11月24にち)に崩御ほうぎょした。このため、ひとし明天めいてんすめらぎ元年がんねん1がつ3にち655ねん2がつ14にち)、孝徳天皇こうとくてんのうあねたから皇女おうじょすめらぎごく天皇てんのう)がふたた飛鳥あすか板葺いたぶきみやひとし明天めいてんすめらぎとして重祚じゅうそした。

ちち死後しご有間皇子ありまのおうじ政争せいそうまれるのをけるためにしんやまいよそおい、療養りょうようしょうして牟婁むろおもむいた。飛鳥ひちょうかえったのち病気びょうきかんなおしたことをひとし明天めいてんすめらぎつたえ、その土地とち素晴すばらしさをはなしてかせたため、ひとし明天めいてんすめらぎ行幸ぎょうこうした。飛鳥ひちょうのこっていた有間皇子ありまのおうじ蘇我赤兄そがのあかえ近付ちかづき、ひとし明天めいてんすめらぎ中大兄皇子なかのおおえのおうじ失政しっせい指摘してきし、自分じぶん皇子おうじ味方みかたであるとげた。皇子おうじよろこび、ひとし明天めいてんすめらぎ中大兄皇子なかのおおえのおうじ打倒だとうするというみずからの意思いしあきらかにした。なお近年きんねん有間皇子ありまのおうじははしょうあしひめ実家じっか阿部あべ水軍すいぐんたよりにし、天皇てんのうたちを急襲きゅうしゅうするつもりだったとするせつている(もり浩一こういち万葉集まんようしゅう考古学こうこがく』など)。

ところが蘇我赤兄そがのあかえ中大兄皇子なかのおおえのおうじ密告みっこくしたため、謀反むほん計画けいかく露見ろけんし(なお蘇我赤兄そがのあかえ有間皇子ありまのおうじちかづいたのは、中大兄皇子なかのおおえのおうじけたものとかんがえられている)、有間皇子ありまのおうじまもり大石おおいしさかごうやくたちとらえられた。ひとし明天めいてんすめらぎ4ねん11月9にち658ねん12月9にち)に中大兄皇子なかのおおえのおうじ尋問じんもんされ、そのさいに「すべてはてんあかけいだけがっている。わたしなにらぬ」(天與てんよあかけいわれぜん不知ふち)とこたえたといわれる。翌々日よくよくじつ藤白ふじしろざか[2]絞首刑こうしゅけいしょせられた。享年きょうねん19。

なお、処刑しょけいさきんじて、いわだい[3]皇子おうじんだ2しゅ辞世じせいうたが『万葉集まんようしゅう』に収録しゅうろくされている。ただしこの2しゅについては、民俗みんぞく学者がくしゃ折口おりぐち信夫しのぶにより後世こうせい人物じんぶつ皇子おうじ仮託かたくしてんだものではないかともかんがえられている(『折口おりぐち信夫しのぶ全集ぜんしゅうだい29かん)。

有間皇子ありまのおうじ死後しご大宝たいほう元年がんねん701ねん)の紀伊きいこく行幸ぎょうこうどきさくおもわれるちょうきち麻呂まろ山上憶良やまのうえのおくららの追悼ついとうが『万葉集まんようしゅう』にのこされている。以降いこう歴史れきしからわすられた存在そんざいとなるが、平安へいあん後期こうきにおけるまんよう復古ふっこきざしとともに、いくばくか史料しりょう散見さんけんされるようになり、いわだい歌枕うたまくらとなる。ただし『しゅんよりゆきずいのう』では、辞世じせいちち孝徳たかのり喧嘩けんかして出奔しゅっぽんしたさいうたとされているなど、伝説でんせつ一途いっと辿たどるようになる。極端きょくたんれいでは、江戸えど時代じだいの『百人一首ひゃくにんいっしゅ』の注釈ちゅうしゃくしょなどでは「即位そくい」とまでなっている。また、藤白ふじしろ神社じんじゃ境内けいだいには、有間皇子ありまのおうじしのんで有間皇子ありまのおうじ神社じんじゃ創建そうけんされた。藤白ふじしろざかには「藤白ふじしろの みさかえつゆと しろだるの わが衣手ころもでれにけるかも」(『万葉集まんようしゅうまき9・1675)という、皇子おうじしのんだものとおぼしき作者さくしゃしょう歌碑かひのこっている。

代表だいひょうてきうた[編集へんしゅう]

  • いわだい浜松はままつえだむすび まこうくあらば またかえむ (2-141)
  • いえにあれば めし草枕くさまくら たびにしあれば しいる (2-142)

系図けいず[編集へんしゅう]


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27 安閑天皇あんかんてんのう
 
28 せん天皇てんのう
 
29 欽明天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
いしひめ皇女おうじょ
(欽明天皇てんのうきさき)
 
うえふえ皇子おうじ
 
30 さとしたち天皇てんのう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31 よう明天めいてんすめらぎ
 
33 推古天皇すいこてんのう
 
32 たかしたかし天皇てんのう
 
あなあいだじん皇女おうじょ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
大河内おおこうちややひめ
せん天皇てんのうきさき
 
じゅうおう
 
押坂彦人大兄たいけい皇子おうじ
 
春日しゅんじつ皇子おうじ
 
だい皇子おうじ
 
難波なんば皇子おうじ
 
聖徳太子しょうとくたいし
厩戸皇子うまやどのおうじ)
 
皇子おうじ
 
当麻とうま皇子おうじ
 
殖栗うえぐり皇子おうじ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
火焔かえん皇子おうじ
 
多治比たじひいにしえおう
 
 
 
 
 
 
かや渟王
 
 
 
 
 
ぐりくまおう
 
やま大兄たいけいおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
多治比たじひしま
多治比たじひ
 
 
 
 
 
 
35 すめらぎごく天皇てんのう
37 ひとし明天めいてんすめらぎ
 
36 孝徳天皇こうとくてんのう
 
つとむおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
有間皇子ありまのおうじ
 
橘諸兄たちばなのもろえ
葛城王かつらぎおう
たちばな


日下部くさかべ朝倉あさくらとの関係かんけい[編集へんしゅう]

日下部くさかべである日下部くさかべひょうまいひょうまい親王しんのう)は『ぞくぐんしょ類従るいじゅう所収しょしゅう系図けいずとう一般いっぱん流布るふされている系図けいずでは、有間皇子ありまのおうじまたはおとうととされているが、これは信頼しんらいできないとされる。この日下部くさかべながれをむのが、朝倉あさくらたかしけい朝倉あさくら義景よしかげ輩出はいしゅつした朝倉あさくらである。

日下部くさかべおもてべい親王しんのう後裔こうえいせつによれば、孝徳天皇こうとくてんのうには3にん男子だんしがあり、長男ちょうなん有馬ありま皇子おうじ謀反むほんつみせられて刑死けいしおとうと出家しゅっけして入唐にっとう末弟ばっていひょうまいおさなかったため但馬たじまこくながされたという。成長せいちょうしてのち、百済くだら出兵しゅっぺいして戦功せんこうがあった。そのとき、乗船じょうせんあながあきついに沈没ちんぼつかとおもわれたとき、粟賀あわが明神みょうじん養父やぶ明神みょうじんなどに必死ひっしいのったところ、天空てんくうよりりゅうったかみ々があらわれ、ふねあなにはだいあわびいてあないだ。この奇瑞きずいちからをえたおもてべいぜいてき撃退げきたい無事ぶじ但馬たじま凱旋がいせんすることができた。ひょうまい親王しんのうふねすくってくれたあわびかえ粟鹿あわが大明神だいみょうじん奉納ほうのう親王しんのう子孫しそんあわびしょくすることはなかったという。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 北緯ほくい348ふん37.44びょう 東経とうけい13512ふん25.71びょう / 北緯ほくい34.1437333 東経とうけい135.2071417 / 34.1437333; 135.2071417 (有間皇子ありまのおうじ)
  2. ^ ふじしろさか、和歌山わかやまけん海南かいなん藤白ふじしろ
  3. ^ いわしろ、現在げんざい和歌山わかやまけん日高ひだかぐんみなべまち西岩代にしいわしろ

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

関連かんれん創作そうさくひん