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磐井いわいらん

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
磐井いわいらん
戦争せんそう磐井いわいらん
年月日ねんがっぴ528ねん11月11にち
場所ばしょ筑紫つくし三井みついぐん
結果けっか大和やまと朝廷ちょうていぐん勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
大和やまと朝廷ちょうていぐん 磐井いわいぐん
指導しどうしゃ指揮しきかん
物部麁鹿火もののべのあらかび 筑紫つくしくん磐井いわい
戦力せんりょく
不明ふめい 不明ふめい
損害そんがい
不明ふめい 不明ふめい

磐井いわいらん(いわいのらん)は、527ねんつぎたい天皇てんのう21ねん)に朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ出兵しゅっぺいしようとした近江おうみもうひきいる大和やまと朝廷ちょうていぐん進軍しんぐん筑紫つくしくん磐井いわい(『日本書紀にほんしょき』は筑紫つくし国造くにのみやつこだったとする)がはばみ、よく528ねんつぎたい天皇てんのう22ねん)11月、物部麁鹿火もののべのあらかびによって鎮圧ちんあつされた反乱はんらん、または王権おうけんあいだ戦争せんそう

磐井いわいらんかんする文献ぶんけん史料しりょうは、ほぼ『日本書紀にほんしょき』にかぎられているが、『筑後ちくごこく風土記ふどき逸文いつぶん(「しゃく日本にっぽんまき13しょ引)や『古事記こじき』(つぎたい天皇てんのうだん)、『国造くにのみやつこ本紀ほんぎ』(「先代せんだいきゅうこと本紀ほんぎまき10)にも簡潔かんけつ記録きろくのこっている。

なお、『筑後ちくごこく風土記ふどき』には「官軍かんぐんきゅう襲撃しゅうげきしてきた」となっており、また『古事記こじき』には「磐井いわい天皇てんのういのちしたがわず無礼ぶれいおおかったのでころした」とだけしかかれていないなど、反乱はんらんおもわせる記述きじゅつがないため、『日本書紀にほんしょき』の記述きじゅつはかなり潤色じゅんしょくされているとしてそのすべてを史実しじつるのを疑問ぎもんする研究けんきゅうしゃもいる。

かく史書ししょによるらん経緯けいい

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日本書紀にほんしょき』による、磐井いわいらん経緯けいい

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527ねんつぎたい天皇てんのう21ねん6月3にち大和やまと朝廷ちょうてい近江おうみもうは6まんにんへいひきいて、しんうばわれたみなみ・喙己呑を回復かいふくするため、にんかって出発しゅっぱつした(いずれも朝鮮半島ちょうせんはんとう南部なんぶ諸国しょこく)。この計画けいかくったしんは、筑紫つくし九州きゅうしゅう地方ちほう北部ほくぶ)の筑紫つくし国造くにのみやつこ磐井いわい贈賄ぞうわいし、大和やまと朝廷ちょうていぐん妨害ぼうがい要請ようせいした。

磐井いわい挙兵きょへいし、くに肥前ひぜんこく肥後ひごこく)とゆたかくに豊前ぶぜんこく豊後ぶんごこく)を制圧せいあつするとともに、倭国わのくに朝鮮半島ちょうせんはんとうとをむす海路かいろ封鎖ふうさして朝鮮半島ちょうせんはんとう諸国しょこくからの朝貢ちょうこうせんさそみ、近江おうみもうぐん進軍しんぐんをはばんで交戦こうせんした。このとき磐井いわい近江おうみもうに「おまえとはおながまめしったなかだ。おまえなどの指示しじにはしたがわない。」とったとされている。大和やまと朝廷ちょうていでは平定へいていぐん派遣はけんについて協議きょうぎし、つぎたい天皇てんのう大伴おおとも大連たいれん金村かなむら物部ものべ大連たいれん麁鹿もとぜい大臣だいじんおとこじんらに将軍しょうぐん人選じんせん諮問しもんしたところ、物部麁鹿火もののべのあらかび推挙すいきょされ、同年どうねん8がつ1にち、麁鹿将軍しょうぐん任命にんめいされ、天皇てんのうから筑紫つくし以西いせい統治とうち委任いにんされた。

528ねん11月11にち磐井いわいぐん大将軍だいしょうぐんの麁鹿ひきいる大和やまと朝廷ちょうていぐんが、筑紫つくし三井みついぐんげん福岡ふくおかけん小郡おぐに三井みついぐん付近ふきん)にて交戦こうせんし、はげしい戦闘せんとう結果けっか磐井いわいぐん敗北はいぼくした。日本書紀にほんしょきによると、このとき磐井いわい物部麁鹿火もののべのあらかびられたとされている。同年どうねん12がつ磐井いわい筑紫つくしかずら連座れんざからのがれるため、糟屋かすやげん福岡ふくおかけん糟屋かすやぐん付近ふきん)のたむろくら大和やまと朝廷ちょうてい献上けんじょうし、死罪しざいめんぜられた。

らん529ねん3月、大和やまと朝廷ちょうてい倭国わのくに)はふたた近江おうみにんやす派遣はけんし、しんとの領土りょうど交渉こうしょうおこなわせている。

古事記こじき』(つぎたい天皇てんのうだん)による、磐井いわいらん経緯けいい

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この御世みよ、竺紫くん石井いしい筑紫つくしくん磐井いわい)、天皇てんのういのちしたがえはず、無礼ぶれいおおし。ゆえに、物部ものべあらきのえ物部麁鹿火もののべのあらかび大連たいれん大伴金村おおとものかなむられん二人ふたりつかわして、石井いしいころしき。

(この御世みよに、竺紫くん石井いしい天皇てんのういのちしたがわず、無礼ぶれいおおくあった。そこで物部ものべあら甲之こうし大連たいれん大伴金村おおとものかなむられん二人ふたりつかわして、石井いしいころした。)

筑後ちくごこく風土記ふどき逸文いつぶんによる、磐井いわいらん経緯けいい

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雄大ゆうだい天皇てんのうにあたりて、筑紫つくしくん磐井いわいごうきょう暴虐ぼうぎゃくにして、すめらぎふうしたがえはず。 なまけりしときあずかめこのはかつくる。 にわかにして官軍かんぐんどうはつりて、かさねたむとするあいだに、いきおいのたざるをりて、ひと豊前ぶぜん国上くにがみぜんけんに遁れて、南山なんざんたかししきみねきょくおわりはりき。 いて官軍かんぐんついひろぎてあとうしなふ。いかまず、いしじんり、いしあたまち堕とす。

雄大ゆうだい天皇てんのうつぎたい天皇てんのう)の御世みよたって、筑紫つくしくん磐井いわいごうきょう暴虐ぼうぎゃくにして、天皇てんのうしたがわなかった。 生前せいぜんのうちに、あらかじめこのはかつくった。 きゅう官軍かんぐん動員どういんされ襲撃しゅうげきしたときに、いきおいをてないことをさとって、ひとりで豊前ぶぜん国上くにがみぜんけんかくれて、南山なんざんけわしいみねすみくなった。 ここにおいて官軍かんぐんは、磐井いわい見失みうしなった。 兵士へいしいかりはまず、いしじんり、いしあたまとした。)

朝鮮半島ちょうせんはんとうがわ磐井いわいらんかんする記事きじ

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さん国史こくし」「さんこくのここと」といった朝鮮半島ちょうせんはんとうがわ資料しりょうには、磐井いわいらん記事きじまった存在そんざいせず、しん磐井いわい賄賂わいろおくったとする証拠しょうこ見当みあたらない。

備考びこう

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国造くにのみやつこ本紀ほんぎ』には磐井いわいしん関係かんけい示唆しさする記述きじゅつがある。

考証こうしょう

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磐井いわいらん古代こだい重要じゅうよう事件じけんとして注目ちゅうもくされるようになったのは、1950年代ねんだい前半ぜんはんのことである。当時とうじ林屋はやしや辰三郎たつさぶろう藤間とうまなまだい門脇かどわき禎二ていじらは、磐井いわいらんについて、大和やまと朝廷ちょうていによる朝鮮ちょうせん出兵しゅっぺい再三さいさんわたったため九州きゅうしゅう地方ちほう負担ふたんかさなり、その不満ふまん具現ぐげんしたものと位置いちづけた。

これにたいし、『日本書紀にほんしょき』にしる磐井いわいらん潤色じゅんしょくされたものであり、実際じっさいは『古事記こじき』にしる程度ていどしょう事件じけんだったとする主張しゅちょうが、1960年代ねんだいはいってから坂本さかもと太郎たろう三品みしな彰英あきひでらからされた。ただしそれらの主張しゅちょう磐井いわいらん意義いぎ否定ひていするものではなかったことと、らん意義いぎ着目ちゃくもくした研究けんきゅうつづけられた結果けっか磐井いわいらん古代こだい重要じゅうよう事件じけん位置いちづける見方みかた通説つうせつとなった。

1970年代ねんだいなかばになると、つぎからだ前後ぜんこう国家こっか形成けいせい進展しんてんし、大和やまと朝廷ちょうていかく地域ちいき政治せいじ勢力せいりょく併合へいごうしていく過程かていなかで、磐井いわいらん発生はっせいしたとする研究けんきゅう鬼頭おにがしら清明きよあき山尾やまお幸久ゆきひさ吉田よしだあきららによって相次あいついで発表はっぴょうされた。従前じゅうぜん磐井いわいらん地方ちほう豪族ごうぞくによる中央ちゅうおう政権せいけんへの反乱はんらんだとかんがえられていたが、これらの研究けんきゅう古代こだい国家こっか形成けいせいというてん着目ちゃくもくし、らん当時とうじはすでに統一とういつてき中央ちゅうおう政権せいけん存在そんざいしていたわけではなく、磐井いわい独自どくじ地域ちいき国家こっか確立かくりつしようとしたところ、国土こくど統一とういつ企図きとするヤマト王権おうけんとの衝突しょうとつ、すなわち磐井いわいらんこったとした。

1978ねん埼玉さいたまけん稲荷山いなりやま古墳こふんから出土しゅつどしたきむ錯銘てつけん発見はっけんにより、統一とういつてき中央ちゅうおう政権せいけん形成けいせい時期じき5世紀せいき後半こうはんまでさかのぼらせる議論ぎろん有力ゆうりょくとなっていくと、磐井いわいらん意義いぎ位置いちづけもまたさい検討けんとうくわえられるようになった。朝鮮半島ちょうせんはんとうとの関係かんけい着目ちゃくもくし、大和やまと朝廷ちょうてい百済くだらあいだ成立せいりつした連合れんごうたいし、磐井いわいしんとの連合れんごうつうじて自立じりつはかったとする意見いけん磐井いわいらんつぎたい王朝おうちょう動揺どうようあらわれとする意見いけん、むしろつぎたい王朝おうちょうによる地方ちほう支配しはい強化きょうかとする意見いけんなど、磐井いわいらんたいする見方みかたかならずしも一致いっちしていない。

磐井いわいらん本当ほんとうに「反乱はんらん」だったのか?

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磐井いわいらん本当ほんとうに「反乱はんらん」だったのかというてんについては、『日本書紀にほんしょき』の史観しかんによってみるならば、たしかに反乱はんらんといってい。

磐井いわい筑紫つくし国造くにのみやつこという地位ちいにあるからである。 ヤマト政権せいけん地方ちほう統治とうちまかされたのが国造くにのみやつこであり、その地位ちいにある磐井いわいが、しんつうじ、ヤマト政権せいけん反抗はんこうしたのであるから、まぎれのない反乱はんらんといえる。

だが、国造くにのみやつこせい成立せいりつをいつとかんがえるかで、磐井いわいらん性格せいかくまったちがったものになってくる。 たとえば、世紀せいき後半こうはんごろから施行しこうされていったとするせつしたがうならば、ろく世紀せいき前半ぜんはん段階だんかい磐井いわい筑紫つくし国造くにのみやつこであったとかんがえることに問題もんだいはない。

しかし、最近さいきんわれしたなな世紀せいき前半ぜんはんごろに整備せいびされた制度せいどとするならば、磐井いわいろく世紀せいき前半ぜんはんには国造くにのみやつこではなく、九州きゅうしゅう北部ほくぶ拠点きょてんにしていた地方ちほう豪族ごうぞくということになる。 (『日本書紀にほんしょき』では「筑紫つくし国造くにのみやつこ磐井いわい」としるしているが、『古事記こじき』、『筑後ちくごこく風土記ふどき』は「竺紫くん石井いしい」や「筑紫つくしくん磐井いわい」としており、ヤマト政権せいけん従属じゅうぞくした国造くにのみやつこではなく独立どくりつした地方ちほう豪族ごうぞくとしている。しん筑紫つくし国造くにのみやつこ磐井いわい賄賂わいろおくって、ヤマト政権せいけん反乱はんらんこしたというのは『日本書紀にほんしょき』のみがつたえる所伝しょでんであって、『古事記こじき』、『筑後ちくごこく風土記ふどき』、『さん国史こくし』などの史書ししょからは、ヤマト政権せいけん筑紫つくしくん磐井いわい先制せんせい攻撃こうげき仕掛しかけて征服せいふくしたことがれる。) つまり、九州きゅうしゅう北部ほくぶ中心ちゅうしん勢力せいりょくり、玄界灘げんかいなだ海上かいじょうけん支配しはいしていた豪族ごうぞくである。 ヤマト政権せいけんとしてみれば、朝鮮半島ちょうせんはんとうへのルートとして、九州きゅうしゅう北部ほくぶ重要じゅうようであり、支配しはいくことが出来できない場合ばあいには、その地域ちいき豪族ごうぞくたちとの友好ゆうこう関係かんけい不可欠ふかけつのものであった。

このような友好ゆうこう関係かんけいむすばれていたのが磐井いわいとヤマト政権せいけん実態じったいだとすると、磐井いわいがヤマト政権せいけん対抗たいこうするためしんむすんだとしても、それは畿内きない九州きゅうしゅう氏族しぞくがそれぞれの国家こっか形成けいせい目指めざ戦争せんそうであって、反乱はんらんとはいえなくなってくるのである[1]

磐井いわいらんあつかった作品さくひん

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テレビ番組ばんぐみ

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題名だいめい英雄えいゆうたちの選択せんたく「スカウトされた大王だいおう地方ちほう出身しゅっしんつぎたい天皇てんのう実像じつぞう~」

時間じかん:60ふん(カラー)

放映ほうえい:2020ねん4がつ22にち午後ごご8:00~9:00 BSプレミアム/2020ねん4がつ29にち午前ごぜん8:00~9:00 BSプレミアム

出演しゅつえん磯田いそだみち ほか

アニメ作品さくひん

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平成へいせい25年度ねんど日本にっぽん郵政ゆうせい年賀ねんが寄付きふきん助成じょせいけ、NPO法人ほうじん科学かがく映像えいぞうかん磐井いわいらんのアニメーション作品さくひん配信はいしんされた。らん経緯けいい磐井いわいがわからえがいている。

題名だいめい筑紫つくし磐井いわい

時間じかん:30ふん(カラー)

製作せいさく全国ぜんこく農村のうそん映画えいが協会きょうかい(株)かぶしきがいしゃイージー・フィルム

協力きょうりょく(株)かぶしきがいしゃぷろだくしょんバオバブ

企画きかく福岡ふくおかけん八女やめ

監修かんしゅう福岡ふくおかけん八女やめ教育きょういく委員いいんかい

出演しゅつえん筑紫つくし磐井いわい :銀河万丈ぎんがばんじょう

   かずら    :松本まつもと保典やすのり

   咲花さきはなひめ   :横尾よこおまり

   しんじん技師ぎし :堀内ほりうち賢雄けんゆう

   物部麁鹿火もののべのあらかび :笹岡ささおか繁蔵しげぞう

   大伴金村おおとものかなむら  :西村にしむら知道ともみち

   おとこだい迹王  :藤本ふじもとゆずる

   近江おうみもう  :大滝おおたき進矢しんや

   もとぜいおとこじん  :喜多川きたがわ拓郎たくろう

   船員せんいん    :なか博史ひろふみ

   ナレーション:山本やまもと博子ひろこ

スタッフ:

   プロデューサー   :山岸やまぎし豊吉とよきち

   監督かんとく脚本きゃくほん     :萩原はぎはらたかし

   キャラクターデザイン:本多ほんだ敏行としゆき

   美術びじゅつ設定せってい      :千葉ちば秀雄ひでお

   アニメーション原画げんが :村上むらかみつとむ

   アニメーション動画どうが :鈴野すずの貴一きいち照屋てるや裕子ゆうこ豊里とよさと勝彦かつひこ

   セルワーク・いろ指定してい :照屋てるや美和子みわこ

   動画どうがチェック    :金子かねこ光隆みつたか

   背景はいけい        :藤田ふじたつとむ(スタジオWHO)

   撮影さつえい        :小山こやま信夫しのぶ

   編集へんしゅう        :づるふちまこと寿ことぶき

   音響おんきょう演出えんしゅつ      :田中たなか秀行ひでゆき

   音響おんきょう制作せいさく      :大平おおひら紀義のりよし(E&Mプランニングセンター)

   効果こうか        :伊藤いとう道広みちひろ(E&M)

   選曲せんきょく        :栗林くりばやし秀年ひでとし(クリプロ)

   録音ろくおん        :(株)かぶしきがいしゃアバコ・クリエイティブ・スタジオ

   現像げんぞう        :IMAGICA

   タイトル      :アズスタッフ,青木あおき正人まさと佐伯さえき仁士ひとし

   制作せいさく進行しんこう      :小海こかい雄司ゆうじ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 最新さいしん古代こだい史論しろん まほろばのくに ヤマトのあけぼの (歴史れきしぐんぞうシリーズ) 2009/4/1学研がっけん P76

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • 吉村よしむら武彦たけひこ、『つぎたい・欽明あさと「内乱ないらん」』「古代こだい基礎きそ知識ちしき所載しょさい角川かどかわ選書せんしょ、2005ねんISBN 4047033731
  • 倉本くらもと一宏かずひろ、『大和やまと王権おうけん成立せいりつ展開てんかい』「新体しんたいけい日本にっぽん1 国家こっか所載しょさい山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2006ねんISBN 4634530104
  • 鬼頭おにがしら清明きよあき、『大王だいおう有力ゆうりょく豪族ごうぞく - 磐井いわい戦争せんそうとは - 』「週刊しゅうかん朝日あさひ百科ひゃっか 日本にっぽん歴史れきし41 邪馬台国やまたいこく大王だいおう時代じだい所載しょさい朝日新聞社あさひしんぶんしゃ、1987ねん
  • 篠川しのかわけん、『磐井いわいらん』「日本にっぽん古代こだい研究けんきゅう事典じてん所載しょさい東京とうきょうどう出版しゅっぱん、1995ねんISBN 4490103964
  • 水谷みずたに千秋ちあき、『なぞ大王だいおう つぎたい天皇てんのう』、文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2001ねん

外部がいぶリンク

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