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藤原ふじわらしげるはん

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藤原ふじわらしげるはん
さくらまち中納言ちゅうなごん」(尾形おがた月耕げっこう日本にっぽんはな図絵ずえ』)
時代じだい 平安へいあん時代じだい末期まっき-鎌倉かまくら時代ときよ初期しょき
生誕せいたん のべ元年がんねん1135ねん
死没しぼつ 文治ぶんじ3ねん3月16にち1187ねん4がつ26にち
改名かいめい なりけんはつ)→なるはん
別名べつめい さくらまち中納言ちゅうなごん
官位かんい せい中納言ちゅうなごん
主君しゅくん 近衛天皇このえてんのう後白河天皇ごしらかわてんのう二条天皇にじょうてんのうろくじょう天皇てんのう高倉天皇たかくらてんのう安徳天皇あんとくてんのう後鳥羽ごとば天皇てんのう
氏族しぞく 藤原ふじわらみなみさだ嗣流
父母ちちはは ちち信西しんぜい藤原通憲ふじわらのみちのり
はは藤原ふじわら朝子あさこ藤原ふじわら兼永かねながむすめ
兄弟きょうだい 俊憲としのりさだけんせいけんきよしけんさとしけんけん曜、なりはんかつけんけんあかりあまねおさむはん光憲みつのりひろしさとしくだりけんけんしゅんひろしけんけんけい阿波あわ内侍ないし?、藤原ふじわらたかししつ藤原ふじわら長方おさかたしつ藤原ふじわらちかししんしつ少将しょうしょうゆうぼうしつ藤原ふじわら家房かぼうしつみなもと為国ためくにしつ
つま 藤原ふじわら重成しげなりむすめ藤原ふじわらためどおりむすめ
婚約こんやくしゃ平清盛たいらのきよもりむすめ
しょうとくなりけんていはんもとはんつうなりなりぼう範行のりゆきけんはんはんけんはんえんなり長谷部はせべ信連しんれんしつ
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藤原ふじわら しげるはん(ふじわら の しげのり)は、平安へいあん時代じだい末期まっきから鎌倉かまくら時代ときよ初期しょきにかけての公卿くぎょう歌人かじん藤原ふじわらみなみさだながれ少納言しょうなごん藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)の三男さんなん官位かんいせい中納言ちゅうなごんさくらまち中納言ちゅうなごんごうす。

経歴けいれき

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鳥羽とば法皇ほうおういん判官ほうがんだいみぎ近衛このえすすむかんて、久寿きゅうじゅ元年がんねん(1154ねんしたがえ叙爵じょしゃくされる。久寿きゅうじゅ3ねん1156ねん)、左衛門さえもん同年どうねん7がつ発生はっせいしたもとらんて、ちち信西しんぜい権勢けんせいにぎるとともに、もと2ねん1157ねん)にせいひだり近衛このえ少将しょうしょうもと3ねん1158ねん)にしたがえよんじょうひだり近衛このえ中将ちゅうじょうもと4ねん1159ねん)にせいよん急速きゅうそく昇進しょうしんたす。またこのあいだ遠江とおとうみまもる播磨はりままもる地方ちほうかんねた。さらに、平清盛たいらのきよもりむすめ婚約こんやくし、その前途ぜんと磐石ばんじゃくであるかにえたが、平治へいじ元年がんねん1159ねん)の平治へいじらんにおいて信西しんぜい殺害さつがいされると状況じょうきょう暗転あんてん平家へいけろくていんだところを信頼しんらいかた検非違使けびいしわたされた(『平治へいじ物語ものがたり』)[1]らん終結しゅうけつ戦乱せんらんまねいた一方いっぽう当事とうじしゃとして信西しんぜい罪状ざいじょうわれることになり、それに連座れんざするかたちでその子息しそくたちことごと流罪るざいとなり、なりけんかいかんされ下野げやこく配流はいるとなった。

しかし、えいれき元年がんねん1160ねん)2がつにははやくも赦免しゃめんされて平安京へいあんきょうかえされ、同年どうねん12がつ本位ほんいふくしてだいおさむ大弐だいににんぜられる。またこのころいみななりはんあらためた。じんやす元年がんねん、(1166ねんろくじょう天皇てんのう即位そくいともなしたがえさんじょせられ、公卿くぎょうれっす。

こののち、じんやす2ねん1167ねん)にせいさんうけたまわやす4ねん1174ねん)に参議さんぎ安元やすもと2ねん1176ねん)にけん中納言ちゅうなごんうけたまわ4ねん1180ねん)にしたがえ昇進しょうしんする。寿ことぶきひさし2ねん1183ねん)、せい中納言ちゅうなごんいたり、同年どうねん12がつ中納言ちゅうなごん辞任じにん。このあいだこう白河しらかわ法皇ほうおう執事しつじ別当べっとうとして身近みぢかつかえ、うけたまわ3ねん1179ねん)に発生はっせいしたうけたまわさんねん政変せいへんにおいて、法皇ほうおう鳥羽とば殿どの幽閉ゆうへいされたさいにも、兄弟きょうだいおさむはんせいけんらとともにそのはた出入でいりすることをゆるされている。また、文治ぶんじ元年がんねん1185ねん)に源義経みなもとのよしつねあに頼朝よりともから離反りはんしたさいには、義経よしつね同心どうしんしている嫌疑けんぎをかけられた。

文治ぶんじ3ねん1187ねん)2がつ18にちやまいにより出家しゅっけし、同年どうねん3がつ16にち死去しきょ[2]享年きょうねん53。

人物じんぶつ

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  • がいして政治せいじてき足跡あしあとにはとぼしく、もっぱ和歌わかなどの文化ぶんかめんでの活動かつどう目立めだった。勅撰ちょくせん歌人かじんとして『千載せんざい和歌集わかしゅう』(3しゅ以下いか勅撰ちょくせん和歌集わかしゅうに12しゅ和歌わか作品さくひん採録さいろくされており、また『から物語ものがたり』の作者さくしゃである可能かのうせいたかいとされる。
  • さくらあいし、自邸じていおおえたことにより、さくらまち中納言ちゅうなごんばれたともいう。

系譜けいふ

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ろくていおもである平清盛たいらのきよもり熊野くまのまいかけており、一部いちぶへい同行どうこうしていたとみられる。そのため、京都きょうと制圧せいあつしてかつ二条天皇にじょうてんのう確保かくほしていた藤原ふじわら信頼しんらい要求ようきゅうのこされた平家へいけ人々ひとびと抵抗ていこうできずになりけんわたしたとかんがえられる(古澤ふるさわ直人なおと平治へいじらん構図こうず意図いとをめぐって」『中世ちゅうせい初期しょきの〈謀叛ぼうほん〉と平治へいじらん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、2019ねん P164-165.)。
  2. ^ たま』では17にちとする。

出典しゅってん

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  • 公卿くぎょう補任ほにん だいいちへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1982ねん
  • 尊卑そんぴ分脈ぶんみゃく だいへん吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねん

関連かんれん項目こうもく

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