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尾形おがた月耕げっこう

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尾形おがた月耕げっこう
尾形月耕の肖像
1902ねん以前いぜん撮影さつえい
生誕せいたん めいかがみ正之助しょうのすけ
1859ねん10がつ10日とおか
江戸えど京橋きょうばし弥左衛門やざえもんまち
死没しぼつ 東京とうきょう牛込うしごめ新小川しんおがわまち
墓地ぼち 雑司ヶ谷ぞうしがや霊園れいえん
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
著名ちょめい実績じっせき 日本にっぽん挿絵さしえ木版もくはん工芸こうげい下絵したえ図案ずあん
運動うんどう動向どうこう かん画会がかい日本にっぽん絵画かいが協会きょうかい日本にっぽん美術びじゅついん
配偶はいぐうしゃ 田井だい耕耘こううん
子供こども 尾形おがた月山がっさん
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尾形おがた 月耕げっこう(おがた げっこう、OGATA Gekko、安政あんせい6ねん9月15にち[1]1859ねん10がつ10日とおか〉 - 大正たいしょう9ねん1920ねん10月1にち)は、日本にっぽん明治めいじから大正たいしょう浮世絵うきよえ日本にっぽん画家がか

経歴けいれき

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安政あんせい6ねん9がつ15にち(1859ねん10がつ10日とおか[2]めいかがみ清次郎せいじろうとして江戸えど京橋きょうばし弥左衛門やざえもんまち現在げんざい銀座ぎんざ4丁目ちょうめ3番地ばんち)にまれる。本名ほんみょう正之助しょうのすけべつごうさくらひとしめいかがみひとしはなあきらろうめいかがみ葛飾かつしか地主じぬしで、祖父そふ長兵衛ちょうべえだい名家めいか江戸えど屋敷やしき豪商ごうしょう人材じんざい斡旋あっせんするくちいれと、塵芥じんかい蒐集しゅうしゅう利権りけんにぎり、「江戸えどさん長兵衛ちょうべえ」のひとりとうたわれるほど羽振はぶりがかった。しかし、明治めいじ9ねん1876ねんかぞ17さいちちやまいうしなうと、利権りけん他家たけうつ没落ぼつらく京橋きょうばしゆみまちうつむ。

ちちつよすすめにより独学どくがくまなび、菊池きくち容斎ようさい私淑ししゅくして『前賢ぜんけん故実こじつ』などをまな[3]京橋きょうばしゆみまち提灯ちょうちんいとな一方いっぽう、「ビラ」をえがいておも絵草紙えぞうしまわり、錦絵にしきええがかせてほしいとたのあるいたという。吉原よしはら遊廓ゆうかくびら、人力車じんりきしゃ蒔絵まきえ七宝しっぽういえ濤川そうすけ称揚しょうようされ輸出ゆしゅつけの陶器とうき漆器しっき下絵したえなどをえがいてわざみがく。そうしたなか明治めいじ10ねん1877ねん)ごろ『せいかんろん』(きょうとき邑『建白けんぱく評議ひょうぎ』)としょうされるさんまいつづけとき事物じぶつ錦絵にしきえ自費じひ出版しゅっぱんし(河鍋かわなべ暁斎きょうさいまりその推薦すいせんけたというせつもある)ヒット、めいかがみ正之助しょうのすけすこしずつられるようになる。

明治めいじ14ねん1881ねん)ごろには、琳派の系統けいとう尾形おがたひかりいえせい襲名しゅうめいして尾形おがた名乗なのる。同年どうねんころより尾形おがた月耕げっこうめい単行たんこうほんやボール表紙ひょうしほん挿絵さしえをはじめ、「入朝にゅうちょう新聞しんぶん」など新聞しんぶん挿絵さしえ手掛てがけ、またおおくの文芸ぶんげい雑誌ざっし口絵くちええがいて一躍いちやく人気にんき画家がか仲間入なかまいりをたした。明治めいじ15ねん1882ねんふたた京橋きょうばし弥左衛門やざえもんまちうつる。明治めいじ18ねん1885ねん)7がつの「東京とうきょう流行りゅうこう細見さいけん」にしめされた浮世絵うきよえ細見さいけんでは、23にんちゅう月岡つきおか芳年よしとし小林こばやしひさし落合おちあいかおるいく豊原とよはら国周くにちか鳥居とりいきよしみつるさんだい広重ひろしげいで7番目ばんめげられている。浮世絵うきよえけい師弟してい関係かんけい埒外らちがいにあり、しかもデビューあいだもない時期じきであることを勘案かんあんすると、かなりのこう評価ひょうかといえる。一方いっぽう肉筆にくひつ研鑽けんさんにもおこたりなく、明治めいじ17ねん1884ねん結成けっせいかん画会がかい参加さんかし、翌年よくねんだいいちかいてんでは『仏師ぶっし運慶うんけい』を出品しゅっぴんしている。

明治めいじ20ねん1887ねん)にはおけまち転居てんきょ明治めいじ20年代ねんだいには水野みずの年方としかたとともに新聞しんぶん挿絵さしえ双璧そうへきとして絶大ぜつだい人気にんきる。小説しょうせつ挿絵さしえ手掛てがけ、明治めいじ20ねん1887ねん刊行かんこうされたあらためしんとう末広鉄腸すえひろてっちょう政治せいじ小説しょうせつはなあいだうぐいす』、翌年よくねん二葉亭四迷ふたばていしめいの『浮雲うきぐもだいへん同年どうねん山田やまだ美妙びみょうの『なつ木立こだち』などを担当たんとうした。錦絵にしきえシリーズでも『月耕げっこう随筆ずいひつ』、『源氏げんじじゅうよんじょう』、外国がいこくけの『明治めいじ美人びじん風俗ふうぞく礼式れいしき』などを出版しゅっぱんにちしん戦争せんそう錦絵にしきええがいた。著書ちょしょ大判おおばん木版もくはんシリーズ)として先述せんじゅつほかに、明治めいじ27ねん1894ねん)1がつからどう36ねん1903ねん)8がつまでのやく10年間ねんかんわた刊行かんこうされた『月耕げっこう漫画まんが』3へん21かんなどが代表だいひょうさくとしてげられる。家庭かていでは、明治めいじ21ねん1888ねん先妻せんさいとよと離婚りこんし、紀州きしゅうはん御殿ごてん田井だい俊斎しゅんさいむすめ弟子でし田井だい喜久よしひさ再婚さいこん本姓ほんせいきょうから田井だいせいとなる。

明治めいじ24ねん1891ねん)に日本にっぽん青年せいねん絵画かいが協会きょうかい結成けっせい参加さんか翌年よくねんだいいちかいてんでは審査しんさいん推挙すいきょされる。どうかい改組かいそ日本にっぽん絵画かいが協会きょうかいてん日本にっぽん美術びじゅついん創立そうりつには正員せいいんとして参加さんか)との連合れんごう絵画かいが共進きょうしんかいふくめ、一等いっとう褒状ほうじょう銀杯ぎんぱい銅牌どうはいかさねた。明治めいじ31ねん1898ねん)の日本にっぽん美術びじゅつ協会きょうかいの『曽我そが夜討ようち』は明治天皇めいじてんのう買上かいあげ海外かいがい万国博覧会ばんこくはくらんかいにも積極せっきょくてき参加さんかし、明治めいじ26ねん1893ねん)のシカゴ・コロンブス万国博ばんこくはくの『江戸えど山王さんのうさい』をはじめ、明治めいじ33ねん1900ねん)のパリ銅牌どうはい)、明治めいじ36ねん1903ねんだい5かい内国ないこく勧業かんぎょう博覧はくらんかいで「元禄げんろく美人びじん」で褒状ほうじょう明治めいじ37ねん1904ねん)に築地つきじ2丁目ちょうめ36番地ばんちうつり、同年どうねんセントルイス明治めいじ43ねん1910ねん)のにちえい博覧はくらんかい出品しゅっぴんした。明治めいじ44ねん1911ねん)52さいとき牛込うしごめ新小川しんおがわまち3丁目ちょうめ14番地ばんちうつる。大正たいしょう元年がんねん1912ねん)にはだい6かい文展ぶんてんに53さいで『山王さんのうさい』をはつ出品しゅっぴんさんとうしょう受賞じゅしょうし、話題わだいとなる。大正たいしょう9ねん(1920ねん)10がつ1にち牛込うしごめ新小川しんおがわまちやしきにて死去しきょまん60さい)。墓所はかしょ豊島としま雑司ぞうし霊園れいえん

代表だいひょうさく

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錦絵にしきえ

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  • のべりょうかん天覧てんらん相撲すもう横綱よこづな」 大判おおばん3まいつづけ 明治めいじ17ねん
  • 美人びじんはなきおい」 大判おおばんそろいぶつ 「南天なんてん」、「夜桜よざくら」など 明治めいじ20ねん以降いこう
  • 婦人ふじん風俗ふうぞくつき」 間判あいばん36まいそろえ 明治めいじ24ねん
  • 月耕げっこう随筆ずいひつ」 大判おおばん84まいそろえ 明治めいじ25ねんから明治めいじ29ねん
  • はな美人びじん名所めいしょあい」 大判おおばん3まいつづけ そろいぶつ 「亀戸かめいど臥竜がりょううめ」「亀戸かめいど龍眼りゅうがんてらはぎ」「堀切ほりきり菖蒲しょうぶ」「たきかわ紅葉こうよう」「団子だんござかきく」の5てん 松木まつき平吉へいきちはん 明治めいじ28ねんから明治めいじ30ねん
  • ひゃく富士ふじ」 大判おおばん100まいそろえ 明治めいじ29ねんから明治めいじ44ねん
  • 美人びじん名所めいしょあい」 大判おおばん3まいつづけ 7まいそろえ 「隅田すみたかわひゃく花園はなぞの七草ななくさ」、「利根川とねがわこいりょう」など 明治めいじ30ねんから明治めいじ34ねん

肉筆にくひつ浮世絵うきよえ

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作品さくひんめい 技法ぎほう 形状けいじょう員数いんずう 寸法すんぽうたてxよこcm) 所有しょゆうしゃ 年代ねんだい 落款らっかん印章いんしょう 備考びこう
江戸えど山王さんのう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 178.7x84.8 東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかん 1893ねん明治めいじ26ねん シカゴ・コロンブス万国博ばんこくはく出品しゅっぴん
演劇えんげき見物けんぶつ 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 82.2x127.2 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん 1894ねん明治めいじ27ねん 落款らっかん月耕げっこう」/印章いんしょうつぼちゅうおう〓」しゅぶんかたしるし 日本にっぽん青年せいねん絵画かいが協会きょうかいだいさんかい絵画かいが共進きょうしんかい銅牌どうはい
威海衛いかいえい海戦かいせんこれ 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 170.7x84.3 姥神うばがみ大神宮だいじんぐう 1898ねん明治めいじ31ねん 菅原すがわらはくりゅうふでさんてんみね進撃しんげき」とたいはば元々もともと白龍はくりゅう江差えさしまち篤志とくしからけた依頼いらいだが、「さんてんみね進撃しんげき」を完成かんせいさせた時点じてんやまいおもくなり、月耕げっこう草稿そうこう下絵したえたくして完成かんせい[4]
山羊やぎ きりいた墨画ぼくが 絵馬えま1めん 44.3x59.5(額面がくめん 浅草寺せんそうじ 1901ねん明治めいじ34ねん)5がつ5にち奉納ほうのう 款記「月耕げっこう」/「月耕げっこうしゅぶんかたしるし とういん倉庫そうこ所在しょざい本名ほんみょう田井だい正之助しょうのすけ奉納ほうのう[5]
奥沢おくさわ九品仏くほんぶつ来迎らいごう 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん 1910ねん明治めいじ43ねん 落款らっかん月耕げっこう」/印章いんしょう「□□□」白文はくぶんかたしるし にちえい博覧はくらんかい出品しゅっぴん
憲法けんぽう発布はっぷさい 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 130.0x52.5 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん 落款らっかん尾形おがた月耕げっこう」/印章いんしょうはなあきらろう白文はくぶんかたしるし
釣人ちょうじん 絹本けんぽん着色ちゃくしょく 1ぶく 98.7x41.1 東京芸術大学とうきょうげいじゅつだいがく大学だいがく美術館びじゅつかん 落款らっかん月耕げっこう」/印章いんしょうつぼちゅうおう〓」しゅぶんかたしるし
大宰府だざいふ天満宮てんまんぐう 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 鍋島なべしまほうこうかい 明治めいじ時代じだい
寺子屋てらこや 唐澤からさわ博物館はくぶつかん 明治めいじ時代じだい
銀座ぎんざ煉瓦れんががい中央ちゅうおう新聞しんぶん社前やしろまえにぎわいの 56.2x84.8 江戸えど東京とうきょう博物館はくぶつかん 明治めいじ末期まっき[6]
能楽のうがくじゅうまい きり板金ばんきんちょしょく がくそう12めん 湯島ゆしま天満てんまみや 1914ねん大正たいしょう3ねん)12月25にち奉納ほうのう 落款らっかん月耕げっこう謹画」
日本橋にほんばしさかな場之ばの 128.8x47.7 中央ちゅうおう区立くりつ郷土きょうど天文てんもんかん(タイムドーム明石あかし 1918ねん大正たいしょう7ねん[7]
新川しんかわさけ問屋とんや 123.5x42.2 中央ちゅうおう区立くりつ郷土きょうど天文てんもんかん(タイムドーム明石あかし 1919ねん大正たいしょう8ねん[7]
源氏物語げんじものがたり夕顔ゆうがお 絹本けんぽんちょしょく 1ぶく 奈良なら県立けんりつ美術館びじゅつかん
江戸えどさんじゅうさんあいだどうどおり 絹本けんぽんちょしょく 1ぶくたたみ表装ひょうそう 本紙ほんし88.0×135.5  表装ひょうそう138.0×186.5 ふとしつづみたに稲成いなり神社じんじゃ 落款らっかん月耕げっこう」 印章いんしょうゆう 顔料がんりょうにかわいろどり江戸えどさんじゅうさんあいだどう舞台ぶたい津和野つわのはん弓術きゅうじゅつ石川いしかわかん衛門えもんとおとその見物人けんぶつにんえがいたもの

画集がしゅう

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  • 月耕げっこう聚』ぜん11かん 1900ねん明治めいじ33ねん)~1901ねん明治めいじ34ねん大黒屋だいこくや発行はっこう
  • 新撰しんせん月耕げっこうかん』1さつ 1904ねん明治めいじ37ねん吾妻あづま健三郎けんざぶろうへん 東陽とうようどう発行はっこう
  • 月耕げっこうかん』1さつ 1914ねん大正たいしょう3ねんきょうみやびかい発行はっこう小石川こいしかわ小日向おびなた水道すいどうまち97番地ばんちはやしたいら兵衛ひょうえ編集へんしゅうけん発行はっこうじん

ギャラリー

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鑑定かんてい

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肉筆にくひつにおける贋作がんさくはさほどおおくないが、どう時代じだい溝口みぞぐち月耕げっこう田中たなか月耕げっこう四条しじょう)という絵師えしがおり、これらの“月耕げっこう”と間違まちがわれて書画しょがてんやネットオークションで作品さくひんられていることがおおいので、このてんもっと注意ちゅういようする。

家族かぞく門弟もんてい

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おとうと滝村たきむらひろしかたという絵師えしだったが、明治めいじ22ねんに22さい夭折ようせつしている。息子むすこ尾形おがた月山がっさんむすめ尾形おがたたまこう日本にっぽん画家がかまご田井だいせいちゅう尾形おがた真弓まゆみ)はグラフィックデザイナー、まご尾形おがたあやせい画家がか弟子でしにはもっとふる門人もんじん小川おがわ耕一こういちをはじめ、しげるおかこうはれ坂田さかたこうゆき田井だい耕耘こううん原田はらだこうきょ月岡つきおかこうりょう大倉おおくらこう千品ちしなこうあかつき末広すえひろこうゆたか庄田しょうだこうみね角谷かどやこうすい平山ひらやまこう邨、武田たけだこう笹井ささいこうまど遠藤えんどうこうけい杉原すぎはらこうほし金子かねここうちょう金森かなもりみなみこう福永ふくなが公美くみひなほんこうだま山村やまむら耕花こうか井澤いざわこうさわ井浦いうらこうよわい黒崎くろさきおさむとき熊耳くまがみこうねん石川いしかわしょうこう女性じょせい柴田しばたこうよう石川いしかわかつらどう菅井すがい春山はるやまこうこうむね菊地きくちもとせき佐藤さとうこうかた岩田いわたゆたか麿まろらがいる。また、月耕げっこうおけまち時代じだい門人もんじん大森おおもりたかしどうがいた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 息子むすこ尾形おがた月山がっさん手記しゅきでは9がつ10日とおか(『Bien(よしあん)』Vol.45、pp.14-15)。
  2. ^ 浮世絵うきよえ見方みかた事典じてん』は生年せいねん安政あんせい5ねん1858ねん)とする
  3. ^ 野崎のさき左文さぶん増補ぞうほわたし明治めいじ文壇ぶんだん1』平凡社へいぼんしゃ、2007ねん、88pぺーじ 
  4. ^ 菅原すがわら白龍はくりゅうぼつひゃくねん記念きねん事業じぎょう実行じっこう委員いいんうみ 長井ながい 長井ながい教育きょういく委員いいんかい編集へんしゅう発行はっこう菅原すがわら白龍はくりゅうぼつひゃくねん 白龍はくりゅうてん図録ずろく』 1997ねん10がつ30にちだい47
  5. ^ 東京とうきょう台東たいとう教育きょういく委員いいんかい 生涯しょうがい学習がくしゅう編集へんしゅう台東たいとう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ だい51しゅう 浅草寺せんそうじ絵馬えま扁額へんがく調査ちょうさ報告ほうこくしょ 浅草寺せんそうじ絵馬えま扁額へんがく東京とうきょう台東たいとう教育きょういく委員いいんかい、2015ねん3がつ20日はつかだい57
  6. ^ 銀座ぎんざ煉瓦れんががい中央ちゅうおう新聞しんぶん社前やしろまえにぎわいの - TOKYO DIGITAL MUSEUM
  7. ^ a b 増山ますやま一成いっせい中央ちゅうおう主任しゅにん文化財ぶんかざい調査ちょうさ指導しどういん編集へんしゅう執筆しっぴつ 『「絵画かいがにみる時代じだい情景じょうけい絵師えしからのメッセージ~」図録ずろく中央ちゅうおう教育きょういく委員いいんかい 中央ちゅうおう区立くりつ郷土きょうど天文てんもんかん(タイムドーム明石あかし)、2013ねん6がつ1にち、p.53。

参考さんこう文献ぶんけん

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論文ろんぶん
概説がいせつしょ辞典じてんるい

外部がいぶリンク

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