(Translated by https://www.hiragana.jp/)
宋銭 - Wikipedia コンテンツにスキップ

そうぜに

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
きたそうぜに
きたそうぜに左上ひだりうえ3まいみなみそうぜに(その

そうぜに(そうせん)は、中国ちゅうごくそうだい鋳造ちゅうぞうされた貨幣かへいである銅銭どうせん。また、そうだいにはてつぜに鋳造ちゅうぞうされた[1][2] が、一般いっぱんてきには、圧倒的あっとうてきおお銅銭どうせんのことをしてそうぜにんでいる。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

建国けんこく当初とうしょそうもと通宝つうほうにはじまり、歴代れきだい改元かいげんのたびに、その年号ねんごうをつけたしんぜに鋳造ちゅうぞうしたため、太平たいへい通宝つうほうじゅんもとたからいたり道元どうげんたから咸平もとたからけい徳元とくもとたからさちもとたからなどといった銅銭どうせんられ[1][3][4]とく大量たいりょう鋳造ちゅうぞうされたぜにめいとしてはすめらぎそう通宝つうほうげんゆたか通宝つうほうなどがある。みなみそうぜにけんえん通宝つうほうあつしゆうもとたからすめらぎそうもとたからなどといった銅銭どうせんられ、そうぜに全部ぜんぶすうじゅう種類しゅるいぜにめい鋳造ちゅうぞうされている。

銅山どうざん採掘さいくつ銅銭どうせん鋳造ちゅうぞう国家こっか経営けいえいにより、ぜにかんぜにいんという役所やくしょおこなわれた[よう出典しゅってん]

当初とうしょは、1個いっこが1ぶん(または1ぜに)の等価とうか価値かちった通貨つうかであり、これを小平こだいらぜにしょうぜに)としょうした。しかし、宋朝そうちょう財政ざいせい逼迫ひっぱくしてくると、とうぜに(5ぶんぜに)やとうじゅうぜに(10ぶんぜに)という貨幣かへい鋳造ちゅうぞうされるようになった。おも流通りゅうつうしたのは、小平こだいらぜにとうぜに(またはおりぜに)であった。[よう出典しゅってん]

ぜに単位たんいは、1,000ぬきまたはせんぶ。また96の1ぶんぜにぜにどおしにとおしてまとめても100ぶんとして通用つうようし、とおし100ぶんぶ(→「たん」)。さらにとおし100ぶんを10、つまり960ぶんぜにどおしにとおしてまとめても1かんとお一貫いっかん)として通用つうようした。

建国けんこく当初とうしょ鋳造ちゅうぞうだかは、年間ねんかん70,000かんほどであったが、次第しだいぞうされてき、かみはじめ治世ちせい1067ねん - 1085ねん)には、6,000,000かんたっした[よう出典しゅってん]

流通りゅうつうじょうきょう

[編集へんしゅう]

そうぜには、きむ西にしなつ日本にっぽん東南とうなんアジア諸国しょこくでも使用しようされ、とおくは、ペルシアアフリカ方面ほうめんにもおよび、ほぼあきらアジア流通りゅうつうしたため、当時とうじ経済けいざい状況じょうきょう多大ただい影響えいきょうをおよぼした。これは当時とうじ中国ちゅうごく王朝おうちょう政治せいじりょく物語ものがたる。みなみするとそう王朝おうちょうでは経費けいひかさ銅銭どうせん鋳造ちゅうぞうり、紙幣しへい発行はっこうぎんとも取引とりひき使用しようされるようになった。

近年きんねんぜにあら」が銅銭どうせん不足ふそくによるデフレをす、という解釈かいしゃく否定ひていされている。実態じったいはむしろぎゃくで、本格ほんかくてき紙幣しへい発行はっこう以前いぜんにもられる物価ぶっか上昇じょうしょう現象げんしょうから民間みんかんでは銅銭どうせん過剰かじょう供給きょうきゅうであったとかんがえられる[5]

なお、現在げんざいのこされているそうぜになかには実際じっさいにはそうだい鋳造ちゅうぞうされたものではないものも相当そうとうすうふくまれているというせつがある。あかりまつ顧炎たけし編纂へんさんした『天下あもりぐん国利こくりびょうしょ』に所収しょしゅうされたけんなかそうぜにわたしひろおこなわれていたことがしるされている。これは当時とうじ明王みょうおうあさ実際じっさい鋳造ちゅうぞうした銅銭どうせんよりも、とうそう銅銭どうせんほうふるくから存在そんざいられて信用しんようがあり、かつつみわれる可能かのうせいひくかったからとられている。また、こうしたそうぜになかには鐚銭びたせんばかりではなく良質りょうしつわたしぜにふくまれ、日本にっぽんにも流入りゅうにゅうしたものがあったとかんがえられている[6]

日本にっぽんでの流通りゅうつう

[編集へんしゅう]

日本にっぽんにおいてそうぜに流通りゅうつう本格ほんかくしたのは、12世紀せいき後半こうはんとされている。当時とうじ末法まっぽう思想しそう流行りゅうこう仏具ぶつぐ材料ざいりょうとしてどう需要じゅようたかまりそうぜに(1ぶんぜに)をどう材料ざいりょうとして輸入ゆにゅうしていた。にちそう貿易ぼうえきでは、日本にっぽんきむ硫黄いおう輸出ゆしゅつしたが、その大陸たいりくからの帰途きと貿易ぼうえきせんおも輸入ゆにゅうひんである陶磁器とうじき満載まんさいしただけではかるすぎてふね安定あんていしないため、そのバラストとしてそうぜにまれたというせつもある。とき権力けんりょくしゃ平清盛たいらのきよもりはこれにつけ、にちそう貿易ぼうえき振興しんこうしてそうから大量たいりょうそうぜに輸入ゆにゅうして国内こくない流通りゅうつうさせたいら政権せいけん政権せいけん基盤きばんのための財政ざいせいてき裏付うらづけとした。ところが、当時とうじ朝廷ちょうてい財政ざいせいきぬ基準きじゅんとして賦課ふか支出ししゅつおこな仕組しくみとなっていた。これはすめらぎあさじゅうぜに廃絶はいぜつ、それまでは価格かかく統制とうせい法令ほうれいとして機能きのうしてきた沽価ほうによる価格かかく換算かんさんもとづいて算出さんしゅつされた代用だいよう貨幣かへいであるきぬりょうもとにして、いちこく平均へいきんやく諸国しょこくしょ成功せいこうなどをし、また沽価ほうもとづいたきぬ物資ぶっし換算かんさんもとづいて支出ししゅつ見通みとおしを作成さくせいしていた(勿論もちろん実際じっさい賦課ふか収入しゅうにゅう現実げんじつ価格かかく動向どうこうなども加味かみされて決定けっていされる)。そのため、そうぜに流通りゅうつうによってきぬ貨幣かへいとしての価値かち購買こうばいりょく)が低下ていかすると、きぬの沽価を基準きじゅんとして見通みとおしを作成さくせいし、運営うんえいしていた朝廷ちょうてい財政ざいせい深刻しんこく影響えいきょうあたえる可能かのうせいがあった[7]。また、そうぜに資金しきんりょく平家ひらか台頭たいとうさせたとかんがえる「はん平家へいけ」の人々ひとびとそうぜに流通りゅうつうによって経済けいざいてき不利益ふりえきけるようになった荘園しょうえん領主りょうしゅ地方ちほう武士ぶしも、そうぜにとこれを流通りゅうつうさせようとする平家へいけつよ不満ふまんつようになった[よう出典しゅってん]

そうぜに流通りゅうつうさせようとする平家へいけと、これに反対はんたいするこう白河しらかわ法皇ほうおう確執かくしつふかまったうけたまわ3ねん1179ねん)、法皇ほうおうけたまつ殿どのもとぼう九条くじょうけんが「そうぜには(日本にっぽんの)朝廷ちょうてい発行はっこうした貨幣かへいではなく、わたしぜに贋金にせがね)とおなじである」として、そうぜに流通りゅうつうきんずるように主張しゅちょうしたもの[8] の、ぎゃく清盛きよもり高倉天皇たかくらてんのう土御門つちみかどとおるおやらがむしろ現状げんじょうれて流通りゅうつう公認こうにんすべきであるととなえて対立たいりつし、このとし平清盛たいらのきよもりこう白河しらかわ法皇ほうおう幽閉ゆうへいする。平家ひらか滅亡めつぼう文治ぶんじ3ねん1187ねん)、三河みかわもり源範頼みなもとののりより[9]意見いけんというかたち摂政せっしょうとなったきゅうじょうけん流通りゅうつう停止ていし命令めいれいされる。だが、このころには朝廷ちょうてい内部ないぶにもきぬからそうぜに財政ざいせい運営うんえいようえるべきだという意見いけんがあり、たてひさ3ねん1192ねん)にはそうぜにの沽価をさだめた「せんただしほう」が制定せいていされた[10] ものの反対はんたい意見いけん根強ねづよく、たてひさ4ねん1193ねん)には伊勢神宮いせじんぐう宇佐うさ神宮じんぐう遷宮せんぐう工事こうじさい必要ひつようとなるやくおっとこうまいなどの見通みとおしを確実かくじつなものにするためにあらためて「そうぜに停止ていしれい」がされた[11][12]

だが、鎌倉かまくら時代ときよはいってその流通りゅうつうはますます加速かそくして、市場いちばにおけるきぬ価格かかく低下ていかまらなかった。また、朝廷ちょうてい幕府ばくふ内部ないぶにおいても実際じっさい賦課ふか成功せいこう納付のうふ物資ぶっし調達ちょうたつ分野ぶんやにおいて、現実げんじつにおいてきぬよりも利便りべんせいたかそうぜにおこなわれるようになっていった。こうして、そうぜに禁止きんし最大さいだい理由りゆうであったきぬによる財政ざいせい運営うんえい構造こうぞうそのものが過去かこのものとなっていった。よしみろく2ねん1226ねん)に鎌倉かまくら幕府ばくふが、その4ねんには朝廷ちょうてい[13]旧来きゅうらい政策せいさくあらためて公式こうしきそうぜに使用しようみとめた。じん3ねん1242ねん西園寺さいおんじこうけいそう派遣はけんした貿易ぼうえきせんは10まんかんぜに貨をかえったという風説ふうせつがあったことが記録きろくのこっている[14]13世紀せいきはいると、きぬぬのっていた貨幣かへい価値かちぜに貨が駆逐くちくし、次第しだい年貢ねんぐぜに貨でおさめられるようになった[よう出典しゅってん]だいぜにおさめ)。

成願寺じょうがんじ (中野なかの)天水てんすいおけ室町むろまち時代じだい中野なかの長者ちょうじゃが、馬市うまいちぜにのうちそうぜに一種いっしゅ大観たいかん通宝つうほう」だけを寄進きしんした、というてら縁起えんぎにちなみ、境内けいだいのあちこちに大観たいかん通宝つうほうをあしらった意匠いしょうがある。

なお、室町むろまち時代じだいにおいては、永楽えいらく通宝つうほうひろもちいられた東国とうごくちがい、畿内きない西国さいごくでは永楽えいらく通宝つうほう代表だいひょうされるあかりぜにそうぜによりおおきくて使つか勝手がってくないことやあたらぎてわたしぜにとの区別くべつかないとみなされ、あきらぜにきらわれそうぜにおもんじられていたとする見方みかたがある。これは文明ぶんめい15ねん1483ねん)のあかり使北京ぺきんりに同行どうこうしたきむけい梵鐸帰国きこく報告ほうこくなかで、北京ぺきんあかり政府せいふあかりぜに日本にっぽん商品しょうひん購入こうにゅうしたところ、あきら使つかいがわきゅうぜにそうぜに)での支払しはらいもとめてトラブルになったとしていること[15] や、室町むろまち幕府ばくふによる最初さいしょせんぜにれいわれているあかりおう9ねん1500ねん)10がつ追加ついかほう[16]根本ねもとわたるからぜに古銭こせん同様どうよう通用つうようさせることをめいじた規定きていがある。ここに登場とうじょうする根本ねもとわたるからぜにには「永楽えいらくひろしたけせんとく」と割注わりちゅうけられていることから正規せいきあかりぜにのことであるとかんがえられ、これにたいして古銭こせんそうぜにのことであるとかんがえられることから、当時とうじ京都きょうとおよびその周辺しゅうへんではそうぜにおもんじられ、あきらぜにせんぜに対象たいしょうになっていた可能かのうせいすらあったとかんがえられている[17]

日本にっぽん流通りゅうつうしたそうぜには、みなみそうぜによりもきたそうぜにほう圧倒的あっとうてきおおい。また日本にっぽんでは基本きほんてき小平こだいらぜに使つかわれ、おりぜになどの高額こうがくぜに日本にっぽん使つかわれたことはなかった。

そうぜにぜにめい一覧いちらん

[編集へんしゅう]
発行はっこう王朝おうちょう ぜにめい 発行はっこうねん 備考びこう
きたそう そうもと通宝つうほう 960ねん そうとおるもとたからせつもある
太平たいへい通宝つうほう 976ねん
じゅんもとたから 990ねん 真書しんしょ行書ぎょうしょ草書そうしょあり
いたり道元どうげんたから 995ねん 真書しんしょ行書ぎょうしょ草書そうしょあり
咸平もとたから 998ねん
けい徳元とくもとたから 1004ねん
さちもとたから 1008ねん
さち通宝つうほう 1009ねん
てん通宝つうほう 1017ねん
てんきよしもとたから 1023ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
明道みょうどうもとたから 1032ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
けいゆうもとたから 1034ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
すめらぎそう通宝つうほう 1039ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
いたりもとたから 1054ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
いたり通宝つうほう 1054ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
よしみゆうもとたから 1056ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
よしみゆう通宝つうほう 1056ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
治平じへいもとたから 1064ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
治平じへい通宝つうほう 1064ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
熙寧もとたから 1068ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
げんゆたか通宝つうほう 1078ねん 行書ぎょうしょ篆書てんしょあり
げんゆう通宝つうほう 1086ねん 行書ぎょうしょ篆書てんしょあり
紹聖もとたから 1094ねん 行書ぎょうしょ篆書てんしょあり
紹聖通宝つうほう 1094ねん
もと通宝つうほう 1098ねん 行書ぎょうしょ篆書てんしょあり
せいそうもとたから 1101ねん 行書ぎょうしょ篆書てんしょあり
たかしやすし通宝つうほう 1102ねん
大観たいかん通宝つうほう 1107ねん
政和せいわ通宝つうほう 1111ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
重和しげかず通宝つうほう 1118ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
せんもとたから 1119ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
せん通宝つうほう 1119ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
みなみそう けんえん通宝つうほう 1127ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
紹興しょうこうもとたから 1131ねん 真書しんしょ篆書てんしょあり
紹興しょうこう通宝つうほう 1131ねん
じゅん熙元たから 1174ねん
紹熙もとたから 1190ねん
けいもと通宝つうほう 1195ねん
よしみたい通宝つうほう 1201ねん
ひらき通宝つうほう 1201ねん
よしみてい通宝つうほう 1208ねん
だいそうもとたから 1225ねん
紹定通宝つうほう 1228ねん
はしひらたもとたから 1234ねん
よしみ通宝つうほう 1237ねん
あつしゆうもとたから 1241ねん
すめらぎそうもとたから 1253ねん
ひらけけい通宝つうほう 1259ねん
けい定元さだもとたから 1260ねん
咸淳もとたから 1266ねん

以上いじょうは『日本にっぽん貨幣かへいカタログ』に掲載けいさいされているものであるが、実際じっさいにはこのほか現存げんそんすうすくないぜにめいやマイナーなぜにめいなども存在そんざいする。

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b 「コトバンク ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてん
  2. ^ 辺境へんきょうである四川しせん陝西せんせいにおいて、りょう西にしなつへのどう流出りゅうしゅつ防止ぼうしするために、銅銭どうせん所有しょゆう使用しよう一切いっさいきんじられ、わりにてつぜに強制きょうせいてき流通りゅうつうさせられたためである[よう出典しゅってん]
  3. ^ 「コトバンク デジタル大辞泉だいじせん
  4. ^ 「コトバンク 日本にっぽんだい百科全書ひゃっかぜんしょ(ニッポニカ)」
  5. ^ 井上いのうえ正夫まさお国際こくさい通貨つうかとしてのそうぜに」(伊原いはらひろし へんそうぜに世界せかいつとむまこと出版しゅっぱん、2009ねん所収しょしゅう[ようページ番号ばんごう]
  6. ^ 黒田くろだ明伸あきのぶひがしアジア貨幣かへいなか中世ちゅうせい後期こうき日本にっぽん」(鈴木すずき公雄きみお へん貨幣かへい地域ちいき岩波書店いわなみしょてん、2007ねん所収しょしゅう[ようページ番号ばんごう]
  7. ^ 伊藤いとう啓介けいすけ鎌倉かまくら時代じだい初期しょきにおける朝廷ちょうてい貨幣かへい政策せいさく」(所収しょしゅう:上横うえよこしゅまさたかし へん鎌倉かまくら時代じだい権力けんりょく制度せいど』(思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、2008ねんISBN 978-4-7842-1432-7[ようページ番号ばんごう]
  8. ^ 九条くじょうけんたまうけたまわ3ねん7がつ27にちじょう。なお、このさい九条くじょうけんじつあかりほう博士はかせ中原なかはらはじめひろより唐土とうどぜにそうぜに)はわたしぜにではないが、日本にっぽん法令ほうれいもとづいてされているわけではないのでそれを流通りゅうつうさせることは、わたしぜにおなじである、としてそうぜに使用しようわたしぜに使用しようおなじくはちしいたげ相当そうとうするとの説明せつめいけている。
  9. ^ みなもと頼朝よりともおとうとであり、実態じったい頼朝よりとも提案ていあんひとしい
  10. ^ 法曹ほうそう至要しようしょう』91じょう「一銭貨出挙以米弁時一倍利事」所収しょしゅうたてひさ3ねん8がつ6にちづけ宣旨せんじ
  11. ^ 鎌倉かまくら遺文いぶん』676ごう
  12. ^ もっとも、一連いちれんそうぜに禁止きんしれい天皇てんのうあるいはてんきみとしてかかわってきた後鳥羽ごとば天皇てんのう上皇じょうこう自身じしんそうぜにけて連歌れんが勝負しょうぶをしていたことがあきらかになっている(『日記にっきおうひさし31ねん2がつ29にちじょうしょ引『後鳥羽ごとばいん宸記』たて3ねん5がつ15にち・19にち、11月11にちかくじょう参照さんしょう:井原いはら今朝男けさお中世ちゅうせい国家こっか天皇てんのう儀礼ぎれい校倉あぜくら書房しょぼう、2012ねん、p316-317・345.)。
  13. ^ 百錬ひゃくれんしょうひろし2ねん6がつ24にちじょう
  14. ^ しょうでんあつしそうぜに」(『国史こくしだい辞典じてん 8』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1987ねんISBN 978-4-642-00508-1[ようページ番号ばんごう]
  15. ^ 鹿しかえん日記にっきあきらおう8ねん8がつ6にちじょう
  16. ^ 室町むろまち幕府ばくふ追加ついかほう』320ごう
  17. ^ 橋本はしもとつよし中世ちゅうせい日本にっぽん銅銭どうせん -永楽えいらくぜにから『そうぜに世界せかい』をかんがえる-」(伊原いはらひろし へんそうぜに世界せかいつとむまこと出版しゅっぱん、2009ねん所収しょしゅう[ようページ番号ばんごう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]