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いちしょう遺跡いせき

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いちしょう遺跡いせき
神奈川かながわけん
別名べつめい いちしょう桝のるい
城郭じょうかく構造こうぞう 山城やましろ
天守てんしゅ構造こうぞう なし
築城ちくじょうぬし 不明ふめい
築城ちくじょうねん 鎌倉かまくら時代ときよから南北なんぼくあさ時代じだい13世紀せいき後半こうはん-14世紀せいき前半ぜんはん)?[1]、または室町むろまち時代ときよ15世紀せいき中頃なかごろ?[2]
おも城主じょうしゅ 不明ふめい
はいじょうねん 不明ふめい
遺構いこう 曲輪くるわるい堀切ほりきり
指定してい文化財ぶんかざい くに指定してい史跡しせきいちしょう遺跡いせき[1][3]
埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい
包蔵ほうぞう番号ばんごう
鎌倉かまくらNo.293[4][5]
位置いち 北緯ほくい3518ふん53.0びょう 東経とうけい13931ふん39.0びょう / 北緯ほくい35.314722 東経とうけい139.527500 / 35.314722; 139.527500 (いちしょう遺跡いせき)座標ざひょう: 北緯ほくい3518ふん53.0びょう 東経とうけい13931ふん39.0びょう / 北緯ほくい35.314722 東経とうけい139.527500 / 35.314722; 139.527500 (いちしょう遺跡いせき)
地図ちず
一升桝遺跡の位置(神奈川県内)
一升桝遺跡
いちしょう遺跡いせき
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いちしょう遺跡いせき(いっしょうますいせき)、またはいちしょう桝のるい(いっしょうますのるい)[2]は、神奈川かながわけん鎌倉かまくら極楽寺ごくらくじ丁目ちょうめよん丁目ちょうめにあった日本にっぽんしろ。2007ねん平成へいせい19ねん)2がつ6にちくに史跡しせき指定していされた[1]

概要がいよう[編集へんしゅう]

鎌倉かまくら西部せいぶの、極楽寺ごくらくじ地区ちく大仏だいぶつ切通きりとおしむす標高ひょうこう90メートルきゅう丘陵きゅうりょう尾根おねすじ所在しょざいする。江ノ島えのしま電鉄でんてつ極楽寺ごくらくじえき北方ほっぽう山上さんじょう位置いちするが、遺跡いせき周囲しゅういきゅう傾斜地けいしゃちかこまれており、現地げんちへはさいよせ極楽寺ごくらくじえきからでは到達とうたつ出来できず、長谷ながたにえきから徒歩とほ40ふんかけてかう必要ひつようがある[2]

いちしょう遺跡いせきは、方形ほうけいるいかこまれたたんくるわ城郭じょうかくられる遺構いこうである。標高ひょうこうは94メートルをはか[2]るいは、たかやく1.5メートル-2.8メートル・はばやく5メートル-8メートルをはかり、このるいかこまれた曲輪くるわじょう平坦へいたんめんひがし32.5メートル・西にし35メートル・みなみ27.5メートル・北辺ほくへん18メートルの台形だいけいていしている。るい南西なんせいすみだけがはばやく3.5メートル途切とぎれており、出入でいぐち推定すいていされている。ひがし西にしにはおびきょく輪状りんじょう平場ひらばがあり、尾根おねどう推定すいていされている。北側きたがわにはいただき桝形ますがた平場ひらばとを区切くぎはばやく6メートルの堀切ほりきりもうけられている[1]

神奈川かながわけん教育きょういく委員いいんかい鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかいが、2000ねん平成へいせい12ねん)に山稜さんりょう遺構いこう分布ぶんぷ調査ちょうさおよび発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっししており、いちしょう遺跡いせき周辺しゅうへんでは12箇所かしょトレンチ調査ちょうさおこなわれた。北側きたがわそぎるい南側みなみがわどろがんかたまり積上つみあるいで、最低さいてい2かい追加ついか積上つみあげがおこなわれていた。るい内側うちがわでは明確めいかく遺構いこう検出けんしゅつされなかったが、13世紀せいき後半こうはん古瀬戸こせとおろしさらかわらけ常滑とこなめしょうとう破片はへん出土しゅつどした。北側きたがわ堀切ほっきりでは13世紀せいき後半こうはんのかわらけや、常滑とこなめしょうつぼ破片はへん、14世紀せいきだい中国ちゅうごくさんあお白磁はくじうめびん破片はへんとう出土しゅつどした。これにより交通こうつう監視かんし防衛ぼうえいする13世紀せいき後半こうはんから14世紀せいき前半ぜんはんごろ城郭じょうかく遺構いこう推定すいていされた[1]

なお、いちしょう遺跡いせき南東なんとうがわやく700メートルの成就じょうじゅいん裏山うらやまには、くに史跡しせき仏法ぶっぽう寺跡てらあと[6]一体いったいであるごう遺跡いせき(ごんごうますいせき)が所在しょざいする(「いちしょう桝」「ごう桝」は地元じもと呼称こしょうである)[7][1]ごう遺跡いせきは、いちしょう遺跡いせきおなじく13世紀せいき中頃なかごろから14世紀せいき前半ぜんはんにかけて防衛ぼうえい施設しせつとして機能きのうしたが、14世紀せいき末期まっきごろから石塔せきとうるいまつ供養くよう転用てんようされた遺構いこう推定すいていされた[1]

このように鎌倉かまくら文化庁ぶんかちょうは、いちしょう遺跡いせき鎌倉かまくら時代ときよ後半こうはんから南北なんぼくあさ時代じだい前半ぜんはんごろの城郭じょうかく位置付いちづけているが、西にしまた総生ふそうは、曲輪くるわるい外側そとがわ空堀からぼりともなっていないことや、るい外側そとがわほうめん角度かくど内側うちがわほうめん角度かくどよりゆるいなど、城郭じょうかくとしては不自然ふしぜんてんおおく、もともとは寺院じいんひとしであったものを臨時りんじてき城郭じょうかくしたものではないかとしている。また、築城ちくじょう年代ねんだいについては、15世紀せいきだいにあたるえいとおる10ねん(1438ねん)のえいとおるらんのころ、あるいはとおるとく3ねん(1455ねん)から文明ぶんめい14ねん(1483ねん)にかけてきたとおるとくらん初期しょきのころとるのが妥当だとうではないかとしている[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース「いちしょう遺跡いせき”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん5がつ6にち閲覧えつらん
  2. ^ a b c d e 西にしまたほか 2015 pp.89-91
  3. ^ 鎌倉かまくら指定してい文化財ぶんかざい一覧いちらんひょう鎌倉かまくら公式こうしきHP
  4. ^ 鎌倉かまくら周知しゅうち埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい包蔵ほうぞう一覧いちらん鎌倉かまくら公式こうしきHP
  5. ^ 鎌倉かまくら遺跡いせき地図ちずについて」鎌倉かまくら公式こうしきHP
  6. ^ くに指定してい文化財ぶんかざいとうデータベース「仏法ぶっぽう寺跡てらあと”. 文化庁ぶんかちょう. 2022ねん5がつ6にち閲覧えつらん
  7. ^ 鎌倉かまくら教育きょういく委員いいんかい 2003

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]