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歴史れきし考古学こうこがく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

歴史れきし考古学こうこがく(れきしこうこがく)とは、有史ゆうし考古学こうこがく(ゆうしこうこがく)ともばれ、どう時代じだい文献ぶんけん記録きろくがそれ以前いぜん時代じだいよりもおおいとされているいわゆる「歴史れきし時代じだい」の遺跡いせき遺物いぶつ研究けんきゅう対象たいしょうとする考古学こうこがくのことである。ヨーロッパにおいては、ギリシア、ローマ時代じだい総合そうごうてきあつか古典こてん考古学こうこがく(classic archaeology)、あるいはグレコ・ローマン考古学こうこがく(Greco-Roman archaeorogy)が歴史れきし考古学こうこがく中核ちゅうかくをなし、日本にっぽんでは、7世紀せいき飛鳥あすか時代ときよ以後いご対象たいしょうとしている。

概要がいよう

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歴史れきし時代じだいにはおおくの文献ぶんけん史料しりょうのこされており、歴史れきしがく研究けんきゅうはこうした文献ぶんけん史料しりょうもとにしておこなわれ、遺跡いせき遺物いぶつ対象たいしょうとした歴史れきし考古学こうこがく補助ほじょてき地位ちいまるとかんがえられてきた。だが、文献ぶんけん史料しりょうには支配しはい階層かいそう知識ちしき階層かいそうぞくする場合ばあいおお執筆しっぴつしゃ編纂へんさんしゃによる主観しゅかんふくまれている場合ばあいおおく、また日常にちじょう生活せいかつかかわる記述きじゅつとく庶民しょみん生活せいかつ関連かんれんするものは当事とうじしゃたちにとっては価値かちとぼしいありきたりのことであるためしるされていない場合ばあいおおい。こうした問題もんだいてん解決かいけつするためにも官衙かんが都市とししろかん寺社じしゃ水田すいでん墳墓ふんぼなどの遺跡いせき遺構いこう調査ちょうさによって歴史れきしてき事実じじつ裏付うらづけをおこなったり、住居じゅうきょ工房こうぼうおよびそこからの出土しゅつどひんから日常にちじょう生活せいかつさま追求ついきゅうしたりすることも必要ひつようとされる。文献ぶんけん史料しりょう研究けんきゅう歴史れきし考古学こうこがく研究けんきゅう相乗そうじょう効果こうかによって、歴史れきしがく進展しんてん期待きたいされる。

歴史れきし考古学こうこがく」の呼称こしょう今日きょうにおいてひろもちいられている一方いっぽうで、角田つのだ文衛ふみえ[注釈ちゅうしゃく 1]現存げんそん史料しりょう多少たしょう人類じんるいそのもののながれや遺跡いせき遺物いぶつ研究けんきゅうという考古学こうこがく趣旨しゅしとはまった無関係むかんけいであるとしてこれを批判ひはんしている[1]。 また、西洋せいようにおける考古学こうこがく(archaeology)は、古代こだいギリシャ古代こだいローマなどの歴史れきし時代じだい遺跡いせき遺物いぶつ研究けんきゅう本来ほんらい主流しゅりゅうであり、先史せんし時代じだい先史せんし考古学こうこがく考古学こうこがくという日本にっぽんにおけるイメージを「本末転倒ほんまつてんとう」とする批判ひはんもあるが、アメリカ大陸あめりかたいりくではコロンブス以後いご歴史れきし考古学こうこがく(historical archaeology)とんで、それ以前いぜん考古学こうこがく区別くべつしているれいもあり、西洋せいよう世界せかいにおいてもかならずしも考古学こうこがく定義ていぎ範疇はんちゅう一致いっちしているわけではない[2]

日本にっぽん考古学こうこがく概念がいねんはいってきたのは明治めいじ時代じだいのことであるが、江戸えど時代じだい段階だんかい有職故実ゆうそくこじつ研究けんきゅうであったふじさだみき狩谷かりや棭斎のように地中ちちゅうから発見はっけんされる古銭こせん金石かねいしあや研究けんきゅう価値かち見出みいだして著作ちょさくあらわすなど、近代きんだい以後いご歴史れきし考古学こうこがく発展はってん土壌どじょうもとめることができる。明治めいじ4ねん1871ねん)には「いにしえ旧物きゅうぶつ保存ほぞんセシム」太政官だじょうかん布告ふこく明治めいじ4ねん太政官だじょうかん布告ふこくだい251ごう)がされている。どうほう文化財ぶんかざい保護ほご本来ほんらい趣旨しゅしとしているが、その範疇はんちゅうには今日きょうでは考古学こうこがく分野ぶんやぞくするものひろふくまれていた。明治めいじ28ねん1895ねん)に設立せつりつされた考古こうこ学会がっかいも、当時とうじ石器せっき時代じだい考古学こうこがくちかられていた人類じんるい学会がっかい対抗たいこうする意味いみふくめて歴史れきし考古学こうこがく対象たいしょう範疇はんちゅうとした。戦前せんぜん後藤ごとう守一しゅいち日本にっぽん最初さいしょ歴史れきし考古学こうこがく概説がいせつしょである『日本にっぽん歴史れきし考古学こうこがく』(1937ねん)を刊行かんこうしたが、考証こうしょうがく有職故実ゆうそくこじつ以来いらいつてひん工芸こうげい建築けんちくなどの研究けんきゅうおもきをかれ、先史せんし考古学こうこがくにおいて重要じゅうようされていた発掘はっくつ調査ちょうさそうがく型式けいしきがくなど考古学こうこがくてきなアプローチにたいする関心かんしんひくいものであった。ところが、1939ねん石田いしだ茂作しげさくによる法隆寺ほうりゅうじ周辺しゅうへん発掘はっくつ調査ちょうさによって若草わかくさ伽藍がらん遺構いこう発見はっけんされたことから、法隆寺ほうりゅうじ再建さいけん再建さいけん論争ろんそうおおきな影響えいきょうあたえたこと、つづいて戦後せんご藤原ふじわらみや発掘はっくつによって出土しゅつどした木簡もっかんから、ながあいだの「ぐん評論ひょうろんそう」が終結しゅうけつしたことなどが、文献ぶんけん史学しがく工芸こうげい建築けんちくのみでは歴史れきしがく解明かいめいには不十分ふじゅうぶん発掘はっくつ調査ちょうさなどの考古学こうこがく手法しゅほう重要じゅうようせいしめされるにいたり、後藤ごとうも『日本にっぽん考古学こうこがく講座こうざ』(1956ねん)において従来じゅうらい見解けんかい訂正ていせいしめした。そのも、飛鳥寺あすかでら川原かわはらてらあと発掘はっくつなどによって、従来じゅうらい文献ぶんけんではりえなかったしん事実じじつあきらかにされ、歴史れきし考古学こうこがく有効ゆうこうせい証明しょうめいされるにいたった。

歴史れきし考古学こうこがくしょ分野ぶんや

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現代げんだいにおいては歴史れきし考古学こうこがく細分さいぶんすすみ、時代じだいによって古代こだい考古学こうこがく中世ちゅうせい考古学こうこがく近世きんせい考古学こうこがくなどの区別くべつしょうじたり、テーマによって産業さんぎょう考古学こうこがく宗教しゅうきょう関係かんけい考古学こうこがく神道しんとう考古学こうこがく仏教ぶっきょう考古学こうこがくキリスト教きりすときょう考古学こうこがくイスラーム考古学こうこがく)が登場とうじょうしたりしている。また、科学かがく技術ぎじゅつ進歩しんぽによって、従来じゅうらい解読かいどく不能ふのうとされたうるし文書ぶんしょ解析かいせき技術ぎじゅつ登場とうじょうするなど、あらたな展開てんかい期待きたいされている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 角田つのだは『平安へいあん時代じだい事典じてん』の編纂へんさんしゃとして著名ちょめいであるが、考古こうこ学者がくしゃとしても業績ぎょうせきのこしている。

出典しゅってん

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  1. ^ 角田つのだ古代こだいがく序説じょせつ』1954ねん増補ぞうほ1991ねん)、山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ
  2. ^ 上原うえはら日本にっぽん考古学こうこがく事典じてん』「歴史れきし考古学こうこがく

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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