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オーギュスト・ペレ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ペレの肖像しょうぞう(1932ねん

オーギュスト・ペレAuguste Perret1874ねん2がつ12にち - 1954ねん2がつ25にち)は、フランス建築けんちく鉄筋てっきんコンクリートみやつこというあたらしい技術ぎじゅつにより芸術げいじゅつてき表現ひょうげん追求ついきゅうし、「コンクリートのちち」とばれる。

経歴けいれき

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オーギュスト・ペレは1874ねんにベルギー、イクセル富裕ふゆう建設けんせつ業者ぎょうしゃいえまれた。おとうとにギュスターヴ (Gustave Perret)、クロード・ペレ (Claude Perret) がいるが、ギュスターヴが建築けんちくになり、オーギュストとおな事務所じむしょぞくした。

パリのエコール・デ・ボザール入学にゅうがくして7つものしょう獲得かくとくするも、中退ちゅうたいする。在学ざいがくちゅうの1890ねんには最初さいしょ建築けんちく設計せっけいがけた。兄弟きょうだいおなじく建築けんちくであるギュスターヴ、クロードとともに、ちち建設けんせつ会社かいしゃ相続そうぞくした。当時とうじ建材けんざいとしてまだあたらしかった鉄筋てっきんコンクリートに注目ちゅうもくし、1903ねん、ギュスターヴととも最初さいしょ計画けいかくから複数ふくすうかい建築けんちくぶつであるパリ16「フランクリンがいのアパートメント」の実現じつげん成功せいこうした。2人ふたり早速さっそく鉄筋てっきんコンクリート設計せっけいせんもん看板かんばんかかげた。

ペレは、古典こてんてきなシンメトリーやオーダーと鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞう融合ゆうごうげた。代表だいひょうさくのひとつであるノートルダム・デュ・ランシー(ランシーの教会堂きょうかいどう英語えいごばんでは、ゴシックの空間くうかんと、近代きんだい合理ごうり主義しゅぎてき直線ちょくせんわされている。ペレは、安価あんかで、造形ぞうけいせいむコンクリートを石材せきざいよりもすぐれた材料ざいりょうであるとていたが、その視点してんおもにディテールとテクスチャーにかっていたとわれている。かれ作品さくひんにはコンクリートをしの状態じょうたい仕上しあげとする「はな」が多用たようされ、またプレキャストコンクリートにもおおくの実験じっけんてき作品さくひんがあり、その影響えいきょうはかれない。とりわけル・コルビュジエヴァルター・グロピウスひとし建築けんちくにおおきな影響えいきょうあたえた。ペレの事務所じむしょには、わかのル・コルビュジエやベドジフ・フォイエルシュタインのち来日らいにちし、アントニン・レーモンド共同きょうどう聖路加国際病院せいるかこくさいびょういんなどを設計せっけい)らが在籍ざいせきしていた。

ペレはまた鉄筋てっきんコンクリート構造こうぞうギリシア建築けんちく日本にっぽん建築けんちくから影響えいきょうされたフレーム構造こうぞう (fr:Charpente) の関連かんれん融合ゆうごうにも着目ちゃくもくし、古典こてんてきでありながら近代きんだいてきでナショナルな造形ぞうけいにも腐心ふしんしたとされる。

パリにあるペレの胸像きょうぞう

だい世界せかい大戦たいせんノルマンディー上陸じょうりく作戦さくせん破壊はかいされ、8まんにん市民しみん住居じゅうきょうしなったフランス北西ほくせい都市としル・アーヴル再建さいけん中心ちゅうしんてき役割やくわりになった。現在げんざい、ル・アーヴル市街しがいプレファブリケーション(プレハブ工法こうほう)の効果こうかてき利用りようモデュール寸法すんぽう基準きじゅん)の機能きのうてき活用かつよう、コンクリート構造こうぞう革新かくしんてき使用しよう評価ひょうかされ、世界せかい遺産いさん登録とうろくされており、建築けんちく単体たんたいのみならず都市とし計画けいかくにおいてもたか評価ひょうかている。

1954ねん居住きょじゅうしていたパリ16死去しきょどう建物たてもの国際こくさい建築けんちく連合れんごう事務じむきょくもちいられている。

おも作品さくひん

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アール・ヌーヴォー調しらべ鉄筋てっきんコンクリートづくりによる最初さいしょモダニズム建築けんちくフランス語ふらんすごでは「フランクン」。

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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