出典 しゅってん : フリー百科 ひゃっか 事典 じてん 『ウィキペディア(Wikipedia)』
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1904年 ねん )
アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ (Henry van de Velde , 1863年 ねん 4月 がつ 3日 にち - 1957年 ねん 10月25日 にち [1] )は、19世紀 せいき 末 まつ から20世紀 せいき 始 はじ めに活躍 かつやく したベルギー の建築 けんちく 家 か 。アール・ヌーヴォー からモダンデザインへの展開 てんかい を促 うなが した人物 じんぶつ 。ヴァン・ド・ヴェルドやファン・デ・フェルデとも表記 ひょうき される。
ベルギー のアントウェルペン 生 うま れ。父 ちち はパリ・コミューン に参加 さんか した革命 かくめい 家 か であり、死刑 しけい 判決 はんけつ を受 う け、ベルギーに亡命 ぼうめい していた。ヴァン・デ・ヴェルデは画家 がか を目指 めざ してパリに渡 わた り、印象派 いんしょうは の絵画 かいが から影響 えいきょう を受 う けた。ベルギーに帰国 きこく し、1887年 ねん に友人 ゆうじん らとアール・アンデパンダン(独立 どくりつ 芸術 げいじゅつ )というサークルを結成 けっせい した(1884年 ねん にパリで独立 どくりつ 芸術 げいじゅつ 家 か 協会 きょうかい が創立 そうりつ されていた)。
1894年 ねん 頃 ごろ から住宅 じゅうたく 設計 せっけい を始 はじ め、1895年 ねん にパリでサミュエル・ビング のギャラリー Maison de l'Art Nouveau のインテリアを担当 たんとう した。その後 ご ベルリン に渡 わた り、さらにザクセン大公 たいこう ヴィルヘルム・エルンスト に招 まね かれ、1902年 ねん ヴァイマル に工芸 こうげい ゼミナールを設立 せつりつ 、1906年 ねん 、工芸 こうげい 学校 がっこう に発展 はってん し、校舎 こうしゃ (1911年 ねん )の設計 せっけい も行 おこな った。また、ドイツ工作 こうさく 連盟 れんめい に参加 さんか し、中心 ちゅうしん メンバーとして活躍 かつやく したが、第 だい 1回 かい ドイツ工作 こうさく 連盟 れんめい ケルン展 てん (1914年 ねん )をきっかけに製品 せいひん の規格 きかく 化 か を推進 すいしん するヘルマン・ムテジウス に反発 はんぱつ し、作家 さっか の芸術 げいじゅつ 性 せい ・個性 こせい を主張 しゅちょう して論争 ろんそう を行 おこな った(規格 きかく 化 か 論争 ろんそう )。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん のため、工芸 こうげい 学校 がっこう の後継 こうけい 者 しゃ をヴァルター・グロピウス (1883年 ねん - 1969年 ねん )に託 たく し、ドイツを去 さ った(1915年 ねん )。工芸 こうげい 学校 がっこう は後 ご のバウハウス の元 もと になった。
スイス ではロマン・ロラン と交友 こうゆう したり、ミューラー家 か の依頼 いらい で美術館 びじゅつかん を設計 せっけい した(現在 げんざい 、ゴッホ のコレクションで有名 ゆうめい なクレラー・ミュラー美術館 びじゅつかん )[2] 。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た