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奴隷どれい王朝おうちょう

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奴隷どれい王朝おうちょう
インド・マムルークあさ
سلطنت مملوک
ゴール朝 1206ねん - 1290ねん ハルジー朝
デリー・スルターン第1王朝の位置
公用こうよう ペルシア
宗教しゅうきょう イスラム教いすらむきょうスンナ
首都しゅと ラホール
デリー
スルターン
1206ねん - 1210ねん アイバク
1211ねん - 1236ねんイルトゥトゥミシュ
1236ねん - 1240ねんラズィーヤ
1266ねん - 1287ねんバルバン
1287ねん - 1290ねんカイクバード
面積めんせき
1228ねんやく1,600,000km²
変遷へんせん
成立せいりつ 1206ねん6月27にち
イルトゥトゥミシュ即位そくい1211ねん
バルバン即位そくい1266ねん
滅亡めつぼう1290ねん10月14にち
通貨つうか銀貨ぎんか銅貨どうか
現在げんざいインドの旗 インド
パキスタンの旗 パキスタン
バングラデシュの旗 バングラデシュ

奴隷どれい王朝おうちょう(どれいおうちょう、英語えいご: Slave Dynasty)またはマムルーク・スルターンあさ[1]ペルシア: سلطنت مملوک転写てんしゃSulṭanat Mamluk英語えいご: Mamluk Sultanate)は、きたインド支配しはいしたデリー・スルターンあさ最初さいしょテュルクけいイスラム王朝おうちょう1206ねん - 1290ねん)。首都しゅとデリー

1220ねん完成かんせいのクトゥブ・ミナール

概要がいよう[編集へんしゅう]

クトゥブッディーン・アイバクシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュギヤースッディーン・バルバンという3にん君主くんしゅスルターン)の子孫しそんたちが相次あいついで支配しはいした。いずれもマムルーク出身しゅっしんであり、これを英語えいごでは Slave Dynasty とやくし、さらに日本語にほんごにおいて奴隷どれい王朝おうちょうやくした。

ただし、マムルークを奴隷どれいとするのは適切てきせつわけではない。マムルークは奴隷どれいではなく解放かいほう奴隷どれいである。イスラーム世界せかいでは奴隷どれい解放かいほうすること善行ぜんこうとされてさかんにおこなわれ、解放かいほうされた奴隷どれいもと主人しゅじん忠実ちゅうじつ家来けらいとなったため、逆説ぎゃくせつてき忠実ちゅうじつ家来けらいるために奴隷どれいもとめることおこなわれた。マムルークもそのひとつであり、騎馬きば民族みんぞくがむしろ栄達えいたつのために子弟してい奴隷どれい商人しょうにんわたした経歴けいれきつ。そのため一般いっぱんてき奴隷どれいとはまったことなる存在そんざいである。

奴隷どれい王朝おうちょうというかたりでは誤解ごかいまねくおそれもあるので、おなじくマムルーク出身しゅっしんしゃエジプトシリアてた王朝おうちょうマムルークあさばれているのにならって「インドのマムルークあさ (Mamluk Dynasty of India)」というかたおこなわれている。

歴史れきし[編集へんしゅう]

アイバク[編集へんしゅう]

奴隷どれい王朝おうちょう初代しょだいクトゥブッディーン・アイバクは、ゴールあさシハーブッディーン・ムハンマド(ムハンマド・ゴーリー)につかえてきたインド征服せいふく事業じぎょうゆだねられたマムルークの将軍しょうぐんであった[2]1206ねんのムハンマドの死後しご、ゴールあさ後継こうけいしゃあらそいから解体かいたいかったときに任地にんちデリー自立じりつしたアイバクによってゴールあさきたインドりょう支配しはいする政権せいけんとしててられたのが奴隷どれい王朝おうちょうである[2]

アイバクは一代いちだいでデリーを中心ちゅうしんきたインドに版図はんとひろげ、首都しゅとデリーの建設けんせつすすめたが、1210ねんポロ競技きょうぎのさなかに死去しきょした[3][4]

イルトゥトゥミシュ[編集へんしゅう]

アイバクの死後しご、そのアーラーム・シャー即位そくいしたが、ちちのマムルークたちを統御とうぎょするちからがなかったために、マムルークのさい有力ゆうりょくしゃでアイバクのむすめ婿むこであったシャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ即位そくいする[4][5][3]

イルトゥトゥミシュは自身じしん同輩どうはいであるアイバクのマムルーク将軍しょうぐんたちを一掃いっそうしてベンガルビハールパンジャーブまで領有りょうゆうして奴隷どれい王朝おうちょうきたインド支配しはい確立かくりつした[5]

またイルトゥトゥミシュは軍事ぐんじ内政ないせい機構きこう整備せいびやスルターン権力けんりょく強化きょうかすすめ、奴隷どれい王朝おうちょう安定あんてい政権せいけん発展はってんさせることに成功せいこうする[5]。イルトゥトゥミシュはもとマムルークではあっても、もともと中央ちゅうおうユーラシアのテュルクけい遊牧民ゆうぼくみんであるキプチャク有力ゆうりょく部族ぶぞくイルバリーの遊牧ゆうぼく貴族きぞくであったので、イルトゥトゥミシュの時代じだいに「よんじゅうにん(チャハルガーニー)」とばれるイルバリーけいのテュルクけい貴族きぞく集団しゅうだん形成けいせいされて、支配しはいそうとなっていった[6]

イルトゥトゥミシュはこうして絶大ぜつだい君主くんしゅけん背景はいけいにスルターン世襲せしゅうせい実現じつげんしたが、みずからの後継こうけいしゃ人材じんざいないことになやみ、むすめラズィーヤ王位おういけることをめた[7]

はじめ貴族きぞくウラマーたちは女王じょおうならば傀儡かいらいにできるとかんがえて、イスラーム世界せかいでは異例いれい女王じょおう誕生たんじょう容認ようにんしたが、ラズィーヤはきわめてすぐれた政治せいじみずか権力けんりょくにぎ意欲いよくせたために、イルトゥトゥミシュの死後しご、スルターンと貴族きぞくたちとのあらそいがふかまった[8][9]

バルバン[編集へんしゅう]

1240ねんにラズィーヤが最終さいしゅうてきくらいわれたあと、実権じっけんのないイルトゥトゥミシュの息子むすこたちが次々つぎつぎかつされるが、1266ねんにイルトゥトゥミシュのマムルーク出身しゅっしん有力ゆうりょく貴族きぞくギヤースッディーン・バルバンみずからスルターンき、イルトゥトゥミシュから王位おういうばった[10]

即位そくいもバルバンは貴族きぞく第一人者だいいちにんしゃとしてふるまいつつ、軍制ぐんせい改革かいかくして当時とうじアフガニスタンに駐屯ちゅうとんして頻繁ひんぱんにインドに侵入しんにゅうしてきていたモンゴルぐんモンゴルのインド侵攻しんこう)をふせ一方いっぽう、スパイもう整備せいびしたり、スルターンの神聖しんせいつとめるなど、君主くんしゅけんさらなる強化きょうかすすめた[11]

しかし、1287ねんにバルバンがぬと、貴族きぞくたちの推挙すいきょによって、まだ20さい前後ぜんこうまごムイズッディーン・カイクバードがデリーで即位そくいした[12][13]としわかいスルターンは貴族きぞくたちをおさえるちからがなく、ふたたくん主権しゅけんよわまったので、党争とうそう内乱ないらん激化げきかして奴隷どれい王朝おうちょう屋台骨やたいぼねるがした[14]

また、テュルクけい貴族きぞくばかりが政権せいけん中枢ちゅうすうになうことにたいし、テュルクけいや、テュルクけいながら系統けいとう民族みんぞく混血こんけつとしてあつかわれていたハルジーぞく人々ひとびと不満ふまんたかまっていた[15][14]中央ちゅうおうでの出世しゅっせあきらめたハルジーやテュルクけい人々ひとびとはベンガル・ビハール・パンジャーブなどの辺境へんきょう兵士へいしとして活躍かつやくしつつ、次第しだい軍隊ぐんたい浸透しんとうしていた[16]

このような状況じょうきょう背景はいけい台頭たいとうしたハルジーぞくながジャラールッディーン・ハルジーは、1290ねんにカイクバードを殺害さつがいみずからスルターンに即位そくいしてハルジーあさひらき、奴隷どれい王朝おうちょう滅亡めつぼうした[15][14]

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

  1. クトゥブッディーン・アイバク在位ざいい1206ねん - 1210ねん
  2. アーラーム・シャー在位ざいい:1210ねん - 1211ねん) - アイバクの
  3. シャムスッディーン・イルトゥトゥミシュ在位ざいい:1211ねん - 1236ねん) - アイバクのむすめ婿むこ
  4. ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー在位ざいい:1236ねん) - イルトゥトゥミシュの
  5. ラズィーヤ在位ざいい:1236ねん - 1240ねん) - イルトゥトゥミシュの
  6. ムイズッディーン・バフラーム・シャー在位ざいい:1240ねん - 1242ねん) - イルトゥトゥミシュの
  7. アラー・ウッディーン・マスウード・シャー在位ざいい:1242ねん - 1246ねん) - フィールーズ・シャーの
  8. ナーシルッディーン・マフムード・シャー在位ざいい:1246ねん - 1266ねん) - イルトゥトゥミシュの
  9. ギヤースッディーン・バルバン在位ざいい:1266ねん - 1287ねん
  10. ムイズッディーン・カイクバード在位ざいい:1287ねん - 1290ねん) - バルバンのまご
  11. シャムスッディーン・カユーマルス在位ざいい1290ねん) - カイクバードの

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.73
  2. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.109
  3. ^ a b チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.74
  4. ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.110
  5. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.112
  6. ^ チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.75
  7. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.114
  8. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.115
  9. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.116
  10. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.119
  11. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.122
  12. ^ ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.123
  13. ^ チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.89
  14. ^ a b c ロビンソン『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい』、p.124
  15. ^ a b チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.90
  16. ^ チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、pp.88-89

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • フランシス・ロビンソン しる月森つきもりひだり やく『ムガル皇帝こうてい歴代れきだい インド、イラン、中央ちゅうおうアジアのイスラームしょ王国おうこく興亡こうぼう(1206ねん - 1925ねん)』そうもとしゃ、2009ねん 
  • サティーシュ・チャンドラ しる小名しょうみょう康之やすゆき長島ながしまひろし やく中世ちゅうせいインドの歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん 
  • 小谷おたにひろしこれ世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]