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チャーハマーナあさ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
チャーハマーナあさ
Chahamana dynasty
6世紀せいき中頃なかごろ - 1195ねんころ
首都しゅと アジュメールデリー
元首げんしゅとう
xxxxねん - xxxxねん 不明ふめい
変遷へんせん
成立せいりつ 6世紀せいきころ
滅亡めつぼう1195ねんころ

チャーハマーナあさ(チャーハマーナちょう、英語えいご:Chahamana dynasty)は、6世紀せいきなかばから12世紀せいきすえにかけて、きたインドラージャスターン地方ちほう存在そんざいしたヒンドゥー王朝おうちょうラージプート王朝おうちょうでもある。チャウハーンあさ(Chauhan dynasty)ともばれる。首都しゅとアジュメールデリー

歴史れきし

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6世紀せいきなかば、ラージプートヴァースデーヴァによって、チャーハマーナちょうラージャスターン地方ちほう創始そうしされた。とはいえ、その当時とうじはまだラージャスターンの小国しょうこくで、8世紀せいきプラティーハーラあさ成立せいりつすると、その支配しはいにはいった。

この王朝おうちょうはどうやら単一たんいつ王朝おうちょうではなく、ラージャスターン地方ちほうやグジャラート地方ちほう各地かくちしょう勢力せいりょく散在さんざいしていたとかんがえられており、ラージャスターン中央ちゅうおう存在そんざいしたシャーカンバリー(サーンバル)を拠点きょてんとした一族いちぞくがプラティーハーラあさふうしんサーマンタ)として頭角とうかくをあらわした。チャーハマーナあさ勢力せいりょく拡大かくだいし、同様どうよう独立どくりつしたマールワーパラマーラあさ同盟どうめいむすび、グジャラートチャウルキヤあさ抗争こうそうするようになった[1]

やがて、10世紀せいきなかばにデカンラーシュトラクータあさきたインドに侵攻しんこうすると、プラティーハーラあさぜんぐん防衛ぼうえいにあてられたのを反乱はんらんこし、どう世紀せいき後半こうはんシンハラージャのとき、ラージャスターンで独立どくりつ達成たっせいした。また、11世紀せいき初頭しょとうアフガニスタンイスラーム王朝おうちょうであるガズナあさめてくると、ラージプートの王朝おうちょう連合れんごうして対抗たいこうしたが、1018ねん主家しゅかであったプラティーハーラあさ事実じじつじょう滅亡めつぼうした。12世紀せいき初頭しょとう、アジャヤラージャの治世ちせい、チャーハマーナあさ堅牢けんろう山城やましろのある都市としアジュメール(アジャヤメールとも)に拠点きょてんうつし、アフガニスタンのガズナあさとグジャラートのチャウルキヤあさそなえた[1]1119ねん、ガズナあさによって拠点きょてんひとナーガウルがガズナあさによって占拠せんきょされた。だが、アジャヤラージャの息子むすこアルノーラージャがアジュメールの郊外こうがいでガズナぐん撃退げきたいし、領土りょうど同時どうじ回復かいふくした[1]

そして、12世紀せいき後半こうはん以降いこうハリヤーナー地方ちほうトーマラあさ従属じゅうぞくいたのをはじめ、周辺しゅうへん勢力せいりょくをサーマンタとして吸収きゅうしゅうし、急速きゅうそく勢力せいりょく拡大かくだいした。また、その過程かていでデリーやハーンシーを獲得かくとくした[1]どう世紀せいきまつ、チャーハマーナあさカナウジガーハダヴァーラあさ、グジャラートのチャウルキヤあさブンデールカンドチャンデーラあさ圧倒あっとうし、きたインドでもっともつよぜいほこっていた[1]。 また、その領域りょういきはデリー北方ほっぽうからパンジャーブ東南とうなんはし、ラージャスターンにおよ広大こうだいなものであった[1]

プリトヴィーラージャ3せいとゴールあさ侵入しんにゅう

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プリトヴィーラージャ3せい

この王朝おうちょうでもっとも有名ゆうめいなのが、12世紀せいきまつおうプリトヴィーラージャ3せいである。このおう治世ちせい、チャーハマーナあさ最盛さいせいむかえた[1]

その治世ちせい、チャーハマーナあさはブンデルカンドのチャンデーラあさ領土りょうど侵攻しんこうして領土りょうど拡大かくだいしようとした。だが、これは結果けっかてき領土りょうど拡大かくだいにはむすびつかず、そればかりかひがしとなりのガーハダヴァーラあさおうジャヤチャンドラとの関係かんけい悪化あっかした[1]

関係かんけい悪化あっか原因げんいんひとつは、プリトヴィーラージャ3せいとジャヤチャンドラのむすめとの関係かんけいだった。あるとき、ジャヤチャンドラは自分じぶんむすめ婿むこえらびに、各地かくち諸王しょおう手紙てがみし、首都しゅとカナウジにるようにつたえたが、プリトヴィーラージャ3せい敵国てきこくおうだったため拒否きょひされた。だが、プリトヴィーラージャ3せい従者じゅうしゃとこっそりにやってきて、ジャヤチャンドラのむすめ恋仲こいなかになり、勝手かってってしまった[2]

このフィクションとおもえるはなし物語ものがたりうたわれ、のちにチャンド・バルダーイーが、「プリトヴィーラージ・ラーソー」という文学ぶんがく作品さくひんしているが[2]、ジャヤチャンドラはむすめられたことに激怒げきどし、このいちけん隣接りんせつする両国りょうこく関係かんけい悪化あっかさせた。

そして、アフガニスタンでは、11世紀せいき後半こうはんにガズナあさわってこったイスラーム王朝おうちょうゴールあさ台頭たいとうし、1190ねんにチャーハマーナあさ領土りょうど侵攻しんこうした。プリトヴィーラージャ3せいはチャウルキヤあさやパラマーラあさなどにびかけ、ラージプートの連合れんごうぐん結成けっせいしてその盟主めいしゅとなったが、ガーハダヴァーラあさのジャヤチャンドラはうらみがあったのでこれにはくわわらなかった[2]かれ自身じしん配下はいかのサーマンタから大軍たいぐん招集しょうしゅうした[1]

こうして、1191ねん、ゴールあさぐんとラージプート連合れんごうぐんがデリーからやく150キロのタラーイン交戦こうせんし、かず有利ゆうりだったラージプート連合れんごうぐん勝利しょうりし、ゴールぐん撤退てったいした(タラーインのたたか[3]

しかし、よく1192ねんだい2タラーインのたたかいでは、ラージプート連合れんごうぐん前回ぜんかいおなじく有利ゆうりだったにもかかわらず敗北はいぼくし、プリトヴィーラージャ3せいとらえられた[3]

滅亡めつぼう

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プリトヴィーラージャ3せいとらえられたのち、ゴールあさのもとでのアジュメールおうとして従属じゅうぞくすることとなったが、ほどなく殺害さつがいされた[3][4]殺害さつがい理由りゆう一説いっせつには、独立どくりつはかろうとしたというせつがある[3]

プリトヴィーラージャ3せい殺害さつがい、その息子むすこゴーヴィンダラージャはゴールあさみつげおさめをおさめることにしたが、そのみつぎおさめがく非常ひじょうおもかった。そのため、プリトヴィーラージャ3せいおとうとハリラージャ不満ふまんち、1193ねんにアジュメールからゴーヴィンダラージャを追放ついほうし、みずかおうとなった[3]同年どうねん、ゴールあさ武将ぶしょうクトゥブッディーン・アイバクはデリーを占拠せんきょした。

1195ねんころにハリラージャはデリーをうばかえそうとしたが、アイバクにぎゃくめられ、アジュメールのたたかいでやぶれ、チャーハマーナあさほろんだ[3][4]。とはいえ、ハリラージャはラジャースターン東端ひがしばたのランタンボールを拠点きょてんに、ランタンボール・チャーハマーナあさ創始そうしした[3][4]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f g h i 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.27
  2. ^ a b c チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.66
  3. ^ a b c d e f g 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.28
  4. ^ a b c チャンドラ『中世ちゅうせいインドの歴史れきし』、p.67

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 小谷おたにひろしこれ世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2―中世ちゅうせい近世きんせい―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん 
  • サティーシュ・チャンドラ しる小名しょうみょう康之やすゆき長島ながしまひろし やく中世ちゅうせいインドの歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん 

関連かんれん項目こうもく

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