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カルナータカ太守たいしゅ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
カルナータカ太守たいしゅ
ஆற்காடு நவாப்
ムガル帝国 1692ねん - 1855ねん イギリス東インド会社
カルナータカ太守の国旗
国旗こっき
カルナータカ太守の位置
カルナータカ太守たいしゅ領土りょうど青色あおいろ
公用こうよう ペルシアウルドゥータミルカンナダ
首都しゅと アルコットマドラス
ナワーブ
1710ねん - 1732ねん サアーダトゥッラー・ハーン
1744ねん - 1749ねんアンワールッディーン・ハーン
1749ねん - 1795ねんムハンマド・アリー・ハーン
1824ねん - 1855ねんグラーム・ムハンマド・ガウス・ハーン
変遷へんせん
カルナータカ太守たいしゅ設置せっち 1692ねん
サアーダトゥッラー・ハーン太守たいしゅとなる1710ねん
アンワールッディーン・ハーン太守たいしゅとなる1744ねん
ムハンマド・アリー・ハーン太守たいしゅとなる1749ねん
全権ぜんけんぜん領土りょうど接収せっしゅう1801ねん
年金ねんきん支払しはら停止ていし1855ねん
通貨つうかルピー
現在げんざいインドの旗 インド

カルナータカ太守たいしゅ(カルナータカたいしゅ、タミル: ஆற்காடு நவாப், ウルドゥー: نواب کرناٹک‎, 英語えいご: Nawab of the Carnatic)は、ムガル帝国ていこくみなみインドカルナータカ地方ちほう現在げんざいアラビアかいめんしたカルナータカしゅうとはちがい、タミル地方ちほうアーンドラ地方ちほう一部いちぶす)の地方ちほう長官ちょうかん、つまり太守たいしゅナワーブ)。アルコット首府しゅふいたことから、アルコット太守たいしゅあるいはアルコットの代官だいかん(Nawab of Arcot)ともばれる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

設置せっち[編集へんしゅう]

1681ねん以降いこうムガル帝国ていこく皇帝こうていアウラングゼーブデカン遠征えんせいし(デカン戦争せんそう)、ビジャープル王国おうこくゴールコンダ王国おうこくほろぼし、マラーターをみなみかえした。その結果けっか帝国ていこく領土りょうどみなみインドにまでひろがった。

アウラングゼーブはみなみインドにまでいた広大こうだい版図はんと統治とうちするため、1692ねんにカルナータカ太守たいしゅ役職やくしょく設置せっちすることをめ、ズルフィカール・ハーン初代しょだいカルナータカ太守たいしゅ任命にんめいし、アルコット首府しゅふ統治とうちさせた。

独立どくりつ[編集へんしゅう]

晩年ばんねんアウラングゼーブ

1707ねんにアウラングゼーブがぬと、ムガル帝国ていこく広大こうだい領土りょうどでは反乱はんらん相次あいつぎ、1713ねんにムガル帝国ていこくないジャハーンダール・シャーファッルフシヤル帝位ていいをめぐってあらそうと、カルナータカ太守たいしゅサアーダトゥッラー・ハーンかれ1710ねんにカルナータカ太守たいしゅ任命にんめいされた人物じんぶつである)は帝国ていこくから独立どくりつし、地方ちほう政権せいけん樹立じゅりつした(ナワーヤトあさ)。

これにより、みなみインドの広大こうだい版図はんとがムガル帝国ていこくからり、この帝国ていこく支配しはいおよばなくなってしまった。とはいえ、歴代れきだい君主くんしゅ名目めいもくじょう帝国ていこく主権しゅけんみとめていた。

サアーダトゥッラー・ハーンの治世ちせい初期しょきには、きたインド出身しゅっしんラージプートであるディー・シングシェンジ(ジンジー)を拠点きょてん反旗はんきひるがえし(そのちちスワループ・シングはアウラングゼーブによってシェンジをまかされた人物じんぶつだった)、反乱はんらん1714ねん10月3にちかれころされるまでつづいた。

サアーダトゥッラー・ハーンの治世ちせい注目ちゅうもくされるのは、ムガル帝国ていこく許可きょかなしに、おいドースト・アリー・ハーン後継こうけいしゃ指名しめいしたことだった。また、1724ねんにはみなみインドのほかの勢力せいりょくとも連携れんけいして、マイソール王国おうこく首都しゅとシュリーランガパッタナ包囲ほういしている[1]

マラーターの侵攻しんこう[編集へんしゅう]

アーサフ・ジャー

カルナータカ太守たいしゅみなみインドに広大こうだい領土りょうど領有りょうゆうしたため、マイソール王国おうこくタンジャーヴール・マラーター王国おうこくマドゥライ・ナーヤカあさをはじめとするしょ勢力せいりょくあらそった。ドースト・アリー・ハーン治世ちせい、そのむすめ婿むこであるチャンダー・サーヒブ1736ねんにマドゥライ・ナーヤカあさほろぼし、版図はんと拡大かくだい成功せいこうしている[1]

さらには、チャンダー・サーヒブはこの勝利しょうりじょうじて、タンジャーヴール・マラーター王国おうこく領土りょうどにさえり、1739ねんにはその君主くんしゅシャーフージー2せい退位たいいんだ。だが、つぎ君主くんしゅプラタープ・シング治世ちせい1740ねん強力きょうりょくなナーグプルこうラグージー・ボーンスレー援助えんじょのために大軍たいぐんひきいて南下なんかした。

同年どうねん5がつ20日はつかにカルナータカ太守たいしゅぐん応戦おうせんしたが敗北はいぼくし(ダーマルチェルヴのたたか)、ドースト・アリー・ハーンは殺害さつがいされ、アルコット占領せんりょうされた [1][2]

ドースト・アリー・ハーン殺害さつがい、その息子むすこサフダル・アリー・ハーンむすめ婿むこチャンダー・サーヒブとのあいだ太守たいしゅをめぐるあらそいがき、前者ぜんしゃがラグージー・ボーンスレーの支持しじて、11月16にちしん太守たいしゅとなった[1][3]一方いっぽう、チャンダー・サーヒブはげ、ティルチラーパッリ籠城ろうじょうしたが、1741ねん初頭しょとう ティルチラーパッリ包囲ほういせん捕虜ほりょになり、マラーター王国おうこく首都しゅとサーターラーへとおくられた[3]

両家りょうけ対立たいりつだいいちカーナティック戦争せんそう[編集へんしゅう]

アンワールッディーン・ハーン

1742ねん10月13にち、サフダル・アリー・ハーンは従兄弟いとこムルタザー・アリー・ハーン暗殺あんさつされたが、ニザームがこれに介入かいにゅうした[3]。これにより、サフダル・アリー・ハーンの幼少ようしょう息子むすこサアーダトゥッラー・ハーン2せい太守たいしゅぎ、その後見こうけんやくホージャ・アブドゥッラー・ハーン任命にんめいされた[3]

また、ニザームとカルナータカ太守たいしゅ軍勢ぐんぜいはティルチラーパッリのマラーター勢力せいりょく包囲ほういし、8がつ29にちにこれを占領せんりょうした(ティルチラーパッリ包囲ほういせん[4]

だが、1744ねん3がつにホージャ・アブドゥッラー・ハーンが暗殺あんさつされると、ニザームの代官だいかんアンワールッディーン・ハーン太守たいしゅ後見こうけんやくとなった[3][5]同年どうねん7がつにはサアーダトゥッラー・ハーン2せい暗殺あんさつされ、ナワーヤトあさ直系ちょっけい血筋ちすじえると、アンワールッディーン・ハーンがニザーム王国おうこくによりしん太守たいしゅ任命にんめいされ、アンワーリーヤあさ成立せいりつした[5]

これに激怒げきどしたのがナワーヤットのチャンダー・サーヒブだった。かれはサアーダトゥッラー・ハーン2せい義理ぎり叔父おじで、ドースト・アリー・ハーンのむすめ婿むこである自分じぶんこそがしん太守たいしゅにふさわしいとおもっていた。

これにより、ナワーヤットあさとアンワーリーヤあさとの対立たいりつしょうじ、当時とうじインド覇権はけんをめぐってあらそっていたマドラス拠点きょてんとしたイギリスポンディシェリー拠点きょてんとしたフランス1740ねんオーストリア継承けいしょう戦争せんそうにより戦争せんそう勃発ぼっぱつしていた)のあらそいがまれ、同年どうねんだいいちカーナティック戦争せんそう(カルナータカ戦争せんそう)が勃発ぼっぱつした[3]

イギリスとフランスはみなみインドので4ねんにわたりあらそい、フランスはジョゼフ・フランソワ・デュプレクスのもと優勢ゆうせいたたかい、1748ねん10月にヨーロッパの戦争せんそうわると、だいいちカーナティック戦争せんそう終結しゅうけつした[3]

この戦争せんそうでは現地げんち勢力せいりょくはあまり関与かんよしなかったが、アンワールッディーン・ハーンがマドラス陥落かんらく直前ちょくぜん援軍えんぐんおくったことで、これ以降いこう戦争せんそう現地げんち勢力せいりょくんでいくこととなった。

太守たいしゅの併立とだいカーナティック戦争せんそう[編集へんしゅう]

アンブールのたたか

どう1748ねん、デカンのニザーム王国おうこくでも、アーサフ・ジャー1せい死亡しぼうし、息子むすこナーシル・ジャングまごムザッファル・ジャング王位おういあらそっており、 デュプレクスはこれにけた[6]。また、おなごろにマラーター本国ほんごく幽閉ゆうへいされていたチャンダー・サーヒブも開放かいほうされた[7]

また、イギリスとフランスは、カルナータカ地方ちほう政権せいけんとニザーム王国おうこく内部ないぶあらそいに関与かんよし、デュプレクスはチャンダー・サーヒブやムザッファル・ジャングとむすぼうとし、チャンダー・サーヒブもアンワールッディーン・ハーンから太守たいしゅうばおうとねらっており、これに参加さんかした。

そして、1749ねん8がつ3にち、フランス、チャンダー・サーヒブとムザッファル・ジャングの連合れんごうぐんは、アンワールッディーン・ハーンのぐんアンブールやぶり、アンワールッディーン・ムハンマド・ハーンは殺害さつがいされた(アンブールのたたか[7][8][6]

アンワールッディーン・ハーン殺害さつがい、その息子むすこムハンマド・アリー・ハーンしん太守たいしゅとなったが、チャンダー・サーヒブも太守たいしゅせんし、2人ふたり太守たいしゅ両立りょうりつするかたちとなった[6]。ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスとむすんでティルチラーッパッリじょうみ、だいカーナティック戦争せんそう勃発ぼっぱつした。

1751ねんから1752ねんにかけて、チャンダー・サーヒブはフランスの援助えんじょのもと、ムハンマド・アリー・ハーンの篭城ろうじょうするティルチラーパッリじょうめた(ティルチラーパッリ包囲ほういせん)。だが、この包囲ほうい兵員へいいんだい部分ぶぶんき、首都しゅとアルコットが手薄てうすとなっていたため、1751ねん12月にイギリスのロバート・クライヴうばわれてしまった(アルコットのたたか)。

1752ねん 4がつにはチャンダー・サーヒブ自身じしんやぶれ、タンジャーヴール・マラーター王国おうこく援助えんじょもとめたが、同年どうねん6がつ裏切うらぎられて殺害さつがいされた[7][8]。その、デュプレクスは善戦ぜんせんしたものの、1754ねん8がつ戦費せんぴ問題もんだいから帰還きかんさせられ、10月和議わぎむすばれた[7]

ムハンマド・アリー・ハーンの治世ちせい内外ないがいにおける危機きき[編集へんしゅう]

ムハンマド・アリー・ハーン

ムハンマド・アリー・ハーンの治世ちせいは46ねんおよび、カルナータカ地方ちほう政権せいけん依然いぜんとしてみなみインドに広大こうだい領土りょうど領有りょうゆうしていたが、かれはムガル帝国ていこく主権しゅけんみとめ、皇帝こうていシャー・アーラム2せい書簡しょかんのやりりをしていた[9]

1760ねん、ムハンマド・アリー・ハーンは皇帝こうていシャー・アーラム2せいより、「ワッラー・ジャー[10]」の称号しょうごうたまわった。この称号しょうごうかれ一族いちぞく家名かめいであるワッラー・ジャーとなり、アンワーリーヤあさ別名べつめいワッラー・ジャーあさともばれるようになった。

だが、ムハンマド・アリー・ハーンはだいカーナティック戦争せんそうちゅうにイギリスから軍事ぐんじてき援助えんじょけていたが、その援助えんじょにかかる費用ひようはムハンマド・アリー・ハーンが負担ふたんすることとなっていた[11]。そのうえ、イギリスはカルナータカ太守たいしゅがあまり関与かんよしていないだいさん戦争せんそうかんしても、太守たいしゅ領土りょうど保全ほぜん尽力じんりょくしたと主張しゅちょうしてその支払しはらいをもとめ、イギリスにたいして巨額きょがく負債ふさいかかむこととなった[12]

また、ムハンマド・アリー・ハーンはイギリスひがしインド会社かいしゃのみならず、ひがしインド会社かいしゃ幹部かんぶ、ヨーロッパじん商人しょうにん、インドじん商人しょうにんなどの個人こじんからも多額たがく借金しゃっきんをしていた[11]

だい戦争せんそうちゅう、ムハンマド・アリーはマイソールぐん援助えんじょけていたが、1752ねんにマイソールがわのティルチラーパッリの割譲かつじょう要求ようきゅうことわったため、マイソールは途中とちゅうからフランスがわ同盟どうめいする事態じたいにもおちいっていた[7]

両国りょうこく戦争せんそう終了しゅうりょうもティルチラーパッリ周辺しゅうへんあらそい、1755ねん4がつにマイソールがわあきらめて撤退てったいしたものの、これ以降いこうなが対立たいりつつづくこととなってしまい、その脅威きょういおびえなければならなかった[13][8]

ムハンマド・アリー・ハーンは自身じしん地位ちいまもるため、イギリスぐん駐留ちゅうりゅうさせておかねばならず、その駐留ちゅうりゅう莫大ばくだいなものとなって負債ふさい加算かさんされた。ついにはイギリスも対策たいさくかんがえ、だいさん戦争せんそう終結しゅうけつの1763ねん10月16にちにマドラス周辺しゅうへん土地とち一帯いったいジャーギール給与きゅうよ)として割譲かつじょうさせた[12]。また、1767ねんにはアルコットからマドラスへと首府しゅふうつした[14]

1773ねん9月17にち、ムハンマド・アリー・ハーンは財政難ざいせいなん打開だかいするため、マドラスのひがしインド会社かいしゃ職員しょくいんらの援助えんじょて、タンジャーヴール・マラーター王国おうこく併合へいごうした(タンジャーヴール包囲ほういせん[15]。だが、併合へいごう財政ざいせい悪化あっかつづけ、さらには私的してき債権さいけんしゃであるひがしインド会社かいしゃ職員しょくいんらとの癒着ゆちゃく指摘してき不当ふとう併合へいごうたいして会社かいしゃ内外ないがい批判ひはんたかまる結果けっかとなった[16]

そのため、1776ねん4がつ11にち、タンジャーヴール・マラーター王国おうこくはイギリスによって復活ふっかつし、その君主くんしゅトゥラジャージー2せい復位ふくいしたため、この併合へいごうなん意味いみさなかった[16][15][17]

マイソール戦争せんそう国土こくど破壊はかい[編集へんしゅう]

ハイダル・アリー

1767ねん以降いこうみなみインドでは、イギリスとマイソール王国おうこくとの対立たいりつからだいいちマイソール戦争せんそうこっていたが、ムハンマド・アリー・ハーンはマドラスを拠点きょてんとしたイギリスに協力きょうりょくしていた。

だが、マイソールの支配しはいしゃハイダル・アリーはムハンマド・アリー・ハーンがイギリスと同盟どうめいしていることに不満ふまんで、戦争せんそうちゅうにカルナータカ太守たいしゅ領土りょうど進撃しんげきし、1769ねん3がつにはマドラス近郊きんこうまで進撃しんげきした[18]

そのため、1780ねん5月だいマイソール戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、7がつにマイソールのハイダル・アリーは、カルナータカ地方ちほう政権せいけん領土りょうどに8まん大軍たいぐんおくった。

11月3にち旧都きゅうとアルコットは占領せんりょうされ、1784ねん戦争せんそう終結しゅうけつするまでカルナータカ地方ちほう政権せいけん領土りょうどでほとんどのたたかいがおこなわれたが、そのあいだ国土こくど略奪りゃくだつ破壊はかいされた。

イギリスにたいする莫大ばくだい負担ふたん[編集へんしゅう]

ムハンマド・アリー・ハーンとイギリスじん

ムハンマド・アリー・ハーンはマイソール王国おうこくぐん撃退げきたいするためにイギリスにたいして莫大ばくだい支払しはらいを余儀よぎなくされたが、負債ふさいがくはさらにしてゆき、ついには政権せいけん崩壊ほうかいすらあやうくなった[12][19]

そのため、1781ねんにイギリスはマイソール戦争せんそう戦費せんぴ要求ようきゅうしないわり、そのぜん領土りょうど徴税ちょうぜいけんゆずけ、イギリスみずか徴税ちょうぜいにあたることにした[19]

だいマイソール戦争せんそう終了しゅうりょう1785ねんにムハンマド・アリー・ハーンは戦争せんそう臨時りんじ戦費せんぴ負担ふたんすることで徴税ちょうぜいけん回復かいふくした。だが、1790ねんだいさんマイソール戦争せんそう勃発ぼっぱつすると、イギリスは臨時りんじ戦費せんぴ支払しはら能力のうりょくがないことを理由りゆうとし、ふたたびその徴税ちょうぜいけん摂取せっしゅした[19]

だいさんマイソール戦争せんそう終結しゅうけつすると、1792ねん7がつ12にちにムハンマド・アリー・ハーンは平時へいじ戦費せんぴ負担ふたんはん自立じりつてき領主りょうしゅポリガールからのみつぎおさめによる徴収ちょうしゅうをイギリスにおさめることで、なんとか徴税ちょうぜいけん獲得かくとくした[19]。だが、これにより外交がいこうけん放棄ほうきさだめられてしまい、事実じじつじょう太守たいしゅ領土りょうどはイギリス保護ほごかれた[19]

領土りょうど接収せっしゅう年金ねんきん生活せいかつしゃ[編集へんしゅう]

マドラス管区かんく黄色きいろ部分ぶぶんはん王国おうこく

1795ねん10月、ムハンマド・アリー・ハーンの死後しご、その息子むすこウムダトゥル・ウマラー太守たいしゅ継承けいしょうした[20]1799ねんだいよんマイソール戦争せんそうでは、イギリスに味方みかたするようにせかけて、マイソールがわひそかに物資ぶっし供給きょうきゅうするなどして加担かたんしたものの、マイソール王国おうこく敗北はいぼくしてしまった。

だいよんマイソール戦争せんそう終結しゅうけつ、ウムダトゥル・ウマラーはイギリスにマイソール戦争せんそうでの関与かんよ執拗しつよううたがわれ、かれ自身じしん否定ひていつづけたが、1801ねん7がつ15にち急死きゅうしした。イギリスはすぐさま、同年どうねん7がつ31にち後継こうけいしゃであるおいアズィーム・ウッダウラカーナティック条約じょうやくむすび、マイソール王国おうこくへの協力きょうりょく理由りゆう太守たいしゅ全権ぜんけんぜん領土りょうどうばい、そのかわりに莫大ばくだい年金ねんきんをあてがうこととなった[20]

こうして、カルナータカ太守たいしゅとマイソール王国おうこくの2だい勢力せいりょく制圧せいあつされた結果けっか19世紀せいき初頭しょとうみなみインドはイギリスの支配しはいするマドラス管区かんくと、マイソールはん王国おうこくトラヴァンコールはん王国おうこくコーチンはん王国おうこくなどイギリスの保護ほごこくなどによって形成けいせいされるにいたった。

1801ねん以降いこう、アズィーム・ウッダウラとその家族かぞく年金ねんきん生活せいかつしゃとしてらすことを余儀よぎなくされたが、そのあてがわれていた年金ねんきんもそのまごグラーム・ムハンマド・ガウス・ハーン1855ねん10月にぬと、「失権しっけん原理げんり」によって停止ていしされた[21]

歴代れきだい太守たいしゅ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』年表ねんぴょう、p.38
  2. ^ Advanced Study in the History of Modern India 1707-1813 - Jaswant Lal Mehta - Google Books
  3. ^ a b c d e f g 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.198
  4. ^ Advanced study in the history of modern India 1707-1813
  5. ^ a b Arcot 6
  6. ^ a b c チャンドラ『近代きんだいインドの歴史れきし』、p.59
  7. ^ a b c d e 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.199
  8. ^ a b c 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』年表ねんぴょう、p.40
  9. ^ Arcot 9
  10. ^ 現地げんちおんちかくすると「ワッラージャ」となる。
  11. ^ a b 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.200
  12. ^ a b c 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.202
  13. ^ 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、pp.199-200
  14. ^ アルコット『みなみアジアを事典じてん
  15. ^ a b 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』年表ねんぴょう、p.42
  16. ^ a b 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.204
  17. ^ Tanjore 3
  18. ^ 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.203
  19. ^ a b c d e 辛島からしま世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』、p.206
  20. ^ a b Arcot 12
  21. ^ Arcot 13

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 辛島からしまのぼる世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア3―みなみインド―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん 
  • ビパン・チャンドラ しる栗原くりはら利江としえ やく近代きんだいインドの歴史れきし山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2001ねん 

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]