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カルナータカしゅう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
カルナータカしゅう
Karnataka
ಕರ್ನಾಟಕ
インド国内の位置
(インド国内こくない位置いち
基礎きそ情報じょうほう
くに  インド
行政ぎょうせい カルナータカしゅう
州都しゅうと ベンガルール
面積めんせき 191,791 km²
人口じんこう 2011ねん
 - 合計ごうけい 61,130,704 にん
 - 人口じんこう密度みつど 320 にん/km2
時間じかんたい インド標準時ひょうじゅんじ(IST)UTC+5:30
公用こうよう カンナダ
創立そうりつ 1956ねん11月1にち
しゅう知事ちじ タワル・チャンド・ゲーロット英語えいごばん (Thawar Chand Gehlot)
しゅう首相しゅしょう シッダラマヤ英語えいごばん (Siddaramaiah)
立法りっぽう機関きかん議席ぎせきすう 二院にいんせい(224+75)
略称りゃくしょうISO IN-KA
しゅう公式こうしきウェブサイト http://www.karnataka.gov.in

カルナータカしゅう(カルナータカしゅう、カンナダ: ಕರ್ನಾಟಕえい: Karnataka)は、インド南西なんせいにあるしゅうひとつ。面積めんせきは191,791平方へいほうキロで、ぜんインドの5.83%をめる。州都しゅうとベンガルール

名称めいしょう

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カルナータカの語源ごげんとしては、カンナダのカル(karu)とナードゥ(nādu)で「高地こうち」をすというせつ、カル・ナドゥ(くろ地域ちいき)がくろ綿めんすというせつ、かつてイギリスがクリシュナがわ以南いなんインド大陸たいりく両側りょうがわかたりとして「カーナティック(CarnaticまたはKarnatak)」を使用しようしたとのせつなど、いくつかのせつがある[1]

地理ちり

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カルナータカしゅう西にしアラビアかいめんし、北西ほくせいゴアしゅうせっし、きたマハーラーシュトラしゅうせっし、南東なんとうタミル・ナードゥしゅうせっし、ひがしアーンドラ・プラデーシュしゅうせっし、南西なんせいケーララしゅうせっしている。

主要しゅよう河川かせんカーヴィリがわで、ダムでの水力すいりょく発電はつでんによる電力でんりょくしゅうない供給きょうきゅうされている。水利すいりけんめぐって、農業のうぎょう利用りようしているタミル・ナードゥしゅう対立たいりつしている。

歴史れきし

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en:Virupaksha Temple, Hampi
ベールールチェンナケーシャヴァ寺院じいん英語えいごばん聖堂せいどうくちホイサラあさ様式ようしきのレリーフ

カルナータカの歴史れきしは、この地域ちいき手斧ちょうな(ハンド・アックス)などが発見はっけんされ旧石器時代きゅうせっきじだいにまでさかのぼる。旧石器時代きゅうせっきじだいまでさかのぼると、カルナータカは古代こだいインド有力ゆうりょく帝国ていこくでもあった。これらの帝国ていこくによって支持しじされた哲学てつがくしゃ音楽おんがくてき詩人しじんなどが、社会しゃかい宗教しゅうきょうてき文学ぶんがくてき文化ぶんか活動かつどうみ、現在げんざいまでつたえられている。しん石器せっき時代じだい巨石きょせき文化ぶんか遺跡いせき[注釈ちゅうしゃく 1]もこのしゅうつかっている。

また、ハラッパー遺跡いせき発見はっけんされたきむもカルナータカよりまれたものであり、一般いっぱんに、紀元前きげんぜん3000ねんには古代こだいカルナータカはインダス文明ぶんめいとの接触せっしょくがあったという仮説かせつっている[2][3]

紀元前きげんぜん3世紀せいき以前いぜんアショーカおうマウリヤあさ成立せいりつまえは、カルナータカはナンダあさ一部いちぶであった。そのサータヴァーハナあさ支配しはいの400ねんつづき、カルナータカのだい部分ぶぶん支配しはいかれた。

サータヴァーハナあさ没落ぼつらくし、カダンバあさ英語えいごばん西にしガンガあさ英語えいごばんという初期しょき地元じもと独立どくりつ王朝おうちょう成立せいりつした。345ねんマユーラシャルマ英語えいごばんおう即位そくいしてカダンバあさ成立せいりつし、バナヴァシ英語えいごばんいた。これらは政事せいじでカンナダ使用しようするはじめての王朝おうちょうであり、バナヴァシで発見はっけんされた5世紀せいき銅貨どうかきざまれたハルミディ刻印こくいん証明しょうめいされた[4][5]

その、さらに前期ぜんきチャールキヤあさラーシュトラクータあさ後期こうきチャールキヤあさのようなカンナダ王朝おうちょう現在げんざいのカルナータカの歓迎かんげいされ、デカン高原こうげんだい部分ぶぶん支配しはいつづけ、カルナータカに首都しゅとをおいた。後期こうきチャールキヤあさ独特どくとく西にしチャールキヤ様式ようしき建築けんちくや、カンナダ文学ぶんがくみ、12世紀せいきのホイサラ芸術げいじゅついしずえとなった。

11世紀せいきになり、ホイサラあさがこの地域ちいき実権じっけんにぎり、ホイサラ文学ぶんがくさかえる。カンナダ拍子ひょうしやホイサラ様式ようしき建築けんちくさかえた。ホイサラあさ拡大かくだいは、現在げんざいアーンドラ・プラデーシュしゅうタミル・ナードゥしゅうまでおよんだ。

14世紀せいき初頭しょとうには、ハリハラブッカ兄弟きょうだいがカルナータカしゅう南部なんぶトゥンガバドラーがわ南岸なんがんのヴィジャヤナガルを首都しゅとに、ヴィジャヤナガル王国おうこくをに建国けんこくした。この王朝おうちょう進出しんしゅつするイスラーム王朝おうちょうバフマニーあさたいするとりでとして、この地域ちいきを3世紀せいきにわたり支配しはいした。

1565ねん、カルナータカとみなみインド地域ちいきは、ターリコータのたたかでヴィジャヤナガル王国おうこく没落ぼつらくデカン・スルターンあさ興隆こうりゅうすることで、おおきな社会しゃかい地理ちりてき変化へんかこった[6]ビーダルバフマニーあさのちおこったビジャープル王国おうこくがカルナータカ地方ちほう支配しはいした。

17世紀せいきすえ、そのビジャープルあさムガル帝国ていこくによってほろぼされた。[7][8]バフマニーあさとビジャープル王国おうこくはともに、ウルドゥーペルシャ文学ぶんがくや、インド・サラセン洋式ようしき建築けんちく推奨すいしょうし、そのなかでもゴール・グンバズびょうはその様式ようしききわみとなっている[9]

ティプー・スルターンマイソール戦争せんそうイギリス侵略しんりゃく抵抗ていこうし、植民しょくみんとなるまえのインドでもっと聡明そうめいつよ支配しはいしゃ一人ひとりである。

この時代じだいのち北部ほくぶカルナータカはイギリスといちはや友好ゆうこう関係かんけいむすび、その隷下れいかとなったハイダラーバードニザーム王国おうこく支配しはいとなる。南部なんぶでは、ヴィジャヤナガル王国おうこくもと属国ぞっこくであったマイソール王国おうこく独立どくりつしつつあった[10]

マイソール王国おうこく将軍しょうぐんであったハイダル・アリーは、君主くんしゅクリシュナ・ラージャ2せいから実権じっけんうばい、王国おうこく支配しはいいた。ハイダル・アリーの死後しご、マイソール王国おうこくかれ息子むすこティプー・スルターンがれた[11]

ハイダル・アリーとティプー・スルターンはみなみインドのヨーロッパ勢力せいりょく拡大かくだいめるため、またイギリスのインド植民しょくみん政策せいさく反対はんたいし、かれにんマイソール戦争せんそうとして徹底的てっていてきたたかった。結果けっかとしてティプー・スルターンも白兵戦はくへいせん戦死せんしやぶれ、この地域ちいき1799ねんにイギリスの植民しょくみんした[12]。マイソール王国おうこくイギリスりょうインド帝国ていこくのもと、はん王国おうこくとしてオデヤあさ管理かんりもどされ、存続そんぞくゆるされた。

その当時とうじインド総督そうとくであったダルハウジー伯爵はくしゃくジェイムズ・ラムゼイによる「失権しっけん原理げんり」がインドこくちゅうはん王国おうこく異議いぎ反抗はんこうび、1857ねんインドだい反乱はんらんやく30ねんまえ1830ねんに、カルナータカでも反旗はんきがった。また、スパバガルコートショーラープルナルグンドダンデーリなどでも同様どうよう蜂起ほうきこった。1857ねんインドだい反乱はんらんとあわせて、いくつかの蜂起ほうきこった。19世紀せいきすえまでには、インド解放かいほう運動うんどうにはいきおいがつき、20世紀せいき突入とつにゅうしていくこととなった[13]

インド独立どくりつ、マイソールはん王家おうけはインドへの編入へんにゅう同意どういし、1950ねんにはマイソールはん王国おうこく同名どうめいしゅうとなった。もとはんおう1956ねんまでラージ・プラムク称号しょうごうしゅう知事ちじつとめた。

1956ねん11月1にち国家こっか再編さいへんほうによってこの地域ちいきしゅう統合とうごうされ、マイソールしゅう成立せいりつし、現在げんざいしゅういき確定かくていした。

その悲願ひがんであったカルナータカさい統合とうごう運動うんどうけ、1956ねん国家こっか再編さいへんほうにより、マドラスハイダラーバードボンベイコダグカンナダはな地域ちいきをマイソールしゅう編入へんにゅうし、17ねん1973ねんしゅうめいをカルナータカしゅう改称かいしょうした[14]

地方ちほう行政ぎょうせい区分くぶん

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カルナータカしゅう行政ぎょうせい区分くぶん

カルナータカしゅうは、30けん(ジッラガル ಜಿಲ್ಲೆಗಳು)にけられている。

経済けいざい

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州都しゅうとベンガルール

2019ねんのカルナータカしゅうしゅうないそう生産せいさんは2000おくドルで、インドない5である。また、2021ねん外資がいし直接ちょくせつ投資とうしがくは、インドない1記録きろくしている[15]

人口じんこうの80%が農業のうぎょういとなむ。しゅう収入しゅうにゅうの49%が農業のうぎょう収入しゅうにゅうである。ウッタラ・カンナダけん英語えいごばんダクシナ・カンナダけん英語えいごばんふく海岸かいがん平原へいげん地方ちほうは、べいサトウキビ栽培さいばいする。またコダグけん英語えいごばん中心ちゅうしんとした西にしガーツ山脈さんみゃく山麓さんろくでは、珈琲こーひー紅茶こうちゃ栽培さいばいされている。とくにカルナータカしゅう珈琲こーひー生産せいさんりょうぜんインドの生産せいさんりょうの70%をめ、生産せいさんされたうちの50%は輸出ゆしゅつされる。しゅう北西ほくせい黒土こくど地帯ちたい農業のうぎょうてきしており、綿花めんか玉葱たまねぎ穀類こくるい向日葵ひまわり落花生らっかせい栽培さいばいされている。

マーレーナードゥ地方ちほう英語えいごばん森林しんりんからは、木材もくざいたけざい白檀びゃくだん産出さんしゅつされる。とく白檀びゃくだん生産せいさん世界せかい有数ゆうすうであり、インドないではこの地域ちいきのみから輸出ゆしゅつされ、世界せかい精製せいせいされる白檀びゃくだん原料げんりょうのほとんどはカルナータカしゅうさんである。

インドで産出さんしゅつされるきむは、すべてカルナータカしゅうコーラールけん英語えいごばんからのものである。またカルナータカしゅうはその鉱産こうさん資源しげんにもんでおり、バドラヴァティー英語えいごばんなどでつくられる鉄鋼てっこう原料げんりょうだい部分ぶぶん産出さんしゅつされている。

カルナータカしゅうには、わせて18の発電はつでんしょがある。このうち、シヴァナサムドラ英語えいごばん水力すいりょく発電はつでんところは、1902ねん建設けんせつされたアジアはつ水力すいりょく発電はつでんしょである。しかし、これらの発電はつでんしょのみではしゅうない電力でんりょく需要じゅようたすことができず、しゅうがいから電力でんりょくけている。

州都しゅうとベンガルールは、航空こうくう宇宙うちゅう産業さんぎょう情報じょうほう技術ぎじゅつ産業さんぎょうビジネス・プロセス・アウトソーシングごうさかんである。とく情報じょうほう技術ぎじゅつ産業さんぎょうについては「インドのシリコンバレー」の異名いみょうち、カルナータカしゅう電子でんし技術ぎじゅつ振興しんこう公社こうしゃによりおおくの情報じょうほう技術ぎじゅつ産業さんぎょう団地だんち設置せっちされている。また、インド科学かがく研究所けんきゅうじょ (IISc) ・インド経営けいえい研究所けんきゅうじょ (IIM) などの高等こうとう教育きょういく機関きかんかれている。

このほかマイスールマンガルールフブリ・ダールワールフブリ英語えいごばんおよダールワール英語えいごばん)にも、情報じょうほう技術ぎじゅつ産業さんぎょう振興しんこうのため産業さんぎょう団地だんち建設けんせつされている。

住民じゅうみん

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言語げんご

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カンナダ公用こうようで、もっとはなされている言語げんごである。カンナダ文学ぶんがく作家さっかはインドの文学ぶんがくしょうもっとおお受賞じゅしょうしている。南部なんぶ海岸かいがんではトゥルがつかわれるが、文字もじたない口頭こうとう伝承でんしょう言語げんごで、表記ひょうきはカンナダ文字もじ使用しようする。

音楽おんがく

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一般いっぱんインド古典こてん音楽おんがくきたインドはヒンドゥースターニー音楽おんがくみなみインドはカルナータカ音楽おんがくばれている。カルナータカ音楽おんがくは、みなみインドの4つのしゅうカルナータカタミル・ナードゥアーンドラ・プラデーシュケーララ発達はったつした。声楽せいがく楽器がっき演奏えんそうからなり、ムリダンガム両面りょうめん太鼓たいこ)、タンブーラヴィーナ弦楽器げんがっき)を使用しようする。

宗教しゅうきょう

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ヒンドゥーきょう、イスラームきょうほかに、ジャイナきょうキリスト教きりすときょう信者しんじゃがいる。ヒンドゥーきょう聖地せいちは、哲学てつがくしゃシャンカラゆかりのシュリンゲーリ、ジャイナきょう聖地せいちは、シュラヴァナベルゴラ名高なだかい。南部なんぶトゥル・ナードゥでは、毎年まいとし乾期かんき(11月~4がつ)にむらほこら寺院じいん土地とちしんまつブータ祭祀さいしさかんである。アウト・カーストになとなり、憑依ひょうい託宣たくせんおこな[16]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ ブラフマギリなどが好例こうれいとしてげられる。

出典しゅってん

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  1. ^ See Lord Macaulay's life of Clive and James Tallboys Wheeler: Early History of British India, London (1878) p.98. The principal meaning is the western half of this area, but the rulers there controlled the Coromandel Coast as well.
  2. ^ S. Ranganathan. “THE Golden Heritage of Karnataka”. Online webpage of the Department of Metallurgy. Indian Institute of Science, Bangalore. 2007ねん6がつ7にち閲覧えつらん
  3. ^ Trade”. The British Museum. 2007ねん5がつ6にち閲覧えつらん
  4. ^ From the Halmidi inscription (Ramesh 1984, pp. 10–11)
  5. ^ Kamath (2001), p10
  6. ^ Kamath (2001), pp. 190-191
  7. ^ Kamath (2001), p201
  8. ^ Kamath (2001), p202
  9. ^ Kamath (2001), p207
  10. ^ Kamath (2001), p171
  11. ^ Kamath (2001), p171, p173, p174, p204
  12. ^ Kamath (2001), pp. 231–234
  13. ^ Suryanath Kamath. “The rising in the south”. Online Edition of The Deccan Herald, dated 2007-05-20. The Printers (Mysore) Private Limited. 2007ねん7がつ20日はつか閲覧えつらん
  14. ^ Prem Paul Ninan. “History in the making”. Online Edition of The Deccan Herald, dated 2005-11-01. 2007ねん7がつ24にち閲覧えつらん
  15. ^ FDI INFLOW Ministry of Commerce & Industry 2023ねん7がつ7にち閲覧えつらん
  16. ^ 鈴木すずきただしたかしかみがかりから芸能げいのうへ―カルナータカのブータ―」『神話しんわ芸能げいのうのインド―かみ々をえんじる人々ひとびと―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ,155-179ぺーじ,2008ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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