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- サイイド朝
- سلسله سید
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サイイド朝の版図-
サイイド朝(サイイドちょう、ペルシア語: سلسله سید、Sayyid dynasty)とは、北インドの一部を4代37年にわたって支配した、デリー・スルターン朝の4番目のトルコ系イスラーム王朝(1414年 - 1451年)。首都はデリー。名称は、建国者のヒズル・ハーンが「サイイド」、すなわちムハンマドの子孫であると称したことに由来する[1]。
1398年末、有能な統治者に恵まれず弱体化したトゥグルク朝は、ティムールの侵入により大混乱に陥り、無力化していた[2]。1405年、ティムールが明遠征の途上、中央アジアのオトラルで亡くなると、ティムール帝国は内紛を起こし、それを制したのはティムールの4男・シャー・ルフであった。
パンジャーブ総督のヒズル・ハーンはシャー・ルフに従って、1413年には王家が断絶して大混乱していたトゥグルク朝に攻勢をかけ、1414年にはデリーを占領してトゥグルク朝を滅ぼした[2]。そして新たに建国したのが、サイイド朝である。
しかし、その支配はデリーの周辺のみの弱体な王朝であり、周りをジャウンプル・スルターン朝やマールワー・スルターン朝、メーワール王国に囲まれて、王権は不安定だった[3]。
また、ヒズル・ハーンはティムールの代理人をもって任じ、スルターンを称することはなかった[3]。ヒズル・ハーンの治世では、トゥグルク朝の貨幣がそのまま鋳造されて使われ、ヒズル・ハーンの子ムバーラク・シャーの時代もシャー・ルフの代理とし貢物を送り、代わりに礼服、儀式用の日傘が送られた[3]。
3代目のムハンマド・シャーは無能な人物で王朝は急速に衰退し、パンジャーブのローディー族の半自立傾向が目立ちはじめる[3]。
4代目のアラー・ウッディーン・アーラム・シャーのときに宰相のハミード・ハーンが権力を握ったが、1451年にバフルール・ローディーによって投獄され、サイイド朝は滅亡した[4]。
ここにローディー朝が成立することになったが、アーラム・シャーは1478年まで年金を受け取って生活した[5]。
- ヒズル・ハーン(在位:1414年 - 1421年)
- ムバーラク・シャー(在位:1421年 - 1434年)(ヒズル・ハーンの子)
- ムハンマド・シャー(在位:1434年 - 1445年)(ムバーラク・シャーの弟の子)
- アラー・ウッディーン・アーラム・シャー(在位:1445年 - 1451年)(ムハンマド・シャーの子)
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、pp.150-151
- ^ a b ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.149
- ^ a b c d ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.151
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
- ^ ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.152
- フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳 『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』 創元社、2009年
- 小谷汪之編 『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』 山川出版社、2007年