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チャウルキヤあさ

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チャウルキヤあさ(チャウルキヤちょう、英語えいご:Chaulukya dynasty)は、9世紀せいき前半ぜんはんから14世紀せいきにかけて、西にしインドグジャラート支配しはいしたヒンドゥー王朝おうちょう942ねんごろ - 1306ねん)。首都しゅとアナヒラパータカ

この王朝おうちょうおうみつるは、ソーランキーあさとヴァーゲーラーあさふたつにけられる。また、しばしばデカン地方ちほうチャールキヤあさ混同こんどうされるが、これは無関係むかんけい王朝おうちょうである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ソーランキーあさ[編集へんしゅう]

西にしインドグジャラートは、プラティーハーラあさ成立せいりつまもなく、その支配しはいにあった[1]

だが、10世紀せいきなかば、そのふうしんサーマンタ)だったチャウルキヤぞくムーララージャ1せいアナヒラパータカ占拠せんきょし、これを首都しゅと独立どくりつした[1]

だが、11世紀せいき初頭しょとうアフガニスタンイスラーム王朝おうちょうであるガズナあさきたインドに侵入しんにゅうし、1018ねん主家しゅかのプラティーハーラあさほろぼされ、グジャラートにもその脅威きょういおよぶこととなった[1]

1025ねんすえからよく1026ねんにかけて、ガズナあさ軍勢ぐんぜいがグジャラートに侵入しんにゅうし、首都しゅとアナヒラパータカをとし、ヒンドゥー聖地せいちであるカーティヤーワール半島はんとうソームナート寺院じいん略奪りゃくだつした[1]。この略奪りゃくだつにより、チャウルキヤあさおおくのとみられたが、このことはペルシアけんじかたるだけで、奇妙きみょうにもこのことはインドがわ年代ねんだいこくぶんしるされていない(汚点おてんとしてのこさなかったとするせつもある)[1]

チャウルキヤあさはほどなく復興ふっこうし、ジャヤシンハ治世ちせいにカーティヤーワール半島はんとう全域ぜんいき併合へいごうしてグジャラート全土ぜんど支配しはいかためている[1]。ジャヤシンハ・シッダラージャはカーティヤーワール半島はんとう海賊かいぞくち、農業のうぎょう手工業しゅこうぎょう生産せいさん中心ちゅうしんであるグジャラート北部ほくぶとカーティヤーワール半島はんとう沿岸えんがんむす道路どうろ建設けんせつし、同地どうち沿岸えんがんをインド交易こうえき主要しゅようへと発展はってんさせた[1]

クマーラパーラ時代じだい、チャウルキヤあさ最盛さいせいむかえたが、ジャイナきょう導師どうしヘーマチャンドラによって、同時どうじにヒンドゥーきょうからジャイナきょうへの転換てんかんおこなわれた[1]。ヘーマチャンドラは先王せんおうだいからすでに信頼しんらいており、おおくのてんさくおこなっていたが、クマーラパーラのもとでも重用じゅうようされ、かれをヒンドゥーきょうからジャイナきょうへと改宗かいしゅうさせることに成功せいこうしている[1]。クマーラパーラがジャイナきょう改宗かいしゅうしたことで、民衆みんしゅうとく商人しょうにんらにジャイナきょうひろまり、王朝おうちょう庇護ひごのもとひろまっていった[1]

11世紀せいき後半こうはんムーララージャ2せい時代じだいゴールあさ勢力せいりょくきたインドに侵略しんりゃくしてグジャラートにせまった[2]。だが、1178ねんにパラマーラあさやチャーハマーナあさ軍勢ぐんぜい連携れんけいし、アーブーさんふもとカーサブラタでこれをやぶっている[2]

1196ねんビーマ2せいメールぞく協力きょうりょくしてアジメールにいたゴールあさ武将ぶしょうアイバクを包囲ほういしたが、ガズニーからの援軍えんぐんにより危機ききだっし、よく1197ねんにアイバクはグジャラートへと進軍しんぐんした[2]。ビーマ2せいはアイバクとアーブー山脈さんみゃくカーサフラダ対峙たいじし、アイバクは前回ぜんかい敗北はいぼく攻撃こうげきおもいとどまったが、チャウルキヤちょうがわやまりて有利ゆうり立場たちばてたため、野戦やせんまれて敗北はいぼくした[2]

そのため、ビーマ2せいげ、首都しゅとアナヒラパータカもとされ、アイバクはこの長官ちょうかん任命にんめいしている[2]。とはいえ、1201ねんにビーマ2せいはアナヒラパータカをもどし、王朝おうちょうはしばらく余命よめいたもつこととなる[2]。                                       

ヴァーゲーラーあさ[編集へんしゅう]

1206ねん、アイバクはきたインドにデリー・スルターンあさ奴隷どれい王朝おうちょう樹立じゅりつし、領域りょういきてきにはきたインド最大さいだい勢力せいりょくとなった[3]。だが、中央ちゅうおうインドやラージャスターン地方ちほう中心ちゅうしん攻撃こうげきおこなったため、グジャラートではチャウルキヤあさ支配しはいつづいた[3]

しかし、1197ねんのアイバクのアナヒラパータカの占領せんりょうは、王朝おうちょう権威けんいきずをつけるかたちとなり、1210ねん前後ぜんごにビーマ2せいはジャヤンタシンハという人物じんぶつ王位おういうばわれている[4]

1223ねんから1226ねんあいだに、ビーマ2せい王位おうい奪還だっかんしたものの、ラージャスターン南部なんぶふうしんらが反乱はんらんこしたり、デカンのヤーダヴァあさ侵略しんりゃくけた[4]。ビーマ2せい宰相さいしょうラヴァナプラサーダ助力じょりょくでこの危機きき回避かいひしたが、かれはチャウルキヤあさ傍系ぼうけいヴァーゲーラーぞく出身しゅっしんで、息子むすこヴィーラダヴァラとともにドールカー領地りょうちをもち、強大きょうだいふうしん勢力せいりょく構成こうせいしていた[4]

1241ねんころにビーマ2せいぬと、息子むすこトリブヴァナパーラまましいだが、1243ねんころにヴィーラダヴァラの息子むすこヴィーサラによって王位おういうばわれた[4]。これにより、王位おういはヴァーゲーラーぞくうつり、おおくの歴史れきしはこれを「ヴァーゲーラーあさ」とんでいるが、かれらはチャウルキヤあさ自称じしょうした[4]

チャウルキヤあさはグジャラートを支配しはいつづけたが、最盛さいせい勢力せいりょく回復かいふくするにはいたらず、北方ほっぽう奴隷どれい王朝おうちょうとはたたかわず、むしろパラマーラあさやヤーダヴァあさとよくあらそった[4]。だが、チャウルキヤあさにおけるジャイナきょう商業しょうぎょう発展はってんは、ソーランキーあさとのときと同様どうようにめざましかった[4]。ヴィーラダヴァラの大臣だいじんであったジャイナ教徒きょうとヴァストゥパーラテージャパーラ兄弟きょうだいはそのれいで、13世紀せいきのジャイナきょう寺院じいん建立こんりゅうしたことでられ、アーブーさんギルナールさんのジャイナきょう寺院じいんぐんへもおお貢献こうけんした[4]

商業しょうぎょうめんでも、モンゴル帝国ていこくユーラシア統合とうごうしたことで、インドの交易こうえきがさかんとなり、ソームナートといったグジャラート沿海えんかい都市としのみならず、首都しゅとアナヒラパータカなど内陸ないりく都市とし重要じゅうようされ、前代ぜんだいよりも商業しょうぎょうてき繁栄はんえい享受きょうじゅした[5]商人しょうにん活動かつどう商業しょうぎょうにとどまらず、都市としだい商人しょうにんらが事実じじつじょう支配しはいし、ときには政府せいふ財務ざいむ役人やくにんとなることもあった[5]

一方いっぽう、1290ねんにデリー・スルターンあさでは、奴隷どれい王朝おうちょうからハルジーあさへと交代こうたいし、1196ねんアラー・ウッディーン・ハルジー即位そくいすると、この平和へいわ状況じょうきょうわることとなる。ハルジーあさはモンゴル方面ほうめんからの侵入しんにゅう激化げきかしたことで、不安定ふあんてい北西ほくせい方面ほうめん陸路りくろより、むしろインド洋いんどようめんしたグジャラートの海岸かいがん地帯ちたい海路かいろ交易こうえき見出みいだしていた[5]

チャウルキヤあさ大臣だいじんマーダヴァはひそかにハルジーあさつうじており、1299ねんにハルジーあさ将軍しょうぐんウルグ・ハーンとヌスラト・ハーンのぐんが、その手引てびきでグジャラートに侵入しんにゅうすることとなった[5]。チャウルキヤおうカルナ2せいアーシャーパッリーでこれを迎撃げいげきしたがやぶれ、首都しゅとアナヒラパータカはとされ、デカンのヤーダヴァあさへと亡命ぼうめいした[5]

だが、ハルジーあさはグジャラートにぐん長官ちょうかんかずにデリーへ撤退てったいしたため、カルナ2せいはアナヒラパータカにもどり、統治とうち復帰ふっきした[5]。のちにアラー・ウッディーンの息子むすこむすめとしておくることを約束やくそくした[5]

しかし、カルナ2せい謀反むほんくわだてているという情報じょうほうながれるようになり、1304ねんにハルジーあさ警告けいこくもなくグジャラートへと侵入しんにゅうした[5]。カルナ2せいはこの突然とつぜん進軍しんぐんおどろき、首都しゅとアナヒラパータカをて、ふたたびヤーダヴァあさへと亡命ぼうめいし、王朝おうちょう滅亡めつぼうした(1306ねんにカルナ2せい死亡しぼうした)[5]

その、グジャラートはデリー・スルターンあさ支配しはいかれ、ふたた独立どくりつした王朝おうちょうができるのは、16世紀せいき初頭しょとうグジャラート・スルターンあさ成立せいりつしたときだった[5]

歴代れきだい君主くんしゅ[編集へんしゅう]

ソーランキーあさ[編集へんしゅう]

ヴァーゲーラーあさ[編集へんしゅう]

  • ヴィーラサ在位ざいい:1243ねんごろ - 1261ねんごろ
  • アルジュナ在位ざいい:1261ねんごろ - 1274ねんごろ
  • ラーマ在位ざいい:1274ねんごろ
  • サーランガ在位ざいい:1274ねんごろ - 1296ねんごろ
  • カルナ2せい在位ざいい:1296ねんごろ - 1304ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2 ―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.30
  2. ^ a b c d e f 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2 ―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.31
  3. ^ a b 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2 ―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.38
  4. ^ a b c d e f g h 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2 ―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.39
  5. ^ a b c d e f g h i j 小谷おたに世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2 ―中世ちゅうせい近世きんせい―』、p.40

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 小谷おたにひろしこれ世界せかい歴史れきし大系たいけい みなみアジア2 ―中世ちゅうせい近世きんせい―』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2007ねん 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]