リピト・イシュタル

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リピト・イシュタル
Lipit Ishtar
イシンおう
在位ざいい 紀元前きげんぜん1934ねん - 紀元前きげんぜん1924ねん

王朝おうちょう イシンだい1王朝おうちょう
父親ちちおや イシュメ・ダガン
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リピト・イシュタルLipit Ishtar)は、古代こだいメソポタミアイシンだい1王朝おうちょうだい5だいおうリピト・イシュタル法典ほうてんばれる法律ほうりつ文書ぶんしょのこしたことられる。

来歴らいれき[編集へんしゅう]

ぜんおうイシュメ・ダガン息子むすことしてまれた。かれ少年しょうねん時代じだいよりなんらかの高等こうとう教育きょういくけており、学識がくしきゆたかなおうであったとつたえられる。

かれちちおうおこなっていた社会しゃかい改革かいかく継続けいぞくするとともに、領内りょうない安定あんていのためにイシンはじニップルウル減税げんぜい処置しょち徳政令とくせいれい発布はっぷして社会しゃかい安定あんていはかった。これらの事跡じせきは、かれ有名ゆうめいなものとしているリピト・イシュタル法典ほうてん序文じょぶん列挙れっきょされている。また、ちちおうならってむすめをウルの女性じょせい祭司さいしにんじた。

リピト・イシュタルのこれらの行動こうどうあきらかにウルだいさん王朝おうちょうおうたち意識いしきしたものであるが、それとは裏腹うらはらかれ対外たいがいてき困難こんなん直面ちょくめんした。領内りょうない反乱はんらんくわえ、アムルじんしょ部族ぶぞく圧力あつりょくつよまっており、さら決定的けっていてきなことにラルサグングヌムおうした急激きゅうげき勢力せいりょく拡大かくだいしていた。

リピト・イシュタルは政治せいじてき経済けいざいてききわめて重要じゅうよう都市としウルの支配しはいけんねらうグングヌムとたたかったが、地理ちりてき不利ふり(イシンはラルサよりウルからとおかった。)にくわえ、外敵がいてきおお状況じょうきょうなかで、最終さいしゅうてきにラルサによるウル占領せんりょう阻止そしすることはできなかった。ウル失陥しっかんはイシンだい1王朝おうちょう覇権はけん維持いじにとって致命傷ちめいしょうともえる出来事できごとであり、そののイシン没落ぼつらくつながることとなった。

そしてウル失陥しっかんはリピト・イシュタル自身じしん権威けんいにとっても致命傷ちめいしょうであった。ウルがラルサに占領せんりょうされたのとおなねんウル・ニヌルタによって王位おういうばわれリピト・イシュタルは死去しきょした。