グングヌム (Gungunum )は、南部 なんぶ メソポタミア の都市 とし 国家 こっか ラルサ の王 おう [注釈 ちゅうしゃく 1] 。伝統 でんとう 的 てき なラルサ王 おう 名 めい 表 ひょう によると、彼 かれ はラルサの第 だい 5代 だい 王 おう であり、彼 かれ 自身 じしん の碑文 ひぶん によればサミウム の息子 むすこ かつ前 ぜん 王 おう ザバイア の兄弟 きょうだい である。彼 かれ の名前 なまえ はアムル語 ご であり、「保護 ほご 」「防御 ぼうぎょ 」「庇護 ひご 」などを意味 いみ する「gungun」という単語 たんご から来 き ている[2] 。
あまり重要 じゅうよう 性 せい を持 も たない都市 とし であったラルサ市 し は、グングヌム治世 ちせい 下 か にウル第 だい 三 さん 王朝 おうちょう 滅亡 めつぼう (前 ぜん 2002年 ねん )後 ご 南部 なんぶ メソポタミアを支配 しはい したイシン 市 し に対 たい する力強 ちからづよ い挑戦 ちょうせん 者 しゃ となった。グングヌムの27年間 ねんかん の治世 ちせい はまた、彼 かれ 以前 いぜん の王 おう たちに比 くら べ遥 はる かに記録 きろく が残 のこ されており、彼 かれ の治世 ちせい 中 ちゅう の完全 かんぜん な年代 ねんだい 順 じゅん の年 とし 名 めい のリスト、および4つの王 おう 碑文 ひぶん を参照 さんしょう することができる。これは彼 かれ 以前 いぜん の時代 じだい の年 とし 名 めい についての記録 きろく がほぼ欠如 けつじょ していることとは対照 たいしょう 的 てき であり、このことによって彼 かれ の治世 ちせい はラルサと周辺 しゅうへん 地域 ちいき の歴史 れきし を理解 りかい するという意味 いみ において分水嶺 ぶんすいれい となっている[3] 。
グングヌムはイシンの王 おう リピト・イシュタル 、およびウル・ニヌルタ と同 どう 時代 じだい の人物 じんぶつ である[4] 。
治世 ちせい 初期 しょき とエラムに対 たい する遠征 えんせい [ 編集 へんしゅう ]
南部 なんぶ メソポタミアとエラムの地図 ちず
前 ぜん 1932年 ねん にグングヌムが彼 かれ の兄弟 きょうだい ザバイア(ザバヤ)から王位 おうい を継承 けいしょう した時 とき 、ラルサはメソポタミアの政治 せいじ 世界 せかい において小 ちい さな勢力 せいりょく に過 す ぎないと見 み られていた。しかし、グングヌムがこの地方 ちほう に政治 せいじ 的 てき な足跡 あしあと を残 のこ すまで長 なが い時間 じかん はかからなかった。グングヌムの年 とし 名 めい は治世 ちせい 初期 しょき におけるエラム に対 たい する2度 ど の軍事 ぐんじ 遠征 えんせい を記録 きろく している。最初 さいしょ の遠征 えんせい は彼 かれ の治世 ちせい 第 だい 3年 ねん に行 おこな われ、エラムの一 いち 地方 ちほう であるバシメ (英語 えいご 版 ばん ) を攻撃 こうげき し破壊 はかい した[5] 。この地方 ちほう は北 きた は南部 なんぶ フーゼスターン から南 みなみ はブーシェフル に至 いた るペルシア湾 わん の海岸 かいがん 地域 ちいき に位置 いち していたであろう[6] 。
グングヌムはこの勝利 しょうり に続 つづ き、別 べつ の遠征 えんせい を治世 ちせい 第 だい 5年 ねん に実施 じっし した。この時 とき はエラム最大 さいだい の都市 とし の一 ひと つであり最 もっと も重要 じゅうよう な都市 とし の一 ひと つであったアンシャン を攻撃 こうげき して破壊 はかい した。この出兵 しゅっぺい はグングヌムに莫大 ばくだい な富 とみ と偉大 いだい な政治 せいじ 的 てき 威信 いしん をもたらしたに違 ちが いない。そうでなければ、何 なに が彼 かれ をこれらの東方 とうほう のエラムへの遠征 えんせい に駆 か り立 た てたのか説明 せつめい 不能 ふのう である。一 ひと つの可能 かのう 性 せい は、アンシャンが45年 ねん 前 まえ にイシン王 おう イディン・ダガン の娘 むすめ とアンシャンの支配 しはい 者 しゃ が結婚 けっこん することで結 むす ばれたことが知 し られているアンシャンとイシンの同盟 どうめい を維持 いじ していた可能 かのう 性 せい である[7] 。この想定 そうてい が事実 じじつ である場合 ばあい 、グングヌムのエラム遠征 えんせい は、イシンの地域 ちいき 的 てき 覇権 はけん に挑戦 ちょうせん する前 まえ にラルサの東側 ひがしがわ 面 めん の安全 あんぜん を確保 かくほ するための成功 せいこう した試 こころ みであったと理解 りかい することができる。
グングヌムの2回 かい のエラムに対 たい する遠征 えんせい に続 つづ く時代 じだい は比較的 ひかくてき 穏 おだ やかであったように思 おも われる。彼 かれ のその後 ご の4年間 ねんかん の年 とし 名 めい は新 あたら しい大 だい 祭司 さいし の任命 にんめい や、ラルサ市 し の都市 とし 神 しん ウトゥ 神 かみ の聖域 せいいき への巨大 きょだい な銅像 どうぞう の設置 せっち など、都市 とし 神 しん ウトゥのための活動 かつどう に捧 ささ げられている[7] 。
イシンとの戦 たたか いにおけるグングヌムの最初 さいしょ の大 おお きな成功 せいこう は、彼 かれ がかつてのウル第 だい 三 さん 王朝 おうちょう の都 と ウル を征服 せいふく したことである。この都市 とし は前 まえ 2002年 ねん にエラムからの侵略 しんりゃく によって落城 らくじょう した直後 ちょくご からイシン王国 おうこく の一部 いちぶ として支配 しはい 下 か にあった。グングヌムによるウル市 し 征服 せいふく を直接 ちょくせつ 記録 きろく している史料 しりょう は見 み つかっていないが、ウルで発見 はっけん された文書 ぶんしょ にある年 とし 名 めい はこの都市 とし の支配 しはい がイシンの手 て からラルサに移 うつ ったことを明確 めいかく に示 しめ しており、イシン王 おう リピト・イシュタル の臣下 しんか たちが突然 とつぜん グングヌムの臣下 しんか たちに道 みち を譲 ゆず っている。グングヌムがウルを制圧 せいあつ した正確 せいかく な年 とし を確定 かくてい することはできないが、これまで発見 はっけん されたグングヌムの年 とし 名 めい が、それは彼 かれ の治世 ちせい 第 だい 7年 ねん か治世 ちせい 第 だい 10年 ねん 、つまり前 ぜん 1926年 ねん か前 まえ 1923年 ねん のことであることを示 しめ している[注釈 ちゅうしゃく 2] 。また、グングヌムの治世 ちせい 第 だい 10年 ねん からは年 とし 名 めい がウルに直接 ちょくせつ 言及 げんきゅう するようになり、治世 ちせい 第 だい 10年 ねん から治世 ちせい 第 だい 14年 ねん の間 あいだ の全 すべ ての年 とし 名 めい が、ウル市 し の守護神 しゅごじん ナンナ の神殿 しんでん での2つのスタンダードの設置 せっち や、ナンナ神 しん に対 たい する恐 おそ らくはグングヌム自身 じしん の像 ぞう の奉納 ほうのう など、ウル市 し で行 おこな われている宗教 しゅうきょう 活動 かつどう に関連 かんれん している[8] 。これらから、ウル市 し が完全 かんぜん にグングヌムによって確保 かくほ されていたことに疑問 ぎもん の余地 よち はなく、彼 かれ はウルの主要 しゅよう な神 かみ 々やその神官 しんかん と高官 こうかん との関係 かんけい を発展 はってん させることを通 つう じて自 みずか らの権力 けんりょく を固 かた める努力 どりょく を続 つづ けていた。
ウル市 し の征服 せいふく はイシンとラルサの間 あいだ のパワーバランスに重大 じゅうだい な影響 えいきょう を及 およ ぼしたに違 ちが いない。この古 いにしえ の都 と を支配 しはい していることは、イシンがウル第 だい 三 さん 王朝 おうちょう の正統 せいとう の後継 こうけい 者 しゃ であることのイデオロギー的 てき な基礎 きそ であり[9] 、同時 どうじ に南 みなみ にあるウル市 し の立地 りっち によって、この都市 とし はペルシア湾 わん を横断 おうだん する交易 こうえき 網 もう に繋 つな がる交易 こうえき と経済 けいざい の中心 ちゅうしん 地 ち となっていた[10] 。また、この都市 とし を支配 しはい するという名誉 めいよ を得 え たことはグングヌムと彼 かれ の支配 しはい する王国 おうこく にとって偉大 いだい な勝利 しょうり であったが、にもかかわらず彼 かれ はウルの既存 きそん の組織 そしき (これらの多 おお くがイシン王 おう リピト・イシュタルによって任命 にんめい された人々 ひとびと によって運営 うんえい されていたにもかかわらず)の一貫 いっかん 性 せい を尊重 そんちょう したように思 おも われる。このことは、グングヌムの治世 ちせい 第 だい 13年 ねん の年 とし 名 めい によって証明 しょうめい されている。この年 とし の年 とし 名 めい はニン・グブラガ (英語 えいご 版 ばん ) の神殿 しんでん の女 おんな 大 だい 祭司 さいし (high priestess)として、イシン王 おう リピト・イシュタルの娘 むすめ で以前 いぜん からその地位 ちい にあったエンニンスンジ (Enninsunzi )を任命 にんめい したことを記録 きろく している。加 くわ えて、リピト・イシュタルの前 まえ のイシン王 おう イシュメ・ダガン の娘 むすめ でナンナの女 おんな 大 だい 祭司 さいし エンアナトゥマ (Enanatuma )がウルの宗教 しゅうきょう 的 てき 権威 けんい としてグングヌム治世 ちせい 下 か にウル市 し に残留 ざんりゅう しており、彼女 かのじょ はグングヌムに対 たい しいくつかの宗教 しゅうきょう 的 てき 建造 けんぞう 物 ぶつ を捧 ささ げさえしている[11] 。
ウル市 し がラルサの宗主 そうしゅ 権 けん 下 か に入 はい った時期 じき 以降 いこう のイシンとラルサの間 あいだ の軍事 ぐんじ 衝突 しょうとつ についての更 さら なる記録 きろく がある。これにはイシン王 おう リピト・イシュタルと彼 かれ の将軍 しょうぐん ナンナ・キアグ(Nanna-kiga)の間 あいだ でやり取 と りされたとされる2通 つう の文学 ぶんがく 的 てき 手紙 てがみ があり、この中 なか でナンナ・キアグは、グングヌムと彼 かれ の軍勢 ぐんぜい が「道 みち 沿 ぞ いの建物 たてもの を占拠 せんきょ し[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 」複数 ふくすう の水路 すいろ がその脅威 きょうい に晒 さら されているとして、その進軍 しんぐん を阻 はば むためにリピト・イシュタル王 おう からの増援 ぞうえん を要請 ようせい している[12] 。これらの手紙 てがみ が実際 じっさい の出来事 できごと を記述 きじゅつ しているならば、それはグングヌムとリピト・イシュタルの両方 りょうほう が王位 おうい にあった時 とき の、より高 たか い次元 じげん の争 あらそ いを証明 しょうめい している。前 ぜん 1924年 ねん にリピト・イシュタルが死 し んだ後 のち 、リピト・イシュタルの後継 こうけい 者 しゃ ウル・ニヌルタの即位 そくい 後 ご に、グングヌムがこの新 しん 王 おう がウルのニンガル の神殿 しんでん への供物 くもつ を送 おく ることを許可 きょか した2つの事例 じれい が知 し られているように、時折 ときおり 緊張 きんちょう 緩和 かんわ の瞬間 しゅんかん があったようだが、イシンとラルサの間 あいだ の敵対 てきたい 的 てき な関係 かんけい はそのまま残 のこ った[10] 。
キスッラと静穏 せいおん な治世 ちせい 中期 ちゅうき [ 編集 へんしゅう ]
同 おな じ頃 ごろ に統治 とうち 者 しゃ を変 か えたと思 おも われるもう一 ひと つの地域 ちいき はイシンの南東 なんとう わずか20キロメートルに位置 いち するそこそこの大 おお きさの都市 とし キスッラ (英語 えいご 版 ばん ) である[13] 。この都市 とし はウル第 だい 三 さん 王朝 おうちょう の終焉 しゅうえん 以来 いらい 、恐 おそ らくイシンの領土 りょうど の一部 いちぶ であったであろう。しかしながら、イシン支配 しはい の長 なが い期間 きかん の間 あいだ 、碑文 ひぶん や日付 ひづけ のある文書 ぶんしょ は発見 はっけん されておらず、これまでの所 ところ キスッラから発掘 はっくつ された日付 ひづけ を持 も つ最古 さいこ の文書 ぶんしょ はグングヌムの治世 ちせい 第 だい 10年 ねん 、つまり前 ぜん 1923年 ねん のものである。これはほぼ確実 かくじつ にグングヌムがこの年 とし にはキスッラ市 し を保持 ほじ していたことを意味 いみ するが、この年 とし がグングヌムがキスッラを占領 せんりょう した最初 さいしょ の年 とし であるか、または占領 せんりょう がそれよりも前 まえ の時点 じてん で既 すで に行 おこな われていたのかどうかを判定 はんてい することはできない。いずれにしてもキスッラはラルサの支配 しはい 下 か には長 なが く留 と まることはなかった。この都市 とし で発見 はっけん された次 つぎ の年 とし 名 めい はイシン王 おう ウル・ニヌルタの治世 ちせい 第 だい 4年 ねん (前 ぜん 1921年 ねん )に属 ぞく するものであり、これはウル・ニヌルタの反撃 はんげき によってキスッラ市 し が彼 かれ の手元 てもと に戻 もど ったことを意味 いみ するに違 ちが いない[14] 。
キスッラの喪失 そうしつ の後 のち 、グングヌムの治世 ちせい は平穏 へいおん な段階 だんかい に入 はい ったようであり、少 すく なくとも彼 かれ の治世 ちせい 第 だい 13年 ねん から治世 ちせい 18年 ねん の年 とし 名 めい は専 もっぱ ら宗教 しゅうきょう 的 てき 行事 ぎょうじ と灌漑 かんがい 用水路 ようすいろ および神殿 しんでん の建設 けんせつ にのみ関係 かんけい している。これらには治世 ちせい 第 だい 16年 ねん のラルサ市 し のイナンナ の神殿 しんでん の建設 けんせつ と、治世 ちせい 第 だい 18年 ねん のカタッラ 市 し のルガルキドゥナ 神 かみ のための神殿 しんでん の建設 けんせつ が含 ふく まれる[15] 。
マルグイム、ウルク、ニップル [ 編集 へんしゅう ]
紀元前 きげんぜん 20世紀 せいき の南部 なんぶ メソポタミアの詳細 しょうさい 地図 ちず
グングヌムの治世 ちせい 第 だい 19年 ねん (前 ぜん 1914年 ねん )の年 とし 名 めい によれば、グングヌムはマルグイム (英語 えいご 版 ばん ) の軍勢 ぐんぜい を撃破 げきは し、「道 みち 沿 ぞ いの建物 たてもの を確保 かくほ して[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 、アン 神 かみ 、エンリル 神 かみ 、ナンナ 神 かみ の命 いのち により「山 やま の運河 うんが の源流 げんりゅう を解放 かいほう した[訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] 」[15] 。この二 ふた つの言説 げんせつ の正確 せいかく な意味 いみ を判断 はんだん するのは困難 こんなん であるが、マルグイムがマシュカン・シャピル (英語 えいご 版 ばん ) と、ティグリス川 がわ とディヤラ川 がわ の合流 ごうりゅう 点 てん よりも北 きた の、ティグリス河岸 かわぎし のどこかに位置 いち していたことから、マルグイムに対 たい する勝利 しょうり は、ティグリス川 がわ 沿 ぞ いに行 おこな われたグングヌムの北方 ほっぽう 遠征 えんせい の実施 じっし を明確 めいかく に示 しめ している[16] 。この地域 ちいき はイシン市 し の北東 ほくとう に位置 いち し、グングヌムがここへ侵入 しんにゅう したことは、ラルサがいまやこれまで以上 いじょう に北方 ほっぽう まで達 たっ する軍事 ぐんじ 的 てき 勢力 せいりょく を持 も っていたことがわかる。アン、エンリル、ナンナに言及 げんきゅう する同年 どうねん の年 とし 名 めい はグングヌム統治 とうち 下 か でのラルサの拡張 かくちょう の更 さら なる証拠 しょうこ である。これらの神 かみ 々は名目 めいもく としてはそれぞれウルク 、ニップル 、ウルの神 かみ である。この時点 じてん でグングヌムのウルでの権威 けんい は既 すで に良 よ く確立 かくりつ されていたが、他 た の二 ふた つの都市 とし 神 しん への言及 げんきゅう は、彼 かれ が更 さら にウルク市 し とニップル市 し の権力 けんりょく を握 にぎ った可能 かのう 性 せい があることを示 しめ している[15] 。ウルクの場合 ばあい 、ラルサのたった25キロメートル北東 ほくとう に位置 いち し、かつてイシンによってリピト・イシュタルの時代 じだい まで保持 ほじ されていたことが知 し られている[17] 。だが、リピト・イシュタルの死後 しご 、ウルク市 し の政治 せいじ 的 てき 地位 ちい は非常 ひじょう に不明瞭 ふめいりょう なものとなり、そしてグングヌムがこの都市 とし を支配 しはい 下 か に置 お くことができた可能 かのう 性 せい は明確 めいかく に存在 そんざい する。このようなシナリオはウンム・アル・ワウィヤ(Umm al-Wawiya)と呼 よ ばれる土地 とち で、グングヌムの名前 なまえ が刻 きざ まれた煉瓦 れんが が発見 はっけん されたことで更 さら にあり得 え るものとなっている[10] 。ウンム・アル・ワウィヤはウルクのすぐ近 ちか くに位置 いち しており、古代 こだい のデュルム(Durum)の町 まち である可能 かのう 性 せい がある[18] 。グングヌムがウルクの目 め と鼻 はな の先 さき まで手 て を伸 の ばしているということは、彼 かれ がウルク市 し 自体 じたい も支配 しはい していたという可能 かのう 性 せい を更 さら に高 たか めている。
一方 いっぽう で、ニップル市 し はイシン市 し の北 きた 30キロメートルに位置 いち し、メソポタミアの聖地 せいち として名高 なだか い都市 とし であった。ここにはシュメール神話 しんわ とアッカド神話 しんわ における最高 さいこう 神 しん 、嵐 あらし の神 かみ エンリルの神殿 しんでん があった。このことにより、ニップル市 し の支配 しはい 者 しゃ はこの都市 とし の統治 とうち をすることによって重要 じゅうよう な政治 せいじ 的 てき 威信 いしん を帯 お び、エンリルの神権 しんけん を持 も つという認識 にんしき を得 え ることにより、「シュメールとアッカドの王 おう 」という称号 しょうごう を主張 しゅちょう することができた。この称号 しょうごう は南部 なんぶ メソポタミア全体 ぜんたい の支配 しはい 権 けん をほのめかすものであった[19] [20] 。このニップル市 し の思想 しそう 的 てき 重要 じゅうよう 性 せい はこの都市 とし の支配 しはい をグングヌムにとって魅力 みりょく 的 てき な栄誉 えいよ としたであろうし、事実 じじつ 彼 かれ がこの聖 せい なる都市 とし を最終 さいしゅう 的 てき にイシンから奪 うば い取 と り、自 みずか らの領域 りょういき に組 く み込 こ むことに成功 せいこう したことを指摘 してき する重要 じゅうよう な証拠 しょうこ がある。年 とし 名 めい 上 じょう におけるエンリル神 しん への言及 げんきゅう とは別 べつ に、グングヌムがマルグイム市 し を撃破 げきは してから僅 わず か2年 ねん 後 ご に作成 さくせい した王 おう 碑文 ひぶん において、彼 かれ は「シュメールとアッカドの王 おう 」という称号 しょうごう を用 もち いている(それ以前 いぜん は「ウルの王 おう 」という限定 げんてい 的 てき な称号 しょうごう のみ使用 しよう していた。)。同時 どうじ に、同 おな じ時期 じき の二 ふた つの年 とし 名 めい はニップル市 し 付近 ふきん に仮設 かせつ された一連 いちれん の建築 けんちく 活動 かつどう に言及 げんきゅう する[注釈 ちゅうしゃく 3] 。最後 さいご に、ニップル市 し を調査 ちょうさ した考古 こうこ 学者 がくしゃ たちはグングヌムによって作成 さくせい されたウルの守護神 しゅごじん ナンナの規範 きはん がどのようなものであるか [訳語 やくご 疑問 ぎもん 点 てん ] を記述 きじゅつ した讃 さん 美歌 みか のコピーを発掘 はっくつ しており、奉納 ほうのう 品 ひん を捧 ささ げる行列 ぎょうれつ をエンリルの神殿 しんでん へと先導 せんどう している。エンリル神 しん の聖域 せいいき におけるこのラルサからもたらされた讃 さん 美歌 みか の写本 しゃほん の存在 そんざい は、ニップルの聖職 せいしょく 部門 ぶもん がその宗教 しゅうきょう 的 てき 規範 きはん を受 う け入 い れたことを示唆 しさ している。これはグングヌムがこの都市 とし を揺 ゆ り動 うご かしていた時代 じだい のことであった可能 かのう 性 せい が最 もっと も高 たか い[21] 。
これらの証拠 しょうこ は全 すべ て、グングヌムが少 すく なくとも治世 ちせい 第 だい 19年 ねん 以降 いこう ニップル市 し を支配 しはい していたことをほぼ確実 かくじつ なものとしているが、この聖地 せいち に対 たい するラルサの支配 しはい がそれほど長 なが く続 つづ いていない事 こと も同様 どうよう に明 あき らかである。このことはイシン王 おう ウル・ニヌルタのものである二 ふた つの年 とし 名 めい によって明 あき らかである。この年 とし 名 めい はウル・ニヌルタが彼 かれ の手 て から失 うしな われたニップル市 し を奪回 だっかい することに成功 せいこう したことを強 つよ く示 しめ している。彼 かれ がどの外国 がいこく 勢力 せいりょく からニップルを奪回 だっかい したのかについては記録 きろく されていないが、それがラルサ以外 いがい の国 くに である可能 かのう 性 せい はほぼ無 な い。しかしながら、現存 げんそん するウル・ニヌルタの年代 ねんだい 順 じゅん 年 ねん 名 めい リストは不完全 ふかんぜん であり、イシンによるニップル市 し の奪回 だっかい が、グングヌムの生前 せいぜん の出来事 できごと であるのか、或 ある いは前 ぜん 1906年 ねん の彼 かれ の死 し 以降 いこう の出来事 できごと であうるのか確定 かくてい することは不可能 ふかのう である[22] 。
統治 とうち の強化 きょうか 、治世 ちせい 末期 まっき 、そして死 し [ 編集 へんしゅう ]
マルグイムに対 たい する勝利 しょうり に続 つづ くグングヌムの年 とし 名 めい はラルサ領内 りょうない における防御 ぼうぎょ 施設 しせつ 網 もう の改良 かいりょう に焦点 しょうてん が当 あ てられており、統治 とうち の安定 あんてい 強化 きょうか の時期 じき であることを示唆 しさ している。治世 ちせい 第 だい 20年 ねん 、グングヌムはウルで新 あたら しい大市 おおいち 門 もん を建設 けんせつ し、翌年 よくねん にはラルサ市 し 自体 じたい の周囲 しゅうい に巨大 きょだい な防御 ぼうぎょ 壁 かべ を完成 かんせい させた。彼 かれ はこの業績 ぎょうせき を「シュメールとアッカドの王 おう 」という称号 しょうごう を記載 きさい した王 おう 碑文 ひぶん 上 じょう で共 とも に記念 きねん している。最後 さいご に、治世 ちせい 第 だい 22年 ねん と第 だい 23年 ねん の年 とし 名 めい は要塞 ようさい 化 か された年 とし ドゥンヌム(Dunnum)の建設 けんせつ 活動 かつどう 、イシャルトゥム運河 うんが の掘削 くっさく 、そしてカ・ゲシュティン・アナ(Ka-Geštin-ana)の「偉大 いだい な壁 かべ 」の完成 かんせい に言及 げんきゅう している。これらは恐 おそ らくニップル市 し の近郊 きんこう に位置 いち していた[23] 。
更 さら に、グングヌムはこの頃 ころ また、キスッラ市 し の奪回 だっかい にも成功 せいこう したようであり、彼 かれ の治世 ちせい 第 だい 23年 ねん の年 とし 名 めい を持 も つ文書 ぶんしょ がこの都市 とし から発見 はっけん されている。この時 とき 、キスッラ市 し がどの程度 ていど の期間 きかん ラルサの支配 しはい 下 か に残 のこ っていたかは不明 ふめい であるが、少 すこ し後 ご のこの都市 とし の文書 ぶんしょ にはグングヌムの死 し に言及 げんきゅう する未 み 確認 かくにん の年 とし 名 めい が使用 しよう されている。このことは、キスッラ市 し の地方 ちほう 行政 ぎょうせい がラルサに直接的 ちょくせつてき に従属 じゅうぞく していたのか、あるいは前 ぜん 1900年 ねん 頃 ごろ のある時点 じてん で成立 せいりつ した地方 ちほう 王朝 おうちょう によって引 ひ き継 つ がれたのかどうかに関 かか わらず、グングヌムその人 ひと が治世 ちせい の最後 さいご の瞬間 しゅんかん までキスッラ市 し の地方 ちほう 政府 せいふ の基準 きじゅん であったことを示 しめ している[24] 。
グングヌム治世 ちせい の最後 さいご の5年間 ねんかん の年 とし 名 めい は全 すべ て宗教 しゅうきょう 活動 かつどう と灌漑 かんがい 作業 さぎょう の問題 もんだい に関 かか わるものである。この期間 きかん に年老 としお いたグングヌム王 おう はラルサ市 し にニンシンナ (英語 えいご 版 ばん ) のための神殿 しんでん を建設 けんせつ し、ウルのナンナ神殿 しんでん のための銀製 ぎんせい 像 ぞう を作 つく り、更 さら にギルス (英語 えいご 版 ばん ) 近郊 きんこう のバ・ウ・ヘ・ガル(Ba-ú-hé-gál)運河 うんが を掘削 くっさく した。グングヌムはこうして、比較的 ひかくてき 小国 しょうこく であったラルサをイシンの覇権 はけん を最終 さいしゅう 的 てき に崩 くず す地域 ちいき 的 てき 勢力 せいりょく へと変 か えた後 のち 、平和 へいわ 的 てき な記録 きろく で彼 かれ の治世 ちせい を締 し めくくっているように思 おも われる。グングヌムが死 し ぬと、ラルサ王位 おうい はアビ・サレ によって継承 けいしょう された。グングヌムと彼 かれ の詳 くわ しい関係 かんけい は、利用 りよう 可能 かのう な史料 しりょう によって家族 かぞく 関係 かんけい を知 し ることができないため、現在 げんざい のところ不明 ふめい である。とは言 い え、王位 おうい 継承 けいしょう は秩序 ちつじょ だっており、数 すう 多 おお くの廷臣 ていしん が新 あたら しい王 おう の下 した で元 もと の地位 ちい にとどまり、中断 ちゅうだん することなく奉仕 ほうし を続 つづ けていたという事実 じじつ が示 しめ すように、混乱 こんらん もなかった[25] 。
^ 在位 ざいい 期間 きかん はいわゆる古代 こだい オリエントの年代 ねんだい 学 がく における中 ちゅう 年代 ねんだい 説 せつ に基 もと づく。これは最近 さいきん ではある程度 ていど 正 ただ しいと確認 かくにん されている[1] 。
^ グングヌムの治世 ちせい 第 だい 7年 ねん の年 とし 名 めい を記載 きさい した文書 ぶんしょ がウル市 し から見 み つかっている。だが、この年 とし 名 めい はラルサのアビ・サレ王 おう の治世 ちせい 第 だい 11年 ねん (前 ぜん 1895年 ねん )の年 とし 名 めい と同一 どういつ であるため、この文書 ぶんしょ はアビ・サレ王 おう に関 かか わるものである可能 かのう 性 せい がある。一方 いっぽう で、ウルにおけるグングヌムの治世 ちせい 第 だい 10年 ねん の年 とし 名 めい 使用 しよう は確実 かくじつ に証明 しょうめい されている。Charpin 2004, p. 71, footnote 223を参照 さんしょう 。
^ 問題 もんだい の建築 けんちく 活動 かつどう の中 なか には要塞 ようさい 都市 とし ドゥンヌム(Dunnum)の建設 けんせつ 活動 かつどう 、グングヌムの治世 ちせい 第 だい 22年 ねん のいわゆるイシャルトゥム(Išartum)運河 うんが の掘削 くっさく 、そして治世 ちせい 第 だい 23年 ねん のカ・ゲシュティン・アナ(Ka-Geštin-ana)の「偉大 いだい な壁 かべ 」の完成 かんせい などが含 ふく まれる。
^ 板倉 いたくら ら 1988 , p. 93、およびManning SW, Griggs CB, Lorentzen B, Barjamovic G, Ramsey CB,
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^ Bryce 2009, p. 512
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^ Frayne 1998, p. 28
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^ Tyborowski 2012, p. 252–254
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