グングヌム

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グングヌム
Gungunum
ラルサおう
在位ざいい 紀元前きげんぜん1932ねん - 紀元前きげんぜん1906ねん

父親ちちおや サミウム
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グングヌムGungunum)は、南部なんぶメソポタミア都市とし国家こっかラルサおう[注釈ちゅうしゃく 1]伝統でんとうてきなラルサおうめいひょうによると、かれはラルサのだい5だいおうであり、かれ自身じしん碑文ひぶんによればサミウム息子むすこかつぜんおうザバイア兄弟きょうだいである。かれ名前なまえアムルであり、「保護ほご」「防御ぼうぎょ」「庇護ひご」などを意味いみする「gungun」という単語たんごからている[2]

あまり重要じゅうようせいたない都市としであったラルサは、グングヌム治世ちせいウルだいさん王朝おうちょう滅亡めつぼうぜん2002ねん南部なんぶメソポタミアを支配しはいしたイシンたいする力強ちからづよ挑戦ちょうせんしゃとなった。グングヌムの27年間ねんかん治世ちせいはまた、かれ以前いぜんおうたちにくらはるかに記録きろくのこされており、かれ治世ちせいちゅう完全かんぜん年代ねんだいじゅんとしめいのリスト、および4つのおう碑文ひぶん参照さんしょうすることができる。これはかれ以前いぜん時代じだいとしめいについての記録きろくがほぼ欠如けつじょしていることとは対照たいしょうてきであり、このことによってかれ治世ちせいはラルサと周辺しゅうへん地域ちいき歴史れきし理解りかいするという意味いみにおいて分水嶺ぶんすいれいとなっている[3]

グングヌムはイシンのおうリピト・イシュタル、およびウル・ニヌルタどう時代じだい人物じんぶつである[4]

治世ちせい[編集へんしゅう]

治世ちせい初期しょきとエラムにたいする遠征えんせい[編集へんしゅう]

南部なんぶメソポタミアとエラムの地図ちず

ぜん1932ねんにグングヌムがかれ兄弟きょうだいザバイア(ザバヤ)から王位おうい継承けいしょうしたとき、ラルサはメソポタミアの政治せいじ世界せかいにおいてちいさな勢力せいりょくぎないとられていた。しかし、グングヌムがこの地方ちほう政治せいじてき足跡あしあとのこすまでなが時間じかんはかからなかった。グングヌムのとしめい治世ちせい初期しょきにおけるエラムたいする2軍事ぐんじ遠征えんせい記録きろくしている。最初さいしょ遠征えんせいかれ治世ちせいだい3ねんおこなわれ、エラムのいち地方ちほうであるバシメ英語えいごばん攻撃こうげき破壊はかいした[5]。この地方ちほうきた南部なんぶフーゼスターンからみなみブーシェフルいたペルシアわん海岸かいがん地域ちいき位置いちしていたであろう[6]

グングヌムはこの勝利しょうりつづき、べつ遠征えんせい治世ちせいだい5ねん実施じっしした。このときはエラム最大さいだい都市としひとつでありもっと重要じゅうよう都市としひとつであったアンシャン攻撃こうげきして破壊はかいした。この出兵しゅっぺいはグングヌムに莫大ばくだいとみ偉大いだい政治せいじてき威信いしんをもたらしたにちがいない。そうでなければ、なにかれをこれらの東方とうほうのエラムへの遠征えんせいてたのか説明せつめい不能ふのうである。ひとつの可能かのうせいは、アンシャンが45ねんまえにイシンおうイディン・ダガンむすめとアンシャンの支配しはいしゃ結婚けっこんすることでむすばれたことがられているアンシャンとイシンの同盟どうめい維持いじしていた可能かのうせいである[7]。この想定そうてい事実じじつである場合ばあい、グングヌムのエラム遠征えんせいは、イシンの地域ちいきてき覇権はけん挑戦ちょうせんするまえにラルサの東側ひがしがわめん安全あんぜん確保かくほするための成功せいこうしたこころみであったと理解りかいすることができる。

グングヌムの2かいのエラムにたいする遠征えんせいつづ時代じだい比較的ひかくてきおだやかであったようにおもわれる。かれのそのの4年間ねんかんとしめいあたらしいだい祭司さいし任命にんめいや、ラルサ都市とししんウトゥかみ聖域せいいきへの巨大きょだい銅像どうぞう設置せっちなど、都市とししんウトゥのための活動かつどうささげられている[7]

ウル[編集へんしゅう]

イシンとのたたかいにおけるグングヌムの最初さいしょおおきな成功せいこうは、かれがかつてのウルだいさん王朝おうちょうウル征服せいふくしたことである。この都市としまえ2002ねんにエラムからの侵略しんりゃくによって落城らくじょうした直後ちょくごからイシン王国おうこく一部いちぶとして支配しはいにあった。グングヌムによるウル征服せいふく直接ちょくせつ記録きろくしている史料しりょうつかっていないが、ウルで発見はっけんされた文書ぶんしょにあるとしめいはこの都市とし支配しはいがイシンのからラルサにうつったことを明確めいかくしめしており、イシンおうリピト・イシュタル臣下しんかたちが突然とつぜんグングヌムの臣下しんかたちにみちゆずっている。グングヌムがウルを制圧せいあつした正確せいかくとし確定かくていすることはできないが、これまで発見はっけんされたグングヌムのとしめいが、それはかれ治世ちせいだい7ねん治世ちせいだい10ねん、つまりぜん1926ねんまえ1923ねんのことであることをしめしている[注釈ちゅうしゃく 2]。また、グングヌムの治世ちせいだい10ねんからはとしめいがウルに直接ちょくせつ言及げんきゅうするようになり、治世ちせいだい10ねんから治世ちせいだい14ねんあいだすべてのとしめいが、ウル守護神しゅごじんナンナ神殿しんでんでの2つのスタンダードの設置せっちや、ナンナしんたいするおそらくはグングヌム自身じしんぞう奉納ほうのうなど、ウルおこなわれている宗教しゅうきょう活動かつどう関連かんれんしている[8]。これらから、ウル完全かんぜんにグングヌムによって確保かくほされていたことに疑問ぎもん余地よちはなく、かれはウルの主要しゅようかみ々やその神官しんかん高官こうかんとの関係かんけい発展はってんさせることをつうじてみずからの権力けんりょくかためる努力どりょくつづけていた。

ウル征服せいふくはイシンとラルサのあいだのパワーバランスに重大じゅうだい影響えいきょうおよぼしたにちがいない。このいにしえ支配しはいしていることは、イシンがウルだいさん王朝おうちょう正統せいとう後継こうけいしゃであることのイデオロギーてき基礎きそであり[9]同時どうじみなみにあるウル立地りっちによって、この都市としはペルシアわん横断おうだんする交易こうえきもうつながる交易こうえき経済けいざい中心ちゅうしんとなっていた[10]。また、この都市とし支配しはいするという名誉めいよたことはグングヌムとかれ支配しはいする王国おうこくにとって偉大いだい勝利しょうりであったが、にもかかわらずかれはウルの既存きそん組織そしき(これらのおおくがイシンおうリピト・イシュタルによって任命にんめいされた人々ひとびとによって運営うんえいされていたにもかかわらず)の一貫いっかんせい尊重そんちょうしたようにおもわれる。このことは、グングヌムの治世ちせいだい13ねんとしめいによって証明しょうめいされている。このとしとしめいニン・グブラガ英語えいごばん神殿しんでんおんなだい祭司さいし(high priestess)として、イシンおうリピト・イシュタルのむすめ以前いぜんからその地位ちいにあったエンニンスンジEnninsunzi)を任命にんめいしたことを記録きろくしている。くわえて、リピト・イシュタルのまえのイシンおうイシュメ・ダガンむすめでナンナのおんなだい祭司さいしエンアナトゥマEnanatuma)がウルの宗教しゅうきょうてき権威けんいとしてグングヌム治世ちせいにウル残留ざんりゅうしており、彼女かのじょはグングヌムにたいしいくつかの宗教しゅうきょうてき建造けんぞうぶつささげさえしている[11]

ウルがラルサの宗主そうしゅけんはいった時期じき以降いこうのイシンとラルサのあいだ軍事ぐんじ衝突しょうとつについてのさらなる記録きろくがある。これにはイシンおうリピト・イシュタルとかれ将軍しょうぐんナンナ・キアグ(Nanna-kiga)のあいだでやりりされたとされる2つう文学ぶんがくてき手紙てがみがあり、このなかでナンナ・キアグは、グングヌムとかれ軍勢ぐんぜいが「みち沿いの建物たてもの占拠せんきょ[訳語やくご疑問ぎもんてん]複数ふくすう水路すいろがその脅威きょういさらされているとして、その進軍しんぐんはばむためにリピト・イシュタルおうからの増援ぞうえん要請ようせいしている[12]。これらの手紙てがみ実際じっさい出来事できごと記述きじゅつしているならば、それはグングヌムとリピト・イシュタルの両方りょうほう王位おういにあったときの、よりたか次元じげんあらそいを証明しょうめいしている。ぜん1924ねんにリピト・イシュタルがんだのち、リピト・イシュタルの後継こうけいしゃウル・ニヌルタの即位そくいに、グングヌムがこのしんおうがウルのニンガル神殿しんでんへの供物くもつおくることを許可きょかした2つの事例じれいられているように、時折ときおり緊張きんちょう緩和かんわ瞬間しゅんかんがあったようだが、イシンとラルサのあいだ敵対てきたいてき関係かんけいはそのままのこった[10]

キスッラと静穏せいおん治世ちせい中期ちゅうき[編集へんしゅう]

おなごろ統治とうちしゃえたとおもわれるもうひとつの地域ちいきはイシンの南東なんとうわずか20キロメートルに位置いちするそこそこのおおきさの都市としキスッラ英語えいごばんである[13]。この都市としはウルだいさん王朝おうちょう終焉しゅうえん以来いらいおそらくイシンの領土りょうど一部いちぶであったであろう。しかしながら、イシン支配しはいなが期間きかんあいだ碑文ひぶん日付ひづけのある文書ぶんしょ発見はっけんされておらず、これまでのところキスッラから発掘はっくつされた日付ひづけ最古さいこ文書ぶんしょはグングヌムの治世ちせいだい10ねん、つまりぜん1923ねんのものである。これはほぼ確実かくじつにグングヌムがこのとしにはキスッラ保持ほじしていたことを意味いみするが、このとしがグングヌムがキスッラを占領せんりょうした最初さいしょとしであるか、または占領せんりょうがそれよりもまえ時点じてんすでおこなわれていたのかどうかを判定はんていすることはできない。いずれにしてもキスッラはラルサの支配しはいにはながまることはなかった。この都市とし発見はっけんされたつぎとしめいはイシンおうウル・ニヌルタの治世ちせいだい4ねんぜん1921ねん)にぞくするものであり、これはウル・ニヌルタの反撃はんげきによってキスッラかれ手元てもともどったことを意味いみするにちがいない[14]

キスッラの喪失そうしつのち、グングヌムの治世ちせい平穏へいおん段階だんかいはいったようであり、すくなくともかれ治世ちせいだい13ねんから治世ちせい18ねんとしめいもっぱ宗教しゅうきょうてき行事ぎょうじ灌漑かんがい用水路ようすいろおよび神殿しんでん建設けんせつにのみ関係かんけいしている。これらには治世ちせいだい16ねんのラルサイナンナ神殿しんでん建設けんせつと、治世ちせいだい18ねんカタッラルガルキドゥナかみのための神殿しんでん建設けんせつふくまれる[15]

マルグイム、ウルク、ニップル[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん20世紀せいき南部なんぶメソポタミアの詳細しょうさい地図ちず

グングヌムの治世ちせいだい19ねんぜん1914ねん)のとしめいによれば、グングヌムはマルグイム英語えいごばん軍勢ぐんぜい撃破げきはし、「みち沿いの建物たてもの確保かくほして[訳語やくご疑問ぎもんてん]アンかみエンリルかみナンナかみいのちにより「やま運河うんが源流げんりゅう解放かいほうした[訳語やくご疑問ぎもんてん][15]。このふたつの言説げんせつ正確せいかく意味いみ判断はんだんするのは困難こんなんであるが、マルグイムがマシュカン・シャピル英語えいごばんと、ティグリスがわディヤラがわ合流ごうりゅうてんよりもきたの、ティグリス河岸かわぎしのどこかに位置いちしていたことから、マルグイムにたいする勝利しょうりは、ティグリスがわ沿いにおこなわれたグングヌムの北方ほっぽう遠征えんせい実施じっし明確めいかくしめしている[16]。この地域ちいきはイシン北東ほくとう位置いちし、グングヌムがここへ侵入しんにゅうしたことは、ラルサがいまやこれまで以上いじょう北方ほっぽうまでたっする軍事ぐんじてき勢力せいりょくっていたことがわかる。アン、エンリル、ナンナに言及げんきゅうする同年どうねんとしめいはグングヌム統治とうちでのラルサの拡張かくちょうさらなる証拠しょうこである。これらのかみ々は名目めいもくとしてはそれぞれウルクニップル、ウルのかみである。この時点じてんでグングヌムのウルでの権威けんいすで確立かくりつされていたが、ふたつの都市とししんへの言及げんきゅうは、かれさらにウルクとニップル権力けんりょくにぎった可能かのうせいがあることをしめしている[15]。ウルクの場合ばあい、ラルサのたった25キロメートル北東ほくとう位置いちし、かつてイシンによってリピト・イシュタルの時代じだいまで保持ほじされていたことがられている[17]。だが、リピト・イシュタルの死後しご、ウルク政治せいじてき地位ちい非常ひじょう不明瞭ふめいりょうなものとなり、そしてグングヌムがこの都市とし支配しはいくことができた可能かのうせい明確めいかく存在そんざいする。このようなシナリオはウンム・アル・ワウィヤ(Umm al-Wawiya)とばれる土地とちで、グングヌムの名前なまえきざまれた煉瓦れんが発見はっけんされたことでさらにありるものとなっている[10]。ウンム・アル・ワウィヤはウルクのすぐちかくに位置いちしており、古代こだいのデュルム(Durum)のまちである可能かのうせいがある[18]。グングヌムがウルクのはなさきまでばしているということは、かれがウルク自体じたい支配しはいしていたという可能かのうせいさらたかめている。

一方いっぽうで、ニップルはイシンきた30キロメートルに位置いちし、メソポタミアの聖地せいちとして名高なだか都市としであった。ここにはシュメール神話しんわアッカド神話しんわにおける最高さいこうしんあらしかみエンリルの神殿しんでんがあった。このことにより、ニップル支配しはいしゃはこの都市とし統治とうちをすることによって重要じゅうよう政治せいじてき威信いしんび、エンリルの神権しんけんつという認識にんしきることにより、「シュメールとアッカドのおう」という称号しょうごう主張しゅちょうすることができた。この称号しょうごう南部なんぶメソポタミア全体ぜんたい支配しはいけんをほのめかすものであった[19][20]。このニップル思想しそうてき重要じゅうようせいはこの都市とし支配しはいをグングヌムにとって魅力みりょくてき栄誉えいよとしたであろうし、事実じじつかれがこのせいなる都市とし最終さいしゅうてきにイシンからうばり、みずからの領域りょういきむことに成功せいこうしたことを指摘してきする重要じゅうよう証拠しょうこがある。としめいじょうにおけるエンリルしんへの言及げんきゅうとはべつに、グングヌムがマルグイム撃破げきはしてからわずか2ねん作成さくせいしたおう碑文ひぶんにおいて、かれは「シュメールとアッカドのおう」という称号しょうごうもちいている(それ以前いぜんは「ウルのおう」という限定げんていてき称号しょうごうのみ使用しようしていた。)。同時どうじに、おな時期じきふたつのとしめいはニップル付近ふきん仮設かせつされた一連いちれん建築けんちく活動かつどう言及げんきゅうする[注釈ちゅうしゃく 3]最後さいごに、ニップル調査ちょうさした考古こうこ学者がくしゃたちはグングヌムによって作成さくせいされたウルの守護神しゅごじんナンナの規範きはんがどのようなものであるか[訳語やくご疑問ぎもんてん]記述きじゅつしたさん美歌みかのコピーを発掘はっくつしており、奉納ほうのうひんささげる行列ぎょうれつをエンリルの神殿しんでんへと先導せんどうしている。エンリルしん聖域せいいきにおけるこのラルサからもたらされたさん美歌みか写本しゃほん存在そんざいは、ニップルの聖職せいしょく部門ぶもんがその宗教しゅうきょうてき規範きはんれたことを示唆しさしている。これはグングヌムがこの都市としうごかしていた時代じだいのことであった可能かのうせいもっとたか[21]

これらの証拠しょうこすべて、グングヌムがすくなくとも治世ちせいだい19ねん以降いこうニップル支配しはいしていたことをほぼ確実かくじつなものとしているが、この聖地せいちたいするラルサの支配しはいがそれほどながつづいていないこと同様どうようあきらかである。このことはイシンおうウル・ニヌルタのものであるふたつのとしめいによってあきらかである。このとしめいはウル・ニヌルタがかれからうしなわれたニップル奪回だっかいすることに成功せいこうしたことをつよしめしている。かれがどの外国がいこく勢力せいりょくからニップルを奪回だっかいしたのかについては記録きろくされていないが、それがラルサ以外いがいくにである可能かのうせいはほぼい。しかしながら、現存げんそんするウル・ニヌルタの年代ねんだいじゅんねんめいリストは不完全ふかんぜんであり、イシンによるニップル奪回だっかいが、グングヌムの生前せいぜん出来事できごとであるのか、あるいはぜん1906ねんかれ以降いこう出来事できごとであうるのか確定かくていすることは不可能ふかのうである[22]

統治とうち強化きょうか治世ちせい末期まっき、そして[編集へんしゅう]

マルグイムにたいする勝利しょうりつづくグングヌムのとしめいはラルサ領内りょうないにおける防御ぼうぎょ施設しせつもう改良かいりょう焦点しょうてんてられており、統治とうち安定あんてい強化きょうか時期じきであることを示唆しさしている。治世ちせいだい20ねん、グングヌムはウルであたらしい大市おおいちもん建設けんせつし、翌年よくねんにはラルサ自体じたい周囲しゅうい巨大きょだい防御ぼうぎょかべ完成かんせいさせた。かれはこの業績ぎょうせきを「シュメールとアッカドのおう」という称号しょうごう記載きさいしたおう碑文ひぶんじょうとも記念きねんしている。最後さいごに、治世ちせいだい22ねんだい23ねんとしめい要塞ようさいされたとしドゥンヌム(Dunnum)の建設けんせつ活動かつどう、イシャルトゥム運河うんが掘削くっさく、そしてカ・ゲシュティン・アナ(Ka-Geštin-ana)の「偉大いだいかべ」の完成かんせい言及げんきゅうしている。これらはおそらくニップル近郊きんこう位置いちしていた[23]

さらに、グングヌムはこのころまた、キスッラ奪回だっかいにも成功せいこうしたようであり、かれ治世ちせいだい23ねんとしめい文書ぶんしょがこの都市としから発見はっけんされている。このとき、キスッラがどの程度ていど期間きかんラルサの支配しはいのこっていたかは不明ふめいであるが、すこのこの都市とし文書ぶんしょにはグングヌムの言及げんきゅうする確認かくにんとしめい使用しようされている。このことは、キスッラ地方ちほう行政ぎょうせいがラルサに直接的ちょくせつてき従属じゅうぞくしていたのか、あるいはぜん1900ねんごろのある時点じてん成立せいりつした地方ちほう王朝おうちょうによってがれたのかどうかにかかわらず、グングヌムそのひと治世ちせい最後さいご瞬間しゅんかんまでキスッラ地方ちほう政府せいふ基準きじゅんであったことをしめしている[24]

グングヌム治世ちせい最後さいごの5年間ねんかんとしめいすべ宗教しゅうきょう活動かつどう灌漑かんがい作業さぎょう問題もんだいかかわるものである。この期間きかん年老としおいたグングヌムおうはラルサニンシンナ英語えいごばんのための神殿しんでん建設けんせつし、ウルのナンナ神殿しんでんのための銀製ぎんせいぞうつくり、さらギルス英語えいごばん近郊きんこうのバ・ウ・ヘ・ガル(Ba-ú-hé-gál)運河うんが掘削くっさくした。グングヌムはこうして、比較的ひかくてき小国しょうこくであったラルサをイシンの覇権はけん最終さいしゅうてきくず地域ちいきてき勢力せいりょくへとえたのち平和へいわてき記録きろくかれ治世ちせいめくくっているようにおもわれる。グングヌムがぬと、ラルサ王位おういアビ・サレによって継承けいしょうされた。グングヌムとかれくわしい関係かんけいは、利用りよう可能かのう史料しりょうによって家族かぞく関係かんけいることができないため、現在げんざいのところ不明ふめいである。とはえ、王位おうい継承けいしょう秩序ちつじょだっており、すうおおくの廷臣ていしんあたらしいおうしたもと地位ちいにとどまり、中断ちゅうだんすることなく奉仕ほうしつづけていたという事実じじつしめすように、混乱こんらんもなかった[25]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 在位ざいい期間きかんはいわゆる古代こだいオリエントの年代ねんだいがくにおけるちゅう年代ねんだいせつもとづく。これは最近さいきんではある程度ていどただしいと確認かくにんされている[1]
  2. ^ グングヌムの治世ちせいだい7ねんとしめい記載きさいした文書ぶんしょがウルからつかっている。だが、このとしめいはラルサのアビ・サレおう治世ちせいだい11ねんぜん1895ねん)のとしめい同一どういつであるため、この文書ぶんしょはアビ・サレおうかかわるものである可能かのうせいがある。一方いっぽうで、ウルにおけるグングヌムの治世ちせいだい10ねんとしめい使用しよう確実かくじつ証明しょうめいされている。Charpin 2004, p. 71, footnote 223を参照さんしょう
  3. ^ 問題もんだい建築けんちく活動かつどうなかには要塞ようさい都市としドゥンヌム(Dunnum)の建設けんせつ活動かつどう、グングヌムの治世ちせいだい22ねんのいわゆるイシャルトゥム(Išartum)運河うんが掘削くっさく、そして治世ちせいだい23ねんのカ・ゲシュティン・アナ(Ka-Geštin-ana)の「偉大いだいかべ」の完成かんせいなどがふくまれる。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 板倉いたくらら 1988, p. 93、およびManning SW, Griggs CB, Lorentzen B, Barjamovic G, Ramsey CB, Kromer B, et al. (2016) Integrated Tree-Ring-Radiocarbon High-Resolution Timeframe to Resolve Earlier Second Millennium BCE Mesopotamian Chronology. PLoS ONE 11(7): e0157144を参照さんしょう。 doi:10.1371/journal.pone.0157144
  2. ^ Fitzgerald 2002, p. 37-38
  3. ^ Fitzgerald 2002, p. 38
  4. ^ Fitzgerald 2002, p. 159–160
  5. ^ Fitzgerald 2002, p. 38-39
  6. ^ Steinkeller 1982, p. 240–243
  7. ^ a b Fitzgerald 2002, s. 39
  8. ^ Fitzgerald 2002, p. 40-41
  9. ^ McIntosh 2005, p. 84
  10. ^ a b c Charpin 2004, p. 72
  11. ^ Fitzgerald 2002, p. 41-42
  12. ^ Fitzgerald 2002, p. 42-44
  13. ^ Charpin 2004, p. 74
  14. ^ Tyborowski 2012, p. 252
  15. ^ a b c Fitzgerald 2002, p. 42
  16. ^ Bryce 2009, p. 441
  17. ^ Frayne 1990, s. 439
  18. ^ Michalowski 1977, p. 88. But see Verkinderen (2006) for an alternative location of Durum
  19. ^ Bryce 2009, p. 512
  20. ^ Van De Mieroop 2015, p. 96
  21. ^ Frayne 1998, p. 27-28
  22. ^ Frayne 1998, p. 28
  23. ^ Fitzgerald 2002, p. 44. See also footnote no. 27
  24. ^ Tyborowski 2012, p. 252–254
  25. ^ Fitzgerald 2002, p. 45-46

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

和書わしょ[編集へんしゅう]

洋書ようしょ[編集へんしゅう]

  • Bryce, Trevor. The Routledge Handbook of the Peoples and Places of Ancient Western Asia: From the Early Bronze Age to the Fall of the Persian Empire. Taylor & Francis, 2009. ISBN 0-415-39485-6.
  • Charpin, Dominique. Histoire politique du Proche-Orient amorrite (2002–1595) in Orbus Biblicus et Orientalis 160/4: Mesopotamien. Die altbabylonische Zeit. Academic Press, Fribourg and Vandenhoek & Ruprecht, Göttingen, 2004.
  • Crawford, Harriet. Ur: The City of the Moon God. Bloomsbury Publishing, 2015. ISBN 1-4725-3169-8.
  • Fitzgerald, Madeleine André. The Rulers of Larsa. Yale University Dissertation, 2002.
  • Frayne, Douglas. Old Babylonian Period (2003–1595 BC). Volume 4, The Royal Inscriptions of Mesopotamia: Early Periods. University of Toronto Press, 1990. ISBN 0-8020-5873-6.
  • Frayne, Douglas. The Early Dynastic List of Geographical Names. American Oriental Series, Vol. 74. American Oriental Society, 1992.
  • Frayne, Douglas. New Light on the Reign of Ishme-Dagan. Zeitschrift für Assyriologie und Vorderasiatische Archäologie, Vol. 88, Issue 1 (January 1998).
  • Michalowski, Piotr. Durum and Uruk during the Ur III Period. Mesopotamia, Vol. 12 (1977).
  • Steinkeller, Piotr. The Question of Marhaši: A Contribution to the Historical Geography of Iran in the Third Millennium B.C. Zeitschrift für Assyriologie und Vorderasiatische Archäologie, Vol. 72, Issue 1 (January 1982).
  • Tyborowski, Witold. New Tablets from Kisurra and the Chronology of Central Babylonia in the Early Old Babylonian Period. Zeitschrift für Assyriologie und Vorderasiatische Archäologie, Vol. 102, Issue 2 (December 2012).
  • Van De Mieroop, Marc. A History of the Ancient Near East. John Wiley & Sons, 2015. ISBN 978-1-118-71816-2.
  • Verkinderen, Peter. Les toponymes bàdki et bàd.anki. Akkadica, Vol. 127, No 2 (2006).

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]