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フーゼスターンしゅう

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フーゼスターンしゅう
استان خوزستان
位置いち
イランにおけるフーゼスターン(塗りつぶし部)。
統計とうけい
州都しゅうと:
 • 測地そくちけい:
アフヴァーズ
 • 北緯ほくい3119ふん38びょう 東経とうけい4841ふん38びょう / 北緯ほくい31.3273 東経とうけい48.6940 / 31.3273; 48.6940
面積めんせき: 64,055 km²
人口じんこう(2016ねん
 • 人口じんこう密度みつど:
4,710,509にん
 • 67.8にん/km²
シャフレスターンかず 18
タイムゾーン: UTC+3:30
おも言語げんご: ペルシア
バフティヤーリー
アラビア
ロル
ガシュガーイー
ISO 3166-2:IR: IR-10
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フーゼスターンしゅう(フーゼスターンしゅう、ペルシア: استان خوزستان‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Ostān-e Khūzestān)はイランしゅう(オスターン)。イラン南西なんせいにあってイラク国境こっきょうせっし、ペルシアわんめんする。平地ひらち地続じつづきのため、歴史れきしてきにイラクけい住民じゅうみんおおい。州都しゅうとアフヴァーズ面積めんせきは63,238km2

フーゼスターンの語源ごげん[編集へんしゅう]

フーゼスターンは首都しゅとスーサにおいた古代こだいエラムとして歴史れきし登場とうじょうする。エラムじん自身じしんはこのをハタミ、またはハルタミ (Hatami, Haltami) とんでいた。エラムの呼称こしょうシュメールによるシュメールでの他称たしょうである。

アーリアじん流入りゅうにゅう最初さいしょ定住ていじゅうしてエラムじん混淆こんこうした場所ばしょであるため、イランじんには「イラン揺籃ようらん」として言及げんきゅうされることがある。エラムは、古代こだいペルシアで「フーズィヤー」であるが、これが現在げんざいのフーゼスターンの語源ごげんである。フーゼスターンとはもともとの住民じゅうみんである「フーズィー」のひとびとの「フーズィーの」を意味いみする。フーゼスターンはイランでもっとも歴史れきしふか地域ちいきである。以降いこうメディアアルサケスあさなどの基盤きばんとなった。サーサーンあさジュンディーシャープール所在しょざいしたのもフーゼスターンである。

以前いぜんに「アラベスターン」とばれたこともあったが、これはとくに1440ねんのアラブのムシャーシャイーヤのなが、ムハンマド・イブン・ファラーフの攻撃こうげき開始かいしと、それ以降いこうのアラブ人口じんこう増加ぞうかともなうものである。1923ねんレザー・パフラヴィー本来ほんらいフーゼスターンしゅうあらためた。

地理ちり気候きこう[編集へんしゅう]

1996ねん調査ちょうさでは人口じんこうやく370まんにん、62.5%が都市とし住民じゅうみんで、36.5%が農村のうそん住民じゅうみんのこり1%が遊牧民ゆうぼくみんである。

フーザスターンしゅう基本きほんてき平野へいや山岳さんがく地帯ちたい二分にぶんされる。平野ひらの南西なんせい方面ほうめんひろがり、カールーンがわキャルヘがわジャラーヒーがわによって灌漑かんがいされている。山岳さんがく地帯ちたい北西ほくせい方面ほうめんで、ザーグロス山脈さんみゃくみなみみねをなす。

つねりゅうする大河たいがしゅうない貫流かんりゅうする自然しぜん環境かんきょうは、そのゆたかさにおいてイラン国内こくない追随ついずいゆるさない。イラン最長さいちょう850kmをながれるカールーンがわはフーゼスターンをとおり、シャットゥルアラブがわ(イランめい:アルヴァンドがわ)をてペルシアわんそそぐ。

気候きこうはおおむね温暖おんだん湿潤しつじゅんとく南部なんぶいちじるしい。ふゆ乾燥かんそうしており快適かいてきである。

フーゼスターンしゅうにはななつのしまがある。ミーヌとうとアーバーダーンとうのみにひと居住きょじゅうしており、アーバーダーンとうは、バフマンシールがわとアルヴァンドがわとペルシアわんかこまれている。1953ねんの。1953ねん日章丸にっしょうまる事件じけん舞台ぶたいとなったミーヌとうはアルヴァンドがわふたつの支流しりゅうあいだ存在そんざいし、標高ひょうこうは10メートルほど。

隣接りんせつしゅう[編集へんしゅう]

行政ぎょうせい区分くぶん[編集へんしゅう]

州都しゅうとのほか、管下かんかベフバハーン英語えいごばんアーバーダーンアンディーメシュクホッラムシャフルバンダレ・エマームデズフールシューシュタルオミーディーイェイーゼバーゲ・マレクマーフ・シャフルダシュテ・アーザーデガーンラームホルモズシャーデガーンスーサマスジェデ・ソレイマーンミーヌーとうホヴェイゼとう各市かくし(シャフル)をようする。

住民じゅうみん[編集へんしゅう]

民族みんぞく[編集へんしゅう]

フーゼスターンしゅうは、イランの地域ちいきことなり、非常ひじょうおおくの少数しょうすう民族みんぞくむ。主要しゅよう都市としにはペルシアじんむ。イラニアン・アラブ英語えいごばんロルバフティヤーリーぞく (Bakhtiari)、ミズラヒムラクじん北部ほくぶむ。トルコけいカシュガーイーアフシャール英語えいごばんは、ベフバハーン英語えいごばんデズフールシューシュタル、ペルシア湾岸わんがん地域ちいきむ。イラン政府せいふによる民族みんぞくべつ公式こうしき統計とうけいはない。

言語げんご[編集へんしゅう]

西部せいぶフーゼスターンのペルシアじんかく地域ちいき特有とくゆう方言ほうげんはなし、おおくのフーゼスターンの住民じゅうみんペルシアアラビアバイリンガルである。母語ぼごくわえ、かく方言ほうげんするひとびともけっしてめずらしくはない。

宗教しゅうきょう[編集へんしゅう]

宗教しゅうきょうではシーア優位ゆういつが、少数しょうすうスンナユダヤ教徒きょうとキリスト教徒きりすときょうとマンダ教徒きょうとがいる。フーゼスターンのひとびとは、そのホスピタリティと気前きまえのよさでも有名ゆうめいである。

フーゼスターン出身しゅっしん有名人ゆうめいじん[編集へんしゅう]

フーゼスターン出身しゅっしんしゃにはおおくの科学かがくしゃ哲学てつがくしゃ詩人しじんがいる。アブー・ヌワースアブドッラー・イブン・マイムーン・アフワーズィーや、天文学てんもんがくしゃナウバフテ・アフワーズィー父子ふしや、ブフトシューア・ゴンディーシャープリーのジョルジース、イブン・サーキート、ダアバレ・ハザーイーらである。

歴史れきし[編集へんしゅう]

ぜんイスラーム[編集へんしゅう]

フーゼスターンしゅうスーサ周辺しゅうへん拠点きょてんをおく古代こだい文明ぶんめい中心ちゅうしんひとつである。ジャック・ドゥ・モーガンなどのフランスの考古こうこ学者がくしゃは、「ターレ・アリー・コシュ」周辺しゅうへん遺跡いせき紀元前きげんぜん8000ねんころにさかのぼるとしている。この地域ちいき拠点きょてんをおく最初さいしょ巨大きょだい勢力せいりょくエラムであり、アーリアけい王朝おうちょうであった。

考古学こうこがくてき調査ちょうさにより、フーゼスターンしゅう全域ぜんいきが「最初さいしょのペルシア文明ぶんめい[1]であるエラム文明ぶんめいであることがわかる。先述せんじゅつのようにフーゼスターンとはエラムに由来ゆらいするかたりであり(「Ūvja」[2])、エラムは北方ほっぽうのメソポタミアとは無関係むかんけいひとびとであった[3]

エルトン・ダニエルにしたがえば、エラムは「地理ちりてき意味いみにおいて、最初さいしょのイランの帝国ていこく創業そうぎょうであった」[4]。したがって、地政学ちせいがくてき重要じゅうようせいかんがみても、フーゼスターンしゅうはイラン最初さいしょ帝国ていこくであったといえるのである。

アッカド帝国ていこくウルだい3王朝おうちょうイシンだい2王朝おうちょうネブカドネザル1せいなどメソポタミアからなん侵略しんりゃくけたエラムは、紀元前きげんぜん640ねんにはアッシリア帝国ていこくアシュールバニーパルやぶれ、スーサやチョガ・ザンビール破壊はかいされた。しかし紀元前きげんぜん538ねんキュロス2せいはエラムのもどし、スーサはハカーマニシュあさ(アカイメネスあさ)の首都しゅとひとつとされた。紀元前きげんぜん521ねんダーラヤワウ大王だいおう(ダレイオス1せい)は「ハディーシュ」という宮殿きゅうでんをこのてた。ハカーマニシュあさおどろくべき繁栄はんえい栄光えいこう時代じだいアレクサンドロス3せい大王だいおう)の征服せいふくによっておわり、セレウコスあさがこの地域ちいき支配しはいした。

セレウコスあさ衰退すいたいするとアルサケスあさメフルダード1せいミトリダテス1せい紀元前きげんぜん171ねん - 紀元前きげんぜん137ねん)が支配しはいした。サーサーンあさ治世ちせいで、この地域ちいきはすばらしく発達はったつ繁栄はんえいし、アフヴァーズ、シューシュタル、アンディーメシュク北部ほくぶなどでおおくの建築けんちくおこなわれている。

かず世紀せいきにわたりネストリウスアラムもちいてこの地域ちいききょうせんひろげている。500ねんころには「ベス・フザイェ」とばれている。639ねんにはセレウキアクテシフォンなどともに首都しゅとけんマダーイン形成けいせいするマホーゼにネストリス主教しゅきょうガダラのイショヤフブ2せい主教しゅきょうがおかれている。

アラブの侵略しんりゃく[編集へんしゅう]

フーゼスターンへのアラブの侵略しんりゃく639ねんはじまった。バスラ総督そうとくアブー・ムーサー・アル=アシュアリーいのちによって派遣はけんされたぐんは「ホルモザン」をアフヴァーズからとし、スーサは2日間にちかん陥落かんらく、ホルモザンはシューシュタルに退しりぞいた。ここで18かげつにわたるおさむしろせんえるが、642ねん落城らくじょう。「フーゼスターン年代ねんだい」によればカタル出身しゅっしんものおさむしろぐん内通ないつうし、戦利せんりひんさんぶんいちえにあなったという。バスラぐんはネストリウス聖職せいしょくしゃとその弟子でしたちを追放ついほうしたが、ホルモザンはそのままのこした[5]

これにつづきジュンディーシャープールの征服せいふくおよびティグリス河岸かわぎし地域ちいき占領せんりょうおこなわれ、ニハーヴァンドのたたかにおいてフーゼスターンは最終さいしゅうてきにイスラーム勢力せいりょくはいることになった[6]

アラブ侵攻しんこうぐんのイラン南部なんぶへの定住ていじゅうつづき、植民しょくみんがはじまった。私有地しゆうちあたえられてのアラブの移住いじゅうなどがそれである[7]。イラン地域ちいき同様どうようにアラブの侵略しんりゃくによってフーゼスターンはウマイヤあさアッバースあさ占領せんりょうにおかれた。ヤアクーブ・イブン・ライース・アッ=サッファール東方とうほうから独立どくりつはたをひるがえし、フーゼスターンを奪回だっかいするまでこの占領せんりょうつづく。サッファールあさ短命たんめいわったが、イランしょ王朝おうちょうはこの地域ちいきをイランの重要じゅうよう一部いちぶとして統治とうちつづけたのである。

16世紀せいき後半こうはんクウェートからバヌー・カアブぞく英語えいごばんはいってきた[8]以降いこう、イラク南部なんぶからのアラブ部族ぶぞく移動いどうがあり、結果けっかとしてフーゼスターンのアラブ進行しんこうした。

Encyclopedia Iranicaでボスワースの記事きじによれば「サファヴィーあさ、ガージャールあさ時代じだいにはアラベスターンとばれ、ガージャールあさでは軍政ぐんせいにおかれた」。

1800年代ねんだい中葉ちゅうようイギリスはフーゼスターンを征服せいふくしようとして戦争せんそう仕掛しかけたが、これは失敗しっぱいした。この失態しったいにもかかわらず、英国えいこく外部がいぶのアラブ部族ぶぞくによるイラン侵略しんりゃく支援しえんし、フーゼスターンへのイランの影響えいきょう排除はいじょしようとのこころみをつづけた。これらの部族ぶぞくのうち、クウェートに起源きげんをもつシェイフ・ハズアルのひきいる最後さいご部族ぶぞくは、1925ねんレザー・シャーによってやぶられた。以降いこう80年間ねんかん、イラン・イラク戦争せんそう時期じきのぞいて、フーゼスターンしゅう発展はってん繁栄はんえいしてイランのいち地方ちほうとして、経済けいざいてき戦略せんりゃくてき重要じゅうようせいたもつづけた。

フーゼスターンは古代こだいにおいて学問がくもんてき文化ぶんか的中てきちゅう心地ごこちとしての卓越たくえつした存在そんざいであった。、ジュンディーシャープールへはエジプトギリシアインドローマから医学いがくしゃあつまった。これはシャープール1せい241ねん - 271ねん)のいのちによって設置せっちされ、シャープール2せい再建さいけんて、アヌーシールヴァーンの時代じだいにさらに拡張かくちょうされた。

イラン・イラク戦争せんそう[編集へんしゅう]

イラクとの国境こっきょうにあって、フーゼスターンはイラン・イラク戦争せんそうではイラン最大さいだい損害そんがいこうむった。

アーバーダーンのイラン最大さいだい精油せいゆしょ破壊はかいされ、いまだ復興ふっこういたっていない。有名ゆうめいおおくの「ナフレスターン」(ヤシ農場のうじょう)は壊滅かいめつ都市とし破壊はかいされ、史跡しせき粉砕ふんさいされた。1980ねん、フーゼスターンしゅう半分はんぶんはイラクぐんによって占領せんりょうされた。これによって輸送ゆそう能力のうりょくをはるかにえた非常ひじょう多数たすう難民なんみんがイランのしゅうながんだ。

しかしながら1982ねん、イランぐんサッダーム・フセイン軍隊ぐんたいをイラク領内りょうないもどした。「ホッラマーバード解放かいほう作戦さくせん」(ホッラマーバードはフーゼスターンのおおきな都市としひとつで、戦争せんそう帰趨きすううらなじゅう要港ようこうであった)は戦争せんそうのターニングポイントとなり、イランじんはこの戦争せんそうを「せいなる防衛ぼうえい Defa'-e moqaddas」と位置付いちづけ、今日きょうでもイランでは毎年まいとし公式こうしきいわわれている。

フーゼスターンをめぐるあらそ[編集へんしゅう]

フーゼスターンを動揺どうようさせる分離ぶんり主義しゅぎ運動うんどう最初さいしょこしたのは、シェイフ・ハズアルである。かれはじえい植民しょくみん主義しゅぎしゃによって後援こうえんされ、1897ねんには権力けんりょくにぎった。しかし最終さいしゅうてきには1925ねんレザー・シャー逮捕たいほされ、この地域ちいきはイランの支配しはいかえった。

フーゼスターンの支配しはいはイラン・イラク戦争せんそうにおけるサッダームの戦略せんりゃくてきだい一目いちもくてきであり、同地どうちを「アラビースターン」とび、アラブ領土りょうど失地しっち回復かいふくという大義名分たいぎめいぶんかかげて、イラクりょうへの併合へいごう目論もくろんだ。これにより多数たすうのイランじん避難ひなん余儀よぎなくされた。

イラン・イスラーム共和きょうわこく政府せいふ公式こうしき民族みんぞく統計とうけい調査ちょうさおこなっておらず、かく民族みんぞく人口じんこう決定けってい困難こんなんである。1990年代ねんだい初頭しょとうより、ペルシアじんのフーゼスターン住民じゅうみんが、主要しゅよう都市とし再建さいけん復興ふっこうにともない帰還きかんをはじめ、この趨勢すうせい現在げんざいつづいている。復興ふっこうはイスラーム共和きょうわこく体制たいせいによる軽視けいしのために遅々ちちとしたものであった。ホッラムシャフルのまちはサッダームの焦土しょうど作戦さくせんによってほとんど完全かんぜん壊滅かいめつした。さいわいにもイランぐんはイラクぐん主要しゅよう都市としへの焦土しょうど作戦さくせん実施じっし阻止そしすることができた。

1980ねんのロンドンイラン大使館たいしかん占拠せんきょ事件じけんはサッダームの後援こうえんするアラブ分離ぶんり主義しゅぎしゃによってはじめられたテロリストによる事件じけんであった。当初とうしょ、フーゼスターンにおける自治じち要求ようきゅうしたものであったが、のちには獄中ごくちゅうの91にん同志どうし釈放しゃくほう要求ようきゅうするようになった。アラブ分離ぶんり主義しゅぎしゃはサッダームのペルシアじんおよびイランないのアラブじん戦闘せんとういん戦闘せんとういんへの攻撃こうげき支持しじした。これはイランじんたいする民族みんぞく浄化じょうかであり、だい多数たすうのフーゼスターンのアラブじん住民じゅうみんは、イランに忠誠ちゅうせいちかい、のイランじんたちとかたならべてたたかったのである。戦争せんそう末期まっき、イラクぐん撤退てったいにともない、分離ぶんり主義しゅぎしゃらもイラク領内りょうないへと逃亡とうぼうした。サッダームはそのながくフーゼスターンにたいする侵略しんりゃく企図きといだつづけた。戦後せんごもフーゼスターンしゅうでは、サッダームに支援しえんされた分離ぶんり主義しゅぎしゃによるテロがきている。

現在げんざい、フーゼスターンしゅうからはマジュレス(イラン国会こっかい)に18にん専門せんもん会議かいぎに6にん代表だいひょうおくられている。

経済けいざい[編集へんしゅう]

石油せきゆ産業さんぎょう[編集へんしゅう]

フーゼスターンは中東ちゅうとう最初さいしょ油田ゆでんとされるナフトゥーン油田ゆでんをはじめとしてイランの主要しゅよう産油さんゆ地帯ちたいひとつであり、イランでもゆたかなしゅうひとつである。イランで最初さいしょ精油せいゆしょはアーバーダーンに設置せっちされ、1913ねん以降いこうイランは主要しゅよう石油せきゆ輸出ゆしゅつこくとなる。しかし石油せきゆとみ一般いっぱん市民しみん利益りえきあたえていない、との批判ひはんもある。イラン政府せいふはGDPにめるフーゼスターンしゅう割合わりあい全国ぜんこくだい3としている[9]

2019ねん、ザンガネ石油せきゆしょうは、2016ねんからしゅうない探査たんさしていたしん油田ゆでん推定すいてい埋蔵まいぞうりょうが530おくバレルにたっし、国内こくないだい2規模きぼであることをあきらかにした[10]

水運すいうん河川かせん[編集へんしゅう]

カールーンがわはイラン唯一ゆいいつこう河川かせんである。カールーンがわはシューシュタル近辺きんぺんまで、かなりの大型おおがたせん航行こうこうできる。イギリスはサー・ヘンリー・レイヤード発見はっけん以降いこう最近さいきんすうじゅう年間ねんかんいたるまで輸送ゆそうをカールーンがわ水運すいうんによってった。アフヴァーズ経由けいゆして、ナフトゥーン油田ゆでん最初さいしょ油井ゆせいのあるマスジェデ・ソレイマーンいたるものであった。

キャルヘ・ジャッラヒー、アルヴァンド、ハンディヤーン、シャーヴール、バフマンシール(バフマン・アルデシール)、マールーン・アラーア、デズなどの河川かせん、「フールス」、かたいけ湿原しつげんはこの地域ちいきみず資源しげん豊富ほうふさをしめしており、農産物のうさんぶつゆたかさのみなもとである。

農業のうぎょう[編集へんしゅう]

豊富ほうふみず肥沃ひよく土地とちにより、このゆたかな農地のうちとなっている。小麦こむぎ大麦おおむぎ搾油さくゆ種子しゅしべいユーカリ薬草やくそうなど、さまざまな農産のうさんひんがあり、おおくのヤシ農園のうえん柑橘かんきつ農園のうえん特徴とくちょうてきである。さらに、ナツメヤシ果樹かじゅえん柑橘かんきつけい果樹かじゅえんおおい。山地さんちオリーブ、そしてもちろんサトウキビてきし、肥沃ひよく平野へいやはすべての可能かのうせいしめしている。

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

カールーンがわだいさんダム、だいよんダム、キャルヘ・ダムは石油せきゆとともに国家こっかエネルギー資源しげん輸出ゆしゅつ資源しげんとなっている。石油せきゆ化学かがく鉄鋼てっこう鋼管こうかん発電はつでんしょ化学かがくプラント、精油せいゆしょなどのイランの主要しゅよう産業さんぎょうがある。主要しゅよう油田ゆでんのひとつ、ヤーダーヴァーラーン油田ゆでんもある。

文化ぶんか[編集へんしゅう]

フーゼスターン民謡みんよう色彩しきさいみ、祝祭しゅくさいてきなもので、それぞれの集団しゅうだんゆたかな慣習かんしゅう伝統でんとうをもつ。

フーゼスターン料理りょうりはもっとも主要しゅよう海産物かいさんぶつをはじめ、さまざまで、有名ゆうめいなものとしては、イラン南部なんぶ水域すいいきさかなを、たっぷりのスパイス、タマネギ、コリアンダーとともに料理りょうりした「ソブール」(ニシンダマシ)とばれる料理りょうりがある。ほかに「ガリーイェ・マーヒー」(さかなのシチュー)、「ガリーイェ・メイグー」(エビのシチュー)、「アーシェ・モフシャーラー」(ホッラムシャフルのあさのスープ)、「サル・シール」(アンディーメシュクのちち脂肪しぼうぶんおおいヘビークリーム)、「ハリーム」(シューシュタルのひつじ細切こまぎにく小麦こむぎ朝食ちょうしょく)などがある。イラン料理りょうり参照さんしょう

高等こうとう教育きょういく機関きかん[編集へんしゅう]

景勝けいしょう旧跡きゅうせき[編集へんしゅう]

イラン文化ぶんか遺産いさん協会きょうかいにはフーゼスターンしゅうから140ヵ所かしょ登録とうろくされている。イラン最古さいこ帝国ていこくであることの反映はんえいである。

  • チョガ・ザンビールエラム。このジッグラト今日きょう中東ちゅうとうのこ遺跡いせきでも有名ゆうめいなもののひとつで、伝説でんせつのこ神殿しんでん巨大きょだいすうせんのレンガによる迷宮めいきゅうてきかべとモノリスにはエラムの碑銘ひめいがあり、古代こだい実態じったいつたえている。神殿しんでん聖地せいちであり、スーサの都市とししんイーンシューシーナク顕彰けんしょうするものである。
  • 「シューシュ・ダニエル」:ユダヤの預言よげんしゃダニエル廟所びょうしょとされる。ダニエルはキュロス大王だいおうたっとばれ、ダーラヤワウ大王だいおういのちによりエルサレムかう途上とじょう、スーサでくなったといわれる。ウマイヤあさ圧制あっせい反抗はんこうしてがったヤアクーブ・イブン・ライース・アッ=サッファールのはかもこの近辺きんぺん
  • デズフール(「デズフ・ポル」):デズがわはし(ポル)を意味いみする。12の迫持せりもちをもちシャープール1せいいのちにより築造ちくぞうされた。おなきょうイスタフリーなどの史家しかは「アンダメシュきょう」ともいい、ここからまちを「アンディーメシュク」としている。ムカッダスィーは「はしまち」とんでいる。
  • シューシュタル:イランでもふる城塞じょうさい都市としひとつ。方言ほうげんで「40長老ちょうろうまち」の。シューシュタルの金曜きんようモスクはアッバースあさのもの。ローマふうのアーチをち54のれつばしらがある。
  • イーゼ(「イザジュ」):イスラーム勢力せいりょくのペルシア征服せいふくにおける主要しゅよう目標もくひょうひとつ。「ハレザードきょう」という非常ひじょうわったはしがあり、鋳造ちゅうぞうなまりの104mのたかさの橋脚きょうきゃくち、アルデシール・バーバカンのははをとっている。14世紀せいきおとずれたイブン・バットゥータ修道院しゅうどういんキャラヴァンサラーイ水道すいどうマドラサ城塞じょうさい言及げんきゅうしている。イラン国立こくりつ博物館はくぶつかんくらの「パルティアじん真鍮しんちゅうぞうはここから出土しゅつど
  • マスジェデ・ソレイマーン古代こだいからの都市とし。「サル・マスジェド」や「バルド・ネションデ」などのゾロアスターきょう神殿しんでんがある。バフティヤーリーの冬営とうえいで、ウィリアム・ノックス・ダーシーが、イラン最初さいしょ油田ゆでん採掘さいくつした場所ばしょでもある。
  • アーバーダーン預言よげんしゃエリヤはかがあるといわれる。
  • ヘルメスイーワーン」および「キャルヘのイーワーン」:スーサのきたにある詳細しょうさい不明ふめい遺跡いせき

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ A History of Persia, S. Percy Sykes, p.38
  2. ^ The Cambridge History of Iran, 2, 259, ISBN 0521069351
  3. ^ The Splendour of Iran, E. Booth-Clibborn, ISBN 1861540116序章じょしょう
  4. ^ The History of Iran, p.26, ISBN 0313000301
  5. ^ Islam as Others Saw It, p.184
  6. ^ Encyclopaedia Iranica, p.206
  7. ^ Encyclopaedia, p.212
  8. ^ J. R. Perry, "The Banu Ka'b: An Amphibious Brigand State in Khuzestan", Le Monde Iranien et L'Islam I, 1971, p.133
  9. ^ アーカイブされたコピー”. 2005ねん5がつ25にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2005ねん4がつ22にち閲覧えつらん
  10. ^ 発見はっけんされた油田ゆでん、イランで2番目ばんめ規模きぼに=ザンガネ石油せきゆしょう”. ロイター (2019ねん11月11にち). 2019ねん11月11にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]