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マリ (シリア)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
マリ
تل حريري (アラビア)
マリの遺跡いせき
マリはシリア東部に位置し、イラクとの国境に近い
マリはシリア東部に位置し、イラクとの国境に近い
シリアにおける位置いち
マリはシリア東部に位置し、イラクとの国境に近い
マリはシリア東部に位置し、イラクとの国境に近い
マリ (シリア) (近東きんとう)
別名べつめい Tell Hariri
所在地しょざいち シリア, デリゾールけん, アブ・カマル
座標ざひょう 北緯ほくい3432ふん58びょう 東経とうけい4053ふん24びょう / 北緯ほくい34.54944 東経とうけい40.89000 / 34.54944; 40.89000座標ざひょう: 北緯ほくい3432ふん58びょう 東経とうけい4053ふん24びょう / 北緯ほくい34.54944 東経とうけい40.89000 / 34.54944; 40.89000
種類しゅるい 居住きょじゅう
面積めんせき 60ヘクタール (150エーカー)
歴史れきし
完成かんせい 紀元前きげんぜん2900ねんごろ
放棄ほうき 紀元前きげんぜん3世紀せいき
時代じだい 青銅器せいどうき時代じだい
文化ぶんか キシュ文明ぶんめい, アムルじん
追加ついか情報じょうほう
関係かんけい考古こうこ学者がくしゃ アンドレ・パロ(en:André Parrot
状態じょうたい 廃墟はいきょ
所有しょゆうしゃ 公共こうきょう
一般いっぱん公開こうかい 公開こうかい
古代こだいオリエントの地図ちず

マリ(楔形文字くさびがたもじ: 𒈠𒌷𒆠, ma-riki, げんシリアりょうテル・ハリリTell Hariri; アラビア: تل حريري‎) は、ユーフラテスがわ中流ちゅうりゅう右岸うがん西岸せいがん)にあった古代こだいシュメール(シュメル)およびアムルじん都市とし国家こっか現在げんざいシリアまちアブ・カマル(Abu Kamal)の北西ほくせい11km、デリゾール南東なんとう120kmに位置いちする。紀元前きげんぜん5千年紀せんねんきには住居じゅうきょがあったとみられるが、都市としとして繁栄はんえいしたのは紀元前きげんぜん2900ねんごろから紀元前きげんぜん1759ねんにかけてのことで、そのハンムラビによって破壊はかいされた。

遺跡いせき発掘はっくつ

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マリのジッグラト宮殿きゅうでん付近ふきん所在しょざい

テル・ハリリ遺跡いせき1933ねん、シリアの東部とうぶイラク国境こっきょう付近ふきん発見はっけんされた。付近ふきんベドウィン人々ひとびとが、んだばかりの部族ぶぞく一員いちいんのためによい墓石はかいしさがそうとしておかっていたところ、あたまのないぞうつかった。当時とうじシリアを委任いにん統治とうちいていたフランス当局とうきょくはこのニュースにせっして調査ちょうさ開始かいしし、1933ねん12月12にちルーヴル美術館びじゅつかんから派遣はけんされた考古こうこ学者がくしゃアンドレ・パロの指揮しき遺跡いせき発掘はっくつ開始かいしした。よく1934ねん1がつ23にちにマリおうイシュキ・マリ(Išqi-Mari)の石像せきぞう発見はっけんされ、テル・ハリリが古代こだい都市としマリの遺跡いせきであることがあきらかになった[1]

考古こうこ学界がっかいは、マリを「シュメール文化ぶんかさい西端せいたん前哨ぜんしょう」と位置付いちづけている。また1930年代ねんだいのフランス調査ちょうさたいによる発掘はっくつ開始かいしから今日きょうまでに発見はっけんされた、楔形文字くさびがたもじアッカドかれた25,000まいにおよぶ膨大ぼうだい粘土ねんどばんは「マリ文書ぶんしょ」(Mari Tablets)とばれ、マリ王国おうこく習慣しゅうかん当時とうじ人々ひとびと名前なまえなど、おおくの情報じょうほう現在げんざいつたえている。ハンムラビによってマリが占領せんりょう破壊はかいされたさいに、王室おうしつ文書ぶんしょまってしまい、その結果けっか2まん5000以上いじょう記録きろくばんが20世紀せいき考古こうこ調査ちょうさまでながあいだ保存ほぞんされていた[2]

マリは1933ねん以来いらいだい世界せかい大戦たいせんによる1939ねんから1950ねんまでの中断ちゅうだんと1955ねんから1959ねんまでのスエズ動乱どうらんによる中断ちゅうだんのぞけば1974ねんまでアンドレ・パロを隊長たいちょう毎年まいとし発掘はっくつおこなわれた。その5ねん空白くうはくて、1979ねんから2004ねんまではしん隊長たいちょうとしてマルゲロン(Jean-Claude Margueron)が発掘はっくつ指揮しきした[3]。マリ遺跡いせきの1000m×600mの面積めんせきのうち、2005ねん段階だんかい発掘はっくつされたのはまだ半分はんぶん以下いかである。また考古こうこ学者がくしゃたちが遺跡いせき地層ちそう[4]はどのふかさにまでさかのぼるか解明かいめいしようとしてきたが、なお不明ふめい状態じょうたいつづいている。ルーヴル美術館びじゅつかん在籍ざいせきしたフランスの考古こうこ学者がくしゃアンドレ・パロ(André Parrot)は、「遺跡いせき歴史れきしふるさを調しらべるため、発掘はっくつふかさへ垂直すいちょく方向ほうこう発掘はっくつはじめるたび、途中とちゅう重要じゅうよう遺物いぶつ出土しゅつどして水平すいへい方向ほうこう調査ちょうさをしなければならなくなる」とべている。

名前なまえ

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マリとは楔形文字くさびがたもじでは 𒈠𒌷𒆠 (ma-riki)とかれる[5]。このは、都市とし守護神しゅごじんのことだとかんがえられていたMer由来ゆらいする。Merはきたメソポタミアおよびシリアの古代こだいあらしかみであり[6]、ベルギーの考古こうこ学者がくしゃジョルジュ・ドッサン(en:Georges Dossin)は都市としあらしかみおなじで、かみにちなんで命名めいめいされたと結論けつろんづけた[7]

歴史れきし

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紀元前きげんぜん2千年紀せんねんきのメソポタミア南部なんぶ地図ちず

マリは紀元前きげんぜん5千年紀せんねんきからの集落しゅうらくであったとられるが、都市とし国家こっかとしての重要じゅうようせいがみられるのは紀元前きげんぜん3千年紀せんねんきおよび紀元前きげんぜん2千年紀せんねんきのことである。マリの住民じゅうみんはセムけい人々ひとびとられ、きたシリアのエブラメソポタミア南部なんぶアッカド人々ひとびと同様どうようられる。

最初さいしょ黄金おうごん時代じだい

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マリはユーフラテスがわから2kmじゃくはなれており、ユーフラテス河谷こうだにたに周囲しゅういにあるステップとのさかいにある。マリはメソポタミア南部なんぶのシュメールしょ都市としとシリア北部ほくぶ都市としむす戦略せんりゃくてき重要じゅうよう中継ちゅうけいてんとして繁栄はんえいしていた。シュメールは材木ざいもく石材せきざいといった建材けんざいをシリアの山岳さんがくから輸入ゆにゅうしており、これらはマリを経由けいゆしたとかんがえられる。

最初さいしょ破壊はかい

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紀元前きげんぜん2900ねんごろからはじまったマリの繁栄はんえい時期じきは、紀元前きげんぜん24世紀せいき何者なにものかに都市とし破壊はかいされたことでわる。この破壊はかいによりユーフラテスちゅう流域りゅういきでのマリの重要じゅうようせいうしなわれ、ちいさな村落そんらく程度ていどにすぎなくなった。この破壊はかいをもたらしたのはだれかという問題もんだい歴史れきし学者がくしゃ意見いけんれている。アッカドのサルゴンげるものもいれば(サルゴンは、シリアやアナトリアなど西方せいほうへの遠征えんせい過程かていでマリを通過つうかしたとべている)、マリの商業しょうぎょうじょうのライバル都市としであったエブラがマリを破壊はかいしたとかんがえるものもいる。

だい黄金おうごん時代じだい

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イシン・ラルサ時代じだい参照さんしょう
ジムリ・リムの宮殿きゅうでん
ジムリ・リムおう文書ぶんしょ紀元前きげんぜん1780ねんごろブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞう

メソポタミアに流入りゅうにゅうしたアムルじんてた王朝おうちょうのもと、マリは復権ふっけんする。だい黄金おうごん時代じだい紀元前きげんぜん1900ねんころはじまった。マリにおけるふたつのおおきな考古学こうこがくてき発見はっけんはこの時代じだいさかのぼる。マリのおうジムリ・リム宮殿きゅうでんは300以上いじょう部屋へやがあった。これは当時とうじ最大さいだいきゅう宮殿きゅうでんであり、その評判ひょうばん商人しょうにんたちをとおしてアレッポヤムハド)やウガリットなど近隣きんりん都市とし国家こっか王国おうこくにとどろいていた。中庭なかにわには、漆喰しっくいかべふでとにかわと泥絵具どろえのぐえがかれた壁画へきががあるが、バビロニア文明ぶんめいクレタとうミノア文明ぶんめい影響えいきょう指摘してきされている。

もうひとつの重要じゅうよう遺跡いせきである王国おうこく文書ぶんしょ(アーカイヴ)もこの時代じだいさかのぼる。この文書ぶんしょからは、書簡しょかん行政ぎょうせい文書ぶんしょ祭祀さいし記録きろくなど25,000まい以上いじょう粘土ねんどばんつかっている。アンドレ・パロはこの「マリ文書ぶんしょ」について、「古代こだい中東ちゅうとう歴史れきしてき事件じけん年代ねんだい完全かんぜん見直みなおしをせまり、500以上いじょう未知みち地名ちめい提供ていきょうすることで古代こだい世界せかい地図ちずなおしや完成かんせいすら可能かのうにした」とべている。ジムリ・リム時代じだい、マリの勢力せいりょくけんはユーフラテスの支流しりゅうハブールがわ上流じょうりゅう現在げんざいのトルコりょう)までにおよんだ。

最後さいご破壊はかい

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マリはバビロンだい1王朝おうちょうだい6だいおうハンムラビにより、紀元前きげんぜん1759ねんごろ再度さいど破壊はかいされた。マリ王国おうこく文書ぶんしょ粘土ねんどばんなかには、ハンムラビがふる同盟どうめい相手あいてのジムリ・リムに敵対てきたいし、ジムリ・リムがたたかいでやぶられたことを詳述しょうじゅつするものがあり、この破壊はかい経緯けいいかっている。マリが滅亡めつぼうしたのち初期しょきカッシートあさおよカッシートあさ時代じだいはいると、おなじユーフラテスちゅう流域りゅういきテルカ主要しゅよう都市とし国家こっかとなって覇権はけんにぎった。 一方いっぽう依然いぜんとしてアッシリアひとやバビロニアじんがマリの跡地あとちにまばらにんだが、ギリシャじん到来とうらいころにはたんなる村落そんらくとなっており、その歴史れきしからえてしまった。

マリの経済けいざい

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動物どうぶつたたか英雄えいゆうえがいた円筒えんとう印章いんしょうひだり)とその印影いんえい。マリのイシュタル神殿しんでん発見はっけん紀元前きげんぜん2600ねんごろ初期しょき王朝おうちょう時代じだいブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞう

マリがちいさな村落そんらくから重要じゅうよう交易こうえき都市とし飛躍ひやくした背景はいけいには、古代こだい社会しゃかいにおいてマリの経済けいざいあつか品々しなじなには多様たようせいがあったことがげられる。マリはユーフラテスがわ沿いの中部ちゅうぶにあり、イラン西部せいぶ、メソポタミア南部なんぶ北部ほくぶカルケミシュアナトリア半島はんとうなど、ことなった産物さんぶつさんする様々さまざま地方ちほう同士どうしつな交易こうえきおさえていた。マリが交易こうえきしたことが確認かくにんされている都市とし国家こっかには、ウルアレッポウガリットなどがふくまれる。マリを通過つうかする商品しょうひん次第しだいえ、ナツメヤシ、オリーブ、陶器とうき穀物こくもつ木材もくざい石材せきざいなどもあつかわれた。またテルカなどマリの影響えいきょうにあった近隣きんりん都市としとの交易こうえきもあったはずだが、テルカの発掘はっくつ比較的ひかくてき最近さいきんのものであり、テルカで発掘はっくつされた文書ぶんしょ解読かいどく出版しゅっぱん完全かんぜんなものではないためまだ詳細しょうさいからない。

マリの文化ぶんか宗教しゅうきょう

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マリの市民しみん精巧せいこう髪形かみがた服装ふくそうられており、バビロンから240km以上いじょう上流じょうりゅうにあるにもかかわらずメソポタミア文明ぶんめいのを一部いちぶをなしていたとみられる。マリはメソポタミア南部なんぶしょ都市としつくった交易こうえきよう前哨ぜんしょうとして機能きのうしたという見方みかたもある。

マリの市民しみんはシュメールのかみ々を崇拝すうはいした。マリの最高さいこうしん西にしセムけい穀物こくもつしんあらしかみダゴン(ダガン)であり、ダゴンにささげられた神殿しんでんがあったほか、豊穣ほうじょう女神めがみイシュタルささげられた神殿しんでん太陽たいようしんシャマシュささげられた神殿しんでん発見はっけんされた。シャマシュはすべてをている全知ぜんちかみとしてられ、ふたつのおおきなとびらまえつシャマシュの姿すがたおおくの印章いんしょうられている。ギルガメシュ叙事詩じょじしによれば、これらのとびらはマシュのやまにあり、天国てんごくひがしとびらであるという。マリの広範囲こうはんいにわたる交易こうえきとおして、シュメールのかみ々はエブラやウガリットなどシュメール以外いがい文化ぶんかけんにもつたえられ、地元じもとかみ々と混交こんこうした。

アモリけい王朝おうちょう創始そうししたヤフドゥン・リム王女おうじょあらしかみアダドかみ神官しんかんであり、王家おうけかみとして崇拝すうはいされた。また1930年代ねんだい後半こうはん発掘はっくつでは椅子いすすわった頭部とうぶ欠落けつらくした女神めがみぞう出土しゅつどしており、椅子いす両側りょうがわあながあることからブランコった豊穣ほうじょう女神めがみニンフルサグではないかとかんがえられている。インドや古代こだいギリシャや古代こだいローマなどにられるブランコに女性じょせい豊穣ほうじょう儀礼ぎれいとの関係かんけい指摘してきされている。

歴代れきだいおう

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代官だいかんエビフ・イル(Intendant Ebih-Il)のぞう。マリのイシュタル神殿しんでん発見はっけん紀元前きげんぜん2400ねんごろ初期しょき王朝おうちょう時代じだいブル美術館ぶるびじゅつかん所蔵しょぞう

初期しょき王朝おうちょう時代じだいについてはシュメールおうめいひょう参照さんしょう

  • イブルル・イル (Iblul-il)
  • イトゥル・シャマガン (Itur-Shamagan)
  • ラムギ・マリ (Lamgi-Mari)
  • イシュトゥプ・イルム (Ishtup-ilum)
  • イディ・イルム (Idi-ilum)
  • トゥラ・ダゴン (Tura-Dagan)
  • プズル・イシュタル (Puzur-Ishtar)
  • ミラガ (Milaga)
  • ヤギド・リム (Yaggid-Lim)
  • ヤフドゥン・リム(Yahdun-Lim、紀元前きげんぜん1815ねんごろ - 紀元前きげんぜん1799ねんごろ
  • スム・アッドゥ(Sumu-addu、紀元前きげんぜん1798ねんごろ - 紀元前きげんぜん1797ねんごろ
  • ヤスマフ・アダド(Yasmah-Adad、紀元前きげんぜん1796ねんごろ - 紀元前きげんぜん1776ねんごろ
  • ジムリ・リム(Zimri-Lim、紀元前きげんぜん1775ねんごろ - 紀元前きげんぜん1759ねんごろ

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 中田なかた一郎いちろう 2020, p. 74.
  2. ^ 『ラルース図説ずせつ世界せかい人物じんぶつ百科ひゃっか I』p. 7.
  3. ^ 中田なかた一郎いちろう 2020, p. 75.
  4. ^ 日本にっぽん考古学こうこがく用語ようごでは「そう」。
  5. ^ Tinney 2020.
  6. ^ Green 2003, p. 62.
  7. ^ Oldenburg 1969, p. 60.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 岡田おかだ明子あきこ小林こばやし登志子としこ古代こだいメソポタミアのかみ世界せかい最古さいこの「おうかみ饗宴きょうえん」』三笠みかさみやたかしひとし監修かんしゅう集英社しゅうえいしゃ、2000ねん12月。ISBN 978-4-08-781180-3 
  • 『ラルース図説ずせつ世界せかい人物じんぶつ百科ひゃっか I 古代こだい中世ちゅうせいぜん1800-1492〉』トレモリエール, フランソワ、リシ, カトリーヌへん樺山かばやま紘一こういち日本語にほんごばん監修かんしゅうはら書房しょぼう、2004ねん6がつISBN 978-4-562-03728-5 
  • Tinney, Steve; Novotny, Jamie; Robson, Eleanor; Veldhuis, Niek (2020ねん). “Mari [1 (SN)]” (英語えいご). Oracc (Open Richly Annotated Cuneiform Corpus). Oracc Steering Committee. 2020ねん10がつ17にち閲覧えつらん
  • Green, Alberto Ravinell Whitney (2003). The Storm-god in the Ancient Near East. Biblical and Judaic studies from the University of California, San Diego. 8. Eisenbrauns. ISBN 978-1-57506-069-9 
  • Oldenburg, Ulf (1969). The Conflict between El and Ba'al in Canaanite Religion. Dissertationes ad Historiam Religionum Pertinentes. 3. Brill. ISSN 0419-4233. OCLC 63449 
  • 中田なかた一郎いちろうちょ)、山田やまだ 重郎しげおへん)「ユーフラテスがわ中流ちゅうりゅう氾濫はんらんばら建設けんせつされた 古代こだい都市としマリ―発掘はっくつ調査ちょうさからわかる都市としマリの景観けいかん歴史れきし」(pdf)『都市とし文明ぶんめい本質ほんしつ研究けんきゅう成果せいか報告ほうこく2019ねんだい2かん、2020ねん3がつ、73-85ぺーじ2020ねん10がつ19にち閲覧えつらん 


関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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