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バル・コクバのらん

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バル・コクバのらんだいユダヤ戦争せんそう
1世紀のパレスティナ
1世紀せいきのパレスティナ

戦争せんそう:ユダヤ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ132ねん-136ねん
場所ばしょユダヤぞくしゅう
結果けっかマ帝国まていこく勝利しょうり
交戦こうせん勢力せいりょく
マ帝国まていこく ユダヤじん ほか
指導しどうしゃ指揮しきかん
ハドリアヌス
ティネイウス・ルフス
バル・コクバ
アキバ・ベン・ヨセフ
戦力せんりょく
ローマ軍団ぐんだん12(60,000めい - 120,000めい 200,000 - 300,000

バル・コクバのらん(バル・コクバのらん、ヘブライ: מֶרֶד בַּר כּוֹכְבָא, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Mereḏ Bar Kōḵḇāʾ)は、2世紀せいきマ帝国まていこく支配しはいたいしてきたユダヤぞくしゅうでの反乱はんらんであり、ユダヤじんがわ指導しどうしゃからこのようにばれる。

なお、66ねんからの反乱はんらん(いわゆるユダヤ戦争せんそう)を「だいいちユダヤ戦争せんそう」とするのにたいして、この戦争せんそうを「だいユダヤ戦争せんそう」としょうすることもある(イタリアでは、キトス戦争せんそう英語えいごばん115ねん - 117ねん)をだい2かんがえ、だい3ユダヤ戦争せんそう Terza guerra giudaicaぶ。)。

経緯けいい

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勃発ぼっぱつまで

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だいいちユダヤ戦争せんそうのちユダヤじんたちのはんローマ感情かんじょう独立どくりつ願望がんぼうたかまっていた。115ねんから117ねんにかけて皇帝こうていトラヤヌスひきいるローマぐんパルティア戦争せんそうひがしうごいたすきをついて、ユダヤ本国ほんごくだけでなく、キレナイカエジプトキプロスメソポタミアなどのディアスポラのユダヤじんたちも、ひがし地中海ちちゅうかい各地かくち同時どうじ多発たはつ蜂起ほうきこしている(キトス戦争せんそう英語えいごばん )。こういったユダヤじん鬱憤うっぷん指導しどうしゃることで爆発ばくはつしたのがバル・コクバのらんであった。

そのころシメオンというおとこ自分じぶんこそはユダヤ民族みんぞくすく救世主きゅうせいしゅメシア)であるとはじめた。これにたいして当時とうじユダヤきょう精神せいしんてき指導しどうしゃラビアキバ・ベン・ヨセフ支持しじ表明ひょうめいしたことから人々ひとびと期待きたい一気いっきたかまる。当時とうじのユダヤきょう思想しそうなか救世主きゅうせいしゅ待望たいぼうろんたれつづけていたのである。その救世主きゅうせいしゅ政治せいじてき指導しどうしゃであり、人々ひとびと民族みんぞく支配しはいから解放かいほうしてくれる人物じんぶつであると人々ひとびとうたがわなかった、とわれる(福音ふくいんしょには、イエス・キリスト政治せいじてき指導しどうしゃであることをもとめる人々ひとびとたいし、それをたとえはなしかたち否定ひていするイエスの姿すがたえがかれている)。シメオンは「ほし」(バル・コクバ)というメシア称号しょうごう自称じしょうするようになる。

きっかけは130ねんハドリアヌスみかど巡幸じゅんこうであった。かれ精力せいりょくてき帝国ていこく領内りょうないめぐったが、70ねんエルサレム攻囲こういせんでローマぐん破壊はかいされたままてていたエルサレムにもあしばした。かれはユダヤじんたちに同情どうじょうし、エルサレムの再建さいけん修復しゅうふく約束やくそくした。しかし、自分じぶんたちの聖地せいちエルサレムが「アエリア・カピトリナ」という名前なまええられること、およびその計画けいかくエルサレム神殿しんでん跡地あとちユピテル神殿しんでんてることもふくまれていることが判明はんめいするとユダヤじんいかりが爆発ばくはつした。また、モーセ以来いらいかみとの契約けいやくのしるしであった割礼かつれい時代遅じだいおくれの野蛮やばん行為こういとして禁止きんししようとしたことなどもユダヤじんにはえられないことであった。

ラビ・アキバの尽力じんりょくによって最高法院さいこうほういん反乱はんらん実行じっこう計画けいかくだいいちユダヤ戦争せんそう問題もんだいてん徹底的てっていてき研究けんきゅうしたうえで、バル・コクバをリーダーとしてたいローマ反乱はんらんった。

「イスラエルの復興ふっこう

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当初とうしょ、この反乱はんらん計画けいかくはスムーズに進行しんこうし、各地かくちでローマぐん守備しゅびたいやぶり、ユダヤの支配しはいけんもどすことに成功せいこうした。2ねんはんにわたって、バル・コクバは政治せいじてき指導しどうしゃおさまり、ラビ・アキバが宗教しゅうきょうてき指導しどうしゃとなるユダヤてき支配しはい構造こうぞう確立かくりつされた。かれらは「イスラエルの復興ふっこう」を宣言せんげんし、コインを鋳造ちゅうぞうし、神殿しんでん再建さいけん計画けいかくした。

しかし、不意打ふいうちをらったローマぐんけっして事態じたい静観せいかんしていなかった。ハドリアヌスみかどブリタンニアから勇将ゆうしょうユリウス・セウェルス召喚しょうかんし、ドナウがわ流域りゅういき駐留ちゅうりゅうしていた軍団ぐんだんあたえてユダヤへと出動しゅつどうさせていた。ユダヤじん意気盛いきさかんで戦闘せんとう困難こんなんであったが、ローマ軍団ぐんだん着々ちゃくちゃくとユダヤ各地かくちさい征服せいふくしていき、ついに135ねんにエルサレムを陥落かんらくさせることに成功せいこうした。

バル・コクバは戦死せんしし、ラビ・アキバは首謀しゅぼうしゃとしてらえられ処刑しょけいされた。多数たすうのユダヤじん完全かんぜん廃墟はいきょとなったエルサレム、てたユダヤ全土ぜんどのこして反乱はんらん終結しゅうけつした。

戦後せんご処理しょり

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ハドリアヌスみかどはユダヤの不安定ふあんてい要因よういんはユダヤきょうとその文化ぶんかにあるとかんがえ、その根絶こんぜつはかった。ユダヤれき廃止はいしめいじられ、ユダヤきょう指導しどうしゃたちは殺害さつがいされた。りつほう書物しょもつ神殿しんでんおか廃棄はいきされ、められた。さらにエルサレムの名称めいしょうはいして「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤじんりをきんじた。紀元きげん4世紀せいきになってはじめてユダヤじんは、められたのみに神殿しんでんあと礎石そせき(いわゆるなげきのかべ)のまえつことをゆるされた。ハドリアヌスみかど徹底的てっていてきにユダヤてきなものの根絶こんぜつ目指めざし、ぞくしゅうユダヤのはいして、ぞくしゅう「シリア・パレスティナ」とした。これはユダヤじん敵対てきたいしゃペリシテじん名前なまえからとったものである。現代げんだいまでつづパレスティナ名前なまえはここに由来ゆらいしている。

関連かんれん項目こうもく

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