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悪 - Wikipedia コンテンツにスキップ

あく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
5つある辟邪なかの1つには、はちしゅ1人ひとりあく退治たいじする栴檀せんだんいぬい闥婆がえがかれている。
大江山おおえやまさけ呑童源頼光みなもとのよりみつ主従しゅうじゅう歌川うたがわかおるつや浮世絵うきよえ江戸えど時代じだい)。

あく(あく)は、一般いっぱんてき意味いみでは、ぜん反対はんたいまたは欠如けつじょである。非常ひじょうひろ概念がいねんであることもあるが、日常にちじょうてき使つかかたでは、よりせま範囲はんいふか邪悪じゃあくさを表現ひょうげんすることがおおい。それは一般いっぱんてきに、複数ふくすう可能かのうかたちをとるとかんがえられている。たとえば、あく一般いっぱんてき関連かんれんしている個人こじんてき道徳どうとくてきあく、または個人こじんてき自然しぜんてきあく自然しぜん災害さいがいまたは病気びょうき場合ばあいのように)のかたちや、宗教しゅうきょうてき思想しそうにおいては悪魔あくまてきまたはちょう自然しぜんてき/永遠えいえんてきかたちなどである[1]

あく重大じゅうだい不道徳ふどうとく意味いみすることもあるが[2]一般いっぱんてきには、人間にんげん状態じょうたい理解りかいするじょうなんらかの根拠こんきょがないわけではなく、そこではあらそくるしみ(cf.ヒンドゥーきょう)があくしん根源こんげんである。ある宗教しゅうきょうてき文脈ぶんみゃくでは、あくちょう自然しぜんてきちから表現ひょうげんされてきた[2]あく定義ていぎはさまざまであり、その動機どうき分析ぶんせきもさまざまである[3]個人こじんてきあく形態けいたい一般いっぱんてき関連かんれんする要素ようそには、いか復讐ふくしゅう恐怖きょうふ憎悪ぞうお心理しんりてきトラウマ便宜べんぎ主義しゅぎ利己りこ主義しゅぎ無知むち破壊はかいまたは無視むしふく不均衡ふきんこう行動こうどうふくまれる[4]

あくは、ぜんとは反対はんたい二元にげんてき敵対てきたいてき二元論にげんろんとして認識にんしきされることがある[5]。その場合ばあいぜんち、あくかされるべきとされる[6]仏教ぶっきょう精神せいしんてき影響えいきょうりょく文化ぶんかでは、ぜんあく両方りょうほう対立たいりつてきめんせい一部いちぶとして認識にんしきされており、それ自体じたい成仏じょうぶつによって克服こくふくされなければならないものとされる[6]ぜんあくかんする哲学てつがくてき問題もんだいは、ぜんあく性質せいしつかんするメタ倫理りんりがく、どのように行動こうどうすべきかにかんする規範きはん倫理りんりがく特定とくてい道徳どうとくてき問題もんだいかんする応用おうよう倫理りんりがくという3つの主要しゅよう研究けんきゅう領域りょういき包含ほうがんされている[7]。この用語ようごは、行為こうい主体しゅたいともなわない事象じしょう状況じょうきょう適用てきようされるが、この記事きじあつかあく形態けいたいは、悪人あくにんまたはその実行じっこうしゃ想定そうていしている。

宗教しゅうきょう哲学てつがくなかには、人間にんげん記述きじゅつするさいあく存在そんざい有用ゆうようせい否定ひていするものもある。

日本語にほんごにおける「あく

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日本語にほんごにおける「あく」という言葉ことばは、もともと剽悍ひょうかんさや力強ちからづよさをあらわ言葉ことばとしても使つかわれ、否定ひていてき意味いみしかないわけではない。たとえば、源義朝みなもとのよしとも長男ちょうなん義平よしひらはその勇猛ゆうもうさから「あくみなもとふとし」と、左大臣さだいじん藤原ふじわらよりゆきちょうはその妥協だきょうらない性格せいかくから「あく左府さふ」、江戸えど時代じだい初期しょき権勢けんせいるった以心崇伝すうでんはその強引ごういん政治せいじ手法しゅほうにより「大欲たいよく山気やまきいん僭上せんじょうてらあく国師こくし」とひょうされた。鎌倉かまくら時代じだい末期まっきにおける悪党あくとうもその典型てんけいれいであり、ちからつよ勢力せいりょくという意味いみである。[独自どくじ研究けんきゅう?]

本来ほんらいあく」は「突出とっしゅつした」という意味いみあいをもつ。突出とっしゅつして平均へいきんからはずれた人間にんげんは、広範囲こうはんいかつ支配しはいてき統治とうち、あるいは徴兵ちょうへいした軍隊ぐんたいにおける連携れんけいてき行動こうどうさまたげになり、これゆえ古代こだい中国ちゅうごくにおける「あく概念がいねんは、「命令めいれい規則きそくしたがわないもの」にたいする価値かち評価ひょうかとなった。一方いっぽうぜん概念がいねんは、「皇帝こうてい命令めいれい政治せいじてき規則きそくしたがうもの」にたいする価値かち評価ひょうかである。

古事記こじき』において、「悪事あくじ」は「マカゴト」とませる(古代こだい解釈かいしゃくでは、あく訓読くんよみは「マカ・マガ」となる)。たいして、「善事ぜんじ」は「ヨゴト」とむ。現代げんだいでは、マガゴトの漢字かんじは「禍事まがごと」をて、ヨゴトは「吉事きちじ」のてていることからも、古代こだい感性かんせいでは、わざわい(か)=わざわい=あくという図式ずしきということになる。

なお現在げんざい日本にっぽんでのあく概念がいねんは、西欧せいおう価値かちかんちかいものとはなっているが、依然いぜんとして相違そういふくんでいる。

ぜんあく

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あくぜん対比たいひされる。

人間にんげん善悪ぜんあく意識いしき判断はんだんする場面ばめん様々さまざまだが、家庭かていでのしつけから、教育きょういくスポーツ法律ほうりつなど、秩序ちつじょ必要ひつようとするあらゆる場面ばめん見出みだせる。生活せいかつそくしたものとして宗教しゅうきょうで、娯楽ごらく伝承でんしょうとして物語ものがたりうえげられることもおおい。そのさいは、ぜんをすすめあく除外じょがいすること(勧善懲悪かんぜんちょうあく)、ぜんあくとの対決たいけつなどがしばしば注目ちゅうもくされる。

ぜんあく解釈かいしゃく判断はんだんによってわる場合ばあいもあるため、規範きはんというかたち存在そんざいするものは、このような混乱こんらんけるためによくもちいられる手段しゅだんなのだ。

社会しゃかい心理しんりがく

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純粋じゅんすいあく神話しんわ

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社会しゃかい心理しんり学者がくしゃのロイ・バウマイスターは、一般いっぱんひとあくかんする素朴そぼくてき理解りかいもとづく過度かどあやまったあく認識にんしきを「純粋じゅんすいあく神話しんわ」と表現ひょうげんしている[8]。バウマイスターによると、純粋じゅんすいあく神話しんわにはおもに8つの特徴とくちょうがある。

  1. あくとは他人たにん意図いとてききずつけることである
  2. 悪人あくにんひときずつけることをたのしんでいる
  3. 被害ひがいしゃ潔白けっぱく善良ぜんりょうひとである
  4. 悪人あくにん加害かがいしゃわたしたちとはちが人間にんげんである
  5. 悪人あくにん一貫いっかんして悪人あくにんである
  6. あくとは社会しゃかい混乱こんらんをもたらすことである
  7. 悪人あくにん加害かがいしゃ利己りこ主義しゅぎである
  8. 悪人あくにん加害かがいしゃ自制心じせいしんおとっている

1番目ばんめ特徴とくちょうは、子供こども漫画まんがから戦時せんじちゅうプロパガンダまで他人たにんきずつけることを強調きょうちょうされていることである。2番目ばんめ特徴とくちょうは、実際じっさい現実げんじつではほとんどられることはない。被害ひがいしゃがする説明せつめいでは悪人あくにんわらっていた、たのしんでいたなどと強調きょうちょうされるが、悪人あくにんからの説明せつめいではそういったことがしめされることはない。これは、被害ひがいしゃ純粋じゅんすいあく神話しんわ影響えいきょうけていることがかんがえられる。3番目ばんめ特徴とくちょう現実げんじつではほとんどられるものではない。実際じっさいおおくの殺人さつじん事件じけんでは、加害かがいしゃ被害ひがいしゃがおたがいに挑発ちょうはつしあって、それがエスカレートしていくことで、殺人さつじんしょうじる場合ばあいおおられる。もちろん、善良ぜんりょう潔白けっぱくひとたいして差別さべつ暴力ぼうりょくたしかにしょうじてはいるが、それはわたしたちがマスコミから情報じょうほうからかんがえているよりはまれである。4番目ばんめ特徴とくちょうは、わたしたちのようなひとがひどい犯罪はんざいおかすとはかんがえたくないという欲求よっきゅう反映はんえいされている。具体ぐたいてきにはナチス医者いしゃはまっとうな人間にんげんとはおもわれておらず[9]、また、戦争せんそうちゅう日米にちべい双方そうほう相手あいてがわ劣等れっとう人種じんしゅとみなしていたために、相手あいて悪魔あくますることが助長じょちょうされたという分析ぶんせきもある[10]。さらに子供こどもけの漫画まんが悪人あくにん基本きほんてき外国がいこくなまりの英語えいごしゃべ[11]。5番目ばんめ特徴とくちょうは、現実げんじつではおおられるものではなく例外れいがい可能かのうせいたかい。映画えいがでも時間じかん経過けいかとともにわるくなっていったひとられず、最初さいしょから悪人あくにんであるとされる。また、現実げんじつでもスターリンヒトラーポルポトといった人物じんぶつたいしても、わたしたちは「そういったひどく邪悪じゃあく人間にんげんがどうやってそんなおおきな権力けんりょくれたのか」とかんがえるが、「どんな経験けいけんによってかれらは悪人あくにんになってしまったのか」とはかんがえない。6番目ばんめ特徴とくちょうは、1番目ばんめ特徴とくちょう代替だいたいてきなもので、あくとは混沌こんとんであり平和へいわ調和ちょうわ、そして安定あんてい喪失そうしつさせたり妨害ぼうがいするものであるというものである。7番目ばんめと8番目ばんめ特徴とくちょういままでの特徴とくちょうとはことなり、現実げんじつではたしかにその傾向けいこうられて真実しんじつちかいが、過度かど強調きょうちょうされているという。

あく根本こんぽん原因げんいん

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おおくの研究けんきゅう統合とうごうされると、あくには4つ(正確せいかくには3つはん)の基本きほんてき原因げんいんげられる[8]。それらは道具どうぐせい自己じこ中心ちゅうしんせいたいする脅威きょうい理想りそう主義しゅぎサディズムであり、被害ひがいしゃ立場たちばからだといくつかちがいがられる。前者ぜんしゃ2つにかんしては、おかねわたしたり悪人あくにん自尊心じそんしんたせば暴力ぼうりょくなどを回避かいひすることができるが、理想りそう主義しゅぎ場合ばあいすくなく、サディストが相手あいて場合ばあいはどうしようもない。

道具どうぐせい

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邪悪じゃあくおこないのおおくはわるいことそれ自体じたい目的もくてきとしたものではなく、目的もくてききむ土地とち権力けんりょく、セックス)を達成たっせいするためのたんなる手段しゅだんとしてなされている。この目的もくてき達成たっせいするにあたって合法ごうほうてき手段しゅだん達成たっせいすることが出来できないときに、ひと暴力ぼうりょくおこなう。たとえば、テロリスト自身じしん要求ようきゅう投票とうひょうほう制度せいどつうじて実現じつげんすることはないとわかっているのでテロをおこない、知識ちしき社会しゃかいでは知能ちのうひくひとかね報酬ほうしゅうれる方法ほうほうかぎられており、悪行あくぎょうめる。暴力ぼうりょくかんする研究けんきゅうしゃは、暴力ぼうりょくてき手段しゅだん長期ちょうきてき目標もくひょう達成たっせいには有効ゆうこうでないことをろんじてきたが、短期たんきてき観点かんてんでは暴力ぼうりょくたしかに効果こうかてきなものである。

道具どうぐせい暴力ぼうりょくは、進化しんかまえ段階だんかい名残なごりとしてかんがえられる[12]人間にんげんふく社会しゃかいてき動物どうぶつでは資源しげん分配ぶんぱいをめぐる社会しゃかいてき衝突しょうとつしょうじ、支配しはいてき攻撃こうげきてき個体こたいであるアルファオスがおおくの報酬ほうしゅうることができる。そのため、たね内攻ないこうげき社会しゃかい生活せいかつたいする適応てきおうとしてしょうじた可能かのうせいがある。しかし、人間にんげん文化ぶんか発展はってんさせて、あらそいや紛争ふんそう解決かいけつする代替だいたい暴力ぼうりょくてき手段しゅだん(おかね法廷ほうてい交渉こうしょう妥協だきょう投票とうひょう)をしてきた。最近さいきん調査ちょうさでも長期ちょうきてきには対人たいじん暴力ぼうりょく発生はっせい減少げんしょうしている。ただし、ときわたしたち攻撃こうげきせい後退こうたいしてしまい、とく文化ぶんかてき方策ほうさく自分じぶんにはきちんと機能きのうしていないとかんじるひとあいだ攻撃こうげきせいしょうじやすいとされる。

自己じこ中心ちゅうしんせいたいする脅威きょうい

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かつて暴力ぼうりょく研究けんきゅうにおいては、悪人あくにん自尊心じそんしんひくいというのが標準ひょうじゅんてき知見ちけんであったが、バウマイスターが実際じっさい文献ぶんけんをチェックしてみると、悪人あくにんはむしろたか自尊心じそんしんときには過度かどたか自尊心じそんしんっていた[13]研究けんきゅうでも自尊心じそんしんひくさと攻撃こうげきむすびつくことは確認かくにんされず、ぎゃくナルシストがより暴力ぼうりょくてきであるという結果けっか度々たびたびられた[14]。ナルシズムと自尊心じそんしん分離ぶんりした場合ばあいでも、自尊心じそんしん影響えいきょう無視むしできるか、もしくは自尊心じそんしんはナルシズムの効果こうかたかめて攻撃こうげきせい寄与きよしていた。

しかし、研究けんきゅうからわかったことは、たか自尊心じそんしん暴力ぼうりょくしょうじさせるのはなく、自身じしんたか自己じこぞう脅威きょういにさらされたりきずついたとき暴力ぼうりょくしょうじることがわかった。つまり、他人たにんからの批判ひはんたいして反抗はんこうして、自尊心じそんしん損失そんしつ回避かいひするための戦略せんりゃくとして攻撃こうげきおこなわれる。このことは進化しんかてき起源きげんつとかんがえられ、実際じっさいにアルファオスでは挑戦ちょうせんしゃ攻撃こうげきすることで自身じしん地位ちいまもっている。

理想りそう主義しゅぎ

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理想りそう主義しゅぎはいくつかのてん根本こんぽん原因げんいんとはことなる。まずげられるのは、加害かがいしゃたちは「自分じぶんたちはいことをしている」という信念しんねんもとづいていることである。実際じっさい左翼さよく右翼うよく理想りそう主義しゅぎしゃたちは、自身じしん高貴こうき目標もくひょうち、それによって暴力ぼうりょくてき手段しゅだん正当せいとうされるとしばしばしんじていた。具体ぐたいてきれいでは、中国ちゅうごくソ連それんによる共産きょうさん主義しゅぎ虐殺ぎゃくさつやナチスドイツによるホロコーストなどがげられる。また、理想りそう主義しゅぎ根本こんぽん原因げんいんかくすことにもちいられることもある。

サディズム

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あく根本こんぽん原因げんいんが3つはんである理由りゆうは、サディズムであるためである。悪人あくにんがサディストであるというのは前述ぜんじゅつした純粋じゅんすいあく神話しんわであるが、実際じっさいにサディズムだとみなされるものがいくつかられる。殺人さつじんはん回顧かいころくには殺人さつじんによってよろこびをたとする記述きじゅつはほとんどられないが、一部いちぶひと実際じっさいひときずつけることをたのしんでいる。

これは、相反あいはん過程かてい理論りろんによって説明せつめいされる[15]通常つうじょうひときずつけると最初さいしょ動揺どうようしてつよ否定ひていてき反応はんのうこすが、身体しんたい平衡へいこう状態じょうたいたもとうとして反動はんどうとしてだい過程かてい作動さどうさせる。この過程かていは、最初さいしょよわくておそいがかえ強度きょうどしていき、支配しはいてきになってくる。バンジージャンプスカイダイビングたのしむようになる理由りゆうもこれのことで説明せつめいされる。また、科学かがくてき厳密げんみつ研究けんきゅうではないが、拷問ごうもんかんする研究けんきゅうがこの理論りろん支持しじしている。拷問ごうもんでは相手あいてころしてしまうことで拷問ごうもん失敗しっぱいする場合ばあいがあるが、それは新人しんじん拷問ごうもんじんよりもベテランの拷問ごうもんじんほう相手あいてころしやすい。これは相反あいはん過程かてい理論りろん一致いっちしていて、拷問ごうもんおこなうことによる苦痛くつうっていき、満足まんぞくほうがそれを上回うわまわってくるものがいるとかんがえられている。

また、サディズムはサイコパス関連かんれんしていることがかんがえられる。サイコパスは共感きょうかんせいがないため、他者たしゃ苦痛くつうたいして共感きょうかんによる抑制よくせいかないことがかんがえられる。[よう出典しゅってん]ただし、共感きょうかんせいが「皆無かいむ」であるということはまれであり、またスペクトラムなグラデーションであること、精神せいしん医学いがくてき厳密げんみつ診断しんだんがあるのか、印象いんしょうからくるたんなるめつけにぎないのかには注意ちゅうい必要ひつようである。

至近しきん原因げんいん

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あくかんする研究けんきゅうにおいて、暴力ぼうりょく誘発ゆうはつさせるような要因よういんはありふれていることがわかっている。社会しゃかい心理しんり学者がくしゃによれば、批判ひはんされること、侮辱ぶじょくされること、気温きおんたかいこと、メディアで暴力ぼうりょくること、欲求よっきゅう不満ふまんであることなどが、ひと攻撃こうげきせい増加ぞうかさせることがわかっている[16][17]ひるがえって実際じっさい暴力ぼうりょく発生はっせいりつおどろくほどひくく、それは自制心じせいしんによるものだとかんがえられている。ひと色々いろいろなことによって攻撃こうげきてき衝動しょうどう発生はっせいさせるが、それにたいして自制心じせいしんもちいることで衝動しょうどう抑制よくせいさせている。また人間にんげんにはすくなくとも社会しゃかいてき動物どうぶつ以上いじょう自制心じせいしん能力のうりょくっている。

以上いじょうのことから、おおくの場合ばあいあく暴力ぼうりょく至近しきん原因げんいんは、自制心じせいしん破綻はたんである。具体ぐたいてきには、アルコールはほとんどの領域りょういき自制心じせいしん干渉かんしょう[18]攻撃こうげき原因げんいんとして十分じゅうぶん確立かくりつされている[19]。またはげしい感情かんじょう暴力ぼうりょくてき衝動しょうどう抑制よくせいそこない、メディアの暴力ぼうりょく同様どうよう自制心じせいしんよわめることによって攻撃こうげきせいたかめる。

バウマイスターの見解けんかいではあくの4つの根本こんぽん原因げんいん排除はいじょするのは困難こんなんであるので、至近しきん原因げんいん自制心じせいしん強化きょうか現実げんじつてきなものであるという[8]

中国ちゅうごく倫理りんり哲学てつがく

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後述こうじゅつする仏教ぶっきょう同様どうように、儒教じゅきょう道教どうきょうには西洋せいよう思想しそうにみられるような善悪ぜんあく対立たいりつ構造こうぞうがないが、中国ちゅうごく民間みんかん信仰しんこうではなにわるもの影響えいきょうについてよく言及げんきゅうされる。儒教じゅきょう主要しゅよう関心事かんしんじ知識ちしきじん貴人きじんにふさわしいただしい社会しゃかいてき関係かんけい行動こうどうにあった。それゆえ「あく」という概念がいねんわる行動こうどうということになる。道教どうきょうでは、二元論にげんろんがその中心ちゅうしんえられているにもかかわらず、道教どうきょう中心ちゅうしんてきとく対立たいりつするおもいやり、節度せつど謙虚けんきょ道教どうきょうにおいてあく相似そうじぶつだと推測すいそくできる[20][21]

西洋せいよう哲学てつがく

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ニーチェ

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フリードリヒ・ニーチェはユダヤ-キリスト教きりすときょうてき道徳どうとく否定ひていし、『善悪ぜんあく彼岸ひがん』・『道徳どうとく系譜けいふ』のなかで、-ぜん本来ほんらい機能きのう弱者じゃくしゃ奴隷どれい道徳どうとくによって宗教しゅうきょうてきあく概念がいねんへと社会しゃかいてき変容へんようされ、主人しゅじん(強者きょうしゃ)に反感はんかんいだ大衆たいしゅう抑圧よくあつした、といったことを主張しゅちょうした。

アイン・ランド

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アイン・ランドは『利己りこ主義しゅぎという気概きがい---エゴイズムを積極せっきょくてき肯定こうていする』で、「理性りせい人間にんげん基本きほんてき生存せいぞん手段しゅだんだから、理性りせいてき存在そんざいきるのにてきしたものがものである。ぎゃく理性りせいてき存在そんざいきるのを否定ひてい妨害ぼうがい破壊はかいするものがわるいものである」といている。このかんがえは『かたをすくめるアトラス』のなかでさらにげられており、「かんがえることは人間にんげん唯一ゆいいつ基本きほんてき美徳びとくである。すべてのとくかんがえることからまれてくる。そして、人間にんげん基本きほんてき悪徳あくとく、つまりすべてのあく根源こんげんひとみな実際じっさいにはやっているのにやっているとけっしてみとめようとしないもなき行為こうい、つまり自分じぶん意識いしき故意こい停止ていしすること、かんがえるまでもなく盲目もうもくであることは否定ひていするが実際じっさいにはようとしないことだ。つまり、単純たんじゅん無知むちなのではなくることをこばんでいるのだ。これは自分じぶんしん焦点しょうてんてるのをけ、自分じぶんがあるものを認識にんしきするのをこばんでいるかぎりそれは存在そんざいしないとか、自分じぶんが『それはわるい』という評決ひょうけつくださないかぎりAはAでないといった暗黙あんもく前提ぜんていもとづいた判断はんだんけるしんなかきりこす行為こういだ。」とある。

スピノザ

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バールーフ・デ・スピノザはこうった:

1. ぜんによって、人々ひとびとにとって有用ゆうようであると人々ひとびと当然とうぜんっているものをわたし理解りかいできるようになる。
2. 反対はんたいあくによって、人々ひとびといものをとうとするのをさまたげると人々ひとびと当然とうぜんっているものをわたし理解りかいする[22]

スピノザはなか数学すうがくてき文体ぶんたい使つかい、『エチカだい4べた定義ていぎから証明しょうめい説明せつめいできると自分じぶん主張しゅちょうしているさらなる命題めいだいについてべている[22]:

  • 命題めいだい8 「ぜんあく知識ちしきわたしたちが意識いしきするかぎりでのよろこびあるいはかなしみの気持きもちでしかない。」
  • 命題めいだい30 「わたしたちの本性ほんしょうにおいて共有きょうゆうされているものをつことをつうじてあくであるものはありないが、あるものがわたしたちにとってあくであるかぎりではそのあるものはわたしたちとあいいれない。」
  • 命題めいだい64 「あく知識ちしき不適切ふてきせつ知識ちしきである。」
    • 推論すいろん「それゆえにひとしんなか適切てきせつ知識ちしきしかなければ、わるかんがえが形成けいせいされることはないであろう。」
  • 命題めいだい65 「理性りせいみちびきにしたがえば、ふたつのもののうちよりものえらぶことになるし、ふたつのわるいもののうちよりわるくないほうえらぶ。」
  • 命題めいだい68 「人間にんげん自由じゆうまれたら、自由じゆうであるかぎりその人間にんげんはよいかんがえもわるかんがえもたない。」

以上いじょうのニーチェ、ランド、スピノザのような哲学てつがくてき考察こうさつ後述こうじゅつする神学しんがくてき考察こうさつ比較ひかくでき、対照たいしょうをなすが、ニーチェとランドはかみろんものでありスピノザはそうではないことが指摘してきされる。

心理しんりがく

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カール・ユング

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カール・グスタフ・ユングは『ヨブへのこたえ』やその著作ちょさくで、あくを「悪魔あくま暗黒あんこくめん」だとっている。ひと他者たしゃかげおもえがくので、あく自分じぶん外部がいぶにあるものだとしんじがちである。ユングはイエスの物語ものがたりみずからのかげ直面ちょくめんするかみはなしとして解釈かいしゃくした[23]

ジンバルドー

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2007ねんフィリップ・ジンバルドーは、人々ひとびと集合しゅうごうてきアイデンティティーの結果けっかとして邪悪じゃあく行動こうどうをとりると主張しゅちょうした。この仮説かせつは、かれ以前いぜんにスタンフォード監獄かんごく実験じっけん経験けいけんしたことにもとづいていて、著書ちょしょ『The Lucifer Effect: Understanding How Good People Turn Evil』で発表はっぴょうされた[24]

宗教しゅうきょう

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宗教しゅうきょうはしばしば戒律かいりつあく規定きていする。それにもとづいて禁止きんしされている事柄ことがら(タブー)は、その始祖しそ開祖かいそかんするものや、それが発達はったつした文化ぶんかけんにおける生活せいかつ規範きはんをモチーフにしたものなどがある。中東ちゅうとうゾロアスターきょうひかりぜん)とやみあく)で世界せかいとらえており、のちの一神教いっしんきょうにおけるかみ悪魔あくま対立たいりつという概念がいねん影響えいきょうあたえたとされる。一神教いっしんきょうではユダヤきょう十戒じっかいキリスト教きりすときょうななつの大罪だいざいなどが有名ゆうめいである。

仏教ぶっきょう

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仏教ぶっきょう二元にげんせいだいいちさとあいだにある、というのは仏教ぶっきょう内部ないぶにはぜんあく対立たいりつたものは直接的ちょくせつてき言及げんきゅうされていないからである。しかしブッダ一般いっぱんてきおしえをもとに、仏教ぶっきょう哲学てつがく体系たいけいないは「あく」に相当そうとうすると推測すいそくされうる"[25][26]

実際じっさいにはこれは1)みっつの利己りこてき感情かんじょう-欲望よくぼう憎悪ぞうお虚偽きょぎ;や2)肉体にくたいてき言語げんごてき行動こうどうにおけるそれらのあらわれ、について言及げんきゅうすることができる。十戒じっかい (仏教ぶっきょう)参照さんしょう。とりわけ「あく」は、現世げんせいにおける幸福こうふく、よりまれわり、輪廻りんねからの解脱げだつ、ブッダの真正しんせいにして完全かんぜんさとり(さんさん菩提ぼだい)を妨害ぼうがいするものをす。無知むちすべてのあく根源こんげんであるとされる[27]

ヒンドゥーきょう

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ヒンドゥーきょうにおいてダルマ、つまり秩序ちつじょ正義せいぎ順守じゅんしゅあらわ概念がいねん世界せかいぜんあくにはっきり二分にぶんし、ダルマを護持ごじするためには時々ときどき戦争せんそうがなされる必要ひつようがあると説明せつめいする。この戦争せんそうはダルマユッダとばれる。この善悪ぜんあく区別くべつはヒンドゥーきょう叙事詩じょじしラーマーヤナマハーバーラタ両方りょうほう非常ひじょう重要じゅうようである。

イスラーム

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イスラームでは、二元論にげんろんてき意味いみぜんから独立どくりつにしてぜん対等たいとう基本きほんてき普遍ふへんてき原理げんりとしての絶対ぜったいてきあく存在そんざいしない。イスラームにおいては個々ここひとによっていとかんじられようがわるいとかんじられようがすべてのものアッラー由来ゆらいするとしんじることが本質ほんしつてきだとされている。そして、「あく」だとかんじられるものは自然しぜんこること(自然しぜん災害さいがい病気びょうき)であるかアッラーの命令めいれいそむ人間にんげん自由じゆう意思いしによってこるかのどちらかだとされる。イスラームのかんがかたでは、あく原因げんいんではなく結果けっかなのである[よう出典しゅってん]

「アッラーにそむいてあく悪行あくぎょうがなされると、だいカリマー(すなわちシャハーダ)をとなえるもの悪人あくにん悪行あくぎょうすのをめることはできなくなる。」 [よう出典しゅってん]

ユダヤ-キリスト教きりすときょう思想しそう

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あくぜんではないものである。聖書せいしょではあく一人ひとりでいる状態じょうたいだと定義ていぎされる(創世そうせい2:18)。この意味いみでは、あくとは価値かちかん行動こうどうかんして社会しゃかいそむいて、社会しゃかい外部がいぶにいることだとみなされうる。

あく擬人ぎじんしたものである悪魔あくまぜん擬人ぎじんしたものであるキリストを誘惑ゆうわくしている。アリ・シェフェール、1854ねん

キリスト教きりすときょうべんしょうしゃウィリアム・レーン・クレイグのように、あくを、道徳どうとくてきわるつまりだれかによっておこなわれるがいと、自然しぜんわるつまり自然しぜん災害さいがいやまい、そのだれかが意図いとしたものではない原因げんいん結果けっかとしてこるがいとにけてかんがえるものもいる。自然しぜんあくべんかみろんとく重要じゅうよう概念がいねんである、というのも自然しぜんあくだれかの自由じゆう意思いしによってこったというように単純たんじゅん説明せつめいすることができないからである。

キリスト教きりすときょう

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キリスト教きりすときょう神学しんがくではあく概念がいねん旧約きゅうやく聖書せいしょおよび新約しんやく聖書せいしょから説明せつめいされる。旧約きゅうやく聖書せいしょでは、堕天使だてんしながサタンのような不適切ふてきせつおとったものとおなじだけかみ反抗はんこうするものがあくだと理解りかいされる[28]新約しんやく聖書せいしょではギリシア単語たんご「ポネロス」が不適切ふてきせつさをあらわすのに使つかわれ、「カコス」が人間にんげん領分りょうぶんないでのかみたいする反抗はんこう言及げんきゅうするのに使つかわれる[29]公式こうしきには、カトリック教会きょうかいではあく理解りかいドミニコかい神学しんがくしゃトマス・アクィナス依拠いきょする。かれ著書ちょしょ神学しんがく大全たいぜん』で、あくぜん欠如けつじょ欠乏けつぼうであると定義ていぎしている[30]フランスけいアメリカじん神学しんがくしゃアンリ・ブロシェは、神学しんがくてき概念がいねんとしてはあくは「不当ふとう実在じつざいぞくないいまわしでは、あくは『こるべきではない』が経験けいけんじょうきる『なにか』である」とべている[31]

ユダヤきょう

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ユダヤきょうでは、あくとはかみ見捨みすてた結果けっかである(さるいのち 28:20)。ユダヤきょうではトーラー(タナハ参照さんしょう)にしるされたようなかみほうミシュナータルムードしめされたほう儀式ぎしきしたがうことが強調きょうちょうされる。

ユダヤきょうでは教派きょうはによっては、あくをサタンのようなかたち擬人ぎじんしない。わりに、人間にんげんしん生来せいらい欺瞞ぎまんへとかいやすいものであるが人間にんげん自分じぶん選択せんたくかんして判断はんだんまかされている、とかんがえられている。べつ教派きょうはでは、人間にんげんまれた時点じてんではぜんへもあくへも方向ほうこうづけられていないとされる。ユダヤきょうでは、サタンはかみ反逆はんぎゃくしているのではなくむしろかみいのちによって人間にんげんためしているのだとみなされ、あく上記じょうきキリスト教きりすときょう教派きょうはのように選択せんたく原因げんいんであるとみなされる。

ひかりつくやみ創造そうぞう
平和へいわつくわざわいを想像そうぞうするもの;
わたしはこれらすべてをおこなおもである。

—イザヤしょ 45:7NASB

いくつかの文化ぶんか哲学てつがくでは、あく意味いみ理由りゆうがなくともまれてくるとしんじられている(ネオプラトニズムでは、これは不条理ふじょうりあくばれる)。一般いっぱんてきキリスト教きりすときょうではこうしたことをしんじないが、預言よげんしゃイザヤかみすべての原因げんいんであることをしめしている(Isa.45:7)[疑問ぎもんてん]

三位一体さんみいったい

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モルモンきょう神学しんがくでは、人生じんせいとは信仰しんこうためすものであって、人性じんせいのうちで人間にんげん選択せんたく救済きゅうさい計画けいかく中心ちゅうしんをなすとされる。あくとは人間にんげんかみ本性ほんしょう発見はっけんするのをさまたげるものであるという。人間にんげんあくまらずかみ帰還きかんするように選択せんたくするべきだとしんじられている。

クリスチャン・サイエンスでは、自然しぜんぜんたいする理解りかいからしょうじるとしんじられている。自然しぜんぜんただしい(たましいの)観点かんてんからたときに本性ほんしょうじょう完全かんぜんなものであると理解りかいされている。かみ実在じつざいたいする誤解ごかいによって間違まちがった選択せんたくしょうじ、それがすなわあくとなる。このため、あくみなもととなる種々しゅじゅちからあくみなもとであるようなかみ否定ひていされる。わりに、あく出現しゅつげんぜん概念がいねん誤解ごかいした結果けっかであるとされる。もっとも「あく」であるひとでもわるそれ自体じたい追求ついきゅうしているのではなく、間違まちがったかんがえからなんらかのぜん実現じつげんしようとして、結果けっかとして悪事あくじはたらいてしまうのだとクリスチャン・サイエンティストたち主張しゅちょうしている。

ゾロアスターきょう

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ペルシアじん本来ほんらい宗教しゅうきょうであるゾロアスターきょうでは、世界せかいかみアフラ・マズダ(オフルマズドともばれる)と悪霊あくりょうアンラ・マンユ(アーリマンともばれる)とのたたかいのであるとされる。ぜんあくあらそいの最終さいしゅう決着けっちゃく審判しんぱんこり、そのときにきているものすべえんはしみちびかれ、邪悪じゃあくものたちはたおされて永久えいきゅう復活ふっかつしないという。ペルシアじんたちの信仰しんこうするところによれば、天使てんし聖人せいじん人々ひとびとぜんへのみちあゆむのをたすける存在そんざいである。

あくかんする哲学てつがくてき問題もんだい

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あく普遍ふへんてきか?

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根本こんぽんてき問題もんだいは、あく普遍ふへんてき超越ちょうえつろんてき定義ていぎ存在そんざいするかか、つまり、あくひと社会しゃかいてき文化ぶんかてき背景はいけいによって決定けっていされているにすぎないのではないかというものである[よう出典しゅってん]レイプ殺人さつじんのように、あくであると普遍ふへんてきかんがえられている行動こうどう存在そんざいするとC・S・ルイスが『人間にんげん廃絶はいぜつ』でべている。しかしながら、レイプや殺人さつじん社会しゃかいてき文脈ぶんみゃくによってこのんでもちいられる場合ばあい多々たたあるため、C・S・ルイスの主張しゅちょうには疑問ぎもんげかけられる。それでも、レイプというかたり定義ていぎじょうしきおこないをすのに使つかわれることを必要ひつようとしている、というのはこの概念がいねん他者たしゃたいして性的せいてき暴力ぼうりょくをふるうことをしているからだ、と主張しゅちょうするものもいる。19世紀せいき中頃なかごろまでは、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく―およびおおくの国々くにぐに―では奴隷どれいせいおこなわれていた。よくあることではあるが、こういった倫理りんりてき境界きょうかい侵犯しんぱんはそこから利益りえきるためにおこなわれた。おそらく、奴隷どれいせいつねおなじだけ、そして客観きゃっかんてきあくであるが、奴隷どれいせいおこなおうとする人々ひとびとはそれを正当せいとうしようとする。

だい世界せかい大戦たいせんナチスジェノサイド正当せいとうしたが[32]ルワンダ虐殺ぎゃくさつさいフツインテラハムウェおなじことをした[33][34]。しかしこういった残虐ざんぎゃく行為こうい実行じっこうはんみずからの行為こういをジェノサイドとぶことをけた、というのはジェノサイドというかたりによって精確せいかくしめされる行為こうい客観きゃっかんてき意味いみ特定とくてい人間にんげん集団しゅうだん不当ふとうころすことだからであるが、すくなくとも不当ふとうくるしめられた人々ひとびとはこの行為こういあくだと理解りかいする。あく文化ぶんかから独立どくりつであり、行動こうどうやその意図いと関連かんれん連動れんどうしていると普遍ふへん主義しゅぎしゃたちはかんがえている。そのため、ナチズムやフツのインテラハムウェのイデオロギーてき主導しゅどうしゃはジェノサイドの実行じっこう許容きょよう(したり、それは道徳どうとくてきみとめられるとかんがえたり)するが、ジェノサイドは「根本こんぽんてきに」あるいは「普遍ふへんてきに」あくだという信念しんねんもとづけばジェノサイドを扇動せんどうする人々ひとびと本当ほんとうわるいということになる[不適切ふてきせつ合成ごうせい?]悪事あくじはたらくことはつねわるいが悪事あくじはたらもの完全かんぜんにはあくなる存在そんざいでもぜんなる存在そんざいでもない、と主張しゅちょうする普遍ふへん主義しゅぎしゃもいるようだ。たとえばぼうあめぬすんだひと完全かんぜんわるくなるということはむしろ支持しじできない立場たちばだということになる。しかし、普遍ふへん主義しゅぎしゃは、人間にんげんあきらかにぜんである人生じんせいあきらかにあくである人生じんせい選択せんたくすることができ、大量たいりょう虐殺ぎゃくさつおこなうような独裁どくさいはもちろん後者こうしゃであるとも主張しゅちょうしている。

あく本性ほんしょうかんするかんがえは以下いかよっつの相反あいはんする立場たちばのうちのひとつにきがちである:

  • 絶対ぜったい主義しゅぎ (倫理りんり)では、善悪ぜんあくとはかみかみ々、自然しぜん道徳どうとくりつコモン・センス、その根拠こんきょによっててられる不変ふへん概念がいねんであるとかんがえる[35]
  • 虚無きょむ主義しゅぎ (倫理りんり)は、善悪ぜんあくというのは無意味むいみ概念がいねんで、自然しぜんには倫理りんり構成こうせい要素ようそになるものなど存在そんざいしないと主張しゅちょうする。
  • 相対そうたい主義しゅぎ (倫理りんり)では、善悪ぜんあく基準きじゅんとなるのは地域ちいきごとの文化ぶんか慣習かんしゅう固定こてい観念かんねん産物さんぶつだけだとかんがえる。
  • 普遍ふへん主義しゅぎ (倫理りんり)とは絶対ぜったい主義しゅぎしゃ道徳どうとくりつ相対そうたい主義しゅぎてき観点かんてんとの和解わかいてん見出みいだそうとするこころみである。普遍ふへん主義しゅぎは、道徳どうとくりつはある程度ていど可変かへんてきであるにすぎず、なに本当ほんとうあるいはあくであるかはぜん人類じんるいつうじてなにあくであるかを調査ちょうさすることで決定けっていすることができる、と主張しゅちょうする。サム・ハリスは、普遍ふへんてき道徳どうとくりつのう生物せいぶつがく刺激しげき調しらべる方法ほうほうもとづいて物理ぶつりてきにも精神せいしんてきにも計量けいりょう可能かのうこう不幸ふこう単位たんいもちいることで理解りかいすることができるとべている[36]

プラトンは、ぜんをなす方法ほうほう相対そうたいてきすくなく、あく方法ほうほうかぎりないといている。また、そのためにあく方法ほうほう我々われわれ生活せいかつおおきな影響えいきょうおよぼし、もの生活せいかつくるしみをあたえうるという。このため、道徳どうとくてき規則きそく策定さくていし、実施じっしするじょう重要じゅうようなのはぜん促進そくしんすることよりもむしろあく防止ぼうしすることだとバーナード・ガートのような哲学てつがくしゃ主張しゅちょうしている[よう出典しゅってん]

あく有用ゆうよう概念がいねんか?

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わるい「人間にんげん」など存在そんざいせず、「行動こうどう」だけがあくだとかんがると主張しゅちょうする学派がくは存在そんざいする。心理しんり学者がくしゃ仲裁ちゅうさいじんマーシャル・ローゼンバーグは、暴力ぼうりょく起源きげんはまさに「あく」「わるさ」といった概念がいねんそのものだと主張しゅちょうしている。わたしたちがだれかをわるい、あるいはあくだとレッテルりすると、あたえたいという欲望よくぼうがレッテルりすることによってもたらされるとローゼンバーグはう。これによってわたしたちがきずつけているひとたいしてなにかをかんじなくなることが容易よういにもなる。ドイツじんがほかの民族みんぞくたいして通常つうじょうはしないことをするうえでカギとなったナチスドイツにおける言語げんご使用しようについてかれ言及げんきゅうしている。かれあく概念がいねんと、わるいとみなされることにたいしてばちあたえる、ばちあたえることをつうじた正義まさよし因果応報いんがおうほう―をつくそうとする司法しほう制度せいどとをむすびつける。かれは、このアプローチを、あく概念がいねん存在そんざいしない文化ぶんかかれ見出みいだしたものと比較ひかくする。そういった文化ぶんかでは、ひとだれかをきずつけたときかれらはかれ自身じしんかれらのぞくするコミュニティとあいいれなくなったとしんじられ、んでいるとみなされ、かれ自身じしん人々ひとびとあいいれるようにあたらしい度量どりょうほうされる。

心理しんり学者がくしゃアルバート・エリス論理ろんり情動じょうどう行動こうどう療法りょうほう(えい:Rational Emotive Behavioral Therapy)とばれるかれ学派がくはにおいて同様どうよう主張しゅちょうおこなっている。いかりの起源きげん他者たしゃきずつけたいという欲求よっきゅうはほぼつね他者たしゃかんする黙示もくしてきあるいは明示めいじてき種々しゅじゅ哲学てつがくてき信念しんねんむすびついているとかれう。さらに、こういった様々さまざま秘密ひみつのあるいは公然こうぜん信念しんねんあるいは臆断おくだんたなければたいていの場合ばあい暴力ぼうりょくうったえる傾向けいこう減退げんたいするとかれ主張しゅちょうしている。

一方いっぽう、アメリカの重要じゅうよう精神せいしんモーガン・スコット・ペックあくを「好戦こうせんてき無知むち」とみなしている[37]。ユダヤ―キリスト教きりすときょうにおける「つみ」の概念がいねん本来ほんらい人間にんげんが「そこねな」って完成かんせいたっしないような過程かていとしてのつみである。このことにおおくの人々ひとびとすくなくともある程度ていどづいているが、実際じっさいあくであり好戦こうせんてき人々ひとびと自分じぶんづいていることをみとめないとペックは主張しゅちょうしている。とく無実むじつつみけるひと(しばしば子供こどもよわ立場たちば人々ひとびと)をえらんで悪行あくぎょうすという結果けっかいた有害ゆうがい独善どくぜんせいこそがあく特徴とくちょうだとペックはかんがえている。ペックが悪人あくにんぶような種類しゅるい人々ひとびと自分じぶん良心りょうしんから(自己じこ欺瞞ぎまんつうじて)がくれしており、このてんサイコパスにおいてあきらかに良心りょうしん欠如けつじょしているのとは区別くべつされるとペックはかんがえている。

ペックによれば、悪人あくにんは:[37][38]

  • つみからのがれ、自己じこイメージを完璧かんぺきなものにたもとうという意図いとをもって自己じこ欺瞞ぎまんつづけている
  • 自己じこ欺瞞ぎまん結果けっかとして他者たしゃあざむいている
  • 自身じしんつみ非常ひじょうせま範囲はんい対象たいしょう投影とうえいし、他者たしゃをスケープゴートにする一方いっぽう自分じぶんみなとともに正常せいじょうせかける(「かれたいするかれらの感受性かんじゅせい選択せんたくてきである」)[39]
  • 一般いっぱんに、他者たしゃをだますのとおなじだけ自己じこ欺瞞ぎまんのためにせかけのあいによってきら
  • 政治せいじてき(感情かんじょうてき)ちから悪用あくようする(「人間にんげん意志いし公然こうぜんに、あるいは秘密裏ひみつり他者たしゃ賦課ふかわせること」)[40]
  • たかいレベルの社会しゃかいてき地位ちいたもち、そのためにつねうそをつく
  • 自身じしんつみかんして一貫いっかんしている。悪人あくにんおかしたつみおおきさよりもむしろ(破壊はかいせいが)持続じぞくすることによって特徴とくちょうづけられる
  • 自分じぶんこした悪事あくじ被害ひがいしゃ視点してんってかんがえることができない
  • 批判ひはんそののナルシシズムをきずつけるような行為こういけたときにひそかにしのぶことができない

あるしゅ制度せいどあくである可能かのうせいがあるとかれかんがえている、というのはソンミむら虐殺ぎゃくさつ事件じけんとそれが隠蔽いんぺいしようとされたことにかんするかれ議論ぎろんしめされているのである。この定義ていぎによれば、犯罪はんざいてきテロリズムと国家こっかテロリズムもあくだとかんがえられるであろう。

必要ひつようわる

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マルティン・ルターちいさなあく否定ひていしがたいぜんとなる場合ばあいがあることをみとめた。「あなたの仲間なかま社会しゃかいさがし、み、あそび、猥談わいだんをしてたのしみなさい。悪魔あくま良心りょうしんてきひとたいしてなにかをする機会きかいあたえないために、悪魔あくまにくみさげすむのとはべつときにはつみおかしなさい」とかれいている[41]

政治せいじ哲学てつがくのある学派がくはでは、指導しどうしゃ善悪ぜんあく関心かんしんたず、実用じつようせいのみにもとづいて行動こうどうするべきだとかんがえられている。政治せいじたいするこのアプローチはニッコロ・マキャヴェッリとなえたものである。かれは16世紀せいきフィレンツェ著述ちょじゅつ政治せいじたちに「あいされるよりもおそれられたほうがずっと安全あんぜんである[42]」と助言じょげんした。

レアルポリティーク(どく:Realpolitik)とばれることもある現実げんじつ主義しゅぎしん現実げんじつ主義しゅぎ国際こくさい関係かんけいろんもとづくと、政治せいじ国際こくさい政治せいじにおいては絶対ぜったいてき道徳どうとく倫理りんりがあるというかんがえをはっきりと否定ひていして、個人こじん関心かんしん政治せいじてき生存せいぞん武力ぶりょく外交がいこう重視じゅうしすることをこのむべきということになる。このことはこういった国際こくさい関係かんけいろんとなえるものたちがあきらかに道徳どうとくてき危険きけんだとみなしている世界せかい説明せつめいするじょうでより的確てきかくになるとかれらはかんがえている。政治せいじがくにおける現実げんじつ主義しゅぎしゃたちはたいてい、政治せいじてき指導しどうしゃだけにされる「高度こうど道徳どうとくてき義務ぎむ」を主張しゅちょうすることでかれらのかんがかた正当せいとうしている。この主張しゅちょうしたでは、最大さいだいあくとは国家こっか自身じしんやその国民こくみんまもれないことである。マキャヴェッリはこういている: 「[…]ぜんだとかんがえられてはいるが実際じっさいにそれにしたがうと滅亡めつぼうしてしまうような特質とくしつがある一方いっぽうで、悪徳あくとくとみなされているがそれを実行じっこうすると安全あんぜん実現じつげんされ君主くんしゅにとって幸福こうふくであるような特質とくしつ存在そんざいする[42]。」

関連かんれん項目こうもく

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参考さんこう文献ぶんけん

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  • たましい殺人さつじん アリス・ミラー
  • 平気へいきでうそをつくひとたち M・スコット・ペック
  • あくについて エーリッヒ・フロム

脚注きゃくちゅう

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外部がいぶリンク

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