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ペーローズ1せい

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ペーローズ1せい
𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰
シャーハーン・シャー(諸王しょおうおう
ダーラーブギルド鋳造ちゅうぞうされたペーローズ1せいドラクマ銀貨ぎんか
在位ざいい 459ねん - 484ねん

出生しゅっしょう 不明ふめい
死去しきょ 484ねん
バルフ近郊きんこう
子女しじょ カワード1せい
ジャーマースプ
サムビケ
ペーローズドゥフト
王朝おうちょう サーサーンあさ
父親ちちおや ヤズデギルド2せい
母親ははおや デーナグ
宗教しゅうきょう ゾロアスターきょう
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ペーローズ1せいパフラヴィー: 𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰‎, ペルシア: پیروز‎, ラテン文字もじ転写てんしゃ: Pērōz)は、サーサーンあさ君主くんしゅシャーハーン・シャー)である(在位ざいい459ねん - 484ねん)。

ペーローズ1せい父親ちちおやヤズデギルド2せい死後しご王位おうい宣言せんげんした兄弟きょうだいホルミズド3せい後継こうけいしゃ地位ちいあらそい、ねんおよんだ内戦ないせんすえにホルミズド3せいたおして王位おうい獲得かくとくした。治世ちせい初期しょきにはだい規模きぼ飢饉ききん見舞みまわれた一方いっぽうで、コーカサス地方ちほう従属じゅうぞく勢力せいりょくであるアルバニア王国おうこく内戦ないせんちゅうこしていた反乱はんらん協定きょうていむすぶことで収拾しゅうしゅうした。さらに、466ねんにはシャープール2せい治世ちせい以来いらい東方とうほう勢力せいりょくあらそっていたキダーラあさエフタル協力きょうりょくして放逐ほうちくすることに成功せいこうし、一時いちじてきトハーリスターン支配しはい回復かいふくした。

しかし、そのペーローズ1せいはエフタルと対立たいりつし、にわたって戦争せんそうこしたものの、二度にどともやぶれて捕虜ほりょとなり、解放かいほうえに身代金みのしろきん支払しはらいを余儀よぎなくされた。482ねんにはコーカサス地方ちほうアルメニアイベリア英語えいごばんにおいてそれぞれヴァハン・マミコニアン英語えいごばんヴァフタング1せいひきいられた反乱はんらんこった。最終さいしゅうてきにペーローズ1せい反乱はんらん鎮圧ちんあつできないままエフタルにたいするさん度目どめ戦争せんそうやぶれ、484ねん戦死せんしした。

ペーローズ1せいによるエフタルとのたたかいは当時とうじ現代げんだい双方そうほう歴史れきしから無謀むぼうひょうされ、その敗北はいぼくはサーサーンあさ政治せいじてき社会しゃかいてき、そして宗教しゅうきょうてき混乱こんらんまねいた。帝国ていこく衰運すいうんきわめ、エフタルにたいしてはみつぎ納金のうきん支払しはらいを余儀よぎなくされた。さらに帝国ていこく貴族きぞく聖職せいしょくしゃ政治せいじ牛耳ぎゅうじり、国家こっかたいおおきな影響えいきょうりょく権力けんりょくるうようになった。しかし、サーサーンあさはペーローズ1せい息子むすこであるカワード1せいした改革かいかく推進すいしんし、エフタルからホラーサーン支配しはいもどすと、最終さいしゅうてきまごホスロー1せい治世ちせいにおいて突厥との協力きょうりょくによってエフタルをほろぼすことに成功せいこうした。

ペーローズ1せいインドシンド地方ちほう自身じしん金貨きんか鋳造ちゅうぞうした最後さいごのシャーハーン・シャーであり、どう時期じきにこの地方ちほう支配しはいがサーサーンあさからうしなわれたことをしめしている。また、ペーローズ1せいのサーサーンあさ支配しはいしゃたちと同様どうようゾロアスターきょう信奉しんぽうしていたが、キリスト教きりすときょうかんしては当時とうじあたらしい宗派しゅうはであるネストリウス支持しじし、ネストリウス直前ちょくぜん時期じきジュンディーシャープールひらかれた教会きょうかい会議かいぎにおいてペルシア教会きょうかい公式こうしき教義きょうぎとして採用さいようされた。

名前なまえ

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ペーローズ(Pērōz)は中期ちゅうきペルシア名前なまえであり、形容詞けいようしで「勝利しょうりた」を意味いみしている。パルティアではPērōžであったことが立証りっしょうされており、しんペルシアではPīrūzアラビアではFīrūzである[1]ギリシアではPerozesΠερόζης)とこぼしされている[2]ジョージアでは中期ちゅうきイラン(パルティアおよび中期ちゅうきペルシア)としんペルシアつうじてそれぞれPˊerozhPˊeroz語形ごけいかいにわたりれられた[1]アルメニアこぼしPerozՊերոզ)であり、中期ちゅうきペルシア語形ごけいしたがった同一どういつつづりとなっている[3]。ペーローズの名前なまえすでに3世紀せいきにはサーサーンあさ支流しりゅうであるクシャーノ・サーサーンあさ支配しはいしゃペーローズ1せい英語えいごばんによってもちいられていた[4]

即位そくいまで

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5世紀せいき中頃なかごろサーサーンあさ領土りょうど

中世ちゅうせい歴史れきしサアーリビー(1038ねんぼつ)は、伝承でんしょうではペーローズの父親ちちおやヤズデギルド2せい在位ざいい:438ねん - 457ねん)は457ねん死去しきょするさい後継こうけいしゃさだめず、帝国ていこく支配しはいそう有力ゆうりょくマルズバーン辺境へんきょう地域ちいき太守たいしゅ)に後事こうじたくしたと説明せつめいしている[5]。しかしながら、そのすぐに二人ふたり息子むすこあいだ後継こうけいしゃあらそいが勃発ぼっぱつした。ヤズデギルド2せい長男ちょうなんのホルミズド(ホルミズド3せい在位ざいい:457ねん - 459ねん)はペルシア北部ほくぶレイ王位おうい宣言せんげんし、一方いっぽうでペーローズは帝国ていこく北東ほくとうのがれ、自身じしん王位おうい主張しゅちょうするためにぐんおこした[6][7]兄弟きょうだい母親ははおやであるヤズデギルド2せい王妃おうひデーナグ首都しゅとクテシフォンから一時いちじてき帝国ていこく摂政せっしょうとして統治とうちした[6]東方とうほうつたわる複数ふくすう史料しりょうにおいて、ペーローズはホルミズドより王位おうい相応ふさわしく、ホルミズドは「公正こうせい」であったとされている[8]一方いっぽうで『Codex Sprenger 30』のられる著者ちょしゃ不明ふめい文書ぶんしょのみがホルミズドを「勇敢ゆうかんでより相応ふさわしい」としるしており、ペーローズを「より宗教しゅうきょう博識はくしき」であったと説明せつめいしている[8]

この内戦ないせんちゅうにん兄弟きょうだい東方とうほう隣接りんせつするトハーリスターン(バクトリア)のしょ勢力せいりょくから支援しえんようとしたとみられている。当時とうじ、この地域ちいきキダーラあさエフタルなどのキダーラあさ臣従しんじゅうするいくつかの現地げんち勢力せいりょくとともに支配しはいしていた[9]どう時代じだいバクトリアかれたさんつう書簡しょかんによれば、ローブ(カーブルバルフあいだ位置いちする都市とし)の支配しはいしゃであったキルディール・ワラフランは、「ホルミズドによる栄光えいこうあり」と「ペーローズへの忠義ちゅうぎあり」という敬称けいしょうあたえられており、キルディールがにん兄弟きょうだいあいだ忠義ちゅうぎ対象たいしょううつしていたことを示唆しさしている[10]どう時代じだいアルメニア歴史れきしであるイェギシェ英語えいごばんガザル・パルペツィ英語えいごばんによれば、ペーローズはとくにペルシアのななだい貴族きぞくひとつであるミフラーンから支援しえんけたとされているが、後世こうせいのペルシア史料しりょうではペーローズはエフタルのしたのがれ、エフタルから協力きょうりょくたとされている[11]

しかし、後者こうしゃ説明せつめい現代げんだい複数ふくすう歴史れきしから「伝説でんせつてき」であり「やや現実げんじつてき」であると指摘してきされている[8][11]現代げんだい歴史れきしパルヴァネ・プールシャリーアティー英語えいごばんシャープール・シャフバーズィー英語えいごばん、およびマイケル・ボナーはアルメニアの史料しりょうをより重視じゅうししており、ペルシアの史料しりょうはミフラーンつうじてエフタルの援助えんじょけたいくつかの事実じじつ存在そんざいした可能かのうせい示唆しさしたものであるとしている[7][8][11]。また、イェギシェとガザル・パルペツィは、ペーローズのホルミズドにたいするたたかいについてそれぞれ微妙びみょうことなる説明せつめいをしている。イェギシェによれば、ペーローズは自分じぶん家庭かてい教師きょうしであったミフラーンラハム・ミフラーンによる支援しえんけ、ラハムは459ねんにホルミズドをらえて処刑しょけいし、ペーローズをシャーハーン・シャーとして戴冠たいかんした。ガザル・パルペツィの説明せつめい基本きほんてきにはおなじであるものの、ミフラーン人物じんぶつはアシュタード・ミフラーンとされ、そのアシュタードはペーローズの家庭かてい教師きょうしではなく養父ようふであったとされている[8][10][ちゅう 1]

治世ちせい

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アルバニアの反乱はんらん飢饉ききん

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5世紀せいきから6世紀せいきにかけてのアルバニア王国おうこく領域りょういき都市とししめした地図ちず

ペーローズ1せいとホルミズド3せい後継こうけいしゃあらそいの最中さいちゅうコーカサス地方ちほうアルサケスあさ英語えいごばんアルバニア王国おうこくおうであるヴァチェー2せい英語えいごばん在位ざいい:440ねん - 462ねん)がサーサーンあさ混乱こんらんじょうじて独立どくりつ宣言せんげんした[12]。ヴァチェー2せいフンぞくカスピ海かすぴかい沿いのデルベント通過つうかみとめ、フンぞく支援しえんけてペルシアぐん攻撃こうげきした。これにたいしペーローズ1せいもフンぞくコーカサス山脈さんみゃくえるダリアルとうげ英語えいごばん通過つうかゆるすことでおうじ、そのこれらのフンぞくはアルバニアをらしまわった[13]結局けっきょく双方そうほうおう協定きょうてい交渉こうしょうはじめた。ヴァチェー2せいはペーローズ1せい姉妹しまいであった母親ははおや自分じぶんむすめ両者りょうしゃともキリスト教徒きりすときょうとであった)をペーローズ1せいわたし、一方いっぽう元々もともと父親ちちおやから相続そうぞく資産しさんとしてあたえられていたサーサーンあさ出身しゅっしんしゃからなる1,000世帯せたい家族かぞくれるという条件じょうけん両者りょうしゃ合意ごういたっした[13]。ヴァチェー2せいは462ねん死去しきょ[14]、そのアルバニアはペーローズ1せいおとうと後継こうけいしゃバラーシュ在位ざいい:484ねん - 488ねん)によって485ねんヴァチャガン3せい英語えいごばん在位ざいい:485ねん - 510ねん)が王位おういえられるまでおう不在ふざいであった[13]。また、ペーローズ1せいは451ねんこったアルメニアじん反乱はんらん影響えいきょう父親ちちおやのヤズデギルド2せいによって投獄とうごくされていたアルメニアじん貴族きぞく一部いちぶ釈放しゃくほうした[15]

その一方いっぽうで461ねんごろにペルシアは深刻しんこくかんばつ見舞みまわれ、おそらく467ねんまでつづいただい飢饉ききんこした[15][16][17]。このかんばつによってティグリスがわ水位すいいいちじるしく低下ていかし、いずみ井戸いど灌漑かんがい設備せつびみず干上ひあがり、家畜かちくえた。飢饉ききん帝国ていこくない蔓延まんえんし、農村のうそん地帯ちたいでは餓死がししゃ発生はっせいするようになった。ペーローズ1せい一時いちじてきぜい徴収ちょうしゅうめ、すべての貯蔵庫ちょぞうこ解放かいほうして民衆みんしゅう食料しょくりょう配給はいきゅうさせ、最悪さいあく事態じたい回避かいひするようにつとめた[18]。ただし、このだい飢饉ききんかんする記録きろくは、危機きき最中さいちゅうの464ねんにペーローズ1せいがキダーラあさたいして軍事ぐんじ作戦さくせん準備じゅんびしたという事実じじつ後述こうじゅつ)を考慮こうりょすると、いくぶん誇張こちょうされている可能かのうせいがある[12]

ひがしマ帝国まていこくとの関係かんけい

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5世紀せいきサーサーンあさ右側みぎがわ)とひがしマ帝国まていこく左側ひだりがわ)の国境こっきょう地帯ちたい地図ちず

ペーローズ1せい治世ちせい初期しょきにサーサーンあさひがしマ帝国まていこくあいだ緊張きんちょうたかまりをはじめた。460年代ねんだい中頃なかごろひがしマ帝国まていこく将軍しょうぐんアルダブリウスがサーサーンあさ宮廷きゅうていひそかに連絡れんらくり、軍事ぐんじ支援しえんおそらくは情報じょうほう提供ていきょう約束やくそくするとともにペーローズ1せいひがしマ帝国まていこく攻撃こうげきするよううながしているという情報じょうほうをつかんだ。アルダブリウスの複数ふくすう書簡しょかん押収おうしゅうされてひがしローマ皇帝こうていレオ1せい在位ざいい:457ねん - 474ねん)の手元てもとわたり、レオ1せいはアルダブリウスを解任かいにんするとともに首都しゅとコンスタンティノープル召喚しょうかんした[19]。ただし、召還しょうかんのアルダブリウスがどのような処分しょぶんけたのかは不明ふめいである[20]。レオ1せいはこのようなサーサーンあさうごきにたいしてシリアカリニクム要塞ようさいふく国境こっきょう地帯ちたい防備ぼうび強化きょうかすることでおうじた[21]

387ねんにサーサーンあさマ帝国まていこくあいだむすばれたアキリセネのやく英語えいごばん以来いらい双方そうほう帝国ていこく北方ほっぽう草原そうげん地帯ちたいから侵入しんにゅうする遊牧民ゆうぼくみん攻撃こうげきたいし、共同きょうどうでコーカサス地方ちほう防衛ぼうえい対処たいしょする義務ぎむうことで合意ごういしていた[22]。これらの攻撃こうげきへの対処たいしょはサーサーンあさがわ中心ちゅうしんてき役割やくわりにない、一方いっぽうひがしマ帝国まていこく不定期ふていきにおよそ500ポンド(230キログラム)のきむ拠出きょしゅつしていた[23]ひがしマ帝国まていこくはこの支出ししゅつ共同きょうどう防衛ぼうえいのための協力きょうりょくきんとみなしていたが、サーサーンあさはこれをひがしマ帝国まていこくのサーサーンあさへの従属じゅうぞくしめみつぎ納金のうきんとみなしていた[24]。サーサーンあさ統治とうちしゃたちは建国けんこく以来いらいとくひがしマ帝国まていこくからみつぎ納金のうきん支払しはらわせることで領土りょうど支配しはいけん権力けんりょく誇示こじしてきた[25]。レオ1せいはサーサーンあさとアルダブリウスのくわだてへの報復ほうふくとしてかね拠出きょしゅつ停止ていしした。その交渉こうしょうかえされたものの、問題もんだい解決かいけつにはいたらなかった[21]。さらにひがしマ帝国まていこくは363ねん条約じょうやくでサーサーンあさ割譲かつじょうされていたニシビス英語えいごばん返還へんかんうったえた[21][26]。このようなたか緊張きんちょう状態じょうたいは474ねんゼノン在位ざいい:474ねん - 475ねん、476ねん - 491ねん)がひがしローマ皇帝こうてい即位そくいするまでつづいた。ゼノンはサーサーンあさへの拠出きょしゅつ再開さいかいし、エフタルの捕虜ほりょとなっていたペーローズ1せい身代金みのしろきん支払しはらって解放かいほうした(後述こうじゅつ[27]。それにもかかわらず、480年代ねんだい前半ぜんはんにはねんにわたるかんばつにくるしんでいたサーサーンあさ庇護ひごのアラブ部族ぶぞくであるタイイぞく英語えいごばん一部いちぶひがしマ帝国まていこく領内りょうない襲撃しゅうげきしたことで戦争せんそうこりかけた。しかし、国境こっきょう地帯ちたい駐屯ちゅうとんしていたサーサーンあさ将軍しょうぐんのカルダグ・ナコラガンがすぐにタイイぞく襲撃しゅうげき鎮圧ちんあつし、ひがしマ帝国まていこくとのあいだ平和へいわ維持いじした[28][29]

キダーラあさとのたたか

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425ねんごろから457ねんごろあいだ鋳造ちゅうぞうされたとみられるキダーラあさ支配しはいしゃ肖像しょうぞうきざまれた硬貨こうか

サーサーンあさシャープール2せい在位ざいい:309ねん - 379ねん)の治世ちせい以来いらい、キダーラあさ、エフタル、キオン英語えいごばん、そしてアルハン・フン英語えいごばんからなる「イランのフンぞく英語えいごばん」としてられる東方とうほう遊牧民ゆうぼくみん侵入しんにゅう対処たいしょしなければならなかった[30]。これらの遊牧民ゆうぼくみんはシャープール2せいとクシャーノ・サーサーンあさ庇護ひご勢力せいりょくからトハーリスターンとガンダーラうばい、最終さいしゅうてきにはシャープール3せい在位ざいい:383ねん - 388ねん)の治世ちせいカーブルうばった[31][32]考古学こうこがく貨幣かへいがく、および印章いんしょうがくうえ証拠しょうこから、これらの勢力せいりょくはサーサーンあさにもおとらない洗練せんれんされた水準すいじゅんみずからの領土りょうど統治とうちしていたことがあきらかとなっている。さらにはサーサーンあさ硬貨こうか英語えいごばん模倣もほうするなど、ペルシアじん帝国ていこく象徴しょうちょう体系たいけい紋章もんしょう素早すばやれていた[33]現代げんだい歴史れきしであるリチャード・ペインはつぎのようにべている。「ペルシアじんによる破壊はかいてきなフンぞく、あるいはローマじん歴史れきしによる略奪りゃくだつはたら野蛮やばんじんといった説明せつめいとは程遠ほどとおく、ペルシアじんによる支配しはいうしなわれて以降いこうにおけるこれらの中央ちゅうおうアジアのフンぞく王国おうこくは、都市とし基盤きばんとし、ぜい徴収ちょうしゅうし、思想しそうてきにも革新かくしんてき国家こっかであり、諸王しょおうおうたちはこれらの勢力せいりょくはらうことが困難こんなんであるとかんじていた」[34]。さらに、サーサーンあさは451ねんサーサーンあさ統治とうちのアルメニア英語えいごばんこった反乱はんらんによってアルメニアじん構成こうせいされた騎兵きへい部隊ぶたいうしない、これらの東方とうほうてき牽制けんせいする能力のうりょくよわめていた[35][36][ちゅう 2]

古代こだいトハーリスターン(バクトリア)とその周辺しゅうへん地域ちいきしめした地図ちずバルフBactresとしてしめされている。

5世紀せいき前半ぜんはんヤズデギルド1せい在位ざいい:399ねん - 420ねん)、バハラーム5せい在位ざいい:420ねん - 438ねん)、そしてヤズデギルド2せいがキダーラあさたいするみつぎ納金のうきん支払しはらいをいられたことで、サーサーンあさ努力どりょくおおきくきずつけられていた[25][37]。これらの支出ししゅつはサーサーンあさ国庫こっこくるしめるほどではなかったものの、それでもなお屈辱くつじょくてきなものであった[38]。ヤズデギルド2せい最終さいしゅうてきみつげ納金のうきん支払しはらいを拒否きょひしたが、このことはのちにキダーラちょうが464ねんごろにペーローズ1せいたいして戦争せんそう宣言せんげんしたさい口実こうじつとして利用りようされることになった[37][39]。ペーローズ1せいはこの戦争せんそう遂行すいこうするための十分じゅうぶん人的じんてき資源しげんいていたためにひがしマ帝国まていこく財政ざいせい支援しえんもとめたものの、ひがしマ帝国まていこくはこの要求ようきゅう拒否きょひした[40]。その結果けっか、ペーローズ1せいはキダーラあさおうであるクンハスに和平わへい自分じぶん姉妹しまい一人ひとりとの縁談えんだんけたが、実際じっさいには姉妹しまいではなくわりに身分みぶんひく女性じょせいおくんだ[40]

サーサーンあさがトハーリスターンにおけるキダーラあさ支配しはいわらせた直後ちょくごの467ねんか468ねんにバルフで鋳造ちゅうぞうされたとみられるペーローズ1せい硬貨こうか硬貨こうか表面ひょうめんにはだい王冠おうかんこうむったペーローズ1せい姿すがたえがかれている。

しばらくしたのちにクンハスはペーローズ1せいだまされていたことに気付きづき、軍備ぐんび強化きょうかするための軍事ぐんじ専門せんもん派遣はけん要請ようせいすることでおなじようにペーローズ1せいだまそうとした[40]。300にん軍事ぐんじ専門せんもん一団いちだんがバラーム(おそらくバルフとかんがえられる)のクンハスの宮廷きゅうてい到着とうちゃくすると、これらのものたちはころされるか外見がいけんきずつけられた。クンハスはペーローズ1せいによる合意ごういへの裏切うらぎりのためだとつたえてのこったものたちをペルシアへおくかえした[40]一方いっぽうおなごろにペーローズ1せいは、エフタルやトハーリスターンの東部とうぶ位置いちするカダグの支配しはいしゃメハマ英語えいごばんふくほかのフンぞく同盟どうめいむすんでいた[41]。そして466ねんにこれらの勢力せいりょく支援しえんによってキダーラあさやぶり、短期間たんきかんではあったもののトハーリスターンをサーサーンあさ支配しはいくとともにバルフで金貨きんか発行はっこうした[33][42]金貨きんか様式ようしきはキダーラあさのものをほぼ踏襲とうしゅうしており、だい王冠おうかんこうむっているペーローズ1せい姿すがたえがかれている[43][44]。また、金貨きんか銘文めいぶんにはバクトリアでペーローズ1せい名前なまえ称号しょうごうしるされている。翌年よくねんの467ねんにはサーサーンあさ使節しせつがコンスタンティノープルをおとずれ、キダーラあさたいする勝利しょうりつたえた。468ねん中国ちゅうごくきたたかし派遣はけんされたサーサーンあさ使節しせつ同様どうようにこの勝利しょうりつたえた可能かのうせいがある[19]

キダーラあさはそのもガンダーラとおそらくはソグディアナ支配しはいしていた。しかし、最終さいしゅうてきにガンダーラはアルハン・フンに、ソグディアナはエフタルに征服せいふくされた[45]。バクトリアの年代ねんだいによれば、メハマはその名高なだか成功せいこうした諸王しょおうおうペーローズの総督そうとく」の地位ちいのぼった[9]。しかしながら、トハーリスターンでは権力けんりょく空白くうはくつづいたことで、メハマは自治じちけんるか独立どくりつをも獲得かくとくした可能かのうせいがある[9]

たいエフタルだいいちだい戦争せんそう

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アルガリ様子ようすえがかれたペーローズ1せいのプレート(6世紀せいき

ペーローズ1せいとエフタルの戦争せんそうかんする情報じょうほうは、どう時代じだい史料しりょうであるシリアかれた『とうとうしゃにせヨシュアの年代ねんだい英語えいごばん』とひがしマ帝国まていこく歴史れきしであるプロコピオス記録きろくによってつたえられている。しかしながら、どちらの史料しりょうにもあやまりや情報じょうほう欠落けつらくおおくみられる。にせヨシュアによれば、ペーローズ1せいはエフタルとさん回戦かいせんそうをしているが、これらの戦争せんそうかんする記述きじゅつはごくわずかである。一方いっぽうのプロコピオスによる説明せつめい詳細しょうさいであるものの、ふたつの戦争せんそうについてしかれていない[46]現代げんだいおおくの歴史れきしはペーローズ1せいがエフタルとさんかいたたかったことに同意どういしている[46][47][48]

キダーラあさ放逐ほうちくされたことで、その従属じゅうぞく勢力せいりょくであったエフタルはトハーリスターン東部とうぶ拠点きょてんきずき、権力けんりょく空白くうはくじょうじてトハーリスターン全域ぜんいき支配しはいひろげた[49]。エフタルの首都しゅとはトハーリスターン東部とうぶクンドゥーズ市街地しがいち付近ふきんであった可能かのうせいもっとたかく、中世ちゅうせい学者がくしゃビールーニー(1048ねんぼつ)はその場所ばしょをワル=ワリズとんでいる[49]。エフタルのおうはしばしばフシュナヴァーズ英語えいごばんという名前なまえあたえられているが、イラン学者がくしゃホダーダード・レザーハーニー英語えいごばんによれば、これはおそらくエフタルのおうたちがもちいていた称号しょうごうであり、イフシード英語えいごばんアフシーン英語えいごばんといった当時とうじ中央ちゅうおうアジアでもちいられていたほか称号しょうごう類似るいじするものであった[50]。ペーローズ1せいはエフタルの拡大かくだい阻止そしするべく474ねんにエフタルを攻撃こうげきしたが、グルガーン英語えいごばん国境こっきょう付近ふきん奇襲きしゅうらえられた[51][52]ひがしローマ皇帝こうていゼノンは身代金みのしろきん支払しはらってペーローズ1せい解放かいほうし、サーサーンあさとエフタルの良好りょうこう関係かんけい回復かいふくした[52]。プロコピオスによれば、フシュナヴァーズはペーローズ1せい解放かいほうえに自分じぶんまえ平伏ひれふすように要求ようきゅうした。ペーローズ1せい祭司さいしたちの助言じょげんしたがって夜明よあけにフシュナヴァーズにい、フシュナヴァーズのまえ平伏ひれふしたようにせかけたが、実際じっさいにはのぼ太陽たいよう、すなわち太陽たいようしんミスラまえ平伏ひれふした[47][52][53]

5世紀せいきにエフタルの支配しはいしゃによって鋳造ちゅうぞうされたドラクマ銀貨ぎんか表面ひょうめんだいさん王冠おうかんこうむったペーローズ1せい姿すがたをほぼ模倣もほうしている。

ペーローズ1せいは470年代ねんだいまつか480年代ねんだい初頭しょとうにエフタルにたいする度目どめ軍事ぐんじ行動こうどうしたものの、ふたたやぶれてらえられる結果けっかわった。捕虜ほりょとなったペーローズ1せい身代金みのしろきんとして30とうのラバにんだドラクマ銀貨ぎんか支払しはらうともうたが、20とうぶんしか支払しはらうことができなかった。のこりの金額きんがく用意よういできず、残金ざんきん支払しはらわれるまでの人質ひとじちとして482ねん末子まっしのカワード(カワード1せい)をエフタルの宮廷きゅうていおくった[49][51][54][ちゅう 3]。リチャード・ペインは、「このときようした金額きんがく古代こだい末期まっき外交がいこうてき協力きょうりょくきん国家こっか歳入さいにゅう比較ひかくすればわずかなものだった。しかし、ペルシアの宮廷きゅうていからフンぞく貢物みつぎものとどけるキャラバンについてのうわさは、ペルシアと地中海ちちゅうかい世界せかいつうじてガリアシドニウス・アポリナリスところまでひろまった」とべている[37]。こののち、フシュナヴァーズはとりつばさみっつの三日月みかづきがた形状けいじょうぶつはいした王冠おうかんこうむった自身じしん硬貨こうか鋳造ちゅうぞうしたが、これはペーローズ1せいだいさん王冠おうかんであり、エフタルのおう自分じぶんをペルシアの正当せいとう支配しはいしゃ做していたことをしめしている[37][56]。ペーローズ1せいはラバ10とうぶん銀貨ぎんか調達ちょうたつするために臣民しんみん人頭じんとうぜいし、エフタルにたいするさん度目どめ軍事ぐんじ行動こうどう後述こうじゅつ)をこすまえにカワードを解放かいほうさせた[54]

アルメニアとイベリアの反乱はんらん

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5世紀せいきコーカサス地方ちほう勢力せいりょく[57]

コーカサスではサーサーンあさ統治とうちにあったアルメニアとイベリア英語えいごばんもアルバニアと同様どうようゾロアスターきょう信奉しんぽうするサーサーンあさ支配しはい不満ふまんいていた。アルメニアではヤズデギルド2せいキリスト教徒きりすときょうと貴族きぞくにゾロアスターきょうへの改宗かいしゅういて官僚かんりょう機構きこう政策せいさくをとったが、その結果けっか、451ねんにアルメニアの軍事ぐんじ指導しどうしゃヴァルダン・マミコニアン英語えいごばんひきいられただい規模きぼ反乱はんらんこすことになった。サーサーンあさアヴァライルのたたか英語えいごばん反乱はんらんぐんやぶったものの、反乱はんらん影響えいきょうはいまだにのこっており、緊張きんちょうつづけていた[58][59][60]一方いっぽう、イベリアではペーローズ1せいがアルメニアとイベリアの境界きょうかい地帯ちたい位置いちするグガルク英語えいごばん総督そうとくビダフシュ英語えいごばん称号しょうごうられる)のヴァルスケン英語えいごばん好意こういてき態度たいどしめしていた。グガルクを支配しはいするミフラーン英語えいごばんぞくしていたヴァルスケンはキリスト教徒きりすときょうととしてまれたが、470ねんにサーサーンあさ宮廷きゅうていおもむいたさいにゾロアスターきょう改宗かいしゅうし、忠誠ちゅうせい対象たいしょうキリスト教きりすときょうこくのイベリアの君主くんしゅコスローあさ英語えいごばん)からサーサーンあさうつしていた[61][62]。また、改宗かいしゅうへの褒美ほうびとしてアルバニア総督そうとく地位ちいるとともにペーローズ1せいむすめ結婚けっこんしていた[63]。ヴァルスケンはおやサーサーンあさ立場たちばり、最初さいしょつまでヴァルダン・マミコニアンのむすめであったシューシャニク英語えいごばんふく家族かぞくものをゾロアスターきょう改宗かいしゅうさせようとしたが、シューシャニクは改宗かいしゅう拒否きょひしてヴァルスケンに殺害さつがいされ、殉教者じゅんきょうしゃとなった[63][64][65]。ヴァルスケンの政策せいさくはイベリアおうヴァフタング1せい在位ざいい:447ねんまたは449ねん - 502ねんまたは522ねん)にとってはがたいものであり、最終さいしゅうてきにヴァフタング1せいはヴァルスケンを殺害さつがいし、その482ねんにサーサーンあさたいする反乱はんらんこした[66]。また、ほぼどう時期じきにアルメニアじんもヴァルダン・マミコニアンのおいにあたるヴァハン・マミコニアン英語えいごばん指導しどうした反乱はんらんこした[67]

同年どうねん、アルメニアのマルズバーンであるアードゥル・グシュナスプ英語えいごばん反乱はんらんからのがれてアードゥルバーダガーン英語えいごばんかい、そこで7,000にん騎兵隊きへいたい組織そしきしてアルメニアにもどったが、アララトさんきた斜面しゃめんがわ位置いちするアコリでヴァハンの兄弟きょうだいのヴァサク・マミコニアンにやぶれて戦死せんしした。その、ヴァハンはサハク2せいバグラトゥニ英語えいごばんをアルメニアのあたらしいマルズバーンにえた[68][69]。これにたいしペーローズ1せいカーレーン英語えいごばんザルミフル・ハザルウフト英語えいごばんひきいる軍隊ぐんたいをアルメニアへ派遣はけんし、さらにミフラーンのサーサーンあさ将軍しょうぐんであるミフラーン(家名かめい同名どうめい)がひきいるべつ軍隊ぐんたいをイベリアへ派遣はけんした[70]なつあいだにミフラーンの息子むすこであるシャープール・ミフラーン英語えいごばんひきいる軍隊ぐんたいがアケスガでアルメニアとイベリアの連合れんごうぐんやぶり、このたたかいでサハク2せいバグラトゥニとヴァサク・マミコニアンが戦死せんしした[71][72]。その一方いっぽうでヴァフタング1せいひがしマ帝国まていこく支配しはいにあったラジカ英語えいごばんのがれた[65]。また、シャープール・ミフラーンがイベリアで軍隊ぐんたい指揮しきする役割やくわりになっていたことから、ペーローズ1せいはエフタルにたいする戦争せんそう参加さんかさせるためにシャープールの父親ちちおやのミフラーンをもどしていた可能かのうせいがある[73]

古代こだい末期まっきから中世ちゅうせい初期しょきにかけてアルメニアの首都しゅとであったドヴィンの城塞じょうさい遺構いこう現代げんだいのドヴィンのむら(2013ねん

ヴァハンはのこりの軍勢ぐんぜいとともにタイク英語えいごばん山中さんちゅう撤退てったいし、そこからゲリラせん展開てんかいした[74]。シャープール・ミフラーンはアルメニアにたいするサーサーンあさ支配しはい回復かいふくしたものの、そのクテシフォンの宮廷きゅうてい召還しょうかんされた。その結果けっかとしてヴァハンはアルメニアの首都しゅとであるドヴィン英語えいごばん一帯いったい支配しはいもどし、そこに要塞ようさいきずいた[75]。483ねんにザルミフル・ハザルウフトにひきいられたサーサーンあさ増援ぞうえん部隊ぶたいがアルメニアに到着とうちゃくし、ドヴィンを包囲ほういした。兵力へいりょくではるかにおとっていたヴァハンの部隊ぶたいてきぐん奇襲きしゅう仕掛しかけ、マークー英語えいごばんちかいネルセアパテにおける戦闘せんとうでサーサーンあさぐんやぶった[76]。そしてふたたひがしマ帝国まていこくとの国境こっきょうちか山中さんちゅう撤退てったいした[71][77]。ヴァハンはひがしマ帝国まていこく衝突しょうとつする危険きけんけるためにサーサーンあさぐん撤退てったいさきまで追撃ついげきしてこないことをねがったものの、ザルミフルは夜間やかん行軍こうぐんすえにアルメニアぐん野営やえい襲撃しゅうげきし、何人なんにんかのおおやけおんならえることに成功せいこうした。ヴァハンとその部下ぶかのほとんどはさらに山奥やまおく撤退てったいした[78]

しかしながら、その予期よきせぬ情勢じょうせい変化へんか戦局せんきょくおおきくえた。484ねんにエフタルと戦争せんそうちゅうであったペーローズ1せい戦死せんし後述こうじゅつ)したことでサーサーンあさ軍隊ぐんたいはアルメニアから撤退てったいした[71]。ペーローズ1せい兄弟きょうだい後継こうけいしゃとなったバラーシュはヴァハンと講和こうわしてヴァハンにハザールベド英語えいごばん大臣だいじん)の地位ちいあたえ、のちにはアルメニアのマルズバーンに指名しめいした[79]。イベリアでも同様どうよう和平わへい成立せいりつし、ヴァフタング1せい自身じしんによる統治とうち回復かいふくすることができた[80]

たいエフタルだいさん戦争せんそう戦死せんし

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ペーローズ1せい敗北はいぼくえがいた15世紀せいきの『シャー・ナーメ』の挿絵さしえ

ペーローズ1せい貴族きぞく聖職せいしょくしゃたちの忠告ちゅうこくさからってグルガーンでエフタルにたいするさん度目どめ遠征えんせい準備じゅんびはじめた[81][82][83]。ガザル・パルペツィは、ペルシアぐんはほとんど反乱はんらんこす寸前すんぜんになるほどエフタルと対峙たいじする可能かのうせいまえにして士気しきうしない、兵士へいしたちがこの軍事ぐんじ作戦さくせん反発はんぱつしていたことを強調きょうちょうしている[84]。ペーローズ1せい兄弟きょうだいのバラーシュをのこして帝国ていこく統治とうちまか[85]、484ねん大軍たいぐんひきいてエフタルへの軍事ぐんじ行動こうどう開始かいしした[83]。ペーローズ1せい遠征えんせいったフシュナヴァーズは、「貴殿きでん押印おういんした文書ぶんしょしたわたし和議わぎむすび、わたしたいして戦争せんそうこさないと約束やくそくした。そして我々われわれはいずれのがわからも敵意てきいってえることのないように共有きょうゆうする境界きょうかいせんさだめたのだ。」という伝言でんごんとともに自分じぶん副官ふっかん派遣はけんした[86]

ペーローズ1せい祖父そふのバハラーム5せい国境こっきょうしめ標識ひょうしきとしてオクサスがわのほとりにてたとう移動いどうさせた[83][87]。この出来事できごと中世ちゅうせい歴史れきしアブー・ハニーファ・ディーナワリー(896ねんごろぼつ)とタバリー(923ねんぼつ)によって言及げんきゅうされている。タバリーによれば、ペーローズ1せいたがいにむすけられた300にんおとこたちと50とうぞうとうつなぎ、兵士へいしたちの前方ぜんぽうきずらせて移動いどうさせ、自分じぶん移動いどうするとううしろをあるいて祖父そふむすんだ講和こうわ条約じょうやくやぶっていないかのようによそおった[83]。また、ペーローズ1せい直接ちょくせつ対決たいけつするのなかったフシュナヴァーズは戦場せんじょう横切よこぎるようにおおきな塹壕ざんごうらせて低木ていぼくやばらばらの木材もくざいかくし、そのうしろにへい配置はいちさせた。そしてフシュナヴァーズの軍隊ぐんたい突撃とつげきしたペーローズ1せいとその部隊ぶたい塹壕ざんごうちて殺害さつがいされた。ペーローズ1せいやその兵士へいしたちの遺体いたいはサーサーンあさがわでは回収かいしゅうされなかった[37][83]おおくの著名ちょめいなサーサーンあさ貴族きぞくたちが戦死せんし[37]、そのなかには4にんのペーローズ1せい息子むすこ兄弟きょうだいふくまれていた[51]戦場せんじょうとなった場所ばしょははっきりとしていないものの、現代げんだい歴史れきしであるクラウス・シップマンドイツばんは、戦闘せんとう今日きょうアフガニスタンおそらくはバルフ近郊きんこうこったとしている[12]

一方いっぽうでペーローズ1せい敵対てきたいてきえがいているにせヨシュアは、ペーローズ1せい塹壕ざんごうから脱出だっしゅつすることができたものの、その山中さんちゅういわ餓死がししたか、もり野獣やじゅうころされてべられたのではないかとするせつしめしている[83]

余波よは

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トランスオクシアナホラーサーン周辺しゅうへん地域ちいき地図ちず記載きさいされている都市としは8世紀せいき時点じてんのもの)

戦争せんそう東方とうほうホラーサーンにおけるサーサーンあさ主要しゅよう都市としであったニーシャープールヘラート、およびメルヴがエフタルの支配しはいはいった[88]。ペーローズ1せいむすめペーローズドゥフト祭司さいしふく従者じゅうしゃたちはフシュナヴァーズにらえられた[83]。ペーローズドゥフトはフシュナヴァーズと結婚けっこんしてむすめみ、このむすめのちにペーローズ1せい息子むすこカワード1せい在位ざいい:488ねん - 496ねん、498/9ねん - 531ねん)と結婚けっこんした[89]つたえられるところによれば、ペーローズ1せい敗北はいぼく原因げんいんとなり撤退てったいちゅう軍隊ぐんたいたいする追撃ついげききんじる軍事ぐんじじょう規範きはんつくられたといわれている[90]

エフタルにたいするペーローズ1せい戦争せんそうは、当時とうじ現代げんだい双方そうほう歴史れきししょにおいて「無謀むぼう」であったとひょうされている[91][92]。また、ペーローズ1せい敗北はいぼくは、サーサーンあさ政治せいじてき社会しゃかいてき、そして宗教しゅうきょうてき混乱こんらんをもたらした[93]帝国ていこく衰運すいうんきわめ、いまやシャーハーン・シャーはエフタルの庇護ひごしゃ立場たちばとなり、みつぎ納金のうきん支払しはらいをいられた。その一方いっぽうでは貴族きぞく聖職せいしょくしゃ国家こっかたいして巨大きょだい影響えいきょうりょく権力けんりょくるい、政治せいじ牛耳ぎゅうじるようになった[94]。リチャード・ペインは、「サーサーンあさ歴史れきしじょう、これほどはっきりと(ペルシア帝国ていこくの)威信いしんきずつけた出来事できごとはなく、当時とうじ人々ひとびと諸王しょおうおう無謀むぼうさに愕然がくぜんとした」とべている[92]。さらには東方とうほうにおけるサーサーンあさ支配しはいりょく弱体じゃくたいじょうじてネーザク・フン英語えいごばんザーブリスターン英語えいごばん占領せんりょうした[95]。ペーローズ1せいインドシンド地方ちほう自分じぶんしるした金貨きんか鋳造ちゅうぞうした最後さいごのシャーハーン・シャーであり、どう時期じきにこの地方ちほう支配しはいうしなわれたことをしめしている[96]

『シャー・ナーメ』の挿絵さしええがかれたスーフラー(1522ねんごろ

サーサーンあさではペルシアの有力ゆうりょくしゃであったスーフラー英語えいごばんがすぐにあたらしいぐんげ、エフタルのさらなる成功せいこうめた[92]。カーレーンぞくしていたスーフラーの一族いちぞくは、神話しんわじょう英雄えいゆうであるカーレーン英語えいごばんトゥース英語えいごばん子孫しそんしょうしていた。両者りょうしゃはペルシアのおうノウザル英語えいごばんトゥーラーンアフラースィヤーブころされたのち、ペルシアをすくったとされている。リチャード・ペインはこの伝承でんしょうかんして「偶然ぐうぜんぶにはあまりにもペーローズ1せい状況じょうきょうている」と指摘してきしている[92]。また、イラン学者がくしゃエフサン・ヤルシャテル英語えいごばんは、中世ちゅうせいペルシアの叙事詩じょじしである『シャー・ナーメ』(おうしょ)においてえがかれているいくつかのペルシアとトゥーラーンのたたかいは、ペーローズ1せいとその後継こうけいしゃたちによるエフタルにたいする戦争せんそうもとづいているようにえると指摘してきしている[97]。ペーローズ1せい死後しごとくにスーフラーとシャープール・ミフラーンを中心ちゅうしんとしたペルシアの有力ゆうりょくしゃたちがペーローズ1せい兄弟きょうだいのバラーシュをシャハーン・シャーに推戴すいたいした[82]。バラーシュののちいだカワード1せい帝国ていこく改革かいかくするとともにエフタルをやぶってホラーサーンをさい征服せいふくし、秩序ちつじょ回復かいふくさせた[88]。ペーローズ1せいへの報復ほうふくまごホスロー1せい在位ざいい:531ねん - 579ねん)によって達成たっせいされ、ホスロー1せい突厥協力きょうりょくして560ねんにエフタルを打倒だとうした[98]

シャーハーン・シャーの居住きょじゅう

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サーサーンあさ君主くんしゅバハラーム1せい在位ざいい:271ねん - 274ねん以来いらいしゅとしてペルシア南部なんぶジュンディーシャープール居住きょじゅうしていた。これはこの都市としイラン高原こうげんメソポタミア平原へいげんあいだ便利べんり場所ばしょ位置いちしていたためであったが、ティグリスがわユーフラテスがわ氾濫はんらんばら重要じゅうようせいたかまったことから、ペーローズ1せい以降いこうのシャーハーン・シャーの中心ちゅうしんてき居住きょじゅうはクテシフォンにうつった[99]

宗教しゅうきょう政策せいさく

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ペーローズ1せいゾロアスターきょう祭司さいし質問しつもんしている様子ようすえがいたビールーニーの『古代こだいしょ民族みんぞく年代ねんだい』の挿絵さしえ(1307ねんごろ

ペーローズ1せいのすべてのサーサーンあさ支配しはいしゃたちと同様どうようにゾロアスターきょう信奉しんぽうしていた[100]。タバリーはペーローズ1せいを「公正こうせい統治とうち賞賛しょうさんあたいするいをせ、敬虔けいけんさをしめした」と説明せつめいしており、クラウス・シップマンによれば、この説明せつめいはゾロアスターきょう聖職せいしょくしゃ要求ようきゅうにペーローズ1せい従順じゅうじゅんであった可能かのうせいたかいことをしめしている[12][101]。ゾロアスターきょう一派いっぱであるズルワーンきょうはペーローズ1せい統治とうち否定ひていされたとみられているが、だい宰相さいしょうウズルグ・フラマダール英語えいごばん)にはズルワーンきょう忠実ちゅうじつであったミフル・ナルセ英語えいごばん起用きようつづけていた[102]。また、ペーローズ1せいしたペルシアれき改訂かいていされ、新年しんねんノウルーズ)とファルヴァルディーン英語えいごばんつきかれていたうるうアーザル英語えいごばんつきうつされた[103]

ペーローズ1せい父親ちちおやのヤズデギルド2せいとはことなり、コーカサス地方ちほうのアルバニアじんやアルメニアじんをゾロアスターきょう改宗かいしゅうさせようとはしなかった[12]。それでもなお、ペーローズ1せい治世ちせいちゅうキリスト教徒きりすときょうとユダヤじんたいする迫害はくがいこったとつたえられている[12]。ユダヤじんによる記録きろくではペルシアじん狂信きょうしんてき態度たいど迫害はくがい原因げんいんであったと主張しゅちょうしているが、一方いっぽうでペルシアじん記録きろくではユダヤじんがゾロアスターきょう祭司さいし虐待ぎゃくたいしたと非難ひなんしている。現代げんだい歴史れきしジェイコブ・ニューズナー英語えいごばんは、ペルシアじん記述きじゅつにはいくらかの真実しんじつふくまれている可能かのうせいがあり、ユダヤじんだい神殿しんでん破壊はかいから400ねんラビつたえる破壊はかい日付ひづけ西暦せいれき68ねんすなわち468ねん)におとずれるはずのメシア到来とうらい予期よきしてこのような行動こうどうこしたのではないかとするせつ提示ていじしている。さらにニューズナーは、ユダヤじんはメシアの到来とうらいによってこのくにがすぐにユダヤじんくにになることを期待きたいしていたのかもしれないとくわえている[104]歴史れきしのエバーハルト・ザウアーによれば、サーサーンあさおうたちはそうすることで緊急きんきゅうてき政治せいじてき利益りえき必要ひつようがあった場合ばあいにのみ宗教しゅうきょう迫害はくがいした[105]

また、ペーローズ1せい当時とうじあたらしいキリスト教きりすときょう宗派しゅうはであったネストリウスをペルシアのキリスト教会きょうかいにおける公式こうしき教義きょうぎとして支持しじした。ペーローズ1せい直前ちょくぜんの484ねんにジュンディーシャープールで教会きょうかい会議かいぎひらかれ、そこでネストリウスがペルシア教会きょうかい公式こうしき教義きょうぎであると宣言せんげんされた[12]

建築けんちく活動かつどう

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ジョージアのボルニシにつボルニシ・シオニ教会きょうかい

ペーローズ1せいおおくの都市とし建設けんせつしたことでられている。10世紀せいき古典こてんアルメニアかれた『アルバニアの国家こっか歴史れきし英語えいごばん』によれば、ペーローズ1せい臣下しんかのアルバニアおうヴァチェー2せいめいじてペロザパト英語えいごばん(「ペーローズの都市とし」または「成功せいこうしゃペーローズ」を意味いみする)を建設けんせつさせた。しかし、アルバニア王国おうこくは460年代ねんだいなかばにヴァチェー2せいによる反乱はんらん平定へいていされたのちにペーローズ1せいによって廃止はいしされていたため、ヴァチェー2せい建設けんせつした可能かのうせいひく[106]実際じっさいにはアルバニアの支配しはいしゃ一族いちぞく排除はいじょしたのちにペーローズ1せい自身じしんによって都市としきずかれたとみられている。都市としはアルバニアないのより安全あんぜん場所ばしょ位置いちしていたため、ペルシアのマルズバーンのあたらしい居住きょじゅうとなった[107]。また、ペーローズ1せいはアードゥルバーダガーンにシャフラーム・ペーローズ(今日きょうアルダビール)、レイの近郊きんこうにラーム・ペーローズ、グルガーンとデルベントのあいだにロウシャーン・ペーローズを建設けんせつした[108][109]

イベリアのボルニシ・シオニ英語えいごばんバシリカはサーサーンあさ影響えいきょうりょくがイベリアにおいてつよまっていたことをしめしている。このバシリカは478ねんか479ねんにグガルクのミフラーンによる支配しはいにあったイベリア南部なんぶ建設けんせつされた[110][111]。バシリカにられる図像ずぞうはペルシアの特徴とくちょうしめし、さらにジョージアかれたボルニシの碑文ひぶん英語えいごばんはペーローズ1せいについて言及げんきゅうしている[112]

いたりひじりさんしゃたすけにより、このせいなる教会きょうかい基礎きそはペーローズおう治世ちせいだい20ねんきずかれ、15ねん完成かんせいした。ここで祈祷きとうする何者なにものをもかみあわれむであろう。また、このせいなる教会きょうかい建設けんせつしゃである主教しゅきょうダヴィトのためにいのものにもかみあわれむであろう。アーメン。

このバシリカの建設けんせつはペーローズ1せい依頼いらいによるものではないが、ボルニシ・シオニの建設けんせつしゃはサーサーンあさ王家おうけによる建築けんちくぶつ着想ちゃくそうていた可能かのうせいがある[110]

ペーローズ1せい治世ちせいは4世紀せいき後半こうはん建設けんせつ開始かいしされたゴルガーンの長城ちょうじょう英語えいごばん完成かんせいしたとかんがえられている時期じきとしてはもっとおそ時期じきにあたる[113]。また、のカワード1せいやホスロー1せい治世ちせいにも長城ちょうじょう追加ついかてき要塞ようさいぐんつくられた可能かのうせいがある[113]。このカスピ海かすぴかい沿岸えんがんからピーシュカマル英語えいごばんまでびる長城ちょうじょう当時とうじとしては最大さいだい規模きぼち、古代こだい末期まっきから中世ちゅうせいにかけてのペルシアの軍事ぐんじインフラへの投資とうしとしては最大さいだいのものであった[114]

硬貨こうか帝国ていこくのイデオロギー

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ダーラーブギルド鋳造ちゅうぞうされたペーローズ1せいドラクマ銀貨ぎんか

ペーローズ1せい硬貨こうかはサーサーンあさにおける伝統でんとうてきなシャーハーン・シャー(諸王しょおうおう)の称号しょうごうはぶかれ、カイ・ペーローズ(ペーローズおう)のふたつの表記ひょうきのみがられる[115]。ペーローズ1せい印章いんしょうのひとつに伝統でんとうてきなシャーハーン・シャーの称号しょうごう依然いぜんとして使つかわれていたことから、これらの硬貨こうかがサーサーンあさ君主くんしゅすべての公的こうてき称号しょうごう表記ひょうきしているとはかぎらないことをしめしている[115]。ペーローズ1せい父親ちちおやであるヤズデギルド2せいはじめて採用さいようしたカヤーンあさ英語えいごばん(ペルシアの神話しんわじょう王朝おうちょう)のカイ英語えいごばんおう)の称号しょうごう使用しようは、元々もともと西方せいほういていたサーサーンあさ政治せいじてき視点してん東方とうほううつったことが要因よういんとなっていた[116]。ヤズデギルド1せいとバハラーム5せい治世ちせいからすでにはじまっていたこの変化へんかは、ヤズデギルド2せいとペーローズ1せい治世ちせいでその頂点ちょうてんたっした[116]。このような変化へんかのきっかけとなったのは東部とうぶ辺境へんきょうしょ部族ぶぞく侵入しんにゅうにあったとみられ、これらのフンぞく関連かんれんしたしょ部族ぶぞくとのたたかいは、初期しょきの『アヴェスター』にられるペルシアのカヤーンあさ支配しはいしゃたちとトゥーラーンの敵対てきたい勢力せいりょくあいだ存在そんざいした神話しんわじょう対立たいりつこした可能かのうせいがある[116]

フィールーザーバード英語えいごばん鋳造ちゅうぞうされたペーローズ1せい金貨きんか

このペルシアとその東方とうほうてきとの対立たいりつがペルシアの神話しんわじょうおうたちによる東方とうほうのトゥーラーンじんたいするたたかいでもちいられた「カイ」の称号しょうごう採用さいようすることにつながったとみられている[116]。また、おそらくこの時代じだいにサーサーンあさにおいてペルシアの英雄えいゆうてきおうであるフェリドゥーン中期ちゅうきペルシアではフレードーン)の伝説でんせつふく叙事詩じょじし伝説でんせつかんする書物しょもつ収集しゅうしゅうされた。この伝説でんせつにおいてフェリドゥーンは帝国ていこくさんにん息子むすこたちのあいだ分割ぶんかつし、長男ちょうなんサルム英語えいごばん西方せいほう帝国ていこくであるローマ次男じなんトゥール英語えいごばん東方とうほう帝国ていこくであるトゥーラーン、そして末子まっしイーラジ英語えいごばん帝国ていこく中心ちゅうしんであるペルシアをいだ[116]。このようなカヤーンあさ物語ものがたり影響えいきょうけたサーサーンあさ人々ひとびとは、実際じっさいみずからをフェリドゥーンとイーラジの後継こうけいしゃとみなし、西方せいほうひがしマ帝国まていこく東方とうほうのエフタルの領土りょうどもペルシアに帰属きぞくするとかんがえていた可能かのうせいがある[116]。このような背景はいけいから、イラン学者がくしゃのM・ラヒム・シャエガンは、サーサーンあさ人々ひとびとはカイの称号しょうごう採用さいようすることによって象徴しょうちょうてきにこれらの土地とちたいする権利けんりつよ主張しゅちょうしたのではないかと推測すいそくしている[116]

ペーローズ1せい硬貨こうかには硬貨こうかによってさん種類しゅるいことなる王冠おうかんえがかれている。だいいち王冠おうかん中央ちゅうおう胸壁きょうへき装飾そうしょく前面ぜんめん三日月みかづきはいしたコリュンボス英語えいごばん球状きゅうじょう装飾そうしょく)をかんむりダイアデムからなっている。だい王冠おうかんだいいち王冠おうかんているが、胸壁きょうへき装飾そうしょくかんむりうしろまでびているてんことなる。だいさん王冠おうかんにはふたつのとりつばさくわえられているが、これは勝利しょうりかみであるウルスラグナちなんでいる[117]。ペーローズ1せいはシャープール2せいとともに定期ていきてき金貨きんか鋳造ちゅうぞうしていた二人ふたりのサーサーンあさ君主くんしゅのうちの一人ひとりである。オーストリアの歴史れきし貨幣かへい学者がくしゃのニコラウス・シンデルは、金貨きんか一般いっぱん日常にちじょう生活せいかつにおいて使用しようされることはなく、シャーハーン・シャーから高位こういのペルシアの有力ゆうりょくしゃあたえられる下賜かしひんかたち祭事さいじさい使用しようされていたようであると説明せつめいしている[118]。また、ペーローズ1せい銀貨ぎんか中国ちゅうごくでも発見はっけんされており、2004ねん時点じてん中国ちゅうごくにおいて出土しゅつどしている2,000まいじゃくのサーサーンあさ銀貨ぎんかのうち、ペーローズ1せいのものは468まいあり、のサーサーンあさおう銀貨ぎんか比較ひかくして突出とっしゅつしておおられる。東洋とうよう学者がくしゃ桑山くわやまただしすすむは、エフタルで捕虜ほりょとなったとき支払しはらわれた莫大ばくだい身代金みのしろきん銀貨ぎんか交易こうえき流通りゅうつうして中国ちゅうごく流入りゅうにゅうしたものであろうとべている[119]

ペルシア文学ぶんがくにおけるペーローズ1せい

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ペーローズ1せいは13世紀せいきのペルシアの歴史れきしであるイブン・イスファンディヤール英語えいごばんによる伝説でんせつてき恋愛れんあい物語ものがたりなか言及げんきゅうされている。物語ものがたりはペーローズがうつくしい女性じょせいゆめこいちるところからはじまる。その、ペーローズはその女性じょせいさがすために親族しんぞくであり親友しんゆうでもあるミフラーン出身しゅっしんのミフルフィールーズをおく[120]。そしてミフルフィールーズはその女性じょせいつけだし、その女性じょせいがミフラーン将軍しょうぐんであるアシュタード・ミフラーンのむすめであることが判明はんめいする。ペーローズはその女性じょせい結婚けっこんし、その女性じょせいもとめにおうじてタバリスターンアーモル英語えいごばんまち基礎きそきずいた[70]

系図けいず

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凡例はんれい
オレンジ
諸王しょおうおう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バハラーム5せい[82]
(420-438)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ヤズデギルド2せい[82]
(438-457)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ホルミズド3せい[82]
(457-459)
 
ペーローズ1せい
(459-484)
 
バラーシュ[82]
(484-488)
 
ザリル[82]
(485ぼつ)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
バレンドゥフト[121]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カワード1せい[82]
(488-496, 498/9-531)
 
 
 
 
 
ジャーマースプ[82]
(496-498/9)
 
 
ペーローズドゥフト[83]
 
 
サムビケ[122]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カーウス英語えいごばん[82]
(533ぼつ)
 
ジャーマースプ[123]
 
クセルクセス英語えいごばん[124]
 
ホスロー1せい[82]
(531-579)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく

[編集へんしゅう]
  1. ^ シャープール・シャフバーズィーは、いくつかの史料しりょうではホルミズド3せいがペーローズ1せいから赦免しゃめんされ、寛大かんだいあつかわれたとされているが、これはほぼ間違まちがいなく伝説でんせつである可能かのうせいたかく、史料しりょう記述きじゅつとも矛盾むじゅんすると指摘してきしている[8]
  2. ^ これらのアルメニアじん兵士へいしは6世紀せいきから7世紀せいきにかけてふたたびサーサーンあさつかえるようになった[35]
  3. ^ 歴史れきしエチエン・ド・ラ・ヴェシエール英語えいごばんによる2005ねん著作ちょさくによれば、これらのペーローズ1せいのドラクマ銀貨ぎんか今日きょうにおいてもアフガニスタン市場いちばなんせんまいかけることができる[55]

出典しゅってん

[編集へんしゅう]
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  50. ^ Rezakhani 2017, pp. 126–127, 137.
  51. ^ a b c Potts 2018, p. 295.
  52. ^ a b c Bonner 2020, p. 136.
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参考さんこう文献ぶんけん

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日本語にほんご文献ぶんけん

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  • 小林こばやしさとしオテュケンやまからバグダードまで : 6~8世紀せいき世界せかい叙述じょじゅつこころみ<渋谷しぶや治美はるみ教授きょうじゅ退職たいしょく記念きねん特集とくしゅう>」『埼玉大学さいたまだいがく紀要きよう. 教育きょういく学部がくぶだい63かんだい1ごう埼玉大学さいたまだいがく教育きょういく学部がくぶ、2014ねん、199-219ぺーじCRID 1390572174767858688doi:10.24561/00017689ISSN 1881-51462023ねん9がつ14にち閲覧えつらん 

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