ペーローズ1世 せい (パフラヴィー語 ご : 𐭯𐭩𐭫𐭥𐭰 , ペルシア語 ご : پیروز , ラテン文字 もじ 転写 てんしゃ : Pērōz )は、サーサーン朝 あさ の君主 くんしゅ (シャーハーン・シャー )である(在位 ざいい :459年 ねん - 484年 ねん )。
ペーローズ1世 せい は父親 ちちおや のヤズデギルド2世 せい の死後 しご に王位 おうい を宣言 せんげん した兄弟 きょうだい のホルミズド3世 せい と後継 こうけい 者 しゃ の地位 ちい を争 あらそ い、二 に 年 ねん に及 およ んだ内戦 ないせん の末 すえ にホルミズド3世 せい を倒 たお して王位 おうい を獲得 かくとく した。治世 ちせい の初期 しょき には大 だい 規模 きぼ な飢饉 ききん に見舞 みま われた一方 いっぽう で、コーカサス 地方 ちほう の従属 じゅうぞく 勢力 せいりょく であるアルバニア王国 おうこく が内戦 ないせん 中 ちゅう に起 お こしていた反乱 はんらん を協定 きょうてい を結 むす ぶことで収拾 しゅうしゅう した。さらに、466年 ねん にはシャープール2世 せい の治世 ちせい 以来 いらい 東方 とうほう で勢力 せいりょく を争 あらそ っていたキダーラ朝 あさ をエフタル と協力 きょうりょく して放逐 ほうちく することに成功 せいこう し、一時 いちじ 的 てき にトハーリスターン の支配 しはい を回復 かいふく した。
しかし、その後 ご ペーローズ1世 せい はエフタルと対立 たいりつ し、二 に 度 ど にわたって戦争 せんそう を起 お こしたものの、二度 にど とも敗 やぶ れて捕虜 ほりょ となり、解放 かいほう と引 ひ き換 か えに身代金 みのしろきん の支払 しはら いを余儀 よぎ なくされた。482年 ねん にはコーカサス地方 ちほう のアルメニア とイベリア (英語 えいご 版 ばん ) においてそれぞれヴァハン・マミコニアン (英語 えいご 版 ばん ) とヴァフタング1世 せい に率 ひき いられた反乱 はんらん が起 お こった。最終 さいしゅう 的 てき にペーローズ1世 せい は反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ できないままエフタルに対 たい する三 さん 度目 どめ の戦争 せんそう に敗 やぶ れ、484年 ねん に戦死 せんし した。
ペーローズ1世 せい によるエフタルとの戦 たたか いは当時 とうじ と現代 げんだい の双方 そうほう の歴史 れきし 家 か から無謀 むぼう と評 ひょう され、その敗北 はいぼく と死 し はサーサーン朝 あさ に政治 せいじ 的 てき 、社会 しゃかい 的 てき 、そして宗教 しゅうきょう 的 てき な混乱 こんらん 期 き を招 まね いた。帝国 ていこく は衰運 すいうん を極 きわ め、エフタルに対 たい しては貢 みつぎ 納金 のうきん の支払 しはら いを余儀 よぎ なくされた。さらに帝国 ていこく の貴族 きぞく と聖職 せいしょく 者 しゃ が政治 せいじ を牛耳 ぎゅうじ り、国家 こっか に対 たい し大 おお きな影響 えいきょう 力 りょく と権力 けんりょく を振 ふ るうようになった。しかし、サーサーン朝 あさ はペーローズ1世 せい の息子 むすこ であるカワード1世 せい の下 した で改革 かいかく を推進 すいしん し、エフタルからホラーサーン の支配 しはい を取 と り戻 もど すと、最終 さいしゅう 的 てき に孫 まご のホスロー1世 せい の治世 ちせい において突厥 との協力 きょうりょく によってエフタルを滅 ほろ ぼすことに成功 せいこう した。
ペーローズ1世 せい はインド のシンド 地方 ちほう で自身 じしん の名 な の金貨 きんか を鋳造 ちゅうぞう した最後 さいご のシャーハーン・シャーであり、同 どう 時期 じき にこの地方 ちほう の支配 しはい がサーサーン朝 あさ から失 うしな われたことを示 しめ している。また、ペーローズ1世 せい は他 た のサーサーン朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ たちと同様 どうよう にゾロアスター教 きょう を信奉 しんぽう していたが、キリスト教 きりすときょう に関 かん しては当時 とうじ の新 あたら しい宗派 しゅうは であるネストリウス派 は を支持 しじ し、ネストリウス派 は は死 し の直前 ちょくぜん の時期 じき にジュンディーシャープール で開 ひら かれた教会 きょうかい 会議 かいぎ においてペルシア教会 きょうかい の公式 こうしき の教義 きょうぎ として採用 さいよう された。
ペーローズ(Pērōz )は中期 ちゅうき ペルシア語 ご の名前 なまえ であり、形容詞 けいようし で「勝利 しょうり を得 え た」を意味 いみ している。パルティア語 ご ではPērōž であったことが立証 りっしょう されており、新 しん ペルシア語 ご ではPīrūz 、アラビア語 ご ではFīrūz である。ギリシア語 ご ではPerozes (Περόζης )と翻 こぼし 字 じ されている。ジョージア語 ご では中期 ちゅうき イラン語 ご (パルティア語 ご および中期 ちゅうき ペルシア語 ご )と新 しん ペルシア語 ご を通 つう じてそれぞれPˊerozh とPˊeroz の語形 ごけい で二 に 回 かい にわたり取 と り入 い れられた。アルメニア語 ご の翻 こぼし 字 じ はPeroz (Պերոզ )であり、中期 ちゅうき ペルシア語 ご の語形 ごけい に従 したが った同一 どういつ の綴 つづ りとなっている。ペーローズの名前 なまえ は既 すで に3世紀 せいき にはサーサーン朝 あさ の支流 しりゅう であるクシャーノ・サーサーン朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ のペーローズ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) によって用 もち いられていた。
5世紀 せいき 中頃 なかごろ のサーサーン朝 あさ の領土 りょうど
中世 ちゅうせい の歴史 れきし 家 か のサアーリビー (1038年 ねん 没 ぼつ )は、伝承 でんしょう ではペーローズの父親 ちちおや のヤズデギルド2世 せい (在位 ざいい :438年 ねん - 457年 ねん )は457年 ねん に死去 しきょ する際 さい に後継 こうけい 者 しゃ を定 さだ めず、帝国 ていこく の支配 しはい 層 そう や有力 ゆうりょく なマルズバーン (辺境 へんきょう 地域 ちいき の太守 たいしゅ )に後事 こうじ を託 たく したと説明 せつめい している。しかしながら、その後 ご すぐに二人 ふたり の息子 むすこ の間 あいだ で後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いが勃発 ぼっぱつ した。ヤズデギルド2世 せい の長男 ちょうなん のホルミズド(ホルミズド3世 せい 、在位 ざいい :457年 ねん - 459年 ねん )はペルシア 北部 ほくぶ のレイ で王位 おうい を宣言 せんげん し、一方 いっぽう でペーローズは帝国 ていこく の北東 ほくとう 部 ぶ に逃 のが れ、自身 じしん の王位 おうい を主張 しゅちょう するために軍 ぐん を興 おこ した。兄弟 きょうだい の母親 ははおや であるヤズデギルド2世 せい の王妃 おうひ のデーナグ は首都 しゅと のクテシフォン から一時 いちじ 的 てき に帝国 ていこく の摂政 せっしょう として統治 とうち した。東方 とうほう に伝 つた わる複数 ふくすう の史料 しりょう において、ペーローズはホルミズドより王位 おうい に相応 ふさわ しく、ホルミズドは「不 ふ 公正 こうせい 」であったとされている。一方 いっぽう で『Codex Sprenger 30 』の名 な で知 し られる著者 ちょしゃ 不明 ふめい の文書 ぶんしょ のみがホルミズドを「勇敢 ゆうかん でより相応 ふさわ しい」と記 しる しており、ペーローズを「より宗教 しゅうきょう に博識 はくしき 」であったと説明 せつめい している。
この内戦 ないせん 中 ちゅう に二 に 人 にん の兄弟 きょうだい は東方 とうほう に隣接 りんせつ するトハーリスターン (バクトリア)の諸 しょ 勢力 せいりょく から支援 しえん を得 え ようとしたとみられている。当時 とうじ 、この地域 ちいき はキダーラ朝 あさ がエフタル などのキダーラ朝 あさ に臣従 しんじゅう するいくつかの現地 げんち 勢力 せいりょく とともに支配 しはい していた。同 どう 時代 じだい にバクトリア語 ご で書 か かれた三 さん 通 つう の書簡 しょかん によれば、ローブ(カーブル とバルフ の間 あいだ に位置 いち する都市 とし )の支配 しはい 者 しゃ であったキルディール・ワラフランは、「ホルミズドによる栄光 えいこう あり」と「ペーローズへの忠義 ちゅうぎ あり」という敬称 けいしょう を与 あた えられており、キルディールが二 に 人 にん の兄弟 きょうだい の間 あいだ で忠義 ちゅうぎ の対象 たいしょう を移 うつ していたことを示唆 しさ している。同 どう 時代 じだい のアルメニア の歴史 れきし 家 か であるイェギシェ (英語 えいご 版 ばん ) とガザル・パルペツィ (英語 えいご 版 ばん ) によれば、ペーローズは特 とく にペルシアの七 なな 大 だい 貴族 きぞく の一 ひと つであるミフラーン家 か から支援 しえん を受 う けたとされているが、後世 こうせい のペルシア語 ご の史料 しりょう ではペーローズはエフタルの下 した へ逃 のが れ、エフタルから協力 きょうりょく を得 え たとされている。
しかし、後者 こうしゃ の説明 せつめい は現代 げんだい の複数 ふくすう の歴史 れきし 家 か から「伝説 でんせつ 的 てき 」であり「やや非 ひ 現実 げんじつ 的 てき 」であると指摘 してき されている。現代 げんだい の歴史 れきし 家 か のパルヴァネ・プールシャリーアティー (英語 えいご 版 ばん ) 、シャープール・シャフバーズィー (英語 えいご 版 ばん ) 、およびマイケル・ボナーはアルメニアの史料 しりょう をより重視 じゅうし しており、ペルシアの史料 しりょう はミフラーン家 か を通 つう じてエフタルの援助 えんじょ を受 う けたいくつかの事実 じじつ が存在 そんざい した可能 かのう 性 せい を示唆 しさ したものであるとしている。また、イェギシェとガザル・パルペツィは、ペーローズのホルミズドに対 たい する戦 たたか いについてそれぞれ微妙 びみょう に異 こと なる説明 せつめい をしている。イェギシェによれば、ペーローズは自分 じぶん の家庭 かてい 教師 きょうし であったミフラーン家 か のラハム・ミフラーン による支援 しえん を受 う け、ラハムは459年 ねん にホルミズドを捕 と らえて処刑 しょけい し、ペーローズをシャーハーン・シャー として戴冠 たいかん した。ガザル・パルペツィの説明 せつめい も基本 きほん 的 てき には同 おな じであるものの、ミフラーン家 か の人物 じんぶつ はアシュタード・ミフラーンとされ、そのアシュタードはペーローズの家庭 かてい 教師 きょうし ではなく養父 ようふ であったとされている[注 ちゅう 1] 。
5世紀 せいき から6世紀 せいき にかけてのアルバニア王国 おうこく の領域 りょういき と都市 とし を示 しめ した地図 ちず
ペーローズ1世 せい とホルミズド3世 せい の後継 こうけい 者 しゃ 争 あらそ いの最中 さいちゅう にコーカサス 地方 ちほう のアルサケス朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) アルバニア王国 おうこく の王 おう であるヴァチェー2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :440年 ねん - 462年 ねん )がサーサーン朝 あさ の混乱 こんらん に乗 じょう じて独立 どくりつ を宣言 せんげん した。ヴァチェー2世 せい はフン族 ぞく にカスピ海 かすぴかい 沿 ぞ いのデルベント の通過 つうか を認 みと め、フン族 ぞく の支援 しえん を受 う けてペルシア軍 ぐん を攻撃 こうげき した。これに対 たい しペーローズ1世 せい もフン族 ぞく にコーカサス山脈 さんみゃく を越 こ えるダリアル峠 とうげ (英語 えいご 版 ばん ) の通過 つうか を許 ゆる すことで応 おう じ、その後 ご これらのフン族 ぞく はアルバニアを荒 あ らし回 まわ った。結局 けっきょく 、双方 そうほう の王 おう は協定 きょうてい の交渉 こうしょう を始 はじ めた。ヴァチェー2世 せい はペーローズ1世 せい の姉妹 しまい であった母親 ははおや と自分 じぶん の娘 むすめ (両者 りょうしゃ ともキリスト教徒 きりすときょうと であった)をペーローズ1世 せい へ引 ひ き渡 わた し、一方 いっぽう で元々 もともと は父親 ちちおや から相続 そうぞく 資産 しさん として分 わ け与 あた えられていたサーサーン朝 あさ 出身 しゅっしん 者 しゃ からなる1,000世帯 せたい の家族 かぞく を手 て に入 い れるという条件 じょうけん で両者 りょうしゃ は合意 ごうい に達 たっ した。ヴァチェー2世 せい は462年 ねん に死去 しきょ し、その後 ご アルバニアはペーローズ1世 せい の弟 おとうと で後継 こうけい 者 しゃ のバラーシュ (在位 ざいい :484年 ねん - 488年 ねん )によって485年 ねん にヴァチャガン3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :485年 ねん - 510年 ねん )が王位 おうい に据 す えられるまで王 おう が不在 ふざい であった。また、ペーローズ1世 せい は451年 ねん に起 お こったアルメニア人 じん の反乱 はんらん の影響 えいきょう で父親 ちちおや のヤズデギルド2世 せい によって投獄 とうごく されていたアルメニア人 じん 貴族 きぞく の一部 いちぶ を釈放 しゃくほう した。
その一方 いっぽう で461年 ねん 頃 ごろ にペルシアは深刻 しんこく な干 かん ばつ に見舞 みま われ、恐 おそ らく467年 ねん まで続 つづ いた大 だい 飢饉 ききん を引 ひ き起 お こした。この干 かん ばつによってティグリス川 がわ の水位 すいい が著 いちじる しく低下 ていか し、泉 いずみ 、井戸 いど 、灌漑 かんがい 設備 せつび の水 みず が干上 ひあ がり、家畜 かちく が死 し に絶 た えた。飢饉 ききん が帝国 ていこく 内 ない に蔓延 まんえん し、農村 のうそん 地帯 ちたい では餓死 がし 者 しゃ が発生 はっせい するようになった。ペーローズ1世 せい は一時 いちじ 的 てき に税 ぜい の徴収 ちょうしゅう を取 と り止 と め、すべての貯蔵庫 ちょぞうこ を解放 かいほう して民衆 みんしゅう へ食料 しょくりょう を配給 はいきゅう させ、最悪 さいあく の事態 じたい を回避 かいひ するように努 つと めた。ただし、この大 だい 飢饉 ききん に関 かん する記録 きろく は、危機 きき の最中 さいちゅう の464年 ねん にペーローズ1世 せい がキダーラ朝 あさ に対 たい して軍事 ぐんじ 作戦 さくせん を準備 じゅんび したという事実 じじつ (後述 こうじゅつ )を考慮 こうりょ すると、いくぶん誇張 こちょう されている可能 かのう 性 せい がある。
5世紀 せいき のサーサーン朝 あさ (右側 みぎがわ )と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく (左側 ひだりがわ )の国境 こっきょう 地帯 ちたい の地図 ちず
ペーローズ1世 せい の治世 ちせい の初期 しょき にサーサーン朝 あさ と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の間 あいだ の緊張 きんちょう が高 たか まりを見 み せ始 はじ めた。460年代 ねんだい 中頃 なかごろ に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は将軍 しょうぐん のアルダブリウス がサーサーン朝 あさ の宮廷 きゅうてい と密 ひそ かに連絡 れんらく を取 と り、軍事 ぐんじ 支援 しえん と恐 おそ らくは情報 じょうほう 提供 ていきょう を約束 やくそく するとともにペーローズ1世 せい に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく を攻撃 こうげき するよう促 うなが しているという情報 じょうほう をつかんだ。アルダブリウスの複数 ふくすう の書簡 しょかん が押収 おうしゅう されて東 ひがし ローマ皇帝 こうてい レオ1世 せい (在位 ざいい :457年 ねん - 474年 ねん )の手元 てもと に渡 わた り、レオ1世 せい はアルダブリウスを解任 かいにん するとともに首都 しゅと のコンスタンティノープル に召喚 しょうかん した。ただし、召還 しょうかん 後 ご のアルダブリウスがどのような処分 しょぶん を受 う けたのかは不明 ふめい である。レオ1世 せい はこのようなサーサーン朝 あさ の動 うご きに対 たい してシリア のカリニクム の要塞 ようさい を含 ふく む国境 こっきょう 地帯 ちたい の防備 ぼうび を強化 きょうか することで応 おう じた。
387年 ねん にサーサーン朝 あさ とロ ろ ーマ帝国 まていこく の間 あいだ で結 むす ばれたアキリセネの和 わ 約 やく (英語 えいご 版 ばん ) 以来 いらい 、双方 そうほう の帝国 ていこく は北方 ほっぽう の草原 そうげん 地帯 ちたい から侵入 しんにゅう する遊牧民 ゆうぼくみん の攻撃 こうげき に対 たい し、共同 きょうどう でコーカサス地方 ちほう の防衛 ぼうえい に対処 たいしょ する義務 ぎむ を負 お うことで合意 ごうい していた。これらの攻撃 こうげき への対処 たいしょ はサーサーン朝 あさ 側 がわ が中心 ちゅうしん 的 てき な役割 やくわり を担 にな い、一方 いっぽう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は不定期 ふていき におよそ500ポンド (230キログラム)の金 きむ を拠出 きょしゅつ していた。東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はこの支出 ししゅつ を共同 きょうどう 防衛 ぼうえい のための協力 きょうりょく 金 きん とみなしていたが、サーサーン朝 あさ はこれを東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のサーサーン朝 あさ への従属 じゅうぞく を示 しめ す貢 みつぎ 納金 のうきん とみなしていた。サーサーン朝 あさ の統治 とうち 者 しゃ たちは建国 けんこく 以来 いらい 、特 とく に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく から貢 みつぎ 納金 のうきん を支払 しはら わせることで領土 りょうど の支配 しはい 権 けん と権力 けんりょく を誇示 こじ してきた。レオ1世 せい はサーサーン朝 あさ とアルダブリウスの企 くわだ てへの報復 ほうふく として金 かね の拠出 きょしゅつ を停止 ていし した。その後 ご は交渉 こうしょう が繰 く り返 かえ されたものの、問題 もんだい の解決 かいけつ には至 いた らなかった。さらに東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は363年 ねん の条約 じょうやく でサーサーン朝 あさ へ割譲 かつじょう されていたニシビス (英語 えいご 版 ばん ) の返還 へんかん を訴 うった えた。このような高 たか い緊張 きんちょう 状態 じょうたい は474年 ねん にゼノン (在位 ざいい :474年 ねん - 475年 ねん 、476年 ねん - 491年 ねん )が東 ひがし ローマ皇帝 こうてい に即位 そくい するまで続 つづ いた。ゼノンはサーサーン朝 あさ への拠出 きょしゅつ を再開 さいかい し、エフタルの捕虜 ほりょ となっていたペーローズ1世 せい を身代金 みのしろきん を支払 しはら って解放 かいほう した(後述 こうじゅつ )。それにもかかわらず、480年代 ねんだい 前半 ぜんはん には二 に 年 ねん にわたる干 かん ばつに苦 くる しんでいたサーサーン朝 あさ の庇護 ひご 下 か のアラブ部族 ぶぞく であるタイイ族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) の一部 いちぶ が東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の領内 りょうない を襲撃 しゅうげき したことで戦争 せんそう が起 お こりかけた。しかし、国境 こっきょう 地帯 ちたい に駐屯 ちゅうとん していたサーサーン朝 あさ の将軍 しょうぐん のカルダグ・ナコラガンがすぐにタイイ族 ぞく の襲撃 しゅうげき を鎮圧 ちんあつ し、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との間 あいだ の平和 へいわ を維持 いじ した。
425年 ねん 頃 ごろ から457年 ねん 頃 ごろ の間 あいだ に鋳造 ちゅうぞう されたとみられるキダーラ朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ の肖像 しょうぞう が刻 きざ まれた硬貨 こうか
サーサーン朝 あさ はシャープール2世 せい (在位 ざいい :309年 ねん - 379年 ねん )の治世 ちせい 以来 いらい 、キダーラ朝 あさ 、エフタル、キオン (英語 えいご 版 ばん ) 、そしてアルハン・フン (英語 えいご 版 ばん ) からなる「イランのフン族 ぞく (英語 えいご 版 ばん ) 」として知 し られる東方 とうほう の遊牧民 ゆうぼくみん の侵入 しんにゅう に対処 たいしょ しなければならなかった。これらの遊牧民 ゆうぼくみん はシャープール2世 せい とクシャーノ・サーサーン朝 あさ の庇護 ひご 下 か の勢力 せいりょく からトハーリスターンとガンダーラ を奪 うば い、最終 さいしゅう 的 てき にはシャープール3世 せい (在位 ざいい :383年 ねん - 388年 ねん )の治世 ちせい にカーブル を奪 うば った。考古学 こうこがく 、貨幣 かへい 学 がく 、および印章 いんしょう 学 がく 上 うえ の証拠 しょうこ から、これらの勢力 せいりょく はサーサーン朝 あさ にも劣 おと らない洗練 せんれん された水準 すいじゅん で自 みずか らの領土 りょうど を統治 とうち していたことが明 あき らかとなっている。さらにはサーサーン朝 あさ の硬貨 こうか (英語 えいご 版 ばん ) を模倣 もほう するなど、ペルシア人 じん の帝国 ていこく の象徴 しょうちょう 体系 たいけい や紋章 もんしょう を素早 すばや く取 と り入 い れていた。現代 げんだい の歴史 れきし 家 か であるリチャード・ペインは次 つぎ のように述 の べている。「ペルシア人 じん による破壊 はかい 的 てき なフン族 ぞく 、あるいはローマ人 じん の歴史 れきし 家 か による略奪 りゃくだつ を働 はたら く野蛮 やばん 人 じん といった説明 せつめい とは程遠 ほどとお く、ペルシア人 じん による支配 しはい が失 うしな われて以降 いこう におけるこれらの中央 ちゅうおう アジア のフン族 ぞく の王国 おうこく は、都市 とし を基盤 きばん とし、税 ぜい を徴収 ちょうしゅう し、思想 しそう 的 てき にも革新 かくしん 的 てき な国家 こっか であり、諸王 しょおう の王 おう たちはこれらの勢力 せいりょく を追 お い払 はら うことが困難 こんなん であると感 かん じていた」。さらに、サーサーン朝 あさ は451年 ねん にサーサーン朝 あさ 統治 とうち 下 か のアルメニア (英語 えいご 版 ばん ) で起 お こった反乱 はんらん によってアルメニア人 じん で構成 こうせい された騎兵 きへい 部隊 ぶたい を失 うしな い、これらの東方 とうほう の敵 てき を牽制 けんせい する能力 のうりょく を弱 よわ めていた[注 ちゅう 2] 。
古代 こだい のトハーリスターン (バクトリア)とその周辺 しゅうへん 地域 ちいき を示 しめ した地図 ちず 。バルフ はBactres として示 しめ されている。
5世紀 せいき 前半 ぜんはん にヤズデギルド1世 せい (在位 ざいい :399年 ねん - 420年 ねん )、バハラーム5世 せい (在位 ざいい :420年 ねん - 438年 ねん )、そしてヤズデギルド2世 せい がキダーラ朝 あさ に対 たい する貢 みつぎ 納金 のうきん の支払 しはら いを強 し いられたことで、サーサーン朝 あさ の努力 どりょく は大 おお きく傷 きず つけられていた。これらの支出 ししゅつ はサーサーン朝 あさ の国庫 こっこ を苦 くる しめる程 ほど ではなかったものの、それでもなお屈辱 くつじょく 的 てき なものであった。ヤズデギルド2世 せい は最終 さいしゅう 的 てき に貢 みつげ 納金 のうきん の支払 しはら いを拒否 きょひ したが、このことは後 のち にキダーラ朝 ちょう が464年 ねん 頃 ごろ にペーローズ1世 せい に対 たい して戦争 せんそう を宣言 せんげん した際 さい の口実 こうじつ として利用 りよう されることになった。ペーローズ1世 せい はこの戦争 せんそう を遂行 すいこう するための十分 じゅうぶん な人的 じんてき 資源 しげん を欠 か いていたために東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に財政 ざいせい 支援 しえん を求 もと めたものの、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく はこの要求 ようきゅう を拒否 きょひ した。その結果 けっか 、ペーローズ1世 せい はキダーラ朝 あさ の王 おう であるクンハスに和平 わへい と自分 じぶん の姉妹 しまい の一人 ひとり との縁談 えんだん を持 も ち掛 か けたが、実際 じっさい には姉妹 しまい ではなく代 か わりに身分 みぶん の低 ひく い女性 じょせい を送 おく り込 こ んだ。
サーサーン朝 あさ がトハーリスターンにおけるキダーラ朝 あさ の支配 しはい を終 お わらせた直後 ちょくご の467年 ねん か468年 ねん にバルフで鋳造 ちゅうぞう されたとみられるペーローズ1世 せい の硬貨 こうか 。硬貨 こうか の表面 ひょうめん には第 だい 二 に の王冠 おうかん を被 こうむ ったペーローズ1世 せい の姿 すがた が描 えが かれている。
しばらくした後 のち にクンハスはペーローズ1世 せい に騙 だま されていたことに気付 きづ き、軍備 ぐんび を強化 きょうか するための軍事 ぐんじ 専門 せんもん 家 か の派遣 はけん を要請 ようせい することで同 おな じようにペーローズ1世 せい を騙 だま そうとした。300人 にん の軍事 ぐんじ 専門 せんもん 家 か の一団 いちだん がバラーム(恐 おそ らくバルフと考 かんが えられる)のクンハスの宮廷 きゅうてい に到着 とうちゃく すると、これらの者 もの たちは殺 ころ されるか外見 がいけん を傷 きず つけられた。クンハスはペーローズ1世 せい による合意 ごうい への裏切 うらぎ りのためだと伝 つた えて残 のこ った者 もの たちをペルシアへ送 おく り返 かえ した。一方 いっぽう で同 おな じ頃 ごろ にペーローズ1世 せい は、エフタルやトハーリスターンの東部 とうぶ に位置 いち するカダグの支配 しはい 者 しゃ のメハマ (英語 えいご 版 ばん ) を含 ふく む他 ほか のフン族 ぞく と同盟 どうめい を結 むす んでいた。そして466年 ねん にこれらの勢力 せいりょく の支援 しえん によってキダーラ朝 あさ を打 う ち破 やぶ り、短期間 たんきかん ではあったもののトハーリスターンをサーサーン朝 あさ の支配 しはい 下 か に置 お くとともにバルフで金貨 きんか を発行 はっこう した。金貨 きんか の様式 ようしき はキダーラ朝 あさ のものをほぼ踏襲 とうしゅう しており、第 だい 二 に の王冠 おうかん を被 こうむ っているペーローズ1世 せい の姿 すがた が描 えが かれている。また、金貨 きんか の銘文 めいぶん にはバクトリア語 ご でペーローズ1世 せい の名前 なまえ と称号 しょうごう が記 しる されている。翌年 よくねん の467年 ねん にはサーサーン朝 あさ の使節 しせつ がコンスタンティノープルを訪 おとず れ、キダーラ朝 あさ に対 たい する勝利 しょうり を伝 つた えた。468年 ねん に中国 ちゅうごく の北 きた 魏 たかし に派遣 はけん されたサーサーン朝 あさ の使節 しせつ も同様 どうよう にこの勝利 しょうり を伝 つた えた可能 かのう 性 せい がある。
キダーラ朝 あさ はその後 ご もガンダーラと恐 おそ らくはソグディアナ も支配 しはい していた。しかし、最終 さいしゅう 的 てき にガンダーラはアルハン・フンに、ソグディアナはエフタルに征服 せいふく された。バクトリアの年代 ねんだい 記 き によれば、メハマはその後 ご 「名高 なだか く成功 せいこう した諸王 しょおう の王 おう ペーローズの総督 そうとく 」の地位 ちい に昇 のぼ った。しかしながら、トハーリスターンでは権力 けんりょく の空白 くうはく が続 つづ いたことで、メハマは自治 じち 権 けん を得 え るか独立 どくりつ をも獲得 かくとく した可能 かのう 性 せい がある。
対 たい エフタル第 だい 一 いち 次 じ ・第 だい 二 に 次 じ 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
アルガリ を狩 か る様子 ようす が描 えが かれたペーローズ1世 せい のプレート(6世紀 せいき )
ペーローズ1世 せい とエフタルの戦争 せんそう に関 かん する情報 じょうほう は、同 どう 時代 じだい 史料 しりょう であるシリア語 ご で書 か かれた『塔 とう 登 とう 者 しゃ 偽 にせ ヨシュアの年代 ねんだい 記 き (英語 えいご 版 ばん ) 』と東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の歴史 れきし 家 か であるプロコピオス の記録 きろく によって伝 つた えられている。しかしながら、どちらの史料 しりょう にも誤 あやま りや情報 じょうほう の欠落 けつらく が多 おお くみられる。偽 にせ ヨシュアによれば、ペーローズ1世 せい はエフタルと三 さん 回戦 かいせん 争 そう をしているが、これらの戦争 せんそう に関 かん する記述 きじゅつ はごく僅 わず かである。一方 いっぽう のプロコピオスによる説明 せつめい は詳細 しょうさい であるものの、二 ふた つの戦争 せんそう についてしか触 ふ れていない。現代 げんだい の多 おお くの歴史 れきし 家 か はペーローズ1世 せい がエフタルと三 さん 回 かい 戦 たたか ったことに同意 どうい している。
キダーラ朝 あさ が放逐 ほうちく されたことで、その従属 じゅうぞく 勢力 せいりょく であったエフタルはトハーリスターン東部 とうぶ に拠点 きょてん を築 きず き、権力 けんりょく の空白 くうはく に乗 じょう じてトハーリスターン全域 ぜんいき に支配 しはい を広 ひろ げた。エフタルの首都 しゅと はトハーリスターン東部 とうぶ のクンドゥーズ の市街地 しがいち 付近 ふきん であった可能 かのう 性 せい が最 もっと も高 たか く、中世 ちゅうせい の学者 がくしゃ のビールーニー (1048年 ねん 没 ぼつ )はその場所 ばしょ をワル=ワリズと呼 よ んでいる。エフタルの王 おう はしばしばフシュナヴァーズ (英語 えいご 版 ばん ) という名前 なまえ を与 あた えられているが、イラン学者 がくしゃ のホダーダード・レザーハーニー (英語 えいご 版 ばん ) によれば、これは恐 おそ らくエフタルの王 おう たちが用 もち いていた称号 しょうごう であり、イフシード (英語 えいご 版 ばん ) やアフシーン (英語 えいご 版 ばん ) といった当時 とうじ の中央 ちゅうおう アジアで用 もち いられていた他 ほか の称号 しょうごう に類似 るいじ するものであった。ペーローズ1世 せい はエフタルの拡大 かくだい を阻止 そし するべく474年 ねん にエフタルを攻撃 こうげき したが、グルガーン (英語 えいご 版 ばん ) の国境 こっきょう 付近 ふきん で奇襲 きしゅう に遭 あ い捕 と らえられた。東 ひがし ローマ皇帝 こうてい ゼノンは身代金 みのしろきん を支払 しはら ってペーローズ1世 せい を解放 かいほう し、サーサーン朝 あさ とエフタルの良好 りょうこう な関係 かんけい の回復 かいふく に手 て を貸 か した。プロコピオスによれば、フシュナヴァーズはペーローズ1世 せい の解放 かいほう と引 ひ き換 か えに自分 じぶん の前 まえ で平伏 ひれふ すように要求 ようきゅう した。ペーローズ1世 せい は祭司 さいし たちの助言 じょげん に従 したが って夜明 よあ けにフシュナヴァーズに会 あ い、フシュナヴァーズの前 まえ で平伏 ひれふ したように見 み せかけたが、実際 じっさい には昇 のぼ る太陽 たいよう 、すなわち太陽 たいよう 神 しん ミスラ の前 まえ に平伏 ひれふ した[53] 。
5世紀 せいき にエフタルの支配 しはい 者 しゃ によって鋳造 ちゅうぞう されたドラクマ銀貨 ぎんか 。表面 ひょうめん は第 だい 三 さん の王冠 おうかん を被 こうむ ったペーローズ1世 せい の姿 すがた をほぼ模倣 もほう している。
ペーローズ1世 せい は470年代 ねんだい 末 まつ か480年代 ねんだい 初頭 しょとう にエフタルに対 たい する二 に 度目 どめ の軍事 ぐんじ 行動 こうどう に乗 の り出 だ したものの、再 ふたた び敗 やぶ れて捕 と らえられる結果 けっか に終 お わった。捕虜 ほりょ となったペーローズ1世 せい は身代金 みのしろきん として30頭 とう のラバに積 つ み込 こ んだドラクマ 銀貨 ぎんか を支払 しはら うと申 もう し出 で たが、20頭 とう 分 ぶん しか支払 しはら うことができなかった。残 のこ りの金額 きんがく は用意 ようい できず、残金 ざんきん が支払 しはら われるまでの人質 ひとじち として482年 ねん に末子 まっし のカワード(後 ご のカワード1世 せい )をエフタルの宮廷 きゅうてい に送 おく った[注 ちゅう 3] 。リチャード・ペインは、「この時 とき に要 よう した金額 きんがく は古代 こだい 末期 まっき の外交 がいこう 的 てき な協力 きょうりょく 金 きん や国家 こっか 歳入 さいにゅう と比較 ひかく すれば僅 わず かなものだった。しかし、ペルシアの宮廷 きゅうてい からフン族 ぞく に貢物 みつぎもの を届 とど けるキャラバン についての噂 うわさ は、ペルシアと地中海 ちちゅうかい 世界 せかい を通 つう じてガリア のシドニウス・アポリナリス の所 ところ まで広 ひろ まった」と述 の べている。この後 のち 、フシュナヴァーズは鳥 とり 翼 つばさ と三 みっ つの三日月 みかづき 型 がた の形状 けいじょう 物 ぶつ を配 はい した王冠 おうかん を被 こうむ った自身 じしん の硬貨 こうか を鋳造 ちゅうぞう したが、これはペーローズ1世 せい の第 だい 三 さん の王冠 おうかん であり、エフタルの王 おう が自分 じぶん をペルシアの正当 せいとう な支配 しはい 者 しゃ と見 み 做していたことを示 しめ している。ペーローズ1世 せい はラバ10頭 とう 分 ぶん の銀貨 ぎんか を調達 ちょうたつ するために臣民 しんみん に人頭 じんとう 税 ぜい を課 か し、エフタルに対 たい する三 さん 度目 どめ の軍事 ぐんじ 行動 こうどう (後述 こうじゅつ )を起 お こす前 まえ にカワードを解放 かいほう させた。
5世紀 せいき のコーカサス 地方 ちほう の勢力 せいりょく 図 ず
コーカサスではサーサーン朝 あさ の統治 とうち 下 か にあったアルメニアとイベリア (英語 えいご 版 ばん ) もアルバニアと同様 どうよう にゾロアスター教 きょう を信奉 しんぽう するサーサーン朝 あさ の支配 しはい に不満 ふまん を抱 だ いていた。アルメニアではヤズデギルド2世 せい がキリスト教徒 きりすときょうと の貴族 きぞく にゾロアスター教 きょう への改宗 かいしゅう を強 し いて官僚 かんりょう 機構 きこう に組 く み込 こ む政策 せいさく をとったが、その結果 けっか 、451年 ねん にアルメニアの軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ のヴァルダン・マミコニアン (英語 えいご 版 ばん ) に率 ひき いられた大 だい 規模 きぼ な反乱 はんらん を引 ひ き起 お こすことになった。サーサーン朝 あさ はアヴァライルの戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) で反乱 はんらん 軍 ぐん を破 やぶ ったものの、反乱 はんらん の影響 えいきょう はいまだに残 のこ っており、緊張 きんちょう が増 ま し続 つづ けていた。一方 いっぽう 、イベリアではペーローズ1世 せい がアルメニアとイベリアの境界 きょうかい 地帯 ちたい に位置 いち するグガルク (英語 えいご 版 ばん ) の総督 そうとく (ビダフシュ (英語 えいご 版 ばん ) の称号 しょうごう で知 し られる)のヴァルスケン (英語 えいご 版 ばん ) に好意 こうい 的 てき な態度 たいど を示 しめ していた。グガルクを支配 しはい するミフラーン家 か (英語 えいご 版 ばん ) に属 ぞく していたヴァルスケンはキリスト教徒 きりすときょうと として生 う まれたが、470年 ねん にサーサーン朝 あさ の宮廷 きゅうてい に赴 おもむ いた際 さい にゾロアスター教 きょう へ改宗 かいしゅう し、忠誠 ちゅうせい の対象 たいしょう をキリスト教 きりすときょう 国 こく のイベリアの君主 くんしゅ (コスロー朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) )からサーサーン朝 あさ へ移 うつ していた。また、改宗 かいしゅう への褒美 ほうび としてアルバニア総督 そうとく の地位 ちい を得 え るとともにペーローズ1世 せい の娘 むすめ と結婚 けっこん していた。ヴァルスケンは親 おや サーサーン朝 あさ の立場 たちば を取 と り、最初 さいしょ の妻 つま でヴァルダン・マミコニアンの娘 むすめ であったシューシャニク (英語 えいご 版 ばん ) を含 ふく む家族 かぞく の者 もの をゾロアスター教 きょう に改宗 かいしゅう させようとしたが、シューシャニクは改宗 かいしゅう を拒否 きょひ してヴァルスケンに殺害 さつがい され、殉教者 じゅんきょうしゃ となった。ヴァルスケンの政策 せいさく はイベリア王 おう のヴァフタング1世 せい (在位 ざいい :447年 ねん または449年 ねん - 502年 ねん または522年 ねん )にとっては受 う け入 い れ難 がた いものであり、最終 さいしゅう 的 てき にヴァフタング1世 せい はヴァルスケンを殺害 さつがい し、その後 ご 482年 ねん にサーサーン朝 あさ に対 たい する反乱 はんらん を起 お こした。また、ほぼ同 どう 時期 じき にアルメニア人 じん もヴァルダン・マミコニアンの甥 おい にあたるヴァハン・マミコニアン (英語 えいご 版 ばん ) の指導 しどう の下 した で反乱 はんらん を起 お こした。
同年 どうねん 、アルメニアのマルズバーンであるアードゥル・グシュナスプ (英語 えいご 版 ばん ) は反乱 はんらん から逃 のが れてアードゥルバーダガーン (英語 えいご 版 ばん ) に向 む かい、そこで7,000人 にん の騎兵隊 きへいたい を組織 そしき してアルメニアに戻 もど ったが、アララト山 さん の北 きた 斜面 しゃめん 側 がわ に位置 いち するアコリでヴァハンの兄弟 きょうだい のヴァサク・マミコニアンに敗 やぶ れて戦死 せんし した。その後 ご 、ヴァハンはサハク2世 せい バグラトゥニ (英語 えいご 版 ばん ) をアルメニアの新 あたら しいマルズバーンに据 す えた。これに対 たい しペーローズ1世 せい はカーレーン家 か (英語 えいご 版 ばん ) のザルミフル・ハザルウフト (英語 えいご 版 ばん ) が率 ひき いる軍隊 ぐんたい をアルメニアへ派遣 はけん し、さらにミフラーン家 か のサーサーン朝 あさ の将軍 しょうぐん であるミフラーン(家名 かめい と同名 どうめい )が率 ひき いる別 べつ の軍隊 ぐんたい をイベリアへ派遣 はけん した。夏 なつ の間 あいだ にミフラーンの息子 むすこ であるシャープール・ミフラーン (英語 えいご 版 ばん ) の率 ひき いる軍隊 ぐんたい がアケスガでアルメニアとイベリアの連合 れんごう 軍 ぐん を打 う ち破 やぶ り、この戦 たたか いでサハク2世 せい バグラトゥニとヴァサク・マミコニアンが戦死 せんし した。その一方 いっぽう でヴァフタング1世 せい は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の支配 しはい 下 か にあったラジカ (英語 えいご 版 ばん ) へ逃 のが れた。また、シャープール・ミフラーンがイベリアで軍隊 ぐんたい を指揮 しき する役割 やくわり を担 にな っていたことから、ペーローズ1世 せい はエフタルに対 たい する戦争 せんそう へ参加 さんか させるためにシャープールの父親 ちちおや のミフラーンを呼 よ び戻 もど していた可能 かのう 性 せい がある。
古代 こだい 末期 まっき から中世 ちゅうせい 初期 しょき にかけてアルメニアの首都 しゅと であったドヴィンの城塞 じょうさい の遺構 いこう と現代 げんだい のドヴィンの村 むら (2013年 ねん )
ヴァハンは残 のこ りの軍勢 ぐんぜい とともにタイク (英語 えいご 版 ばん ) の山中 さんちゅう に撤退 てったい し、そこからゲリラ戦 せん を展開 てんかい した。シャープール・ミフラーンはアルメニアに対 たい するサーサーン朝 あさ の支配 しはい を回復 かいふく したものの、その後 ご クテシフォンの宮廷 きゅうてい に召還 しょうかん された。その結果 けっか としてヴァハンはアルメニアの首都 しゅと であるドヴィン (英語 えいご 版 ばん ) 一帯 いったい の支配 しはい を取 と り戻 もど し、そこに要塞 ようさい を築 きず いた。483年 ねん にザルミフル・ハザルウフトに率 ひき いられたサーサーン朝 あさ の増援 ぞうえん 部隊 ぶたい がアルメニアに到着 とうちゃく し、ドヴィンを包囲 ほうい した。兵力 へいりょく ではるかに劣 おと っていたヴァハンの部隊 ぶたい は敵 てき 軍 ぐん に奇襲 きしゅう を仕掛 しか け、マークー (英語 えいご 版 ばん ) に近 ちか いネルセアパテにおける戦闘 せんとう でサーサーン朝 あさ 軍 ぐん を破 やぶ った。そして再 ふたた び東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく との国境 こっきょう に近 ちか い山中 さんちゅう に撤退 てったい した。ヴァハンは東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と衝突 しょうとつ する危険 きけん を避 さ けるためにサーサーン朝 あさ 軍 ぐん が撤退 てったい 先 さき まで追撃 ついげき してこないことを願 ねが ったものの、ザルミフルは夜間 やかん の行軍 こうぐん の末 すえ にアルメニア軍 ぐん の野営 やえい 地 ち を襲撃 しゅうげき し、何人 なんにん かの公 おおやけ 女 おんな を捕 と らえることに成功 せいこう した。ヴァハンとその部下 ぶか のほとんどはさらに山奥 やまおく へ撤退 てったい した。
しかしながら、その後 ご の予期 よき せぬ情勢 じょうせい の変化 へんか が戦局 せんきょく を大 おお きく変 か えた。484年 ねん にエフタルと戦争 せんそう 中 ちゅう であったペーローズ1世 せい が戦死 せんし (後述 こうじゅつ )したことでサーサーン朝 あさ の軍隊 ぐんたい はアルメニアから撤退 てったい した。ペーローズ1世 せい の兄弟 きょうだい で後継 こうけい 者 しゃ となったバラーシュはヴァハンと講和 こうわ してヴァハンにハザールベド (英語 えいご 版 ばん ) (大臣 だいじん )の地位 ちい を与 あた え、後 のち にはアルメニアのマルズバーンに指名 しめい した。イベリアでも同様 どうよう に和平 わへい が成立 せいりつ し、ヴァフタング1世 せい は自身 じしん の手 て による統治 とうち を回復 かいふく することができた。
対 たい エフタル第 だい 三 さん 次 じ 戦争 せんそう と戦死 せんし [ 編集 へんしゅう ]
ペーローズ1世 せい の敗北 はいぼく と死 し を描 えが いた15世紀 せいき の『シャー・ナーメ 』の挿絵 さしえ
ペーローズ1世 せい は貴族 きぞく や聖職 せいしょく 者 しゃ たちの忠告 ちゅうこく に逆 さか らってグルガーンでエフタルに対 たい する三 さん 度目 どめ の遠征 えんせい の準備 じゅんび を始 はじ めた。ガザル・パルペツィは、ペルシア軍 ぐん はほとんど反乱 はんらん を起 お こす寸前 すんぜん になるほどエフタルと対峙 たいじ する可能 かのう 性 せい を前 まえ にして士気 しき を失 うしな い、兵士 へいし たちがこの軍事 ぐんじ 作戦 さくせん に反発 はんぱつ していたことを強調 きょうちょう している[84] 。ペーローズ1世 せい は兄弟 きょうだい のバラーシュを残 のこ して帝国 ていこく の統治 とうち を任 まか せ、484年 ねん に大軍 たいぐん を率 ひき いてエフタルへの軍事 ぐんじ 行動 こうどう を開始 かいし した。ペーローズ1世 せい の遠征 えんせい を知 し ったフシュナヴァーズは、「貴殿 きでん は押印 おういん した文書 ぶんしょ の下 した で私 わたし と和議 わぎ を結 むす び、私 わたし に対 たい して戦争 せんそう を起 お こさないと約束 やくそく した。そして我々 われわれ はいずれの側 がわ からも敵意 てきい を持 も って踏 ふ み越 こ えることのないように共有 きょうゆう する境界 きょうかい 線 せん を定 さだ めたのだ。」という伝言 でんごん とともに自分 じぶん の副官 ふっかん を派遣 はけん した。
ペーローズ1世 せい は祖父 そふ のバハラーム5世 せい が国境 こっきょう を示 しめ す標識 ひょうしき としてオクサス川 がわ のほとりに建 た てた塔 とう を移動 いどう させた。この出来事 できごと は中世 ちゅうせい の歴史 れきし 家 か のアブー・ハニーファ・ディーナワリー (896年 ねん 頃 ごろ 没 ぼつ )とタバリー (923年 ねん 没 ぼつ )によって言及 げんきゅう されている。タバリーによれば、ペーローズ1世 せい は互 たが いに結 むす び付 つ けられた300人 にん の男 おとこ たちと50頭 とう の象 ぞう を塔 とう に繋 つな ぎ、兵士 へいし たちの前方 ぜんぽう へ引 ひ きずらせて移動 いどう させ、自分 じぶん は移動 いどう する塔 とう の後 うし ろを歩 ある いて祖父 そふ が結 むす んだ講和 こうわ 条約 じょうやく を破 やぶ っていないかのように装 よそお った。また、ペーローズ1世 せい と直接 ちょくせつ 対決 たいけつ する気 き のなかったフシュナヴァーズは戦場 せんじょう を横切 よこぎ るように大 おお きな塹壕 ざんごう を掘 ほ らせて低木 ていぼく やばらばらの木材 もくざい で隠 かく し、その後 うし ろに兵 へい を配置 はいち させた。そしてフシュナヴァーズの軍隊 ぐんたい に突撃 とつげき したペーローズ1世 せい とその部隊 ぶたい は塹壕 ざんごう に落 お ちて殺害 さつがい された。ペーローズ1世 せい やその兵士 へいし たちの遺体 いたい はサーサーン朝 あさ 側 がわ では回収 かいしゅう されなかった。多 おお くの著名 ちょめい なサーサーン朝 あさ の貴族 きぞく たちが戦死 せんし し、その中 なか には4人 にん のペーローズ1世 せい の息子 むすこ か兄弟 きょうだい も含 ふく まれていた。戦場 せんじょう となった場所 ばしょ ははっきりとしていないものの、現代 げんだい の歴史 れきし 家 か であるクラウス・シップマン (ドイツ語 ご 版 ばん ) は、戦闘 せんとう は今日 きょう のアフガニスタン の恐 おそ らくはバルフ近郊 きんこう で起 お こったとしている。
一方 いっぽう でペーローズ1世 せい を敵対 てきたい 的 てき に描 えが いている偽 にせ ヨシュアは、ペーローズ1世 せい は塹壕 ざんごう から脱出 だっしゅつ することができたものの、その後 ご 、山中 さんちゅう の岩 いわ の裂 さ け目 め で餓死 がし したか、森 もり で野獣 やじゅう に殺 ころ されて食 た べられたのではないかとする説 せつ を示 しめ している。
トランスオクシアナ とホラーサーン の周辺 しゅうへん 地域 ちいき の地図 ちず (記載 きさい されている都市 とし は8世紀 せいき 時点 じてん のもの)
戦争 せんそう 後 ご に東方 とうほう のホラーサーン におけるサーサーン朝 あさ の主要 しゅよう 都市 とし であったニーシャープール 、ヘラート 、およびメルヴ がエフタルの支配 しはい 下 か に入 はい った。ペーローズ1世 せい の娘 むすめ のペーローズドゥフト と祭司 さいし を含 ふく む従者 じゅうしゃ たちはフシュナヴァーズに捕 と らえられた。ペーローズドゥフトはフシュナヴァーズと結婚 けっこん して娘 むすめ を産 う み、この娘 むすめ は後 のち にペーローズ1世 せい の息子 むすこ のカワード1世 せい (在位 ざいい :488年 ねん - 496年 ねん 、498/9年 ねん - 531年 ねん )と結婚 けっこん した。伝 つた えられるところによれば、ペーローズ1世 せい の敗北 はいぼく が原因 げんいん となり撤退 てったい 中 ちゅう の軍隊 ぐんたい に対 たい する追撃 ついげき を禁 きん じる軍事 ぐんじ 上 じょう の規範 きはん が作 つく られたといわれている。
エフタルに対 たい するペーローズ1世 せい の戦争 せんそう は、当時 とうじ と現代 げんだい の双方 そうほう の歴史 れきし 書 しょ において「無謀 むぼう 」であったと評 ひょう されている。また、ペーローズ1世 せい の敗北 はいぼく と死 し は、サーサーン朝 あさ に政治 せいじ 的 てき 、社会 しゃかい 的 てき 、そして宗教 しゅうきょう 的 てき な混乱 こんらん 期 き をもたらした。帝国 ていこく は衰運 すいうん を極 きわ め、今 いま やシャーハーン・シャーはエフタルの被 ひ 庇護 ひご 者 しゃ の立場 たちば となり、貢 みつぎ 納金 のうきん の支払 しはら いを強 し いられた。その一方 いっぽう では貴族 きぞく と聖職 せいしょく 者 しゃ が国家 こっか に対 たい して巨大 きょだい な影響 えいきょう 力 りょく と権力 けんりょく を振 ふ るい、政治 せいじ を牛耳 ぎゅうじ るようになった。リチャード・ペインは、「サーサーン朝 あさ の歴史 れきし 上 じょう 、これほどはっきりと(ペルシア帝国 ていこく の)威信 いしん を傷 きず つけた出来事 できごと はなく、当時 とうじ の人々 ひとびと は諸王 しょおう の王 おう の無謀 むぼう さに愕然 がくぜん とした」と述 の べている。さらには東方 とうほう におけるサーサーン朝 あさ の支配 しはい 力 りょく の弱体 じゃくたい 化 か に乗 じょう じてネーザク・フン (英語 えいご 版 ばん ) がザーブリスターン (英語 えいご 版 ばん ) を占領 せんりょう した。ペーローズ1世 せい はインド のシンド 地方 ちほう で自分 じぶん の名 な を記 しる した金貨 きんか を鋳造 ちゅうぞう した最後 さいご のシャーハーン・シャーであり、同 どう 時期 じき にこの地方 ちほう の支配 しはい が失 うしな われたことを示 しめ している。
『シャー・ナーメ』の挿絵 さしえ に描 えが かれたスーフラー(1522年 ねん 頃 ごろ )
サーサーン朝 あさ ではペルシアの有力 ゆうりょく 者 しゃ であったスーフラー (英語 えいご 版 ばん ) がすぐに新 あたら しい軍 ぐん を立 た ち上 あ げ、エフタルのさらなる成功 せいこう を食 く い止 と めた。カーレーン家 か に属 ぞく していたスーフラーの一族 いちぞく は、神話 しんわ 上 じょう の英雄 えいゆう であるカーレーン (英語 えいご 版 ばん ) とトゥース (英語 えいご 版 ばん ) の子孫 しそん を称 しょう していた。両者 りょうしゃ はペルシアの王 おう ノウザル (英語 えいご 版 ばん ) がトゥーラーン のアフラースィヤーブ に殺 ころ された後 のち 、ペルシアを救 すく ったとされている。リチャード・ペインはこの伝承 でんしょう に関 かん して「偶然 ぐうぜん と呼 よ ぶにはあまりにもペーローズ1世 せい の死 し と状況 じょうきょう が似 に ている」と指摘 してき している。また、イラン学者 がくしゃ のエフサン・ヤルシャテル (英語 えいご 版 ばん ) は、中世 ちゅうせい ペルシアの叙事詩 じょじし である『シャー・ナーメ 』(王 おう の書 しょ )において描 えが かれているいくつかのペルシアとトゥーラーンの戦 たたか いは、ペーローズ1世 せい とその後継 こうけい 者 しゃ たちによるエフタルに対 たい する戦争 せんそう に基 もと づいているように見 み えると指摘 してき している。ペーローズ1世 せい の死後 しご 、特 とく にスーフラーとシャープール・ミフラーンを中心 ちゅうしん としたペルシアの有力 ゆうりょく 者 しゃ たちがペーローズ1世 せい の兄弟 きょうだい のバラーシュをシャハーン・シャーに推戴 すいたい した。バラーシュの後 のち を継 つ いだカワード1世 せい は帝国 ていこく を改革 かいかく するとともにエフタルを破 やぶ ってホラーサーンを再 さい 征服 せいふく し、秩序 ちつじょ を回復 かいふく させた。ペーローズ1世 せい の死 し への報復 ほうふく は孫 まご のホスロー1世 せい (在位 ざいい :531年 ねん - 579年 ねん )によって達成 たっせい され、ホスロー1世 せい は突厥 と協力 きょうりょく して560年 ねん にエフタルを打倒 だとう した。
サーサーン朝 あさ の君主 くんしゅ はバハラーム1世 せい (在位 ざいい :271年 ねん - 274年 ねん )以来 いらい 、主 しゅ としてペルシア南部 なんぶ のジュンディーシャープール に居住 きょじゅう していた。これはこの都市 とし がイラン高原 こうげん とメソポタミア 平原 へいげん の間 あいだ の便利 べんり な場所 ばしょ に位置 いち していたためであったが、ティグリス川 がわ とユーフラテス川 がわ の氾濫 はんらん 原 ばら の重要 じゅうよう 性 せい が高 たか まったことから、ペーローズ1世 せい 以降 いこう のシャーハーン・シャーの中心 ちゅうしん 的 てき な居住 きょじゅう 地 ち はクテシフォンに移 うつ った。
ペーローズ1世 せい がゾロアスター教 きょう の祭司 さいし に質問 しつもん している様子 ようす を描 えが いたビールーニー の『古代 こだい 諸 しょ 民族 みんぞく 年代 ねんだい 記 き 』の挿絵 さしえ (1307年 ねん 頃 ごろ )
ペーローズ1世 せい は他 た のすべてのサーサーン朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ たちと同様 どうよう にゾロアスター教 きょう を信奉 しんぽう していた。タバリーはペーローズ1世 せい を「公正 こうせい な統治 とうち と賞賛 しょうさん に値 あたい する振 ふ る舞 ま いを見 み せ、敬虔 けいけん さを示 しめ した」と説明 せつめい しており、クラウス・シップマンによれば、この説明 せつめい はゾロアスター教 きょう の聖職 せいしょく 者 しゃ の要求 ようきゅう にペーローズ1世 せい が従順 じゅうじゅん であった可能 かのう 性 せい が高 たか いことを示 しめ している。ゾロアスター教 きょう の一派 いっぱ であるズルワーン教 きょう はペーローズ1世 せい の統治 とうち 下 か で否定 ひてい されたとみられているが、大 だい 宰相 さいしょう (ウズルグ・フラマダール (英語 えいご 版 ばん ) )にはズルワーン教 きょう に忠実 ちゅうじつ であったミフル・ナルセ (英語 えいご 版 ばん ) を起用 きよう し続 つづ けていた。また、ペーローズ1世 せい の下 した でペルシア暦 れき が改訂 かいてい され、新年 しんねん (ノウルーズ )とファルヴァルディーン (英語 えいご 版 ばん ) 月 つき に置 お かれていた閏 うるう 日 び がアーザル (英語 えいご 版 ばん ) 月 つき に移 うつ された。
ペーローズ1世 せい は父親 ちちおや のヤズデギルド2世 せい とは異 こと なり、コーカサス地方 ちほう のアルバニア人 じん やアルメニア人 じん をゾロアスター教 きょう へ改宗 かいしゅう させようとはしなかった。それでもなお、ペーローズ1世 せい の治世 ちせい 中 ちゅう にキリスト教徒 きりすときょうと やユダヤ人 じん に対 たい する迫害 はくがい が起 お こったと伝 つた えられている。ユダヤ人 じん による記録 きろく ではペルシア人 じん の狂信 きょうしん 的 てき 態度 たいど が迫害 はくがい の原因 げんいん であったと主張 しゅちょう しているが、一方 いっぽう でペルシア人 じん の記録 きろく ではユダヤ人 じん がゾロアスター教 きょう の祭司 さいし を虐待 ぎゃくたい したと非難 ひなん している。現代 げんだい の歴史 れきし 家 か のジェイコブ・ニューズナー (英語 えいご 版 ばん ) は、ペルシア人 じん の記述 きじゅつ にはいくらかの真実 しんじつ が含 ふく まれている可能 かのう 性 せい があり、ユダヤ人 じん は第 だい 二 に 神殿 しんでん の破壊 はかい から400年 ねん 後 ご (ラビ が伝 つた える破壊 はかい の日付 ひづけ は西暦 せいれき 68年 ねん 、即 すなわ ち468年 ねん )に訪 おとず れるはずのメシア の到来 とうらい を予期 よき してこのような行動 こうどう を起 お こしたのではないかとする説 せつ を提示 ていじ している。さらにニューズナーは、ユダヤ人 じん はメシアの到来 とうらい によってこの国 くに がすぐにユダヤ人 じん の国 くに になることを期待 きたい していたのかもしれないと付 つ け加 くわ えている。歴史 れきし 家 か のエバーハルト・ザウアーによれば、サーサーン朝 あさ の王 おう たちはそうすることで緊急 きんきゅう 的 てき な政治 せいじ 的 てき 利益 りえき を得 え る必要 ひつよう があった場合 ばあい にのみ他 た の宗教 しゅうきょう を迫害 はくがい した。
また、ペーローズ1世 せい は当時 とうじ の新 あたら しいキリスト教 きりすときょう の宗派 しゅうは であったネストリウス派 は をペルシアのキリスト教会 きょうかい における公式 こうしき の教義 きょうぎ として支持 しじ した。ペーローズ1世 せい の死 し の直前 ちょくぜん の484年 ねん にジュンディーシャープールで教会 きょうかい 会議 かいぎ が開 ひら かれ、そこでネストリウス派 は がペルシア教会 きょうかい の公式 こうしき な教義 きょうぎ であると宣言 せんげん された。
ジョージアのボルニシに建 た つボルニシ・シオニ教会 きょうかい
ペーローズ1世 せい は多 おお くの都市 とし を建設 けんせつ したことで知 し られている。10世紀 せいき に古典 こてん アルメニア語 ご で書 か かれた『アルバニアの国家 こっか の歴史 れきし (英語 えいご 版 ばん ) 』によれば、ペーローズ1世 せい は臣下 しんか のアルバニア王 おう ヴァチェー2世 せい に命 めい じてペロザパト (英語 えいご 版 ばん ) (「ペーローズの都市 とし 」または「成功 せいこう 者 しゃ ペーローズ」を意味 いみ する)を建設 けんせつ させた。しかし、アルバニア王国 おうこく は460年代 ねんだい 半 なか ばにヴァチェー2世 せい による反乱 はんらん が平定 へいてい された後 のち にペーローズ1世 せい によって廃止 はいし されていたため、ヴァチェー2世 せい が建設 けんせつ した可能 かのう 性 せい は低 ひく い。実際 じっさい にはアルバニアの支配 しはい 者 しゃ の一族 いちぞく を排除 はいじょ した後 のち にペーローズ1世 せい 自身 じしん によって都市 とし が築 きず かれたとみられている。都市 とし はアルバニア内 ない のより安全 あんぜん な場所 ばしょ に位置 いち していたため、ペルシアのマルズバーンの新 あたら しい居住 きょじゅう 地 ち となった。また、ペーローズ1世 せい はアードゥルバーダガーンにシャフラーム・ペーローズ(今日 きょう のアルダビール )、レイの近郊 きんこう にラーム・ペーローズ、グルガーン とデルベントの間 あいだ にロウシャーン・ペーローズを建設 けんせつ した。
イベリアのボルニシ・シオニ (英語 えいご 版 ばん ) のバシリカ はサーサーン朝 あさ の影響 えいきょう 力 りょく がイベリアにおいて強 つよ まっていたことを示 しめ している。このバシリカは478年 ねん か479年 ねん にグガルクのミフラーン家 か による支配 しはい 下 か にあったイベリア南部 なんぶ に建設 けんせつ された。バシリカに見 み られる図像 ずぞう はペルシアの特徴 とくちょう を示 しめ し、さらに古 こ ジョージア語 ご で書 か かれたボルニシの碑文 ひぶん (英語 えいご 版 ばん ) はペーローズ1世 せい について言及 げんきゅう している。
「
至 いたり 聖 ひじり 三 さん 者 しゃ の助 たす けにより、この聖 せい なる教会 きょうかい の基礎 きそ はペーローズ王 おう の治世 ちせい 第 だい 20年 ねん に築 きず かれ、15年 ねん 後 ご に完成 かんせい した。ここで祈祷 きとう する何者 なにもの をも神 かみ は憐 あわ れむであろう。また、この聖 せい なる教会 きょうかい の建設 けんせつ 者 しゃ である主教 しゅきょう ダヴィトのために祈 いの る者 もの にも神 かみ は憐 あわ れむであろう。アーメン。
」
このバシリカの建設 けんせつ はペーローズ1世 せい の依頼 いらい によるものではないが、ボルニシ・シオニの建設 けんせつ 者 しゃ はサーサーン朝 あさ の王家 おうけ による建築 けんちく 物 ぶつ に着想 ちゃくそう を得 え ていた可能 かのう 性 せい がある。
ペーローズ1世 せい の治世 ちせい は4世紀 せいき 後半 こうはん に建設 けんせつ が開始 かいし されたゴルガーンの長城 ちょうじょう (英語 えいご 版 ばん ) が完成 かんせい したと考 かんが えられている時期 じき としては最 もっと も遅 おそ い時期 じき にあたる。また、後 ご のカワード1世 せい やホスロー1世 せい の治世 ちせい にも長城 ちょうじょう に追加 ついか 的 てき な要塞 ようさい 群 ぐん が作 つく られた可能 かのう 性 せい がある。このカスピ海 かすぴかい 沿岸 えんがん からピーシュカマル (英語 えいご 版 ばん ) まで伸 の びる長城 ちょうじょう は当時 とうじ としては最大 さいだい の規模 きぼ を持 も ち、古代 こだい 末期 まっき から中世 ちゅうせい にかけてのペルシアの軍事 ぐんじ インフラへの投資 とうし としては最大 さいだい のものであった。
ダーラーブギルド で鋳造 ちゅうぞう されたペーローズ1世 せい のドラクマ 銀貨 ぎんか
ペーローズ1世 せい の硬貨 こうか はサーサーン朝 あさ における伝統 でんとう 的 てき なシャーハーン・シャー(諸王 しょおう の王 おう )の称号 しょうごう が省 はぶ かれ、カイ・ペーローズ(ペーローズ王 おう )の二 ふた つの表記 ひょうき のみが見 み られる。ペーローズ1世 せい の印章 いんしょう のひとつに伝統 でんとう 的 てき なシャーハーン・シャーの称号 しょうごう が依然 いぜん として使 つか われていたことから、これらの硬貨 こうか がサーサーン朝 あさ の君主 くんしゅ の全 すべ ての公的 こうてき な称号 しょうごう を表記 ひょうき しているとは限 かぎ らないことを示 しめ している。ペーローズ1世 せい の父親 ちちおや であるヤズデギルド2世 せい が初 はじ めて採用 さいよう したカヤーン朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) (ペルシアの神話 しんわ 上 じょう の王朝 おうちょう )のカイ (英語 えいご 版 ばん ) (王 おう )の称号 しょうごう の使用 しよう は、元々 もともと は西方 せいほう に向 む いていたサーサーン朝 あさ の政治 せいじ 的 てき 視点 してん が東方 とうほう へ移 うつ ったことが要因 よういん となっていた。ヤズデギルド1世 せい とバハラーム5世 せい の治世 ちせい からすでに始 はじ まっていたこの変化 へんか は、ヤズデギルド2世 せい とペーローズ1世 せい の治世 ちせい でその頂点 ちょうてん に達 たっ した。このような変化 へんか のきっかけとなったのは東部 とうぶ 辺境 へんきょう の諸 しょ 部族 ぶぞく の侵入 しんにゅう にあったとみられ、これらのフン族 ぞく と関連 かんれん した諸 しょ 部族 ぶぞく との戦 たたか いは、初期 しょき の『アヴェスター 』に見 み られるペルシアのカヤーン朝 あさ の支配 しはい 者 しゃ たちとトゥーラーンの敵対 てきたい 勢力 せいりょく の間 あいだ に存在 そんざい した神話 しんわ 上 じょう の対立 たいりつ を呼 よ び起 お こした可能 かのう 性 せい がある。
フィールーザーバード (英語 えいご 版 ばん ) で鋳造 ちゅうぞう されたペーローズ1世 せい の金貨 きんか
このペルシアとその東方 とうほう の敵 てき との対立 たいりつ がペルシアの神話 しんわ 上 じょう の王 おう たちによる東方 とうほう のトゥーラーン人 じん に対 たい する戦 たたか いで用 もち いられた「カイ」の称号 しょうごう を採用 さいよう することにつながったとみられている。また、恐 おそ らくこの時代 じだい にサーサーン朝 あさ においてペルシアの英雄 えいゆう 的 てき な王 おう であるフェリドゥーン (中期 ちゅうき ペルシア語 ご ではフレードーン)の伝説 でんせつ を含 ふく む叙事詩 じょじし や伝説 でんせつ に関 かん する書物 しょもつ が収集 しゅうしゅう された。この伝説 でんせつ においてフェリドゥーンは帝国 ていこく を三 さん 人 にん の息子 むすこ たちの間 あいだ で分割 ぶんかつ し、長男 ちょうなん のサルム (英語 えいご 版 ばん ) が西方 せいほう の帝国 ていこく であるローマ 、次男 じなん のトゥール (英語 えいご 版 ばん ) が東方 とうほう の帝国 ていこく であるトゥーラーン、そして末子 まっし のイーラジ (英語 えいご 版 ばん ) が帝国 ていこく の中心 ちゅうしん 地 ち であるペルシアを受 う け継 つ いだ。このようなカヤーン朝 あさ の物語 ものがたり に影響 えいきょう を受 う けたサーサーン朝 あさ の人々 ひとびと は、実際 じっさい に自 みずか らをフェリドゥーンとイーラジの後継 こうけい 者 しゃ とみなし、西方 せいほう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく と東方 とうほう のエフタルの領土 りょうど もペルシアに帰属 きぞく すると考 かんが えていた可能 かのう 性 せい がある。このような背景 はいけい から、イラン学者 がくしゃ のM・ラヒム・シャエガンは、サーサーン朝 あさ の人々 ひとびと はカイの称号 しょうごう を採用 さいよう することによって象徴 しょうちょう 的 てき にこれらの土地 とち に対 たい する権利 けんり を強 つよ く主張 しゅちょう したのではないかと推測 すいそく している。
ペーローズ1世 せい の硬貨 こうか には硬貨 こうか によって三 さん 種類 しゅるい の異 こと なる王冠 おうかん が描 えが かれている。第 だい 一 いち の王冠 おうかん は中央 ちゅうおう に胸壁 きょうへき の装飾 そうしょく と前面 ぜんめん に三日月 みかづき を配 はい したコリュンボス (英語 えいご 版 ばん ) (球状 きゅうじょう の装飾 そうしょく )を持 も つ冠 かんむり とダイアデム からなっている。第 だい 二 に の王冠 おうかん は第 だい 一 いち の王冠 おうかん に似 に ているが、胸壁 きょうへき の装飾 そうしょく が冠 かんむり の後 うし ろまで伸 の びている点 てん が異 こと なる。第 だい 三 さん の王冠 おうかん には二 ふた つの鳥 とり 翼 つばさ が加 くわ えられているが、これは勝利 しょうり の神 かみ であるウルスラグナ に因 ちな んでいる。ペーローズ1世 せい はシャープール2世 せい とともに定期 ていき 的 てき に金貨 きんか を鋳造 ちゅうぞう していた二人 ふたり のサーサーン朝 あさ の君主 くんしゅ のうちの一人 ひとり である。オーストリアの歴史 れきし 家 か で貨幣 かへい 学者 がくしゃ のニコラウス・シンデルは、金貨 きんか は一般 いっぱん に日常 にちじょう 生活 せいかつ において使用 しよう されることはなく、シャーハーン・シャーから高位 こうい のペルシアの有力 ゆうりょく 者 しゃ に与 あた えられる下賜 かし 品 ひん の形 かたち で祭事 さいじ の際 さい に使用 しよう されていたようであると説明 せつめい している。また、ペーローズ1世 せい の銀貨 ぎんか は中国 ちゅうごく でも発見 はっけん されており、2004年 ねん 時点 じてん で中国 ちゅうごく において出土 しゅつど している2,000枚 まい 弱 じゃく のサーサーン朝 あさ の銀貨 ぎんか のうち、ペーローズ1世 せい のものは468枚 まい あり、他 た のサーサーン朝 あさ の王 おう の銀貨 ぎんか と比較 ひかく して突出 とっしゅつ して多 おお く見 み られる。東洋 とうよう 史 し 学者 がくしゃ の桑山 くわやま 正 ただし 進 すすむ は、エフタルで捕虜 ほりょ となった時 とき に支払 しはら われた莫大 ばくだい な身代金 みのしろきん の銀貨 ぎんか が交易 こうえき 路 ろ に流通 りゅうつう して中国 ちゅうごく に流入 りゅうにゅう したものであろうと述 の べている。
ペーローズ1世 せい は13世紀 せいき のペルシアの歴史 れきし 家 か であるイブン・イスファンディヤール (英語 えいご 版 ばん ) による伝説 でんせつ 的 てき な恋愛 れんあい 物語 ものがたり の中 なか で言及 げんきゅう されている。物語 ものがたり はペーローズが美 うつく しい女性 じょせい を夢 ゆめ で見 み て恋 こい に落 お ちるところから始 はじ まる。その後 ご 、ペーローズはその女性 じょせい を探 さが すために親族 しんぞく であり親友 しんゆう でもあるミフラーン家 か 出身 しゅっしん のミフルフィールーズを送 おく り出 だ す。そしてミフルフィールーズはその女性 じょせい を見 み つけだし、その女性 じょせい がミフラーン家 か の将軍 しょうぐん であるアシュタード・ミフラーンの娘 むすめ であることが判明 はんめい する。ペーローズはその女性 じょせい と結婚 けっこん し、その女性 じょせい の求 もと めに応 おう じてタバリスターン にアーモル (英語 えいご 版 ばん ) の町 まち の基礎 きそ を築 きず いた。
^ シャープール・シャフバーズィーは、いくつかの史料 しりょう ではホルミズド3世 せい がペーローズ1世 せい から赦免 しゃめん され、寛大 かんだい に扱 あつか われたとされているが、これはほぼ間違 まちが いなく伝説 でんせつ である可能 かのう 性 せい が高 たか く、他 た の史料 しりょう の記述 きじゅつ とも矛盾 むじゅん すると指摘 してき している。
^ これらのアルメニア人 じん 兵士 へいし は6世紀 せいき から7世紀 せいき にかけて再 ふたた びサーサーン朝 あさ に仕 つか えるようになった。
^ 歴史 れきし 家 か のエチエン・ド・ラ・ヴェシエール (英語 えいご 版 ばん ) による2005年 ねん の著作 ちょさく によれば、これらのペーローズ1世 せい のドラクマ銀貨 ぎんか は今日 きょう においてもアフガニスタン の市場 いちば で何 なん 千 せん 枚 まい と見 み かけることができる。
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§ 簒奪 さんだつ 者 しゃ 、対立 たいりつ 君主 くんしゅ カテゴリ