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バラーシュ

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バラーシュ
𐭥𐭥𐭣𐭠𐭧𐭱𐭩
シャーハーン・シャー
バラーシュの硬貨こうかキルマーン英語えいごばん鋳造ちゅうぞう
在位ざいい 484ねん - 488ねん

死去しきょ 不明ふめい
王朝おうちょう サーサーンあさ
父親ちちおや ヤズデギルド2せい
宗教しゅうきょう ゾロアスターきょう
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バラーシュBalash, パフラヴィー: 𐭥𐭥𐭣𐭠𐭧𐭱𐭩‎, Wardākhsh, Walākhsh, ペルシア: بلاش یکم‎)はサーサーンあさ君主くんしゅシャーハーン・シャー在位ざいい484ねん - 488ねん)。バルフ近郊きんこうにおけるエフタルとの戦闘せんとう戦死せんししたペーローズ1せい在位ざいい459ねん - 484ねん)の兄弟きょうだいであり、ペーローズ1せいのちいで484ねんから488ねんにかけてペルシア統治とうちした。

名前なまえ

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バラーシュ (Balāsh, بلاش) は、中期ちゅうきペルシア(パフラヴィー)の Wardākhsh, Walākhshしんペルシアかたちである。また、碑文ひぶんのパフラヴィー文字もじでは 𐭥𐭥𐭣𐭠𐭧𐭱𐭩, wrdʾḥšy書物しょもつのパフラヴィー文字もじでは gwlḥš-Gulakhsh-, Gulāsh- となっている[1]名前なまえ語源ごげん不明ふめいである。名前なまえ初期しょき語形ごけいパルティアWalagash であるとかんがえられているが、意味いみについては「つよさ」であるというせつがある[2]名前なまえギリシアかたちBlases (Βλάσης) もしくは Balas (Βάλας) である[3]

治世ちせい

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484ねん、ペーローズ1せいバルフ近郊きんこうにおけるエフタル[注釈ちゅうしゃく 1]とのたたかいで戦死せんしした(エフタル・サーサーン戦争せんそう (484ねん)英語えいごばん[6][7]軍隊ぐんたい完全かんぜんやぶられ、ペーローズ1せい遺体いたい発見はっけんされなかった[8]。また、ペーローズ1せい息子むすこ兄弟きょうだいのうちよんにんともいのちとした[9]戦後せんご、サーサーンあさ東方とうほう位置いちするホラーサーン主要しゅよう都市としであるニーシャープールヘラートおよびメルヴがエフタルの支配しはいかれた[7]。しかし、ペルシアのななだい貴族きぞくひとつであるカーレーン英語えいごばんスフラ英語えいごばんがすぐにあたらしい軍隊ぐんたい編成へんせいしてエフタルによるさらなる侵攻しんこう[10]、ペルシアの有力ゆうりょくしゃとくにスフラとミフラーンシャープール・ミフラーン英語えいごばんによって、ペーローズ1せい兄弟きょうだいであるバラーシュがおう擁立ようりつされた[11]

バラーシュは即位そくいすぐにエフタルとの和平わへいもとめたものの、エフタルはサーサーンあさ多額たがくみつぎおさめした。バラーシュについてられていることはわずかであるが、東方とうほうのこされている記録きろくでは、温和おんわ寛容かんよう統治とうちしゃとして認識にんしきされている。バラーシュはキリスト教きりすときょう非常ひじょう寛容かんようであったため、キリスト教徒きりすときょうと作家さっかあいだ評判ひょうばんて、かれらにおだやかで寛大かんだい君主くんしゅであるとひょうされた。それにもかかわらず、おそらくバラーシュは強力きょうりょく貴族きぞく事実じじつじょう支配しはいしゃであったスフラの傀儡かいらいにすぎなかったとかんがえられている[7]

ペーローズ1せいらされたさいに、だい貴族きぞくのシャープール・ミフラーンをふくサーサーンちょうアルメニア英語えいごばんペルシア貴族きぞくたちは、あたらしい君主くんしゅ選出せんしゅつするためにサーサーンあさ首都しゅとクテシフォンかった。この状況じょうきょうは、ヴァハン・マミコニアン英語えいごばんしたアルメニアじんがサーサーンあさからの自立じりつ宣言せんげんする機会きかいあたえた。バラーシュにはペルシアの弱体じゃくたいした状況じょうきょうでは反乱はんらんぐんたたかうための軍隊ぐんたい派遣はけんする余裕よゆうがなく、アルメニアじん和平わへいむすぶことを余儀よぎなくされた。和平わへい条件じょうけんつぎのとおりであった。アルメニア既存きそんのすべての祭壇さいだん破壊はかいされ、あたらしいものは建設けんせつされない[12]。アルメニアのキリスト教徒きりすときょうと信仰しんこう自由じゆうて、ゾロアスターきょうへの改宗かいしゅう要求ようきゅうされない[12]。ゾロアスターきょうへの改宗かいしゅうしゃ土地とち配分はいぶんされない。ペルシアのおう直接ちょくせつアルメニアを統治とうちし、太守たいしゅ代理人だいりにんによる支援しえんない[12]

485ねん、バラーシュはアルメニアのマルズバーン太守たいしゅ)としてヴァハン・マミコニアンを指名しめいした。数ヶ月すうかげつヤズデギルド2せい皇子おうじでバラーシュの兄弟きょうだいザリル反乱はんらんこした。バラーシュはアルメニアじん支援しえん反乱はんらん鎮圧ちんあつし、ザリルをらえて処刑しょけいした[12]。488ねん貴族きぞく聖職せいしょくしゃあいだ不人気ふにんきであったバラーシュは、わずか4年間ねんかん統治とうち退位たいいさせられた[2]。スフラはバラーシュの廃位はいいにおいて主要しゅよう役割やくわりたし[2]、サーサーンあさあたらしいおうとしてペーローズ1せい皇子おうじカワード指名しめいした[13]

注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ エフタルは「イランのフン英語えいごばん」としてられる一連いちれん部族ぶぞくぐんなかでももっと著名ちょめい部族ぶぞくであった[4]。5世紀せいき後半こうはんかれらはバクトリアとおそらくトランスオクシアナ南部なんぶをもふく広範こうはん地域ちいき支配しはいした[5]

出典しゅってん

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  1. ^ Peters, Rudolph; Al-Zwaini, Laila (ドイツ). Handbuch Der Orientalistik. Brill Archive. p. 71. https://books.google.com/books?id=PBIVAAAAIAAJ&ots=KYaoNX2lxL&pg=PA71 
  2. ^ a b c Chaumont & Schippmann 1988, pp. 574–580.
  3. ^ Yarshater, Ehsan (1983) (英語えいご). The Cambridge History of Iran. Cambridge University Press. p. 178. ISBN 9780521200929 
  4. ^ Rezakhani 2017, p. 145.
  5. ^ Daryaee & Rezakhani 2017, p. 163.
  6. ^ McDonough 2011, p. 305.
  7. ^ a b c Schindel 2013, pp. 136–141.
  8. ^ Payne 2015, p. 287.
  9. ^ Potts 2018, p. 295.
  10. ^ Payne 2015, p. 288.
  11. ^ Shahbazi 2005.
  12. ^ a b c d Frye 1983, p. 149.
  13. ^ Pourshariati 2008, p. 78.

参考さんこう文献ぶんけん

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バラーシュ

生年せいねんしょう - 没年ぼつねんしょう

先代せんだい
ペーローズ1せい
サーサーンあさおう一覧いちらん
484ねん - 488ねん
次代じだい
カワード1せい