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バハラーム3せい

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バハラーム3せい
𐭥𐭫𐭧𐭫𐭠𐭭
シャーハーンシャー
在位ざいい 293ねん

死去しきょ 293ねん
次代じだい ナルセ1せい
家名かめい サーサーン
王朝おうちょう サーサーンあさ
父親ちちおや バハラーム2せい
母親ははおや Shapurdukhtak
宗教しゅうきょう ゾロアスターきょう
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バハラーム3せいBahram III, ? - 293ねん)は、サーサーンあさペルシア帝国ていこくだい6だい君主くんしゅシャーハーン・シャー在位ざいい:293ねん)。先代せんだいバハラーム2せい息子むすこであり、バハラーム2せいによってサカおう(Sakān shāh)として東方とうほう統治とうちしていた。

パイクリ碑文ひぶんによると、ガラマエナの貴族きぞくワフナームにかつげられた傀儡かいらいだったという。ガラマエナの権力けんりょく確固かっこたるものにしたのちてきつという声明せいめいしたため、ナルセ1せい中心ちゅうしんとなってこれをち、だい7だい君主くんしゅとして即位そくいした。バハラーム3せい治世ちせいはわずかすうヶ月かげつであった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

サーサーンあさでは、おう土地とち人々ひとびと征服せいふくしたのち息子むすこ支配しはいしめ称号しょうごうあたえることが慣習かんしゅうだった。バハラーム3せいは、おそらくサカスタン(現在げんざいスィースターン地域ちいきたいする父親ちちおや勝利しょうりのち、「サーカーン・シャー」の称号しょうごうた。 また、王子おうじしゅう荒廃こうはいあたえるというササニアンの初期しょき慣習かんしゅうしたがって、王国おうこくひがしはし有力ゆうりょく人々ひとびとたいする防御ぼうぎょとしての地域ちいき重要じゅうようせいのため、バラム3せいはサカスタン・シャーに任命にんめいされた[1]

ナルセ1せいのコイン

293ねんちちおうバハラーム2せい死後しご、バハーラム3せいParsで、Wahnamひきいられ、 メシャン英語えいごばんおうAdurfarrobayにささえられた貴族きぞくによってシャーハーンシャーと宣言せんげんされた。 ときにはまだ未成年みせいねんであり、貴族きぞくおおくによってよわ人物じんぶつなされていた。 貴族きぞくおおくは、かれがローマじんによる脅威きょうい侵略しんりゃく可能かのうせい適切てきせつ処理しょりするにはよわすぎるとかんがえていた。貴族きぞくおおくは王位おうい継承けいしょう挑戦ちょうせんし、わりにシャプール1せい息子むすこ大叔父おおおじであるナルセ1せいと、より強力きょうりょく指導しどうしゃでありイランに栄光えいこうをもたらすことができるとかんがえられていた[2][3]

バハーラム3せい治世ちせいの4かげつ、イランの貴族きぞく要請ようせいで、かれ大叔父おおおじであるナルセはメソポタミア召喚しょうかんされ、ベス・ガルマイ英語えいごばんのパイクリの通路つうろでバハラーム3せいった。バハラーム3せいはナルセ1せいをシャーと承認しょうにんし、宣言せんげんした。 ナルセの支持しじ背後はいごには、かれ知事ちじとしての管轄かんかつけん、ゾロアスターきょう擁護ようごしゃとして、また帝国ていこく調和ちょうわ繁栄はんえいかれのイメージによるものであったのかもしれない[4]

戦争せんそうけるために、ナルセ1せいはバハーラム3せいWahnam和解わかいすることを提案ていあんした[4]戦闘せんとう記録きろくのこされていないため、両者りょうしゃ同意どういしたとおもわれる。バハラーム3せいとWahnamの和平わへい背後はいごにある理由りゆうは、おおくのバハラーム3せい部下ぶか脱走だっそう原因げんいんであった可能かのうせいがある。バハラームはシャーハーンシャーから退位たいいした。Wahnamはナルセ1せいがサーサーン帝国ていこく首都しゅとクテシフォンはいったときに処刑しょけいされた[5][4]。ナルセはその貴族きぞくあつめて王室おうしつ国民こくみん投票とうひょう参加さんかさせた。これは、最初さいしょのサーサーンあさのシャーであるアルダシール1せい以来いらい使用しようされていた儀式ぎしきだった。ナルセ1せい多数たすうによって断固だんことして賛成さんせいひょうとうじられ、即位そくいした[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Bosworth p.47
  2. ^ Henning p. 403
  3. ^ Neusner p. 3
  4. ^ a b c d Weber 2016.
  5. ^ Kia 2016, p. 269.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Bosworth, Clifford (1999ねん). The Sāsānids, the Byzantines, the Lakhmids, and Yemen. Albany: SUNY Press. ISBN 0-7914-4355-8
  • Yarshater, Ehsan (1968). The Cambridge History of Iran. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 0-511-46774-5. 0-521-20092-X 
  • Ayatollahi, Habibollah (2003ねん). The Book of Iran: The History of Iranian Art. City: Center for International-Cultural Studies. ISBN 964-94491-4-0
  • Baker, Patricia L. (2005ねん). Iran, 2nd: the Bradt Travel Guide. City: Bradt Travel Guides. ISBN 1-84162-123-4
  • Henning, Walter Bruno (1974ねん). Acta Iranica. Téhéran: Bibliothèque Pahlavi. ISBN 90-04-03902-3
  • Neusner, Jacob (1997ねん). A History of the Jews in Babylonia: from Shapur I to Shapur II. Boston: Brill Academic Publishers. ISBN 90-04-02144-2
  • Klíma, O. (1988ねん). "Bahrām III". Encyclopaedia Iranica, Vol. III, Fasc. 5. pp. 514–522.
  • Weber, Ursula (2016ねん). "Narseh". Encyclopaedia Iranica.
  • Kia, Mehrdad (2016ねん). The Persian Empire: A Historical Encyclopedia [2 volumes]: A Historical Encyclopedia. ABC-CLIO. ISBN 978-1610693912
  • Multiple authors (1988ねん). "Bahrām". Encyclopaedia Iranica, Vol. III, Fasc. 5. pp. 514–522.
  • Wiesehöfer, Josef [in 英語えいご] (2018ねん). "Bahram I". In Nicholson, Oliver (ed.). The Oxford Dictionary of Late Antiquity. Oxford: Oxford University Press. ISBN 978-0-19-866277-8

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

先代せんだい
バハラーム2せい
サーサーンあさ
だい6だい:293ねん
次代じだい
ナルセ1せい