パーパク (Papak , パフラヴィー語 ご : 𐭯𐭠𐭯𐭪𐭩 Pāpak/Pābag , ペルシア語 ご : بابک Bābak )はサーサーン朝 あさ の創設 そうせつ 者 しゃ であるアルダシール1世 せい の父 ちち (もしくは継父 けいふ )であり、パールス の首都 しゅと であるイスタフル (英語 えいご 版 ばん ) を205年 ねん もしくは206年 ねん から207年 ねん と210年 ねん の間 あいだ に死去 しきょ するまで支配 しはい した。死後 しご に支配 しはい 権 けん は長男 ちょうなん のシャープール (英語 えいご 版 ばん ) に引 ひ き継 つ がれた。パーパグ 、パーバグ 、またはバーバク とも表記 ひょうき される。
イラン高原 こうげん 南西 なんせい 部 ぶ の地域 ちいき であるパールス (ペルシスとも呼 よ ばれる)は、イランの民族 みんぞく であるペルシア人 じん の南西 なんせい 方面 ほうめん における故 こ 地 ち であった。また、最初 さいしょ のペルシア人 じん の帝国 ていこく であるアケメネス朝 あさ の発祥 はっしょう 地 ち でもあった。この地域 ちいき は、マケドニア王 おう のアレキサンダー大王 だいおう (在位 ざいい :紀元前 きげんぜん 336年 ねん - 紀元前 きげんぜん 323年 ねん )によって征服 せいふく されるまで帝国 ていこく の中心 ちゅうしん 地 ち として機能 きのう していた。紀元前 きげんぜん 3世紀 せいき 末 すえ または紀元前 きげんぜん 2世紀 せいき 初頭 しょとう 以来 いらい 、パールスはセレウコス朝 あさ の支配 しはい 下 か にある地方 ちほう 王権 おうけん に統治 とうち されていた。これらの統治 とうち 者 しゃ 達 たち は、古代 こだい ペルシア語 ご でフラタラカ (英語 えいご 版 ばん ) (指導 しどう 者 しゃ 、総督 そうとく 、先駆 せんく 者 しゃ など様々 さまざま に解釈 かいしゃく されている)と呼 よ ばれる称号 しょうごう を持 も っていた。この称号 しょうごう はアケメネス朝 あさ 時代 じだい にも存在 そんざい が確認 かくにん されている。後 のち にフラタラカのワードフラダード2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) (在位 ざいい :紀元前 きげんぜん 138年 ねん 以降 いこう )の下 もと で、アルサケス朝 あさ パルティア の臣下 しんか となった。フラタラカはその後 ご すぐにペルシス王 おう (英語 えいご 版 ばん ) に置 お き換 か えられたが、この出来事 できごと はパルティア王 おう プラアテス2世 せい (在位 ざいい :紀元前 きげんぜん 132年 ねん - 紀元前 きげんぜん 127年 ねん )の即位 そくい 時 じ に起 お こった可能 かのう 性 せい が最 もっと も高 たか い。フラタラカとは異 こと なり、ペルシス王 おう はシャー (王 おう )の称号 しょうごう を使用 しよう し、おそらくダーラーヤーン朝 あさ の名 な で呼 よ ばれていた新 あたら しい王朝 おうちょう の基礎 きそ を築 きず いた。
パールス の地図 ちず
パーパク、サーサーン 、およびサーサーン朝 あさ の初代 しょだい 君主 くんしゅ であるアルダシール1世 せい (在位 ざいい :224年 ねん – 242年 ねん )の間 あいだ の関係 かんけい についてはさまざまな情報 じょうほう 源 げん が存在 そんざい する。中世 ちゅうせい ペルシア の詩人 しじん フェルドウスィー (1020年 ねん 没 ぼつ )の作 さく である『シャー・ナーメ 』(王 おう の書 しょ )によれば、サーサーンは神話 しんわ 上 じょう の王朝 おうちょう であるカヤーン朝 あさ (英語 えいご 版 ばん ) の君主 くんしゅ 、ダーラー1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) 、ダーラー2世 せい 、カイ・バフマン (英語 えいご 版 ばん ) 、エスファンディヤール (英語 えいご 版 ばん ) 、およびヴィシュタスパ (英語 えいご 版 ばん ) の子孫 しそん である。カヤーン朝 あさ の一族 いちぞく に属 ぞく するというサーサーンの主張 しゅちょう には、アルダシールがアケメネス朝 あさ の記憶 きおく を反映 はんえい した古代 こだい カヤーン朝 あさ の王 おう たちの子孫 しそん であることを正当 せいとう 化 か する意図 いと が含 ふく まれている。
異国 いこく からの征服 せいふく 者 しゃ イスカンダル王 おう の前 まえ に統治 とうち した最後 さいご のカヤーン王 おう ダーラー2世 せい の記述 きじゅつ は、実際 じっさい にマケドニア のアレクサンドロス大王 だいおう に征服 せいふく されたアケメネス朝 あさ の最後 さいご の王 おう ダレイオス3世 せい (在位 ざいい :紀元前 きげんぜん 336年 ねん - 紀元前 きげんぜん 330年 ねん )の経歴 けいれき に相似 そうじ している。ダーラー2世 せい の息子 むすこ のサーサーン(「年配 ねんぱい 者 しゃ 」と呼 よ ばれる)はインド へ逃 のが れ、追放 ついほう された身 み のまま亡 な くなるまでインドで暮 く らした。彼 かれ は同 おな じようにサーサーン(「若年 じゃくねん 者 しゃ 」と呼 よ ばれる)と名付 なづ けられた息子 むすこ を残 のこ し、「息子 むすこ の家系 かけい は4世代 せだい にわたって続 つづ いた」。同様 どうよう にサーサーンの名 な を持 も った一族 いちぞく の末裔 まつえい は、パールス地方 ちほう の支配 しはい 者 しゃ であったパーパクに仕 つか えた。パーパクの娘 むすめ はサーサーンと結婚 けっこん し、アルダシールという名前 なまえ の息子 むすこ を産 う んだ。その後 ご はサーサーンについてもはや言及 げんきゅう されなくなる。このように、シャー・ナーメはサーサーンの先祖 せんぞ がアレキサンダー大王 だいおう の征服 せいふく 後 ご にインドに居住 きょじゅう していたことを示 しめ している。この記述 きじゅつ は、学者 がくしゃ がサーサーンのインドとパルティアとの関連 かんれん 性 せい を指摘 してき するために引用 いんよう されてきた。
中世 ちゅうせい ペルシアの歴史 れきし 家 か であるタバリー (923年 ねん 没 ぼつ )によれば、パーパクはサーサーンとパールスの小 しょう 王国 おうこく の王家 おうけ であるバーズランギー家 か (英語 えいご 版 ばん ) の王女 おうじょ ランビヒシュトとの息子 むすこ であり、アルダシールの父 ちち であると説明 せつめい している。シャー・ナーメの作者 さくしゃ であるフェルドウスィーと同様 どうよう に、タバリーもサーサーンをパールスにおける外国 がいこく 人 じん であったと説明 せつめい しているが、フェルドウスィーとは異 こと なりサーサーンの出身 しゅっしん 地 ち については言及 げんきゅう していない。
中期 ちゅうき ペルシア語 ご (パフラヴィー語 ご )の文書 ぶんしょ である『パーパクの息子 むすこ アルダシールの偉業 いぎょう の書 しょ (英語 えいご 版 ばん ) 』(Kār-Nāmag ī Ardašīr ī Pābagān ) は、アルダシールの祖先 そせん について次 つぎ のように述 の べている。「カヤーン人 じん アルダシール、サーサーンの家系 かけい そしてダーラー王 おう の血統 けっとう パーパクの息子 むすこ 」(ardaxšīr ī kay ī pābāgān ī az tohmag ī sāsān ud nāf ī dārāy šāh )。しかしながら、別 べつ の中期 ちゅうき ペルシア語 ご の文書 ぶんしょ である『ブンダヒシュン 』は次 つぎ のような系図 けいず を与 あた えている。「アルダシールはパーパクの息子 むすこ であり、母 はは はウェー・アーフリードの息子 むすこ であるサーサーンの娘 むすめ である」(Artaxšahr ī Pābagān kē-š mād duxt ī Sāsān ī Weh-āfrīd )。これはサーサーン朝 あさ の起源 きげん に関 かん する中期 ちゅうき ペルシア語 ご の文献 ぶんけん の間 あいだ における矛盾 むじゅん を示 しめ している。双方 そうほう の情報 じょうほう 源 げん はともにパーパクをアルダシールの父 ちち と見 み なしている一方 いっぽう 、サーサーンは前者 ぜんしゃ ではアルダシールの祖先 そせん 、後者 こうしゃ では祖父 そふ として説明 せつめい されている。
ローマ とアルメニア の情報 じょうほう 源 げん では異 こと なる説明 せつめい が見 み られる。ローマの歴史 れきし 家 か アガティアス とゲオルギオス・シンケロス (英語 えいご 版 ばん ) によれば、サーサーンはアルダシールの実 み の父親 ちちおや であり、パーパクは継父 けいふ であった。アルメニアの著述 ちょじゅつ 家 か モブセス・ホレナツィ (英語 えいご 版 ばん ) とアガサンゲロス (英語 えいご 版 ばん ) も同様 どうよう にサーサーンをアルダシールの父 ちち と呼 よ んでいる。但 ただ し、パーパクについては何 なに も言及 げんきゅう していない。アガサンゲロスの作品 さくひん のギリシア語 ご 版 はん では、アルダシールは「ササヌスの息子 むすこ であり、ササヌスは彼 かれ の子孫 しそん であるペルシアの王家 おうけ であるサーサーン家 か の名 な の由来 ゆらい である」と記 しる されている。
アルダシールは、自身 じしん の硬貨 こうか の銘文 めいぶん とナクシェ・ロスタム の碑文 ひぶん において、「神聖 しんせい なる王 おう パーパク」の息子 むすこ であると主張 しゅちょう している。アルダシールの息子 むすこ で後継 こうけい 者 しゃ であるシャープール1世 せい (在位 ざいい :240年 ねん - 270年 ねん )は、ナクシェ・ラジャブ (英語 えいご 版 ばん ) の碑文 ひぶん において、自身 じしん をアルダシール1世 せい の息子 むすこ でパーパクの孫 まご であると記 しる している。
パールスの首都 しゅと であったイスタフルの遺跡 いせき
パーパクは、バフテガン湖 こ (英語 えいご 版 ばん ) の南 みなみ のヒール (英語 えいご 版 ばん ) 地方 ちほう で小 ちい さな公国 こうこく を支配 しはい した。彼 かれ はペルシスの首都 しゅと イスタフルのバーズランギー朝 あさ の王 おう であるゴーチフル (英語 えいご 版 ばん ) の家臣 かしん であり、ゴーチフルはパルティア王 おう の家臣 かしん であった。ゴーチフルの許可 きょか を得 え て、パーパクはアルダシールをダーラーブギルド の要塞 ようさい に送 おく り、アルダシールは指揮 しき 官 かん ティーリーのもとで仕 つか えた。伝 つた えられるところによれば、パーパクはイスタフルのアナーヒター 神殿 しんでん の祭司 さいし であり、イランの女神 めがみ を崇拝 すうはい する地元 じもと のペルシア兵 へい の集結 しゅうけつ 地 ち で働 はたら いていた。当時 とうじ 、ヴォロガセス5世 せい (在位 ざいい :191年 ねん - 208年 ねん )によって統治 とうち されていたパルティアは、ロ ろ ーマ帝国 まていこく との戦争 せんそう 、内戦 ないせん 、そして地方 ちほう の反乱 はんらん によってこの時期 じき には衰退 すいたい していた。ローマ皇帝 こうてい セプティミウス・セウェルス (在位 ざいい :193年 ねん - 211年 ねん )は、196年 ねん にパルティアの領土 りょうど を侵略 しんりゃく し、2年 ねん 後 ご にも同 おな じように侵略 しんりゃく した際 さい にはパルティアの首都 しゅと クテシフォン を略奪 りゃくだつ した。同 おな じ時期 じき にメディア (英語 えいご 版 ばん ) とパールスでは反乱 はんらん が発生 はっせい した。
パーパクの息子 むすこ であるシャープールの下 した で発行 はっこう された硬貨 こうか 。左側 ひだりがわ がシャープールの肖像 しょうぞう 、右側 みぎがわ (反対 はんたい 側 がわ )がパーパクの肖像 しょうぞう となっている。
イラン学者 がくしゃ のトゥーラジ・ダルヤーイー (英語 えいご 版 ばん ) は、ヴォロガセス5世 せい の治世 ちせい は「王朝 おうちょう がその威信 いしん の多 おお くを失 うしな ったという点 てん でパルティアの歴史 れきし の転換 てんかん 点 てん 」であったと述 の べている。ペルシスの王 おう は、今 いま では弱体 じゃくたい 化 か したパルティアの君主 くんしゅ に頼 たよ ることができなくなっていた。実際 じっさい 、205年 ねん もしくは206年 ねん にパーパクは反乱 はんらん を起 お こし、ゴーチフルを倒 たお してイスタフルを占領 せんりょう した。タバリー によれば、パーパクが反乱 はんらん を起 お こしたのはアルダシールの強 つよ い要求 ようきゅう によるものであった。しかし、ダルヤーイーはこの主張 しゅちょう を考 かんが えにくいものとしており、パーパクとシャープールの両者 りょうしゃ の肖像 しょうぞう が刻 きざ まれたパーパクの硬貨 こうか で立証 りっしょう されているように、実際 じっさい にはシャープールがパーパクを助 たす けてイスタフルを占領 せんりょう したと述 の べている。
この頃 ころ にパーパクは長男 ちょうなん のシャープールを後継 こうけい 者 しゃ に指名 しめい した。ティーリーの死後 しご 、ダーラーブギルドの指揮 しき 官 かん となっていたアルダシールはこれに強 つよ い反感 はんかん を示 しめ した。アルダシールは公然 こうぜん と反抗 はんこう 的 てき な行動 こうどう を起 お こしてアルダシール・フワッラ (英語 えいご 版 ばん ) へ向 む かい、そこを要塞 ようさい 化 か してパーパクの死後 しご に兄 あに のシャープールを攻撃 こうげき するための準備 じゅんび をした[ 注釈 ちゅうしゃく 1] 。パーパクは207年 ねん から210年 ねん の間 あいだ に自然 しぜん 死 し し、シャープールが後継 こうけい 者 しゃ となった[ 14] 。パーパクの死後 しご 、アルダシールとシャープールの両者 りょうしゃ は、「王 おう 」の称号 しょうごう とパーパクの肖像 しょうぞう を刻 きざ んだ硬貨 こうか の鋳造 ちゅうぞう を始 はじ めた。シャープールの硬貨 こうか には「シャープール王 おう 陛下 へいか 」の銘文 めいぶん があり、反対 はんたい 側 がわ には「パーパク王 おう 陛下 へいか の息子 むすこ 」の銘文 めいぶん が刻 きざ まれている。しかしながらシャープールの治世 ちせい は短 みじか かったことが判明 はんめい している。シャープールは211年 ねん もしくは212年 ねん に不明瞭 ふめいりょう な状況 じょうきょう 下 か で死亡 しぼう した。こうしてアルダシールはシャープールの後継 こうけい 者 しゃ となり、ペルシアの残 のこ りの地 ち を征服 せいふく し続 つづ け、224年 ねん にサーサーン朝 あさ を建国 けんこく した。また、パーパクはアルダシールと結婚 けっこん したデーナグ (英語 えいご 版 ばん ) という名前 なまえ の娘 むすめ を残 のこ している。
^ 物理 ぶつり 的 てき な証拠 しょうこ は、タバリーが述 の べている通 とお り、アルダシールが領地 りょうち を拡大 かくだい し始 はじ めたのはダーラーブギルドからではなくアルダシール・フワッラからであったことを明確 めいかく に示 しめ している。
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