スティグ・ヴィカンデル

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スティグ・ヴィカンデル
人物じんぶつ情報じょうほう
生誕せいたん (1908-08-27) 1908ねん8がつ27にち
 スウェーデン ノルテルジュ
死没しぼつ 1983ねん12月20にち(1983-12-20)(75さい
 スウェーデン ウプサラ
出身しゅっしんこう ウプサラ大学だいがく
学問がくもん
研究けんきゅう分野ぶんや 言語げんごがく(イラン)
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スティグ・ヴィカンデルStig Wikander1908ねん8がつ27にち - 1983ねん12月20にち)は、スウェーデンイラン学者がくしゃ

経歴けいれき[編集へんしゅう]

1908ねんノルテルジュまれ。ウプサラ大学だいがくでイラン学者がくしゃエンリコ・サムエリ・ニーベリ師事しじ[1]。1930ねん、1931〜1932ねんの2にわたってフランスパリ遊学ゆうがくする。1932ねん〜1937ねんゲオ・ヴィデングレンとともにのニーベリ自宅じたくひらかれた研究けんきゅうかい参加さんかし、ニーベリの研究けんきゅう協力きょうりょくするかたわら、みずからの研究けんきゅうすすめた。また研究けんきゅうのためにベルリンコペンハーゲンをしばしば訪問ほうもんした。1938ねん博士はかせごう論文ろんぶん『アーリヤじん男性だんせい結社けっしゃ』を提出ていしゅつ。これは、オットー・ヘフラーの『ゲルマンじん秘密ひみつ結社けっしゃ』に影響えいきょうけて執筆しっぴつしたものである。この論文ろんぶんは、1939ねんにルンドから『アーリアじん男性だんせい結社けっしゃ』として出版しゅっぱんされた。

1983ねんウプサラ死去しきょ

研究けんきゅう内容ないよう業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

注目ちゅうもくされる業績ぎょうせき[編集へんしゅう]

  • 1938ねん博士はかせごう論文ろんぶん『アーリヤじん男性だんせい結社けっしゃ』を提出ていしゅつ翌年よくねんどうだいでルンドから出版しゅっぱん
  • 1941ねん、イランの風神ふうじんワユかんする著作ちょさく『ワユ ―インド・イラン宗教しゅうきょうかかわるテキストと研究けんきゅう』を出版しゅっぱん
  • 1942ねん論文ろんぶんアナーヒター女神めがみゾロアスターきょうはい儀礼ぎれい」を発表はっぴょう
  • 1946ねん、『しょうアジアとイランのまつりかん』を出版しゅっぱん
  • 1947ねん、デュメジルのさん機能きのうイデオロギーをれた有名ゆうめい論文ろんぶんパーンダヴァ伝説でんせつと『マハーバーラタ』の神話しんわ構成こうせい」を発表はっぴょう翌年よくねん、デュメジルはこれをたか評価ひょうかし、みずからの著作ちょさくなか紹介しょうかいする(『ユピテル・マルス・クイリヌス』IV)。
  • 1950ねん、『ミトラスのをめぐる研究けんきゅう』を出版しゅっぱん、キュモン批判ひはんおこなう。これは当時とうじ定説ていせつしていたフランツ・キュモンミトラスきょう研究けんきゅうはじめて全面ぜんめんてき論駁ろんばくしたもので、研究けんきゅう動向どうこう衝撃しょうげきあたえた。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

ひのきえだ陽一郎よういちろう中村なかむら忠男ただお与那覇よなはゆたか やく言叢社げんそうしゃ、1997ねん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 当時とうじのウプサラ大学だいがくには講師こうしとしてジョルジュ・デュメジルがいたが、このときすでに両者りょうしゃ面識めんしきがあったかどうかは不明ふめい