ユスティニアヌス1世 せい (ラテン語 らてんご : Justinianus I , 482年 ねん もしくは483年 ねん 5月11日 にち - 565年 ねん 11月14日 にち [1] )は、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく ユスティニアヌス王朝 おうちょう の第 だい 2代 だい 皇帝 こうてい (在位 ざいい :527年 ねん - 565年 ねん )。正式 せいしき 名 めい は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus [注釈 ちゅうしゃく 5] )。
後世 こうせい 「大帝 たいてい 」とも呼 よ ばれたように、古代 こだい 末期 まっき における最 もっと も重要 じゅうよう な人物 じんぶつ の一人 ひとり である。その治世 ちせい は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 史 し における画期的 かっきてき な時代 じだい をなし、当時 とうじ の帝国 ていこく の版図 はんと を押 お し広 ひろ げた。これは、野心 やしん 的 てき だが最終 さいしゅう 的 てき には失敗 しっぱい した「帝国 ていこく の再建 さいけん 」(renovatio imperii)に特徴 とくちょう づけられる[2] 。この野望 やぼう はローマ を含 ふく む西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の領土 りょうど を部分 ぶぶん 的 てき に回復 かいふく したことに表 あらわ される。しかしその栄光 えいこう の時代 じだい も、543年 ねん の黒死病 こくしびょう (ユスティニアヌスのペスト (英語 えいご 版 ばん ) )が終 お わりの印 しるし となった。帝国 ていこく は領土 りょうど 的 てき 縮小 しゅくしょう の時代 じだい に入 はい り、9世紀 せいき まで回復 かいふく することはなかった。
ユスティニアヌスの遺産 いさん の重要 じゅうよう な側面 そくめん は、ローマ法 ほう を統合 とうごう して書 か き直 なお した『ローマ法 ほう 大全 たいぜん 』(Corpus Iuris Civilis )であり、これは多 おお くの現代 げんだい 国家 こっか の大陸 たいりく 法 ほう の基礎 きそ であり続 つづ けている。彼 かれ の治世 ちせい はまた初期 しょき ビザンティン文化 ぶんか の興隆 こうりゅう にも印 しる され、彼 かれ の建築 けんちく 事業 じぎょう はハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう のような傑作 けっさく を生 う みだし、これは800年 ねん 以上 いじょう にわたって東方 とうほう 正教会 せいきょうかい の中心 ちゅうしん となった。
東方 とうほう 正教会 せいきょうかい では聖者 せいじゃ と見 み なされており、ルーテル教会 きょうかい の一部 いちぶ からも祝福 しゅくふく されている[注釈 ちゅうしゃく 6] 。反対 はんたい に同 どう 時代 じだい のプロコピオス はユスティニアヌスを「残忍 ざんにん で強欲 ごうよく そして無能 むのう な統治 とうち 者 しゃ 」として見 み ていた[3] 。
ユスティニアヌス1世 せい の治世 ちせい に関 かん する主 おも な史料 しりょう は、歴史 れきし 家 か プロコピオス が提供 ていきょう している。散逸 さんいつ したシリア語 ご によるエフェソスのヨハネス の年代 ねんだい 記 き は後代 こうだい の年代 ねんだい 記 き の史料 しりょう となり、多 おお くの付加 ふか 的 てき な詳細 しょうさい を知 し ることに貢献 こうけん している。この2人 ふたり の歴史 れきし 家 か は、ユスティニアヌスと皇后 こうごう テオドラ に対 たい して非常 ひじょう に辛辣 しんらつ である。また、プロコピオスは『秘史 ひし 』(Anekdota )を著 あらわ しており、ここではユスティニアヌスの宮廷 きゅうてい における様々 さまざま なスキャンダルが述 の べられている。ほかの史料 しりょう としては、アガティアス (Agathias ) 、メナンデル・プロテクトル (Menander Protector ) 、ヨハネス・マララス (John Malalas ) 、復活 ふっかつ 祭 さい 年代 ねんだい 記 き (Chronicon Paschale ) 、マルケリヌス・コメス (Marcellinus Comes ) 、トゥンヌナのウィクトル (Victor of Tunnuna ) が挙 あ げられる。
出生 しゅっしょう 地 ち 近 ちか くに建設 けんせつ したユスティニア・プリマ の遺跡 いせき 。
のちに皇帝 こうてい ユスティニアヌス1世 せい となるペトルス・サッバティウスは、483年 ねん にダルダニア州 しゅう (英語 えいご 版 ばん ) タウレシウム(現 げん マケドニア共和国 まけどにあきょうわこく スコピエ 近傍 きんぼう )で農民 のうみん サッバティウスの子 こ として生 う まれた[4] 。ラテン語 らてんご を話 はな す彼 かれ の家族 かぞく はトラキア系 けい ローマ人 じん またはイリュリア系 けい ローマ人 じん であると考 かんが えられている[5] [6] [7] 。のちに彼 かれ が用 もち いるコグノーメン の Iustinianus は叔父 おじ のユスティヌス1世 せい の養子 ようし となったことを意味 いみ する[8] 。彼 かれ の治世 ちせい 中 ちゅう に出身 しゅっしん 地 ち から遠 とお くない場所 ばしょ にユスティニア・プリマ を建設 けんせつ している[9] [10] [11] 。母 はは ウィギランティアはユスティヌスの姉 あね だった。
叔父 おじ のユスティヌスは近衛 このえ 隊 たい (Excubitores )に属 ぞく しており[12] 、ユスティニアヌスを養子 ようし とし、コンスタンティノポリス へ招 まね き寄 よ せて養育 よういく した[12] 。このため、ユスティニアヌスは法学 ほうがく と神学 しんがく そしてローマ史 し について高 たか い知識 ちしき を持 も っていた[12] 。彼 かれ はしばらく近衛 このえ 隊 たい に勤務 きんむ していたが、経歴 けいれき の詳細 しょうさい については分 わ かっていない[12] 。ユスティニアヌスと同 どう 時代 じだい の年代 ねんだい 記 き 編者 へんしゃ ヨハネス・マララス はユスティニアヌスの外見 がいけん について背 せ が低 ひく く、色白 いろじろ で、巻 ま き毛 げ 、丸 まる 顔 がお の美男 びなん 子 こ だったと述 の べている。もう一人 ひとり の同 どう 時代 じだい の年代 ねんだい 記 き 編者 へんしゃ プロコピオス は(おそらく中傷 ちゅうしょう だが)ユスティニアヌスの外見 がいけん を暴君 ぼうくん ドミティアヌス に喩 たと えている[13] 。
518年 ねん にアナスタシウス1世 せい が崩御 ほうぎょ すると、ユスティヌスはユスティニアヌスの大 おお きな助 たす けを受 う けて新帝 しんてい 即位 そくい を宣言 せんげん した[12] 。ユスティヌス1世 せい の治世 ちせい (518年 ねん ~527年 ねん )においてユスティニアヌスは皇帝 こうてい の腹心 ふくしん となった。ユスティニアヌスは大望 たいぼう を抱 いだ き、共同 きょうどう 皇帝 こうてい になる以前 いぜん から事実 じじつ 上 じょう の摂政 せっしょう の役割 やくわり を果 は たしていたとされるが、それを確認 かくにん する証拠 しょうこ はない[14] 。治世 ちせい の末期 まっき にユスティヌスが老衰 ろうすい するとユスティニアヌスは事実 じじつ 上 じょう の統治 とうち 者 しゃ となった[12] 。521年 ねん にユスティニアヌスは執政 しっせい 官 かん に任命 にんめい され、後 のち に東方 とうほう 軍 ぐん 司令 しれい 官 かん ともなっている[注釈 ちゅうしゃく 7] [12] 。
525年 ねん 頃 ころ にユスティニアヌスは20歳 さい 年下 としした の踊 おど り子 こ テオドラ と成婚 せいこん した。当初 とうしょ 、ユスティニアヌスは階級 かいきゅう の違 ちが いのために彼女 かのじょ と成婚 せいこん できなかったが、叔父 おじ の皇帝 こうてい ユスティヌス1世 せい が異 こと なる階級 かいきゅう 間 あいだ の結婚 けっこん を認 みと める法律 ほうりつ を制定 せいてい した[16] 。テオドラは帝国 ていこく の政治 せいじ に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えるようになり、後代 こうだい の皇帝 こうてい も貴族 きぞく 階級 かいきゅう 以外 いがい から妻 つま を娶 めと るようになった。この成婚 せいこん は醜聞 しゅうぶん となったものの、テオドラは非常 ひじょう に知的 ちてき で、抜 ぬ け目 め なく、公正 こうせい な性格 せいかく を示 しめ してユスティニアヌスの偉大 いだい な後援 こうえん 者 しゃ となった。
ユスティヌス1世 せい の崩御 ほうぎょ が迫 せま る527年 ねん 4月 がつ 1日 にち にユスティニアヌスはカエサル (副 ふく 帝 みかど )に就任 しゅうにん し、同年 どうねん 8月 がつ 1日 にち のユスティヌス1世 せい の崩御 ほうぎょ により単独 たんどく 統治 とうち 者 しゃ となった[要 よう 出典 しゅってん ] 。
皇后 こうごう テオドラ ラヴェンナ のサン・ヴィターレ聖堂 せいどう のモザイク
統治 とうち 者 しゃ としてのユスティニアヌスは非常 ひじょう な精励 せいれい さを示 しめ した。その働 はたら きぶりから、彼 かれ は「眠 ねむ らぬ皇帝 こうてい 」として知 し られたが、一方 いっぽう で人付 ひとづ きがよく、忠告 ちゅうこく を受 う け入 い れる人物 じんぶつ でもあった[17] 。ユスティニアヌスは地方 ちほう の下層 かそう 階層 かいそう 出身 しゅっしん であったため、コンスタンティノポリスの伝統 でんとう 的 てき な貴族 きぞく 階層 かいそう に権力 けんりょく 基盤 きばん を持 も たなかった。その代 か わり、彼 かれ は生 う まれではなく功績 こうせき によって選 えら ばれた非常 ひじょう に才能 さいのう のある男女 だんじょ に取 と り巻 ま かれていた。有能 ゆうのう な臣下 しんか には司法 しほう 長官 ちょうかん のトリボニアヌス 、外交 がいこう 官 かん で長 なが きにわたり宮内 みやうち 長官 ちょうかん を務 つと めたペトロ・パトリキウス 、財務 ざいむ 長官 ちょうかん カッパドキのヨハネス そしてかつてなく効果 こうか 的 てき に徴税 ちょうぜい を行 おこな い、これによってユスティニアヌスの一連 いちれん の戦役 せんえき の財源 ざいげん を賄 まかな ったペトロ・バルシャメス 、そして最後 さいご に偉大 いだい な名将 めいしょう ベリサリウス がいた。
528年 ねん 、ユスティニアヌスはトリボリアヌスらに古代 こだい ローマ法 ほう の集大成 しゅうたいせい である『ローマ法 ほう 大全 たいぜん 』(Corpus Iuris Civilis )編纂 へんさん の勅命 ちょくめい を下 くだ す。529年 ねん 、古代 こだい からの伝統 でんとう 的 てき 多神教 たしんきょう (異教 いきょう )を弾圧 だんあつ 。アテネ のアカデメイア を閉鎖 へいさ し、学者 がくしゃ を追放 ついほう した。
ユスティニアヌスの、有能 ゆうのう ではあるが人気 にんき のない助言 じょげん 者 しゃ を登用 とうよう する傾向 けいこう は、その治世 ちせい の初期 しょき に危 あや うく帝位 ていい を失 うしな わせかけた。532年 ねん 1月 がつ 、コンスタンティノポリスの戦車 せんしゃ 競走 きょうそう の支持 しじ 者 しゃ の党派 とうは が団結 だんけつ して後 のち にニカの乱 らん の名 な で知 し られる暴動 ぼうどう を起 お こした。彼 かれ らはトリボニアヌス他 た 2名 めい の大臣 だいじん の罷免 ひめん を要求 ようきゅう し、更 さら にはユスティニアヌス自身 じしん を打倒 だとう してアナスタシウス1世 せい の皇 すめらぎ 甥 おい である元老 げんろう 院 いん 議員 ぎいん ヒュパティオス に替 か えさせようとした。群衆 ぐんしゅう が市街 しがい で暴動 ぼうどう を起 お こしている間 あいだ 、ユスティニアヌスは首都 しゅと からの逃亡 とうぼう を考 かんが えたが、皇后 こうごう テオドラの叱咤 しった によって街 まち に留 とど まった。続 つづ く2日間 にちかん に彼 かれ はベリサリウス とムンドゥス の二人 ふたり の将軍 しょうぐん に容赦 ようしゃ ない鎮圧 ちんあつ を命 めい じる。歴史 れきし 家 か プロコピオス は競技 きょうぎ 場 じょう で30,000人 にん [18] の非 ひ 武装 ぶそう の市民 しみん が殺害 さつがい されたと述 の べている。テオドラの主張 しゅちょう により(ユスティニアヌス自身 じしん の判断 はんだん に反 はん して[19] )、アナスタシウス1世 せい の皇 すめらぎ 甥 おい 他 た は処刑 しょけい された[20] 。
詳細 しょうさい は「軍事 ぐんじ 上 じょう の業績 ぎょうせき 」の節 ふし で後述 こうじゅつ する
ユスティニアヌス1世 せい 時代 じだい の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく (青色 あおいろ 部分 ぶぶん )。青色 あおいろ と緑色 みどりいろ 部分 ぶぶん はトラヤヌス 時代 じだい のロ ろ ーマ帝国 まていこく 。赤 あか 線 せん は395年 ねん の東西 とうざい ローマの分割 ぶんかつ 線 せん
国内 こくない の危機 きき を乗 の り切 き ったユスティニアヌスは再 さい 征服 せいふく に乗 の り出 だ すことになる。532年 ねん 6月 がつ にサーサーン朝 あさ ペルシアとの間 あいだ に「永久 えいきゅう 平和 へいわ 条約 じょうやく 」を結 むす んで東方 とうほう 国境 こっきょう を安定 あんてい させると、翌 よく 533年 ねん 、ベリサリウス将軍 しょうぐん を北 きた アフリカ へ派遣 はけん してゲルマン人 じん 国家 こっか ヴァンダル王国 おうこく を征服 せいふく させた。
535年 ねん 、ゲルマン人 じん 国家 こっか 東 ひがし ゴート王国 おうこく の内紛 ないふん に乗 じょう じてベリサリウスをイタリア へ派遣 はけん した。翌年 よくねん 末 まつ にローマ を奪回 だっかい したものの、東 ひがし ゴート側 がわ の強固 きょうこ な抵抗 ていこう に遭 あ い戦争 せんそう は長期 ちょうき 化 か する。
537年 ねん 12月、ニカの乱 らん で焼失 しょうしつ したハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう (現 げん アヤソフィアモスク)の再建 さいけん が完了 かんりょう した。ビザンティン建築 けんちく の最高峰 さいこうほう として、現代 げんだい まで伝 つた えられることになる。完成 かんせい 時 じ の奉献 ほうけん 式 しき で、祭壇 さいだん に立 た って手 て をさしのべ、古代 こだい イスラエル王国 おうこく のソロモン王 おう の大 だい 神殿 しんでん を凌駕 りょうが する聖堂 せいどう を建 た てたという思 おも いから「我 が にかかる事業 じぎょう をなさせ給 たま うた神 かみ に栄光 えいこう あれ! ソロモンよ、我 が は汝 なんじ に勝 か てり!」と叫 さけ んだと伝 つた えられる[21] 。
540年 ねん にベリサリウスが東 ひがし ゴート王国 おうこく の首都 しゅと ラヴェンナ を攻略 こうりゃく し、東 ひがし ゴート王 おう ウィティギス を捕 と らえてコンスタンティノポリスへ帰還 きかん したものの、イタリア半島 はんとう では依然 いぜん として東 ひがし ゴートの残党 ざんとう が勢力 せいりょく を保 たも っていた。同年 どうねん にサーサーン朝 あさ との抗 こう 争 そう を再開 さいかい し、帝国 ていこく の東西 とうざい に敵 てき を抱 かか えることになる。
541年 ねん 、共和 きょうわ 政 せい ローマ以来 いらい の執政 しっせい 官 かん 制度 せいど を廃止 はいし する。543年 ねん 、黒死病 こくしびょう が大 だい 流行 りゅうこう し多 おお くの死者 ししゃ が出 で て政府 せいふ も機能 きのう 不全 ふぜん に陥 おちい る(ユスティニアヌスのペスト (英語 えいご 版 ばん ) )。ユスティニアヌスも感染 かんせん したが回復 かいふく している。これにより帝国 ていこく の人的 じんてき 資源 しげん は大 だい 打撃 だげき を受 う け、ユスティニアヌスのロ ろ ーマ帝国 まていこく 再興 さいこう 事業 じぎょう は衰退 すいたい に向 む かうことになる。548年 ねん に皇后 こうごう テオドラが、おそらく癌 がん によって比較的 ひかくてき 若 わか くして崩御 ほうぎょ した。
晩年 ばんねん のユスティニアヌス1世 せい 。ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂 せいどう のモザイク
ユスティニアヌスは皇后 こうごう よりおよそ20年間 ねんかん 長生 ながい きしており、神学 しんがく 上 じょう の問題 もんだい に関心 かんしん を寄 よ せてカトリック教義 きょうぎ についての議論 ぎろん に積極 せっきょく 的 てき に参加 さんか し[22] 、553年 ねん には第 だい 2コンスタンティノポリス公 こう 会議 かいぎ を主宰 しゅさい している。治世 ちせい の晩年 ばんねん にはより一層 いっそう に宗教 しゅうきょう に献身 けんしん するようになった。
552年 ねん にベリサリウスと交代 こうたい したナルセス 将軍 しょうぐん がイタリアで抵抗 ていこう を続 つづ けていた東 ひがし ゴート王 おう トーティラ を戦死 せんし させ、その後 ご を継 つ いだテーイア を破 やぶ って東 ひがし ゴート残党 ざんとう を殲滅 せんめつ し、554年 ねん 末 すえ までにイタリア半島 はんとう の平定 へいてい を完了 かんりょう した。しかし、長 なが い戦 たたか いでイタリアは荒廃 こうはい し、ローマ 市 し の人口 じんこう は500人 にん にまで減少 げんしょう したとも言 い われる[23] 。同年 どうねん 、西 にし ゴート王国 おうこく からイベリア半島 はんとう 東 ひがし 南部 なんぶ の領土 りょうど を奪取 だっしゅ 。地中海 ちちゅうかい 全域 ぜんいき に「ロ ろ ーマ帝国 まていこく 」の支配 しはい を回復 かいふく した。
565年 ねん 11月13日 にち から14日 にち にかけての夜 よる にユスティニアヌスは崩御 ほうぎょ した。皇后 こうごう テオドラとの間 あいだ に嫡出 ちゃくしゅつ 男子 だんし は無 な く、妹 いもうと ウィギランティアの息子 むすこ ユスティヌス2世 せい が即位 そくい し、皇后 こうごう テオドラの姪 めい ソフィアと結婚 けっこん した。ユスティニアヌスの遺体 いたい は聖 せい 使徒 しと 教会 きょうかい に特別 とくべつ に作 つく られた霊廟 れいびょう に埋葬 まいそう された。
晩年 ばんねん のユスティニアヌスは軍 ぐん を軽視 けいし したため、軍 ぐん は弱体 じゃくたい 化 か した。また、侵入 しんにゅう する異 い 民族 みんぞく に対 たい しては金 かね で紛争 ふんそう を解決 かいけつ しようとしたため、国家 こっか 財政 ざいせい も破綻 はたん した。ユスティニアヌスの死後 しご 、北方 ほっぽう からの異 い 民族 みんぞく の侵入 しんにゅう やサーサーン朝 あさ の攻撃 こうげき を受 う けて帝国 ていこく は急速 きゅうそく に衰退 すいたい し始 はじ め、8世紀 せいき 半 なか ばまで外敵 がいてき の侵入 しんにゅう と国内 こくない の混乱 こんらん が続 つづ いた。
ユスティニアヌスは、司法 しほう 改革 かいかく によって永 なが く続 つづ く名声 めいせい を勝 か ち得 え た。なかでも、これまで試 こころ みられることのなかったローマ法 ほう の完全 かんぜん な改訂 かいてい で知 し られる。その法制 ほうせい の集大成 しゅうたいせい が今日 きょう 『ローマ法 ほう 大全 たいぜん 』(Corpus Iuris Civilis )として知 し られるものである。これは『勅 みことのり 法 ほう 彙纂』(Codex Justinianus )、『学説 がくせつ 彙纂』(Digesta または Pandectae )、『法学 ほうがく 提要 ていよう 』(Institutiones )、そして『新 しん 勅 みことのり 法 ほう 』(Novellae )からなる。
治世 ちせい の初期 しょき 、ユスティニアヌスは財務 ざいむ 官 かん トリボニアヌスをこの仕事 しごと の主査 しゅさ に任 にん じた。2世紀 せいき 以降 いこう の帝国 ていこく 諸法 しょほう を成文 せいぶん 化 か した勅 みことのり 法 ほう 彙纂の最初 さいしょ の草案 そうあん は529年 ねん 5月7日 にち に発布 はっぷ された。最終 さいしゅう 版 ばん は534年 ねん に発布 はっぷ されている。533年 ねん に過去 かこ の法学 ほうがく 説 せつ を編纂 へんさん した学説 がくせつ 彙纂が出 だ され、そして主要 しゅよう な法律 ほうりつ を解説 かいせつ した教科書 きょうかしょ である法学 ほうがく 提要 ていよう が続 つづ いた。ユスティニアヌス治世 ちせい 下 か の新法 しんぽう を編纂 へんさん した新 しん 勅 みことのり 法 ほう がローマ法 ほう 大全 たいぜん を補足 ほそく している。他 た の大全 たいぜん とは対照 たいしょう 的 てき に、新 しん 勅 みことのり 法 ほう は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 内 ない の一般 いっぱん 語 ご であるギリシア語 ご で書 か かれている。
『ローマ法 ほう 大全 たいぜん 』はラテン法 ほう 哲学 てつがく (教会 きょうかい 法典 ほうてん を含 ふく む)の基礎 きそ を形作 かたちづく り、歴史 れきし 家 か に後期 こうき ロ ろ ーマ帝国 まていこく の関心 かんしん と活動 かつどう に関 かん する価値 かち ある見通 みとお しを提供 ていきょう している。編纂 へんさん 物 ぶつ としてこれは正式 せいしき な法律 ほうりつ 、元老 げんろう 院 いん の協議 きょうぎ (senatusconsulta)、勅 みことのり 令 れい 、判例 はんれい そして法学 ほうがく 者 しゃ の意見 いけん と解釈 かいしゃく (responsa prudentum)といった著述 ちょじゅつ または発布 はっぷ された法 ほう (leges)と、その他 た の規則 きそく からなる多 おお くの資料 しりょう を集積 しゅうせき したものである。
トリボニアヌスの法典 ほうてん はローマ法 ほう の存続 そんぞく を確保 かくほ した。バシレイオス1世 せい とレオーン6世 せい の時代 じだい に編纂 へんさん された『バシリカ法典 ほうてん 』(βασιλικός )で述 の べられているように、これは東 ひがし ローマの法律 ほうりつ の基礎 きそ となった。西部 せいぶ の地方 ちほう でユスティニアヌス法 ほう が導入 どうにゅう されたのはイタリア だけだったが(征服 せいふく 後 ご の554年 ねん に出 だ された国本 くにもと 勅諚 ちょくじょう による[24] )、ここから12世紀 せいき に西 にし ヨーロッパ へ伝 つた わり、多 おお くのヨーロッパ諸国 しょこく の法典 ほうてん の基礎 きそ となった。これは最終 さいしゅう 的 てき には東 ひがし ヨーロッパ にも伝 つた わりスラブ語 ご 版 ばん が著 あらわ され、そしてロシア にも伝 つた わった[25] 。ローマ法 ほう 大全 たいぜん は今日 きょう にも影響 えいきょう を残 のこ している。
ベリサリウス 。ラヴェンナ のサン・ヴィターレ聖堂 せいどう のモザイク。
ユスティニアヌス1世 せい の治世 ちせい の最 もっと も華々 はなばな しい業績 ぎょうせき は5世紀 せいき に帝国 ていこく の支配 しはい から離 はな れた西部 せいぶ 地中海 ちちゅうかい 海 かい 盆 ぼん の広大 こうだい な土地 とち を回復 かいふく したことである[26] 。キリスト教徒 きりすときょうと の皇帝 こうてい としてユスティニアヌスは古 いにしえ の境界 きょうかい にまでロ ろ ーマ帝国 まていこく を回復 かいふく することは神聖 しんせい な義務 ぎむ であると考 かんが えていた。ユスティニアヌス自身 じしん は一連 いちれん の戦役 せんえき に出征 しゅっせい することはなかったが、彼 かれ は諸 しょ 法令 ほうれい の序文 じょぶん で自 みずか らの成功 せいこう を自賛 じさん し、芸術 げいじゅつ 作品 さくひん においてこれらを祝 いわ った[27] 。この再 さい 征服 せいふく の多 おお くはベリサリウス将軍 しょうぐん によってなされている[注釈 ちゅうしゃく 8] 。
サーサーン朝 あさ との戦争 せんそう (527年 ねん ~532年 ねん ) [ ソースを編集 へんしゅう ]
ユスティニアヌス1世 せい は叔父 おじ からサーサーン朝 あさ ペルシャとの戦争 せんそう を引 ひ き継 つ いでいた[29] 。530年 ねん 、ペルシャ軍 ぐん はダラの戦 たたか い で撃破 げきは されたが、その翌年 よくねん には今度 こんど はベリサリウス率 ひき いるローマ軍 ぐん がカリニクムの戦 たたか い で敗 やぶ れている。531年 ねん 9月にペルシャ王 おう カワード1世 せい が崩御 ほうぎょ すると、ユスティニアヌスは後継 こうけい 者 しゃ のホスロー1世 せい に金 かね 11,000ポンド[30] を支払 しはら って「永久 えいきゅう 平和 へいわ 条約 じょうやく 」を締結 ていけつ した(532年 ねん )。
東方 とうほう 国境 こっきょう の安全 あんぜん を確保 かくほ するとユスティニアヌスは西方 せいほう に目 め を向 む けた。かつて西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が存在 そんざい したこの領域 りょういき にはアリウス派 は のゲルマン 諸 しょ 国家 こっか が成立 せいりつ していた。
北 きた アフリカ征服 せいふく (533年 ねん ~534年 ねん )[ ソースを編集 へんしゅう ]
アフリカ再 さい 征服 せいふく を記念 きねん した現代 げんだい または近代 きんだい の大 だい メダル
ユスティニアヌスが最初 さいしょ に攻撃 こうげき をした西方 せいほう 王国 おうこく は北 きた アフリカ のヴァンダル王国 おうこく であった。530年 ねん 、ユスティニアヌスや現地 げんち のカトリック教会 きょうかい と良好 りょうこう な関係 かんけい を保 たも っていたヒルデリック王 おう (英語 えいご 版 ばん ) が従弟 じゅうてい のゲリメル に倒 たお された。投獄 とうごく され、退位 たいい させられたヒルデリックはユスティニアヌスに助 たす けを求 もと めた。
533年 ねん 、92隻 せき のデュロモイ (戦艦 せんかん )に守 まも られた500隻 せき の輸送 ゆそう 船 せん で出征 しゅっせい したベリサリウスは兵 へい 15,000と蛮族 ばんぞく 兵 へい 数 すう 部隊 ぶたい を率 ひき いて現在 げんざい のチュニジア のヴァダ岬 みさき (現在 げんざい のカプララ岬 みさき )に上陸 じょうりく した。ベリサリウスは9月14日 にち のアド・デキムムの戦 たたか い そして12月のトリカマルムの戦 たたか い でヴァンダル軍 ぐん に奇襲 きしゅう をかけて破 やぶ り、カルタゴ を占領 せんりょう した。ゲリメルはヌミディア のパップア山 やま に逃 のが れたが、翌 よく 春 はる に降伏 ごうぶく した。ゲリメルはコンスタンティノポリスへ連行 れんこう され、凱旋 がいせん 式 しき で引 ひ き回 まわ されている。この戦役 せんえき でサルデーニャ とコルシカ 、バレアレス諸島 しょとう そしてジブラルタル 対岸 たいがん のセウタ 要塞 ようさい が回復 かいふく された[31] 。
ユスティニアヌス帝 みかど が実現 じつげん させた、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の最大 さいだい 領域 りょういき 。
534年 ねん 4月 がつ にアフリカ属 ぞく 州 しゅう が設置 せっち されたが[32] 、続 つづ く15年間 ねんかん のうちにムーア人 じん との戦争 せんそう と打 う ち続 つづ く反乱 はんらん に動揺 どうよう し崩壊 ほうかい 寸前 すんぜん になっている。この地域 ちいき は548年 ねん まで完全 かんぜん に安定 あんてい しなかったが[33] 、その後 ご は平静 へいせい を取 と り戻 もど してある程度 ていど の繁栄 はんえい を享受 きょうじゅ している。アフリカの回復 かいふく のために帝国 ていこく は金 かね 10万 まん ポンドの出費 しゅっぴ を要 よう した[34] 。
イタリア戦役 せんえき 第 だい 一 いち 段階 だんかい (535年 ねん ~540年 ねん ) [ ソースを編集 へんしゅう ]
ゴート戦争 せんそう 関係 かんけい 図 ず (ドイツ語 ご )
アフリカと同様 どうよう にイタリア半島 はんとう の東 ひがし ゴート王国 おうこく でも王族 おうぞく 内 ない の内紛 ないふん が介入 かいにゅう の機会 きかい を与 あた えた。534年 ねん 10月2日 にち まだ年少 ねんしょう のアタラリック 王 おう が死去 しきょ すると簒奪 さんだつ 者 しゃ テオダハド は女王 じょおう アマラスンタ (初代 しょだい 国王 こくおう テオドリック の娘 むすめ でアタラリックの母 はは )をボルセーナ湖 こ のマルターナ島 とう へ幽閉 ゆうへい し、翌 よく 535年 ねん に暗殺 あんさつ してしまった。そこで直 ただ ちに兵 へい 7,500[35] を率 ひき いたベリサリウスがシチリア島 とう へ侵攻 しんこう してイタリア半島 はんとう へ進軍 しんぐん 、ナポリ を略奪 りゃくだつ し、536年 ねん 12月9日 にち にローマ を占領 せんりょう した。その時 とき までにテオダハドはゴート軍 ぐん によって退位 たいい させられ、兵士 へいし たちはウィティギス を新 あら たな王 おう に選 えら んでいる。
ウィティギスは大軍 たいぐん を集 あつ めて537年 ねん 2月 がつ から538年 ねん 3月 がつ までローマを包囲 ほうい したが、奪回 だっかい できなかった。ユスティニアヌスはナルセス 将軍 しょうぐん をイタリアへ送 おく ったが、ベリサリウスとナルセスの反目 はんもく が作戦 さくせん の進行 しんこう を妨 さまた げる結果 けっか となってしまった。東 ひがし ローマ軍 ぐん はミラノ を占領 せんりょう したものの、すぐに街 まち は東 ひがし ゴートに奪回 だっかい されて破壊 はかい されている。
539年 ねん にユスティニアヌスがナルセスを召還 しょうかん すると戦況 せんきょう はローマ側 がわ の優勢 ゆうせい に傾 かたむ き、540年 ねん にベリサリウスは東 ひがし ゴートの首都 しゅと ラヴェンナ へ迫 せま った。そこで彼 かれ は東 ひがし ゴートから西 にし ローマの帝位 ていい を提供 ていきょう され、同時 どうじ にユスティニアヌスから和平 わへい 交渉 こうしょう のための使者 ししゃ が到着 とうちゃく し、ユスティニアヌスはポ ぽ ー川 がわ 以北 いほく を東 ひがし ゴートに残 のこ すことを認 みと めていた。ベリサリウスは提供 ていきょう を受 う けるかのように偽 いつわ って540年 ねん 5月 がつ に街 まち に入 はい り、ラヴェンナが帝国 ていこく 領 りょう たるのを改 あらた めて宣言 せんげん した[36] 。その後 ご 、ユスティニアヌスの召還 しょうかん によりベリサリウスはウィティギスと王妃 おうひ マタスンタ を連行 れんこう してコンスタンティノポリスへ帰還 きかん した。
サーサーン朝 あさ との戦争 せんそう (540年 ねん ~562年 ねん ) [ ソースを編集 へんしゅう ]
ベリサリウスはペルシャとの戦争 せんそう の再燃 さいねん により呼 よ び戻 もど されていた。530年代 ねんだい のアルメニア における反乱 はんらん に続 つづ き、おそらくは東 ひがし ゴートの使節 しせつ からの懇願 こんがん に刺激 しげき させられたホスロー1世 せい は「永久 えいきゅう 平和 へいわ 条約 じょうやく 」を破棄 はき して、540年 ねん 春 はる に東 ひがし ローマ領 りょう へ侵攻 しんこう した[37] 。ホスロー1世 せい はまずベロエア とアンティオキア (市内 しない の守備 しゅび 隊 たい 6000人 にん の退去 たいきょ を許 ゆる している)を略奪 りゃくだつ して[38] 、ダラを包囲 ほうい した。その後 ご 、小国 しょうこく だが戦略 せんりゃく 的 てき な要地 ようち にある黒海 こっかい の衛星 えいせい 国 こく ラジカ へと、道中 どうちゅう の諸 しょ 都市 とし から貢 みつぎ 納金 のうきん を取 と り立 た てながら、攻撃 こうげき に向 む かった。彼 かれ はユスティニアヌスへ金 かね 5000ポンドに加 くわ えて、毎年 まいとし 金 きん 500ポンドの貢 みつぎ 納 おさめ を強要 きょうよう した[38] 。
ベリサリウスは541年 ねん に東方 とうほう へ到着 とうちゃく し、いくつかの戦勝 せんしょう を収 おさ めたが、542年 ねん にコンスタンティノポリスへ再 ふたた び召還 しょうかん されている。この撤退 てったい の理由 りゆう は不明 ふめい だが、おそらくは将軍 しょうぐん の背信 はいしん 行為 こうい の噂 うわさ が宮廷 きゅうてい に届 とど いたためである[注釈 ちゅうしゃく 9] 。
疫病 えきびょう の発生 はっせい により543年 ねん 中 なか の戦争 せんそう は小康 しょうこう 状態 じょうたい になった。翌年 よくねん 、ホスロー1世 せい は東 ひがし ローマ軍 ぐん 3万 まん 人 にん を撃破 げきは したが[39] 、主要 しゅよう 都市 とし エデッサ の包囲 ほうい には失敗 しっぱい した。両 りょう 軍 ぐん とも優勢 ゆうせい を勝 か ちえず、545年 ねん に東 ひがし ローマとペルシャの南部 なんぶ 国境 こっきょう 地帯 ちたい で和平 わへい が締結 ていけつ された。この後 のち も北部 ほくぶ でのラジカ戦争 せんそう は数 すう 年間 ねんかん 続 つづ いていたが、557年 ねん に和平 わへい が結 むす ばれ、続 つづ いて562年 ねん に以後 いご 50年間 ねんかん 続 つづ く和平 わへい が締結 ていけつ された。講和 こうわ 条件 じょうけん により、ローマが毎年 まいとし 金 きん 400から500ポンドを支払 しはら う見返 みかえ りにペルシャはラジカを放棄 ほうき することになった[40] 。
イタリア戦役 せんえき 第 だい 二 に 段階 だんかい (541年 ねん ~554年 ねん ) [ ソースを編集 へんしゅう ]
ラクタリウス山 さん の戦 たたか い で東 ひがし ゴート族 ぞく は壊滅 かいめつ した。
軍事 ぐんじ 的 てき 努力 どりょく が東方 とうほう へ集中 しゅうちゅう している間 あいだ にイタリアの情勢 じょうせい は悪化 あっか していた。イルディバルド 王 おう 、エラリーコ 王 おう (両人 りょうにん とも541年 ねん に殺害 さつがい )そしてとりわけトーティラ 王 おう のもとで東 ひがし ゴートは急速 きゅうそく に領土 りょうど を拡大 かくだい した。542年 ねん のファエンツァの戦 たたか い での勝利 しょうり の後 のち 、東 ひがし ゴートは南 みなみ イタリアの主要 しゅよう 都市 とし を奪回 だっかい し、すぐに半島 はんとう の大半 たいはん を確保 かくほ した。ベリサリウスは544年 ねん 後半 こうはん に戻 もど されたが、十分 じゅうぶん な兵力 へいりょく は持 も たなかった。前進 ぜんしん することができず、彼 かれ は548年 ねん に指揮 しき 権 けん を交替 こうたい させられた。この期間 きかん にローマ市 し は3度 ど 主 ぬし を変 か えており、まず546年 ねん に東 ひがし ゴートに占領 せんりょう され人口 じんこう が激減 げきげん し、次 つぎ に547年 ねん に東 ひがし ローマがこれを奪回 だっかい し、そして550年 ねん 1月 がつ に東 ひがし ゴートが奪 うば い返 かえ している。また、トーティラ王 おう はシチリアを略奪 りゃくだつ し、ギリシャ 沿岸 えんがん を襲撃 しゅうげき までしている。
最終 さいしゅう 的 てき にユスティニアヌスはナルセスに兵 へい 35,000(内 うち 2000人 にん は西 にし ゴート王国 おうこく のスペイン南部 なんぶ へ分遣 ぶんけん されている)を与 あた えて派遣 はけん した[41] 。東 ひがし ローマ軍 ぐん は552年 ねん 6月 がつ にラヴェンナに達 たっ し、アペニン山脈 さんみゃく のブスタ・ガッローウムの戦 たたか い で決定的 けっていてき な勝利 しょうり を収 おさ めてトーティラを殺害 さつがい した。東 ひがし ゴートはテーイアを王 おう に戴 いただ いてなおも抵抗 ていこう を続 つづ けたが、同年 どうねん 10月 がつ に行 おこな われたラクタリウス山 さん の戦 たたか い で遂 つい に壊滅 かいめつ した。
554年 ねん にはフランク族 ぞく の大 だい 規模 きぼ な侵攻 しんこう をウォルトゥルヌス で撃退 げきたい して帝国 ていこく はイタリアを確保 かくほ したものの、ナルセスは東 ひがし ゴート残党 ざんとう の完全 かんぜん な平定 へいてい になお数 すう 年 ねん を要 よう している。戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 時 じ にイタリアには16,000人 にん の兵士 へいし が駐留 ちゅうりゅう しており[42] 、帝国 ていこく はイタリア回復 かいふく のために金 かね 30万 まん ポンドの出費 しゅっぴ をしている[34] 。
これら以外 いがい の征服 せいふく では、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は西 にし ゴート王国 おうこく で簒奪 さんだつ 者 しゃ アタナギルド が国王 こくおう アギラ1世 せい に反乱 はんらん を起 お こす際 さい に援助 えんじょ を求 もと めたことにより、イベリア半島 はんとう へ進出 しんしゅつ している。552年 ねん 、ユスティニアヌスは当時 とうじ 80歳 さい 代 だい になる老 ろう 将 しょう リベリウス (彼 かれ は490年代 ねんだい 以降 いこう 、東 ひがし ゴート王 おう に仕 つか えていた)に兵 へい 2,000を与 あた えて派遣 はけん した。東 ひがし ローマ軍 ぐん はカルタヘナ や南東 なんとう 部 ぶ 沿海 えんかい の諸 しょ 都市 とし を占領 せんりょう し、同盟 どうめい 者 しゃ で新 しん 国王 こくおう になったアタナギルドに妨害 ぼうがい される以前 いぜん に新 あら たにスパニア属 ぞく 州 しゅう (Provincia Spaniae )を設置 せっち した。この戦役 せんえき は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の拡大 かくだい の絶頂 ぜっちょう を示 しめ すものとなった。
ユスティニアヌスの治世 ちせい では、バルカン半島 ばるかんはんとう はドナウ川 がわ 以北 いほく に住 す むテュルク系 けい 及 およ びスラヴ系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく からの侵入 しんにゅう をしばしば受 う けていた。この地域 ちいき ではユスティニアヌスは主 おも に外交 がいこう 手段 しゅだん と防御 ぼうぎょ システムの構築 こうちく に頼 たよ っていた。559年 ねん にザベルガネス ・ハーン に率 ひき いられたスクラヴィニ族 ぞく とクトリグル族 ぞく が侵入 しんにゅう してコンスタンティノポリスを脅 おど かしたが、ベリサリウスによって撃退 げきたい されている。
ユスティニアヌス1世 せい の即位 そくい (赤 あか :527年 ねん )から崩御 ほうぎょ (オレンジ:565年 ねん )までの東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう の拡大 かくだい
ロ ろ ーマ帝国 まていこく のかつての栄光 えいこう を再建 さいけん しようとするユスティニアヌス1世 せい の大望 たいぼう は部分 ぶぶん 的 てき に実現 じつげん しただけだった。西方 せいほう における530年代 ねんだい の輝 かがや かしい軍事 ぐんじ 的 てき 成功 せいこう の後 のち は長 なが く続 つづ く沈滞 ちんたい に陥 おちい っている。ゴート族 ぞく との長期 ちょうき 化 か した戦争 せんそう はイタリアに破滅 はめつ をもたらした(その長期 ちょうき 的 てき な影響 えいきょう はしばしば述 の べられるほどには厳 きび しくはなかったが[43] )。住民 じゅうみん に課 か せられた重税 じゅうぜい はひどく憎 にく まれた。イタリアにおける最終 さいしゅう 的 てき な勝利 しょうり と南部 なんぶ スペインの征服 せいふく は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の権力 けんりょく と影響 えいきょう 力 りょく を発揮 はっき する地域 ちいき を大 おお いに拡大 かくだい し、そして帝国 ていこく の威信 いしん に寄与 きよ したことも間違 まちが いはないものの、征服 せいふく のほとんどは儚 はかな いものとなった。イタリアの大 だい 部分 ぶぶん はユスティニアヌスの崩御 ほうぎょ (565年 ねん )の3年 ねん 後 ご の568年 ねん にランゴバルド族 ぞく の侵略 しんりゃく によって失 うしな われ、そして続 つづ く1世紀 せいき の内 うち にアフリカの半分 はんぶん とスペインが帝国 ていこく から永遠 えいえん に失 うしな われている。
治世 ちせい 晩年 ばんねん の数 すう 年間 ねんかん にはコンスタンティノポリス自体 じたい が北方 ほっぽう からの蛮族 ばんぞく の侵攻 しんこう に対 たい して安全 あんぜん ではないことが明 あき らかとなり、比較的 ひかくてき 好意 こうい 的 てき な歴史 れきし 家 か メナンドロス・プロテクターでさえ老齢 ろうれい による体 からだ の衰弱 すいじゃく から首都 しゅと を守 まも ることに皇帝 こうてい が失敗 しっぱい したと説明 せつめい する必要 ひつよう を感 かん じた[44] 。古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく を再興 さいこう しようとする彼 かれ の努力 どりょく により、ユスティニアヌスは危険 きけん なほどに東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の領土 りょうど を広 ひろ げる一方 いっぽう で、6世紀 せいき のヨーロッパ世界 せかい の変化 へんか を勘案 かんあん することに失敗 しっぱい していたのである[45] 。逆説 ぎゃくせつ 的 てき なことだが、おそらくユスティニアヌスの軍事 ぐんじ 的 てき な成功 せいこう はその後 ご の帝国 ていこく の衰退 すいたい の遠因 えんいん となったであろう[46] 。
ユスティニアヌス1世 せい は帝国 ていこく の正統 せいとう 派 は は宗教 しゅうきょう 分派 ぶんぱ 、特 とく にシリア やエジプト に多 おお くの信者 しんじゃ を持 も つ単 たん 性 せい 論 ろん に脅 おびや かされていると考 かんが えていた。単 たん 性 せい 論 ろん の教義 きょうぎ は451年 ねん のカルケドン公 こう 会議 かいぎ で異端 いたん として非難 ひなん されており、皇帝 こうてい ゼノン とアナスタシウス1世 せい の単 たん 性 せい 論 ろん に対 たい する寛容 かんよう 政策 せいさく はローマ司教 しきょう との緊張 きんちょう 状態 じょうたい の原因 げんいん となっていた。ユスティニアヌスは態度 たいど を覆 くつがえ し、カルケドン教義 きょうぎ を確認 かくにん して公 おおやけ に単 たん 性 せい 論 ろん を非難 ひなん した。ユスティニアヌスはこの政策 せいさく を続 つづ けつつも、臣民 しんみん たちに教義 きょうぎ 上 じょう の妥協 だきょう を受 う け入 い れさせて宗教 しゅうきょう 的 てき 統一 とういつ を押 お し付 つ けようと試 こころ みたが、この政策 せいさく は誰 だれ も満足 まんぞく させられず失敗 しっぱい に終 お わっている。皇后 こうごう テオドラは単 たん 性 せい 論 ろん に同情 どうじょう 的 てき であり、初期 しょき の親 しん 単 たん 性 せい 論 ろん 派 は による宮廷 きゅうてい 陰謀 いんぼう の源泉 げんせん になったとされている。治世 ちせい 期間 きかん 中 ちゅう に神学 しんがく に心 しん から関心 かんしん を寄 よ せるユスティニアヌスは幾 いく つかの神学 しんがく 論文 ろんぶん を著 あらわ している[47] 。
ユスティニアヌス1世 せい が描 えが かれたフォリス 銅貨 どうか
世俗 せぞく 政治 せいじ と同様 どうよう に皇帝 こうてい の教会 きょうかい 政策 せいさく でも専制 せんせい が見 み られた。彼 かれ は宗教 しゅうきょう と法 ほう の全 すべ てを統制 とうせい した。
治世 ちせい の初 はじ めから、彼 かれ は三位一体 さんみいったい と受肉 を法 ほう によって広 ひろ めることが適切 てきせつ であるとみなし、そして全 すべ ての異端 いたん に適当 てきとう な処罰 しょばつ を加 くわ えることにより威嚇 いかく し[48] 、故 ゆえ にその後 ご に彼 かれ は適法 てきほう 手続 てつづ き によって正統 せいとう 的 てき 信仰 しんこう へのすべての妨害 ぼうがい 者 しゃ から犯罪 はんざい の機会 きかい を奪 うば うつもりであると宣言 せんげん した[49] 。彼 かれ はニカイア・コンスタンチノポリス信条 しんじょう を教会 きょうかい の唯一 ゆいいつ の象徴 しょうちょう となし[50] 、4度 ど の教会 きょうかい 一致 いっち 促進 そくしん 運動 うんどう 会議 かいぎ における教会 きょうかい 法 ほう へ法律 ほうりつ 上 じょう の力 ちから を与 あた えた[51] 。553年 ねん の第 だい 2コンスタンティノポリス公 こう 会議 かいぎ に出席 しゅっせき した主教 しゅきょう たちは教会 きょうかい が皇帝 こうてい の意思 いし と命令 めいれい に反 はん して如何 いか なることもなさないと同意 どうい した[52] 。コンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう アンシモス1世 せい の場合 ばあい には皇帝 こうてい は一時 いちじ 的 てき な追放 ついほう 措置 そち によって教会 きょうかい の禁制 きんせい を助 たす けている[53] 。ユスティニアヌスは異端 いたん を弾圧 だんあつ することによって教会 きょうかい の清浄 せいじょう を守 まも った。彼 かれ は修道院 しゅうどういん 制度 せいど を保護 ほご 、拡張 かくちょう するに際 さい して教会 きょうかい と聖職 せいしょく 者 しゃ の権利 けんり を保証 ほしょう する機会 きかい を放置 ほうち しなかった。彼 かれ は修道 しゅうどう 士 し に一般 いっぱん 市民 しみん から財産 ざいさん を相続 そうぞく する権利 けんり と帝国 ていこく の国庫 こっこ あるいはある特定 とくてい の州 しゅう の税金 ぜいきん からsolemnia あるいは毎年 まいとし の寄進 きしん を受 う け取 と る権利 けんり を与 あた え、そして彼 かれ は俗人 ぞくじん への修道院 しゅうどういん 財産 ざいさん の譲渡 じょうと を禁止 きんし した。
彼 かれ の手法 しゅほう の専制 せんせい 的 てき な特徴 とくちょう が近代 きんだい 的 てき な感受性 かんじゅせい に反 はん するけれども、彼 かれ は正 まさ に教会 きょうかい の「育 そだ ての父 ちち 」だった。勅 みことのり 法 ほう 彙纂と新 しん 勅 みことのり 法 ほう には教会 きょうかい 資産 しさん の寄進 きしん ・創立 そうりつ ・管理 かんり について、主教 しゅきょう ・司祭 しさい ・大 だい 修道 しゅうどう 院長 いんちょう の選挙 せんきょ とその権利 けんり 、修道院 しゅうどういん 生活 せいかつ 、聖職 せいしょく 者 しゃ の滞在 たいざい 義務 ぎむ 、礼拝 れいはい 様式 ようしき 、監督 かんとく 者 しゃ の管轄 かんかつ 権 けん などに関 かん する多 おお くの法令 ほうれい が含 ふく まれていた。ユスティニアヌスはニカの乱 らん で破壊 はかい されたハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう の再建 さいけん を行 おこな い、その建設 けんせつ 費 ひ は金 かね 2万 まん ポンドを要 よう した[54] 。八角 はっかく 形 がた の金箔 きんぱく のドームとモザイク を備 そな えた新築 しんちく されたハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう はコンスタンティノポリスにおける東方 とうほう 正教会 せいきょうかい の中核 ちゅうかく かつ最 もっと も明瞭 めいりょう な記念 きねん 碑 ひ となった。
ローマとの宗教 しゅうきょう 的 てき 関係 かんけい [ ソースを編集 へんしゅう ]
5世紀 せいき 半 はん 以降 いこう 、東 ひがし ローマ皇帝 こうてい は教会 きょうかい の問題 もんだい でますます困難 こんなん な仕事 しごと に直面 ちょくめん するようになっていた。一 ひと つには、あらゆる方面 ほうめん の急進 きゅうしん 主義 しゅぎ 者 しゃ たちがキリストの性質 せいしつ に関 かん する聖書 せいしょ の教義 きょうぎ を擁護 ようご し、分派 ぶんぱ 間 あいだ の教義 きょうぎ 上 うえ の相違 そうい をつなぐためのカルケドン公 こう 会議 かいぎ の信条 しんじょう によって常 つね に拒絶 きょぜつ されていると感 かん じていた。コンスタンディヌーポリ総 そう 主教 しゅきょう フラヴィアノス へのローマ教皇 きょうこう レオ1世 せい の教書 きょうしょ は東方 とうほう では悪魔 あくま の仕業 しわざ であると考 かんが えられており、そのため誰 だれ もローマの教会 きょうかい について聞 き くことを望 のぞ まなかった。しかしながら、皇帝 こうてい はコンスタンティノポリスとローマとの統一 とういつ を維持 いじ する政策 せいさく を持 も っており、そしてこれは彼 かれ らがカルケドンで定 さだ められた線 せん を歪 ゆが めないことによってのみ可能 かのう であった。加 くわ えて、カルケドンによって動揺 どうよう し不満 ふまん を抱 いだ くようになっていた東方 とうほう の諸派 しょは を抑制 よくせい し、そして静 しず めることを必要 ひつよう としていた。この問題 もんだい は、東方 とうほう で異議 いぎ を唱 とな えている反 はん カルケドン派 は が数 かず の上 じょう でもそして知的 ちてき な能力 のうりょく でも共 とも にカルケドン派 は に勝 か っていたので、いっそう難 むずか しいと分 わ かった。両派 りょうは の目標 もくひょう の不一致 ふいっち から緊張 きんちょう は増 ま しており、ローマと西方 せいほう を選択 せんたく した者 もの は東方 とうほう を放棄 ほうき しなくてはならず、そして逆 ぎゃく もまた同様 どうよう であった。
ユスティニアヌス1世 せい のフルネームを表示 ひょうじ する執政 しっせい 官 かん の書 しょ 字 じ 板 ばん (コンスタンティノポリス、521年 ねん )
ユスティニアヌスは518年 ねん に彼 かれ の叔父 おじ が即位 そくい するとすぐに教会 きょうかい の国政 こくせい 術 じゅつ の論争 ろんそう の場 ば に入 はい り、483年 ねん からローマと東 ひがし ローマの間 あいだ に普及 ふきゅう していた単 たん 性 せい 論 ろん の教会 きょうかい 分裂 ぶんれつ を終 お わらせた。至高 しこう の教会 きょうかい 権威 けんい としてローマ司教 しきょう 座 ざ を認 みと めることは[55] 、彼 かれ の西方 せいほう 政策 せいさく の基礎 きそ であり続 つづ けた。東方 とうほう の多 おお くの人々 ひとびと にとって、それは不愉快 ふゆかい なことではあったが、それにもかかわらずユスティニアヌスはシルウェリウス やウィギリウス のようなローマ教皇 きょうこう に対 たい して専制 せんせい 的 てき なスタンスをとるために彼 かれ 自身 じしん は完全 かんぜん に自由 じゆう であると感 かん じられた。
教会 きょうかい の教義 きょうぎ 上 じょう の派閥 はばつ に妥協 だきょう を受 う け入 い れさせることはできなかったが、彼 かれ の和解 わかい のための誠実 せいじつ な努力 どりょく は教会 きょうかい の主要 しゅよう 組織 そしき から賛同 さんどう を得 え させた。Theopaschite論争 ろんそう (スキティ派 は が出 だ した妥協 だきょう 案 あん の公式 こうしき [56] )での彼 かれ の態度 たいど がその合図 あいず だった。当初 とうしょ 、彼 かれ は文字 もじ 上 じょう の粗 あら 探 さが しになっているとする意見 いけん だった。しかしながら、次第 しだい にユスティニアヌスは問題 もんだい となっている信条 しんじょう が正統 せいとう であるかに見 み えただけでなく、単 たん 性 せい 論 ろん に対 たい する融和 ゆうわ 的 てき な手段 しゅだん たり得 え るかと理解 りかい するようになり、そして彼 かれ は533年 ねん にカルケドン派 は と単 たん 性 せい 論 ろん 派 は との宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ を行 おこな う努力 どりょく をしたが、無駄 むだ に終 お わった[56] 。
553年 ねん 3月15日 にち の宗教 しゅうきょう 勅 みことのり 令 れい で再 ふたた びユスティニアヌスは妥協 だきょう へ動 うご き[57] 、教皇 きょうこう ヨハネス2世 せい が帝国 ていこく の宗派 しゅうは を正統 せいとう 信仰 しんこう であると認 みと めたと彼 かれ 自 みずか ら祝福 しゅくふく している[58] 。彼 かれ は最初 さいしょ に単 たん 性 せい 論 ろん の主教 しゅきょう と修道 しゅうどう 士 し に厳 きび しい迫害 はくがい をしかけ、そしてそれによって広 ひろ い地域 ちいき の住民 じゅうみん に敵意 てきい を持 も たせた深刻 しんこく な大 だい 失敗 しっぱい を彼 かれ は最終 さいしゅう 的 てき に矯正 きょうせい した。彼 かれ の不変 ふへん の目標 もくひょう は単 たん 性 せい 論 ろん を味方 みかた に引 ひ き入 い れ、それでもなおカルケドン信条 しんじょう を放棄 ほうき しないことだった。宮廷 きゅうてい の多 おお くの人々 ひとびと に対 たい して、彼 かれ は十分 じゅうぶん に成功 せいこう しなかった。特 とく に皇后 こうごう テオドラは単 たん 性 せい 論 ろん が無制限 むせいげん に受 う け入 い れられることを望 のぞ んだであろう。
三 さん 章 しょう 問題 もんだい の非難 ひなん (第 だい 2コンスタンティノポリス公 こう 会議 かいぎ 参照 さんしょう )でユスティニアヌスは東方 とうほう と西方 せいほう を満足 まんぞく させようとしたが、どちらも満足 まんぞく させられなかった。教皇 きょうこう は非難 ひなん に同意 どうい したものの、西方 せいほう の人々 ひとびと は皇帝 こうてい がカルケドン布告 ふこく と相反 あいはん する行 おこな いをしたと信 しん じた。多 おお くの使節 しせつ が東方 とうほう でユスティニアヌスに服従 ふくじゅう して現 あらわ れたが、多 おお くの特 とく に単 たん 性 せい 論者 ろんしゃ たちは不満 ふまん なままだった。晩年 ばんねん の彼 かれ は神学 しんがく の問題 もんだい にさらに献身 けんしん したために、更 さら に苦 くる しめられた。
ユスティニアヌス1世 せい はコインの表面 ひょうめん に十字架 じゅうじか をかざす姿 すがた を描 えが いた最初 さいしょ の皇帝 こうてい の一人 ひとり である。
ユスティニアヌスの宗教 しゅうきょう 政策 せいさく は帝国 ていこく の統一 とういつ は宗教 しゅうきょう の統一 とういつ を完全 かんぜん に前提 ぜんてい しているという信念 しんねん の反映 はんえい であり、そしてその信仰 しんこう は彼 かれ にとっては明確 めいかく にオルトドクス(正教会 せいきょうかい )のみであった。勅 みことのり 法 ほう 彙纂は私生活 しせいかつ での祭儀 さいぎ を含 ふく む多神教 たしんきょう の完全 かんぜん な禁止 きんし を命 めい じる二 ふた つの法令 ほうれい を含 ふく んでおり[59] 、これらの条文 じょうぶん は熱心 ねっしん に実行 じっこう された。同 どう 時代 じだい 史料 しりょう (ヨハネス・マララス 、テオファネス 、エフェソスのヨハネス )には上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう の人々 ひとびと へのものを含 ふく む厳 きび しい迫害 はくがい が述 の べられている。
529年 ねん にアテネ のアカデメイア がユスティニアヌスの命令 めいれい によって国家 こっか の管理 かんり 下 か に置 お かれた。このヘレニズム 教育 きょういく 機関 きかん の事実 じじつ 上 じょう の閉鎖 へいさ がおそらく最 もっと も有名 ゆうめい な事件 じけん であろう。多神教 たしんきょう は積極 せっきょく 的 てき に弾圧 だんあつ された。小 しょう アジア だけで7万 まん 人 にん の多神教 たしんきょう 徒 と が改宗 かいしゅう したとエフェソスのヨハネス は述 の べている[60] 。ドン川 がわ 流域 りゅういき に居住 きょじゅう するヘルリ族 ぞく [61] 、フン族 ぞく [62] 、カフカス [63] のアブハジア族 ぞく [64] 、タザニ族 ぞく といった多 おお くの人々 ひとびと もキリスト教 きりすときょう を受 う け入 い れた。
リビア 砂漠 さばく のアウギリア におけるアメン神 しん 崇拝 すうはい は廃止 はいし され[65] 、そして同 おな じことがナイル川 がわ 第 だい 一 いち 瀑布 ばくふ のフィラエ島 とう でのイシス神 しん 崇拝 すうはい の残滓 ざんし でも起 お こった[66] 。長老 ちょうろう ジュリアン[67] と主教 しゅきょう ロンギヌス[68] がナバテア王国 おうこく での布教 ふきょう を行 おこな い、そしてユスティニアヌスはエジプトから主教 しゅきょう をイエメン へ派遣 はけん して同地 どうち のキリスト教 きりすときょう の強化 きょうか に努 つと めている[69] 。
ユダヤ人 じん もまた市民 しみん 権 けん を制限 せいげん され[70] 、そして宗教 しゅうきょう 上 じょう の恩恵 おんけい を脅 おびや かされただけでなく[71] 、皇帝 こうてい はシナゴーグ 内部 ないぶ の事柄 ことがら にも介入 かいにゅう し[72] 、一時 いちじ 的 てき にだが礼拝 れいはい の際 さい にヘブライ語 ご を用 もち いることを禁 きん じた。反抗 はんこう 者 しゃ は肉体 にくたい 的 てき な処罰 しょばつ や追放 ついほう そして財産 ざいさん の没収 ぼっしゅう で脅 おど された。ベリサリウスのヴァンダル戦役 せんえき で抵抗 ていこう したボリウムのユダヤ人 じん たちはキリスト教 きりすときょう の受容 じゅよう を強 し いられ、シナゴーグは教会 きょうかい になっている[65] 。
皇帝 こうてい はキリスト教 きりすときょう への改宗 かいしゅう に抵抗 ていこう して暴動 ぼうどう を繰 く り返 かえ すサマリア人 じん に悩 なや まされていた。皇帝 こうてい は厳 きび しい勅 みことのり 令 れい で彼 かれ らに対抗 たいこう したが、治世 ちせい の晩年 ばんねん に近 ちか くなるまでサマリア でのキリスト教徒 きりすときょうと への攻撃 こうげき を防 ふせ ぐことができなかった。マニ教徒 きょうと もまた厳 きび しい迫害 はくがい を受 う け、追放 ついほう や処刑 しょけい が行 おこな われた[73] 。コンスタンティノープル では、少 すく なくないマニ教徒 きょうと が厳 きび しい宗教 しゅうきょう 裁判 さいばん の後 のち に皇帝 こうてい の御前 ごぜん で火刑 かけい や水責 みずぜ め などの手段 しゅだん で処刑 しょけい されている[74] 。
建築 けんちく ・学問 がくもん ・文学 ぶんがく での業績 ぎょうせき [ ソースを編集 へんしゅう ]
ハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう
ユスティニアヌス1世 せい は数 すう 多 おお くの建築 けんちく を行 おこな っており、歴史 れきし 家 か プロコピオスはこの分野 ぶんや の業績 ぎょうせき の証人 しょうにん である[75] 。ユスティニアヌスの後援 こうえん のもとで有名 ゆうめい なユスティニアヌスとテオドラのモザイクを持 も つラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂 せいどう が完成 かんせい している[12] 。彼 かれ による最 もっと も有名 ゆうめい な建築 けんちく はハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう で[76] 、これはニカの乱 らん で焼失 しょうしつ したバシリカ 様式 ようしき の教会 きょうかい を全 まった く異 こと なる設計 せっけい で壮麗 そうれい に再建 さいけん したものである。モザイクで満 み たされた壮大 そうだい なドームを持 も つこの新 あら たな大 だい 聖堂 せいどう は数 すう 世紀 せいき にわたり東方 とうほう キリスト教徒 きりすときょうと の中心 ちゅうしん であり続 つづ けた。その他 た に首都 しゅと では聖 せい 使徒 しと 教会 きょうかい (5世紀 せいき 末 まつ の時点 じてん ではみすぼらしい状態 じょうたい だった)が同様 どうよう に再建 さいけん された[77] 。
装飾 そうしょく 事業 じぎょう は教会 きょうかい に限 かぎ られず、コンスタンティノープル大 だい 宮殿 きゅうでん の遺跡 いせき からはユスティニアヌス時代 じだい の高 こう 品質 ひんしつ のモザイクが見 み つかっており、543年 ねん には軍装 ぐんそう して騎乗 きじょう するユスティニアヌスの銅像 どうぞう を頂 いただ いた円柱 えんちゅう がコンスタンティノポリスで製作 せいさく されている[78] 。コンスタンティノポリスやローマを逃 のが れた貴族 きぞく たち(アニキア・ユリアナ など)といった他 ほか の有力 ゆうりょく なパトロンたちとの対抗心 たいこうしん がユスティニアヌスに王朝 おうちょう の権威 けんい の強化 きょうか を示 しめ す手段 しゅだん として首都 しゅと での建築 けんちく 活動 かつどう を強 し いさせたのであろう[79] 。
ユスティニアヌスは要塞 ようさい 群 ぐん を建設 けんせつ してアフリカから東方 とうほう まで帝国 ていこく の国境 こっきょう を強化 きょうか し、また地下 ちか 貯水 ちょすい 槽 そう (バシリカ・シスタン)を建設 けんせつ してコンスタンティノポリスの水 みず 供給 きょうきゅう を確保 かくほ した。戦略 せんりゃく 的 てき に重要 じゅうよう な街 まち のダラを洪水 こうずい の被害 ひがい から防 ふせ ぐために前進 ぜんしん 型 がた アーチダムを建設 けんせつ した。彼 かれ の治世 ちせい にはサンガリウス大橋 おおはし がビテュニア に建設 けんせつ され、東方 とうほう への補給 ほきゅう 路 ろ を確保 かくほ している。それ以上 いじょう にユスティニアヌスは地震 じしん や戦争 せんそう で破壊 はかい された諸 しょ 都市 とし を再建 さいけん し、また彼 かれ の出生 しゅっしょう 地 ち の近 ちか くにユスティニアナ・プリマ を建設 けんせつ した。これはテッサロニカ に代 か えてイリュリクム属 ぞく 州 しゅう の政治 せいじ 的 てき 宗教 しゅうきょう 的 てき な中心地 ちゅうしんち たるを意図 いと していた。
ユスティニアヌスの治世 ちせい 下 か 、一部 いちぶ は彼 かれ のパトロンのもとで、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 文化 ぶんか はプロコピオス やアガティアス を含 ふく む著名 ちょめい な歴史 れきし 家 か や黙祷 もくとう 者 しゃ パウロ や声楽 せいがく 家 か ロマヌス といった詩人 しじん たちを生 う みだした。一方 いっぽう で、アテネのプラトン大学 だいがく やベイルート の有名 ゆうめい な法 ほう 学校 がっこう [80] などの重要 じゅうよう な機関 きかん がこの時期 じき に失 うしな われている。過去 かこ のローマの栄光 えいこう へのユスティニアヌスの情熱 じょうねつ にも関 かか わらず、執政 しっせい 官 かん の選挙 せんきょ の実施 じっし は541年 ねん 以降 いこう は消滅 しょうめつ した[81] 。
ユスティニアヌス1世 せい の前任 ぜんにん 者 しゃ たちと同様 どうよう に帝国 ていこく の経済 けいざい は主 おも に農業 のうぎょう に依存 いぞん していた。加 くわ えて長距離 ちょうきょり 貿易 ぼうえき が賑 にぎ わい、北 きた はブリテン島 とう のコーンウォール に達 たっ し、ここでは錫 すず がローマの小麦 こむぎ と交換 こうかん されていた[82] 。帝国 ていこく 内 ない ではアレクサンドリア からの船団 せんだん がコンスタンティノポリスへ小麦 こむぎ と穀物 こくもつ を供給 きょうきゅう し、ユスティニアヌスは交通 こうつう をより効率 こうりつ 的 てき にするためにテネドス島 とう に保管 ほかん とコンスタンティノポリスへの輸送 ゆそう のための巨大 きょだい な穀倉 こくそう を建設 けんせつ した[83] 。また、ユスティニアヌスはペルシャとの戦争 せんそう のために大 おお きな打撃 だげき を受 う けた東方 とうほう 交易 こうえき の新 しん 経路 けいろ を探 さが そうとした。絹 きぬ は重要 じゅうよう な嗜好 しこう 品 ひん の一 ひと つで、これは帝国 ていこく へ輸入 ゆにゅう され、加工 かこう されていた。絹 きぬ 産業 さんぎょう を保護 ほご するために、ユスティニアヌスは541年 ねん に国営 こくえい 工場 こうじょう へ専売 せんばい 権 けん を与 あた えている[84] 。ペルシャの陸路 りくろ を避 さ けるためにユスティニアヌスはアビシニア との友好 ゆうこう 関係 かんけい を確立 かくりつ した。アビシニアはインド と帝国 ていこく との絹 きぬ の中継 ちゅうけい 貿易 ぼうえき を望 のぞ んでいたが、インドでペルシャの商人 しょうにん との競争 きょうそう に勝 か つことができなかった[85] 。その後 ご 、550年代 ねんだい 初 はじ めに二 に 人 にん の修道 しゅうどう 士 し が中央 ちゅうおう アジアから蚕 かいこ の繭 まゆ を盗 ぬす み出 だ してコンスタンティノープルへ持 も ち帰 かえ ることに成功 せいこう し[86] 、絹 きぬ は東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の国内 こくない 産業 さんぎょう となった。
モザイクに描 えが かれた庶民 しょみん の日常 にちじょう 生活 せいかつ 。コンスタンティノープル大 だい 宮殿 きゅうでん 。6世紀 せいき 前半 ぜんはん
治世 ちせい の開始 かいし 時 じ にユスティニアヌスはアナスタシウス1世 せい とユスティヌス1世 せい から2880万 まん ソリドゥス(金 かね 40万 まん ポンド)の余剰 よじょう 金 きん を相続 そうぞく していた[34] 。ユスティニアヌスの治世 ちせい 下 か では地方 ちほう における汚職 おしょく への対抗 たいこう 策 さく が取 と られ、徴税 ちょうぜい はより効果 こうか 的 てき になった。大 おお きな行政 ぎょうせい 権 けん が各 かく 県 けん や各州 かくしゅう の長官 ちょうかん に与 あた えられる一方 いっぽう で、行政 ぎょうせい 官 かん (ウィカリウス)や教区 きょうく の権限 けんげん は取 と り除 のぞ かれ、幾 いく つかは廃止 はいし もされた。行政 ぎょうせい 機構 きこう の簡素 かんそ 化 か が全般 ぜんぱん 的 てき な傾向 けいこう だった[87] 。ピーター・ブラウンによれば徴税 ちょうぜい の専門 せんもん 化 か はギリシャ諸 しょ 都市 とし の市会 しかい の自治 じち を弱 よわ めることにより、地方 ちほう 生活 せいかつ の伝統 でんとう 的 てき 構造 こうぞう を破壊 はかい している[88] 。ユスティニアヌスの再 さい 征服 せいふく 以前 いぜん 、530年 ねん の帝国 ていこく の歳入 さいにゅう は500万 まん ソリドゥスであったが、550年 ねん には600万 まん ソリドゥスに増加 ぞうか していたと見積 みつ もられている[34] 。
ユスティニアヌスの治世 ちせい 期間 きかん 、東方 とうほう の都市 とし と村 むら は繁栄 はんえい したが、アンティオキア は526年 ねん と528年 ねん に地震 じしん で破壊 はかい され、そして540年 ねん にはペルシャによって略奪 りゃくだつ され住民 じゅうみん は退去 たいきょ させられている。ユスティニアヌスは以前 いぜん よりやや小 ちい さい規模 きぼ にだがアンティオキアを再建 さいけん した[89] 。
これらすべての処置 しょち にもかかわらず、帝国 ていこく は6世紀 せいき の間 あいだ にいくつかの大 おお きな躓 つまず きを経験 けいけん している。第 だい 一 いち は541年 ねん から543年 ねん に発生 はっせい した疫病 えきびょう で、帝国 ていこく の人口 じんこう を激減 げきげん させ、おそらく労働 ろうどう 力不足 ちからぶそく と賃金 ちんぎん の上昇 じょうしょう を引 ひ き起 お こした[90] 。人的 じんてき 資源 しげん の不足 ふそく は540年代 ねんだい 前半 ぜんはん 以降 いこう の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 軍 ぐん 内 ない の蛮族 ばんぞく の大幅 おおはば な増加 ぞうか をもたらした[91] 。長期 ちょうき 化 か したイタリア戦役 せんえき と対 たい ペルシャ戦争 せんそう は帝国 ていこく の財源 ざいげん への大 おお きな負担 ふたん となり、ユスティニアヌスは国営 こくえい の郵便 ゆうびん 業務 ぎょうむ を軍事 ぐんじ 的 てき に重要 じゅうよう な東方 とうほう 経路 けいろ のみに制限 せいげん して他 た を削減 さくげん したことで批判 ひはん されている[92] 。
将軍 しょうぐん ベリサリウスの秘書官 ひしょかん であったプロコピオス は、従軍 じゅうぐん 経験 けいけん を生 い かして記 しる した『戦史 せんし 』でペルシャやヴァンダル・東 ひがし ゴートとの戦 たたか いを記 しる し、その中 なか でユスティニアヌスの征服 せいふく 活動 かつどう を賞賛 しょうさん している。また『建築 けんちく について 』では、ハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう をはじめとするユスティニアヌスの建築 けんちく 活動 かつどう を称 とな えている。
一方 いっぽう でプロコピオスは『秘史 ひし 』という裏 うら ノートを残 のこ した。そこにはユスティニアヌス・皇后 こうごう テオドラ、ベリサリウス夫妻 ふさい への批判 ひはん が書 か き連 つら ねられ、皇后 こうごう になる前 まえ のテオドラのスキャンダラスな行 おこな いもこの『秘史 ひし 』に記 しる されていた(なお、『戦史 せんし 』については英語 えいご 版 ばん がペンギン・ブックスのペーパーバックとして発行 はっこう されている)。
プロコピオスによれば、ユスティニアヌスは中肉 ちゅうにく 中背 ちゅうぜい の丸 まる 顔 がお で疲 つか れを知 し らない健康 けんこう 的 てき な男 おとこ だったという。自 みずか らの生活 せいかつ は質素 しっそ で、臣下 しんか からは「眠 ねむ らない皇帝 こうてい 」と呼 よ ばれるほど日夜 にちや を通 つう じて精力 せいりょく 的 てき に政務 せいむ に励 はげ んだ。性格 せいかく は怒 いか りを決 けっ して顔 かお に出 だ さず、親 した しみやすく穏 おだ やかであったが、その一方 いっぽう で何 なん 千 せん 人 にん もの無実 むじつ の人々 ひとびと の殺害 さつがい を平然 へいぜん と命令 めいれい することのできる冷酷 れいこく さを併 あわ せ持 も っていたという[93] 。
ハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう のモザイク画 が
ユスティニアヌスの肖像 しょうぞう でもっとも有名 ゆうめい なのはイタリアのラヴェンナ にあるサン・ヴィターレ聖堂 せいどう 内陣 ないじん にあるモザイク画 が である。ここには皇后 こうごう テオドラの肖像 しょうぞう も描 えが かれている。
他 た にコンスタンティノポリス(現 げん イスタンブール )のハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう にある10世紀 せいき のモザイク画 が がある。ここでは中央 ちゅうおう に聖母子 せいぼし が描 えが かれ、その左 ひだり にユスティニアヌスが聖母子 せいぼし にハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう を捧 ささ げ、右 みぎ にコンスタンティヌス1世 せい がコンスタンティノポリス の街 まち を捧 ささ げるという形 かたち で描 えが かれている。この図像 ずぞう から、後世 こうせい の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく においてユスティニアヌスはコンスタンティヌス1世 せい と並 なら ぶ偉大 いだい な存在 そんざい とされていたことがうかがえる。
またコンスタンティノポリスにはユスティニアヌスの銅像 どうぞう が乗 の った円柱 えんちゅう があったとされているが、1453年 ねん にオスマン帝国 ていこく によって東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が滅亡 めつぼう した際 さい に破壊 はかい されたため、現存 げんそん していない。
東京 とうきょう 都 と 中野 なかの 区 く の哲学 てつがく 堂 どう 公園 こうえん にある「哲学 てつがく の庭 にわ 」にはローマ法 ほう 大全 たいぜん を編纂 へんさん したことから「現存 げんそん する法律 ほうりつ の主流 しゅりゅう をつくった人物 じんぶつ 」としてユスティニアヌスの像 ぞう が置 お かれている[94] 。
ユスティニアヌスは積極 せっきょく 的 てき な外征 がいせい によってロ ろ ーマ帝国 まていこく 時代 じだい の旧領 きゅうりょう の多 おお くを奪還 だっかん し、『ローマ法 ほう 大全 たいぜん 』の編纂 へんさん やハギア・ソフィア大 だい 聖堂 せいどう の再建 さいけん など文化 ぶんか 的 てき 功績 こうせき も残 のこ した。だが、ユスティニアヌス本人 ほんにん が親 しん 征 せい に赴 おもむ くことはほとんどなく、実際 じっさい にはベリサリウスの功 こう による所 ところ が大 おお きい。しかしユスティニアヌスはその功績 こうせき に報 むく いるどころか、むしろその才覚 さいかく と名声 めいせい に嫉妬 しっと し、常 つね に冷遇 れいぐう するという姿勢 しせい を見 み せた。またこうした大 だい 事業 じぎょう の多 おお くは結果 けっか として国家 こっか 財政 ざいせい の破綻 はたん を招 まね いたほか、それを補 おぎな うための重税 じゅうぜい によって経済 けいざい は疲弊 ひへい し、相次 あいつ ぐ戦乱 せんらん でイタリアの諸 しょ 都市 とし は破壊 はかい され、国土 こくど は荒廃 こうはい してしまった。さらにこのような状況 じょうきょう で重税 じゅうぜい を課 か したために征服 せいふく 地 ち は完全 かんぜん に疲弊 ひへい した。このような統治 とうち に、旧 きゅう 西 にし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう でロ ろ ーマ帝国 まていこく の復活 ふっかつ を望 のぞ んでいた人々 ひとびと は幻滅 げんめつ し離反 りはん していった。
こうしたことからユスティニアヌスの死後 しご 、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく は急速 きゅうそく に衰退 すいたい してしまい、地中海 ちちゅうかい 世界 せかい を支配 しはい する大 だい 帝国 ていこく から、東 ひがし 南欧 なんおう ・東 ひがし 地中海 ちちゅうかい の地域 ちいき 大国 たいこく への転換 てんかん を余儀 よぎ なくされた。マヌエル1世 せい コムネノス のようにユスティニアヌス以後 いご にも大帝 たいてい 国 こく としての地位 ちい の復活 ふっかつ を目指 めざ した皇帝 こうてい もいたが、いずれも果 は たされなかった。結局 けっきょく ユスティニアヌスの治世 ちせい は、古代 こだい ローマの復興 ふっこう を求 もと めた彼 かれ の意向 いこう とは裏腹 うらはら に、古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の終焉 しゅうえん を招 まね く結果 けっか になってしまい、その後継 こうけい 者 しゃ たちに経済 けいざい が破綻 はたん し、疲弊 ひへい しきった国 くに を引 ひ き渡 わた すことになってしまった。ただし、一時 いちじ 的 てき にであれ往時 おうじ のロ ろ ーマ帝国 まていこく の版図 はんと を回復 かいふく したこと、特 とく に国号 こくごう の由来 ゆらい である都市 とし ローマを回復 かいふく した事 こと は、その後 ご の東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が持 も ち続 つづ けた「我 わ が国 くに はロ ろ ーマ帝国 まていこく である」と言 い うイデオロギーの根拠 こんきょ となり、その後 ご 苦難 くなん の時代 じだい を迎 むか えた帝国 ていこく の精神 せいしん 的 てき な拠 よ りどころとなった[95] 。
^ 一説 いっせつ にアナスタシウス(妻 つま はベリサリウス とその妻 つま アントニナの娘 むすめ ヨアンニナという。[要 よう 出典 しゅってん ] この説 せつ が正 ただ しければ、ヨアンニナは最初 さいしょ 、別 べつ のアナスタシウス(異父 いふ 姉 あね テオドラの長男 ちょうなん )と結婚 けっこん していた為 ため 、再婚 さいこん となる)とヨハンネス(妻 つま はアンティパトラとその夫 おっと の娘 むすめ )いう2人 ふたり の息子 むすこ がいたとされ、息子 むすこ 達 たち の父親 ちちおや は異 い 父兄 ふけい ヨハンネスで、異父 いふ 兄妹 きょうだい 結婚 けっこん により息子 むすこ 達 たち が誕生 たんじょう したとも言 い われるが、そのあたりの実情 じつじょう も不明 ふめい 確 かく で実在 じつざい したかは不明 ふめい 。2人 ふたり が実在 じつざい すればユスティニアヌス1世 せい と皇后 こうごう テオドラの嫡出 ちゃくしゅつ の孫 まご たちとなる。
^ 生年 せいねん 不明 ふめい -573年 ねん 以降 いこう に没 ぼつ 。名前 なまえ が知 し られていない愛人 あいじん との間 あいだ に生 う まれた庶子 しょし と言 い われているが、あくまで一説 いっせつ 。異説 いせつ として、ユスティニアヌス1世 せい の従弟 じゅうてい ゲルマヌス(東 ひがし ゴート王国 おうこく 初代 しょだい 国王 こくおう テオドリック の孫娘 まごむすめ マタスンタ を後妻 ごさい に迎 むか えた)が前妻 ぜんさい パッサラとの間 あいだ に儲 もう けた次男 じなん ユスティニアヌスの名前 なまえ 不 ふ 詳 しょう の息子 むすこ と同 どう 一人物 いちじんぶつ とも。この異説 いせつ を採用 さいよう する場合 ばあい 、テオドルスはユスティニアヌス1世 せい の従弟 じゅうてい の孫 まご (従 したがえ 姪 めい 孫 まご )となる。
^ 一説 いっせつ に異父 いふ 妹 いもうと (名前 なまえ 不 ふ 詳 しょう 。ユスティニアヌス1世 せい とヨハンネスの実母 じつぼ である皇后 こうごう テオドラとの間 あいだ に生 う まれた唯一 ゆいいつ の嫡子 ちゃくし )との間 あいだ にアナスタシウス、ヨハンネスという2人 ふたり の息子 むすこ が生 う まれたとも言 い われる[要 よう 出典 しゅってん ] が不明 ふめい 。
^ 夫 おっと フラウィウス・アナスタシウス・パウルス・プロブス・サビニアヌス・ポンペイウス・アナスタシウスとの間 あいだ に長男 ちょうなん アナスタシウス、次男 じなん ヨハンネス、三男 さんなん アタナシウスを儲 もう けた。長男 ちょうなん アナスタシウスとその後 ご 妻 つま ユリアナの子孫 しそん が少 すく なくとも8世紀 せいき まで存続 そんぞく していることが確認 かくにん できる。なお、長男 ちょうなん アナスタシウスの最初 さいしょ の妻 つま はベリサリウスとその妻 つま アントニナの娘 むすめ ヨアンニナである。
^ ギリシア語 ご では、フラヴィオス・ペトロス・サッバティオス・ユスティニアノス(Φλάβιος Πέτρος Σαββάτιος Ἰουστινιανός, Phlābios Petros Sabbatios Ioustiniānos )となる。
^ 東方 とうほう 正教会 せいきょうかい ではユスティニアヌスはユリウス暦 れき 11月14日 にち (現在 げんざい のグレゴリオ暦 れき では11月27日 にち )に祝 いわ われている。また、彼 かれ はルーテル教会 きょうかい ミズーリ長老 ちょうろう 会 かい とカナダ・ルーテル教会 きょうかい では聖者 せいじゃ 歴 れき 11月14日 にち に祝 いわ われている。
^ この役職 やくしょく は名義 めいぎ 上 じょう のものとみられる。ユスティニアヌスが軍務 ぐんむ 経験 けいけん をした証拠 しょうこ はない[15] 。
^ ユスティニアヌス本人 ほんにん が戦場 せんじょう に出 で たのは既 すで に老境 ろうきょう に入 はい った559年 ねん の対 たい フン族 ぞく 戦役 せんえき の時 とき だけである。この冒険 ぼうけん は主 おも に象徴 しょうちょう 的 てき なものであり、戦闘 せんとう はなかったにも関 かか わらず皇帝 こうてい は首都 しゅと で凱旋 がいせん 式 しき を挙行 きょこう している[28] 。
^ プロコピオスはこれについて『戦史 せんし 』と『秘史 ひし 』の双方 そうほう で言及 げんきゅう しているが、まったく正 せい 反対 はんたい の説明 せつめい をしている。証言 しょうげん は簡単 かんたん にMoorhead (1994), pp. 97-98で議論 ぎろん している。
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