ユスティニアヌス1せい

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ユスティニアヌス1せい
Justinianus I (Iustinianus I )
ひがしローマ皇帝こうてい
ユスティニアヌス1せい
在位ざいい 527ねん8がつ1にち - 565ねん11月14にち
べつごう 執政しっせいかん520ねん528ねん533ねん534ねん

ぜん フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス
出生しゅっしょう 483ねん5月11にち
ひがしマ帝国まていこくダルダニアぞくしゅう英語えいごばん、タウレシオン
死去しきょ (565-11-14) 565ねん11月14にち(82さいぼつ)(または13にち
ひがしマ帝国まていこくコンスタンティノープル
埋葬まいそう  
ひがしマ帝国まていこくコンスタンティノープルせい使徒しとだい聖堂せいどう
配偶はいぐうしゃ テオドラ
子女しじょ 名前なまえしょうむすめ嫡出ちゃくしゅつ[注釈ちゅうしゃく 1]
テオドルス?(庶子しょし?)[注釈ちゅうしゃく 2]
ヨハンネス(養子ようし、テオドラの[注釈ちゅうしゃく 3]
テオドラ(養女ようじょ、テオドラの[注釈ちゅうしゃく 4]
養子ようしユスティヌス2せい
王朝おうちょう ユスティニアヌス王朝おうちょう
父親ちちおや実父じっぷ)サッバティウス
養父ようふ叔父おじユスティヌス1せい
母親ははおや ウィギランティア
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ユスティニアヌス1せいラテン語らてんご: Justinianus I, 482ねんもしくは483ねん5月11にち - 565ねん11月14にち[1])は、ひがしマ帝国まていこくユスティニアヌス王朝おうちょうだい2だい皇帝こうてい在位ざいい527ねん - 565ねん)。正式せいしきめいは、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus[注釈ちゅうしゃく 5])。

概要がいよう[ソースを編集へんしゅう]

後世こうせい大帝たいてい」ともばれたように、古代こだい末期まっきにおけるもっと重要じゅうよう人物じんぶつ一人ひとりである。その治世ちせいひがしマ帝国まていこくにおける画期的かっきてき時代じだいをなし、当時とうじ帝国ていこく版図はんとひろげた。これは、野心やしんてきだが最終さいしゅうてきには失敗しっぱいした「帝国ていこく再建さいけん」(renovatio imperii)に特徴とくちょうづけられる[2]。この野望やぼうローマふく西にしマ帝国まていこく領土りょうど部分ぶぶんてき回復かいふくしたことにあらわされる。しかしその栄光えいこう時代じだいも、543ねん黒死病こくしびょうユスティニアヌスのペスト英語えいごばん)がわりのしるしとなった。帝国ていこく領土りょうどてき縮小しゅくしょう時代じだいはいり、9世紀せいきまで回復かいふくすることはなかった。

ユスティニアヌスの遺産いさん重要じゅうよう側面そくめんは、ローマほう統合とうごうしてなおした『ローマほう大全たいぜん』(Corpus Iuris Civilis)であり、これはおおくの現代げんだい国家こっか大陸たいりくほう基礎きそでありつづけている。かれ治世ちせいはまた初期しょきビザンティン文化ぶんか興隆こうりゅうにもしるされ、かれ建築けんちく事業じぎょうハギア・ソフィアだい聖堂せいどうのような傑作けっさくみだし、これは800ねん以上いじょうにわたって東方とうほう正教会せいきょうかい中心ちゅうしんとなった。

東方とうほう正教会せいきょうかいでは聖者せいじゃなされており、ルーテル教会きょうかい一部いちぶからも祝福しゅくふくされている[注釈ちゅうしゃく 6]反対はんたいどう時代じだいプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍ざんにん強欲ごうよくそして無能むのう統治とうちしゃ」としてていた[3]

ユスティニアヌス1せい治世ちせいかんするおも史料しりょうは、歴史れきしプロコピオス提供ていきょうしている。散逸さんいつしたシリアによるエフェソスのヨハネス年代ねんだい後代こうだい年代ねんだい史料しりょうとなり、おおくの付加ふかてき詳細しょうさいることに貢献こうけんしている。この2人ふたり歴史れきしは、ユスティニアヌスと皇后こうごうテオドラたいして非常ひじょう辛辣しんらつである。また、プロコピオスは『秘史ひし』(Anekdota)をあらわしており、ここではユスティニアヌスの宮廷きゅうていにおける様々さまざまなスキャンダルがべられている。ほかの史料しりょうとしては、アガティアス (Agathiasメナンデル・プロテクトル (Menander Protectorヨハネス・マララス (John Malalas復活ふっかつさい年代ねんだい (Chronicon Paschaleマルケリヌス・コメス (Marcellinus Comesトゥンヌナのウィクトル (Victor of Tunnunaげられる。

生涯しょうがい[ソースを編集へんしゅう]

出生しゅっしょうから即位そくい[ソースを編集へんしゅう]

出生しゅっしょうちかくに建設けんせつしたユスティニア・プリマ遺跡いせき

のちに皇帝こうていユスティニアヌス1せいとなるペトルス・サッバティウスは、483ねんダルダニアしゅう英語えいごばんタウレシウム(げんマケドニア共和国まけどにあきょうわこくスコピエ近傍きんぼう)で農民のうみんサッバティウスのとしてまれた[4]ラテン語らてんごはなかれ家族かぞくはトラキアけいローマじんまたはイリュリアけいローマじんであるとかんがえられている[5][6][7]。のちにかれもちいるコグノーメンの Iustinianus は叔父おじユスティヌス1せい養子ようしとなったことを意味いみする[8]かれ治世ちせいちゅう出身しゅっしんからとおくない場所ばしょユスティニア・プリマ建設けんせつしている[9][10][11]ははウィギランティアはユスティヌスのあねだった。

叔父おじのユスティヌスは近衛このえたいExcubitores)にぞくしており[12]、ユスティニアヌスを養子ようしとし、コンスタンティノポリスまねせて養育よういくした[12]。このため、ユスティニアヌスは法学ほうがく神学しんがくそしてローマについてたか知識ちしきっていた[12]かれはしばらく近衛このえたい勤務きんむしていたが、経歴けいれき詳細しょうさいについてはかっていない[12]。ユスティニアヌスとどう時代じだい年代ねんだい編者へんしゃヨハネス・マララスはユスティニアヌスの外見がいけんについてひくく、色白いろじろで、まるがお美男びなんだったとべている。もう一人ひとりどう時代じだい年代ねんだい編者へんしゃプロコピオスは(おそらく中傷ちゅうしょうだが)ユスティニアヌスの外見がいけん暴君ぼうくんドミティアヌスたとえている[13]

518ねんアナスタシウス1せい崩御ほうぎょすると、ユスティヌスはユスティニアヌスのおおきなたすけをけて新帝しんてい即位そくい宣言せんげんした[12]。ユスティヌス1せい治世ちせい(518ねん~527ねん)においてユスティニアヌスは皇帝こうてい腹心ふくしんとなった。ユスティニアヌスは大望たいぼういだき、共同きょうどう皇帝こうていになる以前いぜんから事実じじつじょう摂政せっしょう役割やくわりたしていたとされるが、それを確認かくにんする証拠しょうこはない[14]治世ちせい末期まっきにユスティヌスが老衰ろうすいするとユスティニアヌスは事実じじつじょう統治とうちしゃとなった[12]521ねんにユスティニアヌスは執政しっせいかん任命にんめいされ、のち東方とうほうぐん司令しれいかんともなっている[注釈ちゅうしゃく 7][12]

525ねんころにユスティニアヌスは20さい年下とししたおどテオドラ成婚せいこんした。当初とうしょ、ユスティニアヌスは階級かいきゅうちがいのために彼女かのじょ成婚せいこんできなかったが、叔父おじ皇帝こうていユスティヌス1せいことなる階級かいきゅうあいだ結婚けっこんみとめる法律ほうりつ制定せいていした[16]。テオドラは帝国ていこく政治せいじおおきな影響えいきょうあたえるようになり、後代こうだい皇帝こうてい貴族きぞく階級かいきゅう以外いがいからつまめとるようになった。この成婚せいこん醜聞しゅうぶんとなったものの、テオドラは非常ひじょう知的ちてきで、なく、公正こうせい性格せいかくしめしてユスティニアヌスの偉大いだい後援こうえんしゃとなった。

ユスティヌス1せい崩御ほうぎょせま527ねん4がつ1にちにユスティニアヌスはカエサルふくみかど)に就任しゅうにんし、同年どうねん8がつ1にちのユスティヌス1せい崩御ほうぎょにより単独たんどく統治とうちしゃとなった[よう出典しゅってん]

治世ちせい初期しょきとニカのらん[ソースを編集へんしゅう]

皇后こうごうテオドラ
ラヴェンナサン・ヴィターレ聖堂せいどうのモザイク

統治とうちしゃとしてのユスティニアヌスは非常ひじょう精励せいれいさをしめした。そのはたらきぶりから、かれは「ねむらぬ皇帝こうてい」としてられたが、一方いっぽう人付ひとづきがよく、忠告ちゅうこくれる人物じんぶつでもあった[17]。ユスティニアヌスは地方ちほう下層かそう階層かいそう出身しゅっしんであったため、コンスタンティノポリスの伝統でんとうてき貴族きぞく階層かいそう権力けんりょく基盤きばんたなかった。そのわり、かれまれではなく功績こうせきによってえらばれた非常ひじょう才能さいのうのある男女だんじょかれていた。有能ゆうのう臣下しんかには司法しほう長官ちょうかんトリボニアヌス外交がいこうかんながきにわたり宮内みやうち長官ちょうかんつとめたペトロ・パトリキウス財務ざいむ長官ちょうかんカッパドキのヨハネスそしてかつてなく効果こうかてき徴税ちょうぜいおこない、これによってユスティニアヌスの一連いちれん戦役せんえき財源ざいげんまかなったペトロ・バルシャメス、そして最後さいご偉大いだい名将めいしょうベリサリウスがいた。

528ねん、ユスティニアヌスはトリボリアヌスらに古代こだいローマほう集大成しゅうたいせいである『ローマほう大全たいぜん』(Corpus Iuris Civilis編纂へんさん勅命ちょくめいくだす。529ねん古代こだいからの伝統でんとうてき多神教たしんきょう異教いきょう)を弾圧だんあつアテネアカデメイア閉鎖へいさし、学者がくしゃ追放ついほうした。

ユスティニアヌスの、有能ゆうのうではあるが人気にんきのない助言じょげんしゃ登用とうようする傾向けいこうは、その治世ちせい初期しょきあやうく帝位ていいうしなわせかけた。532ねん1がつ、コンスタンティノポリスの戦車せんしゃ競走きょうそう支持しじしゃ党派とうは団結だんけつしてのちニカのらんられる暴動ぼうどうこした。かれらはトリボニアヌス2めい大臣だいじん罷免ひめん要求ようきゅうし、さらにはユスティニアヌス自身じしん打倒だとうしてアナスタシウス1せいすめらぎおいである元老げんろういん議員ぎいんヒュパティオスえさせようとした。群衆ぐんしゅう市街しがい暴動ぼうどうこしているあいだ、ユスティニアヌスは首都しゅとからの逃亡とうぼうかんがえたが、皇后こうごうテオドラの叱咤しったによってまちとどまった。つづく2日間にちかんかれベリサリウスムンドゥス二人ふたり将軍しょうぐん容赦ようしゃない鎮圧ちんあつめいじる。歴史れきしプロコピオス競技きょうぎじょうで30,000にん[18]武装ぶそう市民しみん殺害さつがいされたとべている。テオドラの主張しゅちょうにより(ユスティニアヌス自身じしん判断はんだんはんして[19])、アナスタシウス1せいすめらぎおい処刑しょけいされた[20]

さい征服せいふく[ソースを編集へんしゅう]

詳細しょうさいは「軍事ぐんじじょう業績ぎょうせき」のふし後述こうじゅつする
ユスティニアヌス1せい時代じだいひがしマ帝国まていこく青色あおいろ部分ぶぶん)。青色あおいろ緑色みどりいろ部分ぶぶんトラヤヌス時代じだいマ帝国まていこくあかせんは395ねん東西とうざいローマの分割ぶんかつせん

国内こくない危機ききったユスティニアヌスはさい征服せいふくすことになる。532ねん6がつサーサーンあさペルシアとのあいだに「永久えいきゅう平和へいわ条約じょうやく」をむすんで東方とうほう国境こっきょう安定あんていさせると、よく533ねん、ベリサリウス将軍しょうぐんきたアフリカ派遣はけんしてゲルマンじん国家こっかヴァンダル王国おうこく征服せいふくさせた。

535ねん、ゲルマンじん国家こっかひがしゴート王国おうこく内紛ないふんじょうじてベリサリウスをイタリア派遣はけんした。翌年よくねんまつローマ奪回だっかいしたものの、ひがしゴートがわ強固きょうこ抵抗ていこう戦争せんそう長期ちょうきする。

537ねん12月、ニカのらん焼失しょうしつしたハギア・ソフィアだい聖堂せいどうげんアヤソフィアモスク)の再建さいけん完了かんりょうした。ビザンティン建築けんちく最高峰さいこうほうとして、現代げんだいまでつたえられることになる。完成かんせい奉献ほうけんしきで、祭壇さいだんってをさしのべ、古代こだいイスラエル王国おうこくソロモンおうだい神殿しんでん凌駕りょうがする聖堂せいどうてたというおもいから「にかかる事業じぎょうをなさせたまうたかみ栄光えいこうあれ! ソロモンよ、なんじてり!」とさけんだとつたえられる[21]

540ねんにベリサリウスがひがしゴート王国おうこく首都しゅとラヴェンナ攻略こうりゃくし、ひがしゴートおうウィティギスらえてコンスタンティノポリスへ帰還きかんしたものの、イタリア半島はんとうでは依然いぜんとしてひがしゴートの残党ざんとう勢力せいりょくたもっていた。同年どうねんにサーサーンあさとのこうそう再開さいかいし、帝国ていこく東西とうざいてきかかえることになる。

541ねん共和きょうわせいローマ以来いらい執政しっせいかん制度せいど廃止はいしする。543ねん黒死病こくしびょうだい流行りゅうこうおおくの死者ししゃ政府せいふ機能きのう不全ふぜんおちいる(ユスティニアヌスのペスト英語えいごばん)。ユスティニアヌスも感染かんせんしたが回復かいふくしている。これにより帝国ていこく人的じんてき資源しげんだい打撃だげきけ、ユスティニアヌスのマ帝国まていこく再興さいこう事業じぎょう衰退すいたいかうことになる。548ねん皇后こうごうテオドラが、おそらくがんによって比較的ひかくてきわかくして崩御ほうぎょした。

晩年ばんねん[ソースを編集へんしゅう]

晩年ばんねんのユスティニアヌス1せい。ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂せいどうのモザイク

ユスティニアヌスは皇后こうごうよりおよそ20年間ねんかん長生ながいきしており、神学しんがくじょう問題もんだい関心かんしんせてカトリック教義きょうぎについての議論ぎろん積極せっきょくてき参加さんか[22]553ねんにはだい2コンスタンティノポリスこう会議かいぎ主宰しゅさいしている。治世ちせい晩年ばんねんにはより一層いっそう宗教しゅうきょう献身けんしんするようになった。

552ねんにベリサリウスと交代こうたいしたナルセス将軍しょうぐんがイタリアで抵抗ていこうつづけていたひがしゴートおうトーティラ戦死せんしさせ、そのいだテーイアやぶってひがしゴート残党ざんとう殲滅せんめつし、554ねんすえまでにイタリア半島はんとう平定へいてい完了かんりょうした。しかし、ながたたかいでイタリアは荒廃こうはいし、ローマ人口じんこうは500にんにまで減少げんしょうしたともわれる[23]同年どうねん西にしゴート王国おうこくからイベリア半島はんとうひがし南部なんぶ領土りょうど奪取だっしゅ地中海ちちゅうかい全域ぜんいきに「マ帝国まていこく」の支配しはい回復かいふくした。

565ねん11月13にちから14にちにかけてのよるにユスティニアヌスは崩御ほうぎょした。皇后こうごうテオドラとのあいだ嫡出ちゃくしゅつ男子だんしく、いもうとウィギランティアの息子むすこユスティヌス2せい即位そくいし、皇后こうごうテオドラのめいソフィアと結婚けっこんした。ユスティニアヌスの遺体いたいせい使徒しと教会きょうかい特別とくべつつくられた霊廟れいびょう埋葬まいそうされた。

晩年ばんねんのユスティニアヌスはぐん軽視けいししたため、ぐん弱体じゃくたいした。また、侵入しんにゅうする民族みんぞくたいしてはかね紛争ふんそう解決かいけつしようとしたため、国家こっか財政ざいせい破綻はたんした。ユスティニアヌスの死後しご北方ほっぽうからの民族みんぞく侵入しんにゅうやサーサーンあさ攻撃こうげきけて帝国ていこく急速きゅうそく衰退すいたいはじめ、8世紀せいきなかばまで外敵がいてき侵入しんにゅう国内こくない混乱こんらんつづいた。

法制ほうせいじょう業績ぎょうせき[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌスは、司法しほう改革かいかくによってながつづ名声めいせいた。なかでも、これまでこころみられることのなかったローマほう完全かんぜん改訂かいていられる。その法制ほうせい集大成しゅうたいせい今日きょうローマほう大全たいぜん』(Corpus Iuris Civilis)としてられるものである。これは『みことのりほう彙纂』(Codex Justinianus)、『学説がくせつ彙纂』(Digesta または Pandectae)、『法学ほうがく提要ていよう』(Institutiones)、そして『しんみことのりほう』(Novellae)からなる。

治世ちせい初期しょき、ユスティニアヌスは財務ざいむかんトリボニアヌスをこの仕事しごと主査しゅさにんじた。2世紀せいき以降いこう帝国ていこく諸法しょほう成文せいぶんしたみことのりほう彙纂の最初さいしょ草案そうあん529ねん5月7にち発布はっぷされた。最終さいしゅうばん534ねん発布はっぷされている。533ねん過去かこ法学ほうがくせつ編纂へんさんした学説がくせつ彙纂がされ、そして主要しゅよう法律ほうりつ解説かいせつした教科書きょうかしょである法学ほうがく提要ていようつづいた。ユスティニアヌス治世ちせい新法しんぽう編纂へんさんしたしんみことのりほうがローマほう大全たいぜん補足ほそくしている。大全たいぜんとは対照たいしょうてきに、しんみことのりほうひがしマ帝国まていこくない一般いっぱんであるギリシアかれている。

『ローマほう大全たいぜん』はラテンほう哲学てつがく教会きょうかい法典ほうてんふくむ)の基礎きそ形作かたちづくり、歴史れきし後期こうきマ帝国まていこく関心かんしん活動かつどうかんする価値かちある見通みとおしを提供ていきょうしている。編纂へんさんぶつとしてこれは正式せいしき法律ほうりつ元老げんろういん協議きょうぎ(senatusconsulta)、みことのりれい判例はんれいそして法学ほうがくしゃ意見いけん解釈かいしゃく(responsa prudentum)といった著述ちょじゅつまたは発布はっぷされたほう(leges)と、その規則きそくからなるおおくの資料しりょう集積しゅうせきしたものである。

トリボニアヌスの法典ほうてんはローマほう存続そんぞく確保かくほした。バシレイオス1せいレオーン6せい時代じだい編纂へんさんされた『バシリカ法典ほうてん』(βασιλικός)でべられているように、これはひがしローマの法律ほうりつ基礎きそとなった。西部せいぶ地方ちほうでユスティニアヌスほう導入どうにゅうされたのはイタリアだけだったが(征服せいふく554ねんされた国本くにもと勅諚ちょくじょうによる[24])、ここから12世紀せいき西にしヨーロッパつたわり、おおくのヨーロッパ諸国しょこく法典ほうてん基礎きそとなった。これは最終さいしゅうてきにはひがしヨーロッパにもつたわりスラブばんあらわされ、そしてロシアにもつたわった[25]。ローマほう大全たいぜん今日きょうにも影響えいきょうのこしている。

軍事ぐんじじょう業績ぎょうせき[ソースを編集へんしゅう]

ベリサリウス
ラヴェンナサン・ヴィターレ聖堂せいどうのモザイク。

ユスティニアヌス1せい治世ちせいもっと華々はなばなしい業績ぎょうせき5世紀せいき帝国ていこく支配しはいからはなれた西部せいぶ地中海ちちゅうかいかいぼん広大こうだい土地とち回復かいふくしたことである[26]キリスト教徒きりすときょうと皇帝こうていとしてユスティニアヌスはいにしえ境界きょうかいにまでマ帝国まていこく回復かいふくすることは神聖しんせい義務ぎむであるとかんがえていた。ユスティニアヌス自身じしん一連いちれん戦役せんえき出征しゅっせいすることはなかったが、かれしょ法令ほうれい序文じょぶんみずからの成功せいこう自賛じさんし、芸術げいじゅつ作品さくひんにおいてこれらをいわった[27]。このさい征服せいふくおおくはベリサリウス将軍しょうぐんによってなされている[注釈ちゅうしゃく 8]

サーサーンあさとの戦争せんそう(527ねん~532ねん[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌス1せい叔父おじからサーサーンあさペルシャとの戦争せんそういでいた[29]530ねん、ペルシャぐんダラのたたか撃破げきはされたが、その翌年よくねんには今度こんどはベリサリウスひきいるローマぐんカリニクムのたたかやぶれている。531ねん9月にペルシャおうカワード1せい崩御ほうぎょすると、ユスティニアヌスは後継こうけいしゃホスロー1せいかね11,000ポンド[30]支払しはらって「永久えいきゅう平和へいわ条約じょうやく」を締結ていけつした(532ねん)。

東方とうほう国境こっきょう安全あんぜん確保かくほするとユスティニアヌスは西方せいほうけた。かつて西にしマ帝国まていこく存在そんざいしたこの領域りょういきにはアリウスゲルマンしょ国家こっか成立せいりつしていた。

きたアフリカ征服せいふく(533ねん~534ねん[ソースを編集へんしゅう]

アフリカさい征服せいふく記念きねんした現代げんだいまたは近代きんだいだいメダル

ユスティニアヌスが最初さいしょ攻撃こうげきをした西方せいほう王国おうこくきたアフリカヴァンダル王国おうこくであった。530ねん、ユスティニアヌスや現地げんちカトリック教会きょうかい良好りょうこう関係かんけいたもっていたヒルデリックおう英語えいごばん従弟じゅうていゲリメルたおされた。投獄とうごくされ、退位たいいさせられたヒルデリックはユスティニアヌスにたすけをもとめた。

533ねん、92せきデュロモイ戦艦せんかん)にまもられた500せき輸送ゆそうせん出征しゅっせいしたベリサリウスはへい15,000と蛮族ばんぞくへいすう部隊ぶたいひきいて現在げんざいチュニジアのヴァダみさき現在げんざいカプララみさき)に上陸じょうりくした。ベリサリウスは9月14にちアド・デキムムのたたかそして12月のトリカマルムのたたかでヴァンダルぐん奇襲きしゅうをかけてやぶり、カルタゴ占領せんりょうした。ゲリメルはヌミディアのパップアやまのがれたが、よくはる降伏ごうぶくした。ゲリメルはコンスタンティノポリスへ連行れんこうされ、凱旋がいせんしきまわされている。この戦役せんえきサルデーニャコルシカバレアレス諸島しょとうそしてジブラルタル対岸たいがんセウタ要塞ようさい回復かいふくされた[31]

ユスティニアヌスみかど実現じつげんさせた、ひがしマ帝国まていこく最大さいだい領域りょういき

534ねん4がつアフリカぞくしゅう設置せっちされたが[32]つづく15年間ねんかんのうちにムーアじんとの戦争せんそうつづ反乱はんらん動揺どうよう崩壊ほうかい寸前すんぜんになっている。この地域ちいき548ねんまで完全かんぜん安定あんていしなかったが[33]、その平静へいせいもどしてある程度ていど繁栄はんえい享受きょうじゅしている。アフリカの回復かいふくのために帝国ていこくかね10まんポンドの出費しゅっぴようした[34]

イタリア戦役せんえきだいいち段階だんかい(535ねん~540ねん[ソースを編集へんしゅう]

ゴート戦争せんそう関係かんけいドイツ

アフリカと同様どうようにイタリア半島はんとうひがしゴート王国おうこくでも王族おうぞくない内紛ないふん介入かいにゅう機会きかいあたえた。534ねん10月2にちまだ年少ねんしょうアタラリックおう死去しきょすると簒奪さんだつしゃテオダハド女王じょおうアマラスンタ初代しょだい国王こくおうテオドリックむすめでアタラリックのはは)をボルセーナのマルターナとう幽閉ゆうへいし、よく535ねん暗殺あんさつしてしまった。そこでただちにへい7,500[35]ひきいたベリサリウスがシチリアとう侵攻しんこうしてイタリア半島はんとう進軍しんぐんナポリ略奪りゃくだつし、536ねん12月9にちローマ占領せんりょうした。そのときまでにテオダハドはゴートぐんによって退位たいいさせられ、兵士へいしたちはウィティギスあらたなおうえらんでいる。

ウィティギスは大軍たいぐんあつめて537ねん2がつから538ねん3がつまでローマを包囲ほういしたが、奪回だっかいできなかった。ユスティニアヌスはナルセス将軍しょうぐんをイタリアへおくったが、ベリサリウスとナルセスの反目はんもく作戦さくせん進行しんこうさまたげる結果けっかとなってしまった。ひがしローマぐんミラノ占領せんりょうしたものの、すぐにまちひがしゴートに奪回だっかいされて破壊はかいされている。

539ねんにユスティニアヌスがナルセスを召還しょうかんすると戦況せんきょうはローマがわ優勢ゆうせいかたむき、540ねんにベリサリウスはひがしゴートの首都しゅとラヴェンナせまった。そこでかれひがしゴートから西にしローマの帝位ていい提供ていきょうされ、同時どうじにユスティニアヌスから和平わへい交渉こうしょうのための使者ししゃ到着とうちゃくし、ユスティニアヌスはがわ以北いほくひがしゴートにのこすことをみとめていた。ベリサリウスは提供ていきょうけるかのようにいつわって540ねん5がつまちはいり、ラヴェンナが帝国ていこくりょうたるのをあらためて宣言せんげんした[36]。その、ユスティニアヌスの召還しょうかんによりベリサリウスはウィティギスと王妃おうひマタスンタ連行れんこうしてコンスタンティノポリスへ帰還きかんした。

サーサーンあさとの戦争せんそう(540ねん~562ねん[ソースを編集へんしゅう]

ベリサリウスはペルシャとの戦争せんそう再燃さいねんによりもどされていた。530年代ねんだいアルメニアにおける反乱はんらんつづき、おそらくはひがしゴートの使節しせつからの懇願こんがん刺激しげきさせられたホスロー1せいは「永久えいきゅう平和へいわ条約じょうやく」を破棄はきして、540ねんはるひがしローマりょう侵攻しんこうした[37]。ホスロー1せいはまずベロエアアンティオキア市内しない守備しゅびたい6000にん退去たいきょゆるしている)を略奪りゃくだつして[38] 、ダラを包囲ほういした。その小国しょうこくだが戦略せんりゃくてき要地ようちにある黒海こっかい衛星えいせいこくラジカへと、道中どうちゅうしょ都市としからみつぎ納金のうきんてながら、攻撃こうげきかった。かれはユスティニアヌスへかね5000ポンドにくわえて、毎年まいとしきん500ポンドのみつぎおさめ強要きょうようした[38]

ベリサリウスは541ねん東方とうほう到着とうちゃくし、いくつかの戦勝せんしょうおさめたが、542ねんにコンスタンティノポリスへふたた召還しょうかんされている。この撤退てったい理由りゆう不明ふめいだが、おそらくは将軍しょうぐん背信はいしん行為こういうわさ宮廷きゅうていとどいたためである[注釈ちゅうしゃく 9]

疫病えきびょう発生はっせいにより543ねんなか戦争せんそう小康しょうこう状態じょうたいになった。翌年よくねん、ホスロー1せいひがしローマぐん3まんにん撃破げきはしたが[39]主要しゅよう都市としエデッサ包囲ほういには失敗しっぱいした。りょうぐんとも優勢ゆうせいちえず、545ねんひがしローマとペルシャの南部なんぶ国境こっきょう地帯ちたい和平わへい締結ていけつされた。こののち北部ほくぶでのラジカ戦争せんそうすう年間ねんかんつづいていたが、557ねん和平わへいむすばれ、つづいて562ねん以後いご50年間ねんかんつづ和平わへい締結ていけつされた。講和こうわ条件じょうけんにより、ローマが毎年まいとしきん400から500ポンドを支払しはら見返みかえりにペルシャはラジカを放棄ほうきすることになった[40]

イタリア戦役せんえきだい段階だんかい(541ねん~554ねん[ソースを編集へんしゅう]

ラクタリウスさんたたかひがしゴートぞく壊滅かいめつした。

軍事ぐんじてき努力どりょく東方とうほう集中しゅうちゅうしているあいだにイタリアの情勢じょうせい悪化あっかしていた。イルディバルドおうエラリーコおう両人りょうにんとも541ねん殺害さつがい)そしてとりわけトーティラおうのもとでひがしゴートは急速きゅうそく領土りょうど拡大かくだいした。542ねんファエンツァのたたかでの勝利しょうりのちひがしゴートはみなみイタリアの主要しゅよう都市とし奪回だっかいし、すぐに半島はんとう大半たいはん確保かくほした。ベリサリウスは544ねん後半こうはんもどされたが、十分じゅうぶん兵力へいりょくたなかった。前進ぜんしんすることができず、かれ548ねん指揮しきけん交替こうたいさせられた。この期間きかんにローマは3ぬしえており、まず546ねんひがしゴートに占領せんりょうされ人口じんこう激減げきげんし、つぎ547ねんひがしローマがこれを奪回だっかいし、そして550ねん1がつひがしゴートがうばかえしている。また、トーティラおうはシチリアを略奪りゃくだつし、ギリシャ沿岸えんがん襲撃しゅうげきまでしている。

最終さいしゅうてきにユスティニアヌスはナルセスにへい35,000(うち2000にん西にしゴート王国おうこくのスペイン南部なんぶ分遣ぶんけんされている)をあたえて派遣はけんした[41]ひがしローマぐん552ねん6がつにラヴェンナにたっし、アペニン山脈さんみゃくブスタ・ガッローウムのたたか決定的けっていてき勝利しょうりおさめてトーティラを殺害さつがいした。ひがしゴートはテーイアをおういただいてなおも抵抗ていこうつづけたが、同年どうねん10がつおこなわれたラクタリウスさんたたかつい壊滅かいめつした。

554ねんにはフランクぞくだい規模きぼ侵攻しんこうウォルトゥルヌス撃退げきたいして帝国ていこくはイタリアを確保かくほしたものの、ナルセスはひがしゴート残党ざんとう完全かんぜん平定へいていになおすうねんようしている。戦争せんそう終結しゅうけつにイタリアには16,000にん兵士へいし駐留ちゅうりゅうしており[42]帝国ていこくはイタリア回復かいふくのためにかね30まんポンドの出費しゅっぴをしている[34]

その戦役せんえき[ソースを編集へんしゅう]

これら以外いがい征服せいふくでは、ひがしマ帝国まていこく西にしゴート王国おうこく簒奪さんだつしゃアタナギルド国王こくおうアギラ1せい反乱はんらんこすさい援助えんじょもとめたことにより、イベリア半島はんとう進出しんしゅつしている。552ねん、ユスティニアヌスは当時とうじ80さいだいになるろうしょうリベリウスかれは490年代ねんだい以降いこうひがしゴートおうつかえていた)にへい2,000をあたえて派遣はけんした。ひがしローマぐんカルタヘナ南東なんとう沿海えんかいしょ都市とし占領せんりょうし、同盟どうめいしゃしん国王こくおうになったアタナギルドに妨害ぼうがいされる以前いぜんあらたにスパニアぞくしゅうProvincia Spaniae)を設置せっちした。この戦役せんえきひがしマ帝国まていこく拡大かくだい絶頂ぜっちょうしめすものとなった。

ユスティニアヌスの治世ちせいでは、バルカン半島ばるかんはんとうドナウがわ以北いほくテュルクけいおよスラヴけいしょ民族みんぞくからの侵入しんにゅうをしばしばけていた。この地域ちいきではユスティニアヌスはおも外交がいこう手段しゅだん防御ぼうぎょシステムの構築こうちくたよっていた。559ねんザベルガネスハーンひきいられたスクラヴィニぞくクトリグルぞく侵入しんにゅうしてコンスタンティノポリスをおどかしたが、ベリサリウスによって撃退げきたいされている。

結果けっか[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌス1せい即位そくいあか527ねん)から崩御ほうぎょ(オレンジ:565ねん)までのひがしマ帝国まていこくりょう拡大かくだい

マ帝国まていこくのかつての栄光えいこう再建さいけんしようとするユスティニアヌス1せい大望たいぼう部分ぶぶんてき実現じつげんしただけだった。西方せいほうにおける530年代ねんだいかがやかしい軍事ぐんじてき成功せいこうのちながつづ沈滞ちんたいおちいっている。ゴートぞくとの長期ちょうきした戦争せんそうはイタリアに破滅はめつをもたらした(その長期ちょうきてき影響えいきょうはしばしばべられるほどにはきびしくはなかったが[43])。住民じゅうみんせられた重税じゅうぜいはひどくにくまれた。イタリアにおける最終さいしゅうてき勝利しょうり南部なんぶスペインの征服せいふくひがしマ帝国まていこく権力けんりょく影響えいきょうりょく発揮はっきする地域ちいきおおいに拡大かくだいし、そして帝国ていこく威信いしん寄与きよしたことも間違まちがいはないものの、征服せいふくのほとんどははかないものとなった。イタリアのだい部分ぶぶんはユスティニアヌスの崩御ほうぎょ565ねん)の3ねん568ねんランゴバルドぞく侵略しんりゃくによってうしなわれ、そしてつづく1世紀せいきうちにアフリカの半分はんぶんとスペインが帝国ていこくから永遠えいえんうしなわれている。

治世ちせい晩年ばんねんすう年間ねんかんにはコンスタンティノポリス自体じたい北方ほっぽうからの蛮族ばんぞく侵攻しんこうたいして安全あんぜんではないことがあきらかとなり、比較的ひかくてき好意こういてき歴史れきしメナンドロス・プロテクターでさえ老齢ろうれいによるからだ衰弱すいじゃくから首都しゅとまもることに皇帝こうてい失敗しっぱいしたと説明せつめいする必要ひつようかんじた[44]古代こだいマ帝国まていこく再興さいこうしようとするかれ努力どりょくにより、ユスティニアヌスは危険きけんなほどにひがしマ帝国まていこく領土りょうどひろげる一方いっぽうで、6世紀せいきのヨーロッパ世界せかい変化へんか勘案かんあんすることに失敗しっぱいしていたのである[45]逆説ぎゃくせつてきなことだが、おそらくユスティニアヌスの軍事ぐんじてき成功せいこうはその帝国ていこく衰退すいたい遠因えんいんとなったであろう[46]

宗教しゅうきょうじょう業績ぎょうせき[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌス1せい帝国ていこく正統せいとう宗教しゅうきょう分派ぶんぱとくシリアエジプトおおくの信者しんじゃたんせいろんおびやかされているとかんがえていた。たんせいろん教義きょうぎ451ねんカルケドンこう会議かいぎ異端いたんとして非難ひなんされており、皇帝こうていゼノンアナスタシウス1せいたんせいろんたいする寛容かんよう政策せいさくはローマ司教しきょうとの緊張きんちょう状態じょうたい原因げんいんとなっていた。ユスティニアヌスは態度たいどくつがえし、カルケドン教義きょうぎ確認かくにんしておおやけたんせいろん非難ひなんした。ユスティニアヌスはこの政策せいさくつづけつつも、臣民しんみんたちに教義きょうぎじょう妥協だきょうれさせて宗教しゅうきょうてき統一とういつけようとこころみたが、この政策せいさくだれ満足まんぞくさせられず失敗しっぱいわっている。皇后こうごうテオドラはたんせいろん同情どうじょうてきであり、初期しょきしんたんせいろんによる宮廷きゅうてい陰謀いんぼう源泉げんせんになったとされている。治世ちせい期間きかんちゅう神学しんがくしんから関心かんしんせるユスティニアヌスはいくつかの神学しんがく論文ろんぶんあらわしている[47]

宗教しゅうきょう政策せいさく[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌス1せいえがかれたフォリス銅貨どうか

世俗せぞく政治せいじ同様どうよう皇帝こうてい教会きょうかい政策せいさくでも専制せんせいられた。かれ宗教しゅうきょうほうすべてを統制とうせいした。

治世ちせいはじめから、かれ三位一体さんみいったい受肉ほうによってひろめることが適切てきせつであるとみなし、そしてすべての異端いたん適当てきとう処罰しょばつくわえることにより威嚇いかく[48]ゆえにそのかれ適法てきほう手続てつづによって正統せいとうてき信仰しんこうへのすべての妨害ぼうがいしゃから犯罪はんざい機会きかいうばうつもりであると宣言せんげんした[49]かれはニカイア・コンスタンチノポリス信条しんじょう教会きょうかい唯一ゆいいつ象徴しょうちょうとなし[50]、4教会きょうかい一致いっち促進そくしん運動うんどう会議かいぎにおける教会きょうかいほう法律ほうりつじょうちからあたえた[51]553ねんだい2コンスタンティノポリスこう会議かいぎ出席しゅっせきした主教しゅきょうたちは教会きょうかい皇帝こうてい意思いし命令めいれいはんして如何いかなることもなさないと同意どういした[52]コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうアンシモス1せい場合ばあいには皇帝こうてい一時いちじてき追放ついほう措置そちによって教会きょうかい禁制きんせいたすけている[53]。ユスティニアヌスは異端いたん弾圧だんあつすることによって教会きょうかい清浄せいじょうまもった。かれ修道院しゅうどういん制度せいど保護ほご拡張かくちょうするにさいして教会きょうかい聖職せいしょくしゃ権利けんり保証ほしょうする機会きかい放置ほうちしなかった。かれ修道しゅうどう一般いっぱん市民しみんから財産ざいさん相続そうぞくする権利けんり帝国ていこく国庫こっこあるいはある特定とくていしゅう税金ぜいきんからsolemniaあるいは毎年まいとし寄進きしん権利けんりあたえ、そしてかれ俗人ぞくじんへの修道院しゅうどういん財産ざいさん譲渡じょうと禁止きんしした。

かれ手法しゅほう専制せんせいてき特徴とくちょう近代きんだいてき感受性かんじゅせいはんするけれども、かれまさ教会きょうかいの「そだてのちち」だった。みことのりほう彙纂としんみことのりほうには教会きょうかい資産しさん寄進きしん創立そうりつ管理かんりについて、主教しゅきょう司祭しさいだい修道しゅうどう院長いんちょう選挙せんきょとその権利けんり修道院しゅうどういん生活せいかつ聖職せいしょくしゃ滞在たいざい義務ぎむ礼拝れいはい様式ようしき監督かんとくしゃ管轄かんかつけんなどにかんするおおくの法令ほうれいふくまれていた。ユスティニアヌスはニカのらん破壊はかいされたハギア・ソフィアだい聖堂せいどう再建さいけんおこない、その建設けんせつかね2まんポンドをようした[54]八角はっかくがた金箔きんぱくのドームとモザイクそなえた新築しんちくされたハギア・ソフィアだい聖堂せいどうはコンスタンティノポリスにおける東方とうほう正教会せいきょうかい中核ちゅうかくかつもっと明瞭めいりょう記念きねんとなった。

ローマとの宗教しゅうきょうてき関係かんけい[ソースを編集へんしゅう]

5世紀せいきはん以降いこうひがしローマ皇帝こうてい教会きょうかい問題もんだいでますます困難こんなん仕事しごと直面ちょくめんするようになっていた。ひとつには、あらゆる方面ほうめん急進きゅうしん主義しゅぎしゃたちがキリストの性質せいしつかんする聖書せいしょ教義きょうぎ擁護ようごし、分派ぶんぱあいだ教義きょうぎうえ相違そういをつなぐためのカルケドンこう会議かいぎ信条しんじょうによってつね拒絶きょぜつされているとかんじていた。コンスタンディヌーポリそう主教しゅきょうフラヴィアノスへのローマ教皇きょうこうレオ1せい教書きょうしょ東方とうほうでは悪魔あくま仕業しわざであるとかんがえられており、そのためだれもローマの教会きょうかいについてくことをのぞまなかった。しかしながら、皇帝こうていはコンスタンティノポリスとローマとの統一とういつ維持いじする政策せいさくっており、そしてこれはかれらがカルケドンでさだめられたせんゆがめないことによってのみ可能かのうであった。くわえて、カルケドンによって動揺どうよう不満ふまんいだくようになっていた東方とうほう諸派しょは抑制よくせいし、そしてしずめることを必要ひつようとしていた。この問題もんだいは、東方とうほう異議いぎとなえているはんカルケドンかずじょうでもそして知的ちてき能力のうりょくでもともにカルケドンっていたので、いっそうむずかしいとかった。両派りょうは目標もくひょう不一致ふいっちから緊張きんちょうしており、ローマと西方せいほう選択せんたくしたもの東方とうほう放棄ほうきしなくてはならず、そしてぎゃくもまた同様どうようであった。

ユスティニアヌス1せいのフルネームを表示ひょうじする執政しっせいかんしょばん(コンスタンティノポリス、521ねん

ユスティニアヌスは518ねんかれ叔父おじ即位そくいするとすぐに教会きょうかい国政こくせいじゅつ論争ろんそうはいり、483ねんからローマとひがしローマのあいだ普及ふきゅうしていたたんせいろん教会きょうかい分裂ぶんれつわらせた。至高しこう教会きょうかい権威けんいとしてローマ司教しきょうみとめることは[55]かれ西方せいほう政策せいさく基礎きそでありつづけた。東方とうほうおおくの人々ひとびとにとって、それは不愉快ふゆかいなことではあったが、それにもかかわらずユスティニアヌスはシルウェリウスウィギリウスのようなローマ教皇きょうこうたいして専制せんせいてきなスタンスをとるためにかれ自身じしん完全かんぜん自由じゆうであるとかんじられた。

教会きょうかい教義きょうぎじょう派閥はばつ妥協だきょうれさせることはできなかったが、かれ和解わかいのための誠実せいじつ努力どりょく教会きょうかい主要しゅよう組織そしきから賛同さんどうさせた。Theopaschite論争ろんそう(スキティした妥協だきょうあん公式こうしき[56])でのかれ態度たいどがその合図あいずだった。当初とうしょかれ文字もじじょうあらさがしになっているとする意見いけんだった。しかしながら、次第しだいにユスティニアヌスは問題もんだいとなっている信条しんじょう正統せいとうであるかにえただけでなく、たんせいろんたいする融和ゆうわてき手段しゅだんたりるかと理解りかいするようになり、そしてかれ533ねんにカルケドンたんせいろんとの宗教しゅうきょう会議かいぎおこな努力どりょくをしたが、無駄むだわった[56]

553ねん3月15にち宗教しゅうきょうみことのりれいふたたびユスティニアヌスは妥協だきょううご[57]教皇きょうこうヨハネス2せい帝国ていこく宗派しゅうは正統せいとう信仰しんこうであるとみとめたとかれみずか祝福しゅくふくしている[58]かれ最初さいしょたんせいろん主教しゅきょう修道しゅうどうきびしい迫害はくがいをしかけ、そしてそれによってひろ地域ちいき住民じゅうみん敵意てきいたせた深刻しんこくだい失敗しっぱいかれ最終さいしゅうてき矯正きょうせいした。かれ不変ふへん目標もくひょうたんせいろん味方みかたれ、それでもなおカルケドン信条しんじょう放棄ほうきしないことだった。宮廷きゅうていおおくの人々ひとびとたいして、かれ十分じゅうぶん成功せいこうしなかった。とく皇后こうごうテオドラはたんせいろん無制限むせいげんれられることをのぞんだであろう。

さんしょう問題もんだい非難ひなんだい2コンスタンティノポリスこう会議かいぎ参照さんしょう)でユスティニアヌスは東方とうほう西方せいほう満足まんぞくさせようとしたが、どちらも満足まんぞくさせられなかった。教皇きょうこう非難ひなん同意どういしたものの、西方せいほう人々ひとびと皇帝こうていがカルケドン布告ふこく相反あいはんするおこないをしたとしんじた。おおくの使節しせつ東方とうほうでユスティニアヌスに服従ふくじゅうしてあらわれたが、おおくのとくたんせい論者ろんしゃたちは不満ふまんなままだった。晩年ばんねんかれ神学しんがく問題もんだいにさらに献身けんしんしたために、さらくるしめられた。

異教徒いきょうと迫害はくがい[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌス1せいはコインの表面ひょうめん十字架じゅうじかをかざす姿すがたえがいた最初さいしょ皇帝こうてい一人ひとりである。

ユスティニアヌスの宗教しゅうきょう政策せいさく帝国ていこく統一とういつ宗教しゅうきょう統一とういつ完全かんぜん前提ぜんていしているという信念しんねん反映はんえいであり、そしてその信仰しんこうかれにとっては明確めいかくにオルトドクス(正教会せいきょうかい)のみであった。みことのりほう彙纂は私生活しせいかつでの祭儀さいぎふく多神教たしんきょう完全かんぜん禁止きんしめいじるふたつの法令ほうれいふくんでおり[59]、これらの条文じょうぶん熱心ねっしん実行じっこうされた。どう時代じだい史料しりょうヨハネス・マララステオファネスエフェソスのヨハネス)には上流じょうりゅう階級かいきゅう人々ひとびとへのものをふくきびしい迫害はくがいべられている。

529ねんアテネアカデメイアがユスティニアヌスの命令めいれいによって国家こっか管理かんりかれた。このヘレニズム教育きょういく機関きかん事実じじつじょう閉鎖へいさがおそらくもっと有名ゆうめい事件じけんであろう。多神教たしんきょう積極せっきょくてき弾圧だんあつされた。しょうアジアだけで7まんにん多神教たしんきょう改宗かいしゅうしたとエフェソスのヨハネスべている[60]ドンがわ流域りゅういき居住きょじゅうするヘルリぞく[61]フンぞく[62]カフカス[63]アブハジアぞく[64]タザニぞくといったおおくの人々ひとびとキリスト教きりすときょうれた。

リビア砂漠さばくアウギリアにおけるアメンしん崇拝すうはい廃止はいしされ[65]、そしておなじことがナイルがわだいいち瀑布ばくふフィラエとうでのイシスしん崇拝すうはい残滓ざんしでもこった[66]長老ちょうろうジュリアン[67]主教しゅきょうロンギヌス[68]ナバテア王国おうこくでの布教ふきょうおこない、そしてユスティニアヌスはエジプトから主教しゅきょうイエメン派遣はけんして同地どうちキリスト教きりすときょう強化きょうかつとめている[69]

ユダヤじんもまた市民しみんけん制限せいげんされ[70]、そして宗教しゅうきょうじょう恩恵おんけいおびやかされただけでなく[71]皇帝こうていシナゴーグ内部ないぶ事柄ことがらにも介入かいにゅう[72]一時いちじてきにだが礼拝れいはいさいヘブライもちいることをきんじた。反抗はんこうしゃ肉体にくたいてき処罰しょばつ追放ついほうそして財産ざいさん没収ぼっしゅうおどされた。ベリサリウスのヴァンダル戦役せんえき抵抗ていこうしたボリウムのユダヤじんたちはキリスト教きりすときょう受容じゅよういられ、シナゴーグは教会きょうかいになっている[65]

皇帝こうていキリスト教きりすときょうへの改宗かいしゅう抵抗ていこうして暴動ぼうどうかえサマリアじんなやまされていた。皇帝こうていきびしいみことのりれいかれらに対抗たいこうしたが、治世ちせい晩年ばんねんちかくなるまでサマリアでのキリスト教徒きりすときょうとへの攻撃こうげきふせぐことができなかった。マニ教徒きょうともまたきびしい迫害はくがいけ、追放ついほう処刑しょけいおこなわれた[73]コンスタンティノープルでは、すくなくないマニ教徒きょうときびしい宗教しゅうきょう裁判さいばんのち皇帝こうてい御前ごぜん火刑かけい水責みずぜなどの手段しゅだん処刑しょけいされている[74]

建築けんちく学問がくもん文学ぶんがくでの業績ぎょうせき[ソースを編集へんしゅう]

ハギア・ソフィアだい聖堂せいどう

ユスティニアヌス1せいすうおおくの建築けんちくおこなっており、歴史れきしプロコピオスはこの分野ぶんや業績ぎょうせき証人しょうにんである[75]。ユスティニアヌスの後援こうえんのもとで有名ゆうめいなユスティニアヌスとテオドラのモザイクをつラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂せいどう完成かんせいしている[12]かれによるもっと有名ゆうめい建築けんちくハギア・ソフィアだい聖堂せいどう[76]、これはニカのらん焼失しょうしつしたバシリカ様式ようしき教会きょうかいまったことなる設計せっけい壮麗そうれい再建さいけんしたものである。モザイクでたされた壮大そうだいなドームをつこのあらたなだい聖堂せいどうすう世紀せいきにわたり東方とうほうキリスト教徒きりすときょうと中心ちゅうしんでありつづけた。その首都しゅとではせい使徒しと教会きょうかい(5世紀せいきまつ時点じてんではみすぼらしい状態じょうたいだった)が同様どうよう再建さいけんされた[77]

装飾そうしょく事業じぎょう教会きょうかいかぎられず、コンスタンティノープルだい宮殿きゅうでん遺跡いせきからはユスティニアヌス時代じだいこう品質ひんしつのモザイクがつかっており、543ねんには軍装ぐんそうして騎乗きじょうするユスティニアヌスの銅像どうぞういただいた円柱えんちゅうがコンスタンティノポリスで製作せいさくされている[78]。コンスタンティノポリスやローマをのがれた貴族きぞくたち(アニキア・ユリアナなど)といったほか有力ゆうりょくなパトロンたちとの対抗心たいこうしんがユスティニアヌスに王朝おうちょう権威けんい強化きょうかしめ手段しゅだんとして首都しゅとでの建築けんちく活動かつどういさせたのであろう[79]

ユスティニアヌスは要塞ようさいぐん建設けんせつしてアフリカから東方とうほうまで帝国ていこく国境こっきょう強化きょうかし、また地下ちか貯水ちょすいそう(バシリカ・シスタン)を建設けんせつしてコンスタンティノポリスのみず供給きょうきゅう確保かくほした。戦略せんりゃくてき重要じゅうようまちのダラを洪水こうずい被害ひがいからふせぐために前進ぜんしんがたアーチダムを建設けんせつした。かれ治世ちせいにはサンガリウス大橋おおはしビテュニア建設けんせつされ、東方とうほうへの補給ほきゅう確保かくほしている。それ以上いじょうにユスティニアヌスは地震じしん戦争せんそう破壊はかいされたしょ都市とし再建さいけんし、またかれ出生しゅっしょうちかくにユスティニアナ・プリマ建設けんせつした。これはテッサロニカえてイリュリクムぞくしゅう政治せいじてき宗教しゅうきょうてき中心地ちゅうしんちたるを意図いとしていた。

ユスティニアヌスの治世ちせい一部いちぶかれのパトロンのもとで、ひがしマ帝国まていこく文化ぶんかプロコピオスアガティアスふく著名ちょめい歴史れきし黙祷もくとうしゃパウロ声楽せいがくロマヌスといった詩人しじんたちをみだした。一方いっぽうで、アテネのプラトン大学だいがくベイルート有名ゆうめいほう学校がっこう[80] などの重要じゅうよう機関きかんがこの時期じきうしなわれている。過去かこのローマの栄光えいこうへのユスティニアヌスの情熱じょうねつにもかかわらず、執政しっせいかん選挙せんきょ実施じっし541ねん以降いこう消滅しょうめつした[81]

経済けいざい行政ぎょうせい[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌス1せい前任ぜんにんしゃたちと同様どうよう帝国ていこく経済けいざいおも農業のうぎょう依存いぞんしていた。くわえて長距離ちょうきょり貿易ぼうえきにぎわい、きたブリテンとうコーンウォールたっし、ここではすずがローマの小麦こむぎ交換こうかんされていた[82]帝国ていこくないではアレクサンドリアからの船団せんだんがコンスタンティノポリスへ小麦こむぎ穀物こくもつ供給きょうきゅうし、ユスティニアヌスは交通こうつうをより効率こうりつてきにするためにテネドスとう保管ほかんとコンスタンティノポリスへの輸送ゆそうのための巨大きょだい穀倉こくそう建設けんせつした[83]。また、ユスティニアヌスはペルシャとの戦争せんそうのためにおおきな打撃だげきけた東方とうほう交易こうえきしん経路けいろさがそうとした。きぬ重要じゅうよう嗜好しこうひんひとつで、これは帝国ていこく輸入ゆにゅうされ、加工かこうされていた。きぬ産業さんぎょう保護ほごするために、ユスティニアヌスは541ねん国営こくえい工場こうじょう専売せんばいけんあたえている[84]。ペルシャの陸路りくろけるためにユスティニアヌスはアビシニアとの友好ゆうこう関係かんけい確立かくりつした。アビシニアはインド帝国ていこくとのきぬ中継ちゅうけい貿易ぼうえきのぞんでいたが、インドでペルシャの商人しょうにんとの競争きょうそうつことができなかった[85]。その550年代ねんだいはじめににん修道しゅうどう中央ちゅうおうアジアからかいこまゆぬすしてコンスタンティノープルへかえることに成功せいこう[86]きぬひがしマ帝国まていこく国内こくない産業さんぎょうとなった。

モザイクにえがかれた庶民しょみん日常にちじょう生活せいかつコンスタンティノープルだい宮殿きゅうでん。6世紀せいき前半ぜんはん

治世ちせい開始かいしにユスティニアヌスはアナスタシウス1せいユスティヌス1せいから2880まんソリドゥス(かね40まんポンド)の余剰よじょうきん相続そうぞくしていた[34]。ユスティニアヌスの治世ちせいでは地方ちほうにおける汚職おしょくへの対抗たいこうさくられ、徴税ちょうぜいはより効果こうかてきになった。おおきな行政ぎょうせいけんかくけん各州かくしゅう長官ちょうかんあたえられる一方いっぽうで、行政ぎょうせいかん(ウィカリウス)や教区きょうく権限けんげんのぞかれ、いくつかは廃止はいしもされた。行政ぎょうせい機構きこう簡素かんそ全般ぜんぱんてき傾向けいこうだった[87]。ピーター・ブラウンによれば徴税ちょうぜい専門せんもんはギリシャしょ都市とし市会しかい自治じちよわめることにより、地方ちほう生活せいかつ伝統でんとうてき構造こうぞう破壊はかいしている[88]。ユスティニアヌスのさい征服せいふく以前いぜん530ねん帝国ていこく歳入さいにゅうは500まんソリドゥスであったが、550ねんには600まんソリドゥスに増加ぞうかしていたと見積みつもられている[34]

ユスティニアヌスの治世ちせい期間きかん東方とうほう都市としむら繁栄はんえいしたが、アンティオキア526ねん528ねん地震じしん破壊はかいされ、そして540ねんにはペルシャによって略奪りゃくだつされ住民じゅうみん退去たいきょさせられている。ユスティニアヌスは以前いぜんよりややちいさい規模きぼにだがアンティオキアを再建さいけんした[89]

これらすべての処置しょちにもかかわらず、帝国ていこくは6世紀せいきあいだにいくつかのおおきなつまずきを経験けいけんしている。だいいちは541ねんから543ねん発生はっせいした疫病えきびょうで、帝国ていこく人口じんこう激減げきげんさせ、おそらく労働ろうどう力不足ちからぶそく賃金ちんぎん上昇じょうしょうこした[90]人的じんてき資源しげん不足ふそくは540年代ねんだい前半ぜんはん以降いこうひがしマ帝国まていこくぐんない蛮族ばんぞく大幅おおはば増加ぞうかをもたらした[91]長期ちょうきしたイタリア戦役せんえきたいペルシャ戦争せんそう帝国ていこく財源ざいげんへのおおきな負担ふたんとなり、ユスティニアヌスは国営こくえい郵便ゆうびん業務ぎょうむ軍事ぐんじてき重要じゅうよう東方とうほう経路けいろのみに制限せいげんして削減さくげんしたことで批判ひはんされている[92]

人物じんぶつ[ソースを編集へんしゅう]

プロコピオスによる伝記でんき[ソースを編集へんしゅう]

将軍しょうぐんベリサリウスの秘書官ひしょかんであったプロコピオスは、従軍じゅうぐん経験けいけんかしてしるした『戦史せんし』でペルシャやヴァンダル・ひがしゴートとのたたかいをしるし、そのなかでユスティニアヌスの征服せいふく活動かつどう賞賛しょうさんしている。また『建築けんちくについて』では、ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうをはじめとするユスティニアヌスの建築けんちく活動かつどうとなえている。

一方いっぽうでプロコピオスは『秘史ひし』といううらノートをのこした。そこにはユスティニアヌス・皇后こうごうテオドラ、ベリサリウス夫妻ふさいへの批判ひはんつらねられ、皇后こうごうになるまえのテオドラのスキャンダラスなおこないもこの『秘史ひし』にしるされていた(なお、『戦史せんし』については英語えいごばんがペンギン・ブックスのペーパーバックとして発行はっこうされている)。

プロコピオスによれば、ユスティニアヌスは中肉ちゅうにく中背ちゅうぜいまるがおつかれをらない健康けんこうてきおとこだったという。みずからの生活せいかつ質素しっそで、臣下しんかからは「ねむらない皇帝こうてい」とばれるほど日夜にちやつうじて精力せいりょくてき政務せいむはげんだ。性格せいかくいかりをけっしてかおさず、したしみやすくおだやかであったが、その一方いっぽうなんせんにんもの無実むじつ人々ひとびと殺害さつがい平然へいぜん命令めいれいすることのできる冷酷れいこくさをあわっていたという[93]

肖像しょうぞう[ソースを編集へんしゅう]

ハギア・ソフィアだい聖堂せいどうのモザイク

ユスティニアヌスの肖像しょうぞうでもっとも有名ゆうめいなのはイタリアのラヴェンナにあるサン・ヴィターレ聖堂せいどう内陣ないじんにあるモザイクである。ここには皇后こうごうテオドラの肖像しょうぞうえがかれている。

にコンスタンティノポリス(げんイスタンブール)のハギア・ソフィアだい聖堂せいどうにある10世紀せいきのモザイクがある。ここでは中央ちゅうおう聖母子せいぼしえがかれ、そのひだりにユスティニアヌスが聖母子せいぼしにハギア・ソフィアだい聖堂せいどうささげ、みぎコンスタンティヌス1せいコンスタンティノポリスまちささげるというかたちえがかれている。この図像ずぞうから、後世こうせいひがしマ帝国まていこくにおいてユスティニアヌスはコンスタンティヌス1せいなら偉大いだい存在そんざいとされていたことがうかがえる。

またコンスタンティノポリスにはユスティニアヌスの銅像どうぞうった円柱えんちゅうがあったとされているが、1453ねんオスマン帝国ていこくによってひがしマ帝国まていこく滅亡めつぼうしたさい破壊はかいされたため、現存げんそんしていない。

東京とうきょう中野なかの哲学てつがくどう公園こうえんにある「哲学てつがくにわ」にはローマほう大全たいぜん編纂へんさんしたことから「現存げんそんする法律ほうりつ主流しゅりゅうをつくった人物じんぶつ」としてユスティニアヌスのぞうかれている[94]

評価ひょうか[ソースを編集へんしゅう]

ユスティニアヌスは積極せっきょくてき外征がいせいによってマ帝国まていこく時代じだい旧領きゅうりょうおおくを奪還だっかんし、『ローマほう大全たいぜん』の編纂へんさんやハギア・ソフィアだい聖堂せいどう再建さいけんなど文化ぶんかてき功績こうせきのこした。だが、ユスティニアヌス本人ほんにんしんせいおもむくことはほとんどなく、実際じっさいにはベリサリウスのこうによるところおおきい。しかしユスティニアヌスはその功績こうせきむくいるどころか、むしろその才覚さいかく名声めいせい嫉妬しっとし、つね冷遇れいぐうするという姿勢しせいせた。またこうしただい事業じぎょうおおくは結果けっかとして国家こっか財政ざいせい破綻はたんまねいたほか、それをおぎなうための重税じゅうぜいによって経済けいざい疲弊ひへいし、相次あいつ戦乱せんらんでイタリアのしょ都市とし破壊はかいされ、国土こくど荒廃こうはいしてしまった。さらにこのような状況じょうきょう重税じゅうぜいしたために征服せいふく完全かんぜん疲弊ひへいした。このような統治とうちに、きゅう西にしマ帝国まていこくりょうマ帝国まていこく復活ふっかつのぞんでいた人々ひとびと幻滅げんめつ離反りはんしていった。

こうしたことからユスティニアヌスの死後しごひがしマ帝国まていこく急速きゅうそく衰退すいたいしてしまい、地中海ちちゅうかい世界せかい支配しはいするだい帝国ていこくから、ひがし南欧なんおうひがし地中海ちちゅうかい地域ちいき大国たいこくへの転換てんかん余儀よぎなくされた。マヌエル1せいコムネノスのようにユスティニアヌス以後いごにも大帝たいていこくとしての地位ちい復活ふっかつ目指めざした皇帝こうていもいたが、いずれもたされなかった。結局けっきょくユスティニアヌスの治世ちせいは、古代こだいローマの復興ふっこうもとめたかれ意向いこうとは裏腹うらはらに、古代こだいマ帝国まていこく終焉しゅうえんまね結果けっかになってしまい、その後継こうけいしゃたちに経済けいざい破綻はたんし、疲弊ひへいしきったくにわたすことになってしまった。ただし、一時いちじてきにであれ往時おうじマ帝国まていこく版図はんと回復かいふくしたこと、とく国号こくごう由来ゆらいである都市としローマを回復かいふくしたことは、そのひがしマ帝国まていこくつづけた「くにマ帝国まていこくである」とうイデオロギーの根拠こんきょとなり、その苦難くなん時代じだいむかえた帝国ていこく精神せいしんてきりどころとなった[95]

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ 一説いっせつにアナスタシウス(つまベリサリウスとそのつまアントニナのむすめヨアンニナという。[よう出典しゅってん]このせつただしければ、ヨアンニナは最初さいしょべつのアナスタシウス(異父いふあねテオドラの長男ちょうなん)と結婚けっこんしていたため再婚さいこんとなる)とヨハンネス(つまはアンティパトラとそのおっとむすめ)いう2人ふたり息子むすこがいたとされ、息子むすこたち父親ちちおや父兄ふけいヨハンネスで、異父いふ兄妹きょうだい結婚けっこんにより息子むすこたち誕生たんじょうしたともわれるが、そのあたりの実情じつじょう不明ふめいかく実在じつざいしたかは不明ふめい2人ふたり実在じつざいすればユスティニアヌス1せい皇后こうごうテオドラの嫡出ちゃくしゅつまごたちとなる。
  2. ^ 生年せいねん不明ふめい-573ねん以降いこうぼつ名前なまえられていない愛人あいじんとのあいだまれた庶子しょしわれているが、あくまで一説いっせつ異説いせつとして、ユスティニアヌス1せい従弟じゅうていゲルマヌス(ひがしゴート王国おうこく初代しょだい国王こくおうテオドリック孫娘まごむすめマタスンタ後妻ごさいむかえた)が前妻ぜんさいパッサラとのあいだもうけた次男じなんユスティニアヌスの名前なまえしょう息子むすこどう一人物いちじんぶつとも。この異説いせつ採用さいようする場合ばあい、テオドルスはユスティニアヌス1せい従弟じゅうていまごしたがえめいまご)となる。
  3. ^ 一説いっせつ異父いふいもうと名前なまえしょう。ユスティニアヌス1せいとヨハンネスの実母じつぼである皇后こうごうテオドラとのあいだまれた唯一ゆいいつ嫡子ちゃくし)とのあいだにアナスタシウス、ヨハンネスという2人ふたり息子むすこまれたともわれる[よう出典しゅってん]不明ふめい
  4. ^ おっとフラウィウス・アナスタシウス・パウルス・プロブス・サビニアヌス・ポンペイウス・アナスタシウスとのあいだ長男ちょうなんアナスタシウス、次男じなんヨハンネス、三男さんなんアタナシウスをもうけた。長男ちょうなんアナスタシウスとそのつまユリアナの子孫しそんすくなくとも8世紀せいきまで存続そんぞくしていることが確認かくにんできる。なお、長男ちょうなんアナスタシウスの最初さいしょつまはベリサリウスとそのつまアントニナのむすめヨアンニナである。
  5. ^ ギリシアでは、フラヴィオス・ペトロス・サッバティオス・ユスティニアノス(Φλάβιος Πέτρος Σαββάτιος Ἰουστινιανός, Phlābios Petros Sabbatios Ioustiniānos)となる。
  6. ^ 東方とうほう正教会せいきょうかいではユスティニアヌスはユリウスれき11月14にち現在げんざいグレゴリオれきでは11月27にち)にいわわれている。また、かれルーテル教会きょうかいミズーリ長老ちょうろうかいカナダ・ルーテル教会きょうかいでは聖者せいじゃれき11月14にちいわわれている。
  7. ^ この役職やくしょく名義めいぎじょうのものとみられる。ユスティニアヌスが軍務ぐんむ経験けいけんをした証拠しょうこはない[15]
  8. ^ ユスティニアヌス本人ほんにん戦場せんじょうたのはすで老境ろうきょうはいった559ねんたいフンぞく戦役せんえきときだけである。この冒険ぼうけんおも象徴しょうちょうてきなものであり、戦闘せんとうはなかったにもかかわらず皇帝こうてい首都しゅと凱旋がいせんしき挙行きょこうしている[28]
  9. ^ プロコピオスはこれについて『戦史せんし』と『秘史ひし』の双方そうほう言及げんきゅうしているが、まったくせい反対はんたい説明せつめいをしている。証言しょうげん簡単かんたんにMoorhead (1994), pp. 97-98で議論ぎろんしている。

出典しゅってん[ソースを編集へんしゅう]

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参考さんこう文献ぶんけん[ソースを編集へんしゅう]

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  • この記述きじゅつには著作ちょさくけん消滅しょうめつしたSchaff-Herzog Encyclopedia of Religion本文ほんぶんふくむ。

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外部がいぶリンク[ソースを編集へんしゅう]