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ゾエ (東ローマ女帝) - Wikipedia コンテンツにスキップ

ゾエ (ひがしローマ女帝にょてい)

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ゾエ
Ζωή
Zoë
ひがしローマ皇帝こうてい
在位ざいい 1042ねん - 1050ねん

出生しゅっしょう 978ねんころ
ひがしマ帝国まていこくコンスタンティノポリス
死去しきょ 1050ねん6がつ
ひがしマ帝国まていこくコンスタンティノポリス
配偶はいぐうしゃ ロマノス3せいアルギュロス
  ミカエル4せい
  コンスタンティノス9せいモノマコス
子女しじょ養子ようしミカエル5せい
王朝おうちょう マケドニア王朝おうちょう
父親ちちおや コンスタンティノス8せい
母親ははおや ヘレナ
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ゾエギリシアΖωή, Zoë, 978ねんごろ - 1050ねん6がつ)は、ひがしマ帝国まていこくマケドニア王朝おうちょう女帝にょてい在位ざいい1042ねん - 1050ねん)。コンスタンティノス8せい次女じじょで、いもうとテオドラはゾエととも女帝にょていくらいいた。ゾエはロマノス3せいアルギュロスミカエル4せいおよびコンスタンティノス9せいモノマコスの3にん結婚けっこんし、おっとらは皇帝こうていいた。たいそううつくしかったといわれている[1]

生涯しょうがい

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神聖しんせいローマ皇帝こうていオットー3せい婚約こんやくしていたとされるが、オットー3せいは1002ねん死去しきょした。1028ねんちちみかどによりロマノス3せいアルギュロス結婚けっこん、ロマノス3せい帝位ていいについたが、なくロマノス3せいは1034ねん死去しきょした。そのゾエはミカエル4せい結婚けっこんし、おっと帝位ていいにつけたが、1041ねんにミカエル4せい修道院しゅうどういん引退いんたい死去しきょした[1]。ミカエル4せいとそのおとうと有力ゆうりょく宦官かんがんヨハネス・オルファノトロフォスの親族しんぞくにあたるミカエル5せいがミカエル4せいとゾエの養子ようしとしてむかえられており、帝位ていい継承けいしょうした。しかしミカエル5せいはゾエをペトリオン女子じょし修道院しゅうどういん追放ついほう[2]権力けんりょくにぎろうとしたため、よく1042ねん首都しゅとコンスタンティノープルの群衆ぐんしゅう蜂起ほうきし、ミカエル5せいをつぶされ廃位はいいされ、ゾエがいもうとテオドラとの共同きょうどう統治とうちというかたち帝位ていいについた[1]。しかし同年どうねんのうちにテオドラは退位たいい、ゾエはコンスタンティノス9せいモノマコス結婚けっこんしておっと帝位ていいにつけた。ゾエは3結婚けっこんのいずれにおいても継承けいしょうしゃをもうけることができないまま、1050ねんおっとコンスタンティノス9せい先立さきだ死去しきょした。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c ヘリン、p. 258
  2. ^ ヘリン、p. 303

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 下津しもつ清太郎せいたろう へん世界せかい帝王ていおう系図けいずしゅう 増補ぞうほばん近藤こんどう出版しゅっぱんしゃ、1982ねん、p. 198
  • ジュディス・ヘリン 『ビザンツ おどろくべき中世ちゅうせい帝国ていこく白水しろみずしゃ、2010ねん