塹壕ざんごう

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塹壕ざんごうせんから転送てんそう
1916ねんソンムのたたかにおけるイギリスぐん塹壕ざんごうみぎ見張みはりの兵士へいし以外いがい休息きゅうそくっている。

塹壕ざんごう(ざんごう、ふつ: tranchée、えい: trenchどく: Graben)は、戦争せんそうにおいててき銃砲じゅうほうげきからまもるために陣地じんちまわりにあなまたはみぞである。

野戦やせんにおいては南北戦争なんぼくせんそうから本格ほんかくてき使用しようされはじめ、現代げんだいでも使用しようされている。日本にっぽん陸軍りくぐんではへいごう(さんぺいごう)とんだ。個人こじんようちいさなものはだこつぼ(タコツボ)、だこつぼごうフォックスホール英語えいご: foxhole)とばれる。

戦闘せんとう陣地じんち一種いっしゅ位置付いちづけられる。簡素かんそりのあなから、しがらみ有刺鉄線ゆうしてっせんるい土嚢どのう木材もくざいコンクリートなどで補強ほきょうされた野戦やせん築城ちくじょうまで、様々さまざま様式ようしき存在そんざいする。

歴史れきし[編集へんしゅう]

外敵がいてき侵入しんにゅうむずかしくするために、集落しゅうらく城砦じょうさい軍営ぐんえいなどにほりごうほりみずたたえたもの)をもうけることは古来こらいおこなわれてきた。日本にっぽんではかんほり集落しゅうらく遺構いこう各地かくち出土しゅつどしている。古代こだいローマでは野営やえいカストラ)の周囲しゅういほりることがあった。

本格ほんかくてき塹壕ざんごうせんは、627ねん中東ちゅうとうおこなわれたハンダクのたたか嚆矢こうしわれている。イスラム教いすらむきょう開祖かいそムハンマドは、メディナ侵攻しんこうするメッカ連合れんごうぐん騎兵きへい部隊ぶたい妨害ぼうがいするため、ペルシアじん技術ぎじゅつしゃサルマーン・アル=ファーリスィーめいじマディーナの周囲しゅうい塹壕ざんごう(ハンダク خندق Ḫandaq/Khandaq)をらせて、攻撃こうげきそなえた。当時とうじ中東ちゅうとうでは、騎兵きへいによる一騎打いっきう伝統でんとうてきたたかいであり、おさむしろせん概念がいねんがない連合れんごうぐん攻略こうりゃく手間取てまどった。連合れんごうぐんはメディナ周囲しゅうい砂漠さばく野営やえいつづけたことにより消耗しょうもうし、最終さいしゅうてき攻略こうりゃく断念だんねんされた。このためサルマーンは、アラブ諸国しょこく軍隊ぐんたい世界せかいはつ工兵こうへいとされている。なお、塹壕ざんごうるための金属きんぞくせいシャベル発明はつめいしたのもサルマーンで、世界せかいはつ塹壕ざんごうせんからシャベルは武器ぶきとしても使用しようされていた。サルマーンが使用しようしていたシャベルは現在げんざいでもエジプトにあるモスク(サルマーンのはかでもある)にせい遺物いぶつとして安置あんちされている。

このように、初期しょき塹壕ざんごう防御ぼうぎょがわおさむしろがわ進攻しんこうふせ目的もくてきられたが、火縄銃ひなわじゅうなどの火器かき普及ふきゅう以降いこうは、おさむしろがわ防御ぼうぎょがわからの射撃しゃげきけるために利用りようするなど、とも塹壕ざんごうるようになった。ヨーロッパにおいては、野戦やせんでも使つかわれるようになった。イタリア半島はんとうおこなわれたチェリニョーラのたたか1503ねん)では、塹壕ざんごうから射撃しゃげきしたスペインぐん火縄銃ひなわじゅうへいが、フランスぐん騎兵きへいスイス傭兵ようへいやり部隊ぶたい突撃とつげき勝利しょうりした。また、日本にっぽん戦国せんごく時代じだいにおける長篠ながしのたたか1575ねん)においても、織田おだ信長のぶなが徳川とくがわ家康いえやす連合れんごうぐんは、火縄銃ひなわじゅうへい隊列たいれつ前面ぜんめんに「いぬいほり(かわきぼり)」とばれるかく土居どいきずいたと『さんしゅう長篠ながしの合戦かっせん』にしるされており、名和なわゆみつよしは、有名ゆうめいうまぼうしがらみより武田たけだ勝頼かつよりぐん突撃とつげき阻止そしには効果こうかてきだったとの見解けんかいしめしている[1]大坂おおさかふゆじん屏風びょうぶにも真田さなだまるからの銃撃じゅうげきたいして塹壕ざんごうせん対抗たいこうする徳川とくがわかたえがかれている。

大砲たいほう発達はったつ築城ちくじょうじゅつ向上こうじょう巨大きょだい要塞ようさいまれ、それに対抗たいこうするおさむしろじゅつまれた。17世紀せいき後半こうはん代表だいひょうてきおさむしろじゅつつぎのようなものである。

  1. 要塞ようさいたいして複数ふくすう包囲ほういもうく。
  2. 内側うちがわ要塞ようさい城壁じょうへき平行へいこうごう平行へいこうごう)をる。
  3. これを起点きてんとして塹壕ざんごう交通こうつうごうはすごうとも)をりつつ要塞ようさい接近せっきんする。

塹壕ざんごう要塞ようさいからのたてしゃけるためにジグザグにことおおかった。ある程度ていど要塞ようさいちかづいたらだい2、だい3の平行へいこうごうり、ふたたはすごうって要塞ようさいへとにじり方法ほうほうがとられた。

中世ちゅうせいから近世きんせい[編集へんしゅう]

中世ちゅうせい発明はつめいされたじゅう改良かいりょうつづけ、近世きんせいには銃剣じゅうけん発明はつめいにより、歩兵ほへい武器ぶき小銃しょうじゅう統一とういつされた。その一方いっぽうで、刀剣とうけん銃剣じゅうけん利用りようしての白兵戦はくへいせんさかんにおこなわれていた。この当時とうじじゅうはまだライフリングがないマスケットじゅうであり、命中めいちゅう精度せいどひくかった[2]。また、ぜんそうしきのため装填そうてん時間じかんがかかり、歩兵ほへい同士どうしでのげきいでは決着けっちゃくけにくかった。近代きんだいにおいても、隊列たいれつんだ戦列せんれつ歩兵ほへいが「てき白目しろめえる」ような至近しきん距離きょりまでせることもなくそのまま行進こうしんし、一斉いっせい射撃しゃげきかわしたのち着剣ちゃっけん小銃しょうじゅう突撃とつげきし、決着けっちゃく白兵戦はくへいせんけられた。

このため、塹壕ざんごう限定げんていてきにしか使つかわれず、おさむしろせんにおいて防衛ぼうえいがわから一方いっぽうてきびせられる銃砲じゅうほうげきから、しゅがわまもとき以外いがいでは使つかわれなかった。

戦争せんそう近代きんだい塹壕ざんごうせん発生はっせい[編集へんしゅう]

戦争せんそう近代きんだいは、戦場せんじょうにおいて兵士へいし銃弾じゅうだんからかく必要ひつようせい増大ぞうだいさせた。すで19世紀せいき南北戦争なんぼくせんそうクリミア戦争せんそうでは、銃火じゅうか有効ゆうこう射程しゃてい大幅おおはばしたため、兵士へいし塹壕ざんごう掩蔽えんぺいごうかくれる必要ひつようせいせまられた[3]連続れんぞく射撃しゃげきでは視界しかいうばうほどのしろけむり黒色こくしょく火薬かやく[4]が、視界しかいさまたげず、ざん渣がすくなくじゅう腔内をよごしにくいうえ威力いりょくした無煙むえん火薬かやくってわられた[5]

さらにはこうそうじゅう普及ふきゅう[6]武器ぶき弾薬だんやく生産せいさんりょく補給ほきゅうりょく増強ぞうきょう、さらには火力かりょく密度みつどしたこと[7]命中めいちゅうりつたかライフルじゅう普及ふきゅうにより、遠距離えんきょりから狙撃そげきされるようになった[8]20世紀せいきにさしかかるころには、手動しゅどうしき連発れんぱつじゅう普及ふきゅう弾薬だんやく供給きょうきゅうりょくのさらなる増強ぞうきょうで、火力かりょく密度みつどがよりした。

ガリポリのたたかで、塹壕ざんごうなかから潜望鏡せんぼうきょう狙撃そげきじゅう操作そうさするオーストラリアぐん歩兵ほへいみぎはやはり潜望鏡せんぼうきょうった観測かんそくしゅ(1915ねん

だいいち世界せかい大戦たいせんにおいては、機関きかんじゅうだい規模きぼ運用うんようにより、歩兵ほへい騎兵きへいによる正面しょうめん突撃とつげき確実かくじつ撃退げきたいしうる火線かせん完成かんせいしたこと[注釈ちゅうしゃく 1]発達はったつした鉄道てつどうもうによる迅速じんそく増援ぞうえん補給ほきゅうおこなわれた[注釈ちゅうしゃく 2]ことによって、従来じゅうらい戦術せんじゅつ塹壕ざんごう地帯ちたい突破とっぱすることは困難こんなんになった。

しかも、てきぐん塹壕ざんごう迂回うかいされるのを阻止そしするために、拡張かくちょうつづけたフランスドイツりょうぐん塹壕ざんごうせん次々つぎつぎよこび、とく西部せいぶ戦線せんせんでは、きたイギリス海峡かいきょうからみなみ永世えいせい中立ちゅうりつこくであったスイス国境こっきょう地帯ちたいまでの長大ちょうだい塹壕ざんごう地帯ちたい形成けいせいされ(いわゆる「うみへの競争きょうそう」)、塹壕ざんごう地帯ちたい迂回うかいして進軍しんぐんすることは不可能ふかのうになった。

防御ぼうぎょ優位ゆうい戦況せんきょうは、前線ぜんせん膠着こうちゃくをもたらし、おたがいに塹壕ざんごうきずいて長期間ちょうきかんにわたりにらそう力戦りきせんとなった。この過程かてい戦争せんそう中心ちゅうしん従来じゅうらい会戦かいせんから、てき塹壕ざんごう制圧せいあつすること目指めざ塹壕ざんごうせんへとわっていた。これは戦争せんそう初期しょきドイツ陸軍りくぐん迅速じんそく機動きどうせんによりフランス攻略こうりゃくしようとした、初期しょきシュリーフェン・プラン失敗しっぱいした結果けっかである。幾度いくどもの攻防こうぼうで、すうせん-すうじゅうまんにん犠牲ぎせいげるも、双方そうほうとも塹壕ざんごう地帯ちたい突破とっぱしきれず、終戦しゅうせんまでのやく4年間ねんかんにわたり塹壕ざんごうせんつづいた。

塹壕ざんごうせんはじまると、塹壕ざんごう作業さぎょう歩兵ほへいもっと重要じゅうよう仕事しごとひとつとなった。だい世界せかい大戦たいせんころには「歩兵ほへい仕事しごとは8わり塹壕ざんごうり」とわれるまでになった。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

1914ねんイギリスぐん歩兵ほへい野戦やせん築城ちくじょう教範きょうはんによる塹壕ざんごう構築こうちく要領ようりょうごうふかさにはAの伏射ふくしゃよう、BおよびCの膝射しっしゃよう、Dの立射りっしゃようなに種類しゅるいかある

塹壕ざんごうこも歩兵ほへいにとっての脅威きょういは、てき歩兵ほへい突撃とつげき以上いじょうに、砲弾ほうだん手榴弾しゅりゅうだん炸裂さくれつしたさい飛散ひさんするたまへんいしである。これらの被害ひがい最小限さいしょうげんめるために、塹壕ざんごうをジグザグにったり、まれた手榴弾しゅりゅうだん処理しょりするためのあなみぞ塹壕ざんごうないもうけられたりした。なお、手榴弾しゅりゅうだん威力いりょくばくする破片はへんによる負傷ふしょうおもであり、すうじゅうセンチメートル-1メートル程度ていどあなとしめば、周囲しゅうい人間にんげん負傷ふしょうすることはいとされている。

前述ぜんじゅつのように、だいいち世界せかい大戦たいせん西部せいぶ戦線せんせんでは、りょうぐんともてき背後はいごまわまれないよう、両翼りょうよくけて塹壕ざんごうすすめてくうちに、スイス国境こっきょうからイギリス海峡かいきょうまでの広大こうだい塹壕ざんごう到達とうたつした。

塹壕ざんごう壁面へきめんは、砲撃ほうげきによる振動しんどうくずれないよう、ドイツぐんふかって鉄筋てっきんやコンクリート、煉瓦れんが補強ほきょうした一方いっぽう連合れんごうこくがわ木材もくざい補強ほきょうしただけで具合ぐあいあさく、しの部分ぶぶんおおどろだらけのままだった。また、地下水ちかすい対応たいおうするため、底部ていぶには排水はいすいようみぞられ、通路つうろめんには簀子すのこかれることもあった。このちがいには、りょうぐん配置はいち転換てんかん方針ほうしんちがいのほか、ドイツはにち戦争せんそうせんくん研究けんきゅうして、塹壕ざんごう強化きょうか重要じゅうようせい理解りかいしていたというせつもある。

それでも、降雨こううなどの増水ぞうすいには塹壕ざんごうにはしばしばみずまったため、兵士へいしたちは汚水おすいまみれのぬかるんだどろあしんだまま、いつめてるかわからない相手あいてつづけなければならなかった。あるイギリスへい手記しゅきでは、この様子ようす克明こくめいしるされている。

どろどろどろ…。ぼく毎日まいにちどろ塹壕ざんごうなかにいます…。塹壕ざんごうおもっていたのとはまったちがうところです。最悪さいあくてきあめです。なんにちも、なん週間しゅうかんも、れた粘土ねんどうえうずくまり、てき砲弾ほうだんなからすのはどんなものか想像そうぞうもつかないでしょう。あついブーツをいていますが、つめたいどろあしこおりかたまりのようです。なんほんかのゆびうごかなくなりました…。[9][よう出典しゅってん]

このような特殊とくしゅかつ不衛生ふえいせい環境かんきょうによる伝染でんせんびょうもとより、塹壕ざんごう口内こうないえん塹壕ざんごうあしおもあつ水虫みずむし凍傷とうしょうによって循環じゅんかんけい障害しょうがいこし、ひど場合ばあいあし切断せつだんした)などの特有とくゆう病気びょうき発生はっせいした。とく寒冷かんれいにおいてはその被害ひがい甚大じんだいなものとなり、戦後せんご復興ふっこうおおきなくらかげとした。また、塹壕ざんごうないにはネズミゴキブリ衛生えいせい害虫がいちゅう大量たいりょう発生はっせいし、これによる伝染でんせんびょう食糧しょくりょう食害しょくがい多発たはつした。

だいいち世界せかい大戦たいせんのドイツぐん塹壕ざんごうせん左上ひだりうえはイギリスぐん塹壕ざんごうせん。そのあいだ無人むじん地帯ちたい

大日本帝国だいにっぽんていこく陸軍りくぐん塹壕ざんごうには、立射りっしゃようほかに、膝射しっしゃよう伏射ふくしゃようなどがあった。形式けいしきじょう自然しぜんほり拡するもの、自然しぜん地上ちじょう土嚢どのうなどで掩体をもうけるもの、断崖だんがいその自然しぜん利用りようするものなどがあり、一般いっぱんてき利用りようされるほり拡式立射りっしゃよう塹壕ざんごうについてべれば、むね墻、ごうおよび墻から構成こうせいされていた。

ごう自然しぜんげ、むね墻および墻はごうほり拡したじょ構築こうちくされ、作業さぎょうにはしょうえんさじあるいはえんさじ使用しようし、土質どしつ堅固けんご場合ばあいあるいは樹木じゅもくかぶ岩石がんせきなどではしょう十字じゅうじくわ十字じゅうじくわまたは鶴嘴つるはし使用しようしていた。火線かせんのための射撃しゃげき設備せつびは、照準しょうじゅんだかひじうち斜面しゃめんいただき斜面しゃめんおよび踏垜の形状けいじょう能率のうりつてきけいはじめする必要ひつようがあった。照準しょうじゅんだか立射りっしゃのためには1m30cm、膝射しっしゃのためには80cm、伏射ふくしゃのためには25cmとされ、ひじ照準しょうじゅんときひじをもたせて銃身じゅうしん安定あんていさせ、そのうえ弾薬だんやくくもので、うちいただき下方かほう25cmにもうけ、はばは30cmとされていた。

うち斜面しゃめん、すなわちへいむね腹部ふくぶせっする斜面しゃめんは、射撃しゃげき容易よういにし、射手しゃしゅ掩護えんご良好りょうこうにするためになるべく急峻きゅうしゅんにするが、地形ちけい前方ぜんぽう降下こうかするときはむしろゆるやかにするのがよいとされており、いただき斜面しゃめんかたぶけ前地まえじ自由じゆう射撃しゃげきるように適宜てきぎめられていた。踏垜はせきであるためてき発見はっけんされやすいのでなるべくひくくし、表面ひょうめん偽装ぎそうで掩し、うちいただきからいただき斜面しゃめんおこりまではすくなくとも1mとするとされ、墻は塹壕ざんごう後方こうほうにおける弾丸だんがん爆発ばくはつ危害きがいから射手しゃしゅ掩護えんごするもので、てき発見はっけんされないようにむね墻よりひくくし、あつさは砲弾ほうだんたまおよび破片はへんたいしては40cm、小銃しょうじゅうたまたいしては1mとされた。

塹壕ざんごうには、ごうがいへの進出しんしゅつ便利べんりならしめるために足掛あしがかり、梯子はしごまたは階段かいだんもうけ、あるいはごうじょう通過つうか容易よういにするために、たんきょうされた。

塹壕ざんごう突破とっぱ戦術せんじゅつ[編集へんしゅう]

セダン近郊きんこう訓練くんれんおこなうドイツぐん突撃とつげきへい(1917ねん5がつ

だい規模きぼ塹壕ざんごうせん展開てんかいされたにち戦争せんそうでは、塹壕ざんごうひそてきへい殺傷さっしょうする手段しゅだんとして小型こがたばくだん塹壕ざんごう戦法せんぽうがとられ、とく日本にっぽんぐん多大ただい被害ひがいした。さらに遠距離えんきょり塹壕ざんごう砲弾ほうだんむために、にち双方そうほう迫撃はくげきほうつくられた。迫撃はくげきほう英語えいごで「トレンチ・モーター(trench mortar、『塹壕ざんごう臼砲きゅうほう』を意味いみする)」とぶようになったのは、これに由来ゆらいする。

じゅう機関きかんじゅうによる掃射そうしゃ発達はったつしただいいち世界せかい大戦たいせんでは、防御ぼうぎょがわ塹壕ざんごうをいかに突破とっぱするかという戦術せんじゅつりょうぐんともあたまなやませた。

砲撃ほうげき
だいいち世界せかい大戦たいせん戦死せんししゃもっとおおかったのは、塹壕ざんごうない砲撃ほうげきけたことによるものであった。しかし、次第しだい砲撃ほうげきをやりごすための退避たいひごう併設へいせつされるようになったため、不意打ふいうちのときのぞいて、砲撃ほうげきのみで殺傷さっしょうするのがむずかしくなっていった。そして、いざ攻撃こうげきがわ兵士へいし塹壕ざんごう攻撃こうげきするだんになると、あやましゃふせぐため準備じゅんび砲撃ほうげきめざるをえず、そのあいだ退避たいひごうかくれていた兵士へいし塹壕ざんごうもどってむかたれてしまう。それでも、大量たいりょう準備じゅんび砲撃ほうげき攻撃こうげき容易よういにしようというこころみがなされた。しかし、長時間ちょうじかん準備じゅんび砲撃ほうげきおこなうことは、準備じゅんび段階だんかいてき攻勢こうせいらせることとなり、奇襲きしゅう効果こうかうすれてしまい、ぎゃく奇襲きしゅう優先ゆうせんすれば十分じゅうぶん砲撃ほうげきができないというジレンマにおちいってしまう。結局けっきょく砲撃ほうげきだけでは塹壕ざんごう防御ぼうぎょ機能きのう十分じゅうぶん破壊はかいすることは困難こんなんだった。
歩兵ほへいによる突撃とつげき
歩兵ほへいによる突撃とつげき反復はんぷくしておこなえば、いつかは防御ぼうぎょがわだい一線いっせん塹壕ざんごう占領せんりょうできるものの、防御ぼうぎょがわ塹壕ざんごうじゅう三重みえのラインできずかれているのが通常つうじょうであり、悪戯いたずら兵力へいりょく消耗しょうもうさせることになりかねず、まただいいち塹壕ざんごうせんもと敵陣てきじんであるため、防御ぼうぎょがわ砲兵ほうへい照準しょうじゅん完璧かんぺきであり、攻撃こうげきがわがそのとどまっていれば砲撃ほうげき餌食えじきとなってしまう。また、このような犠牲ぎせいおおきな攻撃こうげきかえせば、将兵しょうへい損失そんしつだけでなく、士気しき低下ていか甚大じんだいなものとなる。事実じじつだいいち世界せかい大戦たいせんちゅうニヴェル攻勢こうせい失敗しっぱい以降いこうフランスぐんではだい規模きぼこういのち反乱はんらん続発ぞくはつした。
どくガス
どくガスは、だいいち大戦たいせんちゅうイーペルのたたかでドイツぐん西部せいぶ戦線せんせんにおいてはじめて使用しようした(イペリット)。使つかわれたどくガスは比重ひじゅう空気くうきよりおもいため、塹壕ざんごう地下ちかごうそこまり、歩兵ほへい被害ひがいあたえることができる。だが、初期しょきどくガスは呼吸こきゅう系統けいとう作用さようする塩素えんそけいガスであったことから、防御ぼうぎょがわ歩兵ほへい防毒ぼうどくマスク適切てきせつ着用ちゃくようすれば、さほど効果こうかをあげることはできなかった。そのため、皮膚ひふれただけで作用さようする糜爛びらんせいマスタードガスや、ガスマスク着用ちゃくようでもふせぐのがむずかしい催涙さいるいざいとの併用へいよう戦術せんじゅつなどが登場とうじょうした。しかし、これらのガスるいは、一度いちど散布さんぷするとコントロールすることは不可能ふかのうであり、進撃しんげきする自軍じぐん兵士へいしのみならず、風向かざむきによっては自陣じじんにまで被害ひがいおよぼすおそれがあったためかえって使つか勝手がってわるく、やがてだい規模きぼ使つかわれることはなくなった。
坑道こうどうせん
坑道こうどうせんは、防御ぼうぎょがわ塹壕ざんごう地下ちかにトンネルをすすみ、地下ちかばくだん爆発ばくはつさせて塹壕ざんごう破壊はかいするものである。イギリスぐんメシヌのたたか坑道こうどうせん実施じっしし、地下ちか仕掛しかけた600トンのばくだんで1まんにん以上いじょうのドイツへい殺傷さっしょうした。だが、このときのトンネルの掘削くっさくには2ねんはん作業さぎょう期間きかんようするなど、あまりにも時間じかんがかかりすぎるため、特殊とくしゅなケースをのぞけば実用じつようてきではない。
戦車せんしゃ
戦車せんしゃ元来がんらい歩兵ほへい突撃とつげき支援しえんする目的もくてき開発かいはつされ、ソンムのたたかでイギリスぐんはじめて使用しようした。戦車せんしゃは、装甲そうこうほどこされ、無限むげん軌道きどう装着そうちゃくしており、無人むじん地帯ちたいや、有刺鉄線ゆうしてっせんバリケード機関きかんじゅうたまをものともせず前進ぜんしんすることができた。しかし、防御ぼうぎょがわはばひろ対戦たいせんしゃごうもうけると、戦車せんしゃでも突破とっぱしきれず、塹壕ざんごう突破とっぱ決定的けっていてき手段しゅだんとはならなかった。また、対戦たいせんしゃじゅう野砲やほうにより戦車せんしゃ装甲そうこうやぶることが可能かのうであるため、砲兵ほうへい一部いちぶ対戦たいせんしゃ戦闘せんとう従事じゅうじさせることで撃破げきはすることは可能かのうであった。
空爆くうばく
当初とうしょ偵察ていさつ任務にんむおもだった航空機こうくうきも、膠着こうちゃくする塹壕ざんごうせんへの突破とっぱさくとして乗員じょういんによる塹壕ざんごうへの爆発ばくはつぶつ投下とうかこころみられるようになり、さらに大量たいりょうばくだん装備そうび投下とうかできるばくげき開発かいはつへとつながっていった。
浸透しんとう戦術せんじゅつ
浸透しんとう戦術せんじゅつは、ドイツぐんカポレットのたたか1918ねん春季しゅんき攻勢こうせい実施じっしした戦術せんじゅつである。なが塹壕ざんごうせんには、部分ぶぶんてき手薄てうす地点ちてん防御ぼうぎょじょう死角しかくがどこかにあり、分隊ぶんたい単位たんい編成へんせいされたけい装備そうび突撃とつげき部隊ぶたいStoßtrupp)が、現場げんば判断はんだんでそうした地点ちてんさがして突破とっぱし、防御ぼうぎょがわとの交戦こうせんけつつだいだいさんせん塹壕ざんごう突破とっぱする。複数ふくすう地点ちてん同時どうじにこの攻撃こうげき実施じっしすることで防御ぼうぎょがわ混乱こんらんさせ、そのあいだ司令しれい砲兵ほうへい陣地じんちく。指揮しき系統けいとうとの連絡れんらく砲兵ほうへい支援しえんうしなった防御ぼうぎょがわ前線ぜんせん部隊ぶたい無力むりょくされることになる。ドイツぐん浸透しんとう戦術せんじゅつ採用さいようしてカポレットのたたかいに圧勝あっしょうし、西部せいぶ戦線せんせんでも前進ぜんしん成功せいこうした。だが突撃とつげき歩兵ほへいはあくまでけい歩兵ほへいであり、かぎられた装備そうび補給ほきゅうしかたないので、防御ぼうぎょがわ十分じゅうぶん予備よび兵力へいりょくち、迅速じんそく戦線せんせんあなふさぐと、それ以上いじょう突破とっぱつづけることは困難こんなんであった。
電撃でんげきせん
だいいち世界せかい大戦たいせんやぶれたドイツぐんは、だい世界せかい大戦たいせんでは戦車せんしゃ集中しゅうちゅう使用しようによる電撃でんげきせん創始そうしした。まず歩兵ほへい部隊ぶたい浸透しんとう戦術せんじゅつをもって防御ぼうぎょがわ戦線せんせんあなけ、防御ぼうぎょがわ予備よび兵力へいりょくがこれをふさまえ戦車せんしゃ部隊ぶたいあなから突出とっしゅつし、一挙いっきょてき背後はいごまわむ。1939ねんポーランドせん厳密げんみつには電撃でんげきせんではなく殲滅せんめつせん理論りろんもとづいたものである)や1940ねんフランスせんでは、ドイツぐん電撃でんげきせんにより連合れんごうぐんをわずかすう週間しゅうかん崩壊ほうかいさせた。しかしそのも、1943ねん以降いこうイタリア戦線せんせんや、大戦たいせん朝鮮ちょうせん戦争せんそうなど、戦車せんしゃ集中しゅうちゅう運用うんよう困難こんなん山岳さんがく地帯ちたい戦場せんじょうとなった場合ばあいは、つづ塹壕ざんごうせん展開てんかいされた。

現代げんだい歩兵ほへい塹壕ざんごう[編集へんしゅう]

バフムートのたたかなか塹壕ざんごうにいるウクライナぐん兵士へいし。2022ねん2がつ以来いらいロシアのウクライナ侵攻しんこうではすうじゅうまんにん死亡しぼうしている。

現代げんだいせんでも、歩兵ほへい拠点きょてん制圧せいあつ防衛ぼうえいかせない兵科へいかとして運用うんようされている。拠点きょてん精密せいみつ攻撃こうげきする兵器へいき登場とうじょうにより、格好かっこう標的ひょうてきとされやすい要塞ようさいトーチカは、歩兵ほへい防御ぼうぎょ戦闘せんとうではかつてにくら意義いぎおおきくげんじている。ぎゃくにそうした兵器へいきは、広範囲こうはんい分散ぶんさんして塹壕ざんごうひそ歩兵ほへい部隊ぶたいおおきな損害そんがいあたがたいとされる。

BTM-3

戦車せんしゃみのおやでもある英国えいこくチャーチル開発かいはつさせた、130トンにもたっする巨体きょたい鈍重どんじゅう塹壕ざんごう掘削くっさくカルチベーター No.6は、恐竜きょうりゅうてき時代遅じだいおくれの存在そんざいとみなされ実戦じっせん運用うんようされることはかったが、大戦たいせん以後いご長足ちょうそく発展はってん普及ふきゅうげた土木どぼく重機じゅうき技術ぎじゅつ、あるいはそのものを応用おうよう陸上りくじょう自衛隊じえいたい掩体掘削くっさくなど)することで、機械きかい部隊ぶたい来寇らいこうにも対応たいおうしうるはやさで塹壕ざんごう掩体ごうふく陣地じんちとう構築こうちく可能かのうになり、各国かっこく工兵こうへいはこれらのじゅう機械きかいひろ装備そうびするようになった。なかにはあらためて塹壕ざんごう掘削くっさく専用せんよう機材きざいも、1970年代ねんだいソ連それんBTM-3などが開発かいはつされ、2020年代ねんだい現在げんざいのロシアぐんでも保有ほゆう運用うんようつづけられている。

かく爆発ばくはつですら、防護ぼうごふくつつんで広範囲こうはんい塹壕ざんごうらばる歩兵ほへいを、完全かんぜん一掃いっそうするにはいたらない。そもそも、分散ぶんさんした歩兵ほへい大隊だいたいたおすのに、戦術せんじゅつ核兵器かくへいきいくつも使用しようすることは、費用ひようたい効果こうかめん非常ひじょう無駄むだおおく、かり制圧せいあつできたとしても、使用しよう放射能ほうしゃのう汚染おせんのこすため、その地点ちてん使用しよう不可能ふかのうとなる。また、核兵器かくへいき実戦じっせん使用しようすれば、国際こくさい社会しゃかいからはげしい非難ひなんけることはまぬかれず、戦争せんそう継続けいぞくする大義たいぎうしなわれてしまう。

その一方いっぽうで、こう威力いりょく放射能ほうしゃのう汚染おせんく、戦術せんじゅつかく比較ひかくしても安価あんか燃料ねんりょう気化きかばくだん登場とうじょうは、次第しだいにこれら塹壕ざんごう存在そんざい意義いぎおどかしつつある。このばくだんは、広範囲こうはんい大幅おおはば気圧きあつ変化へんかともな衝撃波しょうげきは発生はっせいさせ、塹壕ざんごうない兵士へいし圧死あっしさせてしまう。近距離きんきょりでは莫大ばくだい熱量ねつりょう瞬間しゅんかんてき発生はっせいさせるため、これによる被害ひがいおおきいとされる。

なお1990年代ねんだい湾岸わんがん戦争せんそうにおいて、援護えんごされたドーザーブレード装着そうちゃくした戦車せんしゃにより、イラクぐん塹壕ざんごうをそのままててしまう作戦さくせんおこなわれた[よう出典しゅってん]。この作戦さくせん塹壕ざんごうせんにおけるあたらしい脅威きょういともえるが、おくれたイラクへい一部いちぶめとなったという報告ほうこくがあることから、人道じんどううえにおいてきらわれる「戦争せんそう行為こうい逸脱いつだつした残虐ざんぎゃく殺害さつがい」にたるのではないか、とアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく議論ぎろんとなった。

2022ねんロシアのウクライナ侵攻しんこうにおいては、ロシアぐん・ウクライナぐんともに塹壕ざんごう活用かつようして戦闘せんとうおこなっていると報道ほうどうされている。またウクライナぐん反転はんてん攻勢こうせいによりロシアぐんがウクライナならではのしょう麦畑むぎばたけ用水路ようすいろ即席そくせき塹壕ざんごうとして代用だいようするケースもあると(ウクライナぐん発表はっぴょう[よう出典しゅってん]

塹壕ざんごうせんえがいた作品さくひん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 機関きかんじゅうきわめて効果こうかてきだが絶対ぜったいではなく、状況じょうきょう次第しだい塹壕ざんごう突破とっぱれい可能かのうだった。しかし、つぎ陣地じんちたい攻略こうりゃくするまえ守備しゅびがわ増援ぞうえん奪還だっかんおこなわれ、戦況せんきょう一変いっぺんさせるような決定的けっていてき突破とっぱにはむすびつくことはなかなかできなかった。
  2. ^ 欧州おうしゅうでは鉄道てつどうもう発達はったつしており、おおいに利用りようされた。ひろしふつ戦争せんそうプロイセン勝利しょうり要因よういんかぞえられたことから各国かっこくとも熱心ねっしん研究けんきゅうし、活用かつようしていた。だいいち世界せかい大戦たいせんでは限定げんていてきながら内燃ないねん機関きかん利用りようした自動車じどうしゃ兵士へいし物資ぶっし輸送ゆそう利用りようされた。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 名和なわゆみつよし長篠ながしの設楽したらげん合戦かっせん真実しんじつだい2しょううまぼうしがらみ神話しんわ崩壊ほうかい」、雄山閣ゆうざんかく平成へいせい10ねん(1988ねん刊行かんこう
  2. ^ 普通ふつうのマスケットじゅうで200ヤード(180m)はなれたてきねらっても、つき命中めいちゅうさせようとするようなものだ」
    (1814ねんハンガー大佐たいさ原典げんてんhughes,firepower26ページ。邦訳ほうやくれい道具どうぐ人類じんるい』183ページ)
  3. ^ ほどこせじょうした銃砲じゅうほう圧倒的あっとうてき破壊はかいりょく発揮はっきし、兵士へいしたちは塹壕ざんごう地下ちか掩蔽えんぺいごう避難ひなんすることを余儀よぎなくされた。伝統でんとうてき白兵はくへい突撃とつげきおおくの犠牲ぎせいすようになり、戦場せんじょう目立めだ騎兵きへい地形ちけいかくれやすい歩兵ほへいより射撃しゃげき脆弱ぜいじゃくであり、衰退すいたいはじめた。」『道具どうぐ人類じんるい』190Pより引用いんよう
  4. ^ 黒色こくしょく火薬かやくけむりおおる。連続れんぞく射撃しゃげきをするとけむりまええなくなる」『「鉄砲てっぽうって100』(かのよしのりちょ)175Pより引用いんよう。「実際じっさい戦場せんじょう黒色こくしょく火薬かやく発射はっしゃによるものすごいしろけむりで、ほとんどなにえない状態じょうたいだったおもわれる」『日本にっぽん甲冑かっちゅうふみ[下巻げかん]』(中西なかにしたてふとしちょ)」71Pより引用いんよう
  5. ^ 『ピストルとじゅう図鑑ずかん』(ちょ小橋こはし良夫よしお 関野せきの邦夫くにお池田いけだ書店しょてん)P.179
  6. ^ 19世紀せいき後半こうはんには、小銃しょうじゅう大砲たいほう弾薬だんやく後部こうぶから装填そうてんするのちそうしき主流しゅりゅうになり、操作そうさ容易よういになるとともに発射はっしゃ速度そくど大幅おおはば増加ぞうかした。」『道具どうぐ人類じんるい』189Pより引用いんよう
  7. ^ 武器ぶき改良かいりょう歴史れきし産業さんぎょう革命かくめいしょうする現象げんしょう一部いちぶであり、産業さんぎょう革命かくめい全体ぜんたい関連付かんれんづけて考察こうさつしなければならない。(中略ちゅうりゃく大量たいりょう弾薬だんやく戦場せんじょうはこぶことを可能かのうにした。あらたに開発かいはつされた鉄鋼てっこうるい精密せいみつ工作こうさく機械きかい出現しゅつげん互換ごかんせいのあるパーツの大量たいりょう生産せいさんは、兵器へいきのデザインや生産せいさん様式ようしき使用しよう方法ほうほう革命かくめいてき変化へんかをもたらした」『道具どうぐ人類じんるい』189Pより引用いんよう
  8. ^ 銃身じゅうしん砲身ほうしんに腔線をきざむことで(中略ちゅうりゃく命中めいちゅう精度せいどたかまった」『道具どうぐ人類じんるい』189Pより引用いんよう
  9. ^ NHKスペシャル映像えいぞう世紀せいきだい2しゅう大量たいりょう殺戮さつりく完成かんせい」(1995ねん4がつ15にち放送ほうそう日本にっぽん放送ほうそう協会きょうかい)において引用いんようされたもの。テロップでは「イギリス兵士へいし手紙てがみより」と表記ひょうきされているが、原典げんてんについては不明ふめい

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]