サルマーン・アル=ファーリスィー

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サルマーン・アル=ファーリスィーアラビア: سلمان الفارسيSalmān al-Fārisī、? - 656ねん)あるいはサルマーン・アル=ムハンマディーアラビア: سلمان المحمديSalmān al-Muḥammadī)は、イスラム教いすらむきょう開祖かいそムハンマドきょうともサハーバ)の一人ひとりで、土木どぼく技術ぎじゅつしゃ

ファーリスィーはペルシアじん、ペルシア出身しゅっしん意味いみである。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ペルシアカーゼルーンファールスしゅう)もしくはイスファハン近郊きんこう出身しゅっしんとされる。土地とち有力ゆうりょくしゃであるゾロアスターきょういえまれ、キリスト教きりすときょうおしえにかれてシリアかったがアラブじん一部いちぶぞくだまされてマディーナユダヤじん奴隷どれいとしてばされる。マディーナに移住いじゅうヒジュラ)したムハンマドと出会であおしえに帰依きえし、ムハンマドが身受みうきん肩代かたがわりして解放かいほうされた。

627ねんハンダクのたたか塹壕ざんごうたたかい)ではサルマーンの提案ていあん塹壕ざんごうって防衛ぼうえい成功せいこうし、これが戦史せんしじょう世界せかい最初さいしょ塹壕ざんごうせんとされる。このためサルマーンはアラブ諸国しょこく軍隊ぐんたいでは世界せかいはつ工兵こうへいとされている。また、塹壕ざんごうるための金属きんぞくせいシャベル発明はつめいしたのもサルマーンで、本人ほんにん使用しようしていたシャベルは現在げんざいでもエジプトにあるサルマーンのモスクせい遺物いぶつとして安置あんちされている。

サルマーンはムハンマドから身内みうちあつかいされたといわれ、正統せいとうカリフ時代じだいにはアリーしていた。

シーア一派いっぱとされるアラウィーでは、アリーとムハンマドにいで崇敬すうけいされる。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2007ねん