カリガリ博士はかせ

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カリガリ博士はかせ
Das Cabinet des Dr. Caligari.
アメリカでの公開こうかいのポスター
監督かんとく ローベルト・ヴィーネ
脚本きゃくほん ハンス・ヤノヴィッツ
カール・マイヤー
製作せいさく エリッヒ・ポマー
出演しゅつえんしゃ ヴェルナー・クラウス
撮影さつえい ウィリー・ハマイスター
公開こうかい ドイツ国の旗 1920ねん2がつ
日本の旗 1921ねん5がつ
上映じょうえい時間じかん 71ふん
製作せいさくこく ドイツの旗 ドイツこく
言語げんご ドイツ
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カリガリ博士はかせ』(原題げんだいDas Cabinet des Doktor Caligari)は、1919ねん制作せいさくされ、1920ねん公開こうかいされた、ロベルト・ヴィーネ監督かんとくによる、革新かくしんてきドイツサイレント映画えいがである。ほん作品さくひんは、一連いちれんドイツ表現ひょうげん主義しゅぎ映画えいがなかでももっとふるく、もっと影響えいきょうりょくがあり、なおかつ、芸術げいじゅつてき評価ひょうかたか作品さくひんである。

フィルム白黒しろくろフィルムが使用しようされているが、場面ばめんおうじてみどり茶色ちゃいろなどが着色ちゃくしょくされている。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ほんさくは、精神せいしん異常いじょうをきたした医者いしゃ・カリガリ博士はかせと、その忠実ちゅうじつ下僕げぼくである夢遊病むゆうびょう患者かんじゃ・チェザーレ、およびその二人ふたりこした、ドイツ山間さんかん架空かくうむらでの連続れんぞく殺人さつじんについての物語ものがたりである。ほんさくは、登場とうじょう人物じんぶつ一人ひとりであるフランシスの回想かいそうじくにストーリーが展開てんかいする。初期しょき映画えいがでは直線ちょくせんてきなストーリー進行しんこう大半たいはんめたが、ほん作品さくひんは、そのなかでも複雑ふくざつ話法わほう採用さいようされたいちれいでもある。

ストーリー[編集へんしゅう]

冒頭ぼうとう、フランシスがとなりおとこ会話かいわわしている様子ようすと、そのよこ茫然ぼうぜん自失じしつのようであてどもなくあるく、うつくしくわか女性じょせいえがかれる。フランシスはその女性じょせい自分じぶんのフィアンセであること、そして二人ふたり体験たいけんしたにも奇妙きみょう体験たいけんれのおとこかたはじめ、これより回想かいそうシーンがつづく。

フランシスは、友人ゆうじんのアランと、むらにやってたカーニバルをかけた。かれらはカリガリ博士はかせという人物じんぶつと、博士はかせ見世物みせものであるねむおとこチェザーレの似顔絵にがおえをとめた。博士はかせは、チェザーレが23年間ねんかんばこ(cabinet)のなかねむつづけていること、また、かれたずねられればどんな質問しつもんにもこたえられると口上こうじょうし、きゃくんでいた。二人ふたり博士はかせ小屋こやはいり、見世物みせものはじまった。はこからてきたチェザーレに、アランが悪戯いたずらしんで「自分じぶんはあとどれくらいきられるのか?」とたずねたところ、チェザーレのこたえは「ながくはない、明日あした夜明よあけまで。」だった。翌朝よくあさフランシスは、村人むらびとからアランが何者なにものかにころされたことをらされた。そのほかにもむらでは、以前いぜんいちにん役場やくば職員しょくいんころされており、この職員しょくいんはカリガリ博士はかせ役場やくばおとずれたときに博士はかせ邪険じゃけんあつかった人物じんぶつでもあった。

疑念ぎねんいたフランシスは、かれおもいをせるジェーンとその父親ちちおやのオルセン博士はかせともに、カリガリ博士はかせとチェザーレの身辺しんぺん調査ちょうさはじめた。危険きけん察知さっちした博士はかせは、チェザーレにジェーンを殺害さつがいすることをめいじ、同時どうじ周囲しゅういあざむくためにチェザーレのだま人形にんぎょう用意よういした。チェザーレはジェーンの部屋へや侵入しんにゅうしナイフをふりかざすが、ジェーンの美貌びぼうしんうばわれる。ねむおとこころすのをためらったままジェーンをいだきかかえ、彼女かのじょいえからるが、その村人むらびとたちがっていた。追跡ついせきのさなか、チェザーレは心臓しんぞう発作ほっさによりいのちとしてしまう。

一方いっぽう、フランシスは警官けいかんたちとともにカリガリ博士はかせ見世物みせもの小屋こやたずね、チェザーレとの面会めんかい強要きょうようした。しかし、ねむおとこねむっているはずのはこなかにあったのは、博士はかせ用意よういしていただま人形にんぎょうだった。逃亡とうぼうした博士はかせむらなか精神せいしん病院びょういんんだ。フランシスがその病院びょういんで「カリガリという患者かんじゃ」の所在しょざいたずねたところ、病院びょういん職員しょくいん案内あんないされたのは、院長いんちょうしつだった。そのなかにいたのは、まぎれもないカリガリ博士はかせであった。

フランシスは、博士はかせ別宅べったくているのを見計みはからい、病院びょういん職員しょくいんたちのたすけをりて、深夜しんや院長いんちょうしつ侵入しんにゅうする。部屋へやなか探索たんさくしたフランシスたちは、夢遊病むゆうびょうしゃ使つかった殺人さつじんおかした見世物みせものについてえがかれたふるほん発見はっけんした。その見世物みせもの名前なまえはカリガリ。驚愕きょうがくしたいちぎょうはさらにカリガリ博士はかせ日記にっき発見はっけんし、博士はかせほん記述きじゅつ再現さいげんすることにしんうばわれていることをった。翌日よくじつ病院びょういんはこまれたチェザーレの死体したい対面たいめんしたカリガリ博士はかせは、かなしみのあまりみだす。博士はかせはその病院びょういん職員しょくいんたちにさえられ、拘束こうそくころもせられて独房どくぼう収容しゅうようされる。

このようにかたられてきたフランシスの回想かいそうじつかれ妄想もうそうで、現実げんじつにはフランシスは精神せいしん病院びょういん患者かんじゃであり、ジェーンやチェザーレもまた患者かんじゃであることがあきらかにされる。フランシスは精神せいしん病院びょういん院長いんちょうをカリガリ博士はかせだとってつかみかかるが、さえられ拘束こうそくころもせられ収容しゅうようされる。院長いんちょうはついにフランシスの妄想もうそう理解りかいできたので治療ちりょう方法ほうほう判明はんめいしたと宣言せんげんする。

キャスト[編集へんしゅう]

ほん作品さくひん制作せいさく上映じょうえい[編集へんしゅう]

プロデューサーのエリッヒ・ポマーは、当初とうしょフリッツ・ラング監督かんとく要請ようせいしたが、ラングがすでに作品さくひんかかわっており時間じかんれなかったため、ヴィーネにほん作品さくひん監督かんとくたくした。

当初とうしょ脚本きゃくほんのハンス・ヤノヴィッツ、カール・マイヤーがえがいていた脚本きゃくほんでは、犯罪はんざい描写びょうしゃは、もっと過激かげき猟奇りょうきしょくつよもので、結末けつまつは、カリガリ博士はかせねむおとこチェザーレが、一連いちれん殺人さつじん事件じけん関与かんよしていたことが明確めいかくになり、博士はかせ断罪だんざいされるかたちわるものだったという。ヤノヴィッツとマイヤーは、本来ほんらい脚本きゃくほんはもっと社会しゃかいせいつよものであったが、プロデューサーの不当ふとうあつりょくにより改作かいさくされ、完全かんぜん骨抜ほねぬきにされてしまった、もと脚本きゃくほんどおりにつくられていればもっといい作品さくひんになったはずだ、とのち主張しゅちょうしている。脚本きゃくほん改稿かいこうおこなったのは、フリッツ・ラングだが(クレジットはされていない)、ラングは、ヤノヴィッツとマイヤーの主張しゅちょうたいして、もと脚本きゃくほんは、素人しろうとっぽさが目立めだつ、政治せいじてき主張しゅちょう前面ぜんめん青臭あおくさもので、さん面白おもしろいアイデアはあったが、そのまま使つかえるような水準すいじゅんものではなかったと反論はんろんしている。また、改稿かいこうは、プロデューサーの圧力あつりょくによるものではなく、自分じぶん判断はんだんおこなったともかたっている。

セットの制作せいさくたずさわった人々ひとびとは、ドイツ表現ひょうげん主義しゅぎ画家がかたちであった。その一人ひとりアルフレート・クビーン英語えいご: Alfred Kubin は、幻覚げんかく悪夢あくむをテーマとした白黒しろくろどう版画はんが作品さくひん制作せいさくしていた、シュルレアリスムにも影響えいきょうあたえた。また、セットのデザインのだい部分ぶぶんおこなったヘルマン・ヴァルムは、「映画えいがは、絵画かいがいのちまれたものであるべきである」と主張しゅちょうする芸術げいじゅつグループ、シュトルムにぞくしていた。

撮影さつえいは1919ねんの12月と1920ねんの1がつおこなわれ、1920ねん2がつ26にちベルリンにある映画えいがかんMarmorhausではつ上映じょうえいされた[1]

日本にっぽんでのはつ公開こうかいは、1921ねん5がつ14にちである。英語えいご字幕じまくでの上映じょうえいに、活動かつどう弁士べんし台本だいほんそくし、日本語にほんご演技えんぎ状況じょうきょう説明せつめいおこなっていた[2]徳川とくがわゆめごえ弁士べんしとしてった。当時とうじ流行りゅうこう画家がか竹久たけひさゆめもこれを観覧かんらん、あまり活動かつどう写真しゃしんきではなかったというが、この映画えいが印象いんしょう雑誌ざっししん小説しょうせつ」に挿絵さしえとともに寄稿きこうしている。

ほん映画えいが特色とくしょく[編集へんしゅう]

批評ひひょうからは、ほん作品さくひんのドイツ表現ひょうげん主義しゅぎ手法しゅほうや、奇抜きばついがんだセットのデザイン、そして卓越たくえつした視覚しかくてき効果こうかにおいて、今日きょうでも世界せかいてきたか評価ひょうかされている。フィルム・ノワール、およびホラー映画えいが影響えいきょうあたえた重要じゅうよう作品さくひんとしても、位置いちづけられることがおおい。最初さいしょのホラー映画えいがいち作品さくひんとしてもげられ、以降いこうすうじゅう年間ねんかんアルフレッド・ヒッチコックなど、おおくの映画えいが監督かんとく手本てほんとしていたことも指摘してきされる。

以下いかほん作品さくひんおも特色とくしょくとしてあげられる。

  • セット美術びじゅつ:ほぼすべてのショットにおいて、いがんだセット美術びじゅつ使用しようされている。テント、はしら、ドア、かべ煙突えんとつ屋根やねなどがすべて平衡へいこう感覚かんかくくるった状態じょうたいえがかれており、ゆか水平すいへいでないこともある。また、しろくろコントラスト多用たようされ、照明しょうめいもそれを強調きょうちょうしている。ただし最初さいしょ最後さいご精神せいしん病院びょういんにわ現実げんじつ世界せかい)のシーンだけはごく普通ふつうのセットである。
  • メイク:チェザーレの、まわりを隈取くまどりしたような奇抜きばつメイクは、不安ふあんかんあおるものである。また、衣装いしょう奇抜きばつなデザインでつくられており、チェザーレの全身ぜんしんタイツのようなくろ衣装いしょうや、拘束こうそくころもれいとしてげられる。
  • 字幕じまく:カリガリ博士はかせ強迫きょうはく観念かんねんしめ場面ばめんでは、すでに撮影さつえいされたフィルムに文字もじまれ、博士はかせ姿すがたとともに文字もじせ、心理しんり状態じょうたい(ドイツで「カリガリ博士はかせにならなければならない」のフレーズがかえあらわれる)を実体じったいさせ、カリガリ博士はかせ心理しんりをより印象いんしょうづけている。
  • アイリスショットの多用たようカメラしぼりをつけて撮影さつえいするショットをアイリスショットという。初期しょき映画えいがでは、場面場面ばめんばめんのつなぎを、特定とくてい人物じんぶつしぼりをつけてめ(アイリス・アウト)、つぎ場面ばめんにおいて、また人物じんぶつしぼりをつけてけ(アイリス・イン)場面ばめんえる方法ほうほう使用しようされていたが、ほん作品さくひんでは、場面ばめん以外いがいでもアイリス・ショットを多用たようし、不安ふあんかんをあおったり、注意ちゅうい喚起かんきしたりする手法しゅほう多用たようされている。
  • 誇張こちょうされた演技えんぎのサイレント映画えいがくらべても、登場とうじょう人物じんぶつたちの演技えんぎ感情かんじょう身振みぶりをかなり誇張こちょうされている。とくにカリガリ博士はかせと、フランシスの演技えんぎにおいては、人物じんぶつより表情ひょうじょう身振みぶりが強調きょうちょうされているとともに、場面ばめんおうじて顕著けんちょことなった演技えんぎスタイルをもちいている。
  • 屋内おくないでの撮影さつえい:すべての撮影さつえいを、屋内おくないでセットを使用しようしてっている。自然しぜん日光にっこう一切いっさい使用しようせず、日光にっこうによりできるかげ照明しょうめい使用しようしてつくられたものである。
  • 家具かぐのデフォルメ:登場とうじょうする家具かぐも、実用じつようてきなものというよりは、いがんだセット美術びじゅつわせてつくられた奇抜きばつなものがおおい。もたれのたかすぎる椅子いすはそのいちれいである。

『カリガリからヒトラーへ』と反論はんろん[編集へんしゅう]

ほん作品さくひんを、みずからの意思いしたないねむおとこと、かれぼくとしだくみにあやつり、殺人さつじんおかさせる精神せいしん異常いじょうのカリガリ博士はかせ関係かんけいせいげ、そのアドルフ・ヒトラーによる政権せいけん掌握しょうあくプロパガンダによる大衆たいしゅう操作そうさ、そして国民こくみん盲従もうじゅうてきなヒトラー崇拝すうはいと、だい世界せかい大戦たいせんユダヤじん迫害はくがいをはじめとした国民こくみん破滅はめつてき行為こういへの加担かたん象徴しょうちょうした作品さくひんであると映画えいが研究けんきゅうしゃおおい。その代表だいひょうてきなもので、かつ多大ただい影響えいきょうあたえたのが、ジークフリート・クラカウアーの『カリガリからヒトラーヘ』(1947ねん)である。

クラカウアーは『カリガリからヒトラーヘ』で、ほん作品さくひんだいいち世界せかい大戦たいせんからだい世界せかい大戦たいせんいたる、せんあいだドイツの社会しゃかい情勢じょうせいたいする寓話ぐうわ解釈かいしゃくすることが可能かのうであるとべている。クラカウアーの主張しゅちょうでは、カリガリ博士はかせ専制せんせいてき人物じんぶつぞう象徴しょうちょうしており、こうした専制せんせいてき政治せいじにとっては、社会しゃかい混乱こんらんおとしいれることだけが、唯一ゆいいつ代替だいたいさくであり、専制せんせい政治せいじねむおとこ支配しはい=プロパガンダによる市民しみん支配しはい)か混乱こんらん殺人さつじん事件じけん世界せかい大戦たいせん)かの二者択一にしゃたくいつせま[3]。しかし、このクラカウアーの命題めいだいは、近年きんねんでは、おおくの映画えいが学者がくしゃから否定ひていされている。

クラカウアーへの反論はんろん[編集へんしゅう]

クラカウアーへの反論はんろんれいしめす。トーマス・エルゼッサー英語えいご: Thomas Elsaesser著書ちょしょ"Weimar Cinema and After"なかで、クラカウアーの著書ちょしょを、「歴史れきしがく見地けんちにおける、空想くうそうの」ろんであると酷評こくひょうした[4]。Elsaesserは、ヒトラーの政権せいけん掌握しょうあくほん作品さくひん発表はっぴょうきたことであり、よってクラカウアーのカリガリ博士はかせがヒトラーを体現たいげんしているというかんがえは矛盾むじゅんしている、と断言だんげんした。Elsaesserは、当時とうじのドイツの社会しゃかい通念つうねん映画えいが関連かんれんせい分析ぶんせきするには、研究けんきゅう対象たいしょうとしてげた映画えいがすくぎるとしてクラカウアーを批判ひはんした。さらに、結末けつまつ変更へんこうによって、映画えいが革新かくしんせいうしなわれたと主張しゅちょうするクラカウアーにたいし、脚本きゃくほん革新かくしんせい過小かしょう評価ひょうかぎているとも批判ひはんした。

なお、Elsaesserは、ほん作品さくひんをはじめとするドイツ表現ひょうげん主義しゅぎ映画えいが(またはそうみなされるもの)の独自どくじのスタイルの背景はいけいを、以下いかのように位置いちづけている。かれによれば、ドイツ表現ひょうげん主義しゅぎ映画えいが制作せいさくしゃたちは、増加ぞうか一途いっとをたどっていたアメリカ映画えいが流入りゅうにゅう対抗たいこうするために、ドイツ独自どくじ映画えいが差異さいする手段しゅだんとして、当時とうじすでに勃興ぼっこうしていた表現ひょうげん主義しゅぎてき作風さくふう積極せっきょくてき導入どうにゅうした、とされる。この分析ぶんせきは、今日きょうでは主要しゅようなものとなっている。

備考びこう[編集へんしゅう]

  • 1923ねん溝口みぞぐち健二けんじは、表現ひょうげん主義しゅぎてき作風さくふうもちいた映画えいがれい』を制作せいさくし、いがんだセット、コントラストがつよ作風さくふうなどを踏襲とうしゅうした。しかし、ほん作品さくひん興行こうぎょうてき失敗しっぱいしたこともあり、フィルムがうしなわれたため、現在げんざいることは不可能ふかのうとされている。
  • 1962ねん映画えいが怪人かいじんカリガリ博士はかせ」(en:The Cabinet of Caligari)は、ジェーン・リンドストロムという女性じょせいたすけをもとめてはいったカリガリ博士はかせ屋敷やしきめられ、そこからの脱出だっしゅつこころみるが、じつ彼女かのじょ自身じしん妄想もうそうさいなまれた精神病せいしんびょう患者かんじゃであったことがかるというストーリーで、原作げんさくとは基本きほんてきには類似るいじした構造こうぞうだが、べつのシナリオになっている。表現ひょうげん主義しゅぎてき傾向けいこう最後さいごすう分間ふんかんられるだけのハリウッドてきなスリラー作品さくひんである。
  • 1979ねんの、バウハウスの1stシングル"Bela Lugosi's Dead"では、うらジャケットにほん作品さくひんのスチール写真しゃしん使つかわれている。この楽曲がっきょくはしばしば、最初さいしょのゴシックロックのレコードとされる。
  • 1982ねんの、漫画まんが丸尾まるお末広すえひろほん作品さくひんもとにして独自どくじなアレンジでえがいた初期しょき短編たんぺん「カリガリ博士はかせ復活ふっかつ」には、フランシスにわって少女しょうじょ登場とうじょうする。『マンガ宝島たからじま』3がつごう掲載けいさい同年どうねん単行本たんこうぼん薔薇色ばらいろ怪物かいぶつ』にも収録しゅうろくされた。
  • 1989ねん映画えいがDr.カリガリ」は、カリガリ博士はかせ孫娘まごむすめ経営けいえいする病院びょういん舞台ぶたいとしたシュールかつ猟奇りょうきてき作品さくひんによるセットなど、美術びじゅつめんでもほん作品さくひん影響えいきょうつよられる。
  • 1990ねん映画えいがシザーハンズ』の主人公しゅじんこうエドワードのメイクや衣装いしょうは、ほん作品さくひん登場とうじょうする夢遊病むゆうびょう患者かんじゃチェザーレのビジュアルから影響えいきょうけている。
  • 1991ねん映画えいがビルとテッドの地獄じごく旅行りょこう」では、セット美術びじゅつめんでのあきらかな引用いんようられる。
  • 1997ねん作曲さっきょくジョン・モラン英語えいご: John Moranは、ほん作品さくひん舞台ぶたいした。かれの「オペラ」『カリガリ博士はかせ』はケンブリッジ (マサチューセッツしゅう)のアメリカン・レパートリー・シアターにて、演出えんしゅつロバート・マクグラス英語えいご: Robert McGrathにより上演じょうえんされた[5]
  • 1998ねんロブ・ゾンビのシングル、"Living Dead Girl"のミュージックビデオは、ほん作品さくひんなかおおくのシーンをほぼ本物ほんものおなじように真似まねている。
  • 1999ねんレッド・ホット・チリ・ペッパーズのヒット・シングル"Otherside"のミュージックビデオは、ほん作品さくひん刺激しげきされたものである。
  • 2002ねん映画えいがクイーン・オブ・ザ・ヴァンパイアからのカットシングルきょく、"Forasaken"のミュージックビデオは、ほん作品さくひん刺激しげきされたものである。
  • 2002ねん、イギリスの作曲さっきょくジェフ・スミスは、ハンマーダルシマーもちいて、ほん作品さくひんサウンドトラック制作せいさくし、コンサートで映画えいが上映じょうえいしながら演奏えんそうした。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Elsaesser, Thomas (2000). Weimar Cinema and After: Germany's Historical Imaginary. Routledge 
  • Kracauer, Siegfried (2004 edition; 1947, original English translation). From Caligari to Hitler: A Psychological History of the German Film. Princeton University Press 
  • Robinson, David (1997). Das Cabinet Des Dr. Caligari. British Film Institute 

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Robinson 47
  2. ^ 質問しつもんばこ”. マツダ映画えいがしゃ. 2021ねん10がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ Kracauer
  4. ^ Elsaesser
  5. ^ Reference

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]