ヴォルフガング・カップ

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ヴォルフガング・カップ
Wolfgang Kapp
生年月日せいねんがっぴ 1858ねん7がつ24にち
出生しゅっしょう アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく ニューヨーク
ぼつ年月日ねんがっぴ (1922-06-12) 1922ねん6月12にち(63さいぼつ
死没しぼつ ドイツの旗 ドイツこく ライプツィヒ
出身しゅっしんこう テュービンゲン大学だいがく
ゲッティンゲン大学だいがく
所属しょぞく政党せいとう ドイツ祖国そこくとう
サイン

ケーニヒスベルク県知事けんちじ
在任ざいにん期間きかん 1907ねん - 1920ねん
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ヴォルフガング・カップ(Wolfgang Kapp、1858ねん7がつ24にち1922ねん6月12にち)は、ドイツ政治せいじ官僚かんりょうヴァイマル共和きょうわせい初期しょき1920ねん3月13にち右派うはクーデターであるカップ一揆いっきこして政権せいけん奪取だっしゅこころみたが、失敗しっぱいした。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

右派うは政治せいじ[編集へんしゅう]

1848ねん革命かくめい失敗しっぱいしてアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく移住いじゅうした弁護士べんごしフリードリヒ・カップ(de:Friedrich Kapp)と、ケルン地区ちく司令しれいかんフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Ludwig C. Engels)少将しょうしょうむすめルイーゼとの息子むすことして、ニューヨークまれる。家族かぞくはアメリカでの生活せいかつになじめず、1870ねんドイツ帝国ていこくもどった。ベルリンギムナジウム卒業そつぎょう、カップはテュービンゲン大学だいがくゲッティンゲン大学だいがく法学ほうがくまなび、1886ねん博士はかせごう取得しゅとくして卒業そつぎょうした。学生がくせい時代じだいブルシェンシャフトぞくし、決闘けっとうさい顔面がんめん終世しゅうせいのこ銃創じゅうそうった。1884ねん結婚けっこんさんをもうける。姻戚いんせき関係かんけいつうじて保守ほしゅけい政治せいじ活動かつどうい、またひがしプロイセンプロイシッシュ・アイラウ荘園しょうえん所有しょゆうした。

1891ねんからグーベンぐん参事さんじとなり、1900ねんには農業のうぎょうしょう参事官さんじかん昇進しょうしんした。1907ねんには友人ゆうじん有力ゆうりょく地主じぬしロビイストであるエラルト・フォン・オルデンブルク=ヤヌシャウde:Elard von Oldenburg-Januschau)の仲介ちゅうかいケーニヒスベルク県知事けんちじ地位ちいれた。1916ねんから1917ねん数ヶ月すうかげつあいだ断絶だんぜつのぞき、1920ねんまでこのしょくにあった。このしょくだけでもいちねんに72000ライヒスマルクの収入しゅうにゅうがあり、さらに1912ねんにはドイツ銀行ぎんこう監査かんさやく選出せんしゅつされた。

だいいち世界せかい大戦たいせんちゅう連合れんごうこくによるドイツ帝国ていこくへの賠償ばいしょう占領せんりょうベルギー併合へいごう戦争せんそう目的もくてきとして主張しゅちょうするなど、好戦こうせんてき言論げんろんられるようになった。さらにイギリスたいする制限せいげん潜水せんすいかん作戦さくせん支持しじして、アメリカの参戦さんせんおそれるテオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク首相しゅしょう対立たいりつした。カップはベートマン・ホルヴェークを個人こじん攻撃こうげきする文書ぶんしょ発表はっぴょうし、一方いっぽう首相しゅしょうのほうも帝国ていこく議会ぎかい演説えんぜつでカップを「政治せいじてき海賊かいぞく」と非難ひなんした。カップは首相しゅしょうたいして決闘けっとうもうれたが、首相しゅしょう職務しょくむ理由りゆうことわり、1917ねん退陣たいじんしたためこの決闘けっとう実現じつげんしなかった。1917ねんにドイツ国内こくない停戦ていせんへのうごきに反対はんたいしてドイツ祖国そこくとう(de:Deutsche Vaterlandspartei)を結成けっせい大戦たいせんがドイツの敗北はいぼくわると、カップは匕首ひしゅ伝説でんせつ主張しゅちょうしてヴェルサイユ条約じょうやく締結ていけつはげしく攻撃こうげきし、ドイツのはじであると主張しゅちょうした。

カップ一揆いっき[編集へんしゅう]

ベルリン市内しない巡回じゅんかいするカップ街宣がいせんしゃ

1920ねん3がつ13にちヴァルター・フォン・リュトヴィッツ将軍しょうぐんひきいる義勇軍ぎゆうぐんエアハルト海兵かいへい旅団りょだんがベルリンの官庁かんちょうがい占拠せんきょ、カップはグスタフ・バウアー内閣ないかく更迭こうてつ、ヴァイマル共和きょうわせい議会ぎかいおよプロイセンしゅう政府せいふ解散かいさん宣言せんげんし、みずか帝国ていこく宰相さいしょうおよびプロイセンしゅう首相しゅしょうへの就任しゅうにん宣言せんげんした。しかし3がつ20日はつかにこの一揆いっき失敗しっぱいわった。以前いぜん歴史れきし研究けんきゅうとくマルクス主義まるくすしゅぎ影響えいきょうつよきゅうひがしドイツ歴史れきしかんでは、労働ろうどうしゃによるゼネラル・ストライキ一揆いっき失敗しっぱいんだとなすのが主流しゅりゅうだったが、1960年代ねんだい以降いこう西にしドイツでの歴史れきし研究けんきゅうでは、一揆いっき準備じゅんび不足ふそくとくにカップとリュトヴィッツの意見いけん不一致ふいっち失敗しっぱい主因しゅいんであるとなすのが主流しゅりゅうになっている。

一揆いっき失敗しっぱい、カップはブランデンブルク潜伏せんぷくし、ついでスウェーデン亡命ぼうめいした。そこで警察けいさつ逮捕たいほされ、ドイツに送還そうかんされた。カップはのちにこの一揆いっきについて「ハンガリーきたような、ジャーナリスト労働ろうどう組合くみあいユダヤじんによる支配しはいからドイツをまもり、伝統でんとうてき官僚かんりょう国家こっかもどすのが目的もくてきであったが、統制とうせいれず失敗しっぱいした」と回想かいそうしている。1922ねん国家こっか反逆はんぎゃくざい容疑ようぎライプツィヒ最高さいこう裁判所さいばんしょさばかれることになり、カップ自身じしん自分じぶん主張しゅちょう弁論べんろんするつもりでいた。しかし検査けんさにより眼球がんきゅうにガンが出来できていることが判明はんめいしたため手術しゅじゅつけたが、ライプツィヒの病院びょういん死亡しぼうした。

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • James Cavallie: Ludendorff und Kapp in Schweden. Aus dem Leben zweier Verlierer, Lang: Frankfurt/a. M. u. a. 1995, 396 S., ISBN 3-631-47678-7

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]