ヴォーバン領主 りょうしゅ セバスティアン・ル・プレストル (Sébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban 、1633年 ねん 5月15日 にち - 1707年 ねん 3月30日 にち )は、フランス 国王 こくおう ルイ14世 せい に仕 つか えた17世紀 せいき に活躍 かつやく したフランスの軍人 ぐんじん (技術 ぎじゅつ 将校 しょうこう )、建設 けんせつ 技術 ぎじゅつ 者 しゃ 、建築 けんちく 家 か 、都市 とし 計画 けいかく 家 か 。軍隊 ぐんたい 技術 ぎじゅつ 者 しゃ の中 なか でもっとも有名 ゆうめい な人物 じんぶつ として知 し られる。150の戦場 せんじょう の要塞 ようさい を建設 けんせつ あるいは修理 しゅうり し、53の城塞 じょうさい 包囲 ほうい 攻撃 こうげき を指揮 しき したといわれる。近代 きんだい 的 てき な稜 りょう 堡式の要塞 ようさい の築城 ちくじょう 法 ほう を体系 たいけい 化 か し、「落 お ちない城 しろ はない」と言 い われたほどの要塞 ようさい 攻 おさむ 城 じょう の名手 めいしゅ であった。
建設 けんせつ した要塞 ようさい のうち12箇所 かしょ は、2008年 ねん にヴォーバンの防衛 ぼうえい 施設 しせつ 群 ぐん として、世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された[1] [2] 。
ルイ14世 せい への出仕 しゅっし [ 編集 へんしゅう ]
1633年 ねん 、フランス 、ブルゴーニュ 地方 ちほう のサン・レジェ・フォーシェレという小 ちい さな田舎町 いなかまち (現在 げんざい のヨンヌ県 けん にあるこの町 まち は、その功績 こうせき を称 とな えサン・レジェ・ヴォーバンと改名 かいめい した)の貧乏 びんぼう 貴族 きぞく の家 いえ に生 う まれた。10歳 さい の時 とき に孤児 こじ となり、農村 のうそん 社会 しゃかい での極貧 ごくひん 生活 せいかつ を経験 けいけん したが、幸運 こううん なことにカルメル会 かい の保護 ほご を受 う けてスミュール=アン=ノーソワ にて高等 こうとう 教育 きょういく を受 う ける機会 きかい が得 え られ、数学 すうがく 、幾何 きか 学 がく 、理学 りがく など後 ご の業績 ぎょうせき につながる知識 ちしき を得 え ることができた。
17歳 さい でコンデ公 おおやけ ルイ2世 せい の軍隊 ぐんたい に入隊 にゅうたい し、フロンドの乱 らん (1648年 ねん - 1653年 ねん )に将校 しょうこう として参加 さんか する。その働 はたら きぶりがコンデ公 おおやけ の目 め にとまり、要塞 ようさい の築城 ちくじょう を任 まか されることになった。しかし1653年 ねん にヴォーバンは国王 こくおう 軍 ぐん に捕 と らえられ、マザラン のとりなしでルイ14世 せい に仕 つか え、テュレンヌ 元帥 げんすい の連隊 れんたい に配属 はいぞく された。こうして今度 こんど は自 みずか らが築城 ちくじょう した要塞 ようさい を自 みずか ら攻略 こうりゃく する立場 たちば となった。
フロンドの乱 らん とそれに続 つづ くフランス・スペイン戦争 せんそう が1659年 ねん に終結 しゅうけつ するまでの間 あいだ 、ヴォーバンは10回 かい の攻囲 こうい 戦 せん に参加 さんか 、グラヴリーヌ の攻囲 こうい 戦 せん では技術 ぎじゅつ 士官 しかん 団長 だんちょう に任 にん じられ、たびたび負傷 ふしょう した。この間 あいだ 、1655年 ねん に王室 おうしつ 侍従 じじゅう 技術 ぎじゅつ 官 かん (技術 ぎじゅつ 士官 しかん )に任命 にんめい され、当時 とうじ 著名 ちょめい な軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ 者 しゃ であったルイ・ニコラ・ド・クレルヴィル (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) に師事 しじ する。またこの時 とき に歴史 れきし あるピカルディ連隊 れんたい の中隊 ちゅうたい に配属 はいぞく され、軍事 ぐんじ 工学 こうがく の専門 せんもん 家 か として勤務 きんむ することとなる。同 どう 時期 じき に従姉妹 いとこ のジャンヌ・ドールネーと結婚 けっこん している。
領土 りょうど 拡張 かくちょう 戦争 せんそう [ 編集 へんしゅう ]
和平 わへい 後 ご はダンケルク をはじめとするフランス国内 こくない の防衛 ぼうえい 拠点 きょてん の築城 ちくじょう に従事 じゅうじ する。以後 いご 、ヴォーバンは平時 へいじ においては要塞 ようさい の築城 ちくじょう 、ルイ14世 せい が行 おこな った一連 いちれん の領土 りょうど 拡張 かくちょう 戦争 せんそう においては敵 てき 要塞 ようさい の攻略 こうりゃく を任 まか されるようになっていき、生涯 しょうがい にわたって53の攻囲 こうい 戦 せん と33の築城 ちくじょう を行 おこな い、また運河 うんが や水道 すいどう 橋 きょう も手 て がけている。ネーデルラント継承 けいしょう 戦争 せんそう (1667年 ねん - 1668年 ねん )ではドゥエ、トゥルネー 、リール などを攻略 こうりゃく 。さらにオランダ侵略 しんりゃく 戦争 せんそう (1672年 ねん - 1678年 ねん )ではナイメーヘン 、マーストリヒト 、トリーア 、ブザンソン 、ヘント といった重要 じゅうよう な攻囲 こうい 戦 せん を指揮 しき した。
オランダ侵略 しんりゃく 戦争 せんそう 終結 しゅうけつ 後 ご は築城 ちくじょう 最高 さいこう 責任 せきにん 者 しゃ に就任 しゅうにん し、一連 いちれん の戦争 せんそう でフランスが獲得 かくとく した領土 りょうど における防衛 ぼうえい 体制 たいせい の整備 せいび にあたった。特 とく に、平地 ひらち の連続 れんぞく するフランドル では防衛 ぼうえい のため要塞 ようさい が必要 ひつよう と考 かんが えられ、ヴォーバンはダンケルク からディナン に至 いた る第 だい 一線 いっせん 要塞 ようさい 群 ぐん 15か所 しょ と、後方 こうほう の要塞 ようさい 群 ぐん 13か所 しょ の築城 ちくじょう を指揮 しき した。
オスマン帝国 ていこく による第 だい 二 に 次 じ ウィーン包囲 ほうい に乗 じょう じて、フランスがスペイン領 りょう ネーデルラント に侵攻 しんこう した際 さい には、ヴォーバンは1683年 ねん にコーリック、1684年 ねん にルクセンブルク市 し を攻略 こうりゃく した。大 だい 同盟 どうめい 戦争 せんそう (1688年 ねん - 1697年 ねん )ではフィリップスブルクやナミュール の攻囲 こうい 戦 せん を指揮 しき した。
多 た 分野 ぶんや での功績 こうせき [ 編集 へんしゅう ]
この頃 ころ までにヴォーバンは、当時 とうじ 確立 かくりつ していた軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ と自 みずか らの実戦 じっせん 経験 けいけん を合 あ わせて、要塞 ようさい 攻 おさむ 城 しろ 法 ほう と要塞 ようさい 築城 ちくじょう 法 ほう を確立 かくりつ した。攻 おさむ 城 しろ 法 ほう としては、1673年 ねん のマーストリヒト攻囲 こうい 戦 せん で平行 へいこう 壕 ごう を、アウクスブルク同盟 どうめい 戦争 せんそう では坑道 こうどう 戦 せん や跳 とべ 飛 ひ 射撃 しゃげき (砲弾 ほうだん を地面 じめん で跳 とべ 弾 だん させ多数 たすう の敵 てき を殺傷 さっしょう する射撃 しゃげき 法 ほう )を導入 どうにゅう した。築城 ちくじょう 法 ほう としては、以下 いか に述 の べる「第 だい 一 いち 方式 ほうしき 」から「第 だい 三 さん 方式 ほうしき 」と呼 よ ばれる基本 きほん 設計 せっけい を体系 たいけい 化 か した。生涯 しょうがい で、新 あら たに基礎 きそ から築 きず いた要塞 ようさい が37か所 しょ 、改修 かいしゅう に携 たずさ わった要塞 ようさい が300か所 しょ 、攻略 こうりゃく した要塞 ようさい が53か所 しょ とされている。
1677年 ねん に、陸軍 りくぐん 大臣 だいじん ルーヴォワ と、財務 ざいむ 大臣 だいじん コルベール の親友 しんゆう として要塞 ようさい 総監 そうかん に就任 しゅうにん する。1703年 ねん 1月 がつ 14日 にち にフランス元帥 げんすい に叙 じょ せられる。同年 どうねん 、『要塞 ようさい 攻囲 こうい 論 ろん 』(Traité de l'attaque des places )を著 あらわ す。だがスペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう (1702年 ねん - 1713年 ねん )では、ヴォーバンが築城 ちくじょう した要塞 ようさい が攻略 こうりゃく されるケースもあり、批判 ひはん を受 う けることもあった。また、同 どう 時期 じき に執筆 しっぴつ した『要塞 ようさい 防御 ぼうぎょ 論 ろん 』(De la defense des places )は芳 かんば しい評価 ひょうか を得 え られなかった。
ヴォーバンは農林 のうりん 業 ぎょう や金融 きんゆう 政策 せいさく 、植民 しょくみん 地 ち 経営 けいえい などに関 かん する著作 ちょさく も残 のこ している。またフランス科学 かがく アカデミー の名誉 めいよ 会員 かいいん でもあった。1690年代 ねんだい にはフランス各地 かくち の国勢調査 こくせいちょうさ を推進 すいしん し、「フランスのウィリアム・ペティ 」とも綽名された。
彼 かれ はまた都市 とし 計画 けいかく 家 か として、ヌフ=ブリザック のように自分 じぶん で生 う み出 だ した新 あたら しい町 まち を計画 けいかく した。他 た には内部 ないぶ を碁盤割 ごばんわり にしたパターンの最初 さいしょ 例 れい であるアラス 、1679年 ねん のロンウィ 、1680年 ねん のザールルイ 、1679年 ねん のユナング 、1681年 ねん のモン=ルイ 、1692年 ねん のモン=ドー・ファンなどがある。一方 いっぽう でおりにふれて建築 けんちく 家 か として、リールの司令 しれい 官邸 かんてい 、教会 きょうかい 、造兵 ぞうへい 廠 しょう やジグェ、プリアンソンの教会 きょうかい などの単独 たんどく の建物 たてもの も設計 せっけい し、オーネやユッセの城 しろ も修復 しゅうふく した。建築 けんちく 家 か としての長所 ちょうしょ がもっとも評価 ひょうか されるのは、オレロン、プラヴリンヌやバイヨンヌの塁壁 るいへき のマッシヴな簡潔 かんけつ さであり、列 れつ 柱 ばしら 、エンタブラチュア 、トロフィー、彫刻 ちょうこく した羽目板 はめいた で豊 ゆた かにしたリールのパリ門 もん のバロック的 てき 華麗 かれい さ、モブージュ のモン・ゲートの単純 たんじゅん な壮大 そうだい さまで範囲 はんい の広 ひろ がるモニュメンタルな門 もん である。これらにおいて実力 じつりょく が同 どう 時代 じだい の建築 けんちく 家 か リベラル・プリエアンとフランソワ・プロンデルなどがなしとげた高貴 こうき な厳格 げんかく さと壮大 そうだい さに接近 せっきん したとみられている。
ヴォーバンはルイ14世 せい の尖兵 せんぺい となって働 はたら いたが、同時 どうじ にルイ14世 せい の政策 せいさく を批判 ひはん もしている。1685年 ねん のフォンテーヌブローの勅 みことのり 令 れい (ナントの勅 みことのり 令 れい の廃止 はいし )には特 とく に経済 けいざい 学 がく 的 てき な観点 かんてん から反対 はんたい した。1707年 ねん には課税 かぜい の平等 びょうどう と下層 かそう 民 みん の負担 ふたん 軽減 けいげん を説 と いた『王室 おうしつ の十 じゅう 分 ぶん の一 いち 税 ぜい 』(Projet D'une Dixme Royale )を著 あらわ す。同書 どうしょ は重 じゅう 農学 のうがく 派 は の先駆 せんく 的 てき 業績 ぎょうせき として知 し られているが、ルイ14世 せい はこの書 しょ に怒 いか り、焚書 ふんしょ を命 めい じたという。
同年 どうねん 、パリにて死去 しきょ した。遺体 いたい の一部 いちぶ は現在 げんざい もオテル・デ・ザンヴァリッド に安置 あんち されている。
ヴォーバン式 しき 要塞 ようさい [ 編集 へんしゅう ]
リール要塞 ようさい
ヌフ‐ブリザック
軍事 ぐんじ 技術 ぎじゅつ 者 しゃ としてのヴォーバンの素質 そしつ は、新 あたら しい方法 ほうほう の発明 はつめい よりむしろ伝統 でんとう 的 てき 方法 ほうほう を使用 しよう し適合 てきごう させた機略 きりゃく 縦横 じゅうおう の点 てん にあったといわれ、その巧妙 こうみょう さはピレネー山脈 さんみゃく のモン=ルイ、そしてサヴォイア公国 こうこく 領 りょう にあるモン・ドーファンやケイラ城 じょう のような困難 こんなん な場所 ばしょ においてよく発揮 はっき されている。
手 て がけた要塞 ようさい のうちでもっとも有名 ゆうめい なのは、リール要塞 ようさい (1668-1674)、モブージュ要塞 ようさい (1679年 ねん -1685年 ねん )、そしてヌフ・ブリザック (1697年 ねん -1708年 ねん )である。彼 かれ の要塞 ようさい のいくつか、とりわけロンウィ (1678年 ねん 建造 けんぞう )は1914年 ねん -1918年 ねん の戦争 せんそう にいたるまで効果 こうか 的 てき に軍用 ぐんよう として用 もち いられた。
中世 ちゅうせい までの石積 いしつ みで背 せ の高 たか い城壁 じょうへき は、ルネサンス 期 き に攻 おさむ 城 しろ 砲 ほう が出現 しゅつげん すると格好 かっこう の射撃 しゃげき 目標 もくひょう となった。攻 おさむ 城 しろ 砲 ほう の威力 いりょく を減殺 げんさい するために、城壁 じょうへき は背 せ が低 ひく く厚 あつ みのある土 ど 塁 るい へと変化 へんか していった[3] 。一方 いっぽう で防御 ぼうぎょ 側 がわ としても、同 どう 時期 じき に登場 とうじょう した銃 じゅう の威力 いりょく を活用 かつよう し、攻 せ め寄 よ せてくる敵 てき に十字砲火 じゅうじほうか を浴 あ びせられるよう、死角 しかく がないように城壁 じょうへき から外 そと 向 む きに突 つ き出 だ した稜 りょう 堡が築 きず かれるようになった。こうして稜 りょう 堡式城郭 じょうかく が発達 はったつ していった。
ヴォーバン式 しき 要塞 ようさい は稜 りょう 堡式城郭 じょうかく の完成 かんせい 形 がた とも言 い える。ヴォーバンの築城 ちくじょう 法 ほう は、それまでにフランスやイタリアで定着 ていちゃく していた方法 ほうほう と比 くら べ独創 どくそう 的 てき なものではない。ただし、それらを精緻 せいち な体系 たいけい として作 つく り上 あ げたことにヴォーバンの功績 こうせき がある。
1680年 ねん 以前 いぜん のヴォーバンの築城 ちくじょう 法 ほう は「第 だい 一 いち 方式 ほうしき 」と呼 よ ばれ、基本 きほん 的 てき には当時 とうじ の標準 ひょうじゅん 的 てき な方式 ほうしき である。典型 てんけい 例 れい はザールルイ で見 み られる。稜 りょう 堡の先端 せんたん 部 ぶ 同士 どうし の間隔 かんかく を約 やく 300mに設定 せってい し、要塞 ようさい 全体 ぜんたい の形状 けいじょう は線 せん 対称 たいしょう の多角 たかく 形 がた とされた。稜 りょう 堡と稜 りょう 堡の間 あいだ にはラヴェラン(半月 はんつき 堡)と呼 よ ばれる本体 ほんたい と分離 ぶんり した防御 ぼうぎょ 施設 しせつ が置 お かれた。
1682年 ねん のベルフォール の築城 ちくじょう 以降 いこう 採用 さいよう された「第 だい 二 に 方式 ほうしき 」では、ヴォーバンの経験 けいけん に基 もと づく改良 かいりょう が取 と り入 い れられている。まず稜 りょう 堡を二 に 重 じゅう 式 しき にして、外側 そとがわ を本体 ほんたい と分離 ぶんり し、外側 そとがわ が攻 せ め落 お とされても抗戦 こうせん を続 つづ けられるようにした。ラヴェランの内側 うちがわ に設置 せっち される凹堡も強化 きょうか された。
1698年 ねん のヌフ=ブリザックの築城 ちくじょう で採用 さいよう された「第 だい 三 さん 方式 ほうしき 」ではラヴェランも二重化 にじゅうか された。このようにして、縦 たて 深 ふか 性 せい を高 たか めた堅固 けんご な防御 ぼうぎょ システムが完成 かんせい した。
後世 こうせい への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
五稜郭 ごりょうかく 末期 まっき の星 ほし 型 がた 要塞 ようさい
ヴォーバン以降 いこう のフランスでの要塞 ようさい 築城 ちくじょう は必要 ひつよう 性 せい に基 もと づいて進 すす められたものであるが、国家 こっか 財政 ざいせい にとっては重 おも い負担 ふたん となった。負担 ふたん は国民 こくみん に負 お わされ、やがてフランス革命 かくめい につながっていく。だが皮肉 ひにく なことにフランス革命 かくめい 戦争 せんそう では、これらの要塞 ようさい は旧式 きゅうしき でありながら、国境 こっきょう の防衛 ぼうえい に改 あらた めて効果 こうか を発揮 はっき した。
しかしナポレオン戦争 せんそう の時代 じだい に入 はい って、軍隊 ぐんたい が国民 こくみん 軍 ぐん として大 だい 規模 きぼ 化 か し、兵站 へいたん や通信 つうしん の機能 きのう も進歩 しんぽ すると、要塞 ようさい の重要 じゅうよう 性 せい は低下 ていか した。ナポレオン は多 おお くの場合 ばあい 、敵 てき 要塞 ようさい は予備 よび 部隊 ぶたい に任 まか せ、自 みずか らは主力 しゅりょく 部隊 ぶたい と共 とも に要塞 ようさい を無視 むし して敵 てき 地 ち 奥深 おくふか くへ侵攻 しんこう した。対 たい 仏 ふつ 大 だい 同盟 どうめい 軍 ぐん も同様 どうよう の戦略 せんりゃく を取 と ったので、ナポレオン戦争 せんそう 中 ちゅう は攻 おさむ 城 しろ 戦 せん はほとんど行 おこな われなかった。こうして、要塞 ようさい はコストがかかる割 わり に、戦略 せんりゃく 的 てき には補助 ほじょ 的 てき な位置 いち づけのものとなった。
その後 ご 、野砲 やほう の射程 しゃてい が延 の びたことにより、中心 ちゅうしん 都市 とし そのものの周囲 しゅうい を稜 りょう 堡式の城郭 じょうかく で覆 おお うのではなく、中心 ちゅうしん 都市 とし から一定 いってい 距離 きょり を置 お いた地点 ちてん に小型 こがた のヴォーバン式 しき 要塞 ようさい ともいえる堡塁 ほうるい を複数 ふくすう 築 きず き、そのネットワークをもって中心 ちゅうしん 都市 とし を防衛 ぼうえい するという考 かんが え方 かた が主流 しゅりゅう となった。日本 にっぽん においては、江戸 えど と台場 だいば はこの関係 かんけい にあると考 かんが えられるが、幕府 ばくふ の予算 よさん 不足 ふそく のためネットワークは未 み 完成 かんせい に終 お わった。函館 はこだて と五稜郭 ごりょうかく もこの関係 かんけい にあるという考 かんが え方 かた もあるが、五稜郭 ごりょうかく はこの目的 もくてき の城郭 じょうかく としては古 ふる い形式 けいしき である(その一方 いっぽう で後述 こうじゅつ する塹壕 ざんごう 線 せん の原型 げんけい が早 はや くも持 も ち込 こ まれており、戊辰戦争 ぼしんせんそう は西洋 せいよう における新旧 しんきゅう の戦法 せんぽう が混在 こんざい する状況 じょうきょう にあった)。
20世紀 せいき に入 はい ると、永久 えいきゅう な不動産 ふどうさん 故 こ 、柔軟 じゅうなん 性 せい がなく莫大 ばくだい なコストがかかる要塞 ようさい (永久 えいきゅう 築城 ちくじょう )は時代遅 じだいおく れとなり、いつどこでも、都合 つごう のいい場所 ばしょ に作 つく れる野戦 やせん 築城 ちくじょう (塹壕 ざんごう )が主流 しゅりゅう となった。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう においてはロシア 軍 ぐん が構築 こうちく した重厚 じゅうこう な要塞 ようさい (旅順 りょじゅん 要塞 ようさい )は当時 とうじ 出現 しゅつげん した機関 きかん 砲 ほう と併用 へいよう することで絶大 ぜつだい な防御 ぼうぎょ 威力 いりょく を発揮 はっき した。それでもマジノ線 せん のように、塹壕 ざんごう 線 せん と同 どう 規模 きぼ のものを永久 えいきゅう 要塞 ようさい の手法 しゅほう で建造 けんぞう するという野心 やしん 的 てき な試 こころ みもなされたが、無用 むよう の長物 ちょうぶつ に終 お わった。ただし海岸 かいがん 砲台 ほうだい については、その特性 とくせい 上 うえ 艦 かん 砲 ほう に比 くら べて有利 ゆうり であったので、有効 ゆうこう な防衛 ぼうえい 施設 しせつ として機能 きのう した。なお、ヴォーバンが建設 けんせつ した防衛 ぼうえい 施設 しせつ 群 ぐん は2008年 ねん に世界 せかい 遺産 いさん に登録 とうろく された。
自身 じしん の築造 ちくぞう 理論 りろん はつとに有名 ゆうめい で、彼 かれ の回想 かいそう 録 ろく 『全 ぜん 建築 けんちく 家 か の遵守 じゅんしゅ すべきいくつかの金言 きんげん 集 しゅう (Plusieurs maximes bonnes à observer par tous ceux qui font bâtir )』は完全 かんぜん な建築 けんちく 論 ろん として著 あらわ され、1968年 ねん にはG. A. ロートロックによる英訳 えいやく 版 ばん が刊行 かんこう された。
^ Douze fortifications de Vauban au Patrimoine mondial de l'Unesco dans Le Monde du 7 juillet 2008.
^ Douze sites de Vauban classés au Patrimoine mondial de l'humanité dans Le Figaro du 8 juillet 2008.
^ 榴弾 りゅうだん の破壊 はかい 力 りょく を柔軟 じゅうなん な土 ど 塁 るい で吸収 きゅうしゅう させるため。また爆発 ばくはつ 直後 ちょくご の飛沫 しぶき が兵士 へいし を傷 きず つける事 こと を防 ふせ ぐことが可能 かのう 。
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