セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン

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セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン
ヴォーバンの肖像しょうぞう(18世紀せいき初頭しょとう
生誕せいたん (1633-05-04) 1633ねん5月4にち
フランス王国おうこくSaint-Léger-Vauban
死没しぼつ 1707ねん3月30にち(1707-03-30)(73さい
フランス王国おうこくパリ
死因しいん はい栓塞せんそくせんしょう
墓地ぼち オテル・デ・ザンヴァリッドバゾシュ
国籍こくせき フランス
著名ちょめい実績じっせき カマレ防衛ぼうえい城塞じょうさい建築けんちく
肩書かたが

フランス元帥げんすい
リール知事ちじ(1668-1707)
要塞ようさい長官ちょうかん(1678-1703)

科学かがくアカデミー会員かいいん
受賞じゅしょう

Chevalier de l'ordre de Saint-Louis

Chevalier de l'ordre du Saint-Esprit
署名しょめい
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ヴォーバン領主りょうしゅセバスティアン・ル・プレストルSébastien Le Prestre, Seigneur de Vauban1633ねん5月15にち - 1707ねん3月30にち)は、フランス国王こくおうルイ14せいつかえた17世紀せいき活躍かつやくしたフランスの軍人ぐんじん技術ぎじゅつ将校しょうこう)、建設けんせつ技術ぎじゅつしゃ建築けんちく都市とし計画けいかく軍隊ぐんたい技術ぎじゅつしゃなかでもっとも有名ゆうめい人物じんぶつとしてられる。150の戦場せんじょう要塞ようさい建設けんせつあるいは修理しゅうりし、53の城塞じょうさい包囲ほうい攻撃こうげき指揮しきしたといわれる。近代きんだいてきりょう堡式の要塞ようさい築城ちくじょうほう体系たいけいし、「ちないしろはない」とわれたほどの要塞ようさいおさむじょう名手めいしゅであった。

建設けんせつした要塞ようさいのうち12箇所かしょは、2008ねんヴォーバンの防衛ぼうえい施設しせつぐんとして、世界せかい遺産いさん登録とうろくされた[1][2]

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

ルイ14せいへの出仕しゅっし[編集へんしゅう]

1633ねんフランスブルゴーニュ地方ちほうのサン・レジェ・フォーシェレというちいさな田舎町いなかまち現在げんざいヨンヌけんにあるこのまちは、その功績こうせきとなえサン・レジェ・ヴォーバンと改名かいめいした)の貧乏びんぼう貴族きぞくいえまれた。10さいとき孤児こじとなり、農村のうそん社会しゃかいでの極貧ごくひん生活せいかつ経験けいけんしたが、幸運こううんなことにカルメルかい保護ほごけてスミュール=アン=ノーソワにて高等こうとう教育きょういくける機会きかいられ、数学すうがく幾何きかがく理学りがくなど業績ぎょうせきにつながる知識ちしきることができた。

17さいコンデおおやけルイ2せい軍隊ぐんたい入隊にゅうたいし、フロンドのらん(1648ねん - 1653ねん)に将校しょうこうとして参加さんかする。そのはたらきぶりがコンデおおやけにとまり、要塞ようさい築城ちくじょうまかされることになった。しかし1653ねんにヴォーバンは国王こくおうぐんらえられ、マザランのとりなしでルイ14せいつかえ、テュレンヌ元帥げんすい連隊れんたい配属はいぞくされた。こうして今度こんどみずからが築城ちくじょうした要塞ようさいみずか攻略こうりゃくする立場たちばとなった。

フロンドのらんとそれにつづフランス・スペイン戦争せんそう1659ねん終結しゅうけつするまでのあいだ、ヴォーバンは10かい攻囲こういせん参加さんかグラヴリーヌ攻囲こういせんでは技術ぎじゅつ士官しかん団長だんちょうにんじられ、たびたび負傷ふしょうした。このあいだ1655ねん王室おうしつ侍従じじゅう技術ぎじゅつかん技術ぎじゅつ士官しかん)に任命にんめいされ、当時とうじ著名ちょめい軍事ぐんじ技術ぎじゅつしゃであったルイ・ニコラ・ド・クレルヴィルフランス語ふらんすごばん師事しじする。またこのとき歴史れきしあるピカルディ連隊れんたい中隊ちゅうたい配属はいぞくされ、軍事ぐんじ工学こうがく専門せんもんとして勤務きんむすることとなる。どう時期じき従姉妹いとこのジャンヌ・ドールネーと結婚けっこんしている。

領土りょうど拡張かくちょう戦争せんそう[編集へんしゅう]

和平わへいダンケルクをはじめとするフランス国内こくない防衛ぼうえい拠点きょてん築城ちくじょう従事じゅうじする。以後いご、ヴォーバンは平時へいじにおいては要塞ようさい築城ちくじょう、ルイ14せいおこなった一連いちれん領土りょうど拡張かくちょう戦争せんそうにおいてはてき要塞ようさい攻略こうりゃくまかされるようになっていき、生涯しょうがいにわたって53の攻囲こういせんと33の築城ちくじょうおこない、また運河うんが水道すいどうきょうがけている。ネーデルラント継承けいしょう戦争せんそう(1667ねん - 1668ねん)ではドゥエ、トゥルネーリールなどを攻略こうりゃく。さらにオランダ侵略しんりゃく戦争せんそう(1672ねん - 1678ねん)ではナイメーヘンマーストリヒトトリーアブザンソンヘントといった重要じゅうよう攻囲こういせん指揮しきした。

オランダ侵略しんりゃく戦争せんそう終結しゅうけつ築城ちくじょう最高さいこう責任せきにんしゃ就任しゅうにんし、一連いちれん戦争せんそうでフランスが獲得かくとくした領土りょうどにおける防衛ぼうえい体制たいせい整備せいびにあたった。とくに、平地ひらち連続れんぞくするフランドルでは防衛ぼうえいのため要塞ようさい必要ひつようかんがえられ、ヴォーバンはダンケルクからディナンいただい一線いっせん要塞ようさいぐん15かしょと、後方こうほう要塞ようさいぐん13かしょ築城ちくじょう指揮しきした。

オスマン帝国ていこくによるだいウィーン包囲ほういじょうじて、フランスがスペインりょうネーデルラント侵攻しんこうしたさいには、ヴォーバンは1683ねんにコーリック、1684ねんルクセンブルク攻略こうりゃくした。だい同盟どうめい戦争せんそう(1688ねん - 1697ねん)ではフィリップスブルクやナミュール攻囲こういせん指揮しきした。

分野ぶんやでの功績こうせき[編集へんしゅう]

このころまでにヴォーバンは、当時とうじ確立かくりつしていた軍事ぐんじ技術ぎじゅつみずからの実戦じっせん経験けいけんわせて、要塞ようさいおさむしろほう要塞ようさい築城ちくじょうほう確立かくりつした。おさむしろほうとしては、1673ねんのマーストリヒト攻囲こういせん平行へいこうごうを、アウクスブルク同盟どうめい戦争せんそうでは坑道こうどうせんとべ射撃しゃげき砲弾ほうだん地面じめんとべだんさせ多数たすうてき殺傷さっしょうする射撃しゃげきほう)を導入どうにゅうした。築城ちくじょうほうとしては、以下いかべる「だいいち方式ほうしき」から「だいさん方式ほうしき」とばれる基本きほん設計せっけい体系たいけいした。生涯しょうがいで、あらたに基礎きそからきずいた要塞ようさいが37かしょ改修かいしゅうたずさわった要塞ようさいが300かしょ攻略こうりゃくした要塞ようさいが53かしょとされている。

1677ねんに、陸軍りくぐん大臣だいじんルーヴォワと、財務ざいむ大臣だいじんコルベール親友しんゆうとして要塞ようさい総監そうかん就任しゅうにんする。1703ねん1がつ14にちフランス元帥げんすいじょせられる。同年どうねん、『要塞ようさい攻囲こういろん』(Traité de l'attaque des places)をあらわす。だがスペイン継承けいしょう戦争せんそう(1702ねん - 1713ねん)では、ヴォーバンが築城ちくじょうした要塞ようさい攻略こうりゃくされるケースもあり、批判ひはんけることもあった。また、どう時期じき執筆しっぴつした『要塞ようさい防御ぼうぎょろん』(De la defense des places)はかんばしい評価ひょうかられなかった。

ヴォーバンは農林のうりんぎょう金融きんゆう政策せいさく植民しょくみん経営けいえいなどにかんする著作ちょさくのこしている。またフランス科学かがくアカデミー名誉めいよ会員かいいんでもあった。1690年代ねんだいにはフランス各地かくち国勢調査こくせいちょうさ推進すいしんし、「フランスのウィリアム・ペティ」とも綽名された。

かれはまた都市とし計画けいかくとして、ヌフ=ブリザックのように自分じぶんしたあたらしいまち計画けいかくした。には内部ないぶ碁盤割ごばんわりにしたパターンの最初さいしょれいであるアラス、1679ねんロンウィ 、1680ねんザールルイ、1679ねんユナング、1681ねんモン=ルイ、1692ねんのモン=ドー・ファンなどがある。一方いっぽうでおりにふれて建築けんちくとして、リールの司令しれい官邸かんてい教会きょうかい造兵ぞうへいしょうやジグェ、プリアンソンの教会きょうかいなどの単独たんどく建物たてもの設計せっけいし、オーネやユッセのしろ修復しゅうふくした。建築けんちくとしての長所ちょうしょがもっとも評価ひょうかされるのは、オレロン、プラヴリンヌやバイヨンヌの塁壁るいへきのマッシヴな簡潔かんけつさであり、れつばしらエンタブラチュア、トロフィー、彫刻ちょうこくした羽目板はめいたゆたかにしたリールのパリもんのバロックてき華麗かれいさ、モブージュのモン・ゲートの単純たんじゅん壮大そうだいさまで範囲はんいひろがるモニュメンタルなもんである。これらにおいて実力じつりょくどう時代じだい建築けんちくリベラル・プリエアンとフランソワ・プロンデルなどがなしとげた高貴こうき厳格げんかくさと壮大そうだいさに接近せっきんしたとみられている。

ヴォーバンはルイ14せい尖兵せんぺいとなってはたらいたが、同時どうじにルイ14せい政策せいさく批判ひはんもしている。1685ねんフォンテーヌブローのみことのりれい(ナントのみことのりれい廃止はいし)にはとく経済けいざいがくてき観点かんてんから反対はんたいした。1707ねんには課税かぜい平等びょうどう下層かそうみん負担ふたん軽減けいげんいた『王室おうしつじゅうぶんいちぜい』(Projet D'une Dixme Royale)をあらわす。同書どうしょじゅう農学のうがく先駆せんくてき業績ぎょうせきとしてられているが、ルイ14せいはこのしょいかり、焚書ふんしょめいじたという。

同年どうねん、パリにて死去しきょした。遺体いたい一部いちぶ現在げんざいオテル・デ・ザンヴァリッド安置あんちされている。

ヴォーバンしき要塞ようさい[編集へんしゅう]

リール要塞ようさい
ヌフ‐ブリザック
  • Association Vauban - ヴォーバンのだいいち方式ほうしきからだいさん方式ほうしきしきがある。

軍事ぐんじ技術ぎじゅつしゃとしてのヴォーバンの素質そしつは、あたらしい方法ほうほう発明はつめいよりむしろ伝統でんとうてき方法ほうほう使用しよう適合てきごうさせた機略きりゃく縦横じゅうおうてんにあったといわれ、その巧妙こうみょうさはピレネー山脈さんみゃくのモン=ルイ、そしてサヴォイア公国こうこくりょうにあるモン・ドーファンやケイラじょうのような困難こんなん場所ばしょにおいてよく発揮はっきされている。

がけた要塞ようさいのうちでもっとも有名ゆうめいなのは、リール要塞ようさい(1668-1674)、モブージュ要塞ようさい(1679ねん-1685ねん)、そしてヌフ・ブリザック(1697ねん-1708ねん)である。かれ要塞ようさいのいくつか、とりわけロンウィ(1678ねん建造けんぞう)は1914ねん-1918ねん戦争せんそうにいたるまで効果こうかてき軍用ぐんようとしてもちいられた。

中世ちゅうせいまでの石積いしつみでたか城壁じょうへきは、ルネサンスおさむしろほう出現しゅつげんすると格好かっこう射撃しゃげき目標もくひょうとなった。おさむしろほう威力いりょく減殺げんさいするために、城壁じょうへきひくあつみのあるるいへと変化へんかしていった[3]一方いっぽう防御ぼうぎょがわとしても、どう時期じき登場とうじょうしたじゅう威力いりょく活用かつようし、せてくるてき十字砲火じゅうじほうかびせられるよう、死角しかくがないように城壁じょうへきからそときにしたりょう堡がきずかれるようになった。こうしてりょう堡式城郭じょうかく発達はったつしていった。

ヴォーバンしき要塞ようさいりょう堡式城郭じょうかく完成かんせいがたともえる。ヴォーバンの築城ちくじょうほうは、それまでにフランスやイタリアで定着ていちゃくしていた方法ほうほうくら独創どくそうてきなものではない。ただし、それらを精緻せいち体系たいけいとしてつくげたことにヴォーバンの功績こうせきがある。

1680ねん以前いぜんのヴォーバンの築城ちくじょうほうは「だいいち方式ほうしき」とばれ、基本きほんてきには当時とうじ標準ひょうじゅんてき方式ほうしきである。典型てんけいれいザールルイられる。りょう堡の先端せんたん同士どうし間隔かんかくやく300mに設定せっていし、要塞ようさい全体ぜんたい形状けいじょうせん対称たいしょう多角たかくがたとされた。りょう堡とりょう堡のあいだにはラヴェラン(半月はんつき堡)とばれる本体ほんたい分離ぶんりした防御ぼうぎょ施設しせつかれた。

1682ねんベルフォール築城ちくじょう以降いこう採用さいようされた「だい方式ほうしき」では、ヴォーバンの経験けいけんもとづく改良かいりょうれられている。まずりょう堡をじゅうしきにして、外側そとがわ本体ほんたい分離ぶんりし、外側そとがわとされても抗戦こうせんつづけられるようにした。ラヴェランの内側うちがわ設置せっちされる凹堡も強化きょうかされた。

1698ねんのヌフ=ブリザックの築城ちくじょう採用さいようされた「だいさん方式ほうしき」ではラヴェランも二重化にじゅうかされた。このようにして、たてふかせいたかめた堅固けんご防御ぼうぎょシステムが完成かんせいした。

後世こうせいへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

五稜郭ごりょうかく 末期まっきほしがた要塞ようさい

ヴォーバン以降いこうのフランスでの要塞ようさい築城ちくじょう必要ひつようせいもとづいてすすめられたものであるが、国家こっか財政ざいせいにとってはおも負担ふたんとなった。負担ふたん国民こくみんわされ、やがてフランス革命かくめいにつながっていく。だが皮肉ひにくなことにフランス革命かくめい戦争せんそうでは、これらの要塞ようさい旧式きゅうしきでありながら、国境こっきょう防衛ぼうえいあらためて効果こうか発揮はっきした。

しかしナポレオン戦争せんそう時代じだいはいって、軍隊ぐんたい国民こくみんぐんとしてだい規模きぼし、兵站へいたん通信つうしん機能きのう進歩しんぽすると、要塞ようさい重要じゅうようせい低下ていかした。ナポレオンおおくの場合ばあいてき要塞ようさい予備よび部隊ぶたいまかせ、みずからは主力しゅりょく部隊ぶたいとも要塞ようさい無視むししててき奥深おくふかくへ侵攻しんこうした。たいふつだい同盟どうめいぐん同様どうよう戦略せんりゃくったので、ナポレオン戦争せんそうちゅうおさむしろせんはほとんどおこなわれなかった。こうして、要塞ようさいはコストがかかるわりに、戦略せんりゃくてきには補助ほじょてき位置いちづけのものとなった。

その野砲やほう射程しゃていびたことにより、中心ちゅうしん都市としそのものの周囲しゅういりょう堡式の城郭じょうかくおおうのではなく、中心ちゅうしん都市としから一定いってい距離きょりいた地点ちてん小型こがたのヴォーバンしき要塞ようさいともいえる堡塁ほうるい複数ふくすうきずき、そのネットワークをもって中心ちゅうしん都市とし防衛ぼうえいするというかんがかた主流しゅりゅうとなった。日本にっぽんにおいては、江戸えど台場だいばはこの関係かんけいにあるとかんがえられるが、幕府ばくふ予算よさん不足ふそくのためネットワークは完成かんせいわった。函館はこだて五稜郭ごりょうかくもこの関係かんけいにあるというかんがかたもあるが、五稜郭ごりょうかくはこの目的もくてき城郭じょうかくとしてはふる形式けいしきである(その一方いっぽう後述こうじゅつする塹壕ざんごうせん原型げんけいはやくもまれており、戊辰戦争ぼしんせんそう西洋せいようにおける新旧しんきゅう戦法せんぽう混在こんざいする状況じょうきょうにあった)。

20世紀せいきはいると、永久えいきゅう不動産ふどうさん柔軟じゅうなんせいがなく莫大ばくだいなコストがかかる要塞ようさい永久えいきゅう築城ちくじょう)は時代遅じだいおくれとなり、いつどこでも、都合つごうのいい場所ばしょつくれる野戦やせん築城ちくじょう塹壕ざんごう)が主流しゅりゅうとなった。にち戦争せんそうにおいてはロシアぐん構築こうちくした重厚じゅうこう要塞ようさい旅順りょじゅん要塞ようさい)は当時とうじ出現しゅつげんした機関きかんほう併用へいようすることで絶大ぜつだい防御ぼうぎょ威力いりょく発揮はっきした。それでもマジノせんのように、塹壕ざんごうせんどう規模きぼのものを永久えいきゅう要塞ようさい手法しゅほう建造けんぞうするという野心やしんてきこころみもなされたが、無用むよう長物ちょうぶつわった。ただし海岸かいがん砲台ほうだいについては、その特性とくせいうえかんほうくらべて有利ゆうりであったので、有効ゆうこう防衛ぼうえい施設しせつとして機能きのうした。なお、ヴォーバンが建設けんせつした防衛ぼうえい施設しせつぐん2008ねん世界せかい遺産いさん登録とうろくされた。

自身じしん築造ちくぞう理論りろんはつとに有名ゆうめいで、かれ回想かいそうろくぜん建築けんちく遵守じゅんしゅすべきいくつかの金言きんげんしゅう (Plusieurs maximes bonnes à observer par tous ceux qui font bâtir)』は完全かんぜん建築けんちくろんとしてあらわされ、1968ねんにはG. A. ロートロックによる英訳えいやくばん刊行かんこうされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Douze fortifications de Vauban au Patrimoine mondial de l'Unesco dans Le Monde du 7 juillet 2008.
  2. ^ Douze sites de Vauban classés au Patrimoine mondial de l'humanité dans Le Figaro du 8 juillet 2008.
  3. ^ 榴弾りゅうだん破壊はかいりょく柔軟じゅうなんるい吸収きゅうしゅうさせるため。また爆発ばくはつ直後ちょくご飛沫しぶき兵士へいしきずつけることふせぐことが可能かのう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]