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フラ・アンジェリコ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
フラ・アンジェリコ
ルカ・シニョレッリがフラ・アンジェリコの死後しごの1505ねんごろに『アンチキリストの支配しはい』にえがいた肖像しょうぞう部分ぶぶん)。オルヴィエートだい聖堂せいどう
本名ほんみょう グイード・ディ・ピエトロ
誕生たんじょう 1390ねん / 1395ねんころ
出生しゅっしょう イタリアの旗 イタリア
ヴィッキオ
死没しぼつねん 1455ねん2がつ18にち
死没しぼつ イタリアの旗 イタリア
ローマ
国籍こくせき イタリアの旗 イタリア
運動うんどう動向どうこう 初期しょきルネサンス
芸術げいじゅつ分野ぶんや 絵画かいが
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フラ・アンジェリコまたはベアート・アンジェリコ: Fra' Angelico / Beato Angelico1390ねん / 1395ねんころ[1] - 1455ねん2がつ18にち)は、初期しょきルネサンスイタリアじん画家がか本名ほんみょうグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、フラ・アンジェリコは「修道しゅうどうアンジェリコ」を意味いみする通称つうしょうであり、「アンジェリコ」は「天使てんしのような人物じんぶつ」という意味いみである。どう時代じだい人々ひとびとからは「フィエーゾレ修道しゅうどうジョヴァンニ」を意味いみするフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前なまえでもられていた[2]

フラ・アンジェリコは15世紀せいき前半ぜんはんのフィレンツェを代表だいひょうする画家がかで、イタリアでは存命ぞんめいに「ぶくしゃアンジェリコ」を意味いみするベアート・アンジェリコともばれており、これはフラ・アンジェリコが宗教しゅうきょうてきモチーフを題材だいざいとした絵画かいがえが才能さいのうすぐれていたことに由来ゆらいしていた[3]。1982ねん教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいがフラ・アンジェリコをぶくしゃ認定にんていしたことにより[4]名実めいじつともに「ベアート・アンジェリコ(ぶくしゃアンジェリコ)」となった。「フィエーゾレ」はフラ・アンジェリコの本名ほんみょう一部いちぶだと誤解ごかいされることもあるが、たんドミニコ修道しゅうどうかい誓願せいがんてた場所ばしょ町名ちょうめいぎず、同名どうめいのジョヴァンニという修道しゅうどうがいたことから、二人ふたり区別くべつするために使用しようされただけである。ローマカトリック教会きょうかい殉教者じゅんきょうしゃ名簿めいぼ (en:Roman Martyrology) [5]には「ぶくしゃジョヴァンニ・フィエーゾレ、愛称あいしょうアンジェリコ Beatus Ioannes Faesulanus, cognomento Angelicus」という名前なまえ記載きさいされている。

ジョルジョ・ヴァザーリはその著書ちょしょ画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』でフラ・ジョヴァンニ・アンジェリコという名前なまえ記述きじゅつし、「まれに完璧かんぺき才能さいのうぬし[6]」としてつぎのように紹介しょうかいしている。

この修道しゅうどうをいくらとなえてもめすぎるということはない。あらゆる言動げんどうにおいて謙虚けんきょ温和おんわ人物じんぶつであり、えが絵画かいが才能さいのうにあふれており信心しんじんふか敬虔けいけん作品さくひんばかりだった[6]

略歴りゃくれき

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聖者せいじゃ聖母子せいぼし部分ぶぶん(1424ねん - 1425ねんごろ
せいドミニコ教会きょうかい(フィエーゾレ)

1395ねん - 1436ねん

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フラ・アンジェリコは14世紀せいきまつトスカーナしゅうフィレンツェ北部ほくぶのフィエーゾレ近郊きんこうヴィッキオのルペカニーニャでまれた[7]。フラ・アンジェリコの両親りょうしんについては一切いっさいられていない。洗礼せんれいめいはグイードかグイドリーノである。フラ・アンジェリコにかんする最初さいしょ記録きろくは、1417ねん10がつ17にちカルメル修道しゅうどうかい主催しゅさいする信心しんじんかい入信にゅうしんしたというもので、その記録きろくにはグイード・ディ・ピエトロという名前なまえしるされている。この記録きろくにはフラ・アンジェリコがすでに画家がかとして生計せいけいてていたこともかれており、このことは1418ねんの1がつと2がつにサン・ステファノ・デル・ポンテ教会きょうかい依頼いらい絵画かいがえがいて報酬ほうしゅうったという記録きろくからも裏付うらづけられる[8]修道しゅうどうとしての記録きろくのこっている最古さいこ記録きろくは1423ねんのもので、フィエーゾレのドミニコ修道しゅうどうかい入信にゅうしんしたときにあたらしく名乗なのったとおもわれるフラ・ジョヴァンニという名前なまえ最初さいしょしるされた記録きろくとなっている[9]

ヴァザーリの著作ちょさくでは、フラ・アンジェリコは当初とうしょ装飾そうしょく写本しゃほん画家がかとして修行しゅぎょうみ、ドミニコ修道しゅうどう装飾そうしょく写本しゃほん作家さっかでもあったあにベネデットとともにはたらいていたのではないかとされている。フィレンツェのサン・マルコにはフラ・アンジェリコが制作せいさくかかわったとおもわれる装飾そうしょく写本しゃほん所蔵しょぞうされている[6]画家がかロレンツォ・モナコがフラ・アンジェリコの絵画かいがではないかといわれ、シエナ影響えいきょうをフラ・アンジェリコの作品さくひんにみることができる。存命ぞんめいちゅう修道しゅうどうかいなん重要じゅうよう役職やくしょくいたが、創作そうさく活動かつどうにはまったく影響えいきょうおよぼすことはなく、フラ・アンジェリコがえが絵画かいがはたちまちのうちに有名ゆうめいになっていった。ヴァザーリによるとフラ・アンジェリコが最初さいしょえがいた作品さくひん祭壇さいだんで、フィレンツェのカルトゥジオ修道しゅうどうかいのためのものとされるが現存げんそんはしていない[6]

フラ・アンジェリコは1408ねんから1418ねんにかけてコルトーナのドミニコかい修道院しゅうどういん滞在たいざいし、ゲラルド・スタルニーナ(Gherardo Starnina) の助手じょしゅ、あるいは部下ぶかとして教会きょうかいようのフレスコ制作せいさくしているが、この作品さくひん現存げんそんしていない[10]。1418ねんから1436ねんにはフィエーゾレの修道院しゅうどういんおおくのフレスコ祭壇さいだんえがいており、どれも保存ほぞん状態じょうたいわるかったものの後年こうねんになってから修復しゅうふくされている。ロンドンのナショナル・ギャラリーにはれつぶくされたドミニコ修道しゅうどうら250にん以上いじょう人物じんぶつかこまれるキリストの栄光えいこうえがいた祭壇さいだんかんひん状態じょうたい収蔵しゅうぞうされており、フラ・アンジェリコの才能さいのうしめ好例こうれいとなっている。

1436ねん - 1445ねん サン・マルコ、フィレンツェ

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『マエスタ』(1437ねん - 1446ねんごろ
サン・マルコ美術館びじゅつかん(フィレンツェ)
玉座ぎょくざ聖母子せいぼしまわりをかこきよしコスマス、せいダミアン、ひじりヨハネら聖人せいじんえがかれている

フラ・アンジェリコは1436ねんにフィエーゾレの修道院しゅうどういんから、フィレンツェにあたらしく建設けんせつされたサン・マルコ修道院しゅうどういんへとおおくの修道しゅうどうとともにうつった。この移住いじゅうはフラ・アンジェリコの画家がかとしてのキャリアに重要じゅうよう出会であいをもたらした。当時とうじのフィレンツェは芸術げいじゅつ最先端さいせんたん都市としであり、さらにサン・マルコ修道院しゅうどういん世俗せぞく厄介やっかいごとからのがれるためのおおきな個室こしつっていた[11]、フィレンツェでもっとも裕福ゆうふく権力けんりょくしゃコジモ・デ・メディチ知遇ちぐうて、その後援こうえんけたのである。ヴァザーリによれば、コジモがフラ・アンジェリコに修道院しゅうどういん壮大そうだい教会きょうかい参事さんじかい会議かいぎじょうなどの内部ないぶ装飾そうしょく要請ようせいし、階段かいだん上部じょうぶの『受胎じゅたい告知こくち』やかく部屋へやかべにキリストの生涯しょうがいえがいた敬虔けいけんしょうフレスコなどをえがかせたとなっている[6]

1439ねんにはもっとも有名ゆうめい作品さくひんひとつである祭壇さいだんマエスタ』をサン・マルコ修道院しゅうどういんのためにえがいているが、この作品さくひん当時とうじ絵画かいがとしてはきわめて異例いれいなものだった。おおくの聖人せいじんかこまれた聖母子せいぼしという構図こうず自体じたいはありふれたもので、明確めいかく天界てんかいでの光景こうけいとしてえがかれ、聖人せいじん天使てんし俗人ぞくじんよりもはるかに神聖しんせい存在そんざいであることをしめすためにちゅうかんで表現ひょうげんされるのが通常つうじょうだった。しかしながらフラ・アンジェリコがえがいたこの作品さくひんでは聖人せいじんたちは普通ふつう地上ちじょうっており、聖母せいぼ栄光えいこうともかちうことをよろこび、まるで談笑だんしょうしているかのようなごく自然しぜん姿すがた聖人せいじんたちをえがしている。このような構図こうずせい会話かいわばれる絵画かいが形式けいしきとしてられるようになり、のちジョヴァンニ・ベリーニペルジーノラファエロ・サンティらもすうおおくのせい会話かいわがけることとなった[12]

1445ねん - 1455ねん バチカン

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せいラウレンティウスを助祭じょさいにんずるせいペトロ』(1447ねん - 1449ねん
バチカン宮殿きゅうでんニコラウス5せい礼拝れいはいどう(バチカン)

1445ねんにローマ教皇きょうこうエウゲニウス4せいサン・ピエトロだい聖堂せいどう秘蹟ひせき礼拝れいはいどうのフレスコえがかせるために、フラ・アンジェリコをローマへと召致しょうちした[13]。ヴァザーリは、このときフラ・アンジェリコはローマ教皇きょうこうニコラウス5せいからフィレンツェ大司教だいしきょう地位ちい提示ていじされたが、これをってべつ修道しゅうどう推薦すいせんしたと断言だんげんしている。このエピソードは現在げんざいつたわっているフラ・アンジェリコの人柄ひとがらからするといかにももっともらしくおもえるが、もしヴァザーリの著作ちょさくかれた日付ひづけ正確せいかくであるとするならば、当時とうじのローマ教皇きょうこうはニコラウス5せいではなくエウゲニウス4せいである[14]。1447ねんにフラ・アンジェリコは弟子でしベノッツォ・ゴッツォリとともにバチカンをはなれてオルヴィエート聖堂せいどう絵画かいが制作せいさくおこなっている。このときおなじく弟子でしだったザノビ・ストロッツィも同行どうこうしたとかんがえられている[15]

フラ・アンジェリコは1447ねんから1449ねんにかけてバチカンにもどり、ローマ教皇きょうこうニコラウス5せい要請ようせいバチカン宮殿きゅうでんの『ニコラウス5せい礼拝れいはいどうフレスコ』をデザインしている。これは初期しょきキリスト教きりすときょう殉教じゅんきょうものせいステファノせいラウレンティウス生涯しょうがいえがいたフレスコで、制作せいさくたっては弟子でしがかなりの部分ぶぶんえがいているのではないかともかんがえられている。ニコラウス5せい礼拝れいはいどう小規模しょうきぼ建物たてものだが、かがやくようなフレスコ壁画へきが金箔きんぱくもちいた装飾そうしょくとが宝石ほうせきばこのような印象いんしょうあたえる礼拝れいはいどうである。1449ねんから1452ねんまでフラ・アンジェリコはフィエーゾレ修道院しゅうどういんもど修道しゅうどう院長いんちょうつとめている[6][16]

死去しきょれつぶく

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フラ・アンジェリコは1455ねんに、ローマのドミニコかい修道院しゅうどういん死去しきょした。おそらくローマ教皇きょうこうニコラウス5せい礼拝れいはいどう絵画かいが作成さくせいのためにこの修道院しゅうどういん滞在たいざいしていたとかんがえられており、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会きょうかい埋葬まいそうされた[6][16][17]

キリストよ、栄誉えいよあたきゅう
アペレスでありしためより
すべてをせしために。
わがのなしとげしぎょう
地上ちじょう天界てんかいことなりし。
わが、ジョヴァンニ
トスカーナのはなにもたる
フィレンツェにせいとおる — フラ・アンジェリコの墓碑銘ぼひめい[6][18]

ローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せいが1982ねん11月3にちにフラ・アンジェリコをれつぶくし、1984ねんキリスト教きりすときょう芸術げいじゅつ守護しゅごしゃとして認定にんていした[4]

アンジェリコは「キリストにかんする絵画かいがえがくのであれば、つねにキリストとともにごさなければならない」となんかたったという。このかんがえが「ぶくしゃアンジェリコ」という別称べっしょうかれにもたらしたといえる。アンジェリコの生涯しょうがいはこのうえなく高潔こうけつで、その絵画かいが神聖しんせいうつくしさにあふれている。とくに聖母せいぼマリアをえがいた作品さくひん最上級さいじょうきゅうのもので人々ひとびとおおきな影響えいきょうあたえている — ローマ教皇きょうこうヨハネ・パウロ2せい
フラ・アンジェリコにたいするさまざまな評価ひょうかから、かれぶくしゃばれた理由りゆうることができるかもれない。ドミニコかい修道しゅうどうとして信心しんじんふか禁欲きんよくてき生活せいかつおくり、かみつかえる身分みぶんから逸脱いつだつすることはけっしてなかった。貧者ひんじゃ救済きゅうさいするという修道しゅうどうかいおしえをまもり、つねに愛想あいそよくふるまう人物じんぶつだった。かれえがいたおおくの絵画かいがはすべてせいなるものをあつかった作品さくひんで、完成かんせいした作品さくひんからくわえたり、修正しゅうせいしたりすることはけっしてなかった。これはおそらくかれ自身じしん宗教しゅうきょうてき信念しんねんによるもので、せいなる存在そんざいから霊感れいかんけてえがいた絵画かいがであるため、完成かんせい当時とうじそのままの状態じょうたいかれたのだろう。キリストの絵画かいがえがものつねにキリストとともにあらねばならないというのがかれ口癖くちぐせだった。絵筆えふでをとるときにはつねいのりの言葉ことばささげ、キリスト磔刑たっけいえがいているときにはなみだながしていたにちがいない。『最後さいご審判しんぱん』と『受胎じゅたい告知こくち』はかれとくなんえがいたテーマだった。 — イギリスじん著述ちょじゅつウィリアム・マイケル・ロセッティ (en:William Michael Rossetti)[16]

当時とうじ芸術げいじゅつとフラ・アンジェリコの評価ひょうか

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背景はいけい

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フラ・アンジェリコが活動かつどうした時期じきは、絵画かいがおおきな変革へんかくきていた時代じだいだった。およそ100ねんまえのイタリアじん画家がかジョット・ディ・ボンドーネ作品さくひん源流げんりゅうとし、ジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi) らフラ・アンジェリコとほぼどう時代じだい芸術げいじゅつたちがくわわって、このおおきな変革へんかくすすめていった。ジョットもデ・メナブオイも重要じゅうよう作品さくひんパドヴァ制作せいさくし、ジョットはゴシック様式ようしき修業しゅうぎょうんでいたにもかかわらず[19]サンタ・クローチェ聖堂せいどうのバルディ礼拝れいはいどうえがいたせいフランシスコのフレスコはそれまでのゴシック絵画かいがとはまったくことなるものだった。ジョットの作風さくふうにはおおくの熱狂ねっきょうてきともいえる追随ついずいしゃがあらわれ、ジョットのフレスコ真似まね画家がかなかにはピエトロ・ロレンツェッティのようにおおきな成功せいこうをおさめるもの[12]

芸術げいじゅつのパトロン

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最後さいご審判しんぱん』(1432ねん - 1435ねん
サン・マルコ美術館びじゅつかんフィレンツェ
サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ教会きょうかい依頼いらいえがかれたつばさ祭壇さいだん上部じょうぶパネル

修道しゅうどう画家がかパトロン依頼いらいぬし)は修道院しゅうどういんなどの宗教しゅうきょうてき施設しせつか、教会きょうかい多額たがく寄付きふができる裕福ゆうふく一族いちぞくがほとんどだった。このような修道しゅうどう画家がかたちの信仰しんこうじょう理由りゆうからパトロンも保守ほしゅてき傾向けいこうつよく、さらに裕福ゆうふくであればあるほどより保守ほしゅてきになることがおおかった。依頼いらいえがかれた絵画かいがにはかならずパトロンの名前なまえかれた明細めいさいしょ付属ふぞくしており、おおくの高価こうか金箔きんぱく使用しようされた作品さくひんはそれを依頼いらいしたパトロンの名誉めいよあらわすものだった。ばこはいっている貴重きちょう高価こうか顔料がんりょうとしてラピスラズリヴァーミリオンがある。これら貴重きちょう顔料がんりょうからつくられたがふんだんに使用しようされている作品さくひんも、金箔きんぱく同様どうようにパトロンがいかに裕福ゆうふくであるかを証明しょうめいすることにつながった[20]

どう時代じだい重要じゅうよう画家がか

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フラ・アンジェリコはイタリアじん画家がかジェンティーレ・ダ・ファブリアーノとほぼどう時代じだい画家がかである。ファブリアーノがえがいた祭壇さいだん東方とうほうさん博士はかせ礼拝れいはい』(1423ねんウフィツィ美術館びじゅつかん)は、国際こくさいゴシック絵画かいが最高さいこう傑作けっさくひとつと評価ひょうかされている。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネだい聖堂せいどうブランカッチ礼拝れいはいどうでは、ジョットのあたらしい芸術げいじゅつせい正確せいかく理解りかいしたわかきイタリアじん画家がかマサッチオがフレスコえがいている。当時とうじのフィレンツェには、マサッチオほど人物じんぶつぞう力強ちからづよく、まるできているかのように表現ひょうげんりょくゆたかにえがして芸術げいじゅつ影響えいきょうあたえた画家がかはほとんどいない。マサッチオの年長ねんちょう共同きょうどう制作せいさくしゃマソリーノもフラ・アンジェリコと同年代どうねんだい画家がかである。マサッチオは1428ねんに27さいというわかさで夭折ようせつし、ブランカッチ礼拝れいはいどうのフレスコ未完みかんのままにのこされてしまった[12]

フラ・アンジェリコの祭壇さいだん

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聖母せいぼ戴冠たいかん』(1434ねん - 1435ねん
ウフィツィ美術館びじゅつかん(フィレンツェ)

フラ・アンジェリコの作品さくひんには、それまでの保守ほしゅてきなゴシック様式ようしき先進せんしんてきなルネサンス様式ようしきとが混在こんざいしている。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会きょうかいからの依頼いらいえがき、現在げんざいフィレンツェウフィツィ美術館びじゅつかん所蔵しょぞうする『聖母せいぼ戴冠たいかん』は、金箔きんぱく、ラピスラズリ、バーミリオンなど、14世紀せいきのぞみうる最高さいこう素材そざい大量たいりょう使用しようされた非常ひじょう贅沢ぜいたく祭壇さいだんである。金箔きんぱく使用しようされている背景はいけい聖人せいじんたちの頭上ずじょう後光ごこう衣服いふくえんかざりは非常ひじょう精緻せいち細工ざいくされており、これらはすべてゴシック様式ようしき手法しゅほうである。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの祭壇さいだんちがってルネサンス様式ようしきかんじさせるのは、現実げんじつてき立体りったいかんをもってさん次元じげんてきえがかれた人物じんぶつぞうと、それらの人物じんぶつにまとっている衣装いしょうがる表現ひょうげんやゆったりとしたひだの描写びょうしゃである。えがかれている人物じんぶつ大地だいちではなくくもうえっているが、重量じゅうりょうかんのある表現ひょうげんえがかれている[12]

フラ・アンジェリコのフレスコ

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『キリストの変容へんよう』(1437ねん - 1446ねんごろ
サン・マルコ美術館びじゅつかん(フィレンツェ)

フラ・アンジェリコがフィレンツェのサン・マルコ修道院しゅうどういんのためにえがいた一連いちれんのフレスコは、フラ・アンジェリコがマサッチオのえがいた作品さくひん先進せんしんせい理解りかいし、さらなる進展しんてん絵画かいがあたえたことを物語ものがたっている。裕福ゆうふくなパトロンからの制約せいやくいた限界げんかい超越ちょうえつし、かみたいするふか敬意けいい人間にんげんへの知見ちけんあいえがすことに成功せいこうした。修道しゅうどう部屋へやかべえがいたかざのない静謐せいひつなフレスコは、それをいの修道しゅうどうたちにしん平穏へいおんをもたらした。赤色あかいろよりもあおみをびたピンク色ぴんくいろ多用たようされる一方いっぽうで、いろあざやかで高価こうか顔料がんりょうであるあおけいしょくはほとんど使用しようされていない。ドミニコかい修道しゅうどうふくはくすんでつやのない緑色みどりいろ黒色こくしょく白色はくしょく構成こうせいされている。華美かび印象いんしょうはなく、えがかれている静謐せいひつ人物じんぶつぞうにはしん平穏へいおんみだ要素ようそなにもない。フレスコるものには、あたかもこの絵画かいがべつ平行へいこう世界せかいつうじるまどであるかのように、キリストのこった様々さまざま出来事できごと自分じぶん実際じっさい体験たいけんしているような心理しんりてき効果こうかあたえている。これらのフレスコえがいたフラ・アンジェリコがいかに信心しんじんふか敬虔けいけん男性だんせいであったかを証明しょうめいしている作品さくひんぐんである[12]

マサッチオはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会きょうかいかべえがいた写実しゃじつてきな『せい三位一体さんみいったい』で絵画かいが遠近えんきんほう導入どうにゅうした。のちつづくフラ・アンジェリコもせん遠近えんきんほう絵画かいが手法しゅほう理解りかいし、イタリアじん建築けんちくミケロッツォ・ディ・バルトロメオフィリッポ・ブルネレスキがサン・マルコ地区ちく建設けんせつした拱廊を『受胎じゅたい告知こくち』などの自身じしん作品さくひんれている[12]

フラ・アンジェリコが聖人せいじんたちをえがいた絵画かいが

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教会きょうかい宝物ほうもつせいラウレンティウス』(1447ねん
バチカン宮殿きゅうでんニッコリーネ礼拝れいはいどう(バチカン)
高価こうか顔料がんりょう金箔きんぱくなど貴重きちょう素材そざい使用しようした細密さいみつなデザインは、バチカンが依頼いらいする絵画かいが典型てんけいである

フラ・アンジェリコと弟子でしがローマ教皇きょうこうニコラウス5せいからの召致しょうち礼拝れいはいどう装飾そうしょく絵画かいが制作せいさくのためにバチカンをおとずれたのは、フラ・アンジェリコがふたた教皇きょうこう機嫌きげんをとる必要ひつようがあったことが理由りゆうだった。このちいさな礼拝れいはいどうあしれると、まるで宝石ほうせきばこなかまよんだような感覚かんかくすらおぼえる。壁面へきめんいろあざやかな彩色さいしき金箔きんぱくかざてられ、この豪華ごうか装飾そうしょく比肩ひけんするのはこれより100ねんほどまえにゴシックのイタリアじん画家がかシモーネ・マルティーニ装飾そうしょく担当たんとうしたサン・フランチェスコだい聖堂せいどうしたどうくらいである。しかしながらその作風さくふうにはそれまでの絵画かいが同様どうようにフラ・アンジェリコが終生しゅうせいもとめていた慈悲じひしん信仰しんこうとが如実にょじつあらわれており、人物じんぶつぞうにまとう金箔きんぱく使用しようされた豪華ごうか衣装いしょうやさしくおだやかに表現ひょうげんされている。

えがかれている人物じんぶつ様子ようすかれらからける印象いんしょうからも、フラ・アンジェリコほど聖人せいじんたちを本物ほんもの聖人せいじんらしくえがける画家がか存在そんざいしない。 — ジョルジョ・ヴァザーリ[6]

現存げんそんしているフラ・アンジェリコの絵画かいがなかには、フラ・アンジェリコの下絵したえ弟子でしたちが完成かんせいさせた作品さくひん存在そんざいしている可能かのうせいはある。ベノッツォ・ゴッツォリやジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは当時とうじたか評価ひょうかされていた画家がかだった。ゴッツォリは表現ひょうげんゆたかで現実げんじつてき人物じんぶつぞうえがき、自身じしん作風さくふうをよりルネサンスふう昇華しょうかしていった。メディチからの依頼いらいでフィレンツェのメディチ・リカルディみやマギ礼拝れいはいどうえがいた代表だいひょうさく東方とうほうさん博士はかせ行列ぎょうれつ』が好例こうれいである[21]

後世こうせい画家がかたちへの影響えいきょう

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フラ・アンジェリコの弟子でしベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ慎重しんちょうえがかれた肖像しょうぞうやその絵画かいが技法ぎほうからドメニコ・ギルランダイオとの関連かんれんせいることが出来できる。ギルランダイオはフィレンツェの有力ゆうりょくしゃをパトロンとし、だい規模きぼ構想こうそう作品さくひん次々つぎつぎえがいた。ギルランダイオはミケランジェロでもあった人物じんぶつであり、これらの芸術げいじゅつ系譜けいふつうじてフラ・アンジェリコの影響えいきょう盛期せいきルネサンスへとつながっている。

1508ねんにミケランジェロはシスティーナ礼拝れいはいどう天井てんじょう制作せいさくけた。このときのシスティーナ礼拝れいはいどうには、ギルランダイオ、ラファエロペルジーノボッティチェッリらががけた『キリストの生涯しょうがい』『モーゼの生涯しょうがい』をテーマにした壁画へきがえがかれていた。これらの作品さくひんはいつものバチカンの要望ようぼうどおりだい規模きぼ豪奢ごうしゃなもので、構成こうせい複雑ふくざつさ、人物じんぶつぞうおおさ、細部さいぶにわたる細密さいみつ表現ひょうげん使用しようする金箔きんぱくりょうなどを画家がかたちがきそっているかのような豪華ごうか絢爛けんらんたる壁画へきがである。これらの壁画へきが上部じょうぶにはきらめく衣装いしょう黄金おうごんかんむりにつけた歴代れきだいローマ教皇きょうこう肖像しょうぞうならび、ミケランジェロもこのような壮麗そうれい場所ばしょ絵画かいが制作せいさくおこなった経験けいけんはなかった。そして、ローマ教皇きょうこうユリウス2せいじゅう使徒しと衣装いしょう壁画へきが同様どうよう壮麗そうれいかざてるようもとめたところ、ミケランジェロはじゅう使徒しとはこのうえなく清貧せいひんだったではないかといいかえしたというエピソードがある[12]

フラ・アンジェリコはサン・マルコ修道院しゅうどういんしょう部屋へやに、自身じしん絵画かいが技術ぎじゅつ独自どくじ演出えんしゅつによってうつくしいフレスコ壁画へきが現出げんしゅつした。高価こうか素材そざいであるあおけい顔料がんりょう金箔きんぱくなどを使用しようしなくても素晴すばらしい作品さくひんえがくことが出来できるということを証明しょうめいしたのである。そしてフラ・アンジェリコとおなじくミケランジェロは、かざのないフレスコ技法ぎほう明瞭めいりょうあざやかなやわらかな色彩しきさい重要じゅうよう役割やくわりたすすうにん人物じんぶつぞううごきや身振みぶりのすぐれた表現ひょうげん手法しゅほうなどを作品さくひんれることによって、ミケランジェロは自身じしんがフラ・アンジェリコの直系ちょっけいであることを宣言せんげんしたのである。イタリアルネサンス美術びじゅつ専門せんもんフレデリック・ハート (en:Frederick Hartt) はフラ・アンジェリコのことをレンブラント・ファン・レインエル・グレコフランシスコ・デ・スルバランのような後世こうせい画家がかたちのさきがけとなる「神秘しんぴてき預言よげんしゃ」と表現ひょうげんしている[12]

しんさくさい発見はっけん

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2006ねん11月にフラ・アンジェリコのうしなわれたとかんがえられていた2てん作品さくひん発見はっけんされたという報道ほうどう世界中せかいじゅうでなされた。ジーン・プレストンが所有しょゆうしていたイングランドのオックスフォードにある「質素しっそなテラスハウス」の部屋へやかざられていた絵画かいがで、ジーンのちちが1965ねんにそれぞれ100ポンドで購入こうにゅうしたものを、1974ねんちち死去しきょしたさいにジーンが相続そうぞくした絵画かいがだった。ジーンは中世ちゅうせい研究けんきゅう専門せんもんで、生前せいぜんちちから絵画かいが作者さくしゃだれなのか調しらべてしいという相談そうだんけていた。ジーンはこの2てん絵画かいががルネサンスのフィレンツェでえがかれたすぐれた作品さくひんであると評価ひょうかしたが、ちち代理だいりでジーンが鑑定かんてい依頼いらいした画商がしょうふくめ、だれ一人ひとりとしてこれらの絵画かいが作者さくしゃがフラ・アンジェリコであるとかんがえたものはいなかった。1960年代ねんだいには中世ちゅうせい美術びじゅつひん需要じゅようはほとんどなかったために画商がしょうはまったく興味きょうみしめさず、ジーンのちち中世ちゅうせい装飾そうしょく写本しゃほんなんさつもとめるついでに購入こうにゅうした絵画かいがだった。皮肉ひにくなことにこのときの装飾そうしょく写本しゃほんはスペインの贋作がんさくつくった偽物にせものだったことがあきらかになっている。しかしながら2005ねんになってからブリストル大学だいがくのマイケル・リヴァシッジがフラ・アンジェリコの作品さくひんであると同定どうていした。この2てん絵画かいがは、1439ねんにフラ・アンジェリコがサン・マルコ修道院しゅうどういんのためにえがいたおおきなつばさ祭壇さいだんのサイドパネル8まいのうちの2まいで、200ねん以上いじょうまえナポレオンぐん侵攻しんこうさい裁断さいだんされて修道院しゅうどういんから散逸さんいつしていた。この祭壇さいだん中央ちゅうおう部分ぶぶんはサン・マルコ美術館びじゅつかん以前いぜんのサン・マルコ修道院しゅうどういん)が、6まいのサイドパネルはドイツ、アメリカの美術館びじゅつかんがそれぞれ所蔵しょぞうしており、今回こんかい発見はっけんされた2まいのパネルはむかしうしなわれたとかんがえられていたものだった。イタリア政府せいふがこの2てん作品さくひんげようとしたが、2007ねん4がつ20日はつかおこなわれたオークションで個人こじん収集しゅうしゅうが170まんポンドで落札らくさつした。現在げんざいこれら2てん作品さくひん修復しゅうふくされて、フィレンツェのサン・マルコ美術館びじゅつかん展示てんじされている[22][23]

ギャラリー

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1408ねん - 1436ねん

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1436ねん - 1445ねん

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1445ねん - 1455ねん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ Metropolitan Museum of Art
  2. ^ 出身しゅっしん愛称あいしょうれて通称つうしょうとすることは中世ちゅうせいやルネサンスには普通ふつうのことで、れいとしてレオナルド・ダ・ヴィンチロレンツォ・イル・マニーフィコなどがあげられる
  3. ^ アンドレア・デル・サルト:アンジェリコとどう時代じだいのラファエロやミケランジェロたちは全員ぜんいんベアート・アンジェリコとんでおり、これは画家がか才能さいのうかみからの特別とくべつおくものであるとなされていたためである
  4. ^ a b Bunson, Matthew; Bunson, Margaret (1999). John Paul II's Book of Saints. Our Sunday Visitor. pp. 156. ISBN 0879739347 
  5. ^ 殉教者じゅんきょうしゃ名簿めいぼにはローマカトリック教会きょうかい認定にんていしたすべての聖者せいじゃぶくしゃ記載きさいされている
  6. ^ a b c d e f g h i Giorgio Vasari, Lives of the Artists. Penguin Classics, 1965.
  7. ^ Commune di Vicchio (Firenze), La terra natale di Giotto e del Beato Angelico”. zoomedia. 2011ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  8. ^ Werner Cohn, Il Beato Angelico e Battista di Biagio Sanguigni. Revista d’Arte, V, (1955): pp.207–221.
  9. ^ Stefano Orlandi, Beato Angelico; Monographia Storica della Vita e delle Opere con Un’Appendice di Nuovi Documenti Inediti. Florence: Leo S. Olschki Editore, 1964.
  10. ^ Gherardo Starnina”. Artists. Getty Center. 2011ねん8がつ17にち閲覧えつらんGetty Education
  11. ^ この個室こしつのちにドミニコかい修道しゅうどうジロラモ・サヴォナローラがサン・マルコ修道院しゅうどういんちょうとなって引継ひきついでいる
  12. ^ a b c d e f g h Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, (1970) Thames & Hudson, ISBN 0-500-23136-2
  13. ^ のち教皇きょうこうパウルス3せいによって撤去てっきょされた
  14. ^ ヴァザーリの『画家がか彫刻ちょうこく建築けんちく列伝れつでん』の日付ひづけやエピソードは不確ふたしかなものがおおく、現在げんざいでもそれらあやまりの修正しゅうせい作業さぎょうつづけられている
    John Symonds' "Renaissance in Italy" Vol 3 part 2
    Victor Ginsburgh and Sheila Weyers, Persistence and Fashion in Art, Leuven (2005)[リンク]
    Ginsburgh, Victor and Weyers, Sheila (2006). “Persistence and fashion in art Italian Renaissance from Vasari to Berenson and beyond”. Poetics 34 (1): 24-44. doi:10.1016/j.poetic.2005.07.001. ISSN 0304-422X. https://doi.org/10.1016/j.poetic.2005.07.001. 
  15. ^ Strozzi, Zanobi”. The National Gallery (London). 2011ねん8がつ17にち閲覧えつらん
  16. ^ a b c Rossetti, William Michael. "Angelico, Fra". 1911 Encyclopedia Britannica.
  17. ^ フラ・アンジェリコのはかは、れつぶくされて以来いらい認知にんちきわめてたかくなった
  18. ^ ジョルジョ・ヴァザーリ しる平川ひらかわゆうひろし小谷おたにみのるつかさ やく「フラ・アンジェリコ」『芸術げいじゅつ列伝れつでん1』白水しろみずしゃ、2011ねん、148-149ぺーじISBN 978-4-560-72122-3 より引用いんよう
  19. ^ ジョットのはゴシック絵画かいが巨匠きょしょうチマブーエともいわれている
  20. ^ Michael Baxandall, Painting and Experience in Fifteenth Century Italy,(1974) Oxford University Press, ISBN 0 19 88 1329 5
  21. ^ Paolo Morachiello, Fra Angelico: The San Marco Frescoes. Thames and Hudson, 1990. ISBN 0-500-23729-8
  22. ^ Morris, Steven (2006ねん11月14にち). “A £1m art find behind the spare room door”. The Guardian. http://arts.guardian.co.uk/news/story/0,,1947030,00.html 2011ねん8がつ19にち閲覧えつらん 
  23. ^ Morris, Steven (2007ねん4がつ20日はつか). “Lost altar masterpieces found in spare bedroom fetch £1.7m”. The Guardian. http://arts.guardian.co.uk/art/news/story/0,,2061644,00.html 2011ねん8がつ19にち閲覧えつらん 

出典しゅってん

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  •  この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Angelico, Fra". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 6-7-8.
  • William Michael Rossetti. Angelico, Fra. 1911 Encyclopedia Britannica.
  • William Hood. Fra Angelico at San Marco. Yale University Press, 1993.
  • Morachiello, Paolo. Fra Angelico: The San Marco Frescoes. Thames and Hudson, 1990. ISBN 0-500-23729-8
  • Frederick Hartt, A History of Italian Renaissance Art, Thames & Hudson, 1970. ISBN 0-500-23136-2
  • Giorgio Vasari. Lives of the Artists. first published 1568. Penguin Classics, 1965.
  • Donald Attwater. The Penguin Dictionary of Saints. Penguin Reference Books, 1965.
  • Luciano Berti. Florence, the city and its Art. Bercocci, 1979.
  • Werner Cohn. Il Beato Angelico e Battista di Biagio Sanguigni. Revista d’Arte, V, (1955): 207–221.
  • Stefano Orlandi. Beato Angelico; Monographia Storica della Vita e delle Opere con Un’Appendice di Nuovi Documenti Inediti. Florence: Leo S. Olschki Editore, 1964.
  • ジョルジョ・ヴァザーリしる平川ひらかわゆうひろし小谷おたにとしやく芸術げいじゅつ列伝れつでん1』白水しろみずしゃ、2011ねんISBN 978-4-560-72122-3

日本語にほんご文献ぶんけん

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  • 『フラ・アンジェリコ神秘しんぴ神学しんがく絵画かいが表現ひょうげん』 平凡社へいぼんしゃ、2001ねん
     ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、寺田てらだ光徳みつのり平岡ひらおか洋子ようこ訳注やくちゅう
  • 『フラ・アンジェリコ』 〈アート・ライブラリー〉西村書店にしむらしょてん、1999ねん新装しんそうばん2009ねん
     クリストファー・ロイド/デーヴィド・ホワイト作品さくひん解説かいせつ森田もりた義之よしゆき訳注やくちゅう
  • 『フラ・アンジェリコ 素描そびょう研究けんきゅう色彩しきさいへの関心かんしん』 東京書籍とうきょうしょせき〈イタリア・ルネサンスの巨匠きょしょうたち10〉、1995ねん
     ジョン・ポープ=ヘネシー、喜多村きたむらあきらさと訳注やくちゅう 

関連かんれん文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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