この項目 こうもく では、イタリアの画家 がか について説明 せつめい しています。日本 にっぽん の競走 きょうそう 馬 ば については「フラアンジェリコ 」をご覧 らん ください。
フラ・アンジェリコ またはベアート・アンジェリコ (伊 い : Fra' Angelico / Beato Angelico 、1390年 ねん / 1395年 ねん 頃 ころ [1] - 1455年 ねん 2月 がつ 18日 にち )は、初期 しょき ルネサンス期 き のイタリア人 じん 画家 がか 。本名 ほんみょう はグイード・ディ・ピエトロ (Guido di Pietro) で、フラ・アンジェリコは「修道 しゅうどう 士 し アンジェリコ」を意味 いみ する通称 つうしょう であり、「アンジェリコ」は「天使 てんし のような人物 じんぶつ 」という意味 いみ である。同 どう 時代 じだい の人々 ひとびと からは「フィエーゾレ の修道 しゅうどう 士 し ジョヴァンニ」を意味 いみ するフラ・ジョヴァンニ・ダ・フィエーゾレという名前 なまえ でも知 し られていた[2] 。
フラ・アンジェリコは15世紀 せいき 前半 ぜんはん のフィレンツェを代表 だいひょう する画家 がか で、イタリアでは存命 ぞんめい 時 じ に「福 ぶく 者 しゃ アンジェリコ」を意味 いみ するベアート・アンジェリコとも呼 よ ばれており、これはフラ・アンジェリコが宗教 しゅうきょう 的 てき モチーフを題材 だいざい とした絵画 かいが を描 えが く才能 さいのう に優 すぐ れていたことに由来 ゆらい していた[3] 。1982年 ねん に教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい がフラ・アンジェリコを福 ぶく 者 しゃ に認定 にんてい したことにより[4] 、名実 めいじつ ともに「ベアート・アンジェリコ(福 ぶく 者 しゃ アンジェリコ)」となった。「フィエーゾレ」はフラ・アンジェリコの本名 ほんみょう の一部 いちぶ だと誤解 ごかい されることもあるが、単 たん にドミニコ修道 しゅうどう 会 かい に誓願 せいがん を立 た てた場所 ばしょ の町名 ちょうめい に過 す ぎず、他 た に同名 どうめい のジョヴァンニという修道 しゅうどう 士 し がいたことから、二人 ふたり を区別 くべつ するために使用 しよう されただけである。ローマカトリック教会 きょうかい 殉教者 じゅんきょうしゃ 名簿 めいぼ (en:Roman Martyrology ) [5] には「福 ぶく 者 しゃ ジョヴァンニ・フィエーゾレ、愛称 あいしょう アンジェリコ Beatus Ioannes Faesulanus, cognomento Angelicus 」という名前 なまえ で記載 きさい されている。
ジョルジョ・ヴァザーリ はその著書 ちょしょ 『画家 がか ・彫刻 ちょうこく 家 か ・建築 けんちく 家 か 列伝 れつでん 』でフラ・ジョヴァンニ・アンジェリコという名前 なまえ で記述 きじゅつ し、「まれに見 み る完璧 かんぺき な才能 さいのう の持 も ち主 ぬし [6] 」として次 つぎ のように紹介 しょうかい している。
この修道 しゅうどう 士 し をいくら褒 ほ め称 とな えても褒 ほ めすぎるということはない。あらゆる言動 げんどう において謙虚 けんきょ で温和 おんわ な人物 じんぶつ であり、描 えが く絵画 かいが は才能 さいのう にあふれており信心 しんじん 深 ふか い敬虔 けいけん な作品 さくひん ばかりだった[6] 。
『聖者 せいじゃ と聖母子 せいぼし 』部分 ぶぶん (1424年 ねん - 1425年 ねん 頃 ごろ )聖 せい ドミニコ教会 きょうかい (フィエーゾレ)
フラ・アンジェリコは14世紀 せいき 末 まつ にトスカーナ州 しゅう フィレンツェ 北部 ほくぶ のフィエーゾレ近郊 きんこう ヴィッキオ のルペカニーニャで生 う まれた[7] 。フラ・アンジェリコの両親 りょうしん については一切 いっさい 知 し られていない。洗礼 せんれい 名 めい はグイードかグイドリーノである。フラ・アンジェリコに関 かん する最初 さいしょ の記録 きろく は、1417年 ねん 10月 がつ 17日 にち にカルメル修道 しゅうどう 会 かい が主催 しゅさい する信心 しんじん 会 かい に入信 にゅうしん したというもので、その記録 きろく にはグイード・ディ・ピエトロという名前 なまえ で記 しる されている。この記録 きろく にはフラ・アンジェリコがすでに画家 がか として生計 せいけい を立 た てていたことも書 か かれており、このことは1418年 ねん の1月 がつ と2月 がつ にサン・ステファノ・デル・ポンテ教会 きょうかい の依頼 いらい で絵画 かいが を描 えが いて報酬 ほうしゅう を受 う け取 と ったという他 た の記録 きろく からも裏付 うらづ けられる[8] 。修道 しゅうどう 士 し としての記録 きろく が残 のこ っている最古 さいこ の記録 きろく は1423年 ねん のもので、フィエーゾレのドミニコ修道 しゅうどう 会 かい に入信 にゅうしん したときに新 あたら しく名乗 なの ったと思 おも われるフラ・ジョヴァンニという名前 なまえ が最初 さいしょ に記 しる された記録 きろく となっている[9] 。
ヴァザーリの著作 ちょさく では、フラ・アンジェリコは当初 とうしょ 装飾 そうしょく 写本 しゃほん 画家 がか として修行 しゅぎょう を積 つ み、ドミニコ派 は 修道 しゅうどう 士 し で装飾 そうしょく 写本 しゃほん 作家 さっか でもあった兄 あに ベネデットとともに働 はたら いていたのではないかとされている。フィレンツェのサン・マルコにはフラ・アンジェリコが制作 せいさく に関 かか わったと思 おも われる装飾 そうしょく 写本 しゃほん が所蔵 しょぞう されている[6] 。画家 がか ロレンツォ・モナコ がフラ・アンジェリコの絵画 かいが の師 し ではないかといわれ、シエナ派 は の影響 えいきょう をフラ・アンジェリコの作品 さくひん にみることができる。存命 ぞんめい 中 ちゅう に修道 しゅうどう 会 かい で何 なん 度 ど も重要 じゅうよう な役職 やくしょく に就 つ いたが、創作 そうさく 活動 かつどう にはまったく影響 えいきょう を及 およ ぼすことはなく、フラ・アンジェリコが描 えが く絵画 かいが はたちまちのうちに有名 ゆうめい になっていった。ヴァザーリによるとフラ・アンジェリコが最初 さいしょ に描 えが いた作品 さくひん は祭壇 さいだん 画 が で、フィレンツェのカルトゥジオ修道 しゅうどう 会 かい のためのものとされるが現存 げんそん はしていない[6] 。
フラ・アンジェリコは1408年 ねん から1418年 ねん にかけてコルトーナ のドミニコ会 かい 修道院 しゅうどういん に滞在 たいざい し、ゲラルド・スタルニーナ (Gherardo Starnina) の助手 じょしゅ 、あるいは部下 ぶか として教会 きょうかい 用 よう のフレスコ画 が を制作 せいさく しているが、この作品 さくひん も現存 げんそん していない[10] 。1418年 ねん から1436年 ねん にはフィエーゾレの修道院 しゅうどういん で多 おお くのフレスコ画 が 、祭壇 さいだん 画 が を描 えが いており、どれも保存 ほぞん 状態 じょうたい は悪 わる かったものの後年 こうねん になってから修復 しゅうふく されている。ロンドンのナショナル・ギャラリー には列 れつ 福 ぶく されたドミニコ派 は 修道 しゅうどう 士 し ら250人 にん 以上 いじょう の人物 じんぶつ に囲 かこ まれるキリストの栄光 えいこう を描 えが いた祭壇 さいだん 画 が が完 かん 品 ひん の状態 じょうたい で収蔵 しゅうぞう されており、フラ・アンジェリコの才能 さいのう を示 しめ す好例 こうれい となっている。
1436年 ねん - 1445年 ねん サン・マルコ、フィレンツェ[ 編集 へんしゅう ]
『マエスタ』(1437年 ねん - 1446年 ねん 頃 ごろ ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ)玉座 ぎょくざ の聖母子 せいぼし と周 まわ りを囲 かこ む聖 きよし コスマス、聖 せい ダミアン、聖 ひじり ヨハネら聖人 せいじん が描 えが かれている
フラ・アンジェリコは1436年 ねん にフィエーゾレの修道院 しゅうどういん から、フィレンツェに新 あたら しく建設 けんせつ されたサン・マルコ修道院 しゅうどういん へと多 おお くの修道 しゅうどう 士 し とともに移 うつ った。この移住 いじゅう はフラ・アンジェリコの画家 がか としてのキャリアに重要 じゅうよう な出会 であ いをもたらした。当時 とうじ のフィレンツェは芸術 げいじゅつ の最先端 さいせんたん 都市 とし であり、さらにサン・マルコ修道院 しゅうどういん に世俗 せぞく の厄介 やっかい ごとから逃 のが れるための大 おお きな個室 こしつ を持 も っていた[11] 、フィレンツェでもっとも裕福 ゆうふく な権力 けんりょく 者 しゃ コジモ・デ・メディチ の知遇 ちぐう を得 え て、その後援 こうえん を受 う けたのである。ヴァザーリによれば、コジモがフラ・アンジェリコに修道院 しゅうどういん の壮大 そうだい な教会 きょうかい 参事 さんじ 会 かい 会議 かいぎ 場 じょう などの内部 ないぶ 装飾 そうしょく を要請 ようせい し、階段 かいだん 上部 じょうぶ の『受胎 じゅたい 告知 こくち 』や各 かく 部屋 へや の壁 かべ にキリストの生涯 しょうがい を描 えが いた敬虔 けいけん な小 しょう フレスコ画 が などを描 えが かせたとなっている[6] 。
1439年 ねん にはもっとも有名 ゆうめい な作品 さくひん の一 ひと つである祭壇 さいだん 画 が 『マエスタ 』をサン・マルコ修道院 しゅうどういん のために描 えが いているが、この作品 さくひん は当時 とうじ の絵画 かいが としては極 きわ めて異例 いれい なものだった。多 おお くの聖人 せいじん に囲 かこ まれた聖母子 せいぼし という構図 こうず 自体 じたい はありふれたもので、明確 めいかく に天界 てんかい での光景 こうけい として描 えが かれ、聖人 せいじん や天使 てんし は俗人 ぞくじん よりもはるかに神聖 しんせい な存在 そんざい であることを示 しめ すために宙 ちゅう に浮 う かんで表現 ひょうげん されるのが通常 つうじょう だった。しかしながらフラ・アンジェリコが描 えが いたこの作品 さくひん では聖人 せいじん たちは普通 ふつう に地上 ちじょう に立 た っており、聖母 せいぼ の栄光 えいこう を共 とも に分 わ かち合 あ うことを喜 よろこ び、まるで談笑 だんしょう しているかのようなごく自然 しぜん な姿 すがた で聖人 せいじん たちを描 えが き出 だ している。このような構図 こうず は聖 せい 会話 かいわ と呼 よ ばれる絵画 かいが 形式 けいしき として知 し られるようになり、後 のち にジョヴァンニ・ベリーニ 、ペルジーノ 、ラファエロ・サンティ らも数 すう 多 おお くの聖 せい 会話 かいわ を手 て がけることとなった[12] 。
『聖 せい ラウレンティウスを助祭 じょさい に任 にん ずる聖 せい ペトロ』(1447年 ねん - 1449年 ねん ) バチカン宮殿 きゅうでん ニコラウス5世 せい 礼拝 れいはい 堂 どう (バチカン)
1445年 ねん にローマ教皇 きょうこう エウゲニウス4世 せい がサン・ピエトロ大 だい 聖堂 せいどう の秘蹟 ひせき の礼拝 れいはい 堂 どう のフレスコ画 が を描 えが かせるために、フラ・アンジェリコをローマへと召致 しょうち した[13] 。ヴァザーリは、このときフラ・アンジェリコはローマ教皇 きょうこう ニコラウス5世 せい からフィレンツェ大司教 だいしきょう の地位 ちい を提示 ていじ されたが、これを断 た って別 べつ の修道 しゅうどう 士 し を推薦 すいせん したと断言 だんげん している。このエピソードは現在 げんざい 伝 つた わっているフラ・アンジェリコの人柄 ひとがら からするといかにももっともらしく思 おも えるが、もしヴァザーリの著作 ちょさく に書 か かれた日付 ひづけ が正確 せいかく であるとするならば、当時 とうじ のローマ教皇 きょうこう はニコラウス5世 せい ではなくエウゲニウス4世 せい である[14] 。1447年 ねん にフラ・アンジェリコは弟子 でし のベノッツォ・ゴッツォリ とともにバチカンを離 はな れてオルヴィエート の聖堂 せいどう で絵画 かいが 制作 せいさく を行 おこな っている。このとき同 おな じく弟子 でし だったザノビ・ストロッツィも同行 どうこう したと考 かんが えられている[15] 。
フラ・アンジェリコは1447年 ねん から1449年 ねん にかけてバチカンに戻 もど り、ローマ教皇 きょうこう ニコラウス5世 せい の要請 ようせい でバチカン宮殿 きゅうでん の『ニコラウス5世 せい 礼拝 れいはい 堂 どう フレスコ画 が 』をデザインしている。これは初期 しょき キリスト教 きりすときょう の殉教 じゅんきょう 者 もの 聖 せい ステファノ と聖 せい ラウレンティウス の生涯 しょうがい を描 えが いたフレスコ画 が で、制作 せいさく に当 あ たっては弟子 でし がかなりの部分 ぶぶん を描 えが いているのではないかとも考 かんが えられている。ニコラウス5世 せい 礼拝 れいはい 堂 どう は小規模 しょうきぼ な建物 たてもの だが、輝 かがや くようなフレスコ壁画 へきが と金箔 きんぱく を用 もち いた装飾 そうしょく とが宝石 ほうせき 箱 ばこ のような印象 いんしょう を与 あた える礼拝 れいはい 堂 どう である。1449年 ねん から1452年 ねん までフラ・アンジェリコはフィエーゾレ修道院 しゅうどういん に戻 もど り修道 しゅうどう 院長 いんちょう も務 つと めている[6] [16] 。
フラ・アンジェリコは1455年 ねん に、ローマのドミニコ会 かい 修道院 しゅうどういん で死去 しきょ した。おそらくローマ教皇 きょうこう ニコラウス5世 せい の礼拝 れいはい 堂 どう の絵画 かいが 作成 さくせい のためにこの修道院 しゅうどういん に滞在 たいざい していたと考 かんが えられており、ローマのサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会 きょうかい に埋葬 まいそう された[6] [16] [17] 。
キリストよ、
我 が に
栄誉 えいよ を
与 あた え
給 きゅう え
アペレスでありしためより
すべてを
差 さ し
出 だ せしために。
我 わが のなしとげし
業 ぎょう 地上 ちじょう 、
天界 てんかい 、
異 こと なりし。
我 わが 、ジョヴァンニ
トスカーナの
花 はな にも
似 に たる
フィレンツェに
生 せい を
享 とおる く
— フラ・アンジェリコの墓碑銘 ぼひめい [6] [18]
ローマ教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい が1982年 ねん 11月3日 にち にフラ・アンジェリコを列 れつ 福 ぶく し、1984年 ねん にキリスト教 きりすときょう 芸術 げいじゅつ 家 か の守護 しゅご 者 しゃ として認定 にんてい した[4] 。
アンジェリコは「キリストに関 かん する絵画 かいが を描 えが くのであれば、常 つね にキリストとともに過 す ごさなければならない」と何 なん 度 ど も語 かた ったという。この考 かんが えが「福 ぶく 者 しゃ アンジェリコ」という別称 べっしょう を彼 かれ にもたらしたといえる。アンジェリコの生涯 しょうがい はこの上 うえ なく高潔 こうけつ で、その絵画 かいが は神聖 しんせい な美 うつく しさにあふれている。とくに聖母 せいぼ マリアを描 えが いた作品 さくひん は最上級 さいじょうきゅう のもので人々 ひとびと に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えている — ローマ教皇 きょうこう ヨハネ・パウロ2世 せい
フラ・アンジェリコに
対 たい するさまざまな
評価 ひょうか から、
彼 かれ が
福 ぶく 者 しゃ と
呼 よ ばれた
理由 りゆう を
知 し ることができるかも
知 し れない。ドミニコ
会 かい 修道 しゅうどう 士 し として
信心 しんじん 深 ふか く
禁欲 きんよく 的 てき な
生活 せいかつ を
送 おく り、
神 かみ に
仕 つか える
身分 みぶん から
逸脱 いつだつ することは
決 けっ してなかった。
貧者 ひんじゃ を
救済 きゅうさい するという
修道 しゅうどう 会 かい の
教 おし えを
守 まも り、つねに
愛想 あいそ よくふるまう
人物 じんぶつ だった。
彼 かれ が
描 えが いた
多 おお くの
絵画 かいが はすべて
聖 せい なるものを
扱 あつか った
作品 さくひん で、
完成 かんせい した
作品 さくひん に
後 ご から
手 て を
加 くわ えたり、
修正 しゅうせい したりすることは
決 けっ してなかった。これはおそらく
彼 かれ 自身 じしん の
宗教 しゅうきょう 的 てき 信念 しんねん によるもので、
聖 せい なる
存在 そんざい から
霊感 れいかん を
受 う けて
描 えが いた
絵画 かいが であるため、
完成 かんせい 当時 とうじ そのままの
状態 じょうたい に
留 と め
置 お かれたのだろう。キリストの
絵画 かいが を
描 えが く
者 もの は
常 つね にキリストとともにあらねばならないというのが
彼 かれ の
口癖 くちぐせ だった。
絵筆 えふで をとるときには
常 つね に
祈 いの りの
言葉 ことば を
捧 ささ げ、キリスト
磔刑 たっけい 画 が を
描 えが いているときには
涙 なみだ を
流 なが していたに
違 ちが いない。『
最後 さいご の
審判 しんぱん 』と『
受胎 じゅたい 告知 こくち 』は
彼 かれ が
特 とく に
何 なん 度 ど も
描 えが いたテーマだった。
— イギリス人 じん 著述 ちょじゅつ 家 か ウィリアム・マイケル・ロセッティ (en:William Michael Rossetti )[16]
当時 とうじ の芸術 げいじゅつ とフラ・アンジェリコの評価 ひょうか [ 編集 へんしゅう ]
フラ・アンジェリコが活動 かつどう した時期 じき は、絵画 かいが に大 おお きな変革 へんかく が起 お きていた時代 じだい だった。およそ100年 ねん 前 まえ のイタリア人 じん 画家 がか ジョット・ディ・ボンドーネ の作品 さくひん を源流 げんりゅう とし、ジュスト・デ・メナブオイ (en:Giusto de' Menabuoi ) らフラ・アンジェリコとほぼ同 どう 時代 じだい の芸術 げいじゅつ 家 か たちが加 くわ わって、この大 おお きな変革 へんかく を推 お し進 すす めていった。ジョットもデ・メナブオイも重要 じゅうよう な作品 さくひん をパドヴァ で制作 せいさく し、ジョットはゴシック様式 ようしき の修業 しゅうぎょう を積 つ んでいたにもかかわらず[19] 、サンタ・クローチェ聖堂 せいどう のバルディ礼拝 れいはい 堂 どう に描 えが いた聖 せい フランシスコのフレスコ画 が はそれまでのゴシック絵画 かいが とはまったく異 こと なるものだった。ジョットの作風 さくふう には多 おお くの熱狂 ねっきょう 的 てき ともいえる追随 ついずい 者 しゃ があらわれ、ジョットのフレスコ画 が を真似 まね た画家 がか の中 なか にはピエトロ・ロレンツェッティ のように大 おお きな成功 せいこう をおさめる者 もの も出 で た[12] 。
『最後 さいご の審判 しんぱん 』(1432年 ねん - 1435年 ねん )サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ ) サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ教会 きょうかい の依頼 いらい で描 えが かれた多 た 翼 つばさ 祭壇 さいだん 画 が の上部 じょうぶ パネル
修道 しゅうどう 士 し 画家 がか のパトロン (依頼 いらい 主 ぬし )は修道院 しゅうどういん などの宗教 しゅうきょう 的 てき 施設 しせつ か、教会 きょうかい に多額 たがく な寄付 きふ ができる裕福 ゆうふく な一族 いちぞく がほとんどだった。このような修道 しゅうどう 士 し 画家 がか たちの信仰 しんこう 上 じょう の理由 りゆう からパトロンも保守 ほしゅ 的 てき な傾向 けいこう が強 つよ く、さらに裕福 ゆうふく であればあるほどより保守 ほしゅ 的 てき になることが多 おお かった。依頼 いらい で描 えが かれた絵画 かいが には必 かなら ずパトロンの名前 なまえ が書 か かれた明細 めいさい 書 しょ が付属 ふぞく しており、多 おお くの高価 こうか な金箔 きんぱく が使用 しよう された作品 さくひん はそれを依頼 いらい したパトロンの名誉 めいよ を表 あらわ すものだった。絵 え の具 ぐ 箱 ばこ に入 はい っている貴重 きちょう で高価 こうか な顔料 がんりょう としてラピスラズリ やヴァーミリオン がある。これら貴重 きちょう な顔料 がんりょう から作 つく られた絵 え の具 ぐ がふんだんに使用 しよう されている作品 さくひん も、金箔 きんぱく 同様 どうよう にパトロンがいかに裕福 ゆうふく であるかを証明 しょうめい することにつながった[20] 。
フラ・アンジェリコはイタリア人 じん 画家 がか ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ とほぼ同 どう 時代 じだい の画家 がか である。ファブリアーノが描 えが いた祭壇 さいだん 画 が 『東方 とうほう 三 さん 博士 はかせ の礼拝 れいはい 』(1423年 ねん 、ウフィツィ美術館 びじゅつかん )は、国際 こくさい ゴシック絵画 かいが の最高 さいこう 傑作 けっさく の一 ひと つと評価 ひょうか されている。フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ大 だい 聖堂 せいどう ブランカッチ礼拝 れいはい 堂 どう では、ジョットの新 あたら しい芸術 げいじゅつ 性 せい を正確 せいかく に理解 りかい した若 わか きイタリア人 じん 画家 がか マサッチオ がフレスコ画 が を描 えが いている。当時 とうじ のフィレンツェには、マサッチオほど人物 じんぶつ 像 ぞう を力強 ちからづよ く、まるで生 い きているかのように表現 ひょうげん 力 りょく 豊 ゆた かに描 えが き出 だ して他 た の芸術 げいじゅつ 家 か に影響 えいきょう を与 あた えた画家 がか はほとんどいない。マサッチオの年長 ねんちょう の共同 きょうどう 制作 せいさく 者 しゃ マソリーノ もフラ・アンジェリコと同年代 どうねんだい の画家 がか である。マサッチオは1428年 ねん に27歳 さい という若 わか さで夭折 ようせつ し、ブランカッチ礼拝 れいはい 堂 どう のフレスコ画 が は未完 みかん のままに残 のこ されてしまった[12] 。
『聖母 せいぼ 戴冠 たいかん 』(1434年 ねん - 1435年 ねん )ウフィツィ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ)
フラ・アンジェリコの作品 さくひん には、それまでの保守 ほしゅ 的 てき なゴシック様式 ようしき と先進 せんしん 的 てき なルネサンス様式 ようしき とが混在 こんざい している。フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会 きょうかい からの依頼 いらい で描 えが き、現在 げんざい フィレンツェ のウフィツィ美術館 びじゅつかん が所蔵 しょぞう する『聖母 せいぼ 戴冠 たいかん 』は、金箔 きんぱく 、ラピスラズリ、バーミリオンなど、14世紀 せいき で望 のぞ みうる最高 さいこう の素材 そざい が大量 たいりょう に使用 しよう された非常 ひじょう に贅沢 ぜいたく な祭壇 さいだん 画 が である。金箔 きんぱく が使用 しよう されている背景 はいけい や聖人 せいじん たちの頭上 ずじょう の後光 ごこう 、衣服 いふく の縁 えん 飾 かざ りは非常 ひじょう に精緻 せいち に細工 ざいく されており、これらはすべてゴシック様式 ようしき の手法 しゅほう である。ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの祭壇 さいだん 画 が と違 ちが ってルネサンス様式 ようしき を感 かん じさせるのは、現実 げんじつ 的 てき な立体 りったい 感 かん をもって三 さん 次元 じげん 的 てき に描 えが かれた人物 じんぶつ 像 ぞう と、それらの人物 じんぶつ が身 み にまとっている衣装 いしょう が垂 た れ下 さ がる表現 ひょうげん やゆったりとしたひだの描写 びょうしゃ である。描 えが かれている人物 じんぶつ は大地 だいち ではなく雲 くも の上 うえ に立 た っているが、重量 じゅうりょう 感 かん のある表現 ひょうげん で描 えが かれている[12] 。
『キリストの変容 へんよう 』(1437年 ねん - 1446年 ねん 頃 ごろ ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ)
フラ・アンジェリコがフィレンツェのサン・マルコ修道院 しゅうどういん のために描 えが いた一連 いちれん のフレスコ画 が は、フラ・アンジェリコがマサッチオの描 えが いた作品 さくひん の先進 せんしん 性 せい を理解 りかい し、さらなる進展 しんてん を絵画 かいが に与 あた えたことを物語 ものがた っている。裕福 ゆうふく なパトロンからの制約 せいやく や板 いた 絵 え の限界 げんかい を超越 ちょうえつ し、神 かみ に対 たい する深 ふか い敬意 けいい と人間 にんげん への知見 ちけん 、愛 あい を描 えが き出 だ すことに成功 せいこう した。修道 しゅうどう 士 し 部屋 へや の壁 かべ に描 えが いた飾 かざ り気 け のない静謐 せいひつ なフレスコ画 が は、それを見 み て祈 いの る修道 しゅうどう 士 し たちに心 しん の平穏 へいおん をもたらした。赤色 あかいろ よりも青 あお みを帯 お びたピンク色 ぴんくいろ が多用 たよう される一方 いっぽう で、色 いろ 鮮 あざ やかで高価 こうか な顔料 がんりょう である青 あお 系 けい 色 しょく はほとんど使用 しよう されていない。ドミニコ会 かい の修道 しゅうどう 服 ふく はくすんで艶 つや のない緑色 みどりいろ 、黒色 こくしょく 、白色 はくしょく で構成 こうせい されている。華美 かび な印象 いんしょう はなく、描 えが かれている静謐 せいひつ な人物 じんぶつ 像 ぞう には心 しん の平穏 へいおん を乱 みだ す要素 ようそ は何 なに もない。フレスコ画 が を見 み るものには、あたかもこの絵画 かいが が別 べつ の平行 へいこう 世界 せかい へ通 つう じる窓 まど であるかのように、キリストの身 み に起 お こった様々 さまざま な出来事 できごと を自分 じぶん が実際 じっさい に体験 たいけん しているような心理 しんり 的 てき 効果 こうか を与 あた えている。これらのフレスコ画 が を描 えが いたフラ・アンジェリコがいかに信心 しんじん 深 ふか い敬虔 けいけん な男性 だんせい であったかを証明 しょうめい している作品 さくひん 群 ぐん である[12] 。
マサッチオはサンタ・マリア・ノヴェッラ教会 きょうかい の壁 かべ に描 えが いた写実 しゃじつ 的 てき な『聖 せい 三位一体 さんみいったい 』で絵画 かいが に遠近 えんきん 法 ほう を導入 どうにゅう した。後 のち に続 つづ くフラ・アンジェリコも線 せん 遠近 えんきん 法 ほう の絵画 かいが 手法 しゅほう を理解 りかい し、イタリア人 じん 建築 けんちく 家 か ミケロッツォ・ディ・バルトロメオ とフィリッポ・ブルネレスキ がサン・マルコ地区 ちく に建設 けんせつ した拱廊を『受胎 じゅたい 告知 こくち 』などの自身 じしん の作品 さくひん に取 と り入 い れている[12] 。
フラ・アンジェリコが聖人 せいじん たちを描 えが いた絵画 かいが [ 編集 へんしゅう ]
『教会 きょうかい の宝物 ほうもつ を受 う け取 と る聖 せい ラウレンティウス』(1447年 ねん ) バチカン宮殿 きゅうでん ニッコリーネ礼拝 れいはい 堂 どう (バチカン)高価 こうか な顔料 がんりょう 、金箔 きんぱく など貴重 きちょう な素材 そざい を使用 しよう した細密 さいみつ なデザインは、バチカンが依頼 いらい する絵画 かいが の典型 てんけい である
フラ・アンジェリコと弟子 でし がローマ教皇 きょうこう ニコラウス5世 せい からの召致 しょうち で礼拝 れいはい 堂 どう 装飾 そうしょく 絵画 かいが 制作 せいさく のためにバチカンを訪 おとず れたのは、フラ・アンジェリコが再 ふたた び教皇 きょうこう の機嫌 きげん をとる必要 ひつよう があったことが理由 りゆう だった。この小 ちい さな礼拝 れいはい 堂 どう に足 あし を踏 ふ み入 い れると、まるで宝石 ほうせき 箱 ばこ の中 なか に迷 まよ い込 こ んだような感覚 かんかく すら覚 おぼ える。壁面 へきめん は色 いろ 鮮 あざ やかな彩色 さいしき と金箔 きんぱく で飾 かざ り立 た てられ、この豪華 ごうか な装飾 そうしょく に比肩 ひけん するのはこれより100年 ねん ほど前 まえ にゴシック期 き のイタリア人 じん 画家 がか シモーネ・マルティーニ が装飾 そうしょく を担当 たんとう したサン・フランチェスコ大 だい 聖堂 せいどう 下 した 堂 どう くらいである。しかしながらその作風 さくふう にはそれまでの絵画 かいが と同様 どうよう にフラ・アンジェリコが終生 しゅうせい 追 お い求 もと めていた慈悲 じひ 心 しん と信仰 しんこう とが如実 にょじつ に現 あらわ れており、人物 じんぶつ 像 ぞう が身 み にまとう金箔 きんぱく が使用 しよう された豪華 ごうか な衣装 いしょう は優 やさ しく穏 おだ やかに表現 ひょうげん されている。
描 えが かれている
人物 じんぶつ の
様子 ようす や
彼 かれ らから
受 う ける
印象 いんしょう からも、フラ・アンジェリコほど
聖人 せいじん たちを
本物 ほんもの の
聖人 せいじん らしく
描 えが ける
画家 がか は
存在 そんざい しない。
— ジョルジョ・ヴァザーリ[6]
現存 げんそん しているフラ・アンジェリコの絵画 かいが の中 なか には、フラ・アンジェリコの下絵 したえ を弟子 でし たちが完成 かんせい させた作品 さくひん が存在 そんざい している可能 かのう 性 せい はある。ベノッツォ・ゴッツォリやジェンティーレ・ダ・ファブリアーノは当時 とうじ 高 たか く評価 ひょうか されていた画家 がか だった。ゴッツォリは表現 ひょうげん 豊 ゆた かで現実 げんじつ 的 てき な人物 じんぶつ 像 ぞう を描 えが き、自身 じしん の作風 さくふう をよりルネサンス風 ふう に昇華 しょうか していった。メディチ家 か からの依頼 いらい でフィレンツェのメディチ・リカルディ宮 みや マギ礼拝 れいはい 堂 どう に描 えが いた代表 だいひょう 作 さく 『東方 とうほう 三 さん 博士 はかせ の行列 ぎょうれつ 』が好例 こうれい である[21] 。
フラ・アンジェリコの弟子 でし ベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画 が に慎重 しんちょう に描 えが かれた肖像 しょうぞう 画 が やその絵画 かいが 技法 ぎほう からドメニコ・ギルランダイオ との関連 かんれん 性 せい を見 み ることが出来 でき る。ギルランダイオはフィレンツェの有力 ゆうりょく 者 しゃ をパトロンとし、大 だい 規模 きぼ な構想 こうそう の作品 さくひん を次々 つぎつぎ に描 えが いた。ギルランダイオはミケランジェロ の師 し でもあった人物 じんぶつ であり、これらの芸術 げいじゅつ 家 か の系譜 けいふ を通 つう じてフラ・アンジェリコの影響 えいきょう は盛期 せいき ルネサンスへとつながっている。
1508年 ねん にミケランジェロはシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう 天井 てんじょう 画 が 制作 せいさく を引 ひ き受 う けた。このときのシスティーナ礼拝 れいはい 堂 どう には、ギルランダイオ、ラファエロ の師 し ペルジーノ 、ボッティチェッリ らが手 て がけた『キリストの生涯 しょうがい 』『モーゼの生涯 しょうがい 』をテーマにした壁画 へきが が描 えが かれていた。これらの作品 さくひん はいつものバチカンの要望 ようぼう どおり大 だい 規模 きぼ で豪奢 ごうしゃ なもので、構成 こうせい の複雑 ふくざつ さ、人物 じんぶつ 像 ぞう の多 おお さ、細部 さいぶ にわたる細密 さいみつ な表現 ひょうげん 、使用 しよう する金箔 きんぱく の量 りょう などを画家 がか たちが競 きそ い合 あ っているかのような豪華 ごうか 絢爛 けんらん たる壁画 へきが である。これらの壁画 へきが の上部 じょうぶ にはきらめく衣装 いしょう と黄金 おうごん の冠 かんむり を身 み につけた歴代 れきだい ローマ教皇 きょうこう の肖像 しょうぞう 画 が が並 なら び、ミケランジェロもこのような壮麗 そうれい な場所 ばしょ で絵画 かいが 制作 せいさく を行 おこな った経験 けいけん はなかった。そして、ローマ教皇 きょうこう ユリウス2世 せい が十 じゅう 二 に 使徒 しと の衣装 いしょう を壁画 へきが と同様 どうよう に壮麗 そうれい に飾 かざ り立 た てるよう求 もと めたところ、ミケランジェロは十 じゅう 二 に 使徒 しと はこの上 うえ なく清貧 せいひん だったではないかとい返 いかえ したというエピソードがある[12] 。
フラ・アンジェリコはサン・マルコ修道院 しゅうどういん の小 しょう 部屋 へや に、自身 じしん の絵画 かいが 技術 ぎじゅつ と独自 どくじ の演出 えんしゅつ によって美 うつく しいフレスコ壁画 へきが を現出 げんしゅつ した。高価 こうか な素材 そざい である青 あお 系 けい の顔料 がんりょう や金箔 きんぱく などを使用 しよう しなくても素晴 すば らしい作品 さくひん を描 えが くことが出来 でき るということを証明 しょうめい したのである。そしてフラ・アンジェリコと同 おな じくミケランジェロは、飾 かざ り気 け のないフレスコ画 が 技法 ぎほう 、明瞭 めいりょう で鮮 あざ やかな柔 やわ らかな色彩 しきさい 、重要 じゅうよう な役割 やくわり を果 は たす数 すう 人 にん の人物 じんぶつ 像 ぞう 、動 うご きや身振 みぶ りの優 すぐ れた表現 ひょうげん 手法 しゅほう などを作品 さくひん に取 と り入 い れることによって、ミケランジェロは自身 じしん がフラ・アンジェリコの直系 ちょっけい であることを宣言 せんげん したのである。イタリアルネサンス美術 びじゅつ の専門 せんもん 家 か フレデリック・ハート (en:Frederick Hartt ) はフラ・アンジェリコのことをレンブラント・ファン・レイン 、エル・グレコ 、フランシスコ・デ・スルバラン のような後世 こうせい の画家 がか たちのさきがけとなる「神秘 しんぴ 的 てき な預言 よげん 者 しゃ 」と表現 ひょうげん している[12] 。
2006年 ねん 11月にフラ・アンジェリコの失 うしな われたと考 かんが えられていた2点 てん の作品 さくひん が発見 はっけん されたという報道 ほうどう が世界中 せかいじゅう でなされた。ジーン・プレストンが所有 しょゆう していたイングランドのオックスフォード にある「質素 しっそ なテラスハウス」の空 あ き部屋 へや に飾 かざ られていた絵画 かいが で、ジーンの父 ちち が1965年 ねん にそれぞれ100ポンドで購入 こうにゅう したものを、1974年 ねん に父 ちち が死去 しきょ した際 さい にジーンが相続 そうぞく した絵画 かいが だった。ジーンは中世 ちゅうせい 研究 けんきゅう の専門 せんもん 家 か で、生前 せいぜん の父 ちち から絵画 かいが の作者 さくしゃ は誰 だれ なのか調 しら べて欲 ほ しいという相談 そうだん を受 う けていた。ジーンはこの2点 てん の絵画 かいが がルネサンス期 き のフィレンツェで描 えが かれた優 すぐ れた作品 さくひん であると評価 ひょうか したが、父 ちち の代理 だいり でジーンが鑑定 かんてい を依頼 いらい した画商 がしょう も含 ふく め、誰 だれ 一人 ひとり としてこれらの絵画 かいが の作者 さくしゃ がフラ・アンジェリコであると考 かんが えたものはいなかった。1960年代 ねんだい には中世 ちゅうせい 美術 びじゅつ 品 ひん の需要 じゅよう はほとんどなかったために画商 がしょう はまったく興味 きょうみ を示 しめ さず、ジーンの父 ちち も他 た の中世 ちゅうせい 装飾 そうしょく 写本 しゃほん を何 なん 冊 さつ か買 か い求 もと めるついでに購入 こうにゅう した絵画 かいが だった。皮肉 ひにく なことにこのときの装飾 そうしょく 写本 しゃほん はスペインの贋作 がんさく 家 か が作 つく った偽物 にせもの だったことが明 あき らかになっている。しかしながら2005年 ねん になってからブリストル大学 だいがく のマイケル・リヴァシッジがフラ・アンジェリコの作品 さくひん であると同定 どうてい した。この2点 てん の絵画 かいが は、1439年 ねん にフラ・アンジェリコがサン・マルコ修道院 しゅうどういん のために描 えが いた大 おお きな多 た 翼 つばさ 祭壇 さいだん 画 が のサイドパネル8枚 まい のうちの2枚 まい で、200年 ねん 以上 いじょう 前 まえ のナポレオン 軍 ぐん 侵攻 しんこう の際 さい に裁断 さいだん されて修道院 しゅうどういん から散逸 さんいつ していた。この祭壇 さいだん 画 が の中央 ちゅうおう 部分 ぶぶん はサン・マルコ美術館 びじゅつかん (以前 いぜん のサン・マルコ修道院 しゅうどういん )が、6枚 まい のサイドパネルはドイツ、アメリカの美術館 びじゅつかん がそれぞれ所蔵 しょぞう しており、今回 こんかい 発見 はっけん された2枚 まい のパネルは昔 むかし に失 うしな われたと考 かんが えられていたものだった。イタリア政府 せいふ がこの2点 てん の作品 さくひん を買 か い上 あ げようとしたが、2007年 ねん 4月 がつ 20日 はつか に行 おこな われたオークションで個人 こじん 収集 しゅうしゅう 家 か が170万 まん ポンドで落札 らくさつ した。現在 げんざい これら2点 てん の作品 さくひん は修復 しゅうふく されて、フィレンツェのサン・マルコ美術館 びじゅつかん に展示 てんじ されている[22] [23] 。
『クローチェ・アル・テンピオのキリストの哀悼 あいとう 』(1436年 ねん ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ)
『ペルージャ祭壇 さいだん 画 が 』(1437年 ねん 頃 ごろ ) ウンブリア国立 こくりつ 絵画 かいが 館 かん (ペルージャ )
『受胎 じゅたい 告知 こくち 』(1437年 ねん - 1446年 ねん ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ) フレスコ画 が
『受胎 じゅたい 告知 こくち 』(1437年 ねん - 1446年 ねん 頃 ごろ ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ)
『聖母 せいぼ 戴冠 たいかん 』(1438年 ねん - 1440年 ねん ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ) フレスコ画 が
『サン・マルコの祭壇 さいだん 画 が 』(1438年 ねん - 1443年 ねん ) サン・マルコ美術館 びじゅつかん (フィレンツェ)
『斬首 ざんしゅ された聖 きよし コスマスと聖 きよし ダミアン』(1443年 ねん )ル る ーブル美術館 ぶるびじゅつかん (パリ)
^ Metropolitan Museum of Art
^ 出身 しゅっしん 地 ち や愛称 あいしょう を取 と り入 い れて通称 つうしょう とすることは中世 ちゅうせい やルネサンス期 き には普通 ふつう のことで、例 れい としてレオナルド・ダ・ヴィンチ やロレンツォ・イル・マニーフィコ などがあげられる
^ アンドレア・デル・サルト:アンジェリコと同 どう 時代 じだい のラファエロやミケランジェロたちは全員 ぜんいん ベアート・アンジェリコと呼 よ んでおり、これは画家 がか の才能 さいのう は神 かみ からの特別 とくべつ な贈 おく り物 もの であると見 み なされていたためである
^ a b Bunson, Matthew; Bunson, Margaret (1999). John Paul II's Book of Saints . Our Sunday Visitor. pp. 156. ISBN 0879739347
^ 殉教者 じゅんきょうしゃ 名簿 めいぼ にはローマカトリック教会 きょうかい が認定 にんてい したすべての聖者 せいじゃ 、福 ぶく 者 しゃ が記載 きさい されている
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この記事 きじ にはアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく 内 うち で著作 ちょさく 権 けん が消滅 しょうめつ した次 つぎ の百科 ひゃっか 事典 じてん 本文 ほんぶん を含 ふく む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Angelico, Fra ". Encyclopædia Britannica (英語 えいご ). Vol. 2 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 6-7-8.
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『フラ・アンジェリコ神秘 しんぴ 神学 しんがく と絵画 かいが 表現 ひょうげん 』 平凡社 へいぼんしゃ 、2001年 ねん ジョルジュ・ディディ=ユベルマン、寺田 てらだ 光徳 みつのり /平岡 ひらおか 洋子 ようこ 訳注 やくちゅう
『フラ・アンジェリコ』 〈アート・ライブラリー〉西村書店 にしむらしょてん 、1999年 ねん 、新装 しんそう 版 ばん 2009年 ねん クリストファー・ロイド/デーヴィド・ホワイト作品 さくひん 解説 かいせつ 、森田 もりた 義之 よしゆき 訳注 やくちゅう
『フラ・アンジェリコ 素描 そびょう 研究 けんきゅう と色彩 しきさい への関心 かんしん 』 東京書籍 とうきょうしょせき 〈イタリア・ルネサンスの巨匠 きょしょう たち10〉、1995年 ねん ジョン・ポープ=ヘネシー、喜多村 きたむら 明 あきら 里 さと 訳注 やくちゅう
Didi-Huberman, Georges. Fra Angelico: Dissemblance and Figuration . University of Chicago Press, 1995. ISBN 0-226-14813-0 Discussion of how Fra Angelico challenged Renaissance naturalism and developed a technique to portray "unfigurable" theological ideas.
Gilbert, Creighton, How Fra Angelico and Signorelli Saw the End of the World , Penn State Press, 2002 ISBN 0-271-02140-3
Spike, John T. Angelico , New York, 1997.
Supino, J. B., Fra Angelico , Alinari Brothers, Florence, undated, from Project Gutenberg
Fra Angelico – Painter of the Early Renaissance
Fra Angelico in the "History of Art"
Fra Angelico Exhibition at the Metropolitan Museum of Art, (October 26, 2005–January 29, 2006).
"Soul Eyes" Review of the Fra Angelico show at the Met, by Arthur C. Danto in The Nation , (January 19, 2006).
Fra Angelico , Catherine Mary Phillimore, (Sampson Low, Marston & Co., 1892)
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