カノーヴァ作 さく 『アムールとプシュケ(エロスの接吻 せっぷん で目覚 めざ めるプシュケ)』。ルーヴル美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう 。
アントニオ・カノーヴァ (Antonio Canova , 1757年 ねん 11月1日 にち - 1822年 ねん 10月13日 にち [1] )は、イタリア の彫刻 ちょうこく 家 か 。裸体 らたい を表現 ひょうげん した大理石 だいりせき 像 ぞう が有名 ゆうめい で、過剰 かじょう に演劇 えんげき 的 てき になり過 す ぎたバロック 美術 びじゅつ から、古典 こてん 主義 しゅぎ の洗練 せんれん さに回帰 かいき する、新 しん 古典 こてん 主義 しゅぎ の代表 だいひょう である。アントニオ・カノヴァ とも表記 ひょうき される。
アーゾロ 近郊 きんこう ポッサーニョ 村 むら のカノーヴァ美術館 びじゅつかん 。
アントニオ・カノーヴァはヴェネト州 しゅう のポッサーニョ に生 う まれた。
父親 ちちおや も祖父 そふ も石工 せっこう および無名 むめい の彫像 ちょうぞう 家 か で、ポッサーニョには同 どう 業者 ぎょうしゃ たちと住 す んでいた。3歳 さい の時 とき 、父親 ちちおや が亡 な くなり、母親 ははおや も再婚 さいこん 先 さき に嫁 とつ ぐことになって、カノーヴァは祖父母 そふぼ の手 て で育 そだ てられることになった。
祖父 そふ のパジィーノは、スケッチと建築 けんちく の心得 こころえ もいくらかあって、デザインも上手 うま く、装飾 そうしょく 的 てき な作品 さくひん を作 つく らせるとかなりの出来 でき だった。祖父 そふ は孫 まご に家名 かめい だけでなく、家業 かぎょう も継 つ いでもらうつもりでいた。それでカノーヴァが鉛筆 えんぴつ を握 にぎ れるようになるとすぐ、祖父 そふ はスケッチの手 て ほどきをした。幼 おさな い頃 ころ のカノーヴァは美術 びじゅつ の勉強 べんきょう に明 あ け暮 く れたが、特 とく に彫刻 ちょうこく に関心 かんしん を示 しめ し、もっぱらその勉強 べんきょう に時間 じかん を割 さ いた。その結果 けっか 、その技術 ぎじゅつ は著 いちじる しく向上 こうじょう し、まもなく、祖父 そふ の仕事 しごと を手伝 てつだ うまでになった。
祖父 そふ のパトロンの中 なか に、ファリエ家 か というヴェネツィア の貴族 きぞく がいて、少年 しょうねん だったカノーヴァを、ヴェネツィアの上院 じょういん 議員 ぎいん だったジョヴァンニ・ファリエに引 ひ き合 あ わせた。ファリエ議員 ぎいん はカノーヴァの面倒 めんどう を見 み ることにした。カノーヴァはそれに感謝 かんしゃ して、バターでライオン像 ぞう を作 つく った——とは、伝記 でんき 作家 さっか たちが繰 く り返 かえ し語 かた る逸話 いつわ だが、真偽 しんぎ のほどは不明 ふめい である。事実 じじつ なのは、ファリエがその後 ご カノーヴァの最 もっと も熱心 ねっしん なパトロンになったことで、その子 こ ジュゼッペもまたカノーヴァの生涯 しょうがい の友 とも となった。ファリエはカノーヴァを彫刻 ちょうこく 家 か のジュゼッペ・ベルナルディ・トレッツィのところに預 あづ けることにした。トレッツィは当時 とうじ 、ファリエ議員 ぎいん のアーゾロ の別荘 べっそう の近 ちか くのPagnano村 むら に住 す んでいた、トレッツィの下 もと で、カノーヴァは相当 そうとう 腕 うで を磨 みが いたものと思 おも われる。カノーヴァが13歳 さい の時 とき 、ヴェネツィアに帰省 きせい していたトレッツィが亡 な くなった。トレッツィは死 し ぬ前 まえ にファリエに教 おし え子 ご のことを頼 たの んでいて、ファリエはカノーヴァをヴェネツィアに呼 よ び寄 よ せ、トレッツィの甥 おい のところに預 あづ けた。
1年間 ねんかん 、トレッツィの甥 おい の指導 しどう を受 う けた後 のち 、カノーヴァは独立 どくりつ し、ファリエの依頼 いらい で『オルフェウスとエウリュディケー』の制作 せいさく をはじめた。2つの像 ぞう で1組 くみ の作品 さくひん で、最初 さいしょ にできたのは、ハデス の元 もと から去 さ ろうとしている、炎 ほのお と煙 けむり に包 つつ まれたエウリュディケー の像 ぞう だった。完成 かんせい したのはカノーヴァ16歳 さい の時 とき だった。それはファリエとその友人 ゆうじん たちから高 たか く評価 ひょうか された。その時 とき 、カノーヴァはこの作品 さくひん はいずれ世 せい に出 だ すべきだと考 かんが えた。
修道院 しゅうどういん の好意 こうい で、空 あ き室 しつ を仕事場 しごとば として借 か りることができた。そこでカノーヴァはこつこつと勉強 べんきょう した。学校 がっこう にも通 かよ い、そこでいくつかの賞 しょう を貰 もら った。しかし、カノーヴァが学校 がっこう の勉強 べんきょう 以上 いじょう に頼 たよ りにしたものは、自然 しぜん の研究 けんきゅう であり模倣 もほう であった。カノーヴァは人生 じんせい の大 だい 部分 ぶぶん を解剖 かいぼう 学 がく の研究 けんきゅう に捧 ささ げるが、それは解剖 かいぼう 学 がく こそ芸術 げいじゅつ の秘密 ひみつ であると考 かんが えていたからである。カノーヴァは劇場 げきじょう にも足 あし 繁 しげ く通 かよ い、出演 しゅつえん 者 しゃ の表情 ひょうじょう や身振 みぶ りを注意深 ちゅういぶか く観察 かんさつ した。夜 よる はいっさいデザインをせず、目 め を開 あ けたままでいることに決 き め、それは数 すう 年間 ねんかん 、忠実 ちゅうじつ に守 まも られた。どんなものでも、彫刻 ちょうこく の技術 ぎじゅつ の向上 こうじょう につながりそうなものなら、貪欲 どんよく に吸収 きゅうしゅう した。考古学 こうこがく 、歴史 れきし 、さらにイタリア語 ご 以外 いがい のヨーロッパの言語 げんご も学 まな びはじめた。
3年間 ねんかん 、カノーヴァは彫刻 ちょうこく を1つも作 つく らなかった。しかし、1776年 ねん 、『オルフェウスとエウリュディケ』を完成 かんせい させるため、再 ふたた びノミを握 にぎ った。そうして作 つく られたオルフェウス は、カノーヴァの大 おお きな進歩 しんぽ を示 しめ していた。もちろん作品 さくひん は拍手 はくしゅ 喝采 かっさい で迎 むか えられた。『ダイダロスとイカロス』(1779年 ねん )も好評 こうひょう だった。この作品 さくひん はカノーヴァの修業 しゅうぎょう 時代 じだい の作品 さくひん でも最 もっと も有名 ゆうめい な作品 さくひん と言 い われている。何 なに より評価 ひょうか されたのは、そのスタイルの簡潔 かんけつ さと自然 しぜん の忠実 ちゅうじつ な模倣 もほう であった。カノーヴァの優秀 ゆうしゅう さと評判 ひょうばん はその時 とき 広 ひろ く世間 せけん に認 みと められた。カノーヴァはいつかアドリア海 あどりあかい の岸辺 きしべ (ヴェネツィア)からテヴェレ川 がわ の岸辺 きしべ (ローマ )へ行 い きたいと考 かんが えるようになった。そして、24歳 さい になった時 とき 、カノーヴァはついに旅立 たびだ つことになった。
カノーヴァ作 さく 『テセウスとミノタウロス』。ロンドン 、ヴィクトリア&アルバート美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう 。
ローマに出発 しゅっぱつ する前 まえ に、カノーヴァが生活 せいかつ に困 こま らず勉強 べんきょう できるよう、友人 ゆうじん たちがヴェネツィア議会 ぎかい に奨学 しょうがく 金 きん を申請 しんせい してくれた。この申請 しんせい は認 みと められ、カノーヴァは3年 ねん の期限 きげん で、300ダカット(金貨 きんか )の奨学 しょうがく 金 きん を得 え ることができた。また、ヴェネツィア大使 たいし で、芸術 げいじゅつ に詳 くわ しく、寛大 かんだい な保護 ほご 者 しゃ であったジローラモ・ツリアンへの紹介 しょうかい 状 じょう も貰 もら うという、これ以上 いじょう はない手厚 てあつ い扱 あつか いを受 う けた。
カノーヴァがローマに到着 とうちゃく した1780年 ねん 12月28日 にち は、カノーヴァの新 しん 時代 じだい の始 はじ まりの日 ひ であった。カノーヴァにとって、ローマは、古代 こだい ローマの遺跡 いせき の勉強 べんきょう をすることで自分 じぶん 自身 じしん を完成 かんせい に向 む かわせ、また、そこに住 す む美 び の巨匠 きょしょう たちと競争 きょうそう することで自分 じぶん の才能 さいのう を試 ため すことができる、願 ねが ってもない都市 とし だった。カノーヴァにとっても友人 ゆうじん たちにとっても、その結果 けっか を出 だ すことが最高 さいこう の希望 きぼう だった。そのローマにカノーヴァの名 な を知 し らしめた最初 さいしょ の作品 さくひん は、現在 げんざい ロンドン のヴィクトリア&アルバート美術館 びじゅつかん にある『テセウスとミノタウロス』(1781年 ねん - 1783年 ねん )だった。等身 とうしん 大 だい よりやや大 おお きめの作品 さくひん で、ミノタウロス の死骸 しがい の上 うえ に、勝利 しょうり したテセウス が腰掛 こしか けている姿 すがた が描写 びょうしゃ されていた。テセウスの全身 ぜんしん の隅々 すみずみ までありありと見 み える疲労 ひろう 困憊 こんぱい ぶりは、恐 おそ るべき死闘 しとう の激 はげ しさを見事 みごと に物語 ものがた っていた。その簡潔 かんけつ さと自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき な表現 ひょうげん は、カノーヴァのスタイルを特徴 とくちょう づけていて、勇壮 ゆうそう さと自然 しぜん の高尚 こうしょう な概念 がいねん がこの時 とき 結合 けつごう されたのであった。テセウス像 ぞう は熱烈 ねつれつ な賞賛 しょうさん を浴 あ びた。
カノーヴァ作 さく 『三 さん 美神 びしん 』。サンクトペテルブルク 、エルミタージュ美術館 びじゅつかん 所蔵 しょぞう 。
カノーヴァの次 つぎ の作品 さくひん は、ローマ教皇 きょうこう クレメンス14世 せい の記念 きねん 碑 ひ だった。その仕事 しごと に取 と りかかる前 まえ に、カノーヴァはヴェネツィア議会 ぎかい の許可 きょか を得 え なければいけないと考 かんが えた。奨学 しょうがく 金 きん を貰 もら っている限 かぎ り、彼 かれ は教皇 きょうこう ではなく、ヴェネツィア議会 ぎかい に仕 つか えていたからだ。カノーヴァはヴェネツィアに戻 もど り、直接 ちょくせつ 議会 ぎかい に嘆願 たんがん し、無事 ぶじ それは許可 きょか された。カノーヴァはすぐさまローマに引 ひ き返 かえ すと、バブイーノ通 どお りの近 ちか くに工房 こうぼう を開 ひら いた。最初 さいしょ の2年 ねん はひたすらデザインの整理 せいり とモデルの構図 こうず に費 つい やし、さらに2年 ねん をかけて、1787年 ねん 、ようやく教皇 きょうこう の記念 きねん 碑 ひ は完成 かんせい した。熱狂 ねっきょう 的 てき な「ディレッタント」(英 えい ,伊 い :dilettante 、好事 こうじ 家 か 。学者 がくしゃ や専門 せんもん 家 か よりも気楽 きらく に素人 しろうと として興味 きょうみ を持 も つ者 もの )の意見 いけん では、この記念 きねん 碑 ひ はカノーヴァが現代 げんだい 最初 さいしょ の芸術 げいじゅつ 家 か である刻印 こくいん だとされている。
5年間 ねんかん 休 やす みなく働 はたら いた後 のち 、カノーヴァはさらにローマ教皇 きょうこう クレメンス13世 せい のための慰霊 いれい 碑 ひ も完成 かんせい させ(1787年 ねん - 1792年 ねん )、それはカノーヴァの名声 めいせい をさらに高 たか めることになった。カノーヴァのノミから立 た て続 つづ けに作品 さくひん が作 つく られた。そうした中 なか に、
代表 だいひょう 作 さく 『アムールとプシュケ(エロスの接吻 せっぷん で目覚 めざ めるプシュケ)』(1787年 ねん - 1793年 ねん )も含 ふく まれる。カノーヴァの名声 めいせい はさらに高 たか まり、ロシア 宮廷 きゅうてい から嬉 うれ しい依頼 いらい が舞 ま い込 こ んだ。サンクトペテルブルク に来 き て欲 ほ しいというものだった。しかしカノーヴァはこれを辞退 じたい した。そのことについて、カノーヴァは友人 ゆうじん の手紙 てがみ にこう書 か いている。
「
イタリアは私 わたし の母国 ぼこく 。芸術 げいじゅつ の国 くに 、土壌 どじょう 。私 わたし は離 はな れられません。ここで育 そだ ったのですから。もし私 わたし の乏 とぼ しい才能 さいのう が他国 たこく で役 やく に立 た つというのなら、他国 たこく もイタリアにとって何 なに か役 やく に立 た つものであって然 しか るべき。他 た のどんな国 くに より好 この まれてると、わざわざイタリアが主張 しゅちょう する必要 ひつよう もないですよね?
」
とはいうものの、カノーヴァの多 おお くの傑作 けっさく が現在 げんざい サンクトペテルブルクのエルミタージュ博物館 はくぶつかん にある。
アントニオ・カノーヴァ『自画像 じがぞう 』(1792年 ねん )。
1795年 ねん から1797年 ねん にかけて、多 おお くの作品 さくひん が制作 せいさく された。その中 なか には、以前 いぜん の作品 さくひん の複製 ふくせい もいくつかあった。『ヴィーナスとアドニス』(1795年 ねん )もその1つで、この作品 さくひん はナポリ に送 おく られた。ところで、フランス革命 かくめい の衝撃 しょうげき はイタリアにも波紋 はもん を起 お こしていた。1798年 ねん 、カノーヴァは、ひっそり静 しず かに暮 く らしたいと、生 う まれ故郷 こきょう のポッサーニョに戻 もど り、約 やく 1年間 ねんかん 隠棲 いんせい した。そこでカノーヴァはもっぱら絵 え を描 えが いた。いくらかは絵 え の知識 ちしき があったのだ。政変 せいへん が一時 いちじ 的 てき に落 お ち着 つ くと、カノーヴァはローマに戻 もど った。しかし、生活 せいかつ の変化 へんか のせいだろうか、健康 けんこう を害 がい し、友人 ゆうじん のレッツォニコ上院 じょういん 議員 ぎいん (Prince Rezzonico)と一緒 いっしょ に、静養 せいよう のためドイツ に旅行 りょこう することにした。おかげで健康 けんこう は回復 かいふく し、旅 たび から戻 もど ると、カノーヴァは再 ふたた び精力 せいりょく 的 てき に作品 さくひん の制作 せいさく をはじめた。
それからの15年 ねん は、カノーヴァの人生 じんせい を変 か えるような事件 じけん らしい事件 じけん は起 お こらない。かろうじて書 か くことがあるとすれば、仕事 しごと が忙 いそが しかったことくらいか。とにかく工房 こうぼう の仕事 しごと で頭 あたま がいっぱいだった。例外 れいがい は、パリ 旅行 りょこう 、ウィーン 旅行 りょこう 、そしてフィレンツェ などイタリアの他 ほか の都市 とし にほんのちょっと立 た ち寄 よ った以外 いがい は、ずっとローマにいた。
「
彫像 ちょうぞう は、市民 しみん として暮 く らしていた唯一 ゆいいつ の証拠 しょうこ
」
とカノーヴァ自身 じしん は述 の べている。
1815年 ねん 、カノーヴァは教皇 きょうこう からある依頼 いらい を受 う けた。先 さき にナポレオン・ボナパルト によって持 も ち出 だ された美術 びじゅつ 作品 さくひん をパリからイタリアに送還 そうかん する、その指揮 しき 監督 かんとく である。和解 わかい には多 おお くの相反 あいはん する利益 りえき があったので、カノーヴァは相当 そうとう の熱意 ねつい と努力 どりょく とを強 し いられた。しかし、カノーヴァへの信頼 しんらい と、それに幸運 こううん も手伝 てつだ って、何 なに とか調停 ちょうてい し、任務 にんむ を達成 たっせい することができた。
その年 とし の秋 あき 、カノーヴァは長 なが い間 あいだ 心 しん に抱 だ いてきたロンドン 訪問 ほうもん を実現 じつげん することができた。カノーヴァは熱烈 ねつれつ な歓迎 かんげい を受 う けた。ロンドンには、カノーヴァが評価 ひょうか する歴史 れきし 画家 がか の第一人者 だいいちにんしゃ ベンジャミン・ヘイドン (Benjamin Haydon)がいた。カノーヴァがハイドンの何 なに を評価 ひょうか していたかというと、古代 こだい ギリシアのパルテノン神殿 しんでん からイギリスに持 も ち出 だ したエルギン・マーブル を、イギリスの無学 むがく な鑑定 かんてい 家 か たちがその価値 かち を見 み くびっていたのに、ヘイドンは真 ま っ向 こう から異 こと を唱 とな えたからだった。カノーヴァのイギリスの弟子 でし には、リチャード・ウェストマコット (Richard Westmacott)、ジョン・ギブソン (John Gibson)らがいる。
1816年 ねん のはじめに、カノーヴァはローマに戻 もど った。そこでカノーヴァはいくつもの栄誉 えいよ を授 さず かった。まず、ローマの主要 しゅよう 美術 びじゅつ 協会 きょうかい アカデミア・ディ・サン・ルカの会長 かいちょう になった。そして教皇 きょうこう 自 みずか らの手 て によってカノーヴァの名前 なまえ がthe Golden Volume of the Capitolに刻 きざ まれた。さらにイスキア 侯爵 こうしゃく の爵位 しゃくい と3,000クラウンの年金 ねんきん を受 う け取 と った。
サンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂 せいどう のカノーヴァの記念 きねん 碑 ひ 。
カノーヴァは巨大 きょだい な「宗教 しゅうきょう 」の彫像 ちょうぞう を構想 こうそう した。そのひな型 がた はイタリア中 ちゅう で絶賛 ぜっさん され、大理石 だいりせき も入手 にゅうしゅ し、後 のち は、カノーヴァのノミがふるわれるのを待 ま つだけだった。しかし、聖職 せいしょく 者 しゃ の反対 はんたい にあって、この計画 けいかく は頓挫 とんざ した。しかし、カノーヴァは諦 あきら めず、生 う まれ故郷 こきょう のポッサーニョに、その像 ぞう や他 た の作品 さくひん をおさめる神殿 しんでん を建 た てることにした。その境内 けいだい には、設立 せつりつ 者 しゃ 、つまりカノーヴァの遺骨 いこつ も安置 あんち するつもりだった。1819年 ねん 、カノーヴァはポッサーニョに赴 おもむ いた。まず神殿 しんでん の礎石 そせき を置 お いた後 のち 、カノーヴァはローマに戻 もど った。そして毎年 まいとし 秋 あき になるたびにカノーヴァはポッサーニョを訪 おとず れては、職人 しょくにん たちを報酬 ほうしゅう とメダルとで励 はげ まして、建設 けんせつ の陣頭 じんとう 指揮 しき にあたった。
しかし、建設 けんせつ には莫大 ばくだい な経費 けいひ がかかった。資金 しきん が尽 つ きかけたので、カノーヴァは老齢 ろうれい と病気 びょうき をおして、仕事 しごと をしなければならなくなった。この時期 じき (神殿 しんでん の建設 けんせつ から死 し ぬまでの間 あいだ )カノーヴァは数々 かずかず の代表 だいひょう 作 さく を作 つく った。『マルスとヴィーナス』(1815年 ねん - 1822年 ねん )、ローマ教皇 きょうこう ピウス6世 せい の巨大 きょだい な像 ぞう 、『ピエタ』、『聖 ひじり ヨハネ』、横臥 おうが した『マグダラのマリア』、などである。そして、カノーヴァ最後 さいご の作品 さくひん となった、友人 ゆうじん シコグナラ伯爵 はくしゃく の巨大 きょだい な胸像 きょうぞう も作 つく られた。
1822年 ねん 5月、カノーヴァはナポリを訪問 ほうもん した。スペイン王 おう フェルナンド7世 せい の騎馬 きば 像 ぞう のためのワックスの型 かた を作 つく るためだった。この旅 たび はカノーヴァの健康 けんこう をかなり害 がい した。しかし、何 なに とか持 も ち直 なお し、ローマに戻 もど った。その年 とし の暮 く れにも、カノーヴァは神殿 しんでん 建設 けんせつ のため、ポッサーニョに行 い った。しかし、そこで病気 びょうき がぶり返 かえ した。ヴェネツィアまで来 き て、そこでカノーヴァは息 いき 絶 た えた。65歳 さい だった。カノーヴァの病気 びょうき は、幼 おさな い頃 ころ からの彫刻 ちょうこく 道具 どうぐ を使 つか い続 つづ けたことによる、肋骨 あばらぼね の窪 くぼ みのせいだった。1822年 ねん 10月25日 にち 、盛大 せいだい な葬儀 そうぎ が営 いとな まれ、遺体 いたい はポッサーニョの神殿 しんでん に埋葬 まいそう された。しかし心臓 しんぞう だけは、ヴェネツィアのサンタ・マリア・グロリオーザ・デイ・フラーリ聖堂 せいどう の大理石 だいりせき のピラミッドの中 なか に収 おさ められた。このピラミッドは、元々 もともと はティツィアーノ 廟 びょう のためにカノーヴァ自身 じしん がデザインしたものだった。
『ペルセウスとメドゥーサの首 くび 』(1797年 ねん - 1801年 ねん )バチカン美術館 びじゅつかん
『ナポレオン』(1806年 ねん )ミラノ、ブレラ美術館 びじゅつかん
『ヘラクレスとリカス』(1795年 ねん )
『ペルセウスとメドゥーサの首 くび 』は、カノーヴァがドイツから戻 もど ってすぐに作 つく られたものである(1797年 ねん - 1801年 ねん )。ペルセウス が壮絶 そうぜつ な戦 たたか いの末 すえ 、蛇 へび の髪 かみ の毛 け を持 も つメドゥーサ の首 くび を掴 つか んだその瞬間 しゅんかん が表現 ひょうげん されていて、右手 みぎて に掴 つか んでいる剣 けん は、別個 べっこ に作 つく られたものである。現在 げんざい 、この作品 さくひん はバチカン美術館 びじゅつかん にある。
1802年 ねん 、ナポレオン・ボナパルトの個人 こじん 的 てき 依頼 いらい で、カノーヴァはパリに出向 でむ いた。ナポレオンの上半身 じょうはんしん のモデルを作 つく るためだったが、そこでカノーヴァは寛大 かんだい なもてなしを受 う け、さまざまな栄誉 えいよ も授 さず かった。この巨大 きょだい な彫像 ちょうぞう の完成 かんせい には6年 ねん かかった(『ナポレオン』1808年 ねん )。ナポレオンが失脚 しっきゃく した後 のち は、この像 ぞう はルイ18世 せい からイギリス政府 せいふ に、さらに初代 しょだい ウェリントン公爵 こうしゃく アーサー・ウェルズリー の手 て に渡 わた った(写真 しゃしん は別 べつ のナポレオン像 ぞう )。
他 た には、『パラメデス』、『Creugas and Damoxenus』、『テセウスとケンタウロスの戦 たたか い』、『ヘラクレスとリカス』、『ヘクトルとエイジャックス』、アメリカ大統領 だいとうりょう ジョージ・ワシントン の彫像 ちょうぞう (ノースカロライナ州 しゅう の委嘱 いしょく でノースカロライナ州 しゅう 議会 ぎかい 議事堂 ぎじどう に展示 てんじ してある)、フェルナンド7世 せい の彫像 ちょうぞう などがある。『ヘラクレスとリカス 』はカノーヴァの心 しん の中 なか にある、もっとも残酷 ざんこく な部分 ぶぶん を表現 ひょうげん したものだと言 い われている。確 たし かに、その特異 とくい なスタイルは他 た の追随 ついずい を許 ゆる さない。
『ヘーベー』(1800年 ねん - 1805年 ねん )
『ナイアード』(1815年 ねん /1817年 ねん )
『マグダラのマリア』エルミタージュ美術館 びじゅつかん
カノーヴァの優雅 ゆうが な作品 さくひん では、まず『ヘーベー』像 ぞう が挙 あ げられる。このジャンルの最初 さいしょ の作品 さくひん であるだけでなく、カノーヴァはこの青春 せいしゅん の女神 めがみ ヘーベー を4体 たい も作 つく っている(完成 かんせい 年 ねん だけ記 しる すと、1799年 ねん 、1805年 ねん 、1812年 ねん 、1816年 ねん )。それぞれに変化 へんか をつけているが、最 もっと も改良 かいりょう の後 のち が見 み えるのは、簡素 かんそ 化 か である。どの像 ぞう も、細 こま かいディテール、表現 ひょうげん 、ポーズ、決 き めのポーズの繊細 せんさい さの中 なか に、印象 いんしょう 的 てき な気品 きひん を持 も っている。最後 さいご に作 つく られた『ヘーベー』は、イタリアのフォルリ の美術館 びじゅつかん (ピナコテカ)にある。
『踊 おど るニンフたち』は、『ヘーベー』や『三 さん 美神 びしん 』と似 に た性格 せいかく の作品 さくひん である。『ヴィーナス』はそれらより高貴 こうき で、『ナイアード』は並外 なみはず れた美 うつく しさを持 も っている。1810年 ねん のパリ旅行 りょこう では、ナポレオンの母 はは 、妻 つま マリ・ルイーズ(『Concord』)をモデルにした。他 ほか にも、エステルハージ家 か 令嬢 れいじょう (Leopoldine Esterhazy)、ナポレオンの妹 いもうと エリザ・ボナパルト (『ポリュヒュムニアー』)の像 ぞう もある。それ以外 いがい にも、『コリーナ』、『サッフォー』、『ラウラ』、『ベアトリーチェ』、『トロイのヘレン』といった女性 じょせい 像 ぞう がある。
マリア・クリスティナ王妃 おうひ の記念 きねん 碑 ひ
カノーヴァの作 つく った記念 きねん 碑 ひ ・墓碑 ぼひ の中 なか で、最 もっと も壮麗 そうれい な作品 さくひん というと、19体 たい の彫像 ちょうぞう から成 な る、スペイン王妃 おうひ マリア・クリスティナ の記念 きねん 碑 ひ (1798年 ねん - 1805年 ねん )だろう。他 た には、前述 ぜんじゅつ した2人 ふたり のローマ教皇 きょうこう の記念 きねん 碑 ひ 、ヴィットーリオ・アルフィエーリ の記念 きねん 碑 ひ (1806年 ねん - 1810年 ねん )、ヴェネツィア海軍 かいぐん 提督 ていとく アンジェロ・エモの記念 きねん 碑 ひ 、さらにホレーショ・ネルソン の慰霊 いれい 碑 ひ のための小 ちい さな模型 もけい や、さまざまな記念 きねん 碑 ひ 用 よう のレリーフがある。
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