ピウス6せい (ローマ教皇きょうこう)

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ピウス6せい
だい250だいローマ教皇きょうこう
ピウス6世
教皇きょうこう就任しゅうにん 1775ねん2がつ15にち
教皇きょうこう離任りにん 1799ねん8がつ29にち
先代せんだい クレメンス14せい
次代じだい ピウス7せい
個人こじん情報じょうほう
出生しゅっしょう 1717ねん12月25にち
教皇きょうこうりょう
チェゼーナ
死去しきょ (1799-08-29) 1799ねん8がつ29にち(81さいぼつ
フランス共和きょうわこく
ヴァランス
そののピウス
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ピウス6せい(Pius VI、1717ねん12月25にち - 1799ねん8がつ29にち)は、ローマ教皇きょうこう在位ざいい1775ねん2がつ15にち - 1799ねん8がつ29にち)。本名ほんみょうジョヴァンニ・アンジェロ・ブラスキGiovanni Angelo Braschi)。在位ざいいは24ねんながかったが、フランス革命かくめいとそれにつづいてきたフランスぐん教皇きょうこうりょう占領せんりょうによってローマをわれ、失意しついのうちにくなった。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

チェゼーナ貴族きぞくいえまれ、法学ほうがく学位がくいっていたブラスキは、はじめルッフォ枢機卿すうききょう秘書ひしょとしてはたらいていた。そこでナポリ王国おうこく宮廷きゅうていとの折衝せっしょう活躍かつやくしたことで、教皇きょうこうベネディクトゥス14せいまった。ベネディクトゥス14せい秘書ひしょとして、さらにサン・ピエトロだい聖堂せいどう聖堂せいどう参事さんじ会員かいいん任命にんめいされたことを皮切かわきりに、クレメンス13せいクレメンス14せいと3だい教皇きょうこうつかえ、順調じゅんちょう栄進えいしんげながら1773ねん枢機卿すうききょう任命にんめいされた。

教皇きょうこうピウス6せい紋章もんしょう

クレメンス14せい死去しきょともなコンクラーヴェはヨーロッパ諸国しょこく思惑おもわく左右さゆうされて難航なんこうしたが、最終さいしゅうてきスペインフランス異議いぎげたことによって、イエズスかい処遇しょぐう問題もんだいかんしても穏健おんけんとみられていたブラスキがしん教皇きょうこう選出せんしゅつされた。1775ねん2がつ15にちのことであった。当時とうじ、ヨーロッパ諸国しょこくがナショナリズムをつよめ、王権おうけんのもとにくにをまとめていこうとしたとき、国境こっきょうえて自由じゆう活躍かつやくし、教皇きょうこうへの忠誠ちゅうせいちかうイエズスかい存在そんざい目障めざわりなものとなっていた。そのため、イエズスかい弾圧だんあつ対象たいしょうとなっていた。

「ピウス6せい」を名乗なのったブラスキの教皇きょうこうしょくは、当初とうしょから難問なんもん山積やまづみであった。まず、かれ支持しじしたしょ王家おうけはんイエズス会派かいはは、イエズスかいへのさらなる処分しょぶん期待きたいしていた。その一方いっぽうおやイエズス会派かいはも、しん教皇きょうこうがイエズスかい解散かいさん処分しょぶん緩和かんわするのではないかという期待きたいっていた。相反あいはんする2つの期待きたいあいだでピウス6せい中立ちゅうりつてき態度たいどんだことで、結果けっかてき両派りょうはからの信頼しんらいうしなうことになった。イエズス会員かいいんたちの一部いちぶロシアのがれ、そこでひそかにかい存続そんぞくさせた。

さらにガリカニスムいち形態けいたいであるフェブロニウス主義しゅぎ興隆こうりゅうがピウス6せい圧迫あっぱくした。これは神聖しんせいローマ皇帝こうていヨーゼフ2せい腹心ふくしんカウニッツとともに自国じこく教会きょうかい統治とうち原則げんそくとしてれたもので、教皇きょうこうけん地域ちいき司教しきょう権限けんげんおよばないという思想しそうであった。ピウス6せいはなすすべもなかったが、皇帝こうていおとうとレオポルド大公たいこう皇帝こうていレオポルト2せい)のおさめるトスカーナ大公たいこうこくにまでフェブロニウス主義しゅぎ波及はきゅうするにおよんで静観せいかんできなくなり、1786ねんピストイアでの司教しきょう会議かいぎで、ピストイアとプラートの司教しきょうスキピオ・デル・リッチ事態じたい元凶げんきょうとして弾劾だんがいした。

しかし、ピウス6せい治世ちせいきたもっとおおきな事件じけんは、1789ねんフランス革命かくめいであった。教皇きょうこう革命かくめいによって伝統でんとうあるフランスの教会きょうかいしいたげられてゆく現実げんじつ直面ちょくめんした。人民じんみん政府せいふはん教会きょうかい旗印はたじるしにし、教会きょうかい財産ざいさん国庫こっこ没収ぼっしゅうしたうえパレ・ロワイヤルでピウス6せい肖像しょうぞういた。1791ねんにはアヴィニョン没収ぼっしゅうされた。

さらに1793ねん1がつローマにおいて共和きょうわこく政府せいふ使節しせつユーグ・ド・バスヴィユ (Nicolas-Jean Hugou de Bassville殺害さつがいされると、国民こくみん議会ぎかい教皇きょうこう事件じけん黒幕くろまくであると断罪だんざいし、ナポレオン・ボナパルト司令しれいかんとしたフランスぐん教皇きょうこうりょう侵攻しんこうした。教皇きょうこうぐん敗北はいぼくし、ナポレオンのまえひざくっすることになった。事態じたいはここでわらず、1797ねん12月28にちにローマで勃発ぼっぱつした暴動ぼうどうによってフランスぐん司令しれいかんデュフォーが殺害さつがいされると、フランスぐんふたた教皇きょうこうりょう侵攻しんこうして、これを占領せんりょうした。フランスぐんローマ共和きょうわこく成立せいりつ宣言せんげんし、教皇きょうこう退位たいいせまったが、教皇きょうこうがこれを拒否きょひしたため、事実じじつじょう捕虜ほりょとしてイタリアからフランス各地かくち転々てんてんとさせられ、1799ねん8がつ29にちヴァランス失意しついのうちにった。死後しごおこなわれたコンクラーヴェで友人ゆうじんのルイジ・キアラモンティがよく1800ねん3月14にちピウス7せい選出せんしゅつされた。

ピウス6せい時代じだい経済けいざい政策せいさく失敗しっぱいにより、ローマ教皇きょうこうちょう財政難ざいせいなん加速かそくしたが、教皇きょうこう自身じしんレオ10せいのような芸術げいじゅつ公共こうきょう事業じぎょう庇護ひごしゃたることをこころざしていたようである。有名ゆうめいバチカン美術館びじゅつかんはこのピウス6せい発案はつあんである。

注釈ちゅうしゃく出典しゅってん[編集へんしゅう]

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