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教皇きょうこう子午線しごせん

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みなみアメリカの地図ちずじょうしるした教皇きょうこう子午線しごせん右側みぎがわ)。翌年よくねんトルデシリャス条約じょうやくではより西にしりのせんえられた。
インテル・カエテラ

教皇きょうこう子午線しごせん(きょうこうしごせん)は、1492ねんクリストファー・コロンブスによる「アジア到達とうたつ[注釈ちゅうしゃく 1]らせをけて、ローマ教皇きょうこうアレクサンデル6せい1493ねん5月4にち発行はっこうした教皇きょうこう勅書ちょくしょ「インテル・カエテラ」(ラテン語らてんご: Inter caetera贈与ぞうよだい勅書ちょくしょ[1])によって規定きていされた、ポルトガルスペイン両国りょうこく勢力せいりょく分界ぶんかいせんである。アフリカヴェルデみさき西方せいほう子午線しごせんで、大西おおにしひろしアゾレス諸島しょとうヴェルデ諸島しょとうあいだ海上かいじょう通過つうかする経線けいせんより東側ひがしがわをポルトガルの、その西側にしがわをスペインの勢力せいりょくけんとした。

背景はいけい

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1492ねんコロンブス西にし大西洋たいせいようのアジア大陸たいりくおもわれる地域ちいき到達とうたつしたことで、ポルトガルスペイン不安定ふあんてい関係かんけいあやぶまれた。ジョアン2せい西方せいほうへの航海こうかいのために艦隊かんたい準備じゅんびしているというらせをけ、スペイン国王こくおうスペイン女王じょおうあたらしく発見はっけんされた土地とち所有しょゆうけん統治とうちけんをめぐって外交がいこう協議きょうぎ開始かいしした[2]。スペインとポルトガルの代表だいひょうだんは1493ねん4がつから11がつまで会合かいごうひら議論ぎろんかさねたが、合意ごういにはいたらなかった。

コロンブスはリスボン滞在たいざいちゅう、スペイン君主くんしゅ成功せいこう報告ほうこくおくった。4月11にち、スペイン大使たいしは、スペインじんぜんバレンシア行政ぎょうせいかんであったローマ教皇きょうこうアレクサンデル6せいにそのらせをつたえ、スペインに有利ゆうりあたらしい教皇きょうこう勅書ちょくしょ発行はっこうするようにうながした[3]当時とうじ教皇きょうこうアレクサンデル6せい教皇きょうこうちょう支配しはいしゃとして、フェルディナンドのいとこであるナポリおうフェルディナンド1せいとの領土りょうど紛争ふんそうちゅうであったため、イザベラとフェルディナンドの要望ようぼうには、もし必要ひつようおもえば先行せんこうする教皇きょうこう勅書ちょくしょひとつを改定かいていするという手紙てがみをコロンブスにおく程度ていどには友好ゆうこうてきであった。

かれらはローマと緊密きんみつ連絡れんらくりながら、バルセロナにいた。カメラ・アポストリカ(教皇きょうこうちょう行政ぎょうせいシステムにおける中央ちゅうおう財政ざいせい委員いいんかい)はスペイン裁判所さいばんしょ延長線えんちょうせんじょうにあるようなもので、ポルトガルの請求せいきゅうけん事実じじつじょう清算せいさんする勅書ちょくしょ次々つぎつぎ確保かくほした[4]教皇きょうこうアレクサンデル6せいは1493ねん5がつ3にちと4にち勅書ちょくしょ発布はっぷした。3番目ばんめ勅書ちょくしょであるインテル・カエテラは最初さいしょの2つの勅書ちょくしょってわった。1493ねん9がつ26にち最後さいごみことのりれい『Dudum siquidem』はインテル・カエテラ補足ほそくするものであった[5]

内容ないよう

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この勅書ちょくしょカトリックりょうおう[注釈ちゅうしゃく 2]たいし、アゾレス諸島しょとうおよびカーボベルデ諸島しょとう子午線しごせんから100レグア西にし子午線しごせんより「西にしみなみ」にあるすべての土地とちあたえるというものである[注釈ちゅうしゃく 3]

教皇きょうこう意図いとりょうおうへの主権しゅけんの「移譲いじょう」だったのか、封建ほうけん領主りょうしゅとしてふうじたものなのか、領主りょうしゅ叙任じょにんしたものなのかは、現在げんざいでもはっきりしていない。この勅書ちょくしょ解釈かいしゃくについては、発行はっこう以来いらい様々さまざま議論ぎろんされてきた。あるものは、この勅書ちょくしょ土地とち所有しょゆう占有せんゆう合法ごうほうてき主権しゅけんえることを意味いみしていたと主張しゅちょうしている。べつものは、可能かのうかぎひろ意味いみ解釈かいしゃくし、スペイン(スペインの王権おうけん征服せいふくしゃふくむ)に完全かんぜん政治せいじてき主権しゅけんあたえたと推論すいろんした[5]

インテル・カエテラと関連かんれんする勅書ちょくしょとくDudum siquidemは「贈与ぞうよ勅書ちょくしょ[6]構成こうせいしている[7]。これらの勅書ちょくしょはスペインとポルトガルのあいだ紛争ふんそう解決かいけつすることを目的もくてきとしていたが、宗教しゅうきょう改革かいかくのちのそのくにによる探検たんけん植民しょくみんには対応たいおうしていなかった。

教皇きょうこうアレクサンデル6せい教皇きょうこう勅書ちょくしょには、ポルトガルとスペインの双方そうほうともまった注意ちゅういはらわなかった[4]。そのわりに1494ねんのトルデシリャス条約じょうやく交渉こうしょうし、せんをさらに西にし移動いどうし、ポルトガルのカーボベルデ諸島しょとう西にし370リーグの子午線しごせんとし、せんひがしあらたに発見はっけんされたすべての土地とち明確めいかくポルトガルあたえることになった[8]

1512ねん、ポルトガルがスパイス諸島しょとう発見はっけんしたことをけて、スペインは1518ねん教皇きょうこうアレクサンデル6せい世界せかいを2つにけたというせつとなえたが[9]、このころまでにはのヨーロッパ諸国しょこくは、教皇きょうこうしん世界せかいのようなひろ地域ちいき主権しゅけん統括とうかつする権利けんりがあるというかんがかた完全かんぜん拒否きょひしていた。スペイン国内こくないでもフランシスコ・デ・ビトリアのような有力ゆうりょくしゃがインタル・カエテラの有効ゆうこうせい否定ひていしていた。スペインはローマ教皇きょうこうちょう教皇きょうこう勅書ちょくしょもとづく領有りょうゆうけん放棄ほうきしなかったが、スペイン王家おうけ大西洋たいせいよう境界きょうかいせんをめぐってローマ教皇きょうこう制裁せいさいもとめることもしなかった。むしろスペインはポルトガルと直接ちょくせつ交渉こうしょうをすることをえらんだ[5]

その

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ファルコウスキー(2002)は、1537ねん6月2にちローマ教皇きょうこうパウルス3せい公布こうふした教皇きょうこう勅書ちょくしょスブリミス・デウス」はローマ教皇きょうこうアレクサンデル6せい教皇きょうこう勅書ちょくしょ「インテル・カエテラ」を無効むこうとする効果こうかがあったとしている[10]スブリミス・デウスは、ラス・カサスをはじめとする先住民せんじゅうみん権利けんり支持しじする人々ひとびとあいだ拡散かくさんされ、引用いんようされつづけた[11]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 実際じっさいにはアジアではなく、ヨーロッパじんにとっては未知みち大陸たいりく(「新大陸しんたいりく」)であった。
  2. ^ アラゴンおうフェルナンド2せいカスティーリャ女王じょおうイサベル1せい2人ふたりは1469ねん結婚けっこんし、その子孫しそんがスペイン王家おうけとなった。
  3. ^ 子午線しごせん南極なんきょくまでびるものであるので、子午線しごせんの「みなみ」の土地とちはありない。この文章ぶんしょう解釈かいしゃくとして、アゾレス諸島しょとう西にし地点ちてんからきたびる子午線しごせんと、カーボベルデ諸島しょとうみなみ地点ちてんからみなみびる子午線しごせんという2つの子午線しごせん意図いとしていた可能かのうせいがある。に、しま西にしみなみびる等角とうかく航路こうろのことをしている可能かのうせいもある。

出典しゅってん

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  1. ^ 西山にしやま俊彦としひこ (2003-12-31). “カトリック教会きょうかい奴隷どれい貿易ぼうえき容認ようにんしたのではないか -教皇きょうこう文書ぶんしょ新大陸しんたいりくでの実態じったい吟味ぎんみ(1)-”. 福音ふくいん社会しゃかい. NAID 40006061358. http://peace-appeal.fr.peter.t.nishiyama.catholic.ne.jp/2003_doreimondai_index.htm. 
  2. ^ Kirkpatrick Sale The Conquest of Paradise, p. 123, ISBN 0333574796
  3. ^ A copy of Columbus's letter is known to have arrived in Rome by mid-April (it is mentioned in a Venetian chronicle dated 18 April), Kirkpatrick Sale, p. 124
  4. ^ a b Spate, Oskar H.K., "The Alexandrine Bulls and the Treaty of Tordesillas", Chap.2, The Spanish Lake
  5. ^ a b c Verzijl, Jan Hendrik Willem; W.P. Heere; J.P.S. Offerhaus (1979). International Law in Historical Perspective. Martinus Nijhoff. pp. 230–234, 237. ISBN 978-90-286-0158-1 . Online, Google Books entry
  6. ^ 合田あいだ昌史まさふみ<論説ろんせつ>征服せいふく分配ぶんぱい言説げんせつ : レコンキスタから世界せかい分割ぶんかつへ (特集とくしゅう : 国境こっきょう)」『りんだい90かんだい1ごう史学しがく研究けんきゅうかい (京都きょうと大学だいがく文学部ぶんがくぶない)、2007ねん1がつ、101ぺーじCRID 1390853649776672768doi:10.14989/shirin_90_92hdl:2433/239937ISSN 0386-93692024ねん8がつ23にち閲覧えつらん 
  7. ^ "The Möbius strip: a spatial history of colonial society in Guerrero, Mexico", Jonathan D. Amith, p. 80, Stanford University Press, 2005 ISBN 0-8047-4893-4
  8. ^ The Treaty of Tordesillas did not specify any longitude, thus writers have proposed several, beginning with Jaime Ferrer's 1495 opinion provided at the request of and to the Spanish king and queen.
  9. ^ Edward Gaylord Bourne, "Historical Introduction", in The Philippine Islands 1493–1803 by Emma Helen Blair.
  10. ^ Thornberry 2002, p. 65, fn. 21
  11. ^ Lampe, p. 17

参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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