聖地せいち (アブラハムの宗教しゅうきょう)

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聖地せいち
げん地名ちめい
ヘブライ: אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁ
ラテン語らてんご: Terra Sancta
アラビア: الأرض المقدسة
1321ねんピエトロ・ヴェスコンテによる聖地せいち地図ちずアドルフ・エリク・ノルデンショルドによれば、「限定げんていされた地域ちいきえがいたはじめてのプトレマイオス地図ちず」である[1]
種類しゅるい聖地せいち
所在地しょざいちヨルダン川よるだんがわ地中海ちちゅうかいあいだ
当初とうしょ用途ようとユダヤきょう: ユダヤじん約束やくそく

キリスト教きりすときょう: 福音ふくいん

イスラム教いすらむきょう: クルアーン祝福しゅくふくされた
げん用途ようとアブラハムの宗教しゅうきょうにおける主要しゅよう巡礼じゅんれい
聖地せいちアブドゥラムいたみち

アブラハムの宗教しゅうきょうにおける聖地せいちヘブライ: אֶרֶץ הַקּוֹדֶשׁEretz HaKodesh: Terra Sanctaおもね: الأرض المقدسةAl-Arḍ Al-Muqaddasah / おもね: الديار المقدسةAd-Diyar Al-Muqaddasah)は、おおまかにヨルダン川よるだんがわ地中海ちちゅうかいとのあいだ、またヨルダン川よるだんがわ東岸とうがんふく地域ちいきす。聖書せいしょにおけるイスラエルのや、パレスチナともおおまかに一致いっちする。現代げんだい地図ちずじょうでは、イスラエルパレスチナ領域りょういきヨルダン西部せいぶレバノン南部なんぶ一部いちぶシリア南西なんせい一部いちぶにあたる。

聖地せいち重要じゅうようせいは、イエス・キリストおおやけ生涯しょうがいごした歴史れきしてき地域ちいきとしての、そして、ムハンマドよるたびおよび昇天しょうてん英語えいごばんよるたび昇天しょうてんしょ参照さんしょう)がこったとしての、エルサレムの宗教しゅうきょうてき重要じゅうようせい英語えいごばんユダヤきょうにとってもっと重要じゅうよう都市とし)に由来ゆらいする。

この土地とちキリスト教徒きりすときょうと巡礼じゅんれい英語えいごばん目的もくてきとしてのひじりせいは、630年代ねんだいキリスト教徒きりすときょうとひがしマ帝国まていこくからムスリム(イスラム教徒きょうと)がうばった英語えいごばんを、ふたたムスリムから奪還だっかんしようとしたヨーロッパじんキリスト教徒きりすときょうと英語えいごばんによる、十字軍じゅうじぐん派遣はけん一因いちいんとなった。

19世紀せいきには、当該とうがい所在しょざいするもろ聖地せいち東方とうほう問題もんだい原因げんいんとなったことで外交がいこうてき論争ろんそう紛争ふんそう対象たいしょうとなり、1850年代ねんだいクリミア戦争せんそう遠因えんいんとなった。

聖地せいち所在しょざいするすうおおくの場所ばしょは、ちょうきにわたって(ユダヤきょうキリスト教きりすときょうイスラム教いすらむきょう、そしてバハイきょうふくむ)アブラハムの宗教しゅうきょう信者しんじゃにとって巡礼じゅんれい目的もくてきとなっており、巡礼じゅんれいしゃ英語えいごばんたちは、かれ自身じしん信仰しんこう物理ぶつりてき明示めいじ顕現けんげんたりにするために、きよしてき文脈ぶんみゃくにおけるかれ自身じしん信念しんねん集団しゅうだんてき高揚こうようとも確認かくにんするために[2]、そして聖地せいち人格じんかくてきむすく(つながる)ために[3]聖地せいちおとずれる。

ユダヤきょう[編集へんしゅう]

エルサレムのオリーブのやまにあるユダヤ教徒きょうと墓地ぼち。イスラエルの神聖しんせい土地とちほうむられることを夢見ゆめみユダヤじんおおい。ラビ・アナンは「イスラエルにほうむられることは、祭壇さいだんしたほうむられるようなものだ。」とべている[4][5][6]
ケフィンのオリーブの。オリーブはユダヤきょうにおいては神聖しんせいせいをもつとされ、安息あんそくねんにはとくたっとばれる。7ねんいち安息あんそくねんについては、様々さまざま宗教しゅうきょうほうがからんでくる[7]

ユダヤじんは、一般いっぱんにはイスラエルのを「聖地せいち」(ヘブライ: אֶרֶץ הַקוֹדֵשׁ Eretz HaKodesh)とはばない。タナハ(ヘブライ聖書せいしょ)、この文脈ぶんみゃくで「聖地せいち」という言葉ことば使つかっているのは一文いちぶんだけである[8]ヘブライ文書ぶんしょぐんであるだいせいてんうちでも2つの用例ようれいしかない[9][10]。タナハによれば、イスラエルの神聖しんせいなのは、まずこのかみからイスラエルのみんあたえられた「約束やくそく」であり、かみとの契約けいやく不可分ふかぶんであるからとされている。トーラーにあるおおくのミツワーは、イスラエルのみんへのかみ命令めいれいはイスラエルのにてのみおこなわれる、として[11]明確めいかく差別さべつしている。たとえば、イスラエルのは「いかなる土地とち永久えいきゅうわたしてはならない」(Lev 25:23)。なおユダヤじんのディアスポラ影響えいきょうで、ユダヤきょう祝祭日しゅくさいじつ世界せかい各地かくちのユダヤ教徒きょうとあいだでずれがしょうじるようになっており、安息あんそくねん習慣しゅうかんもイスラエル在住ざいじゅう一部いちぶのユダヤじん形式けいしきてきっているにぎない。

Eliezer Schweidは、つぎのようにべている。

イスラエルの特殊とくしゅせいは...「地理ちり神学しんがくてき」('geo-theological')なもので、たん風土ふうどてきなものとはえない。このはスピリチュアルな世界せかいへのくちであり、我々われわれ感覚かんかくとおしてっている物質ぶっしつ世界せかいえてよこたわる存在そんざい領域りょういきである。これこそが予言よげんいのりにかんして、また同時どうじ戒律かいりつかんしてもこの特徴とくちょうてき位置いちめているである。[12]

1906ねん出版しゅっぱんされたジューイッシュ・エンサイクロペディアは、イスラエルのひじりせいは、とく葬礼そうれいにおいて顕著けんちょ傾向けいこうであるが、16世紀せいき以降いこうよんだい聖地せいちすなわちエルサレムヘブロンツファットティベリア集約しゅうやくされるようになったとしている。そのなかでも神殿しんでん存在そんざいしたエルサレムがとく重要じゅうようであるとされる[13]現在げんざいでも、世界せかい各地かくちらばったユダヤじんなかにはイスラエルの神聖しんせいほうむられることをのぞみ、実際じっさいにそのように埋葬まいそうされるものもいる[14]

ユダヤきょうでは伝統でんとうてきに、アブラハムイサク生贄いけにえにしようとしたイサクの燔祭舞台ぶたいとなったモリヤのおかのエルサレムであるとしんじられている。ヘブライ聖書せいしょでは、「エルサレム」という言葉ことばが669かい登場とうじょうするが、それはミツワーがエルサレム周辺しゅうへんでしか実行じっこうできないとされたからである。類語るいごである「シオン」(基本きほんてきにはエルサレムをすが、ときにイスラエルのすこともある)という言葉ことばは154かい登場とうじょうする。

タルムードでは、イスラエルでの入植にゅうしょく宗教しゅうきょうてき義務ぎむとされている[15]。そのためユダヤきょうにおいてイスラエルの土地とち購入こうにゅうするのはきわめて重要じゅうよう活動かつどうとされており、タルムードでは安息日あんそくびでも土地とち獲得かくとく入植にゅうしょくおこなってよいとしている[16]。Rabbi Johananは、「イスラエルのを4キュビットあるいたものなら、あのはいることを保証ほしょうされる。」とべている[17][18]伝説でんせつによると、Eleazar ben ShammuaとJohanan HaSandlarがJudah ben Bathyraにおしえをうべくイスラエルをったものの、「パレスチナの神聖しんせいさについての思索しさくかれらの決心けっしん圧倒あっとうした」ためにかれらはシドンまでしかたどりけず、かれらはなみだをこぼし、おのれふくき、かえした[18]。ユダヤじんはイスラエルのきわめて重視じゅうしするため移住いじゅうすることがすくなく、その結果けっかユダヤきょうほうじられている地域ちいきかぎられている。しかしエルサレム神殿しんでん破壊はかいとイスラエルにおけるすう世紀せいきにわたる迫害はくがいすえみずからの地位ちいたもつことがむずかしいとかんがえたラビたちは、より地位ちい提供ていきょうしてきたバビロニア移住いじゅうした。おおくのユダヤじんは、イスラエルのに、そこに埋葬まいそうされることをのぞんでいる。ラビ・アナンは、「イスラエルにほうむられることは、祭壇さいだんしたほうむられるようなものだ。」とべている[4][5][6]。「かれかれ人々ひとびと赦免しゃめんするだろう」といういいまわしがあるが、これはイスラエルのほうむられたものはそのすべてのつみめんじられる、という意味いみである[18][19]

キリスト教きりすときょう[編集へんしゅう]

せい墳墓ふんぼ教会きょうかいイエス・キリスト復活ふっかつした場所ばしょとされ、とく重要じゅうよう巡礼じゅんれいとなっている。
レバノンティブニンむらのこ十字軍じゅうじぐんトロンじょう

キリスト教徒きりすときょうとは、かれらがメシアしんじるイエス・キリスト降誕こうたん活動かつどう磔刑たっけい復活ふっかつしたイスラエルの神聖しんせいしている。またナザレのイエス自身じしんがユダヤじんであったことから、かれ自身じしんユダヤ教徒きょうととしてイスラエルの神聖しんせいしていた可能かのうせいもある。

聖書せいしょなどほとんどのキリスト教きりすときょう書籍しょせきには、聖地せいちガリラヤサマリアユダヤ)の地図ちず掲載けいさいされている。たとえばドイツのプロテスタント牧師ぼくしハインリヒ・ビュンティング (1545ねん - 1606ねん)は、聖地せいち地理ちりをまとめた『イティネラリウム・サクラエ・スクリプトゥラエ』(ラテン語らてんご: Itinerarium Sacrae Scripturae (直訳ちょくやく:聖書せいしょ旅行りょこう)を出版しゅっぱんしている[20]かれほん非常ひじょう反響はんきょうおおきく、「もっと完成かんせいされた聖書せいしょじょう地理ちり概要がいようを」提供ていきょうし、「旧約きゅうやく聖書せいしょ新約しんやく聖書せいしょおも人物じんぶつ旅行りょこうをたどることで聖地せいち地理ちり表現ひょうげんした」とひょうされた[20]

イスラム教いすらむきょう[編集へんしゅう]

エルサレムきゅう市街しがいアル=アクサー・モスク

クルアーンでは、聖地せいち (Al-Ard Al-Muqaddasah アラビア: الأرض المقدسة‎, 英語えいご: "Holy Land")という言葉ことばムーサー (モーセ)がイスラエルのたいして「おお、みんよ!アッラーフがあなたたちのためにあたえた聖地せいちれ。はじさらしにもかえしてはならぬ。そのようにしたらそのときなんじらは失敗しっぱいしゃとなる。」とべる部分ぶぶん登場とうじょうしてくる[Quran 5:21]。またクルアーンでは、このが「祝福しゅくふくされた」土地とちであるともしている[21][22][23]

エルサレム (Al-Quds, アラビア: الـقُـدس‎, 「神聖しんせいな()」とばれる)は、イスラム教いすらむきょうにおいてもきわめて重要じゅうようである。クルアーンによれば、ムハンマド一夜いちやにしてマッカせいなるマスジドから「いたりとおの(アル=アクサー)マスジド」へたびをして昇天しょうてんするという体験たいけんをした(ミウラージュ[Quran 17:1][21]ハディースでは、この「いたりとおのマスジド」はエルサレムのアル=アクサー・モスクのことであると解釈かいしゃくされている。たとえばきょうともアブー・フライラーは「アッラーの使徒しと(ムハンマド)がたびをしたよる、2はいのカップ、すなわちワインをたたえたものとミルクをたたえたものが、アル=クドゥス(エルサレム)でかれあたえられた。かれはそれらをて、ミルクのカップをった。天使てんしジブリールった、『かみたたえあれ、かれはそなたをフィトラ(せいしきどう)へみちびいた。もしそなたがワインをとっていれば、そなたのウンマみちまようことになったであろう。』」とべている。なお現代げんだい学者がくしゃなかには、本来ほんらいいたりとおのマスジド」というのははたんメディナのすぐがい建物たてものいのりをささげる場所ばしょしていたのではないかとするものもいる[24][25]現在げんざいエルサレムにあるアル=マスジド・アル=アクサー(アル=アクサー・モスク)はムハンマドの時代じだいてられたものではなく、クルアーンのなかでもにエルサレムに言及げんきゅうしている部分ぶぶんは、キブラ(ムスリムがいの方向ほうこう)をエルサレムからマッカにうつしたはなしのみである。草創そうそうイスラム教いすらむきょうにおいてはエルサレムがキブラであったが、ムハンマドがだい天使てんしジブリールをとお啓示けいじけて、ヒジャーズのマッカにあるカアバ神殿しんでん方角ほうがく変更へんこうされた[26]

クルアーンないで「祝福しゅくふくされた」、という表現ひょうげんてくる17:121:7134:18など[21][22][23]は、様々さまざま学者がくしゃにより多様たよう解釈かいしゃくされている。アブドゥッラー・ユースフ・アリーは、シリアやレバノンをふく広大こうだい範囲はんいとくティルスシドンなどの都市としすとしている。Az-Zujajは「ダマスカス、パレスチナ、それにヨルダン一部いちぶ」と説明せつめいしている。ムアド・イブン・ジャバルは「アリーシュユーフラテスがわあいだ」、イブン・アッバスは「イェリコ」とべている[27]。こうした地域ちいき全体ぜんたい言葉ことばとしてアシュ=シャーム(アラビア: الـشَّـام‎)がある[28][29]

バハイ信教しんきょう[編集へんしゅう]

バハイ教徒きょうとは、バハイ信教しんきょう創始そうししゃバハオラが1868ねん投獄とうごくされ、釈放しゃくほうも1892ねん死去しきょするまで周辺しゅうへん余生よせいおくったアッコハイファ聖地せいちとみなしている。バハオラはハイファにあるカルメルさん斜面しゃめんをバブの聖廟せいびょうさだめ、後継こうけいしゃさだめられたアブドル・バハは、1909ねんにこの庭園ていえんきずはじめた。アブドル・バハの後継こうけいしゃショーギ・エフェンディもこの聖地せいち拡張かくちょうすすめ、さらにその没後ぼつご万国ばんこく正義せいぎいん事業じぎょうぎ、このは、現在げんざいのバハイ信教しんきょう運営うんえいめんおよび宗教しゅうきょうてき中心地ちゅうしんちバハイ世界せかいセンターにいたっている[30][31]。この庭園ていえん観光かんこうとしてもきわめて人気にんきがあり[32]、2012ねんモフセン・マフマルバフ映画えいが庭師にわし』の舞台ぶたいともなった[33]。アッコにあるバハオラのびょうとハイファのバブの聖廟せいびょうもっと重要じゅうようなバハイ信教しんきょう巡礼じゅんれいであり、2008ねんハイファと西にしガリラヤのバハイきょう聖地せいちぐんとしてユネスコ世界せかい遺産いさん登録とうろくされた[34]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Adolf Erik Nordenskiöld (1889). Facsimile-atlas to the Early History of Cartography: With Reproductions of the Most Important Maps Printed in the XV and XVI Centuries. Kraus. pp. 51, 64. https://books.google.com/books?id=i-IMSQAACAAJ 
  2. ^ Harris, David (2005). “Functionalism”. Key Concepts in Leisure Studies. SAGE Key Concepts series (reprint ed.). London: SAGE. p. 117. ISBN 9780761970576. https://books.google.com/books?id=n2PHQp9xIF8C 2019ねん3がつ9にち閲覧えつらん. "Tourism frequently deploys metaphors such [as] pilgrimage [...] Religious ceremonies reinforce social bonds between believers in the form of rituals, and in their ecstatic early forms, they produced a worship of the social, using social processes ('collective excitation')." 
  3. ^ Metti, Michael Sebastian (2011ねん6がつ1にち). “Jerusalem - the most powerful brand in history”. Stockholm University School of Business. オリジナルの2020ねん1がつ26にち時点じてんにおけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20200126124828/http://www.metti-bronner.com/Jerusalem.pdf 2011ねん7がつ1にち閲覧えつらん 
  4. ^ a b Ketubot (tractate) 111, quoted in Ein Yaakov
  5. ^ a b Michael L. Rodkinson (Translator) (2010). The Babylonian Talmud: all 20 volumes (Mobi Classics). MobileReference. p. 2234. ISBN 978-1-60778-618-4. https://books.google.com/books?id=1vpQgnDJLzUC&pg=PT2234 2011ねん12月7にち閲覧えつらん 
  6. ^ a b Moshe Gil (1997). A history of Palestine, 634-1099. Cambridge University Press. p. 632. ISBN 978-0-521-59984-9. https://books.google.com/books?id=M0wUKoMJeccC&pg=PA632 2011ねん12月7にち閲覧えつらん 
  7. ^ Seasons in Halacha, Pinchos Yehoshua Ellis, pg. 74.
  8. ^ Zechariah 2:16
  9. ^ Wisdom 12:3
  10. ^ 2 Maccabees 1:7
  11. ^ Aharon Ziegler, Halakhic positions of Rabbi Joseph B. Soloveitchik: Volume 4, KTAV Publishing House, 2007, p.173
  12. ^ The Land of Israel: National Home Or Land of Destiny, By Eliezer Schweid, Translated by Deborah Greniman, Published 1985 Fairleigh Dickinson Univ Press, ISBN 0-8386-3234-3, p.56.
  13. ^ Since the 10th century BCE. "For Jews the city has been the pre-eminent focus of their spiritual, cultural, and national life throughout three millennia." Yossi Feintuch, U.S. Policy on Jerusalem, Greenwood Publishing Group, 1987, p. 1. ISBN 0-313-25700-0
  14. ^ Joseph Jacobs, Judah David Eisenstein. “PALESTINE, HOLINESS OF”. JewishEncyclopedia.com. 2011ねん12月7にち閲覧えつらん
  15. ^ Isaac Herzog (1967). The Main Institutions of Jewish Law: The law of obligations. Soncino Press. p. 51. https://books.google.com/books?id=eq3XAAAAMAAJ 2011ねん6がつ27にち閲覧えつらん 
  16. ^ Yosef Zahavi (1962). Eretz Israel in rabbinic lore (Midreshei Eretz Israel): an anthology. Tehilla Institute. p. 28. https://books.google.com/books?id=yK7hAAAAMAAJ 2011ねん6がつ19にち閲覧えつらん. "If one buys a house from a non-Jew in Israel, the title deed may be written for him even on the Sabbath. On the Sabbath!? Is that possible? But as Rava explained, he may order a non-Jew to write it, even though instructing a non-Jew to do a work prohibited to Jews on the Sabbath is forbidden by rabbinic ordination, the rabbis waived their decree on account of the settlement of Palestine." 
  17. ^ Footsteps in the Land - Chapter Eleven, Part 1”. www.chabad.org. 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  18. ^ a b c PALESTINE, HOLINESS OF - JewishEncyclopedia.com”. www.jewishencyclopedia.com. 2018ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  19. ^ Why Do Jews Fly Their Dead to Israel for Burial?” (英語えいご). www.chabad.org. 2018ねん10がつ30にち閲覧えつらん
  20. ^ a b Description of the Holy Land” (German). World Digital Library (1585ねん). 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  21. ^ a b c Quran 17:1–16
  22. ^ a b Quran 21:51–82
  23. ^ a b Quran 34:10–18
  24. ^ Mordechai Kedar (2008ねん9がつ15にち). “The myth of al-Aqsa:Holiness of Jerusalem to Islam has always been politically motivated”. Ynetnews. 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  25. ^ Martin Kramer. “The Jewish Temples: The Temples of Jerusalem in Islam”. Jewish Virtual Library. 2020ねん6がつ12にち閲覧えつらん
  26. ^ Quran 2:142–177
  27. ^ Ali (1991), p. 934
  28. ^ Article "AL-SHĀM" by C.E. Bosworth, Encyclopaedia of Islam, Volume 9 (1997), page 261.
  29. ^ Kamal S. Salibi (2003). A House of Many Mansions: The History of Lebanon Reconsidered. I.B.Tauris. pp. 61–62. ISBN 978-1-86064-912-7. https://books.google.com/books?id=t_amYLJq4SQC. "To the Arabs, this same territory, which the Romans considered Arabian, formed part of what they called Bilad al-Sham, which was their own name for Syria. From the classical perspective however Syria, including Palestine, formed no more than the western fringes of what was reckoned to be Arabia between the first line of cities and the coast. Since there is no clear dividing line between what are called today the Syrian and Arabian deserts, which actually form one stretch of arid tableland, the classical concept of what actually constituted Syria had more to its credit geographically than the vaguer Arab concept of Syria as Bilad al-Sham. Under the Romans, there was actually a province of Syria. with its capital at Antioch, which carried the name of the territory. Otherwise. down the centuries, Syria like Arabia and Mesopotamia was no more than a geographic expression. In Islamic times, the Arab geographers used the name arabicized as Suriyah, to denote one special region of Bilad al-Sham, which was the middle section of the valley of the Orontes river, in the vicinity of the towns of Homs and Hama. They also noted that it was an old name for the whole of Bilad al-Sham which had gone out of use. As a geographic expression, however, the name Syria survived in its original classical sense in Byzantine and Western European usage, and also in the Syriac literature of some of the Eastern Christian churches, from which it occasionally found its way into Christian Arabic usage. It was only in the nineteenth century that the use of the name was revived in its modern Arabic form, frequently as Suriyya rather than the older Suriyah, to denote the whole of Bilad al-Sham: first of all in the Christian Arabic literature of the period, and under the influence of Western Europe. By the end of that century it had already replaced the name of Bilad al-Sham even in Muslim Arabic usage." 
  30. ^ Jay D. Gatrella; Noga Collins-Kreinerb (September 2006). “Negotiated space: Tourists, pilgrims, and the Bahá'í terraced gardens in Haifa”. Geoforum 37 (5): 765–778. doi:10.1016/j.geoforum.2006.01.002. ISSN 0016-7185. 
  31. ^ Smith, Peter (2000). "Arc-buildings of; Bahá'í World Centre". A concise encyclopedia of the Bahá'í Faith. Oxford: Oneworld Publications. pp. 45–46, 71–72. ISBN 978-1-85168-184-6
  32. ^ Leichman, Abigail Klein (2011ねん9がつ7にち). “Israel's top 10 public gardens”. Israel21c.org. 2014ねん3がつ30にち閲覧えつらん
  33. ^ Dargis, Manohla (2013ねん8がつ8にち). “The Cultivation of Belief - 'The Gardener,' Mohsen Makhmalbaf's Inquiry Into Religion”. New York Times. https://www.nytimes.com/2013/08/09/movies/the-gardener-mohsen-makhmalbafs-inquiry-into-religion.html?_r=0 2014ねん3がつ30にち閲覧えつらん 
  34. ^ UNESCO World Heritage Centre (2008ねん7がつ8にち). “Three new sites inscribed on UNESCO's World Heritage List”. 2008ねん7がつ8にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

 この記事きじにはパブリックドメインであるつぎ文書ぶんしょ本文ほんぶんふくまれる: Singer, Isidore [in 英語えいご]; et al., eds. (1901–1906). "Palestine, Holiness of". The Jewish Encyclopedia. New York: Funk & Wagnalls.