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アブドル・バハ [1] (/əbˈdʊl bəˈhɑː/; ペルシア語 ご : عبد البهاء, 1844年 ねん 5月23日 にち - 1921年 ねん 11月28日 にち )は、バハイ信教 しんきょう の創始 そうし 者 しゃ バハオラ の長男 ちょうなん であり、1892年 ねん から1921年 ねん までバハイ信教 しんきょう の指導 しどう 者 しゃ としての役割 やくわり を担 にな った。アブドル・バハは後 のち に、バハオラとバブとともに、この宗教 しゅうきょう の3人 にん の中心 ちゅうしん 人物 じんぶつ のうちの最後 さいご の人物 じんぶつ として神聖 しんせい 視 し され、アブドル・バハにより書 か かれた書物 しょもつ [2] や講演 こうえん の記録 きろく [3] などは、バハイ信教 しんきょう の聖 せい なる経典 きょうてん の一部 いちぶ とみなされている。
アブドル・バハは、テヘラン の貴族 きぞく の家 いえ に生 う まれた。8歳 さい のとき、政府 せいふ によるバビ教徒 きょうと への弾圧 だんあつ で父親 ちちおや が投獄 とうごく され、一家 いっか の財産 ざいさん は略奪 りゃくだつ され、事実 じじつ 上 じょう の貧困 ひんこん 状態 じょうたい に陥 おちい ったという。その後 ご 、父親 ちちおや は祖国 そこく イラン から追放 ついほう され、一家 いっか はバグダッド に9年間 ねんかん 滞在 たいざい した。その後 ご 、一家 いっか はオスマン帝国 ていこく に召還 しょうかん されてイスタンブール へ移動 いどう 、エディルネ での滞在 たいざい を経 へ て、アッカ の監獄 かんごく 都市 とし で再 ふたた び政治 せいじ 犯 はん として監禁 かんきん され、すごした。
1892年 ねん 、アブドル・バハは父 ちち の遺 のこ した遺訓 いくん (遺言 ゆいごん )により、その後継 こうけい 者 しゃ としてバハイ共同 きょうどう 体 たい の指導 しどう 者 しゃ に任命 にんめい される。これは、宗教 しゅうきょう 上 じょう の継承 けいしょう の争 あらそ いを避 さ け、分裂 ぶんれつ を避 さ け、経典 きょうてん から派生 はせい する教 おし えをより完全 かんぜん な形 かたち で保存 ほぞん することにより信教 しんきょう の発展 はってん の基礎 きそ を築 きず くために講 こう じられた策 さく であり、バハオラはこの概念 がいねん を「聖 きよし 約 やく 」と命名 めいめい している。アブドル・バハが著 あらわ した『聖 せい なる計画 けいかく の書簡 しょかん 』は、北米 ほくべい のバハイが新 あたら しい地域 ちいき にバハイの教 おし えを広 ひろ めるのに役立 やくだ ち、彼 かれ の「遺訓 いくん と遺言 ゆいごん 」は現在 げんざい のバハイ行政 ぎょうせい 秩序 ちつじょ の基礎 きそ を築 きず いた。彼 かれ の著作 ちょさく 、祈 いの り、書簡 しょかん の多 おお くは現存 げんそん しており、西洋 せいよう のバハイとの会話 かいわ の記録 きろく からは1890年代 ねんだい 後半 こうはん までの信仰 しんこう の成長 せいちょう の様子 ようす をうかがうことができる。
1908年 ねん に64歳 さい でトルコ人 じん 革命 かくめい によって解放 かいほう されるまで、アブドル・バハはバハオラの40年間 ねんかん におよぶ流刑 りゅうけい と投獄 とうごく をともにし、成人 せいじん したころから父 ちち の側近 そっきん としてだけでなく、バハオラを守 まも る盾 たて として、そしてバハイ信教 しんきょう の主 おも な代理 だいり として様々 さまざま な役割 やくわり を果 は たした。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の勃発 ぼっぱつ により、1914年 ねん から1918年 ねん まではハイファ に滞在 たいざい 。バハイ信教 しんきょう が拠点 きょてん を置 お くハイファは、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 中 ちゅう はバハイ信教 しんきょう に対 たい し敵対 てきたい 的 てき だったオスマン帝国 ていこく の統治 とうち 下 か にあったが、終戦 しゅうせん によりイギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう へと変 か わった。アブドル・バハは戦後 せんご の飢饉 ききん を回避 かいひ するために貢献 こうけん したことで、後 のち にイギリスから爵位 しゃくい を授与 じゅよ されている。
アブドル・バハの出生 しゅっしょう 時 じ に与 あた えられた名前 なまえ は、アッバスであり、文脈 ぶんみゃく によって、ミルザ・アッバス(ペルシャ語 ご )、アッバス・エフェンディ(トルコ語 ご )と表記 ひょうき されるが、これらはどちらも日本語 にほんご での、アッバス卿 きょう という表現 ひょうげん と等 ひと しい。彼 かれ 自身 じしん は、アブドル・バハ(「バハのしもべ」という意味 いみ で、「バハ」は父 ちち であるバハオラを指 さ す)の称号 しょうごう を好 この んだ。一般 いっぱん に、バハイ信教 しんきょう の書籍 しょせき や文献 ぶんけん では、アブドル・バハは「師 し 」という言葉 ことば で言及 げんきゅう されている。
アブドル・バハは、1844年 ねん 5月 がつ 23日 にち にイランのテヘランで、バハオラの長子 ちょうし として生 う まれた。バブが顕示 けんじ 者 しゃ としてその使命 しめい を宣言 せんげん したまさに同 おな じ日 び の夜 よる のことだった。名前 なまえ のアッバスは、有力 ゆうりょく 貴族 きぞく だった彼 かれ の祖父 そふ ミルザ・アッバス・ヌリにちなんだものである。彼 かれ の幼少 ようしょう 期 き は、傑出 けっしゅつ したバビ教徒 きょうと だった父 ちち の立場 たちば によって形成 けいせい された。バビのタヘレと出会 であ った時 とき のこと、膝 ひざ に載 の せて愛撫 あいぶ し、話 はな しかけてくれた時 とき のこと、とても深 ふか く憧 あこが れていたことを、後年 こうねん 述懐 じゅっかい している。アブドル・バハは幸福 こうふく でのびやかな幼少 ようしょう 期 き を送 おく った。家族 かぞく で住 す んでいたテヘランの家 いえ も、田舎 いなか の邸宅 ていたく も、快適 かいてき で美 うつく しい装飾 そうしょく が施 ほどこ されていた。仲 なか 睦 むつ まじかった妹 いもうと と一緒 いっしょ に庭園 ていえん での遊 あそ びに興 きょう じた。妹 いもうと のバヒイー、弟 おとうと のミーディと共 とも に三 さん 人 にん で、幸福 こうふく で快適 かいてき な特権 とっけん 的 てき 環境 かんきょう で暮 く らしていたのである。父 ちち が宮廷 きゅうてい の大臣 だいじん 職 しょく を辞退 じたい したのは彼 かれ の少年 しょうねん 期 き の時 とき だった。女性 じょせい と子供 こども たちのために邸宅 ていたく の一 いち 画 かく を病棟 びょうとう に改造 かいぞう することを含 ふく め、アブドル・バハの目 め の前 まえ で、両親 りょうしん は様々 さまざま な慈善 じぜん 事業 じぎょう に取 と り組 く んでいた。
アブドル ・バハは系統的 けいとうてき な教育 きょういく を子供 こども 時代 じだい に受 う けていない。貴族 きぞく はその子弟 してい を学校 がっこう に通 かよ わせないことが当時 とうじ の慣習 かんしゅう だった。聖典 せいてん 、修辞 しゅうじ 学 がく 、書道 しょどう 、そして基礎 きそ 的 てき な数学 すうがく の教育 きょういく を、広 ひろ く浅 あさ く、家庭 かてい で受 う ける貴族 きぞく が大半 たいはん だったからである。多 おお くの貴族 きぞく が教育 きょういく を受 う けたのは、宮廷 きゅうてい で宮仕 みやづか えする人生 じんせい への準備 じゅんび のためだった。7歳 さい 時 じ の一 いち 年間 ねんかん 、伝統 でんとう 的 てき な予備 よび 学校 がっこう に通 とお ったが、アブドル ・バハは正式 せいしき な教育 きょういく を受 う けなかった。成長 せいちょう していく彼 かれ を教育 きょういく したのは、母 はは と伯父 おじ だった。しかし、彼 かれ の教育 きょういく の大半 たいはん は父 ちち からもたらされた。後年 こうねん の1890年 ねん 、エドワード・グランヴィル・ブラウンはアブドル ・バハをこのように描写 びょうしゃ した。「より雄弁 ゆうべん に演説 えんぜつ し、弁論 べんろん の準備 じゅんび をより万 まん 端 はし に整 ととの え、例示 れいじ 能力 のうりょく により優 すぐ れ、ユダヤ教 きょう 、キリスト教 きょう 、イスラム教 いすらむきょう の聖典 せいてん により精通 せいつう した人物 じんぶつ 、... 雄弁 ゆうべん な論客 ろんかく を集 あつ めても彼 かれ ほどの弁士 べんし は滅多 めった に見出 みだ せない」。
アブドル ・バハは7歳 さい の時 とき に、結核 けっかく にかかった。予期 よき された死 し は免 まぬかれ がれ、病弊 びょうへい は消 き えていったが、人生 じんせい の最後 さいご まで発作 ほっさ に悩 なや まされた。
子供 こども 時代 じだい のアブドル ・バハを大 おお きく揺 ゆ さぶった出来事 できごと は、8歳 さい の時 とき の父 ちち の投獄 とうごく だった。その結果 けっか 、一家 いっか は貧困 ひんこん に陥 おちい り、よその子供 こども たちから路上 ろじょう で攻撃 こうげき されるようになった。悪名 あくめい 高 たか き暗黒 あんこく の地下 ちか 牢 ろう シア・チャールに投獄 とうごく されたバハオラを、アブドル ・バハは母 はは にお供 きょう し、面会 めんかい に訪 おとず れた。「私 わたし の目 め に映 うつ ったのは、暗 くら く勾配 こうばい が険 けわ しい場所 ばしょ でした。小 ちい さくて狭 せま いドア口 こう から入 はい り、階段 かいだん を二 に 段 だん 降 お りましたが、それより先 さき は何 なに も見 み えません。階段 かいだん の中頃 なかごろ まで降 お りると、突然 とつぜん 、父 ちち 、バハオラの声 こえ が聞 き こえました。『その子 こ をここに来 きた させてはいけません』。そこで、私 わたし は連 つ れ戻 もど されました。」
バハオラは最終 さいしゅう 的 てき に釈放 しゃくほう されたが、追放 ついほう を命 めい じられた。当時 とうじ 、8歳 さい だったアブドル ・バハは、父 ちち に随伴 ずいはん し、バグダットへの旅 たび (1853年 ねん 1月 がつ から4月 がつ )に参加 さんか した。時 とき は冬 ふゆ 。旅 たび の間 あいだ に凍傷 とうしょう にかかった。バハオラは、困難 こんなん に満 み ちた一 いち 年 ねん の後 のち 、ミルザ・ヤーヤとの抗 こう 争 そう を続 つづ けるよりもむしろ、身 み を引 ひ くことを選 えら び、スライマーニーヤの山々 やまやま に密 ひそ かに隠遁 いんとん した。1854年 ねん 4月 がつ 、アブドル ・バハが10歳 さい の誕生 たんじょう 日 び を迎 むか える1ヶ月 かげつ 前 まえ のことだった。苦難 くなん をいつも共 とも にしてきた彼 かれ も、母 はは も、妹 いもうと も、悲 かな しみに沈 しず んだ。アブドル ・バハは母 はは と妹 いもうと とは特 とく に親密 しんみつ だったが、母 はは は彼 かれ の教育 きょういく と養育 よういく に積極 せっきょく 的 てき に参加 さんか してくれた。父 ちち 不在 ふざい の二 に 年間 ねんかん 、成年 せいねん の歳 とし (中東 ちゅうとう 社会 しゃかい では14歳 さい )を迎 むか える前 まえ でありながら、アブドル ・バハは家庭 かてい の諸事 しょじ 管理 かんり を務 つと めたことが知 し られている。そして、読書 どくしょ に没頭 ぼっとう し、手書 てが きによる写本 しゃほん が主 おも な出版 しゅっぱん 手段 しゅだん の時代 じだい ゆえ、バブの書物 しょもつ の書写 しょしゃ にも取 と り組 く んだ。乗馬 じょうば 術 じゅつ にも関心 かんしん を持 も ち、成長 せいちょう するにつれ、優 すぐ れた騎手 きしゅ として知 し られるようになった。
1856年 ねん 、おそらくバハオラと思 おも われる禁欲 きんよく 的 てき 生活 せいかつ を送 おく る人物 じんぶつ が、地方 ちほう のスーフィズムの指導 しどう 者 しゃ と談論 だんろん を重 かさ ねているという知 し らせが、彼 かれ の家族 かぞく と友人 ゆうじん の元 もと に届 とど いた。家族 かぞく も友人 ゆうじん たちも、行方 ゆくえ がつかめないこの修道 しゅうどう 僧 そう の捜索 そうさく にただちに出向 でむ いた。そして3月 がつ 、バハオラはバグダットに戻 もど された。父 ちち の姿 すがた を目 め にするなり、アブドル ・バハは膝 ひざ まずき、「どうして私 わたし たちを置 お き去 ざ りにしたのですか?」と、大声 おおごえ をあげて泣 な いた。母 はは も妹 いもうと も同 おな じだった。彼 かれ はほどなくして父 ちち の秘書 ひしょ となり盾 たて となった。バグダッドに滞在 たいざい する間 あいだ に、アブドル ・バハは少年 しょうねん から若者 わかもの へと成長 せいちょう した。「驚 おどろ くほどに端正 たんせい な姿 すがた をした若者 わかもの 」として注目 ちゅうもく され、その思 おも いやりと親 した しみやすさで人々 ひとびと の記憶 きおく に刻 きざ まれた。成人 せいじん の歳 とし を過 す ぎると、バグダッドのモスクで宗教 しゅうきょう の話題 わだい と聖典 せいてん について一人 ひとり の若者 わかもの として議論 ぎろん している様子 ようす が常 つね に見 み られた。その滞在 たいざい 期間 きかん 、父 ちち の要望 ようぼう に応 こた え、アリ・ショウカット・パシャという名 な のスーフィズム指導 しどう 者 しゃ のために、「私 わたし は隠 かく された宝 たから だった」というイスラム教 いすらむきょう の伝承 でんしょう を論評 ろんぴょう した。アブドル ・バハはこの時 とき 、15か16歳 さい だった。11000語 ご 以上 いじょう のこの評論 ひょうろん を受 う け取 と ったアリは、この年齢 ねんれい にしては見事 みごと な出来栄 できば えだ、と称 とな えた。1863年 ねん 、レズワン庭園 ていえん として知 し られるようになった場所 ばしょ で、父 ちち 、バハオラはごく少数 しょうすう の者 もの に、自分 じぶん は神 かみ の顕示 けんじ 者 しゃ であり、バブが予言 よげん していたその到来 とうらい を神 かみ が明 あき らかにする者 もの であることを公表 こうひょう した。滞在 たいざい した12日間 にちかん の八日 ようか 目 め の晩 ばん だった。アブドル ・バハはバハオラがその主張 しゅちょう を明 あき らかにした最初 さいしょ の人物 じんぶつ であると信 しん じられている。
コンスタンティノープル/アドリアノープル [ 編集 へんしゅう ]
アブドル・バハ(右 みぎ )と弟 おとうと のミルザ・ミディ 1863年 ねん 、バハオラがコンスタンチノープルに召喚 しょうかん されたことで、当時 とうじ 19歳 さい になっていたアブドル ・バハを含 ふく む家族 かぞく が、110日間 にちかん にわたる旅 たび に随伴 ずいはん した。追放 ついほう 先 さき となるコンスタンチノープルへの旅 たび も疲弊 ひへい する旅 たび だったため、皆 みな の体調 たいちょう が崩 くず れないようアブドル ・バハが助 たす けた。彼 かれ の立場 たちば がバハイの中 なか でさらに傑出 けっしゅつ するようになったのは、コンスタンチノープルにおいてだった。バハオラが自著 じちょ の「枝 えだ の書簡 しょかん 」で息子 むすこ の美徳 びとく と地位 ちい を常 つね 一貫 いっかん して称揚 しょうよう することで、より強化 きょうか された。しかし、到着 とうちゃく して滞在 たいざい を始 はじ めたものの、アドリアノープルへの追放 ついほう 令 れい がまもなく発 はっ せられ、アブドル ・バハも家族 かぞく と共 とも に同行 どうこう した。凍傷 とうしょう に再 ふたた びかかった。
アドリアノープルでのアブドル ・バハは、家族 かぞく の唯一 ゆいいつ の、特 とく に母親 ははおや の慰 なぐさ め役 やく として見 み なされていた。この時点 じてん で、アブドル ・バハはバハイからは「師 し 」、一般 いっぱん 社会 しゃかい からは「アッバス卿 きょう 」の呼称 こしょう で知 し られていた。バハオラが自分 じぶん の息子 むすこ を「神 かみ の神秘 しんぴ 」として言及 げんきゅう したのは、アドリアノープルにおいてだった。「神 かみ の神秘 しんぴ 」という称号 しょうごう は、バハイによれば、アブドル ・バハは神 かみ の顕示 けんじ 者 しゃ でないが、人間 にんげん の性質 せいしつ の比類 ひるい なき特質 とくしつ と、常人 じょうじん を超 こ える知識 ちしき と完全 かんぜん 性 せい が、アブドル ・バハという人物 じんぶつ の中 なか でいかに混合 こんごう されてきたか、そして、いかに完璧 かんぺき に調和 ちょうわ していることかを示唆 しさ するものである。当時 とうじ のアブドル ・バハは、肩 かた に流 なが れる黒髪 くろかみ 、大 おお きな青 あお い眼 め 、血色 けっしょく 良 よ い白 しろ く滑 なめ らかな肌 はだ 、形 かたち 良 よ い鼻 はな の持 も ち主 ぬし として知 し られていた。バハオラが息子 むすこ に与 あた えた称号 しょうごう は他 ほか にも数多 かずおお い。「最大 さいだい の枝 えだ 」「聖 せい なる枝 えだ 」「聖 きよし 約 やく の中心 ちゅうしん 」そして「愛 いと しい存在 そんざい 」が代表 だいひょう する。アブドル ・バハ(師 し )は、彼 かれ を含 ふく む家族 かぞく がバハオラとは別々 べつべつ に追放 ついほう される、という知 し らせを聞 き いた時 とき 、大 おお きく落胆 らくたん した。しかし、その構想 こうそう は彼 かれ の嘆願 たんがん により撤回 てっかい され、家族 かぞく 皆 みな が共 とも に追放 ついほう されることが許可 きょか された。
24歳 さい の時 とき 、アブドル・バハは父 ちち の最 もっと も近 ちか い側近 そっきん であり、バハイ共同 きょうどう 体 たい の傑出 けっしゅつ した一員 いちいん であった。バハオラとその家族 かぞく は、1868年 ねん 、(当時 とうじ の)パレスチナの監獄 かんごく 都市 とし 、アッカに追放 ついほう され、そこで彼 かれ らは死 し に絶 た えるだろうと予想 よそう されていた。家族 かぞく と、彼 かれ らと共 とも に追放 ついほう された者 もの たちにとって、アッカへの到着 とうちゃく は悲惨 ひさん 極 きわ まりないものだった。彼 かれ らは、周囲 しゅうい の人々 ひとびと の敵意 てきい に満 み ちた環境 かんきょう の中 なか に迎 むか えられ、アブドル・バハの妹 いもうと と父 ちち は、命 いのち に関 かか わる病気 びょうき にかかった。岸 きし へ上陸 じょうりく する際 さい 、女性 じょせい は男性 だんせい の肩 かた に座 すわ ってくるものだと言 い われた時 とき 、アブドル・バハは椅子 いす を用意 ようい して女性 じょせい を担 かつ ぎ、アッカの入 い り江 え まで運 はこ んだ。彼 かれ は、苦労 くろう して麻酔 ますい 剤 ざい を手 て に入 い れることができ、病気 びょうき の者 もの を看病 かんびょう した。バハイたちは、汚物 おぶつ と泥 どろ にまみれた監房 かんぼう という恐 おそ ろしい場所 ばしょ に投獄 とうごく された。アブドル・バハ自身 じしん も、赤痢 せきり にかかり、危険 きけん な状態 じょうたい に陥 おちい ったが、同情 どうじょう 的 てき な兵士 へいし が、医者 いしゃ に治療 ちりょう を施 ほどこ すのを許可 きょか したことにより一命 いちめい を取 と り留 と めた。アッカの人々 ひとびと は、バハイたちを避 さ け、兵士 へいし も同様 どうよう に振 ふ る舞 ま ったので、アザリ派 は の人々 ひとびと の画策 かくさく は実 み を結 むす ばなかった。アブドル・バハの末 すえ の弟 おとうと 、ミルザ・ミディが不慮 ふりょ の事故 じこ によって22歳 さい で亡 な くなったことは、アッカに送 おく られた一 いち 行 ぎょう にとって、気力 きりょく を更 さら に削 そ ぐ、辛 つら い出来事 できごと だった。その死 し は、家族 かぞく 、特 とく にその母 はは と父 ちち に非常 ひじょう な苦 くる しみをもたらした。そして、嘆 なげ き悲 かな しむアブドル・バハは、弟 おとうと の遺体 いたい に寄 よ り添 そ って一 いち 晩 ばん 、寝 ね ずの番 ばん をした。
バハオラとその家族 かぞく が収監 しゅうかん されたアッカの牢獄 ろうごく
アブドル・バハは徐々 じょじょ に、追放 ついほう されたバハイたちの小 ちい さな共同 きょうどう 体 たい と外 そと の世界 せかい の間 あいだ の関係 かんけい を取 と り持 も つ責任 せきにん を担 にな うようになった。バハイたちによれば、アブドル・バハとの交流 こうりゅう を通 とお して、アッカの人々 ひとびと はバハイの無実 むじつ を認識 にんしき するようになり、その結果 けっか 、投獄 とうごく の状況 じょうきょう も緩和 かんわ された。ミディの死 し から4ヶ月 かげつ 後 ご 、家族 かぞく は、刑務所 けいむしょ から出 で てアブードの家 いえ に移 うつ ることができた。アッカの人々 ひとびと は次第 しだい に、バハイを、特 とく にアブドル・バハを尊敬 そんけい するようになった。アブードの家 いえ の隣 となり に住 す んでいたカマールは、バージに邸宅 ていたく を持 も っていた。後 のち に、1879年 ねん 頃 ごろ 、伝染 でんせん 病 びょう を避 さ けるために、カマールとその家族 かぞく がよそに移 うつ った時 とき 、アブドル・バハは、家族 かぞく のためにバージの館 かん を借 か り、家族 かぞく はそこに移 うつ った。
アブドル・バハはすぐに監獄 かんごく 都市 とし において、とても有名 ゆうめい な存在 そんざい となり、その様子 ようす が、裕福 ゆうふく なニューヨークの弁護士 べんごし 、マイロン・ヘンリー・フェルプスによって次 つぎ のように描写 びょうしゃ されている。「人々 ひとびと の群 む れ…、シリア人 じん 、アラブ人 じん 、エチオピア人 じん 、その他 た にも大勢 おおぜい 」がみんなアブドル・バハと話 はなし をしようと待 ま っていた。フェルプスは、バビ教 きょう の歴史 れきし を『旅人 たびびと の話 はなし 』を1886年 ねん に出版 しゅっぱん し、後 のち にケンブリッジ大学 けんぶりっじだいがく のエドワード・グランヴィル・ブラウン 博士 はかせ によって翻訳 ほんやく され、出版 しゅっぱん された。ブラウン博士 はかせ は、次 つぎ のようにアブドル・バハを描写 びょうしゃ している。
これほど感銘 かんめい を与 あた える外見 がいけん をした人物 じんぶつ を見 み ることは滅多 めった になかった。背 せ が高 たか く、がっしりとした男性 だんせい で、矢 や のように真 ま っ直 す ぐに立 た っていた。白 しろ いターバンと衣服 いふく を着 き て、ふさふさした黒髪 くろかみ はほとんど肩 かた まで届 とど き、広 ひろ く力強 ちからづよ い額 がく が、揺 ゆ るがない意思 いし と組 く み合 あ わされた強 つよ い知性 ちせい を表 あらわ し、目 め は鷹 たか のように鋭 するど く、非常 ひじょう に目立 めだ つ、しかし人好 ひとず きのする特徴 とくちょう を兼 か ね備 そな えている ――これが、アッバス・エフェンディ、「師 し 」に対 たい して私 わたし が抱 だ いた最初 さいしょ の印象 いんしょう だった。[4]
結婚 けっこん と家族 かぞく 生活 せいかつ [ 編集 へんしゅう ]
24歳 さい のアブドル・バハ
アブドル・バハが若 わか かった時 とき 、バハイたちの間 あいだ で頻繁 ひんぱん に憶測 おくそく が交 か わされたのは、彼 かれ が誰 だれ と結婚 けっこん するのかということだった。数 すう 名 めい の若 わか い女性 じょせい が結婚 けっこん 相手 あいて として候補 こうほ に上 あ がったが、アブドル・バハは結婚 けっこん に気 き が進 すす まないようだった。1873年 ねん の3月 がつ 8日 にち 、父 ちち からの勧 すす めで、28歳 さい のアブドル・バハは、イスファハンの上流 じょうりゅう 階級 かいきゅう 出身 しゅっしん の25歳 さい のファテメ・ナハリー(1847–1938)と結婚 けっこん した。彼女 かのじょ の父 ちち は、イスファハンのミルザ・ムハンマド・アリ・ナハリーであり、著名 ちょめい なバハイであった。ファテメは、バハオラとその妻 つま のナバブが、彼女 かのじょ がアブドル・バハと結婚 けっこん することに関心 かんしん を示 しめ した後 のち 、ペルシャからアッカまで送 おく られて来 き た。イスファハンからアッカまでの非常 ひじょう に疲 つか れる旅 たび を経 へ て、1872年 ねん に彼女 かのじょ は兄弟 きょうだい たちに護衛 ごえい されて、ついにアッカに到着 とうちゃく した。若 わか い二 に 人 にん は、結婚 けっこん 生活 せいかつ を開始 かいし する約 やく 五 ご ヶ月 かげつ 前 まえ に婚約 こんやく した。婚約 こんやく 期間 きかん の間 あいだ 、ファテメは、アブドル・バハの叔父 おじ 、ミルザ・ムサの家 いえ に住 す んだ。後年 こうねん の彼女 かのじょ の回顧 かいこ 録 ろく では、ファテメはアブドル・バハを見 み て恋 こい をしたという。アブドル・バハ自身 じしん はファテメに会 あ うまで、結婚 けっこん に関 かん して特 とく に察 さっ していなかった。ファテメはバハオラによって、「輝 かがや く」という意味 いみ のムニレという称号 しょうごう を与 あた えられた。
結婚 けっこん によって、二人 ふたり は9人 にん の子 こ どもをもうけた。最初 さいしょ に生 う まれた長男 ちょうなん 、ミディ・エフェンディはわずか3歳 さい で亡 な くなった。彼 かれ の後 のち に生 う まれたのは、ズィアイエ・カヌーム、フォディエ・カヌーム(2, 3歳 さい で死亡 しぼう )、ルハンギーズ・カヌーム(1893年 ねん に死亡 しぼう )、トゥバ・カヌーム、ホセイン・エフェンディ(1887年 ねん に5歳 さい で死亡 しぼう )、トゥバ・カヌーム、ルハ・カヌーム(モニーブ・シャヒードの母 はは )、モナヴァール・カヌームである。子 こ どもたちの死 し 、特 とく に、息子 むすこ 、ホセイン・エフェンディの死 し は、母 はは と叔父 おじ を亡 な くした辛 つら い時期 じき に起 お こったので、アブドル・バハに計 はか り知 し れない悲 かな しみをもたらした。生 い き残 のこ った子 こ どもは全 すべ て娘 むすめ であり、次 つぎ の4人 にん である。ズィアイエ・カヌーム(ショーギ・エフェンディの母 はは 、1951年 ねん に死亡 しぼう )、トゥバ・カヌーム(1880-1959)、ルハ・カヌーム、モナヴァール・カヌーム(1971年 ねん に死亡 しぼう )。バハオラは、バハイたちがアブドル・バハの例 れい に倣 なら って、徐々 じょじょ に一夫多妻 いっぷたさい 制 せい をやめるよう願 ねが っていた。アブドル・バハの一人 ひとり の女性 じょせい との結婚 けっこん と、一夫一婦 いっぷいっぷ であり続 つづ けたその選択 せんたく は、父 ちち の助言 じょげん と彼 かれ 自身 じしん の願 ねが いによるものであったが、当時 とうじ まだ一夫多妻 いっぷたさい 制 せい が正 ただ しい生 い き方 かた だと考 かんが えている人々 ひとびと にとって、一夫一婦 いっぷいっぷ 制 せい を適法 てきほう なものとしたのである。
指導 しどう 者 しゃ としての任期 にんき の初 はじ めの頃 ころ [ 編集 へんしゅう ]
バハオラが1892年 ねん 5月 がつ 29日 にち に亡 な くなった後 のち 、バハオラの遺訓 いくん と遺言 ゆいごん により、アブドル・バハが聖 せい 約 やく の中心 ちゅうしん 、後継 こうけい 者 しゃ 、バハオラの書物 しょもつ の解説 かいせつ 者 しゃ として指名 しめい された。
バハオラは、自 みずか らの後継 こうけい 者 しゃ を次 つぎ の文節 ぶんせつ で指名 しめい している。
聖 せい なる遺言 ゆいごん 者 しゃ の遺言 ゆいごん はこれである。すなわち、アグサン、アフナン、およびわが親族 しんぞく は皆 みな 、例外 れいがい なく、最 もっと も偉大 いだい なる枝 えだ にその面 めん を向 む ける義務 ぎむ がある。我 わ が、わが最 もっと も聖 せい なる書 しょ に顕 あらわ したことを熟考 じゅっこう せよ。「わが現存 げんそん の海 うみ が引 ひ き、わが啓示 けいじ の書 しょ が終 お わったとき、神 かみ の定 さだ め給 きゅう うた者 しゃ 、この古 いにしえ (いにしえ)の根 ね より生 は えた者 もの に汝 なんじ らの面 めん を向 む けよ」 この聖 ひじり 句 く の指 さ している者 もの は最 もっと も偉大 いだい なる枝 えだ (アブドル・バハ)に他 た ならない。我 が はこのように恩寵 おんちょう 深 ふか くわが強力 きょうりょく なる遺言 ゆいごん を著 あらわ した。我 が は誠 まこと に恩寵 おんちょう 深 ふか く、すべてに恵 めぐ み深 ふか き者 もの である。まことに、神 かみ は、大 おお いなる枝 えだ (モハメッド・アリ)の地位 ちい を最 もっと も偉大 いだい なる枝 えだ (アブドル・バハ)の地位 ちい の下 した に定 さだ め給 たま うたのである。彼 かれ こそは定 さだ め給 たま う御方 おかた 、全 ぜん 賢者 けんじゃ である。全知 ぜんち 者 しゃ 、すべてに見識 けんしき ある御方 おかた なる彼 かれ が定 さだ められたように、我 が は「大 おお いなる」を「最 もっと も偉大 いだい なる」の後 のち にしたのである。
―― バハオラ(1873-92)[5]
『聖 きよし 約 やく の書 しょ 』(ケタベ・アード)の翻訳 ほんやく は、文法 ぶんぽう 逸脱 いつだつ に基 もと づいて訳 やく されている。しかし、AkbarとAʻzamは、それぞれ、「偉大 いだい な」や「最 もっと も偉大 いだい な」を意味 いみ しない。この二 ふた つの言葉 ことば が完全 かんぜん に別 べつ の「3つの子音 しいん を含 ふく む語根 ごこん 」(Akbarは、 k-b-r から、また、 Aʻzam は ʻ-z-mから)に由来 ゆらい するだけでなく、アラビア語 ご には、比較 ひかく 級 きゅう と最上級 さいじょうきゅう の明確 めいかく な違 ちが いのない、等級 とうきゅう の段階 だんかい を表 あらわ す絶対 ぜったい 最上級 さいじょうきゅう (強 つよし 意 い )がある。「遺訓 いくん と遺言 ゆいごん 」において、アブドル・バハの異母弟 いぼてい 、モハメッド・アリは、アブドル・バハに従属 じゅうぞく する名前 なまえ で言及 げんきゅう されている。モハメッド・アリはアブドル・バハに嫉妬 しっと し、自分 じぶん の兄弟 きょうだい のバディウラとズィアウラの支援 しえん を受 う けて、自 みずか らを新 あたら しい指導 しどう 者 しゃ として権威 けんい を確立 かくりつ し始 はじ めた。モハメッド・アリは、当初 とうしょ 、秘密裏 ひみつり に、イランのバハイたちと文通 ぶんつう を始 はじ め、アブドル・バハへの疑念 ぎねん を彼 かれ らの心 しん へと植 う え付 つ けた。大 だい 多数 たすう のバハイがアブドル・バハに従 したが ったが、少数 しょうすう の人々 ひとびと がモハメッド・アリに従 したが った。その中 なか には、アメリカへバハイを布教 ふきょう した初期 しょき のメンバーである、ミルザ・ジャヴァードやイブラヒム・ジョージ・ケイララもいた。
モハメッド・アリとミルザ・ジャヴァードは、公然 こうぜん と、アブドル・バハは権力 けんりょく を持 も ちすぎている、自 みずか らをバハオラと同等 どうとう の地位 ちい である「神 かみ の顕示 けんじ 者 しゃ 」だと信 しん じているに違 ちが いないと非難 ひなん した。この頃 ころ 、アブドル・バハは自 みずか らに向 む けられた告発 こくはつ の偽 いつわ りを証明 しょうめい すべく、西洋 せいよう への書簡 しょかん で、自 みずか らは「アブドル・バハ」として知 し られ、この称号 しょうごう がアラビア語 ご で「バハのしもべ」を意味 いみ すること、自分 じぶん は「神 かみ の顕示 けんじ 者 しゃ 」ではなく、その地位 ちい はあくまで隷属 れいぞく に過 す ぎないことを明確 めいかく に記述 きじゅつ した。アブドル・バハは、その遺訓 いくん と遺言 ゆいごん で、行政 ぎょうせい 機構 きこう の枠組 わくぐ みを打 う ち立 た てた。彼 かれ が確立 かくりつ した二 ふた つの最高 さいこう 位 い の機構 きこう は、万国 ばんこく 正義 せいぎ 院 いん と守護 しゅご 者 しゃ 制度 せいど であり、守護 しゅご 者 しゃ としてショーギ・エフェンディを指名 しめい した。モハメッド・アリは、アブドル・バハとショーギ・エフェンディを除 のぞ く、バハオラの親戚 しんせき の生存 せいぞん していた全 すべ ての男性 だんせい の支援 しえん を取 と り付 つ け、その中 なか には、ショーギ・エフェンディの父 ちち であるミルザ・ハジ・シラジも含 ふく まれていた。しかしながら、モハメッド・アリとその家族 かぞく の声明 せいめい は、一般 いっぱん 的 てき に、バハイたちにほとんど影響 えいきょう を及 およ ぼさなかった。アッカの地域 ちいき において、モハメッド・アリの信徒 しんと はせいぜい6家族 かぞく で、彼 かれ らは一緒 いっしょ に宗教 しゅうきょう 的 てき な活動 かつどう をすることもなく、ほとんど完全 かんぜん にムスリム社会 しゃかい に同化 どうか していった。
最初 さいしょ の西洋 せいよう の巡礼 じゅんれい 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
1898年 ねん の終 お わりまでに、西洋 せいよう の巡礼 じゅんれい 者 しゃ たちがアブドル・バハを訪問 ほうもん するためにアッカへやってくるようになった。フィービー・ハースト を含 ふく む、この巡礼 じゅんれい 者 しゃ のグループは西洋 せいよう で育 そだ ったバハイたちがアブドル・バハに会 あ った最初 さいしょ の時 とき だった。最初 さいしょ のグループが1898年 ねん に到着 とうちゃく し、1898年 ねん の終 お わりから1899年 ねん の初 はじ めにかけて、西洋 せいよう のバハイたちは単発 たんぱつ 的 てき にアブドル・バハを訪問 ほうもん した。グループは、比較的 ひかくてき 若 わか く、上流 じょうりゅう のアメリカ社会 しゃかい に属 ぞく する主 おも に二 に 十 じゅう 代 だい の女性 じょせい を含 ふく んでいた。西洋 せいよう 人 じん のグループの訪問 ほうもん により、当局 とうきょく は疑 うたが いをもち、結果 けっか としてアブドル・バハの幽閉 ゆうへい 状態 じょうたい が厳 きび しいものとなった。これに続 つづ く十 じゅう 年間 ねんかん の間 あいだ 、アブドル・バハは世界中 せかいじゅう のバハイたちと継続 けいぞく 的 てき なコミュニケーションを持 も ち、信教 しんきょう を教 おし えるよう彼 かれ らを励 はげ ました。それらの人々 ひとびと の名前 なまえ の一部 いちぶ をここに挙 あ げる。パリのメイ・エリス・ボールズ、英国 えいこく 人 じん のトーマス・ブレイクウェル、アメリカ人 じん のハーバート・ホッパー、フランス人 じん のヒッポライト・ドレイファス、スーザン・ムーディ、ルア・ゲッチンガー、アメリカ人 じん のラウラ・クリフォード・バーニー。長年 ながねん に渡 わた って、ハイファへの幾度 いくど もの訪問 ほうもん においてアブドル・バハに質問 しつもん をしたのがラウラ・クリフォード・バーニーであり、後 のち にその質問 しつもん と答 こた えが集 あつ められて、「質疑 しつぎ 応答 おうとう 集 しゅう 」となった。
1901年 ねん から1912年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
19世紀 せいき の最後 さいご の年 とし 、アブドル・バハは公式 こうしき にはいまだに囚人 しゅうじん であり、アッカに幽閉 ゆうへい されていたが、バブの遺体 いたい をイランからパレスチナに移送 いそう することを計画 けいかく した。そこで、バハオラがバブの遺体 いたい を安置 あんち する場 ば にするようにと指示 しじ していたカーメル山 さん で土地 とち を購入 こうにゅう し、廟堂 びょうどう 建設 けんせつ の段取 だんど りを計画 けいかく した。このプロセスはさらに10年 ねん の歳月 さいげつ を要 よう した。アブドル・バハを訪問 ほうもん する巡礼 じゅんれい 者 しゃ が増加 ぞうか したことで、モハメド・アリはオスマン帝国 ていこく の当局 とうきょく と共謀 きょうぼう し、囚 とら われの身 み にあるアブドル・バハへの面会 めんかい 条件 じょうけん を、1901年 ねん 8月 がつ に改 あらた めて厳 きび しくした。けれども1902年 ねん を迎 むか えるまでにはアッカの知事 ちじ が肩入 かたい れするようになっていたことで、状況 じょうきょう は大 おお きく緩和 かんわ された。おかげで、アブドル・バハがこの監獄 かんごく 都市 とし に幽閉 ゆうへい されていても、巡礼 じゅんれい 者 しゃ たちは以前 いぜん と同 おな じように訪問 ほうもん することができた。1903年 ねん 2月 がつ には、バディウラとセイイェド・アリィアフナンというモハメド・アリの従者 じゅうしゃ 二 に 人 にん がアリと絶縁 ぜつえん した。二人 ふたり は彼 かれ の陰謀 いんぼう の詳細 しょうさい を本 ほん と手紙 てがみ に書 か きし、アブドル・バハについて流布 るふ している話 はなし はでっち上 あ げであることを指摘 してき した。
1902年 ねん から1904年 ねん までの期間 きかん 、アブドル・バハは指揮 しき をとっていたバブの廟 びょう の建設 けんせつ に加 くわ え、二 ふた つの事業 じぎょう の実施 じっし を開始 かいし した。イランのシーラーズにあるバブの家 いえ の復元 ふくげん と、トルクメニスタンのアシガバートでの最初 さいしょ のバハイ礼拝 れいはい 堂 どう の建設 けんせつ である。1844年 ねん にバブがムラ・フセインに宣言 せんげん した時 とき の状態 じょうたい にバブの家 いえ が復元 ふくげん されるよう、アブドル・バハはアクァ・ミルザ・アクァに作業 さぎょう の調整 ちょうせい を依頼 いらい した。礼拝 れいはい 堂 どう 建設 けんせつ は、ヴァキール・ダフリーに委任 いにん した。
この時期 じき 、アブドル・バハは、オスマン・トルコ帝国 おすまんとるこていこく 皇帝 こうてい アブデュルハミト2世 せい の統治 とうち に反対 はんたい する数 すう 多 おお くのトルコ人 じん 青年 せいねん と連絡 れんらく を取 と り合 あ っていた。ナムク・ケマル、ズィヤー・パシャ、ミドハト・パシャを含 ふく む青年 せいねん たちは、バハイの思想 しそう を彼 かれ らの政治 せいじ 的 てき イデオロギーに取 と り入 い れ、拡散 かくさん しようと試 こころ みていた。アブドル・バハは、「自由 じゆう を求 もと め、解放 かいほう を愛 あい し、平等 びょうどう を望 のぞ み、人類 じんるい の幸福 こうふく を願 ねが い、人類 じんるい の和合 わごう のためなら命 いのち を犠牲 ぎせい にする覚悟 かくご ができている」のがバハイであり、取 と り組 く みが青年 せいねん トルコ人 じん たちよりも広範 こうはん であることを強調 きょうちょう した。統一 とういつ と進歩 しんぽ 委員 いいん 会 かい の創設 そうせつ 者 しゃ の一人 ひとり であり、バハイ信教 しんきょう をイスラム教 いすらむきょう が究極 きゅうきょく 的 てき に放棄 ほうき されるまでの中継 なかつ ぎ的 てき 段階 だんかい にあるものと考 かんが えていたアブドゥラー・ジェヴデトは、彼 かれ が創刊 そうかん した定期 ていき 刊行 かんこう 物 ぶつ の中 なか でバハイを擁護 ようご したために裁判 さいばん にかけられようとしていた。
アブドル・バハは、ブルサリ・メフメト・タヒア・ベイとハサン・ベドレディンを含 ふく む軍事 ぐんじ 指導 しどう 者 しゃ たちとも接触 せっしょく した。後者 こうしゃ は、皇帝 こうてい アブデュルアズィズの王座 おうざ 転覆 てんぷく に加担 かたん した者 もの である。ベイチ・パシャとして一般 いっぱん に知 し られ、ペルシャ語 ご のアブドル・バハイの出典 しゅってん ではベイチ・ベイとして言及 げんきゅう されている。アブドル・バハが記 しる した書物 しょもつ をフランス語 ふらんすご に訳 やく したバハイだった。
アブドル・バハは、イスラム教 いすらむきょう 現代 げんだい 主義 しゅぎ とサラフィー主義 しゅぎ の重要 じゅうよう 人物 じんぶつ の一人 ひとり であるムハンマド・アブドゥフとも、ベイルートで会談 かいだん した。双方 そうほう ともがオットマン帝国 ていこく の学者 がくしゃ に対抗 たいこう し、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく という近似 きんじ した共通 きょうつう の目標 もくひょう を持 も っていた時 とき のことだった。ラシード・リダーは、彼 かれ がベイルートに来訪 らいほう していた期間 きかん に、アブドル・バハがアブドゥフの研究 けんきゅう 会 かい によく顔 かお を見 み せていたと断言 だんげん している。アブドル・バハとムハンマド・アブドゥフの会談 かいだん については、ショーギ・エフェンディがこのように断言 だんげん する。「有名 ゆうめい なシャイフのムハンマド・アブドゥとの数 すう 度 ど の対談 たいだん により、共同 きょうどう 体 たい の威信 いしん が大 おお いに高 たか められ、最 もっと も傑出 けっしゅつ したメンバーの名声 めいせい が国外 こくがい に広 ひろ がった。」
アブドル・バハの政治 せいじ 的 てき 活動 かつどう と、モハメド・アリが申 もう し立 た てた告発 こくはつ を受 う け、調査 ちょうさ 委員 いいん 会 かい がアブドル・バハへのき取 きと りを1905年 ねん に行 い った。その結果 けっか 、フェザーンへの追放 ついほう がほぼ決定 けってい された。アブドル・バハはこれへの抗弁 こうべん として、信者 しんじゃ は政党 せいとう 政治 せいじ には関与 かんよ しないこと、彼 かれ のスーフィズムの修行 しゅぎょう によって多 おお くのアメリカ人 じん がイスラム教 いすらむきょう (イスラム圏 けん ?文化 ぶんか ?)に導 みちび かれたことを、皇帝 こうてい に宛 あ てた手紙 てがみ に記 しる した。翌年 よくねん からの数 すう 年間 ねんかん 、それまでの圧力 あつりょく からアッカは比較的 ひかくてき 解放 かいほう され、巡礼 じゅんれい 者 しゃ がアブドル・バハの元 もと に来訪 らいほう することができた。そして、1909年 ねん までには、バブの廟 びょう の霊廟 れいびょう が完成 かんせい した。
米国 べいこく に滞在 たいざい 中 ちゅう のアブドル・バハ
1908年 ねん に64歳 さい でトルコ人 じん 革命 かくめい によって解放 かいほう されたアブドル・バハは、1910年 ねん から1913年 ねん にわたる西洋 せいよう への旅 たび へと出立 しゅったつ した。イギリス、フランスに滞在 たいざい してから、アメリカ東海岸 ひがしかいがん に渡 わた り、カナダを訪問 ほうもん した後 のち に北米 ほくべい 大陸 たいりく を横断 おうだん した。西海岸 にしかいがん に到達 とうたつ した復路 ふくろ で東海岸 ひがしかいがん に戻 もど ると、海路 かいろ で再 ふたた びイギリスを訪 おとず れ、フランス、ドイツ、ハンガリー、オーストリアを巡 めぐ った後 のち に最初 さいしょ の訪問 ほうもん 地 ち エジプトに戻 もど った。彼 かれ の西洋 せいよう への旅 たび はバハオラの教 おし えの広 ひろ がりとヨーロッパと北米 ほくべい のバハイ共同 きょうどう 体 たい の確立 かくりつ に大 おお きく貢献 こうけん した。双方 そうほう の大陸 たいりく での彼 かれ の演説 えんぜつ は、社会 しゃかい 状況 じょうきょう を懸念 けねん し、平和 へいわ 、女性 じょせい の権利 けんり 、人種 じんしゅ 偏見 へんけん の撲滅 ぼくめつ 、社会 しゃかい 改革 かいかく 、道徳 どうとく の発展 はってん に献身 けんしん する著名 ちょめい 人 じん たちから高 たか い評価 ひょうか をもって歓迎 かんげい された。訪問 ほうもん する先々 さきざき でアブドル・バハがもたらしたメッセージは、古来 こらい から約束 やくそく されていた人類 じんるい が和合 わごう する時代 じだい が到来 とうらい したことを告 つ げるものだった。彼 かれ は平和 へいわ の確立 かくりつ に必要 ひつよう な社会 しゃかい 状況 じょうきょう と国際 こくさい 的 てき な政治 せいじ 機関 きかん を創設 そうせつ する必要 ひつよう 性 せい を繰 く り返 かえ し述 の べた。そして、この旅行 りょこう から2年 ねん も経 た たない内 うち に、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん が現実 げんじつ に勃発 ぼっぱつ したのである。
旅 たび の途上 とじょう での二人 ふたり の日本人 にっぽんじん との出会 であ いを紹介 しょうかい する。
荒川 あらかわ 子爵 ししゃく との会見 かいけん
1912年 ねん 、スペイン駐在 ちゅうざい の日本 にっぽん 大使 たいし であった荒川 あらかわ 子爵 ししゃく 夫妻 ふさい の切望 せつぼう に応 おう じ、アブドル・バハは一 いち 日 にち 中 ちゅう 長時間 ちょうじかん の活動 かつどう で疲 つか れ切 き り、悪天候 あくてんこう であったにかかわらず、夫妻 ふさい が滞在 たいざい していたパリのホテルへと出向 でむ いた。アブドル・バハは荒川 あらかわ 夫妻 ふさい に、日本 にっぽん の状態 じょうたい 、その国 くに の国際 こくさい 的 てき な重要 じゅうよう 性 せい 、人類 じんるい への大 だい なる奉仕 ほうし 、戦争 せんそう 廃止 はいし のための努力 どりょく 、労働 ろうどう 者 しゃ の生活 せいかつ 条件 じょうけん の改善 かいぜん 、男女 だんじょ 共 ども に教育 きょういく の機会 きかい を与 あた える重要 じゅうよう 性 せい などについて語 かた り、「宗教 しゅうきょう の理想 りそう は人類 じんるい の福祉 ふくし のためのあらゆる計画 けいかく の精髄 せいずい をなす。宗教 しゅうきょう は決 けっ して党派 とうは 的 てき 政治 せいじ の道具 どうぐ に用 もち いられてはならない。神 かみ の政策 せいさく は強大 きょうだい であり、人間 にんげん の政策 せいさく は微弱 びじゃく である」と述 の べている。[6]
成瀬 なるせ 仁蔵 にぞう 氏 し との会見 かいけん [7]
日本 にっぽん で最初 さいしょ の女子大 じょしだい 学 がく である日本女子大学 にほんじょしだいがく の創立 そうりつ 者 しゃ 、成瀬 なるせ 仁蔵 にぞう 学長 がくちょう はアブドル・バハと面会 めんかい した数少 かずすく ない日本人 にっぽんじん の一人 ひとり である。日 にち 露 ろ 戦争 せんそう 後 ご の社会 しゃかい 不安 ふあん が残 のこ る当時 とうじ 、成瀬 なるせ 仁蔵 にぞう は自 みずか らが中心 ちゅうしん となり、さらに渋沢 しぶさわ 栄一 えいいち 、姉崎 あねざき 正治 しょうじ らの学者 がくしゃ ・実業 じつぎょう 家 か らを発足 ほっそく 人 じん に加 くわ え、宗教 しゅうきょう 者 しゃ 同士 どうし の相互 そうご 理解 りかい と協力 きょうりょく を推進 すいしん する組織 そしき として1912年 ねん に「帰一 きいつ 教会 きょうかい 」 (コンコーディア)という運動 うんどう の中核 ちゅうかく を作 つく った。その目的 もくてき は、あらゆる国民 こくみん が和合 わごう し得 え る共通 きょうつう の進行 しんこう の基盤 きばん を探 さが すことであった。その運動 うんどう のため世界 せかい 一周 いっしゅう の旅 たび についた成瀬 なるせ 仁蔵 にぞう は、著名 ちょめい 帳 ちょう をたずさえ、訪問 ほうもん 先 さき の異 こと なった国 くに ぐにの著名 ちょめい 人 じん より善意 ぜんい のことばを集 あつ めた。
1912年 ねん 、成瀬 なるせ 学長 がくちょう はロンドン滞在 たいざい 中 ちゅう のアブドル・バハを訪 おとず れ、オリエンタル・レビューに掲載 けいさい された日本 にっぽん でのコンコーディア運動 うんどう についての記事 きじ をみせた。アブドル・バハは、バハイの大業 おおわざ の原則 げんそく について語 かた り、それらの原則 げんそく を実行 じっこう するために、いかにわれわれが神 かみ の力 ちから を必要 ひつよう としているかを語 かた った。そして、「ちょうど太陽 たいよう が太陽系 たいようけい におけるすべての光 ひかり の源 みなもと であるように、今日 きょう ではバハオラが人類 じんるい の和合 わごう と世界 せかい 平和 へいわ の中心 ちゅうしん である」と述 の べ、日本 にっぽん に帰 かえ ってこれらの崇高 すうこう な理想 りそう をひろめるよう、成瀬 なるせ 氏 し に熱心 ねっしん に懇請 こんせい した。以下 いか はアブドル・バハが成瀬 なるせ 氏 し の著名 ちょめい 帳 ちょう に残 のこ した祈 いの りである:「おお神 かみ よ!宗教 しゅうきょう 間 あいだ 、国家 こっか 間 あいだ 、及 およ び人々 ひとびと の間 あいだ 、の論争 ろんそう 、不和 ふわ 、戦争 せんそう の暗黒 あんこく は真実 しんじつ の地平線 ちへいせん を曇 くも らせ、真理 しんり の天 てん をおおい隠 かく した。世界 せかい は教導 きょうどう の光 ひかり を必要 ひつよう としている。それ故 こ 、おお神 かみ よ、実在 じつざい の太陽 たいよう が東西 とうざい 両 りょう 洋 よう を照 て らすよう汝 なんじ の恩恵 おんけい を授 さづ けたまえ」[6]
晩年 ばんねん (1914–1921)[ 編集 へんしゅう ]
巡礼 じゅんれい 者 しゃ たちと共 とも にカルメル山上 さんじょう に立 た つアブドル・バハ、1919年 ねん
晩年 ばんねん のアブドル・バハ
爵位 しゃくい を授与 じゅよ される式典 しきてん でのアブドル・バハ、1920年 ねん 4月 がつ
イギリス委任 いにん 統治 とうち 領 りょう パレスチナ 、ハイファ におけるアブドル・バハの葬儀 そうぎ
アブドル・バハは、1921年 ねん 11月28日 にち 、ハイファで没 ぼっ し、葬儀 そうぎ には、約 やく 一 いち 万 まん 人 にん が参列 さんれつ した。ユダヤ教 きょう 、キリスト教 きょう 、イスラム教 きょう とを含 ふく む多種 たしゅ 多様 たよう な人々 ひとびと が集 あつ まった。「自己 じこ 犠牲 ぎせい の生 い きる模範 もはん 」であり「平和 へいわ を打 う ち建 た てる柱 はしら 」であり、人類 じんるい を「真理 しんり の道 みち 」へと導 みちび いた人 ひと であると、多 おお くの賛辞 さんじ が送 おく られた。
この節 ふし には内容 ないよう がありません。 加筆 かひつ して下 くだ さる協力 きょうりょく 者 しゃ を求 もと めています。(2021年 ねん 5月 がつ )
アブドル・バハは生涯 しょうがい を通 つう じて総数 そうすう (推定 すいてい )27,000通 つう 以上 いじょう の書簡 しょかん を執筆 しっぴつ しているとされるが、多 おお くの物 もの は翻訳 ほんやく されていない。アブドル・バハの著書 ちょしょ と呼 よ ばれるものは2つのグループに分 わ かれており、1つ目 め は彼 かれ が直接 ちょくせつ 書 か いたもの、2つ目 め は講演 こうえん や会話 かいわ の記録 きろく である。 第 だい 一 いち のグループには、1875年 ねん 以前 いぜん に書 か かれた『聖 せい なる文明 ぶんめい の秘訣 ひけつ [8] 』、1886年 ねん 頃 ごろ に書 か かれた『旅人 たびびと の話 はなし 』、1893年 ねん に書 か かれた『統治 とうち 術 じゅつ に関 かん する説教 せっきょう 』、『信仰 しんこう 者 しゃ の記念 きねん 品 ひん 』、そして、西洋 せいよう の知識 ちしき 人 じん を含 ふく む様々 さまざま な人物 じんぶつ に宛 あ てられた書簡 しょかん が含 ふく まれる。2つ目 め のグループには、アブドル・バハが聖地 せいち で巡礼 じゅんれい 者 しゃ を迎 むか え、巡礼 じゅんれい 者 しゃ から出 だ される問 と いに答 こた える形 かたち での会話 かいわ が『質疑 しつぎ 応答 おうとう 集 しゅう 』[9] という形 かたち で残 のこ されている。また、晩年 ばんねん の欧米 おうべい 訪 おとずれ 時 じ の演説 えんぜつ をまとめた『パリ講話 こうわ 集 しゅう 』[10] 『アブドル・バハのロンドン講話 こうわ 集 しゅう 』[11] 『万国 ばんこく 平和 へいわ の普及 ふきゅう 』[12] などが書籍 しょせき として出版 しゅっぱん されている。これらは厳密 げんみつ な意味 いみ での著書 ちょしょ ではないが、アブドル・バハが後 のち に内容 ないよう を確認 かくにん し承認 しょうにん したものであるため、バハイ信教 しんきょう の聖典 せいてん の一部 いちぶ とみなされている。
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