アブドル・バハ

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アブドル・バハ
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたん
アッバス

1844ねん5がつ23にち
死没しぼつ 1921ねん11月28にち(1921-11-28)(77さい
墓所はかしょ アブドル・バハのびょう
北緯ほくい3248ふん52.59びょう 東経とうけい3459ふん14.17びょう / 北緯ほくい32.8146083 東経とうけい34.9872694 / 32.8146083; 34.9872694
宗教しゅうきょう バハイ信教しんきょう
子供こども Ḍíyáʼíyyih K͟hánum
Túbá K͟hánum
Rúḥá K͟hánum
Munavvar K͟hánum
両親りょうしん バハオラ (father)
Ásíyih Khánum (mother)
親戚しんせき Shoghi Effendi (grandson)
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アブドル・バハ[1](/əbˈdʊl bəˈhɑː/; ペルシア: عبد البهاء, 1844ねん5月23にち - 1921ねん11月28にち)は、バハイ信教しんきょう創始そうししゃバハオラ長男ちょうなんであり、1892ねんから1921ねんまでバハイ信教しんきょう指導しどうしゃとしての役割やくわりになった。アブドル・バハはのちに、バハオラとバブとともに、この宗教しゅうきょうの3にん中心ちゅうしん人物じんぶつのうちの最後さいご人物じんぶつとして神聖しんせいされ、アブドル・バハによりかれた書物しょもつ[2]講演こうえん記録きろく[3]などは、バハイ信教しんきょうせいなる経典きょうてん一部いちぶとみなされている。

アブドル・バハは、テヘラン貴族きぞくいえまれた。8さいのとき、政府せいふによるバビ教徒きょうとへの弾圧だんあつ父親ちちおや投獄とうごくされ、一家いっか財産ざいさん略奪りゃくだつされ、事実じじつじょう貧困ひんこん状態じょうたいおちいったという。その父親ちちおや祖国そこくイランから追放ついほうされ、一家いっかバグダッドに9年間ねんかん滞在たいざいした。その一家いっかオスマン帝国ていこく召還しょうかんされてイスタンブール移動いどうエディルネでの滞在たいざいて、アッカ監獄かんごく都市としふたた政治せいじはんとして監禁かんきんされ、すごした。

1892ねん、アブドル・バハはちちのこした遺訓いくん遺言ゆいごん)により、その後継こうけいしゃとしてバハイ共同きょうどうたい指導しどうしゃ任命にんめいされる。これは、宗教しゅうきょうじょう継承けいしょうあらそいをけ、分裂ぶんれつけ、経典きょうてんから派生はせいするおしえをより完全かんぜんかたち保存ほぞんすることにより信教しんきょう発展はってん基礎きそきずくためにこうじられたさくであり、バハオラはこの概念がいねんを「きよしやく」と命名めいめいしている。アブドル・バハがあらわした『せいなる計画けいかく書簡しょかん』は、北米ほくべいのバハイがあたらしい地域ちいきにバハイのおしえをひろめるのに役立やくだち、かれの「遺訓いくん遺言ゆいごん」は現在げんざいのバハイ行政ぎょうせい秩序ちつじょ基礎きそきずいた。かれ著作ちょさくいのり、書簡しょかんおおくは現存げんそんしており、西洋せいようのバハイとの会話かいわ記録きろくからは1890年代ねんだい後半こうはんまでの信仰しんこう成長せいちょう様子ようすをうかがうことができる。

1908ねんに64さいでトルコじん革命かくめいによって解放かいほうされるまで、アブドル・バハはバハオラの40年間ねんかんにおよぶ流刑りゅうけい投獄とうごくをともにし、成人せいじんしたころからちち側近そっきんとしてだけでなく、バハオラをまもたてとして、そしてバハイ信教しんきょうおも代理だいりとして様々さまざま役割やくわりたした。

だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつにより、1914ねんから1918ねんまではハイファ滞在たいざい。バハイ信教しんきょう拠点きょてんくハイファは、だいいち世界せかい大戦たいせんちゅうはバハイ信教しんきょうたい敵対てきたいてきだったオスマン帝国ていこく統治とうちにあったが、終戦しゅうせんによりイギリス委任いにん統治とうちりょうへとわった。アブドル・バハは戦後せんご飢饉ききん回避かいひするために貢献こうけんしたことで、のちにイギリスから爵位しゃくい授与じゅよされている。

アブドル・バハの出生しゅっしょうあたえられた名前なまえは、アッバスであり、文脈ぶんみゃくによって、ミルザ・アッバス(ペルシャ)、アッバス・エフェンディ(トルコ)と表記ひょうきされるが、これらはどちらも日本語にほんごでの、アッバスきょうという表現ひょうげんひとしい。かれ自身じしんは、アブドル・バハ(「バハのしもべ」という意味いみで、「バハ」はちちであるバハオラをす)の称号しょうごうこのんだ。一般いっぱんに、バハイ信教しんきょう書籍しょせき文献ぶんけんでは、アブドル・バハは「」という言葉ことば言及げんきゅうされている。

幼少ようしょう[編集へんしゅう]

アブドル・バハは、1844ねん5がつ23にちにイランのテヘランで、バハオラの長子ちょうしとしてまれた。バブが顕示けんじしゃとしてその使命しめい宣言せんげんしたまさにおなよるのことだった。名前なまえのアッバスは、有力ゆうりょく貴族きぞくだったかれ祖父そふミルザ・アッバス・ヌリにちなんだものである。かれ幼少ようしょうは、傑出けっしゅつしたバビ教徒きょうとだったちち立場たちばによって形成けいせいされた。バビのタヘレと出会であったときのこと、ひざせて愛撫あいぶし、はなしかけてくれたときのこと、とてもふかあこがれていたことを、後年こうねん述懐じゅっかいしている。アブドル・バハは幸福こうふくでのびやかな幼少ようしょうおくった。家族かぞくんでいたテヘランのいえも、田舎いなか邸宅ていたくも、快適かいてきうつくしい装飾そうしょくほどこされていた。なかむつまじかったいもうと一緒いっしょ庭園ていえんでのあそびにきょうじた。いもうとのバヒイー、おとうとのミーディとともさんにんで、幸福こうふく快適かいてき特権とっけんてき環境かんきょうらしていたのである。ちち宮廷きゅうてい大臣だいじんしょく辞退じたいしたのはかれ少年しょうねんときだった。女性じょせい子供こどもたちのために邸宅ていたくいちかく病棟びょうとう改造かいぞうすることをふくめ、アブドル・バハのまえで、両親りょうしん様々さまざま慈善じぜん事業じぎょうんでいた。

アブドル ・バハは系統的けいとうてき教育きょういく子供こども時代じだいけていない。貴族きぞくはその子弟してい学校がっこうかよわせないことが当時とうじ慣習かんしゅうだった。聖典せいてん修辞しゅうじがく書道しょどう、そして基礎きそてき数学すうがく教育きょういくを、ひろあさく、家庭かていける貴族きぞく大半たいはんだったからである。おおくの貴族きぞく教育きょういくけたのは、宮廷きゅうてい宮仕みやづかえする人生じんせいへの準備じゅんびのためだった。7さいいち年間ねんかん伝統でんとうてき予備よび学校がっこうとおったが、アブドル ・バハは正式せいしき教育きょういくけなかった。成長せいちょうしていくかれ教育きょういくしたのは、はは伯父おじだった。しかし、かれ教育きょういく大半たいはんちちからもたらされた。後年こうねんの1890ねん、エドワード・グランヴィル・ブラウンはアブドル ・バハをこのように描写びょうしゃした。「より雄弁ゆうべん演説えんぜつし、弁論べんろん準備じゅんびをよりまんはしととのえ、例示れいじ能力のうりょくによりすぐれ、ユダヤきょう、キリストきょうイスラム教いすらむきょう聖典せいてんにより精通せいつうした人物じんぶつ、... 雄弁ゆうべん論客ろんかくあつめてもかれほどの弁士べんし滅多めった見出みだせない」。

アブドル ・バハは7さいときに、結核けっかくにかかった。予期よきされたまぬかれがれ、病弊びょうへいえていったが、人生じんせい最後さいごまで発作ほっさなやまされた。

子供こども時代じだいのアブドル ・バハをおおきくさぶった出来事できごとは、8さいときちち投獄とうごくだった。その結果けっか一家いっか貧困ひんこんおちいり、よその子供こどもたちから路上ろじょう攻撃こうげきされるようになった。悪名あくめいたか暗黒あんこく地下ちかろうシア・チャールに投獄とうごくされたバハオラを、アブドル ・バハはははにおきょうし、面会めんかいおとずれた。「わたしうつったのは、くら勾配こうばいけわしい場所ばしょでした。ちいさくてせまいドアこうからはいり、階段かいだんだんりましたが、それよりさきなにえません。階段かいだん中頃なかごろまでりると、突然とつぜんちち、バハオラのこえこえました。『そのをここにきたさせてはいけません』。そこで、わたしもどされました。」

バグダッド[編集へんしゅう]

バハオラは最終さいしゅうてき釈放しゃくほうされたが、追放ついほうめいじられた。当時とうじ、8さいだったアブドル ・バハは、ちち随伴ずいはんし、バグダットへのたび(1853ねん1がつから4がつ)に参加さんかした。ときふゆたびあいだ凍傷とうしょうにかかった。バハオラは、困難こんなんちたいちねんのち、ミルザ・ヤーヤとのこうそうつづけるよりもむしろ、くことをえらび、スライマーニーヤの山々やまやまひそかに隠遁いんとんした。1854ねん4がつ、アブドル ・バハが10さい誕生たんじょうむかえる1ヶ月かげつまえのことだった。苦難くなんをいつもともにしてきたかれも、ははも、いもうとも、かなしみにしずんだ。アブドル ・バハはははいもうととはとく親密しんみつだったが、ははかれ教育きょういく養育よういく積極せっきょくてき参加さんかしてくれた。ちち不在ふざい年間ねんかん成年せいねんとし中東ちゅうとう社会しゃかいでは14さい)をむかえるまえでありながら、アブドル ・バハは家庭かてい諸事しょじ管理かんりつとめたことがられている。そして、読書どくしょ没頭ぼっとうし、手書てがきによる写本しゃほんおも出版しゅっぱん手段しゅだん時代じだいゆえ、バブの書物しょもつ書写しょしゃにもんだ。乗馬じょうばじゅつにも関心かんしんち、成長せいちょうするにつれ、すぐれた騎手きしゅとしてられるようになった。

1856ねん、おそらくバハオラとおもわれる禁欲きんよくてき生活せいかつおく人物じんぶつが、地方ちほうのスーフィズムの指導しどうしゃ談論だんろんかさねているというらせが、かれ家族かぞく友人ゆうじんもととどいた。家族かぞく友人ゆうじんたちも、行方ゆくえがつかめないこの修道しゅうどうそう捜索そうさくにただちに出向でむいた。そして3がつ、バハオラはバグダットにもどされた。ちち姿すがたにするなり、アブドル ・バハはひざまずき、「どうしてわたしたちをりにしたのですか?」と、大声おおごえをあげていた。ははいもうとおなじだった。かれはほどなくしてちち秘書ひしょとなりたてとなった。バグダッドに滞在たいざいするあいだに、アブドル ・バハは少年しょうねんから若者わかものへと成長せいちょうした。「おどろくほどに端正たんせい姿すがたをした若者わかもの」として注目ちゅうもくされ、そのおもいやりとしたしみやすさで人々ひとびと記憶きおくきざまれた。成人せいじんとしぎると、バグダッドのモスクで宗教しゅうきょう話題わだい聖典せいてんについて一人ひとり若者わかものとして議論ぎろんしている様子ようすつねられた。その滞在たいざい期間きかんちち要望ようぼうこたえ、アリ・ショウカット・パシャというのスーフィズム指導しどうしゃのために、「わたしかくされたたからだった」というイスラム教いすらむきょう伝承でんしょう論評ろんぴょうした。アブドル ・バハはこのとき、15か16さいだった。11000以上いじょうのこの評論ひょうろんったアリは、この年齢ねんれいにしては見事みごと出来栄できばえだ、ととなえた。1863ねん、レズワン庭園ていえんとしてられるようになった場所ばしょで、ちち、バハオラはごく少数しょうすうものに、自分じぶんかみ顕示けんじしゃであり、バブが予言よげんしていたその到来とうらいかみあきらかにするものであることを公表こうひょうした。滞在たいざいした12日間にちかん八日ようかばんだった。アブドル ・バハはバハオラがその主張しゅちょうあきらかにした最初さいしょ人物じんぶつであるとしんじられている。

コンスタンティノープル/アドリアノープル[編集へんしゅう]

アブドル・バハ(みぎ)とおとうとのミルザ・ミディ

1863ねん、バハオラがコンスタンチノープルに召喚しょうかんされたことで、当時とうじ19さいになっていたアブドル ・バハをふく家族かぞくが、110日間にちかんにわたるたび随伴ずいはんした。追放ついほうさきとなるコンスタンチノープルへのたび疲弊ひへいするたびだったため、みな体調たいちょうくずれないようアブドル ・バハがたすけた。かれ立場たちばがバハイのなかでさらに傑出けっしゅつするようになったのは、コンスタンチノープルにおいてだった。バハオラが自著じちょの「えだ書簡しょかん」で息子むすこ美徳びとく地位ちいつね一貫いっかんして称揚しょうようすることで、より強化きょうかされた。しかし、到着とうちゃくして滞在たいざいはじめたものの、アドリアノープルへの追放ついほうれいがまもなくはっせられ、アブドル ・バハも家族かぞくとも同行どうこうした。凍傷とうしょうふたたびかかった。

アドリアノープルでのアブドル ・バハは、家族かぞく唯一ゆいいつの、とく母親ははおやなぐさやくとしてなされていた。この時点じてんで、アブドル ・バハはバハイからは「」、一般いっぱん社会しゃかいからは「アッバスきょう」の呼称こしょうられていた。バハオラが自分じぶん息子むすこを「かみ神秘しんぴ」として言及げんきゅうしたのは、アドリアノープルにおいてだった。「かみ神秘しんぴ」という称号しょうごうは、バハイによれば、アブドル ・バハはかみ顕示けんじしゃでないが、人間にんげん性質せいしつ比類ひるいなき特質とくしつと、常人じょうじんえる知識ちしき完全かんぜんせいが、アブドル ・バハという人物じんぶつなかでいかに混合こんごうされてきたか、そして、いかに完璧かんぺき調和ちょうわしていることかを示唆しさするものである。当時とうじのアブドル ・バハは、かたながれる黒髪くろかみおおきなあお血色けっしょくしろなめらかなはだかたちはなぬしとしてられていた。バハオラが息子むすこあたえた称号しょうごうほかにも数多かずおおい。「最大さいだいえだ」「せいなるえだ」「きよしやく中心ちゅうしん」そして「いとしい存在そんざい」が代表だいひょうする。アブドル ・バハ()は、かれふく家族かぞくがバハオラとは別々べつべつ追放ついほうされる、というらせをいたときおおきく落胆らくたんした。しかし、その構想こうそうかれ嘆願たんがんにより撤回てっかいされ、家族かぞくみなとも追放ついほうされることが許可きょかされた。

アッカ[編集へんしゅう]

24さいとき、アブドル・バハはちちもっとちか側近そっきんであり、バハイ共同きょうどうたい傑出けっしゅつした一員いちいんであった。バハオラとその家族かぞくは、1868ねん、(当時とうじの)パレスチナの監獄かんごく都市とし、アッカに追放ついほうされ、そこでかれらはえるだろうと予想よそうされていた。家族かぞくと、かれらととも追放ついほうされたものたちにとって、アッカへの到着とうちゃく悲惨ひさんきわまりないものだった。かれらは、周囲しゅうい人々ひとびと敵意てきいちた環境かんきょうなかむかえられ、アブドル・バハのいもうとちちは、いのちかかわる病気びょうきにかかった。きし上陸じょうりくするさい女性じょせい男性だんせいかたすわってくるものだとわれたとき、アブドル・バハは椅子いす用意よういして女性じょせいかつぎ、アッカのまではこんだ。かれは、苦労くろうして麻酔ますいざいれることができ、病気びょうきもの看病かんびょうした。バハイたちは、汚物おぶつどろにまみれた監房かんぼうというおそろしい場所ばしょ投獄とうごくされた。アブドル・バハ自身じしんも、赤痢せきりにかかり、危険きけん状態じょうたいおちいったが、同情どうじょうてき兵士へいしが、医者いしゃ治療ちりょうほどこすのを許可きょかしたことにより一命いちめいめた。アッカの人々ひとびとは、バハイたちをけ、兵士へいし同様どうようったので、アザリ人々ひとびと画策かくさくむすばなかった。アブドル・バハのすえおとうと、ミルザ・ミディが不慮ふりょ事故じこによって22さいくなったことは、アッカにおくられたいちぎょうにとって、気力きりょくさらぐ、つら出来事できごとだった。そのは、家族かぞくとくにそのははちち非常ひじょうくるしみをもたらした。そして、なげかなしむアブドル・バハは、おとうと遺体いたいっていちばんずのばんをした。

バハオラとその家族かぞく収監しゅうかんされたアッカの牢獄ろうごく

アッカでのその[編集へんしゅう]

アブドル・バハは徐々じょじょに、追放ついほうされたバハイたちのちいさな共同きょうどうたいそと世界せかいあいだ関係かんけい責任せきにんになうようになった。バハイたちによれば、アブドル・バハとの交流こうりゅうとおして、アッカの人々ひとびとはバハイの無実むじつ認識にんしきするようになり、その結果けっか投獄とうごく状況じょうきょう緩和かんわされた。ミディのから4ヶ月かげつ家族かぞくは、刑務所けいむしょからてアブードのいえうつることができた。アッカの人々ひとびと次第しだいに、バハイを、とくにアブドル・バハを尊敬そんけいするようになった。アブードのいえとなりんでいたカマールは、バージに邸宅ていたくっていた。のちに、1879ねんごろ伝染でんせんびょうけるために、カマールとその家族かぞくがよそにうつったとき、アブドル・バハは、家族かぞくのためにバージのかんり、家族かぞくはそこにうつった。

アブドル・バハはすぐに監獄かんごく都市としにおいて、とても有名ゆうめい存在そんざいとなり、その様子ようすが、裕福ゆうふくなニューヨークの弁護士べんごし、マイロン・ヘンリー・フェルプスによってつぎのように描写びょうしゃされている。「人々ひとびとれ…、シリアじん、アラブじん、エチオピアじん、そのにも大勢おおぜい」がみんなアブドル・バハとはなしをしようとっていた。フェルプスは、バビきょう歴史れきしを『旅人たびびとはなし』を1886ねん出版しゅっぱんし、のちケンブリッジ大学けんぶりっじだいがくエドワード・グランヴィル・ブラウン博士はかせによって翻訳ほんやくされ、出版しゅっぱんされた。ブラウン博士はかせは、つぎのようにアブドル・バハを描写びょうしゃしている。

これほど感銘かんめいあたえる外見がいけんをした人物じんぶつることは滅多めったになかった。たかく、がっしりとした男性だんせいで、のようにぐにっていた。しろいターバンと衣服いふくて、ふさふさした黒髪くろかみはほとんどかたまでとどき、ひろ力強ちからづよがくが、るがない意思いしわされたつよ知性ちせいあらわし、たかのようにするどく、非常ひじょう目立めだつ、しかし人好ひとずきのする特徴とくちょうそなえている ――これが、アッバス・エフェンディ、「」にたいしてわたしいた最初さいしょ印象いんしょうだった。[4]

結婚けっこん家族かぞく生活せいかつ[編集へんしゅう]

24さいのアブドル・バハ

アブドル・バハがわかかったとき、バハイたちのあいだ頻繁ひんぱん憶測おくそくわされたのは、かれだれ結婚けっこんするのかということだった。すうめいわか女性じょせい結婚けっこん相手あいてとして候補こうほがったが、アブドル・バハは結婚けっこんすすまないようだった。1873ねんの3がつ8にちちちからのすすめで、28さいのアブドル・バハは、イスファハンの上流じょうりゅう階級かいきゅう出身しゅっしんの25さいのファテメ・ナハリー(1847–1938)と結婚けっこんした。彼女かのじょちちは、イスファハンのミルザ・ムハンマド・アリ・ナハリーであり、著名ちょめいなバハイであった。ファテメは、バハオラとそのつまのナバブが、彼女かのじょがアブドル・バハと結婚けっこんすることに関心かんしんしめしたのち、ペルシャからアッカまでおくられてた。イスファハンからアッカまでの非常ひじょうつかれるたびて、1872ねん彼女かのじょ兄弟きょうだいたちに護衛ごえいされて、ついにアッカに到着とうちゃくした。わかにんは、結婚けっこん生活せいかつ開始かいしするやくヶ月かげつまえ婚約こんやくした。婚約こんやく期間きかんあいだ、ファテメは、アブドル・バハの叔父おじ、ミルザ・ムサのいえんだ。後年こうねん彼女かのじょ回顧かいころくでは、ファテメはアブドル・バハをこいをしたという。アブドル・バハ自身じしんはファテメにうまで、結婚けっこんかんしてとくさっしていなかった。ファテメはバハオラによって、「かがやく」という意味いみのムニレという称号しょうごうあたえられた。

結婚けっこんによって、二人ふたりは9にんどもをもうけた。最初さいしょまれた長男ちょうなん、ミディ・エフェンディはわずか3さいくなった。かれのちまれたのは、ズィアイエ・カヌーム、フォディエ・カヌーム(2, 3さい死亡しぼう)、ルハンギーズ・カヌーム(1893ねん死亡しぼう)、トゥバ・カヌーム、ホセイン・エフェンディ(1887ねんに5さい死亡しぼう)、トゥバ・カヌーム、ルハ・カヌーム(モニーブ・シャヒードのはは)、モナヴァール・カヌームである。どもたちのとくに、息子むすこ、ホセイン・エフェンディのは、はは叔父おじくしたつら時期じきこったので、アブドル・バハにはかれないかなしみをもたらした。のこったどもはすべむすめであり、つぎの4にんである。ズィアイエ・カヌーム(ショーギ・エフェンディのはは、1951ねん死亡しぼう)、トゥバ・カヌーム(1880-1959)、ルハ・カヌーム、モナヴァール・カヌーム(1971ねん死亡しぼう)。バハオラは、バハイたちがアブドル・バハのれいならって、徐々じょじょ一夫多妻いっぷたさいせいをやめるようねがっていた。アブドル・バハの一人ひとり女性じょせいとの結婚けっこんと、一夫一婦いっぷいっぷでありつづけたその選択せんたくは、ちち助言じょげんかれ自身じしんねがいによるものであったが、当時とうじまだ一夫多妻いっぷたさいせいただしいかただとかんがえている人々ひとびとにとって、一夫一婦いっぷいっぷせい適法てきほうなものとしたのである。

指導しどうしゃとしての任期にんきはじめのころ[編集へんしゅう]

バハオラが1892ねん5がつ29にちくなったのち、バハオラの遺訓いくん遺言ゆいごんにより、アブドル・バハがせいやく中心ちゅうしん後継こうけいしゃ、バハオラの書物しょもつ解説かいせつしゃとして指名しめいされた。

バハオラは、みずからの後継こうけいしゃつぎ文節ぶんせつ指名しめいしている。

せいなる遺言ゆいごんしゃ遺言ゆいごんはこれである。すなわち、アグサン、アフナン、およびわが親族しんぞくみな例外れいがいなく、もっと偉大いだいなるえだにそのめんける義務ぎむがある。が、わがもっとせいなるしょあらわしたことを熟考じゅっこうせよ。「わが現存げんそんうみき、わが啓示けいじしょわったとき、かみさだきゅううたしゃ、このいにしえ(いにしえ)のよりえたものなんじらのめんけよ」 このひじりしているものもっと偉大いだいなるえだ(アブドル・バハ)にならない。はこのように恩寵おんちょうふかくわが強力きょうりょくなる遺言ゆいごんあらわした。まこと恩寵おんちょうふかく、すべてにめぐふかものである。まことに、かみは、おおいなるえだ(モハメッド・アリ)の地位ちいもっと偉大いだいなるえだ(アブドル・バハ)の地位ちいしたさだたまうたのである。かれこそはさだたま御方おかたぜん賢者けんじゃである。全知ぜんちしゃ、すべてに見識けんしきある御方おかたなるかれさだめられたように、は「おおいなる」を「もっと偉大いだいなる」ののちにしたのである。 ―― バハオラ(1873-92)[5]

きよしやくしょ』(ケタベ・アード)の翻訳ほんやくは、文法ぶんぽう逸脱いつだつもとづいてやくされている。しかし、AkbarとAʻzamは、それぞれ、「偉大いだいな」や「もっと偉大いだいな」を意味いみしない。このふたつの言葉ことば完全かんぜんべつの「3つの子音しいんふく語根ごこん」(Akbarは、 k-b-r から、また、 Aʻzam は ʻ-z-mから)に由来ゆらいするだけでなく、アラビアには、比較ひかくきゅう最上級さいじょうきゅう明確めいかくちがいのない、等級とうきゅう段階だんかいあらわ絶対ぜったい最上級さいじょうきゅう(つよし)がある。「遺訓いくん遺言ゆいごん」において、アブドル・バハの異母弟いぼてい、モハメッド・アリは、アブドル・バハに従属じゅうぞくする名前なまえ言及げんきゅうされている。モハメッド・アリはアブドル・バハに嫉妬しっとし、自分じぶん兄弟きょうだいのバディウラとズィアウラの支援しえんけて、みずからをあたらしい指導しどうしゃとして権威けんい確立かくりつはじめた。モハメッド・アリは、当初とうしょ秘密裏ひみつりに、イランのバハイたちと文通ぶんつうはじめ、アブドル・バハへの疑念ぎねんかれらのしんへとけた。だい多数たすうのバハイがアブドル・バハにしたがったが、少数しょうすう人々ひとびとがモハメッド・アリにしたがった。そのなかには、アメリカへバハイを布教ふきょうした初期しょきのメンバーである、ミルザ・ジャヴァードやイブラヒム・ジョージ・ケイララもいた。

モハメッド・アリとミルザ・ジャヴァードは、公然こうぜんと、アブドル・バハは権力けんりょくちすぎている、みずからをバハオラと同等どうとう地位ちいである「かみ顕示けんじしゃ」だとしんじているにちがいないと非難ひなんした。このころ、アブドル・バハはみずからにけられた告発こくはついつわりを証明しょうめいすべく、西洋せいようへの書簡しょかんで、みずからは「アブドル・バハ」としてられ、この称号しょうごうがアラビアで「バハのしもべ」を意味いみすること、自分じぶんは「かみ顕示けんじしゃ」ではなく、その地位ちいはあくまで隷属れいぞくぎないことを明確めいかく記述きじゅつした。アブドル・バハは、その遺訓いくん遺言ゆいごんで、行政ぎょうせい機構きこう枠組わくぐみをてた。かれ確立かくりつしたふたつの最高さいこう機構きこうは、万国ばんこく正義せいぎいん守護しゅごしゃ制度せいどであり、守護しゅごしゃとしてショーギ・エフェンディを指名しめいした。モハメッド・アリは、アブドル・バハとショーギ・エフェンディをのぞく、バハオラの親戚しんせき生存せいぞんしていたすべての男性だんせい支援しえんけ、そのなかには、ショーギ・エフェンディのちちであるミルザ・ハジ・シラジもふくまれていた。しかしながら、モハメッド・アリとその家族かぞく声明せいめいは、一般いっぱんてきに、バハイたちにほとんど影響えいきょうおよぼさなかった。アッカの地域ちいきにおいて、モハメッド・アリの信徒しんとはせいぜい6家族かぞくで、かれらは一緒いっしょ宗教しゅうきょうてき活動かつどうをすることもなく、ほとんど完全かんぜんにムスリム社会しゃかい同化どうかしていった。

最初さいしょ西洋せいよう巡礼じゅんれいしゃ[編集へんしゅう]

1898ねんわりまでに、西洋せいよう巡礼じゅんれいしゃたちがアブドル・バハを訪問ほうもんするためにアッカへやってくるようになった。フィービー・ハーストふくむ、この巡礼じゅんれいしゃのグループは西洋せいようそだったバハイたちがアブドル・バハにった最初さいしょときだった。最初さいしょのグループが1898ねん到着とうちゃくし、1898ねんわりから1899ねんはじめにかけて、西洋せいようのバハイたちは単発たんぱつてきにアブドル・バハを訪問ほうもんした。グループは、比較的ひかくてきわかく、上流じょうりゅうのアメリカ社会しゃかいぞくするおもじゅうだい女性じょせいふくんでいた。西洋せいようじんのグループの訪問ほうもんにより、当局とうきょくうたがいをもち、結果けっかとしてアブドル・バハの幽閉ゆうへい状態じょうたいきびしいものとなった。これにつづじゅう年間ねんかんあいだ、アブドル・バハは世界中せかいじゅうのバハイたちと継続けいぞくてきなコミュニケーションをち、信教しんきょうおしえるようかれらをはげました。それらの人々ひとびと名前なまえ一部いちぶをここにげる。パリのメイ・エリス・ボールズ、英国えいこくじんのトーマス・ブレイクウェル、アメリカじんのハーバート・ホッパー、フランスじんのヒッポライト・ドレイファス、スーザン・ムーディ、ルア・ゲッチンガー、アメリカじんのラウラ・クリフォード・バーニー。長年ながねんわたって、ハイファへの幾度いくどもの訪問ほうもんにおいてアブドル・バハに質問しつもんをしたのがラウラ・クリフォード・バーニーであり、のちにその質問しつもんこたえがあつめられて、「質疑しつぎ応答おうとうしゅう」となった。

1901ねんから1912ねん[編集へんしゅう]

19世紀せいき最後さいごとし、アブドル・バハは公式こうしきにはいまだに囚人しゅうじんであり、アッカに幽閉ゆうへいされていたが、バブの遺体いたいをイランからパレスチナに移送いそうすることを計画けいかくした。そこで、バハオラがバブの遺体いたい安置あんちするにするようにと指示しじしていたカーメルさん土地とち購入こうにゅうし、廟堂びょうどう建設けんせつ段取だんどりを計画けいかくした。このプロセスはさらに10ねん歳月さいげつようした。アブドル・バハを訪問ほうもんする巡礼じゅんれいしゃ増加ぞうかしたことで、モハメド・アリはオスマン帝国ていこく当局とうきょく共謀きょうぼうし、とらわれのにあるアブドル・バハへの面会めんかい条件じょうけんを、1901ねん8がつあらためてきびしくした。けれども1902ねんむかえるまでにはアッカの知事ちじ肩入かたいれするようになっていたことで、状況じょうきょうおおきく緩和かんわされた。おかげで、アブドル・バハがこの監獄かんごく都市とし幽閉ゆうへいされていても、巡礼じゅんれいしゃたちは以前いぜんおなじように訪問ほうもんすることができた。1903ねん2がつには、バディウラとセイイェド・アリィアフナンというモハメド・アリの従者じゅうしゃにんがアリと絶縁ぜつえんした。二人ふたりかれ陰謀いんぼう詳細しょうさいほん手紙てがみきし、アブドル・バハについて流布るふしているはなしはでっちげであることを指摘してきした。

1902ねんから1904ねんまでの期間きかん、アブドル・バハは指揮しきをとっていたバブのびょう建設けんせつくわえ、ふたつの事業じぎょう実施じっし開始かいしした。イランのシーラーズにあるバブのいえ復元ふくげんと、トルクメニスタンのアシガバートでの最初さいしょのバハイ礼拝れいはいどう建設けんせつである。1844ねんにバブがムラ・フセインに宣言せんげんしたとき状態じょうたいにバブのいえ復元ふくげんされるよう、アブドル・バハはアクァ・ミルザ・アクァに作業さぎょう調整ちょうせい依頼いらいした。礼拝れいはいどう建設けんせつは、ヴァキール・ダフリーに委任いにんした。

この時期じき、アブドル・バハは、オスマン・トルコ帝国おすまんとるこていこく皇帝こうていアブデュルハミト2せい統治とうち反対はんたいするすうおおくのトルコじん青年せいねん連絡れんらくっていた。ナムク・ケマル、ズィヤー・パシャ、ミドハト・パシャをふく青年せいねんたちは、バハイの思想しそうかれらの政治せいじてきイデオロギーにれ、拡散かくさんしようとこころみていた。アブドル・バハは、「自由じゆうもとめ、解放かいほうあいし、平等びょうどうのぞみ、人類じんるい幸福こうふくねがい、人類じんるい和合わごうのためならいのち犠牲ぎせいにする覚悟かくごができている」のがバハイであり、みが青年せいねんトルコじんたちよりも広範こうはんであることを強調きょうちょうした。統一とういつ進歩しんぽ委員いいんかい創設そうせつしゃ一人ひとりであり、バハイ信教しんきょうイスラム教いすらむきょう究極きゅうきょくてき放棄ほうきされるまでの中継なかつてき段階だんかいにあるものとかんがえていたアブドゥラー・ジェヴデトは、かれ創刊そうかんした定期ていき刊行かんこうぶつなかでバハイを擁護ようごしたために裁判さいばんにかけられようとしていた。

アブドル・バハは、ブルサリ・メフメト・タヒア・ベイとハサン・ベドレディンをふく軍事ぐんじ指導しどうしゃたちとも接触せっしょくした。後者こうしゃは、皇帝こうていアブデュルアズィズの王座おうざ転覆てんぷく加担かたんしたものである。ベイチ・パシャとして一般いっぱんられ、ペルシャのアブドル・バハイの出典しゅってんではベイチ・ベイとして言及げんきゅうされている。アブドル・バハがしるした書物しょもつフランス語ふらんすごやくしたバハイだった。

アブドル・バハは、イスラム教いすらむきょう現代げんだい主義しゅぎとサラフィー主義しゅぎ重要じゅうよう人物じんぶつ一人ひとりであるムハンマド・アブドゥフとも、ベイルートで会談かいだんした。双方そうほうともがオットマン帝国ていこく学者がくしゃ対抗たいこうし、宗教しゅうきょう改革かいかくという近似きんじした共通きょうつう目標もくひょうっていたときのことだった。ラシード・リダーは、かれがベイルートに来訪らいほうしていた期間きかんに、アブドル・バハがアブドゥフの研究けんきゅうかいによくかおせていたと断言だんげんしている。アブドル・バハとムハンマド・アブドゥフの会談かいだんについては、ショーギ・エフェンディがこのように断言だんげんする。「有名ゆうめいなシャイフのムハンマド・アブドゥとのすう対談たいだんにより、共同きょうどうたい威信いしんおおいにたかめられ、もっと傑出けっしゅつしたメンバーの名声めいせい国外こくがいひろがった。」

アブドル・バハの政治せいじてき活動かつどうと、モハメド・アリがもうてた告発こくはつけ、調査ちょうさ委員いいんかいがアブドル・バハへのききとりを1905ねんった。その結果けっか、フェザーンへの追放ついほうがほぼ決定けっていされた。アブドル・バハはこれへの抗弁こうべんとして、信者しんじゃ政党せいとう政治せいじには関与かんよしないこと、かれのスーフィズムの修行しゅぎょうによっておおくのアメリカじんイスラム教いすらむきょう(イスラムけん文化ぶんか?)にみちびかれたことを、皇帝こうていてた手紙てがみしるした。翌年よくねんからのすう年間ねんかん、それまでの圧力あつりょくからアッカは比較的ひかくてき解放かいほうされ、巡礼じゅんれいしゃがアブドル・バハのもと来訪らいほうすることができた。そして、1909ねんまでには、バブのびょう霊廟れいびょう完成かんせいした。

西にしへのたび[編集へんしゅう]

米国べいこく滞在たいざいちゅうのアブドル・バハ

1908ねんに64さいでトルコじん革命かくめいによって解放かいほうされたアブドル・バハは、1910ねんから1913ねんにわたる西洋せいようへのたびへと出立しゅったつした。イギリス、フランスに滞在たいざいしてから、アメリカ東海岸ひがしかいがんわたり、カナダを訪問ほうもんしたのち北米ほくべい大陸たいりく横断おうだんした。西海岸にしかいがん到達とうたつした復路ふくろ東海岸ひがしかいがんもどると、海路かいろふたたびイギリスをおとずれ、フランス、ドイツ、ハンガリー、オーストリアをめぐったのち最初さいしょ訪問ほうもんエジプトにもどった。かれ西洋せいようへのたびはバハオラのおしえのひろがりとヨーロッパと北米ほくべいのバハイ共同きょうどうたい確立かくりつおおきく貢献こうけんした。双方そうほう大陸たいりくでのかれ演説えんぜつは、社会しゃかい状況じょうきょう懸念けねんし、平和へいわ女性じょせい権利けんり人種じんしゅ偏見へんけん撲滅ぼくめつ社会しゃかい改革かいかく道徳どうとく発展はってん献身けんしんする著名ちょめいじんたちからたか評価ひょうかをもって歓迎かんげいされた。訪問ほうもんする先々さきざきでアブドル・バハがもたらしたメッセージは、古来こらいから約束やくそくされていた人類じんるい和合わごうする時代じだい到来とうらいしたことをげるものだった。かれ平和へいわ確立かくりつ必要ひつよう社会しゃかい状況じょうきょう国際こくさいてき政治せいじ機関きかん創設そうせつする必要ひつようせいかえべた。そして、この旅行りょこうから2ねんたないうちに、だいいち世界せかい大戦たいせん現実げんじつ勃発ぼっぱつしたのである。

たび途上とじょうでの二人ふたり日本人にっぽんじんとの出会であいを紹介しょうかいする。 

荒川あらかわ子爵ししゃくとの会見かいけん

1912ねん、スペイン駐在ちゅうざい日本にっぽん大使たいしであった荒川あらかわ子爵ししゃく夫妻ふさい切望せつぼうおうじ、アブドル・バハはいちにちちゅう長時間ちょうじかん活動かつどうつかり、悪天候あくてんこうであったにかかわらず、夫妻ふさい滞在たいざいしていたパリのホテルへと出向でむいた。アブドル・バハは荒川あらかわ夫妻ふさいに、日本にっぽん状態じょうたい、そのくに国際こくさいてき重要じゅうようせい人類じんるいへのだいなる奉仕ほうし戦争せんそう廃止はいしのための努力どりょく労働ろうどうしゃ生活せいかつ条件じょうけん改善かいぜん男女だんじょども教育きょういく機会きかいあたえる重要じゅうようせいなどについてかたり、「宗教しゅうきょう理想りそう人類じんるい福祉ふくしのためのあらゆる計画けいかく精髄せいずいをなす。宗教しゅうきょうけっして党派とうはてき政治せいじ道具どうぐもちいられてはならない。かみ政策せいさく強大きょうだいであり、人間にんげん政策せいさく微弱びじゃくである」とべている。[6]

成瀬なるせ仁蔵にぞうとの会見かいけん[7]

日本にっぽん最初さいしょ女子大じょしだいがくである日本女子大学にほんじょしだいがく創立そうりつしゃ成瀬なるせ仁蔵にぞう学長がくちょうはアブドル・バハと面会めんかいした数少かずすくない日本人にっぽんじん一人ひとりである。にち戦争せんそう社会しゃかい不安ふあんのこ当時とうじ成瀬なるせ仁蔵にぞうみずからが中心ちゅうしんとなり、さらに渋沢しぶさわ栄一えいいち姉崎あねざき正治しょうじらの学者がくしゃ実業じつぎょうらを発足ほっそくじんくわえ、宗教しゅうきょうしゃ同士どうし相互そうご理解りかい協力きょうりょく推進すいしんする組織そしきとして1912ねん帰一きいつ教会きょうかい(コンコーディア)という運動うんどう中核ちゅうかくつくった。その目的もくてきは、あらゆる国民こくみん和合わごう共通きょうつう進行しんこう基盤きばんさがすことであった。その運動うんどうのため世界せかい一周いっしゅうたびについた成瀬なるせ仁蔵にぞうは、著名ちょめいちょうをたずさえ、訪問ほうもんさきことなったくにぐにの著名ちょめいじんより善意ぜんいのことばをあつめた。

1912ねん成瀬なるせ学長がくちょうはロンドン滞在たいざいちゅうのアブドル・バハをおとずれ、オリエンタル・レビューに掲載けいさいされた日本にっぽんでのコンコーディア運動うんどうについての記事きじをみせた。アブドル・バハは、バハイの大業おおわざ原則げんそくについてかたり、それらの原則げんそく実行じっこうするために、いかにわれわれがかみちから必要ひつようとしているかをかたった。そして、「ちょうど太陽たいよう太陽系たいようけいにおけるすべてのひかりみなもとであるように、今日きょうではバハオラが人類じんるい和合わごう世界せかい平和へいわ中心ちゅうしんである」とべ、日本にっぽんかえってこれらの崇高すうこう理想りそうをひろめるよう、成瀬なるせ熱心ねっしん懇請こんせいした。以下いかはアブドル・バハが成瀬なるせ著名ちょめいちょうのこしたいのりである:「おおかみよ!宗教しゅうきょうあいだ国家こっかあいだおよ人々ひとびとあいだ、の論争ろんそう不和ふわ戦争せんそう暗黒あんこく真実しんじつ地平線ちへいせんくもらせ、真理しんりてんをおおいかくした。世界せかい教導きょうどうひかり必要ひつようとしている。それ、おおかみよ、実在じつざい太陽たいよう東西とうざいりょうようらすようなんじ恩恵おんけいさづけたまえ」[6]

晩年ばんねん(1914–1921)[編集へんしゅう]

巡礼じゅんれいしゃたちとともにカルメル山上さんじょうつアブドル・バハ、1919ねん

戦後せんご[編集へんしゅう]

晩年ばんねんのアブドル・バハ
爵位しゃくい授与じゅよされる式典しきてんでのアブドル・バハ、1920ねん4がつ

葬儀そうぎ[編集へんしゅう]

イギリス委任いにん統治とうちりょうパレスチナハイファにおけるアブドル・バハの葬儀そうぎ

アブドル・バハは、1921ねん11月28にち、ハイファでぼっし、葬儀そうぎには、やくいちまんにん参列さんれつした。ユダヤきょう、キリストきょう、イスラムきょうとをふく多種たしゅ多様たよう人々ひとびとあつまった。「自己じこ犠牲ぎせいきる模範もはん」であり「平和へいわてるはしら」であり、人類じんるいを「真理しんりみち」へとみちびいたひとであると、おおくの賛辞さんじおくられた。

伝記でんき[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

アブドル・バハは生涯しょうがいつうじて総数そうすう推定すいてい)27,000つう以上いじょう書簡しょかん執筆しっぴつしているとされるが、おおくのもの翻訳ほんやくされていない。アブドル・バハの著書ちょしょばれるものは2つのグループにかれており、1つかれ直接ちょくせついたもの、2つ講演こうえん会話かいわ記録きろくである。 だいいちのグループには、1875ねん以前いぜんかれた『せいなる文明ぶんめい秘訣ひけつ[8]』、1886ねんごろかれた『旅人たびびとはなし』、1893ねんかれた『統治とうちじゅつかんする説教せっきょう』、『信仰しんこうしゃ記念きねんひん』、そして、西洋せいよう知識ちしきじんふく様々さまざま人物じんぶつてられた書簡しょかんふくまれる。2つのグループには、アブドル・バハが聖地せいち巡礼じゅんれいしゃむかえ、巡礼じゅんれいしゃからされるいにこたえるかたちでの会話かいわが『質疑しつぎ応答おうとうしゅう[9] というかたちのこされている。また、晩年ばんねん欧米おうべいおとずれ演説えんぜつをまとめた『パリ講話こうわしゅう[10]『アブドル・バハのロンドン講話こうわしゅう[11]万国ばんこく平和へいわ普及ふきゅう[12]などが書籍しょせきとして出版しゅっぱんされている。これらは厳密げんみつ意味いみでの著書ちょしょではないが、アブドル・バハがのち内容ないよう確認かくにん承認しょうにんしたものであるため、バハイ信教しんきょう聖典せいてん一部いちぶとみなされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ アブドル・バハ | バハイ共同きょうどうたい 【Japan Baha'i Network】” (英語えいご). 2021ねん5がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ `Abdu'l-Bahá (English). The Secret of Divine Civilization. https://www.amazon.com/Secret-Divine-Civilization-%60Abdul-Bah%C3%A1-ebook/dp/B08LW59P2F 
  3. ^ パリ講話こうわしゅう”. www.bahaijp.org. 2021ねん5がつ5にち閲覧えつらん
  4. ^ Browne 1891, See Browne's "Introduction" and "Notes", esp. "Note W".
  5. ^ せいやくしょ”. www.bahaijp.org. 2021ねん5がつ20日はつか閲覧えつらん
  6. ^ a b だいしょうアブドル・バハの在任ざいにん時代じだい”. バハイ共同きょうどうたい【Japan Baha'i Network】. 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん
  7. ^ Gyōseikai, Nihon Bahai Zenkoku Seishin『燎原りょうげん-- 日本にっぽん』バハイ出版しゅっぱんきょく、1978ねんhttps://books.google.co.jp/books/about/%E7%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%AE%E7%81%AB_%E6%97%A5%E6%9C%AC.html?id=u1BUvgAACAAJ&redir_esc=y 
  8. ^ -1-”. www.bahaijp.org. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  9. ^ アブドル・バハの質疑しつぎ応答おうとうしゅう | バハイ出版しゅっぱんきょく” (英語えいご). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  10. ^ パリ講話こうわしゅう | バハイ出版しゅっぱんきょく” (英語えいご). 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  11. ^ 'Abdu'l-Bahá in London” (英語えいご). bahai-library.com. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん
  12. ^ Promulgation of Universal Peace” (英語えいご). bahai-library.com. 2021ねん5がつ9にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

文献ぶんけん[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]