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レーヴ・ダヌィーロヴィチ

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レーヴ・ダヌィーロヴィチ
Левъ Даниловичъ
だい4だいハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこう
リヴィウのまち背景はいけいにしたレーヴ・ダヌィーロヴィチの肖像しょうぞう(15世紀せいき
在位ざいい 1293ねん - 1301ねん

出生しゅっしょう 1228ねん
死去しきょ 1301ねん
配偶はいぐうしゃ コンスタンツィア
子女しじょ ユーリイ
スヴャトスラヴァ
アナスタシア
家名かめい リューリク
父親ちちおや ダヌィーロ・ロマーノヴィチ
母親ははおや アンナ・ムスチスラヴナ
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レーヴ・ダヌィーロヴィチ(ルーシ:Левъ Даниловичъウクライナ:Лев Данилович意味いみ:レーヴ、ダヌィーロ1228ねん - 1301ねん)は、リューリクあさおおやけ一人ひとりで、ベルズ公国こうこくおおやけ在位ざいい1245ねん - 1264ねん)、ペレームィシュリ公国こうこくおおやけ在位ざいい1264ねん - 1301ねん)、ハールィチ公国こうこくおおやけ在位ざいい1269ねん - 1301ねん)であり、ハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこくの4だいこう在位ざいい1293ねん - 1301ねん)でもあった。

概要がいよう

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レーヴは次男じなんとして、ハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこくの2だいおおやけダヌィーロ・ロマーノヴィチと、ムスティスラーヴ・ムスティスラーヴィチむすめ、アンナのあいだ1228ねんまれた。あにイラクリイは1240ねんんでから、ちち跡継あとつぎとして重視じゅうしされるようになる。1247ねんちちはんモンゴル連合れんごう完成かんせいさせるために、レーヴはハンガリー王国おうこく国王こくおうベーラ4せいむすめ、コンスタンツィアと結婚けっこんした。1250年代ねんだいにはモンゴルじんながクレムサたたかい、多数たすう勝利しょうりかさねた。1259ねん、レーヴのちちノガイブルンダイロシアばん英語えいごばんひきいるモンゴルぐんやぶれたため、ハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこくふたたジョチ・ウルス従属じゅうぞくした。大公たいこうこくはモンゴルじん先方せんぽうとしてヨーロッパの諸国しょこく出兵しゅっぺいした。

1264ねんちちダヌィーロの死後しごペレームィシュリ公国こうこくおおやけとなり、みずからのおおやけをレーヴにちなんでづけられたリヴィウ[1]うつした。おとうとシュヴァールノぬと、レーヴはハルィチナーぜん地域ちいきとヴォルィーニ公国こうこくしょ領地りょうちけた。また、1272ねんにハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこく首都しゅとをハールィチからよりさらに西にしほうにあるリヴィウに遷都せんとした。

レーヴはジョチ・ウルス支配しはいにありながら、モンゴルじんちからりて自分じぶん領土りょうどやそうとし、はんモンゴル政策せいさくをひそかにいだつづけていた。そのために、1280年代ねんだいハンガリー王国おうこくザカルパッチャ地方ちほううばってポーランド王国おうこくルブリンしゅう占領せんりょうすると同時どうじに、チェコリトアニアドイツ騎士きしだん同盟どうめいむすんだ。

1293ねん叔父おじヴァスィーリコ子孫しそんえると、ちょんハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこうこく君主くんしゅとなった。1301ねん死去しきょ。レーヴは存命ぞんめいちゅうにモンゴルと対立たいりつけるためにちち王位おういけなかったが、レーヴの息子むすこユーリイ・リヴォーヴィチちからたくわえてみずから「ルーシのおう」としょうした。

子女しじょ

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ベーラ4せいむすめコンスタンツィアとのあいだ以下いか子女しじょをもうけた。

  • ユーリイ(1252/7ねん - 1308ねん) - だい5だいハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこう、ルーシのおう
  • スヴャトスラヴァ(1302ねんぼつ) - 修道しゅうどうおんな
  • アナスタシア(1335ねんぼつ) - ドブジンこうシェモヴィト(クヤヴィこうカジミェシュ1せい)と結婚けっこん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ ウクライナでは「リヴィウ」(Львів)は「レーヴのまち」という意味いみっている。「レーヴ」はラテン語らてんごの「レーオ」(獅子しし)にあたる。

外部がいぶリンク

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先代せんだい
ヴァスィーリコ
ハールィチ・ヴォルィーニ大公たいこう
1293ねん - 1301ねん
次代じだい
ユーリイ1せい