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テュルク系民族 - Wikipedia コンテンツにスキップ

テュルクけい民族みんぞく

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チュルクけい民族みんぞくから転送てんそう
世界せかいのテュルクけい民族みんぞく分布ぶんぷ青色あおいろ部分ぶぶんはテュルクけい言語げんご公用こうようにしているくにうす青色あおいろ部分ぶぶんはテュルクけい言語げんご公用こうようにしている自治じち地域ちいき
テュルクけい民族みんぞく分布ぶんぷ

テュルクけい民族みんぞく(テュルクけいみんぞく、 英語えいご: Turkic peoplesまたはTurksロシア: Тюркиトルコ: Türk halkları)とは、チュルク語族ごぞく言語げんご使用しようする民族みんぞく集団しゅうだんである[1]ユーラシア大陸たいりく中央ちゅうおうななめにつらぬく、ひがしシベリアからトルコ共和きょうわこくにまでおよ乾燥かんそう地域ちいき中心ちゅうしん[2]シベリア中央ちゅうおうアジアおよび西にしアジア東欧とうおうなどにひろ分布ぶんぷする[1]トルコけいしょ民族みんぞくテュルクけいしょぞくなどとも[1]

呼称こしょう表記ひょうき[編集へんしゅう]

英語えいごでは、狭義きょうぎのテュルク / トルコとうべきいち民族みんぞくTurkishび、広義こうぎのテュルク / トルコであるテュルクけいしょ民族みんぞく全体ぜんたいTurkicんで区別くべつしており、ロシアなどのいくつかの言語げんごでも類似るいじ区別くべつがある。

これにならい、日本語にほんごでも狭義きょうぎのトルコに「トルコ」、広義こうぎのトルコに「テュルク」をあてて区別くべつする用法ようほうがあり、ここでもこれにならう。

おなじく漢字かんじ使用しようする台湾たいわん中国ちゅうごくなど中国ちゅうごくけんでは、狭義きょうぎのトルコを「みみ其」(トルコ)、広義こうぎのトルコを「突厥」(とっけつ)とんでいる。

歴史れきし学者がくしゃ森安もりやす孝夫たかおは、近年きんねん日本にっぽん歴史れきし学界がっかいにおいて「テュルク」「チュルク」という表記ひょうきがよくられるとしながらも「トルコ民族みんぞく」という表記ひょうきをしたうえで、その定義ていぎを「とうだいから現代げんだいにいたる歴史れきしてき言語げんごてき状況じょうきょう勘案かんあんして、方言ほうげんはあっても非常ひじょう近似きんじしているトルコけい言語げんごはなしていたにちがいないとおもわれる突厥てつかい紇、かずら邏禄、抜悉みつすな陀族などをいちくくりにした呼称こしょう」としている[3]

人種じんしゅまとには東部とうぶでモンゴロイド、西部せいぶでコーカソイドと東西とうざいおおきくことなるが[4]人種じんしゅ関係かんけいなくテュルク諸語しょご母語ぼごとする民族みんぞく一括いっかつしてテュルクけい民族みんぞく定義ていぎされる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

起源きげん[編集へんしゅう]

テュルクけい民族みんぞく原郷はらごうについての定説ていせつがないが、ウラル山脈さんみゃく以東いとう草原そうげん地帯ちたいもとめるせつ有力ゆうりょくである[5]モンゴルけい民族みんぞく近接きんせつしていた。人種じんしゅてきにはおなじくモンゴロイドかんがえられている(プロト・テュルクトルコばん[5][6]とうだいまではほとんどが黒髪くろかみちょく黒目くろめだった。

しかしとうだいわりころひがしウイグルあせこく崩壊ほうかいしテュルクけい民族みんぞくモンゴリアアルタイ地方ちほうから移動いどうして天山あまやま山脈さんみゃくからタリム盆地ぼんち全体ぜんたい支配しはいした。その結果けっか先住せんじゅうコーカソイドのインド=ヨーロッパ語族ごぞくなんせいだいにはテュルクし、テュルクけい言語げんご話者わしゃとなった[4]

ただし、言語げんごじょう、エスニシティじょう関連かんれんせいについて、かくたる証拠しょうことなるような記録きろく十分じゅうぶんのこされているとはがた[7]言語げんごがくもの仮説かせつによれば、ぜん3000~まえ500ねんごろにはテュルク祖語そごはなされていたというが、直接的ちょくせつてき証拠しょうこなにのこされていない[7]

現代げんだいのテュルクぞく匈奴きょうどフンぞく自分じぶんたちの先祖せんぞだとかんがえている(ただし学説がくせつ確立かくりつしていない)[8]

ちょうれい(ていれい)[編集へんしゅう]

ちょうれいあるいは「ひのとれい」としるされる民族みんぞく匈奴きょうどどう時代じだいモンゴル高原こうげん北方ほっぽうバイカルあたりからカザフステップ居住きょじゅうしていた遊牧民ゆうぼくみんであり、これも「テュルク」の転写てんしゃかんがえられている[9][10]

ちょうれい匈奴きょうどつよもりとなれば服属ふくぞくし、匈奴きょうどおとろえをせれば離反りはんかえしていた。やがて匈奴きょうど南北なんぼく分裂ぶんれつしてモンゴル高原こうげん支配しはいけんうしなうと、ひがし鮮卑がモンゴル高原こうげん侵攻しんこうして高原こうげん支配しはいけんにぎったが、これにたいしてもちょうれいはその趨勢すうせいおうじて叛服はんぷくかえしていた。

えびすじゅうろくこく時代じだい、鮮卑の衰退すいたいはモンゴル高原こうげん進出しんしゅつし、一部いちぶひのとれいにん中国ちゅうごく移住いじゅうして翟魏てた。

[11][12][13]

こうしゃ(こうしゃ)[編集へんしゅう]

モンゴル高原こうげん進出しんしゅつしたひのとれいにん南北なんぼくあさ時代じだい中国人ちゅうごくじんつぶせばつ政権せいけん)から「こうしゃ」とばれるようになる。

これはかれらが移動いどう使つかった車両しゃりょう車輪しゃりん高大こうだいであったためとされる[14]はじめはモンゴル高原こうげんをめぐってつぶせばつだいくにきたたかしあらそっていたが、次第しだい台頭たいとうしてきたやわしか強大きょうだいになったため、それに従属じゅうぞくするようになった。487ねんこうしゃふくふくおもねふくいたりやわしか支配しはいからだっし、独立どくりつたす(おもねふくいたりこく)。

おもねふくいたりこくやわしかエフタルあらそったが、6世紀せいきやわしかやぶれて滅亡めつぼうした。

[15][16][12][17]

突厥(とっけつ)・てつ勒(てつろく)[編集へんしゅう]

7世紀せいき東西とうざい突厥。Western Gokturk Khaganate=西にし突厥、Eastern Gokturk Khaganate=ひがし突厥、Chinese Empire (Sui Dynasty)=ずい、Tuyuhun=吐谷渾、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーンあさ

中央ちゅうおうユーラシア東部とうぶ覇者はしゃであったやわしかあせこくはその鍛鉄たんてつ奴隷どれいであった「突厥」によってほろぼされる(555ねん)。突厥はやわしか旧領きゅうりょうをもしの領土りょうど支配しはいし、中央ちゅうおうユーラシアをほぼ支配しはいにおいた。

そのためひがしマ帝国まていこく史料しりょう[18]にも「テュルク」としてしるされ、その存在そんざい東西とうざい歴史れきししるされることとなる。

また、突厥はみずからの言語げんご(テュルク)をみずからの文字もじ突厥文字もじ)でしるしているので[19]古代こだいテュルクがいかなるものであったかをることができる。

突厥は582ねん東西とうざい分裂ぶんれつし、8世紀せいきにはりょう突厥が滅亡めつぼうした。

[20][21]

一方いっぽうで突厥とどう時代じだいに突厥以外いがいのテュルクけい民族みんぞくは「てつ勒」としるされ、中央ちゅうおうユーラシア各地かくち分布ぶんぷしており、中国ちゅうごく史書ししょからは「最多さいた民族みんぞく」としるされた。てつ勒は突厥あせこく重要じゅうよう構成こうせい民族みんぞくであったが、突厥が衰退すいたいすれば独立どくりつし、突厥がかえせば服属ふくぞくするということをかえしていた。

やがててつ勒はきゅうせい(トクズ・オグズ)とばれ、そのなかからかい紇(ウイグル)が台頭たいとうし、かずら邏禄(カルルク)、抜悉みつバシュミル)といったテュルクけい民族みんぞくとともにひがし突厥だいあせこくほろぼした。

[22][20][23]

突厥の滅亡めつぼう[編集へんしゅう]

中央ちゅうおうユーラシア全域ぜんいき支配しはいしたテュルク帝国ていこく(突厥)であったが、りょう突厥の滅亡めつぼう中央ちゅうおうユーラシア各地かくちひろまったテュルクけい民族みんぞくがそれぞれのくにて、細分さいぶんしていった。

モンゴル高原こうげんではひがし突厥をほろぼしたかい紇(ウイグル)がかいあせこくて、中国ちゅうごくとう王朝おうちょう友好ゆうこう関係かんけいとなってシルクロード交易こうえき繁栄はんえいしたが、内紛ないふん頻発ひんぱつして黠戛斯(キルギス)の侵入しんにゅうまねき、840ねん崩壊ほうかいした。

そののウイグルはあましゅうウイグル王国おうこく天山あまやまウイグル王国おうこくてて西域せいいきにおける定住ていじゅうがたテュルクじん現代げんだいウイグルじん)のとなり、タリム盆地ぼんちのテュルク促進そくしんした。[24][25][26]

中央ちゅうおうアジアではカルルク、突騎ほどこせ(テュルギシュ)、キメクオグズといったしょぞく割拠かっきょしていたが、10世紀せいきサーマーンあさ影響えいきょうけてイスラームすすみ、テュルクけい民族みんぞくはつのイスラームきょうこくとなるカラハンあさ誕生たんじょうする。

カスピ海かすぴかい以西いせいではブルガールハザールペチェネグ割拠かっきょしており、みなみルーシの草原そうげん興亡こうぼうひろげていた。

11世紀せいきになるとキメクの構成こうせい部族ぶぞくであったキプチャク(クマンじん、ポロヴェツ)がみなみルーシに侵入しんにゅうし、モンゴルの侵入しんにゅうまで勢力せいりょくたもつ。

[27][28]

テュルクのイスラーム[編集へんしゅう]

テュルクけい国家こっかもっとはやくイスラームを受容じゅようしたのはカラハンあさであるが、オグズからかれたセルジュークひきいる一派いっぱはやくからイスラームに改宗かいしゅうし、サーマーンあさ庇護ひごけた。

かれらはやがてトゥルクマーン(イスラームに改宗かいしゅうしたオグズ)とばれ、中央ちゅうおうアジア各地かくち略奪りゃくだつをはたらき、土地とち荒廃こうはいさせていったが、セルジュークトゥグリル・ベグによって統率とうそつされるようになると、1040ねんガズナあさ潰滅かいめつさせ、ホラーサーン支配しはいけんにぎる。

1055ねん、トゥグリル・ベクはバグダード入城にゅうじょうし、アッバースあさカリフから正式せいしきスルターン称号しょうごう授与じゅよされるとスンナ擁護ようごしゃとしての地位ちい確立かくりつする。

このセルジュークあさ中央ちゅうおうアジアから西にしアジアアナトリア半島はんとうにいたる広大こうだい領土りょうど支配しはいしたために、テュルクけいムスリムがこれらの地域ちいきひろ分布ぶんぷすることとなった。

また、イスラーム世界せかいにおいて奴隷どれいとしてのテュルク(マムルーク)は重要じゅうよう存在そんざいであり、イスラーム勢力せいりょく聖戦せいせんジハード)によってたテュルクじん捕虜ほりょ戦闘せんとうりょくすぐれているということでサーマーンあさなどで重宝ちょうほうされ、ときにはマムルーク自身じしん王朝おうちょうホラズム・シャーあさ、ガズナあさマムルークあさ奴隷どれい王朝おうちょうなど)が各地かくちてられることもあった。

こうしたなかで「テュルク・イスラーム文化ぶんか」というものが開花かいかし、数々かずかずのイスラーム書籍しょせきがテュルクによってかれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界せかいにおけるテュルク位置いちアラビアペルシアぐものとなり、テュルクじんはその主要しゅよう民族みんぞくとなった。

[29]

西域せいいき(トルファン、タリム盆地ぼんち、ジュンガル盆地ぼんち)のテュルク[編集へんしゅう]

840ねんにウイグルあせこく崩壊ほうかいすると、その一部いちぶ天山あまやま山脈さんみゃく山中さんちゅうのユルドゥズ地方ちほう広大こうだい牧草ぼくそう確保かくほしてこれを本拠地ほんきょちとし、天山あまやまウイグル王国おうこく形成けいせいした。天山あまやまウイグル王国おうこくタリム盆地ぼんちトルファン盆地ぼんちジュンガル盆地ぼんちひがし半分はんぶん占領せんりょうし、マニきょう仏教ぶっきょうけいきょうネストリウスキリスト教きりすときょう)を信仰しんこうした。

一方いっぽうひがしトルキスタンの西にし半分はんぶんはイスラームを受容じゅようしたカラハンあさ領土りょうどとなったため、カシュガル中心ちゅうしんホータンクチャもイスラームけんとなる。

これら2こくによって西域せいいきはテュルクすすみ、古代こだいからしるしおうけい言語げんご北東ほくとうイラントカラ)であったオアシス住民じゅうみんも11世紀せいき後半こうはんにはテュルクした。

[30]

中央ちゅうおうアジア草原そうげん地帯ちたい西にしトルキスタンのテュルク[編集へんしゅう]

13世紀せいき前半ぜんはん世界せかい

中央ちゅうおうアジアの草原そうげん地帯ちたいにはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西にし突厥けいしょぞく割拠かっきょしており、オアシス地帯ちたいではイランけいてい住民じゅうみんがすでにイスラームきょう信仰しんこうしていた。草原そうげん地域ちいきでは、イランけい遊牧民ゆうぼくみん急速きゅうそくにテュルクした。

一方いっぽうのオアシス地帯ちたいでは、口語こうごは12世紀せいきごろまでにおおむねテュルクしたものの、行政ぎょうせい文書ぶんしょ司法しほう文書ぶんしょなどにはもっぱらアラビア文字もじによる文書ぶんしょ(ペルシャなど)がもちいられ、継続けいぞくせい必要ひつようとされる特性とくせいじょうテュルクへの置換ちかんはゆっくりとしたものであった。

言語げんご話者わしゃがテュルク変更へんこうするにはテュルクでイスラームきょう布教ふきょうするのがもっと効果こうかてきなのであるが、西にしトルキスタンではてい住民じゅうみんがすでにムスリム(イスラーム教徒きょうと)であったため、あるいは遊牧民ゆうぼくみん定住ていじゅうみんじゅうけが明確めいかくになされていたため、人口じんこうおおかったためにひがしトルキスタンほど急速きゅうそくにテュルクきなかった。

西にしトルキスタンにける最終さいしゅうてきなテュルクは、ホラズム・シャーあさカラキタイティムールあさシャイバーニーあさといった王朝おうちょうしたでゆっくりと進行しんこうした。

[31][32]

モンゴル帝国ていこく拡大かくだい[編集へんしゅう]

チンギス・カン在世ざいせいちゅうしょ遠征えんせいとモンゴル帝国ていこく拡大かくだい

古代こだいからモンゴル高原こうげんにはえず統一とういつ遊牧ゆうぼく国家こっか存在そんざいしてきたが、840ねんのウイグルあせこくかい鶻)の崩壊ほうかいは360ねん長期ちょうきにわたって統一とういつ政権せいけん存在そんざいしない空白くうはく時代じだいつづいた。これはゴビみなみばくみなみ)を支配しはいしたりょうちぎり)やきむおんなしん)といった王朝おうちょうが、たくみに干渉かんしょうしてばくきた強力きょうりょく遊牧ゆうぼく政権せいけん出現しゅつげんしないよう、政治せいじ工作こうさくをしていたためであった。

当時とうじ、モンゴル高原こうげんにはケレイトナイマンメルキトモンゴルタタルオングトコンギラトといったテュルク・モンゴルけいしょ部族ぶぞく割拠かっきょしていたが、13世紀せいき初頭しょとうにモンゴル出身しゅっしんのテムジンがそのしょ部族ぶぞく統一とういつしてあらたな政治せいじ集団しゅうだん結成けっせいし、チンギス・カン在位ざいい: 1206ねん - 1227ねん)としてだいモンゴル・ウルス(モンゴル帝国ていこく)を建国けんこくした。

チンギス・カンはさらに周辺しゅうへんしょ民族みんぞく国家こっか侵攻しんこうし、きたバルグトオイラトキルギス西にしタングート西にしなつ)、天山あまやまウイグル王国おうこく、カルルク、カラキタイ(西にしりょう)、ホラズム・シャーあさをその支配しはいき、短期間たんきかんのうちにだい帝国ていこくをきずきあげた。

チンギス・カンののちいだオゴデイ・カアン在位ざいい: 1229ねん - 1241ねん)もみなみかねあさほろぼしてきた中国ちゅうごく占領せんりょうし、せい西にしぐん派遣はけんしてカスピ海かすぴかい以西いせいのキプチャク、ヴォルガ・ブルガール、ルーシしょ公国こうこく支配しはいいてヨーロッパ諸国しょこくにも侵攻しんこうした。

こうしてユーラシア大陸たいりくおおくすほどのだい帝国ていこくとなったモンゴルであったが、だい4だいモンケ・カアン在位ざいい: 1251ねん - 1259ねん)の死後しご後継こうけいあらそいがきたため、帝国ていこくは4つのくに分裂ぶんれつしてしまう。

[33]

モンゴルの支配しはい[編集へんしゅう]

この史上しじょう最大さいだい帝国ていこく吸収きゅうしゅうされたテュルクけいしょ民族みんぞくであったが、支配しはいそうのモンゴルじんくらべてその人口じんこう圧倒的あっとうてき多数たすうであったため、また文化ぶんかてきにテュルク普及ふきゅうしていたため、テュルクのモンゴルはあまりきなかった。

むしろイスラームけん領地りょうちったチャガタイ・ウルスフレグ・ウルスジョチ・ウルスではイスラームに改宗かいしゅうするとともにテュルクはなすモンゴルじんあらわれた。

こうしてモンゴルしょ王朝おうちょうのテュルク・イスラームすすんだために、モンゴルしょ王朝おうちょう解体かいたいはテュルクけい国家こっか次々つぎつぎ建設けんせつされることとなった。

[33]

チャガタイりょうのテュルク[編集へんしゅう]

チンギス政権せいけん以来いらい天山あまやまウイグル王国おうこくはモンゴル帝国ていこく庇護ひごけ、14世紀せいき後半こうはんにいたるまでその王権おうけんたもたれた。

それはウイグルじん高度こうど知識ちしきち、モンゴル帝国ていこく官僚かんりょうとして活躍かつやくしたことや、モンゴルにウイグル文字もじつたえてモンゴル文字もじ基礎きそになったこと、オアシス定住ていじゅうみん統治とうちけていたことがげられる。

モンゴルの内紛ないふんきると天山あまやまウイグル政権せいけんトルファン地域ちいき放棄ほうきしたが、その精神せいしんいだウイグル定住ていじゅうみんたちは現在げんざいウイグルじんとしてつづけている。

一方いっぽう、カラハンあさ以来いらいイスラームけんとなっていたタリム盆地ぼんち西部せいぶ以西いせいにはモンゴル時代じだいにチャガタイ・ウルス(チャガタイあせこく)が形成けいせいされ、天山あまやまウイグルりょう仏教ぶっきょうけんであった東部とうぶもその版図はんととなり、イスラームけんとなる。

やがてチャガタイあせこくパミールさかい東西とうざい分裂ぶんれつするが、この要因よういんひとつにモンゴルじんのテュルクげられる。

マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ)を中心ちゅうしんとする西側にしがわのモンゴルじんはイスラームを受容じゅようしてテュルクはなし、オアシス定住ていじゅうみん生活せいかつんでいった。

かれ自身じしんは「チャガタイ」としょうしたが、モンゴルの伝統でんとうおもんじる東側ひがしがわのモンゴルじんかれらを「カラウナス(混血こんけつ)」とさげすみ、自身じしんを「モグール」としょうした。そのためしばらくひがしトルキスタンは「モグーリスタン」とばれることとなる。

[34]

ティムールあさ[編集へんしゅう]

西にしチャガタイ・ハンこくから台頭たいとうしたティムール西にしトルキスタンとイラン方面ほうめんきゅうフレグ・ウルス)を占領せんりょうし、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響えいきょうれてだい帝国ていこくをきずきあげた。かれ自身じしんがテュルクけいムスリムであったため、また西にしトルキスタンにテュルクじんおおかったため、ティムールあさ武官ぶかんたちはテュルクけいめられていた。

しかし、文官ぶんかんにいたっては知識ちしきじんであるイランけいターズィークじんになっていた。

こうしたことでティムールあさ公用こうようはイランけいであるペルシアと、テュルクけいであるチャガタイ使つかわれ、都市としにおいては言語げんご併用へいよう一般いっぱんした。

[35]

ジョチりょうのテュルク[編集へんしゅう]

キプチャク草原そうげん根拠地こんきょちとしたジョチ・ウルスは比較的ひかくてきはや段階だんかいでイスラームを受容じゅようし、おおくのテュルクけい民族みんぞくかかえていたためにテュルク進展しんてんした。

15世紀せいきになると、カザン・ハンこくアストラハン・ハンこくクリミア・ハンこくシャイバーニーあさカザフ・ハンこくシビル・ハンこくといったテュルクけい王朝おうちょう次々つぎつぎ独立どくりつしたため、ジョチ・ウルスの政治せいじてき統一とういつ完全かんぜんうしなわれた。

[36]

ウズベクとカザフ[編集へんしゅう]

現在げんざい中央ちゅうおうアジアのテュルクけい民族みんぞく上位じょういめるのがウズベクじんカザフじんである。

これらの祖先そせんはジョチ・ウルス東部とうぶから独立どくりつしたシバンアブル=ハイル・ハン在位ざいい1426ねん - 1468ねん)にひきいられた集団しゅうだんであった。

かれらはウズベクばれ、キプチャク草原そうげん東部とうぶ統一とういつシルがわちゅう流域りゅういき根拠地こんきょちうつしたが、ジャニベク・ハンケレイ・ハンがアブル=ハイル・ハンにそむいてモグーリスタン辺境へんきょう移住いじゅうしたため、ウズベクは2つに分離ぶんりすることとなり、前者ぜんしゃをウズベク、後者こうしゃをウズベク・カザフもしくはカザフんで区別くべつするようになった。

アブル=ハイル・ハンの没後ぼつご、ウズベク集団しゅうだん分裂ぶんれつし、そのおおくはさき分離ぶんりしていたカザフ集団しゅうだん合流ごうりゅうした。勢力せいりょくしたカザフはキプチャク草原そうげん遊牧民ゆうぼくみんをも吸収きゅうしゅうし、強力きょうりょく遊牧ゆうぼく国家こっかであるカザフ・ハンこく形成けいせいした。

やがてウズベクの集団しゅうだんムハンマド・シャイバーニー・ハンのもとでさい統合とうごうし、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといったかく地域ちいき占領せんりょうしてシャイバーニーあさばれる王朝おうちょうきずいた。

[37]

3ハンこく[編集へんしゅう]

1599ねんにシャイバーニーあさ滅亡めつぼうしたのち、マー・ワラー・アンナフルの政権せいけんジャーンあさ(アストラハンあさ)に移行いこうした。

ジャーンあさ1756ねんマンギトあさによってほろぼされるが、シャイバーニーあさからマンギトあさいたるまでの首都しゅとブハラかれたため、この3王朝おうちょうをあわせてブハラ・ハンこくぶ(ただしマンギトあさはハンかず、アミールしょうしたのでブハラ・アミールこくともばれる)。また、ホラズム地方ちほうウルゲンチ拠点きょてんとした政権せいけん(これもシャイバーニーあさ)は17世紀せいきすえヒヴァ遷都せんとしたため、つぎイナクあさ1804ねん - 1920ねん)とともにヒヴァ・ハンこくばれる。そして、18世紀せいきにウズベクのミング部族ぶぞくによってフェルガナ地方ちほうてられた政権せいけんコーカンド首都しゅととしたため、コーカンド・ハンこくばれる。

これらウズベクじんによって西にしトルキスタンにてられた3つの国家こっかを3ハンこくしょうする。

[38]

ロシアの征服せいふく[編集へんしゅう]

13世紀せいきはじまるモンゴルじんのルーシ征服せいふくはロシアがわから「タタールのくびき (татарское иго)」とばれ、ロシアじんにとっては屈辱くつじょくてき時代じだいであった。しかし、モスクワ大公たいこうイヴァン4せい在位ざいい: 1533ねん - 1584ねん)によってカザン・ハンこくアストラハン・ハンこくといったジョチ・ウルスけい国家こっかほろぼされると、「タタールのくびき」はかれ、ロシアの中央ちゅうおうユーラシア征服せいふくはじまる。

このときロシアにったテュルクけいムスリムはロシアがわから「タタールじん」とばれていたが、異教徒いきょうとであるかれらはロシアの抑圧よくあつ同化どうか政策せいさくくるしめられ、カザフ草原そうげんトルキスタン移住いじゅうするものあらわれた。

16世紀せいきすえになってロシア・ツァーリこくシベリアシビル・ハンこくほろぼし、カザフ草原そうげんよりきた森林地帯しんりんちたい開拓かいたくしていった。

おなごろ、カザフ草原そうげんカザフ・ハンこくだいジュズ、ちゅうジュズ、しょうジュズとばれる3つの部族ぶぞく連合体れんごうたいかれていたが、つねひがしのモンゴルけい遊牧ゆうぼく集団しゅうだんジュンガル脅威きょういにさらされていた。

1730ねん、その脅威きょういだっするべくしょうジュズのアブル=ハイル・ハン在位ざいい: 1716ねん - 1748ねん)がロシア帝国ていこく服属ふくぞく表明ひょうめいし、ちゅうジュズ、だいジュズもこれにならって服属ふくぞく表明ひょうめいした。

19世紀せいきなかば、バルカン半島ばるかんはんとうから中央ちゅうおうアジアおよ広大こうだい地域ちいき舞台ぶたいに、だいえい帝国ていこくイギリス)とロシア帝国ていこくとの「グレート・ゲーム」が展開てんかいされていた。

ロシア帝国ていこくはイギリスよりもさきにトルキスタンをれるべく、1867ねんコーカンド・ハンこくほろぼし、1868ねんブハラ・ハンこくを、1873ねんヒヴァ・ハンこく保護ほごき、1881ねん遊牧ゆうぼく集団しゅうだんトルクメン虐殺ぎゃくさつして西にしトルキスタン支配しはいれた。

[39]

アナトリア半島はんとうのテュルク[編集へんしゅう]

1300ねんのアナトリアにおけるテュルクけいしょ勢力せいりょく

現在げんざいもっと有名ゆうめいなテュルクけい国家こっかであるトルコ共和きょうわこくアナトリア半島はんとう存在そんざいするが、テュルクじんからもっとはなれた位置いちにあるにもかかわらず、テュルクけい最大さいだい民族みんぞくであるトルコじんんでいる。

これは歴史れきしじょういくにもわたってテュルクじんがこの侵入しんにゅうし、移住いじゅうしてきたためである。それまでのアナトリア半島はんとうにはひがしマ帝国まていこく存在そんざいし、主要しゅよう言語げんごギリシアであった。

アナトリアへ最初さいしょ侵入しんにゅうしてきたのはセルジュークあさであり、セルジュークあさによってひがしマ帝国まていこく駆逐くちくされると、そのにセルジューク王権おうけん強化きょうかこのまないトゥルクマーンなどが流入りゅうにゅうしてきたため、アナトリアのテュルクはじまった。

そのはセルジュークあさ後継こうけい国家こっかであるルーム・セルジュークあさがアナトリアに成立せいりつし、モンゴルの襲来しゅうらいおおくのトゥルクマーンが中央ちゅうおうアジアからのがれてきたので、アナトリアのテュルク・イスラーム一層いっそうすすんだ。

14世紀せいきにはオスマン帝国ていこくがアナトリアを中心ちゅうしん拡大かくだいし、最盛さいせいには古代こだいマ帝国まていこくおもわせるほどのだい帝国ていこくへと発展はってんしたが、18世紀せいき以降いこう、オスマン帝国ていこく衰退すいたい一途いっとをたどり、広大こうだい領地りょうち次第しだい縮小しゅくしょうしてアナトリア半島はんとうのみとなり、だいいち世界せかい大戦たいせんトルコ革命かくめいによって1922ねん滅亡めつぼうし、よく1923ねんにトルコ共和きょうわこく成立せいりつする。

[40]

テュルクの独立どくりつ[編集へんしゅう]

ロシア領内りょうないのテュルクじんあいだでは、19世紀せいきすえからムスリム民族みんぞくてき覚醒かくせいうなが運動うんどうこり、オスマン帝国ていこくふくめてテュルクじん幅広はばひろ連帯れんたい目指めざひろしテュルク主義しゅぎひろしトルコ主義しゅぎ)がまれた。

しかし、ロシア革命かくめい成功せいこうすると、きゅうロシア帝国ていこく領内りょうないむテュルクけいしょ民族みんぞく個々ここ共和きょうわこく民族みんぞく自治じち細分さいぶんされるにいたった。一方いっぽうトルコ革命かくめいきゅうオスマン帝国ていこくであるアナトリアにむトルコじんだけのための国民こくみん国家こっかであるトルコ共和きょうわこく誕生たんじょうさせた結果けっかひろしテュルク主義しゅぎ否定ひていされるかたちとなった。

1991ねんソビエト連邦れんぽう崩壊ほうかいきゅうソ連それんから5つのテュルクけい民族みんぞく共和きょうわこくアゼルバイジャン共和きょうわこくウズベキスタン共和きょうわこくカザフスタン共和きょうわこくキルギストルクメニスタン)が独立どくりつ

これら諸共もろとも和国わこくタタールじんなどのロシア領内りょうないのテュルクけいしょ民族みんぞくと、トルコ共和きょうわこくのトルコじんたちとのあいだで、ひろしテュルク主義しゅぎさい台頭たいとうともみなしうるあらたな協力きょうりょく関係かんけい構築こうちくされつつある。

[41]

歴史れきしてきなテュルクけい民族みんぞくおよび政権せいけん[編集へんしゅう]

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イスラームのテュルクけい国家こっか[編集へんしゅう]

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モンゴル帝国ていこく解体かいたいまれたおもなテュルク=モンゴルけい国家こっか[編集へんしゅう]

チャガタイ・ウルスけい
ジョチ・ウルスけい
フレグ・ウルス(イルハンあさけい

[45]

現代げんだいのテュルクけいしょ民族みんぞく[編集へんしゅう]

[46]

主権しゅけん国家こっか[編集へんしゅう]

連邦れんぽう構成こうせいこく民族みんぞく自治じち[編集へんしゅう]

そのおもなテュルクけい民族みんぞくとその居住きょじゅう[編集へんしゅう]

遺伝子いでんし[編集へんしゅう]

テュルクけい民族みんぞくには、おなアルタイけいであるモンゴルけい民族みんぞくツングースけい民族みんぞくこう頻度ひんどC2系統けいとうは、カザフ(66.7%[47])をのぞきそれほどこう頻度ひんどではない。広範囲こうはんいられるタイプとしては印欧語いんおうごけいインド・イランじんスラブじんおおR1a系統けいとうキルギスじんに63.5%[47]みなみアルタイじんに53.1%[48]などで観察かんさつされる。またヤクートウラルけい民族みんぞく関連かんれんするN系統けいとうが88%のこう頻度ひんどられる[49]。11世紀せいきにトルコぞく進入しんにゅうしたアナトリアでは在来ざいらいJ系統けいとうひとしこう頻度ひんどである[50]

テュルクけい民族みんぞく明確めいかく遺伝子いでんし単一たんいつせいみとめられないことから、テュルクけい民族みんぞく拡散かくさん話者わしゃ移動いどうよりも言語げんご置換ちかん中心ちゅうしんであったことが示唆しさされている[51]。また、調査ちょうさされたほとんどのテュルクけい民族みんぞく遺伝いでんてき近隣きんりん地域ちいき住民じゅうみんていることから、インド・ヨーロッパ語族ごぞくのような少数しょうすう上位じょうい階級かいきゅうによる支配しはい示唆しさされている[51]。しかし、西部せいぶのテュルクけい民族みんぞくも、現在げんざいみなみシベリアとモンゴル地域ちいきのテュルクけい民族みんぞく同一どういつの「非常ひじょうなが染色せんしょくたい領域りょういき」を共有きょうゆうしている[51]

キルギスじんカザフじんウズベクじんトルクメンじんアルタイじんなど中央ちゅうおうアジアのテュルクけい民族みんぞくは、モンゴロイドコーカソイドこん合体がったいである[52]西端せいたんのトルコじんのはコーカソイド、東端ひがしばたのヤクートはモンゴロイドとされるが、それぞれモンゴロイドとコーカソイドの遺伝子いでんしわずかにふくんでいる[52]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c トルコけいしょぞくコトバンク
  2. ^ 松原まつばら正毅まさき「テュルクけいしょ民族みんぞく小松こまつ久雄ひさお梅村うめむらひろし宇山うやま智彦ともひこ帯谷おびやとも堀川ほりかわとおるへん中央ちゅうおうユーラシアを事典じてん平凡社へいぼんしゃ、2005ねん4がつ11にち 初版しょはんだい1さつ発行はっこうISBN 4-582-12636-7、365ぺーじ
  3. ^ 森安もりやす孝夫たかお興亡こうぼう世界せかい05 シルクロードとから帝国ていこく講談社こうだんしゃ、2007ねん2がつ16にち 初版しょはん発行はっこうISBN 978-4-06-280705-0、30ぺーじ
  4. ^ a b 森安もりやす孝夫たかお興亡こうぼう世界せかい05 シルクロードとから帝国ていこく講談社こうだんしゃ、2007ねん2がつ16にち 初版しょはん発行はっこうISBN 978-4-06-280705-0、31-32ぺーじ
  5. ^ a b 廣瀬ひろせ哲也てつや『テュルクぞく世界せかい シベリアからイスタンブールまで〈ユーラシア・ブックレット No. 114〉』東洋とうよう書店しょてん、2007ねん10がつ20日はつかだい1さつ発行はっこうISBN 978-4-88595-726-0、5ぺーじ
  6. ^ 坂本さかもとつとむ『トルコ民族みんぞく世界せかい慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく出版しゅっぱんかい、2006ねん5がつ8にち 初版しょはんだい1さつ発行はっこうISBN 4-7664-1278-8、18ぺーじ
  7. ^ a b カーター・V・フィンドリーちょ小松こまつ久男ひさお監訳かんやく佐々木ささきしんやく『テュルクの歴史れきし 古代こだいからきん現代げんだいまで』明石書店あかししょてん、2017ねん8がつ15にち 初版しょはんだい1さつ発行はっこうISBN 978-4-7503-4469-0、47ぺーじ
  8. ^ 廣瀬ひろせ (2007)、6ぺーじ
  9. ^ a b 内田うちだぎんふう訳注やくちゅう「蠕蠕・芮芮でん (しょそうしょみなみひとししょはりしょ)」内田うちだぎんふう田村たむらみのるづくり訳注やくちゅう騎馬きば民族みんぞく 1 正史せいし北狄ほくてきでん東洋文庫とうようぶんこ 197〉』平凡社へいぼんしゃ、1971ねん10がつ25にち 初版しょはんだい1さつ発行はっこう、220ぺーじ ちゅう8、252ぺーじ ちゅう3、257ぺーじ ちゅう9。
  10. ^ 小松こまつ久雄ひさおへん中央ちゅうおうユーラシア 新版しんぱん世界せかい各国かっこく 4』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、2000ねん10がつ30にち 1はん1さつ発行はっこうISBN 4-634-41340-X、55ぺーじ
  11. ^ 史記しき』(匈奴きょうど列伝れつでん)、『三国志さんごくし』(烏丸からすま鮮卑東夷あずまえびすでん 裴注『りゃく西戎せいじゅうでん)、『すすむしょ』(だいじゅうさんだいじゅうよんだいじゅうさん)、『しょ』(列伝れつでんだいはちじゅうさん)、『どおりかん』(まきだいきゅうじゅうよんまきだいいちひゃくさんまきだいいちひゃくまきだいいちひゃくろくまきだいいちひゃくななまきだいいちひゃくはち
  12. ^ a b はやし俊夫としおこうしゃ」、小松こまつ (2005)、195ぺーじ
  13. ^ 小松こまつ久雄ひさお編著へんちょ『テュルクをるための61しょう明石書店あかししょてん、2016ねん8がつ20日はつか 初版しょはんだい1さつ発行はっこうISBN 978-4-7503-4396-9、184~188ぺーじ
  14. ^ しょ列伝れつでんだいきゅうじゅういちただ車輪しゃりん高大こうだいすういたり。」、『きた列伝れつでんだいはちじゅうろくただ車輪しゃりん高大こうだいすういたり。」
  15. ^ すすむしょ』(だいじゅうさんだいじゅうよんだいじゅうさん)、『しょ』(列伝れつでんだいはちじゅうさん
  16. ^ 小松こまつ (2000)、55ぺーじ
  17. ^ 小松こまつ (2016)、184~188ぺーじ
  18. ^ テオフィラクト・シモカッタ (Theophylact Simocatta) 『歴史れきし[ようページ番号ばんごう]
  19. ^ 突厥碑文ひぶん
  20. ^ a b 小松こまつ (2000)、63~70ぺーじ
  21. ^ 小松こまつ (2016)、189~198ぺーじ
  22. ^ 内田うちだぎんふう訳注やくちゅう匈奴きょうどでん (史記しき漢書かんしょ)」『騎馬きば民族みんぞく 1 正史せいし北狄ほくてきでん東洋文庫とうようぶんこ 197〉』 (1971)、3ぺーじ
  23. ^ はやし俊夫としお「突厥」、小松こまつ (2005)、383~384ぺーじ
  24. ^ 森安もりやす孝夫たかお『シルクロードとから帝国ていこく講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ 2351〉』講談社こうだんしゃ、2016ねん3がつ10日とおか だい1さつ発行はっこうp277-344
  25. ^ 小松こまつ (2016)、199~203ぺーじ
  26. ^ 小松こまつ (2005ねん) 71~76ぺーじ
  27. ^ まもる雅夫まさお岡田おかだ英弘ひでひろへん中央ちゅうおうユーラシアの世界せかい 民族みんぞく世界せかい4』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1990ねん6がつ25にち いちはんいちさつ発行はっこうISBN 4-634-44040-7、170~173ぺーじ
  28. ^ 小松こまつ (2000)、77~82ぺーじ
  29. ^ 小松こまつ (2000)、164~168ぺーじ
  30. ^ 小松こまつ (2000)、132~142、169ぺーじ
  31. ^ 小松こまつ (2000)、170~173ぺーじ
  32. ^ 小松こまつ (2016)、207~210ぺーじ
  33. ^ a b 小松こまつ (2000)、175~188ぺーじ
  34. ^ 小松こまつ (2000)、199~201ぺーじ
  35. ^ 小松こまつ (2000)、211~228ぺーじ
  36. ^ 小松こまつ (2016)、240~244ぺーじ
  37. ^ 小松こまつ (2000)、229~239ぺーじ
  38. ^ 小松こまつ (2000)、329~333ぺーじ
  39. ^ 小松こまつ (2000)、333~341ぺーじ
  40. ^ 小松こまつ (2016)、150~153ぺーじ
  41. ^ 小松こまつ (2000)、414~437ぺーじ
  42. ^ レーベヂェフへん除村よけむら吉太郎よしたろうやく『ユーラシア叢書そうしょ30 ロシヤ年代ねんだい』(はら書房しょぼう、1979ねん弘文こうぶんどう、1946年刊ねんかんからの復刻ふっこく)p210-531
  43. ^ まもる (1990)、170~173ぺーじ
  44. ^ 小松こまつ (2000)、143~173ぺーじ
  45. ^ 小松こまつ (2016)、230~240ぺーじ
  46. ^ 小松こまつ (2016)、106~183ぺーじ
  47. ^ a b Wells, Spencer et al. 2001, The Eurasian Heartland: A continental perspective on Y-chromosome diversity
  48. ^ Khar'kov, VN; Stepanov, VA; Medvedeva, OF; Spiridonova, MG; Voevoda, MI; Tadinova, VN; Puzyrev, VP (2007). "Gene pool differences between Northern and Southern Altaians inferred from the data on Y-chromosomal haplogroups". Genetika 43 (5): 675–87. PMID 17633562.
  49. ^ Tambets, Kristiina et al. 2004, The Western and Eastern Roots of the Saami—the Story of Genetic “Outliers” Told by Mitochondrial DNA and Y Chromosomes
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参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]