世界 せかい のテュルク系 けい 民族 みんぞく の分布 ぶんぷ 。濃 こ い青色 あおいろ の部分 ぶぶん はテュルク系 けい 言語 げんご を公用 こうよう 語 ご にしている国 くに 。薄 うす い青色 あおいろ の部分 ぶぶん はテュルク系 けい 言語 げんご を公用 こうよう 語 ご にしている自治 じち 地域 ちいき 。
テュルク系 けい 民族 みんぞく の分布 ぶんぷ 。
テュルク系 けい 民族 みんぞく (テュルクけいみんぞく、 英語 えいご : Turkic peoples またはTurks 、ロシア語 ご : Тюрки 、トルコ語 ご : Türk halkları )とは、チュルク語族 ごぞく の言語 げんご を使用 しよう する民族 みんぞく 集団 しゅうだん である[1] 。ユーラシア大陸 たいりく の中央 ちゅうおう 部 ぶ を斜 なな めに貫 つらぬ く、東 ひがし シベリア からトルコ共和 きょうわ 国 こく にまで及 およ ぶ乾燥 かんそう 地域 ちいき を中心 ちゅうしん に[2] シベリア 、中央 ちゅうおう アジア および西 にし アジア 、東欧 とうおう などに広 ひろ く分布 ぶんぷ する[1] 。トルコ系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく 、テュルク系 けい 諸 しょ 族 ぞく などとも[1] 。
呼称 こしょう ・表記 ひょうき [ 編集 へんしゅう ]
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英語 えいご では、狭義 きょうぎ のテュルク / トルコと言 い うべき一 いち 民族 みんぞく をTurkish と呼 よ び、広義 こうぎ のテュルク / トルコであるテュルク系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく 全体 ぜんたい をTurkic と呼 よ んで区別 くべつ しており、ロシア語 ご など他 た のいくつかの言語 げんご でも類似 るいじ の区別 くべつ がある。
これにならい、日本語 にほんご でも狭義 きょうぎ のトルコに「トルコ」、広義 こうぎ のトルコに「テュルク」をあてて区別 くべつ する用法 ようほう があり、ここでもこれにならう。
同 おな じく漢字 かんじ を使用 しよう する台湾 たいわん 、中国 ちゅうごく など中国 ちゅうごく 語 ご 圏 けん では、狭義 きょうぎ のトルコを「土 ど 耳 みみ 其」(トルコ)、広義 こうぎ のトルコを「突厥 」(とっけつ)と呼 よ んでいる。
歴史 れきし 学者 がくしゃ の森安 もりやす 孝夫 たかお は、近年 きんねん の日本 にっぽん の歴史 れきし 学界 がっかい において「テュルク」「チュルク」という表記 ひょうき がよく見 み られるとしながらも「トルコ民族 みんぞく 」という表記 ひょうき をしたうえで、その定義 ていぎ を「唐 とう 代 だい から現代 げんだい にいたる歴史 れきし 的 てき ・言語 げんご 的 てき 状況 じょうきょう を勘案 かんあん して、方言 ほうげん 差 さ はあっても非常 ひじょう に近似 きんじ しているトルコ系 けい の言語 げんご を話 はな していたに違 ちが いないと思 おも われる突厥 、鉄 てつ 勒 、回 かい 紇、葛 かずら 邏禄、抜悉蜜 みつ 、沙 すな 陀族 などを一 いち 括 くく りにした呼称 こしょう 」としている[3] 。
人種 じんしゅ 的 まと には東部 とうぶ でモンゴロイド、西部 せいぶ でコーカソイドと東西 とうざい で大 おお きく異 こと なるが[4] 、人種 じんしゅ に関係 かんけい なくテュルク諸語 しょご を母語 ぼご とする民族 みんぞく は一括 いっかつ してテュルク系 けい 民族 みんぞく と定義 ていぎ される。
テュルク系 けい 民族 みんぞく の原郷 はらごう についての定説 ていせつ がないが、ウラル山脈 さんみゃく 以東 いとう の草原 そうげん 地帯 ちたい に求 もと める説 せつ が有力 ゆうりょく である[5] 。モンゴル系 けい 民族 みんぞく と近接 きんせつ していた。人種 じんしゅ 的 てき には同 おな じくモンゴロイド と考 かんが えられている(プロト・テュルク (トルコ語 ご 版 ばん ) )[5] [6] 。唐 とう 代 だい まではほとんどが黒髪 くろかみ ・直 ちょく 毛 け ・黒目 くろめ だった。
しかし唐 とう 代 だい の終 お わり頃 ころ 東 ひがし ウイグル可 か 汗 あせ 国 こく が崩壊 ほうかい しテュルク系 けい 民族 みんぞく がモンゴリア ―アルタイ 地方 ちほう から移動 いどう して天山 あまやま 山脈 さんみゃく からタリム盆地 ぼんち 全体 ぜんたい を支配 しはい した。その結果 けっか 、先住 せんじゅう のコーカソイド のインド=ヨーロッパ語族 ごぞく は何 なん 世 せい 代 だい か後 ご にはテュルク 化 か し、テュルク系 けい 言語 げんご の話者 わしゃ となった[4] 。
ただし、言語 げんご 上 じょう 、エスニシティ上 じょう の関連 かんれん 性 せい について、確 かく たる証拠 しょうこ となるような記録 きろく が十分 じゅうぶん 残 のこ されているとは言 い い難 がた い[7] 。言語 げんご 学 がく 者 もの の仮説 かせつ によれば、前 ぜん 3000~前 まえ 500年 ねん ごろにはテュルク祖語 そご が話 はな されていたというが、直接的 ちょくせつてき な証拠 しょうこ は何 なに も残 のこ されていない[7] 。
現代 げんだい のテュルク族 ぞく は匈奴 きょうど やフン族 ぞく が自分 じぶん たちの先祖 せんぞ だと考 かんが えている(ただし学説 がくせつ は確立 かくりつ していない)[8] 。
丁 ちょう 零 れい (ていれい)[ 編集 へんしゅう ]
「丁 ちょう 零 れい 」或 ある いは「丁 ひのと 令 れい 」と記 しる される民族 みんぞく は匈奴 きょうど と同 どう 時代 じだい にモンゴル高原 こうげん の北方 ほっぽう 、バイカル湖 こ あたりからカザフステップ に居住 きょじゅう していた遊牧民 ゆうぼくみん であり、これも「テュルク」の転写 てんしゃ と考 かんが えられている[9] [10] 。
丁 ちょう 零 れい は匈奴 きょうど が強 つよ 盛 もり となれば服属 ふくぞく し、匈奴 きょうど が衰 おとろ えを見 み せれば離反 りはん を繰 く り返 かえ していた。やがて匈奴 きょうど が南北 なんぼく に分裂 ぶんれつ してモンゴル高原 こうげん の支配 しはい 権 けん を失 うしな うと、東 ひがし の鮮卑 がモンゴル高原 こうげん に侵攻 しんこう して高原 こうげん の支配 しはい 権 けん を握 にぎ ったが、これに対 たい しても丁 ちょう 零 れい はその趨勢 すうせい に応 おう じて叛服 はんぷく を繰 く り返 かえ していた。
五 ご 胡 えびす 十 じゅう 六 ろく 国 こく 時代 じだい 、鮮卑の衰退 すいたい 後 ご はモンゴル高原 こうげん に進出 しんしゅつ し、一部 いちぶ の丁 ひのと 零 れい 人 にん は中国 ちゅうごく に移住 いじゅう して翟魏 を建 た てた。
[11] [12] [13]
モンゴル高原 こうげん に進出 しんしゅつ した丁 ひのと 零 れい 人 にん は南北 なんぼく 朝 あさ 時代 じだい に中国人 ちゅうごくじん (拓 つぶせ 跋 ばつ 氏 し 政権 せいけん )から「高 こう 車 しゃ 」と呼 よ ばれるようになる。
これは彼 かれ らが移動 いどう に使 つか った車両 しゃりょう の車輪 しゃりん が高大 こうだい であったためとされる[14] 。初 はじ めはモンゴル高原 こうげん をめぐって拓 つぶせ 跋 ばつ 部 ぶ の代 だい 国 くに や北 きた 魏 たかし と争 あらそ っていたが、次第 しだい に台頭 たいとう してきた柔 やわ 然 しか が強大 きょうだい になったため、それに従属 じゅうぞく するようになった。487年 ねん 、高 こう 車 しゃ 副 ふく 伏 ふく 羅 ら 部 ぶ の阿 おもね 伏 ふく 至 いたり 羅 ら は柔 やわ 然 しか の支配 しはい から脱 だっ し、独立 どくりつ を果 は たす(阿 おもね 伏 ふく 至 いたり 羅 ら 国 こく )。
阿 おもね 伏 ふく 至 いたり 羅 ら 国 こく は柔 やわ 然 しか やエフタル と争 あらそ ったが、6世紀 せいき に柔 やわ 然 しか に敗 やぶ れて滅亡 めつぼう した。
[15] [16] [12] [17]
突厥(とっけつ)・鉄 てつ 勒(てつろく) [ 編集 へんしゅう ]
7世紀 せいき の東西 とうざい 突厥。Western Gokturk Khaganate=西 にし 突厥 、Eastern Gokturk Khaganate=東 ひがし 突厥 、Chinese Empire (Sui Dynasty)=隋 ずい 、Tuyuhun=吐谷渾 、Persian Empire (Sassanid Dynasty)=サーサーン朝 あさ
中央 ちゅうおう ユーラシア東部 とうぶ の覇者 はしゃ であった柔 やわ 然 しか 可 か 汗 あせ 国 こく はその鍛鉄 たんてつ 奴隷 どれい であった「突厥」によって滅 ほろ ぼされる(555年 ねん )。突厥は柔 やわ 然 しか の旧領 きゅうりょう をも凌 しの ぐ領土 りょうど を支配 しはい し、中央 ちゅうおう ユーラシアをほぼ支配 しはい 下 か においた。
そのため東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の史料 しりょう [18] にも「テュルク」として記 しる され、その存在 そんざい が東西 とうざい の歴史 れきし に記 しる されることとなる。
また、突厥は自 みずか らの言語 げんご (テュルク語 ご )を自 みずか らの文字 もじ (突厥文字 もじ )で記 しる しているので[19] 、古代 こだい テュルク語 ご がいかなるものであったかを知 し ることができる。
突厥は582年 ねん に東西 とうざい に分裂 ぶんれつ し、8世紀 せいき には両 りょう 突厥が滅亡 めつぼう した。
[20] [21]
一方 いっぽう で突厥と同 どう 時代 じだい に突厥以外 いがい のテュルク系 けい 民族 みんぞく は「鉄 てつ 勒」と記 しる され、中央 ちゅうおう ユーラシア各地 かくち に分布 ぶんぷ しており、中国 ちゅうごく 史書 ししょ からは「最多 さいた の民族 みんぞく 」と記 しる された。鉄 てつ 勒は突厥可 か 汗 あせ 国 こく の重要 じゅうよう な構成 こうせい 民族 みんぞく であったが、突厥が衰退 すいたい すれば独立 どくりつ し、突厥が盛 も り返 かえ せば服属 ふくぞく するということを繰 く り返 かえ していた。
やがて鉄 てつ 勒は九 きゅう 姓 せい (トクズ・オグズ)と呼 よ ばれ、その中 なか から回 かい 紇(ウイグル )が台頭 たいとう し、葛 かずら 邏禄(カルルク )、抜悉蜜 みつ (バシュミル )といったテュルク系 けい 民族 みんぞく とともに東 ひがし 突厥第 だい 二 に 可 か 汗 あせ 国 こく を滅 ほろ ぼした。
[22] [20] [23]
中央 ちゅうおう ユーラシア全域 ぜんいき を支配 しはい したテュルク帝国 ていこく (突厥)であったが、両 りょう 突厥の滅亡 めつぼう 後 ご は中央 ちゅうおう ユーラシア各地 かくち に広 ひろ まったテュルク系 けい 民族 みんぞく がそれぞれの国 くに を建 た て、細分 さいぶん 化 か していった。
モンゴル高原 こうげん では東 ひがし 突厥を滅 ほろ ぼした回 かい 紇(ウイグル)が回 かい 鶻可 か 汗 あせ 国 こく を建 た て、中国 ちゅうごく の唐 とう 王朝 おうちょう と友好 ゆうこう 関係 かんけい となってシルクロード 交易 こうえき で繁栄 はんえい したが、内紛 ないふん が頻発 ひんぱつ して黠戛斯 (キルギス)の侵入 しんにゅう を招 まね き、840年 ねん に崩壊 ほうかい した。
その後 ご のウイグルは甘 あま 州 しゅう ウイグル王国 おうこく 、天山 あまやま ウイグル王国 おうこく を建 た てて西域 せいいき における定住 ていじゅう 型 がた テュルク人 じん (現代 げんだい ウイグル人 じん )の祖 そ となり、タリム盆地 ぼんち のテュルク化 か を促進 そくしん した。[24] [25] [26]
中央 ちゅうおう アジア ではカルルク、突騎施 ほどこせ (テュルギシュ)、キメク 、オグズ といった諸 しょ 族 ぞく が割拠 かっきょ していたが、10世紀 せいき にサーマーン朝 あさ の影響 えいきょう を受 う けてイスラーム化 か が進 すす み、テュルク系 けい 民族 みんぞく 初 はつ のイスラーム教 きょう 国 こく となるカラハン朝 あさ が誕生 たんじょう する。
カスピ海 かすぴかい 以西 いせい ではブルガール 、ハザール 、ペチェネグ が割拠 かっきょ しており、南 みなみ ルーシの草原 そうげん で興亡 こうぼう を繰 く り広 ひろ げていた。
11世紀 せいき になるとキメクの構成 こうせい 部族 ぶぞく であったキプチャク (クマン人 じん 、ポロヴェツ)が南 みなみ ルーシに侵入 しんにゅう し、モンゴルの侵入 しんにゅう まで勢力 せいりょく を保 たも つ。
[27] [28]
テュルク系 けい 国家 こっか で最 もっと も早 はや くイスラームを受容 じゅよう したのはカラハン朝 あさ であるが、オグズから分 わ かれたセルジューク家 か 率 ひき いる一派 いっぱ も早 はや くからイスラームに改宗 かいしゅう し、サーマーン朝 あさ の庇護 ひご を受 う けた。
彼 かれ らはやがてトゥルクマーン (イスラームに改宗 かいしゅう したオグズ)と呼 よ ばれ、中央 ちゅうおう アジア各地 かくち で略奪 りゃくだつ をはたらき、土地 とち を荒廃 こうはい させていったが、セルジューク家 か のトゥグリル・ベグ によって統率 とうそつ されるようになると、1040年 ねん にガズナ朝 あさ を潰滅 かいめつ させ、ホラーサーン の支配 しはい 権 けん を握 にぎ る。
1055年 ねん 、トゥグリル・ベクはバグダード に入城 にゅうじょう し、アッバース朝 あさ のカリフ から正式 せいしき にスルターン の称号 しょうごう を授与 じゅよ されるとスンナ派 は の擁護 ようご 者 しゃ としての地位 ちい を確立 かくりつ する。
このセルジューク朝 あさ が中央 ちゅうおう アジアから西 にし アジア 、アナトリア半島 はんとう にいたる広大 こうだい な領土 りょうど を支配 しはい したために、テュルク系 けい ムスリム がこれらの地域 ちいき に広 ひろ く分布 ぶんぷ することとなった。
また、イスラーム世界 せかい において奴隷 どれい としてのテュルク(マムルーク )は重要 じゅうよう な存在 そんざい であり、イスラーム勢力 せいりょく が聖戦 せいせん (ジハード )によって得 え たテュルク人 じん 捕虜 ほりょ は戦闘 せんとう 力 りょく に優 すぐ れているということでサーマーン朝 あさ などで重宝 ちょうほう され、時 とき にはマムルーク自身 じしん の王朝 おうちょう (ホラズム・シャー朝 あさ 、ガズナ朝 あさ 、マムルーク朝 あさ 、奴隷 どれい 王朝 おうちょう など)が各地 かくち に建 た てられることもあった。
こうした中 なか で「テュルク・イスラーム文化 ぶんか 」というものが開花 かいか し、数々 かずかず のイスラーム書籍 しょせき がテュルク語 ご によって書 か かれることとなる。こうしたことによってイスラーム世界 せかい におけるテュルク語 ご の位置 いち はアラビア語 ご 、ペルシア語 ご に次 つ ぐものとなり、テュルク人 じん はその主要 しゅよう 民族 みんぞく となった。
[29]
西域 せいいき (トルファン、タリム盆地 ぼんち 、ジュンガル盆地 ぼんち )のテュルク化 か [ 編集 へんしゅう ]
840年 ねん にウイグル可 か 汗 あせ 国 こく が崩壊 ほうかい すると、その一部 いちぶ は天山 あまやま 山脈 さんみゃく 山中 さんちゅう のユルドゥズ地方 ちほう の広大 こうだい な牧草 ぼくそう 地 ち を確保 かくほ してこれを本拠地 ほんきょち とし、天山 あまやま ウイグル王国 おうこく を形成 けいせい した。天山 あまやま ウイグル王国 おうこく はタリム盆地 ぼんち 、トルファン 盆地 ぼんち 、ジュンガル盆地 ぼんち の東 ひがし 半分 はんぶん を占領 せんりょう し、マニ教 きょう 、仏教 ぶっきょう 、景 けい 教 きょう (ネストリウス派 は キリスト教 きりすときょう )を信仰 しんこう した。
一方 いっぽう 、東 ひがし トルキスタンの西 にし 半分 はんぶん はイスラームを受容 じゅよう したカラハン朝 あさ の領土 りょうど となったため、カシュガル を中心 ちゅうしん にホータン やクチャ もイスラーム圏 けん となる。
これら2国 こく によって西域 せいいき はテュルク語 ご 化 か が進 すす み、古代 こだい から印 しるし 欧 おう 系 けい の言語 げんご (北東 ほくとう イラン語 ご 派 は 、トカラ語 ご )であったオアシス住民 じゅうみん も11世紀 せいき 後半 こうはん にはテュルク語 ご 化 か した。
[30]
中央 ちゅうおう アジア草原 そうげん 地帯 ちたい 、西 にし トルキスタンのテュルク化 か [ 編集 へんしゅう ]
13世紀 せいき 前半 ぜんはん の世界 せかい 。
中央 ちゅうおう アジアの草原 そうげん 地帯 ちたい にはカルルク、テュルギシュ、キメク、オグズといった西 にし 突厥系 けい の諸 しょ 族 ぞく が割拠 かっきょ しており、オアシス地帯 ちたい ではイラン系 けい の定 てい 住民 じゅうみん がすでにイスラーム教 きょう を信仰 しんこう していた。草原 そうげん 地域 ちいき では、イラン系 けい 遊牧民 ゆうぼくみん が急速 きゅうそく にテュルク語 ご 化 か した。
一方 いっぽう のオアシス地帯 ちたい では、口語 こうご は12世紀 せいき 頃 ごろ までに概 おおむ ねテュルク語 ご 化 か したものの、行政 ぎょうせい 文書 ぶんしょ や司法 しほう 文書 ぶんしょ などには専 もっぱ らアラビア文字 もじ による文書 ぶんしょ (ペルシャ語 ご など)が用 もち いられ、継続 けいぞく 性 せい が必要 ひつよう とされる特性 とくせい 上 じょう テュルク語 ご への置換 ちかん はゆっくりとしたものであった。
他 た 言語 げんご 話者 わしゃ がテュルク語 ご に変更 へんこう するにはテュルク語 ご でイスラーム教 きょう を布教 ふきょう するのが最 もっと も効果 こうか 的 てき なのであるが、西 にし トルキスタン では定 てい 住民 じゅうみん がすでにムスリム(イスラーム教徒 きょうと )であったため、あるいは遊牧民 ゆうぼくみん と定住 ていじゅう 民 みん の住 じゅう み分 わ けが明確 めいかく になされていたため、人口 じんこう が多 おお かったために東 ひがし トルキスタンほど急速 きゅうそく にテュルク化 か が起 お きなかった。
西 にし トルキスタンに於 お ける最終 さいしゅう 的 てき なテュルク語 ご 化 か は、ホラズム・シャー朝 あさ 、カラキタイ 、ティムール朝 あさ 、シャイバーニー朝 あさ といった王朝 おうちょう の下 した でゆっくりと進行 しんこう した。
[31] [32]
モンゴル帝国 ていこく の拡大 かくだい [ 編集 へんしゅう ]
チンギス・カン在世 ざいせい 中 ちゅう の諸 しょ 遠征 えんせい とモンゴル帝国 ていこく の拡大 かくだい 。
古代 こだい からモンゴル高原 こうげん には絶 た えず統一 とういつ 遊牧 ゆうぼく 国家 こっか が存在 そんざい してきたが、840年 ねん のウイグル可 か 汗 あせ 国 こく (回 かい 鶻)の崩壊 ほうかい 後 ご は360年 ねん の長期 ちょうき にわたって統一 とういつ 政権 せいけん が存在 そんざい しない空白 くうはく の時代 じだい が続 つづ いた。これはゴビ の南 みなみ (漠 ばく 南 みなみ )を支配 しはい した遼 りょう (契 ちぎり 丹 に )や金 きむ (女 おんな 真 しん )といった王朝 おうちょう が、巧 たく みに干渉 かんしょう して漠 ばく 北 きた に強力 きょうりょく な遊牧 ゆうぼく 政権 せいけん が出現 しゅつげん しないよう、政治 せいじ 工作 こうさく をしていたためであった。
当時 とうじ 、モンゴル高原 こうげん にはケレイト 、ナイマン 、メルキト 、モンゴル 、タタル 、オングト 、コンギラト といったテュルク・モンゴル系 けい の諸 しょ 部族 ぶぞく が割拠 かっきょ していたが、13世紀 せいき 初頭 しょとう にモンゴル出身 しゅっしん のテムジンがその諸 しょ 部族 ぶぞく を統一 とういつ して新 あら たな政治 せいじ 集団 しゅうだん を結成 けっせい し、チンギス・カン (在位 ざいい : 1206年 ねん - 1227年 ねん )として大 だい モンゴル・ウルス(モンゴル帝国 ていこく )を建国 けんこく した。
チンギス・カンはさらに周辺 しゅうへん の諸 しょ 民族 みんぞく ・国家 こっか に侵攻 しんこう し、北 きた のバルグト 、オイラト 、キルギス 、西 にし のタングート (西 にし 夏 なつ )、天山 あまやま ウイグル王国 おうこく 、カルルク、カラキタイ(西 にし 遼 りょう )、ホラズム・シャー朝 あさ をその支配 しはい 下 か に置 お き、短期間 たんきかん のうちに大 だい 帝国 ていこく をき上 ずきあ げた。
チンギス・カンの後 のち を継 つ いだオゴデイ・カアン (在位 ざいい : 1229年 ねん - 1241年 ねん )も南 みなみ の金 かね 朝 あさ を滅 ほろ ぼして北 きた 中国 ちゅうごく を占領 せんりょう し、征 せい 西 にし 軍 ぐん を派遣 はけん してカスピ海 かすぴかい 以西 いせい のキプチャク、ヴォルガ・ブルガール 、ルーシ諸 しょ 公国 こうこく を支配 しはい 下 か に置 お いてヨーロッパ諸国 しょこく にも侵攻 しんこう した。
こうしてユーラシア大陸 たいりく を覆 おお い尽 つ くすほどの大 だい 帝国 ていこく となったモンゴルであったが、第 だい 4代 だい モンケ・カアン (在位 ざいい : 1251年 ねん - 1259年 ねん )の死後 しご に後継 こうけい 争 あらそ いが起 お きたため、帝国 ていこく は4つの国 くに に分裂 ぶんれつ してしまう。
[33]
この史上 しじょう 最大 さいだい の帝国 ていこく に吸収 きゅうしゅう されたテュルク系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく であったが、支配 しはい 層 そう のモンゴル人 じん に比 くら べてその人口 じんこう が圧倒的 あっとうてき 多数 たすう であったため、また文化 ぶんか 的 てき にテュルク語 ご が普及 ふきゅう していたため、テュルクのモンゴル語 ご 化 か はあまり起 お きなかった。
むしろイスラーム圏 けん に領地 りょうち を持 も ったチャガタイ・ウルス 、フレグ・ウルス 、ジョチ・ウルス ではイスラームに改宗 かいしゅう するとともにテュルク語 ご を話 はな すモンゴル人 じん が現 あらわ れた。
こうしてモンゴル諸 しょ 王朝 おうちょう のテュルク・イスラーム化 か が進 すす んだために、モンゴル諸 しょ 王朝 おうちょう の解体 かいたい 後 ご はテュルク系 けい の国家 こっか が次々 つぎつぎ と建設 けんせつ されることとなった。
[33]
チャガタイ領 りょう のテュルク [ 編集 へんしゅう ]
チンギス政権 せいけん 以来 いらい 、天山 あまやま ウイグル王国 おうこく はモンゴル帝国 ていこく の庇護 ひご を受 う け、14世紀 せいき 後半 こうはん にいたるまでその王権 おうけん が保 たも たれた。
それはウイグル人 じん が高度 こうど な知識 ちしき を持 も ち、モンゴル帝国 ていこく の官僚 かんりょう として活躍 かつやく したことや、モンゴルにウイグル文字 もじ を伝 つた えてモンゴル文字 もじ の基礎 きそ になったこと、オアシス定住 ていじゅう 民 みん の統治 とうち に長 た けていたことが挙 あ げられる。
モンゴルの内紛 ないふん が起 お きると天山 あまやま ウイグル政権 せいけん はトルファン 地域 ちいき を放棄 ほうき したが、その精神 せいしん を受 う け継 つ いだウイグル定住 ていじゅう 民 みん たちは現在 げんざい もウイグル人 じん として生 い き続 つづ けている。
一方 いっぽう 、カラハン朝 あさ 以来 いらい イスラーム圏 けん となっていたタリム盆地 ぼんち 西部 せいぶ 以西 いせい にはモンゴル時代 じだい にチャガタイ・ウルス(チャガタイ汗 あせ 国 こく )が形成 けいせい され、天山 あまやま ウイグル領 りょう で仏教 ぶっきょう 圏 けん であった東部 とうぶ もその版図 はんと となり、イスラーム圏 けん となる。
やがてチャガタイ汗 あせ 国 こく はパミール を境 さかい に東西 とうざい に分裂 ぶんれつ するが、この要因 よういん の一 ひと つにモンゴル人 じん のテュルク化 か が挙 あ げられる。
マー・ワラー・アンナフル(トランスオクシアナ )を中心 ちゅうしん とする西側 にしがわ のモンゴル人 じん はイスラームを受容 じゅよう してテュルク語 ご を話 はな し、オアシス定住 ていじゅう 民 みん の生活 せいかつ に溶 と け込 こ んでいった。
彼 かれ ら自身 じしん は「チャガタイ」と称 しょう したが、モンゴルの伝統 でんとう を重 おも んじる東側 ひがしがわ のモンゴル人 じん は彼 かれ らを「カラウナス(混血 こんけつ 児 じ )」と蔑 さげす み、自身 じしん を「モグール」と称 しょう した。そのためしばらく東 ひがし トルキスタンは「モグーリスタン 」と呼 よ ばれることとなる。
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西 にし チャガタイ・ハン国 こく から台頭 たいとう したティムール は西 にし トルキスタンとイラン方面 ほうめん (旧 きゅう フレグ・ウルス)を占領 せんりょう し、モグーリスタンとジョチ・ウルスをその影響 えいきょう 下 か に入 い れて大 だい 帝国 ていこく をき上 ずきあ げた。彼 かれ 自身 じしん がテュルク系 けい ムスリムであったため、また西 にし トルキスタンにテュルク人 じん が多 おお かったため、ティムール朝 あさ の武官 ぶかん たちはテュルク系 けい で占 し められていた。
しかし、文官 ぶんかん にいたっては知識 ちしき 人 じん であるイラン系 けい のターズィーク人 じん が担 にな っていた。
こうしたことでティムール朝 あさ の公用 こうよう 語 ご はイラン系 けい であるペルシア語 ご と、テュルク系 けい であるチャガタイ語 ご が使 つか われ、都市 とし 部 ぶ においては二 に 言語 げんご 併用 へいよう が一般 いっぱん 化 か した。
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キプチャク草原 そうげん を根拠地 こんきょち としたジョチ・ウルスは比較的 ひかくてき 早 はや い段階 だんかい でイスラームを受容 じゅよう し、多 おお くのテュルク系 けい 民族 みんぞく を抱 かか えていたためにテュルク化 か も進展 しんてん した。
15世紀 せいき になると、カザン・ハン国 こく 、アストラハン・ハン国 こく 、クリミア・ハン国 こく 、シャイバーニー朝 あさ 、カザフ・ハン国 こく 、シビル・ハン国 こく といったテュルク系 けい の王朝 おうちょう が次々 つぎつぎ と独立 どくりつ したため、ジョチ・ウルスの政治 せいじ 的 てき 統一 とういつ は完全 かんぜん に失 うしな われた。
[36]
現在 げんざい 、中央 ちゅうおう アジアのテュルク系 けい 民族 みんぞく で上位 じょうい を占 し めるのがウズベク人 じん とカザフ人 じん である。
これらの祖先 そせん はジョチ・ウルス東部 とうぶ から独立 どくりつ したシバン家 か のアブル=ハイル・ハン (在位 ざいい :1426年 ねん - 1468年 ねん )に率 ひき いられた集団 しゅうだん であった。
彼 かれ らはウズベク と呼 よ ばれ、キプチャク草原 そうげん 東部 とうぶ の統一 とういつ 後 ご 、シル川 がわ 中 ちゅう 流域 りゅういき に根拠地 こんきょち を遷 うつ したが、ジャニベク・ハン とケレイ・ハン がアブル=ハイル・ハンに背 そむ いてモグーリスタン辺境 へんきょう へ移住 いじゅう したため、ウズベクは2つに分離 ぶんり することとなり、前者 ぜんしゃ をウズベク、後者 こうしゃ をウズベク・カザフもしくはカザフ と呼 よ んで区別 くべつ するようになった。
アブル=ハイル・ハンの没後 ぼつご 、ウズベク集団 しゅうだん は分裂 ぶんれつ し、その多 おお くは先 さき に分離 ぶんり していたカザフ集団 しゅうだん に合流 ごうりゅう した。勢力 せいりょく を増 ま したカザフはキプチャク草原 そうげん の遊牧民 ゆうぼくみん をも吸収 きゅうしゅう し、強力 きょうりょく な遊牧 ゆうぼく 国家 こっか であるカザフ・ハン国 こく を形成 けいせい した。
やがてウズベクの集団 しゅうだん もムハンマド・シャイバーニー・ハン のもとで再 さい 統合 とうごう し、マー・ワラー・アンナフル、フェルガナ、ホラズム、ホラーサーンといった各 かく 地域 ちいき を占領 せんりょう してシャイバーニー朝 あさ と呼 よ ばれる王朝 おうちょう を築 きず いた。
[37]
1599年 ねん にシャイバーニー朝 あさ が滅亡 めつぼう した後 のち 、マー・ワラー・アンナフルの政権 せいけん はジャーン朝 あさ (アストラハン朝 あさ )に移行 いこう した。
ジャーン朝 あさ は1756年 ねん にマンギト朝 あさ によって滅 ほろ ぼされるが、シャイバーニー朝 あさ からマンギト朝 あさ に至 いた るまでの首都 しゅと がブハラ に置 お かれたため、この3王朝 おうちょう をあわせてブハラ・ハン国 こく と呼 よ ぶ(ただしマンギト朝 あさ はハン位 い に就 つ かず、アミール を称 しょう したのでブハラ・アミール国 こく とも呼 よ ばれる)。また、ホラズム地方 ちほう のウルゲンチ を拠点 きょてん とした政権 せいけん (これもシャイバーニー朝 あさ )は17世紀 せいき 末 すえ にヒヴァ に遷都 せんと したため、次 つぎ のイナク朝 あさ (1804年 ねん - 1920年 ねん )とともにヒヴァ・ハン国 こく と呼 よ ばれる。そして、18世紀 せいき にウズベクのミング部族 ぶぞく によってフェルガナ地方 ちほう に建 た てられた政権 せいけん はコーカンド を首都 しゅと としたため、コーカンド・ハン国 こく と呼 よ ばれる。
これらウズベク人 じん によって西 にし トルキスタンに建 た てられた3つの国家 こっか を3ハン国 こく と称 しょう する。
[38]
13世紀 せいき に始 はじ まるモンゴル人 じん のルーシ征服 せいふく はロシア側 がわ から「タタールのくびき (татарское иго)」と呼 よ ばれ、ロシア人 じん にとっては屈辱 くつじょく 的 てき な時代 じだい であった。しかし、モスクワ大公 たいこう のイヴァン4世 せい (在位 ざいい : 1533年 ねん - 1584年 ねん )によってカザン・ハン国 こく 、アストラハン・ハン国 こく といったジョチ・ウルス 系 けい の国家 こっか が滅 ほろ ぼされると、「タタールのくびき」は解 と かれ、ロシアの中央 ちゅうおう ユーラシア征服 せいふく が始 はじ まる。
このときロシアに降 ふ ったテュルク 系 けい ムスリム はロシア側 がわ から「タタール人 じん 」と呼 よ ばれていたが、異教徒 いきょうと である彼 かれ らはロシアの抑圧 よくあつ と同化 どうか 政策 せいさく に苦 くる しめられ、カザフ草原 そうげん やトルキスタン に移住 いじゅう する者 もの が現 あらわ れた。
16世紀 せいき 末 すえ になってロシア・ツァーリ国 こく はシベリア のシビル・ハン国 こく を滅 ほろ ぼし、カザフ草原 そうげん より北 きた の森林地帯 しんりんちたい を開拓 かいたく していった。
同 おな じ頃 ごろ 、カザフ草原 そうげん のカザフ・ハン国 こく は大 だい ジュズ、中 ちゅう ジュズ、小 しょう ジュズと呼 よ ばれる3つの部族 ぶぞく 連合体 れんごうたい に分 わ かれていたが、常 つね に東 ひがし のモンゴル系 けい 遊牧 ゆうぼく 集団 しゅうだん ジュンガル の脅威 きょうい にさらされていた。
1730年 ねん 、その脅威 きょうい を脱 だっ するべく小 しょう ジュズのアブル=ハイル・ハン (在位 ざいい : 1716年 ねん - 1748年 ねん )がロシア帝国 ていこく に服属 ふくぞく を表明 ひょうめい し、中 ちゅう ジュズ、大 だい ジュズもこれにならって服属 ふくぞく を表明 ひょうめい した。
19世紀 せいき の半 なか ば、バルカン半島 ばるかんはんとう から中央 ちゅうおう アジア に及 およ ぶ広大 こうだい な地域 ちいき を舞台 ぶたい に、大 だい 英 えい 帝国 ていこく (イギリス )とロシア帝国 ていこく との「グレート・ゲーム 」が展開 てんかい されていた。
ロシア帝国 ていこく はイギリスよりも先 さき にトルキスタンを手 て に入 い れるべく、1867年 ねん にコーカンド・ハン国 こく を滅 ほろ ぼし、1868年 ねん にブハラ・ハン国 こく を、1873年 ねん にヒヴァ・ハン国 こく を保護 ほご 下 か に置 お き、1881年 ねん に遊牧 ゆうぼく 集団 しゅうだん トルクメン を虐殺 ぎゃくさつ して西 にし トルキスタン を支配 しはい 下 か に入 い れた。
[39]
アナトリア半島 はんとう のテュルク [ 編集 へんしゅう ]
1300年 ねん のアナトリアにおけるテュルク系 けい 諸 しょ 勢力 せいりょく 。
現在 げんざい 、最 もっと も有名 ゆうめい なテュルク系 けい 国家 こっか であるトルコ共和 きょうわ 国 こく はアナトリア半島 はんとう に存在 そんざい するが、テュルク人 じん の故 こ 地 ち から最 もっと も離 はな れた位置 いち にあるにもかかわらず、テュルク系 けい 最大 さいだい の民族 みんぞく であるトルコ人 じん が住 す んでいる。
これは歴史 れきし 上 じょう 、幾 いく 波 は にもわたってテュルク人 じん がこの地 ち に侵入 しんにゅう し、移住 いじゅう してきたためである。それまでのアナトリア半島 はんとう には東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が存在 そんざい し、主要 しゅよう 言語 げんご はギリシア語 ご であった。
アナトリアへ最初 さいしょ に侵入 しんにゅう してきたのはセルジューク朝 あさ であり、セルジューク朝 あさ によって東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく が駆逐 くちく されると、その地 ち にセルジューク王権 おうけん の強化 きょうか を好 この まないトゥルクマーンなどが流入 りゅうにゅう してきたため、アナトリアのテュルク化 か が始 はじ まった。
その後 ご はセルジューク朝 あさ の後継 こうけい 国家 こっか であるルーム・セルジューク朝 あさ がアナトリアに成立 せいりつ し、モンゴルの襲来 しゅうらい で多 おお くのトゥルクマーンが中央 ちゅうおう アジアから逃 のが れてきたので、アナトリアのテュルク化 か ・イスラーム化 か は一層 いっそう 進 すす んだ。
14世紀 せいき にはオスマン帝国 ていこく がアナトリアを中心 ちゅうしん に拡大 かくだい し、最盛 さいせい 期 き には古代 こだい ロ ろ ーマ帝国 まていこく を思 おも わせるほどの大 だい 帝国 ていこく へと発展 はってん したが、18世紀 せいき 以降 いこう 、オスマン帝国 ていこく は衰退 すいたい の一途 いっと をたどり、広大 こうだい な領地 りょうち は次第 しだい に縮小 しゅくしょう してアナトリア半島 はんとう のみとなり、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、トルコ革命 かくめい によって1922年 ねん に滅亡 めつぼう し、翌 よく 1923年 ねん にトルコ共和 きょうわ 国 こく が成立 せいりつ する。
[40]
ロシア領内 りょうない のテュルク人 じん の間 あいだ では、19世紀 せいき 末 すえ からムスリム の民族 みんぞく 的 てき 覚醒 かくせい を促 うなが す運動 うんどう が起 お こり、オスマン帝国 ていこく を含 ふく めてテュルク人 じん の幅広 はばひろ い連帯 れんたい を目指 めざ す汎 ひろし テュルク主義 しゅぎ (汎 ひろし トルコ主義 しゅぎ )が生 う まれた。
しかし、ロシア革命 かくめい が成功 せいこう すると、旧 きゅう ロシア帝国 ていこく 領内 りょうない に住 す むテュルク系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく は個々 ここ の共和 きょうわ 国 こく や民族 みんぞく 自治 じち 区 く に細分 さいぶん 化 か されるに至 いた った。一方 いっぽう 、トルコ革命 かくめい が旧 きゅう オスマン帝国 ていこく であるアナトリアに住 す むトルコ人 じん だけのための国民 こくみん 国家 こっか であるトルコ共和 きょうわ 国 こく を誕生 たんじょう させた結果 けっか 、汎 ひろし テュルク主義 しゅぎ は否定 ひてい される形 かたち となった。
1991年 ねん のソビエト連邦 れんぽう 崩壊 ほうかい 後 ご 、旧 きゅう ソ連 それん から5つのテュルク系 けい 民族 みんぞく の共和 きょうわ 国 こく (アゼルバイジャン共和 きょうわ 国 こく 、ウズベキスタン共和 きょうわ 国 こく 、カザフスタン共和 きょうわ 国 こく 、キルギス 、トルクメニスタン )が独立 どくりつ 。
これら諸共 もろとも 和国 わこく やタタール人 じん などのロシア領内 りょうない のテュルク系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく と、トルコ共和 きょうわ 国 こく のトルコ人 じん たちとの間 あいだ で、汎 ひろし テュルク主義 しゅぎ の再 さい 台頭 たいとう ともみなしうる新 あら たな協力 きょうりょく 関係 かんけい が構築 こうちく されつつある。
[41]
歴史 れきし 的 てき なテュルク系 けい 民族 みんぞく および政権 せいけん [ 編集 へんしゅう ]
[9] [42] [43]
イスラーム化 か 後 ご のテュルク系 けい 国家 こっか [ 編集 へんしゅう ]
[44]
モンゴル帝国 ていこく の解体 かいたい 後 ご に生 う まれた主 おも なテュルク=モンゴル系 けい 国家 こっか [ 編集 へんしゅう ]
チャガタイ・ウルス系 けい
ジョチ・ウルス系 けい
フレグ・ウルス(イルハン朝 あさ )系 けい
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現代 げんだい のテュルク系 けい 諸 しょ 民族 みんぞく [ 編集 へんしゅう ]
[46]
トルコ → トルコ人 じん (5,549万 まん 人 にん 〜5,800万 まん 人 にん /7,000万 まん 人 にん )
アゼルバイジャン → アゼルバイジャン人 じん (720.5万 まん 人 にん /2,050万 まん 人 にん 〜3,300万 まん 人 にん 、イラン に1,200万 まん 人 にん 〜2,010万 まん 人 にん )
ウズベキスタン → ウズベク人 じん (2,230万 まん 人 にん /2,830万 まん 人 にん )
トルクメニスタン → トルクメン人 じん (550万 まん 人 にん /800万 まん 人 にん )
キルギス → キルギス人 じん (380.4万 まん 人 にん /485.5万 まん 人 にん )
カザフスタン → カザフ人 じん (955万 まん 人 にん /1,600万 まん 人 にん )
連邦 れんぽう 構成 こうせい 国 こく ・民族 みんぞく 自治 じち 区 く [ 編集 へんしゅう ]
その他 た の主 おも なテュルク系 けい 民族 みんぞく とその居住 きょじゅう 地 ち [ 編集 へんしゅう ]
テュルク系 けい 民族 みんぞく には、同 おな じアルタイ系 けい であるモンゴル系 けい 民族 みんぞく やツングース系 けい 民族 みんぞく に高 こう 頻度 ひんど なC2系統 けいとう は、カザフ (66.7%[47] )を除 のぞ きそれほど高 こう 頻度 ひんど ではない。広範囲 こうはんい に見 み られるタイプとしては印欧語 いんおうご 系 けい インド・イラン人 じん やスラブ人 じん に多 おお いR1a系統 けいとう がキルギス人 じん に63.5%[47] 、南 みなみ アルタイ人 じん に53.1%[48] などで観察 かんさつ される。またヤクート はウラル系 けい 民族 みんぞく に関連 かんれん するN系統 けいとう が88%の高 こう 頻度 ひんど で見 み られる[49] 。11世紀 せいき にトルコ族 ぞく が進入 しんにゅう したアナトリア では在来 ざいらい のJ系統 けいとう 等 ひとし が高 こう 頻度 ひんど である[50] 。
テュルク系 けい 民族 みんぞく の明確 めいかく な遺伝子 いでんし の単一 たんいつ 性 せい は認 みと められないことから、テュルク系 けい 民族 みんぞく の拡散 かくさん は話者 わしゃ 移動 いどう よりも言語 げんご 置換 ちかん 中心 ちゅうしん であったことが示唆 しさ されている[51] 。また、調査 ちょうさ されたほとんどのテュルク系 けい 民族 みんぞく は遺伝 いでん 的 てき に近隣 きんりん 地域 ちいき の住民 じゅうみん に似 に ていることから、インド・ヨーロッパ語族 ごぞく のような少数 しょうすう 上位 じょうい 階級 かいきゅう による支配 しはい が示唆 しさ されている[51] 。しかし、西部 せいぶ のテュルク系 けい 民族 みんぞく も、現在 げんざい の南 みなみ シベリアとモンゴル地域 ちいき のテュルク系 けい 民族 みんぞく と同一 どういつ の「非常 ひじょう に長 なが い染色 せんしょく 体 たい 領域 りょういき 」を共有 きょうゆう している[51] 。
キルギス人 じん 、カザフ人 じん 、ウズベク人 じん 、トルクメン人 じん 、アルタイ人 じん など中央 ちゅうおう アジアのテュルク系 けい 民族 みんぞく は、モンゴロイド とコーカソイド の混 こん 合体 がったい である[52] 。西端 せいたん のトルコ人 じん のはコーカソイド、東端 ひがしばた のヤクートはモンゴロイドとされるが、それぞれモンゴロイドとコーカソイドの遺伝子 いでんし を僅 わず かに含 ふく んでいる[52] 。
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