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ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう

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ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう
戦争せんそう:ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう
年月日ねんがっぴ1011ねん - 1185ねん
場所ばしょギリシャイタリアシリア
結果けっかいた
交戦こうせん勢力せいりょく
ひがしマ帝国まていこく
ヴェネツィア共和きょうわこく
かみきよしマ帝国まていこく
シチリア王国おうこく
アンティオキア公国こうこく
指導しどうしゃ指揮しきかん
ゲオルギオス・マニアケス
ゲオルギオス・パレオロゴス
アレクシオス1せいコムネノス
ヨハネス2せいコムネノス
マヌエル1せいコムネノス
アンドロニコス1せいコムネノス
アレクシオス・ブラナス
イサキオス2せいアンゲロス
ロベルト・イル・グイスカルド
ルッジェーロ2せい
グリエルモ1せい
グリエルモ2せい
ボエモン1せい
George of Antioch
Constantine Bodin
Margaritus of Brindisi
ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう

ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう(ノルマン・ひがしローマせんそう)は、ノルマンじん傭兵ようへいと、ノルマンじん建国けんこくしたシチリア王国おうこくアンティオキア公国こうこくひがしマ帝国まていこくとのあいだおこなわれた戦争せんそうである。

戦争せんそう経過けいか

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最初さいしょ衝突しょうとつ

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11世紀せいきまで、シチリアやみなみイタリアマグナ・グラエキア)はひがしローマの領土りょうどであった。1009ねんランゴバルドじん貴族きぞくメールスはバーリ独立どくりつこく宣言せんげんしてひがしマ帝国まていこく反旗はんきひるがえした。皇帝こうていバシレイオス2せいはすぐさま鎮圧ちんあつぐん派遣はけんひがしマ帝国まていこくによってバーリを占領せんりょうされたメールスはきたフランスのノルマンじん支援しえんもとめた。援軍えんぐんとしてやってきたノルマンじんひがしマ帝国まていこくとのたたかいで優位ゆういち、連戦れんせん連勝れんしょうかさねたが、1018ねんにカンネーのたたかいで敗北はいぼくし、ひがしマ帝国まていこく講和こうわむすんだ。だがノルマンじんたちはこの戦役せんえき以後いごもイタリアにとどまりつづけた。

ノルマンじんみなみイタリア征服せいふく

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ノルマンじん騎士きしロベルト・イル・グイスカルドあにのちいでプーリアはくとなり、おとうとルッジェーロいたるともに、カラブリアシチリアひとししょ都市とし征服せいふくしていった。1066ねんコンスタンティノス10せいドゥーカスだい規模きぼぐんをイタリアに派遣はけんし、ターラントとうしょ都市としをノルマンじんからもどした。しかし東方とうほうからやってきたセルジュークあさ侵攻しんこうはげしさをしてきたため、バリャーグ親衛隊しんえいたい主力しゅりょくとする兵力へいりょく東方とうほうけざるをなくなり、イタリアの警備けいび手薄てうすになった、こうして戦局せんきょくはノルマンじん優位ゆういとなり、1071ねん、ノルマンじんひがしローマのイタリア支配しはい拠点きょてんだったバーリを占領せんりょうした(バーリ包囲ほういせん)。これによってひがしローマからみなみイタリアが永遠えいえんうしなわれた。

ノルマンじんのギリシャ遠征えんせい

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みなみイタリアを征服せいふくしたロベルトはひがしマ帝国まていこく征服せいふくをもくろみ、1081ねんにギリシャ遠征えんせいをおこないデュラキウムを占領せんりょうした。しかし神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ4せいみなみせいしてきたため、ロベルトはこれに対応たいおうすべくギリシャを息子むすこボエモンたくし、帰国きこくすることになった。ロベールは再度さいどギリシャ侵攻しんこう目指めざしていたが、1085ねん病死びょうしした。

1147ねんのノルマンじんのギリシャ遠征えんせい

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1147ねんシチリア王国おうこく建国けんこくしたロベルトのおいルッジェーロ2せいひがしマ帝国まていこく遠征えんせいおこなった。これはだい2かい十字軍じゅうじぐん時期じきかさなっていた。シチリアぐんふたたびギリシャ、コルフ島こるふとう占領せんりょうしてコリントステーベ略奪りゃくだつした。一部いちぶたいはコンスタンティノープルの沿岸えんがんまでせめよせたが、ギリシャはヴァリャーグハスカール)を投入とうにゅうした帝国ていこく奪還だっかんされた。しかしアドリア海あどりあかい島々しまじまはシチリア王国おうこくのものになった。

ひがしマ帝国まていこくのイタリア遠征えんせい

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1154ねん、ルッジェーロ2せいいた皇帝こうていマヌエル1せいコムネノス帝国ていこくぐんをイタリアに派遣はけんした。イタリア南部なんぶ上陸じょうりくした帝国ていこくぐんアドリア海あどりあかい沿岸えんがんしょ都市とし、バーリ、トラーニエを次々つぎつぎ征服せいふくした。しかしグリエルモ1せい反撃はんげきによって帝国ていこくぐん敗北はいぼくし、イタリアから撤退てったいした。

1185ねんのノルマンじんのギリシャ遠征えんせい

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1185ねんひがしマ帝国まていこく混乱こんらんグリエルモ2せいひがしマ帝国まていこく出兵しゅっぺいした。ふたたびデュラキウムを占領せんりょうしたシチリアぐんはギリシャちゅうあらしまくり、テッサロニキをも占領せんりょうした。(コンスタンティノープルではこれが原因げんいん暴動ぼうどう発生はっせいし、その混乱こんらんじょうじてクーデターをこしたイサキオス2せい即位そくいした)しかし、アレクシオス・ブラナスがひきいる帝国ていこくぐん反撃はんげきでノルマン陸海りくかいぐん敗北はいぼく撤退てったい余儀よぎなくされた。

アンティオキア公国こうこく

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ロベルトののボエモン1せい建国けんこくしたアンティオキア公国こうこくひがしマ帝国まていこく戦闘せんとう服従ふくじゅうかえした。1138ねんヨハネス2せいコムネノス服従ふくじゅうしたアンティオキア公国こうこくザンギー遠征えんせいわされている。しかし1142ねん帝国ていこくから離反りはん反抗はんこうしたため、ヨハネス2せい攻撃こうげきけアンティオキアは荒廃こうはいした。結局けっきょくヨハネス2せい事故死じこししたためアンティオキアはそれ以上いじょう破壊はかいまぬかれたが、ヨハネス2せい息子むすこマヌエル1せいコムネノス服従ふくじゅう強要きょうようされた。1153ねん、コンスタンスおんなこう結婚けっこんしたルノー・ド・シャティヨンひがしマ帝国まていこくきばをむけ、キプロスとう攻撃こうげきした。だがこれはマヌエル1せい報復ほうふく遠征えんせいまねいた。1159ねんひがしローマとのたたかいにやぶれたアンティオキア公国こうこくふたたひがしローマの属国ぞっこくとなった。1176ねんおこなわれたミュリオケファロンのたたかにはアンティオキア公国こうこくぐん参加さんかし、おおきな被害ひがいけた。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高山たかやまひろし ちょ中世ちゅうせいシチリア王国おうこくISBN 4061494708