(Translated by https://www.hiragana.jp/)
ノルマン人による南イタリア征服 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ノルマンじんによるみなみイタリア征服せいふく

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
1154ねんシチリア王国おうこく緑色みどりいろ)、すうじゅうねんおよノルマンじん独立どくりつしんつよ冒険ぼうけんてき活動かつどうによるイタリア征服せいふく象徴しょうちょうするものである。

ノルマンじんによるみなみイタリア征服せいふく(ノルマンじんによるみなみイタリアせいふく)は、11世紀せいきから12世紀せいきにかけて、それまでひがしマ帝国まていこく帝国ていこく宗主そうしゅけんみとめたランゴバルド諸侯しょこうこくなどさまざまな勢力せいりょく割拠かっきょしていたみなみイタリアノルマンじん活動かつどうによって統一とういつされていったことをす。

その過程かていはノルマンじん傭兵ようへいみなみイタリアではたらはじめた11世紀せいき前半ぜんはんから、12世紀せいき前半ぜんはんいたひゃくねんちか期間きかんおよび、そこにはおおくの戦闘せんとうと、おのおの独立どくりつした複数ふくすうのノルマンじん勢力せいりょくによる幾多いくた領地りょうち獲得かくとく活動かつどうふくまれていた。11世紀せいきにノルマンじん有力ゆうりょく君主くんしゅたちがそれぞれに獲得かくとくした領地りょうちは、1127ねんのアプーリアおおやけ継承けいしょう皮切かわきりに次々つぎつぎとシチリアはくルッジェーロ2せい掌握しょうあくするところとなり、シチリアおうくらいいたルッジェーロ2せいによってイタリア半島はんとう南部なんぶ平定へいてい完了かんりょうしたのは1140ねんのことであった。その領域りょういきシチリアとうのみならず、ベネヴェント一時いちじてき占領せんりょうしたことがあったが、11世紀せいきなかばには教皇きょうこうりょうとなった)をのぞいたイタリア半島はんとうの3ぶんの1におよ南部なんぶ全土ぜんどマルタ諸島しょとうきたアフリカ一部いちぶにまでおよんでいた。

この時期じきみなみイタリアで活動かつどうしたノルマンじんたちはもとノルマンディー公国こうこく住民じゅうみんであり、新天地しんてんちもとめて故国ここくはなれ、山賊さんぞく傭兵ようへいとなったものたちであった[1]。かれらノルマンじん移住いじゅうみんは、メッツォジョールノランゴバルドけいひがしローマけいといった様々さまざま政治せいじ勢力せいりょく君主くんしゅ有力ゆうりょく貴族きぞくつかえる傭兵ようへいとなり、同地どうち定住ていじゅうする機会きかいがあることをすぐに故郷こきょうしらせた。これらノルマンじん戦士せんし集団しゅうだん各地かくち同郷どうきょう戦士せんしあつめて徒党ととうみ、ついには自分じぶんたちの封地ほうち国家こっか建国けんこくするにいたった。ノルマンじんたちはメッツォジョールノに到着とうちゃくして50ねん以内いないに、それぞれに一団いちだんとなって頭角とうかくあらわし、事実じじつじょう独立どくりつした地位ちいがることに成功せいこうしたというわけなのである。

1066ねんひとつの決定的けっていてきたたかからすうねん達成たっせいされたノルマンじんによるイングランド征服せいふくとはことなり、ノルマンじんによるみなみイタリア征服せいふくなんじゅう年間ねんかんにもおよ年月としつきおおくの戦闘せんとう産物さんぶつであり、決定的けっていてき出来事できごとをほとんどいていた。おおくの土地とちがそれぞれ別個べっこ獲得かくとくないし征服せいふくされ、これらが後年こうねんひとつの国家こっかとしてまとまったのである。イングランド征服せいふく比較ひかくすると、みなみイタリア征服せいふくのほうは全体ぜんたいとしてれば計画けいかくてきかつ組織そしきてき活動かつどうかさねであり、文字通もじどおりの征服せいふくとはべない部分ぶぶんもあったものの、最終さいしゅうてきにはおなじように全面ぜんめんてき征服せいふくとして完了かんりょうした。

歴史れきし

[編集へんしゅう]

ノルマンじんみなみイタリア到来とうらい、999ねん–1017ねん

[編集へんしゅう]
ノルマンじん到来とうらい直前ちょくぜんのイタリアの地図ちず南部なんぶピンク色ぴんくいろ部分ぶぶんひがしマ帝国まていこくりょう。ノルマンじんかみきよしマ帝国まていこく南方なんぽう領地りょうち (太字ふとじ)とシチリアをもふくぜん一帯いったい、さらには教皇きょうこうりょうふくまれるラティウムみなみ地域ちいきスポレート公国こうこくアブルッツォしゅうをも征服せいふくした。

ノルマンじんみなみイタリアをおとずれるようになった年代ねんだいあきらかでないが、10世紀せいきまつよりヨーロッパでは聖地せいち巡礼じゅんれいさかんになり、ノルマンじんあいだでもエルサレムやイタリアのモンテ・ガルガーノイタリアばんもうでるものがいたと想定そうていされる。みなみイタリアでのノルマンじんはたらきにかんしてのち年代ねんだい記録きろくされたもっとふる事例じれいは、1010年代ねんだいまでにこったであろうふたつの出来事できごとである(後述こうじゅつのサレルノ伝承でんしょうとガルガーノ伝承でんしょう)。それらのエピソードから窺知きちされるのは、地中海ちちゅうかい地方ちほう傭兵ようへい募集ぼしゅうがあるというはなし巡礼じゅんれいしゃつうじてひろまり、これがノルマンじん戦士せんしみなみイタリアにかわせるきっかけのひとつとなったということである[2]

いくつかの史料しりょうによれば、999ねんころ聖地せいちエルサレムからプッリャ経由けいゆ帰還きかん途次とじにあったノルマンじん巡礼じゅんれいしゃ一団いちだんサレルノり、サレルノこうほうグアイマーリオ3せいイタリアばんもと逗留とうりゅうしたという。おりしもサレルノのまちとその周辺しゅうへん地域ちいきは、遅延ちえんしているとしいちかいみつぎおさめ支払しはらいを要求ようきゅうするサラセンじん攻撃こうげきけていた。グアイマーリオ3せいみつぎ納金のうきんあつめようと仕掛しかけたが、そのあいだにノルマンじんたちはおおやけとそのランゴバルドじん臣民しんみんたちの弱腰よわごしなんじ、ただちに包囲ほういするサラセンぐん襲撃しゅうげきした。これによりサラセンじん敗走はいそうし、おおくの戦利せんりひんられた。これに感謝かんしゃしたグアイマーリオなるものうたげひらいてノルマンじんたちを歓待かんたいし、かれらにこののこってはたらいてくれるよう懇願こんがんする。ノルマンじんはこれをことわったものの、グアイマーリオ3せいからの豪華ごうかおくものノルマンディーにいる同胞どうほうおくり、サレルノでへいとしてはたらけば褒賞ほうしょうられるかもしれないというはなし同胞どうほうひろめることをった。いくつかの史料しりょうでは、それだけでなく、グアイマーリオ3せい戦士せんし獲得かくとくするためにノルマンディーに使者ししゃ派遣はけんしたとまでつたえる。ノルマンじん到来とうらいかんするこのはなしは「サレルノ伝承でんしょう」とばれることがある[3]

この「サレルノ伝承でんしょう」がはじめて記録きろくされたのは、1071ねんから1086ねんまでのあいだモンテカッシーノのアマートイタリアばんによって執筆しっぴつされた『ノルマンじん歴史れきし』 である。12世紀せいき初頭しょとうレオーネ・オスティエンセイタリアばんによって執筆しっぴつされた『モンテ・カッシーノ年代ねんだい』の、助祭じょさいピエールフランス語ふらんすごばんによる続編ぞくへんでは、「サレルノ伝承でんしょう」にかんする情報じょうほうのほとんどがアマートの著作ちょさくから借用しゃくようされている。17世紀せいきカエサル・バロニウス著作ちょさくである教会きょうかい年代ねんだい英語えいごばん発端ほったんとして、サレルノ伝承でんしょう歴史れきしとしてみとめられるようになった[4]。サレルノ伝承でんしょう正確せいかく事実じじつつたえているかかという問題もんだいは、そのなに世紀せいきにもわたって時折ときおりていされてきた疑問ぎもんであったが、以降いこうのほとんどの学者がくしゃは、この伝承でんしょうなんらかの修正しゅうせいくわえたかたち史実しじつとして承認しょうにんするようになっている[5]

イタリアでの最初さいしょのノルマンじん到来とうらいかんするもうひとつの歴史れきしじょう記録きろくも、それまでのノルマンじん存在そんざいには一切いっさいふれることなく主要しゅよう年代ねんだいなかしるされている。このはなしは「ガルガーノ伝承でんしょう」とばれている[3]。モンテ・ガルガーノ(モンテ・サンタンジェロサン・ミケーレの聖域せいいきイタリアばん)にかうノルマンじん巡礼じゅんれいしゃいちぎょうは、そこでランゴバルド貴族きぞくであるバーリのメロイタリアばん出会であい、アプーリアのビザンツ総督そうとく攻撃こうげきくわわるよう説得せっとくされている。これは1016ねんのことである。

「サレルノ伝承でんしょう」と同様どうよう、ガルガーノ物語ものがたりについても2つのいち史料しりょうがある。ひとつは1088ねんから1110ねんにかけてプッリャのグリエルモイタリアばんによってしるされた『ロベルト・ヴィスカルディ武勲ぶくん』であり、もうひとつはこれよりいち世紀せいきにアレッサンドロという修道しゅうどうがグリエルモの著作ちょさくもと執筆しっぴつした『せいバルトロマイ・デ・カルピネート修道院しゅうどういん年代ねんだい』である[6]。サレルノとガルガーノ物語ものがたりとをむすびつけてかんがえる学者がくしゃもおり、ジョン・ジュリアス・ノーウィッチ英語えいごばんはバーリのメロとノルマンじんとの邂逅かいこうはなしはそれ以前いぜんにグアイマーリオによってお膳立ぜんだてされたものだったのではないかとさえ仮定かていしている[7]。バーリのメロは、ひがしマ帝国まていこくりょうから追放ついほうされてからモンテ・ガルガーノをおとずれるまでのあいだに、サレルノに滞在たいざいしていたことがあったとされているのである。

それ以外いがいには、みずかすすんで亡命ぼうめいしてきたドレンゴトイタリアばん出身しゅっしん兄弟きょうだいからなるグループのはなしふくまれる。その兄弟きょうだい一人ひとりであるオスモンドフランス語ふらんすごばん(オーデリック・ヴァイタリスによる)ないしジルベール(アマートと助祭じょさいピエールによる)が、ノルマンディーおおやけロベール1せい統治とうち時代じだいにギョーム・レポステルなる人物じんぶつ殺害さつがいした。つたえられるところでは、レポステルはジルベールのむすめはずかしめたことを吹聴ふいちょうしたことにより殺害さつがいされたという。レポステル殺害さつがいによって安全あんぜんおびやかされることとなったドレンゴト兄弟きょうだいは、一族いちぞくれて祖国そこく脱出だっしゅつしてローマのがれているが、兄弟きょうだい一人ひとりはバーリのメロと合流ごうりゅうするまえローマ教皇きょうこう謁見えっけんしている。アマートは一連いちれん物語ものがたり1027ねん以降いこうのこととしているが、教皇きょうこう謁見えっけんしたことにかんする記述きじゅつはない。アマートによるとジルベールの兄弟きょうだいにはオスモンド、ライヌルフイタリアばんアスクレティンフランス語ふらんすごばんおよびルドルフ英語えいごばん(ピエールによればLudolfusではなくRudolfus)がいた。

レポステルの殺害さつがいかんしては、ロベール1せい統治とうちすなわち1027ねん以降いこうのこととされているてんですべての年代ねんだい一致いっちしているものの、ロベールという記述きじゅつ間違まちがいであり、本来ほんらいはリシャール、すなわち1017ねんおおやけであったリシャール2せいのことではないかとしんじるものもいる[8]だいいちのノルマンじん移住いじゅうがドレンゴトとレポステルの殺害さつがいなんらかの関係かんけいがあると仮定かていするならば、その年代ねんだいはもっとふるいものにえねばならない。ラウル・グラベールフランス語ふらんすごばんによる『歴史れきし』は、「ルドルフス」なる人物じんぶつがリシャールはく(すなわちリシャール2せい)の不興ふきょうったすえにノルマンディーをったとする[9]兄弟きょうだいなか指導しどうしゃとしてみなみイタリアにおもむいたもの資料しりょうによってことなる。オーデリックおよびジュミエージュのギヨーム英語えいごばん著作ちょさくノルマンディー公武こうぶくん英語えいごばん』はオスモンドとし、グラベールはルドルフとする。レオーネ、アマートおよびシャバンヌのアデマールフランス語ふらんすごばんはジルベールとする。みなみイタリアの資料しりょう大半たいはんは、1018ねんカンネーのたたかイタリアばんでノルマン軍団ぐんだん指揮しきしたのはジルベールであったとする[10]かりにこのルドルフがアマートの歴史れきしてくるドレンゴトのルドルフとどう一人物いちじんぶつであったとするならば、ルドルフがカンネーのたたかいの指揮しきかんであったということになる[11]

ノルマンじんメッツォジョールノへの到来とうらいについてのもうひとつの仮説かせつ - 近代きんだい仮説かせつ - は、グラベール、アデマールおよびレオーネ(ピエールによる続編ぞくへんず)の年代ねんだいかんするものである。この3つの年代ねんだいはすべて、リシャール2せいいかりからのがれたルドルフにひきいられた40めいもしくはそれより大幅おおはばおおやく250めいのノルマンじんがローマの教皇きょうこうベネディクトゥス8せいのもとにおもむいたとべている。当時とうじ教皇きょうこうみずからが宗主そうしゅけんゆうするベネヴェントひがしローマの侵略しんりゃくけて憤激ふんげきしていたことから、ひがしローマに対抗たいこうする傭兵ようへい募集ぼしゅうしているサレルノないしカープアかれらをかわせた。同地どうちにてノルマンじんたちはベネヴェントの指導しどうしゃであるベネヴェントこうランドルフォ5せい英語えいごばんとカープアこうランドルフォ4せいイタリアばんったが、前述ぜんじゅつのサレルノこうグアイマーリオ3せいとバーリのメロとった可能かのうせいもある。レオーネの年代ねんだいもとにするとルドルフは、トスニのラルフとどう一人物いちじんぶつであると推定すいていされる[12]

1017ねん5月でのたいひがしローマせんにおいてバーリのメロにやとわれた傭兵ようへいたちを、みなみイタリアでノルマンじん軍事ぐんじ活動かつどうはじめて確認かくにんされた事例じれいふくめるとするならば、そのノルマンじんたちは1がつから4がつあいだにノルマンディーをったことになる。

ランゴバルトけい貴族きぞくによる反乱はんらん 1009ねん–1022ねん

[編集へんしゅう]
1022ねん神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ2せいによる遠征えんせいによって投獄とうごくされるランドルフォ4せい・ディ・カプア

1009ねん5月9にちひがしマ帝国まていこくイタリアにおける権威けんいギリシアばん拠点きょてんであったバーリにて帝国ていこくたいする反乱はんらん勃発ぼっぱつした。 これを指導しどうしたのが現地げんちのランゴバルト貴族きぞくなか突出とっしゅつしていたメロ・ディ・バリであり、反乱はんらんまたたにその都市としひろがった。同年どうねん後半こうはんないしよく1010ねんにカテパノ(ひがしマ帝国まていこくりょうみなみイタリア地区ちく最高さいこう司令しれいかん)であるヨハネス・クルクアス (カテパノ)イタリアばん戦死せんしした。1010ねん3がつにその後継こうけいしゃであったバシレイオス・メセルドスイタリアばん増援ぞうえんぐんともなって上陸じょうりくして反乱はんらんぐんこめまち包囲ほういした。まちひがしローマけい住民じゅうみんはバシレイオスと交渉こうしょうしてランゴバルド貴族きぞく首領しゅりょうメロとその義兄ぎけいダット・ディ・バーリイタリアばん強制きょうせいてき追放ついほうした。バシレイオスは1011ねん6月11にちまち入城にゅうじょうしてひがしローマの権威けんい回復かいふくさせたもののそれ以上いじょう行動こうどうこすことはなく勝利しょうりさらなる追及ついきゅうをしなかった。バシレイオスのしたことといえば、メロの息子むすこであるアルギロイタリアばんコンスタンティノープルおくったくらいであった。バシレイオスはみなみイタリアが平和へいわ状態じょうたいたもかたち1016ねん 以降いこうぼっしている。

同年どうねんにバシレイオスの後継こうけいしゃとしてレオ・トルニコス・コントレオンイタリアばん赴任ふにんした。バシレイオスの死去しきょけてメロはふたた反乱はんらんこしたが、今回こんかいは、ベネディクトゥス8せいによっておくまれたか、あるいはモンテ・カルガノにて自身じしんが(あるいはグリエルモの助言じょげんきで)ったであろうノルマンじん一団いちだんやとっていた。ノルマン=ランゴバルド混合こんごうぐん対抗たいこうするかたちで、レオはレオ・パシアノス英語えいごばん ひきいるぐん派遣はけんした。パシオナスとメロはアレヌラのフォルトレイタリアばんにて邂逅かいこうして戦闘せんとう決定的けっていてきではなかったが(グリエルモ・ディ・プグリア)、メロの勝利しょうり(レオネ・オスティエンス)でわったらしい。このときトルニコスはみずからが指揮しきっており、チヴィターテにて自軍じぐん偶然ぐうぜんにも度目どめ戦闘せんとうみちびくにいたった。この度目どめ戦闘せんとうはメロの勝利しょうりわったが、ルポ・プロトスタパイタリアばん無名むめいのバーリ年代ねんだいでは敗北はいぼく記録きろくされている。 ヴァッカレツィアできたさん度目どめ戦闘せんとうは、メロの決定的けっていてき勝利しょうりわった。フォルトレからトラーニいた全域ぜんいき9月にメロのち、12月着任ちゃくにんしたバシレイオス・ボイオアンネスイタリアばん好意こういによりトルニコスはみずからの任務にんむから解放かいほうされることとなった。

ボイアニスの要請ようせいけてノルマンじんたたかうためにひがしマ帝国まていこくヴァリャーグ親衛隊しんえいたい英語えいごばんがイタリアに派遣はけんされた。ふたつのヴァイキング戦隊せんたいは、かつて紀元前きげんぜん216ねんハンニバル勝利しょうりおさめたカンナエ付近ふきんオファントがわにて激突げきとつし、戦闘せんとうひがしローマがわ決定的けっていてき勝利しょうりわった。ボイアネスは、このたたかいで戦果せんか保持ほじするためにアプリア平原へいげんくち番兵ばんぺいまでじかいた巨大きょだい要塞ようさいアペニンきずいた。1019ねん当時とうじはそうばれたトローイアにボイアネスのノルマン派遣はけんぐん守備しゅびはいったが、これはノルマンじんによる正規せいき傭兵ようへいという兆候ちょうこうであった。

ノルマンじんによる戦闘せんとうによる南方なんぽうにおける勢力せいりょく交替こうたいけて、教皇きょうこうベネディクトゥス8せい1020ねんバンベルクおもむいてとき神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ2せい協議きょうぎした。ハインリヒ2せいは、直接ちょくせつ行動こうどうらなかったもののよく1021ねん出来事できごと干渉かんしょう決意けついさせる。ボイアニスはランドルフォ4せい・ディ・カプアと同盟どうめいむすんで教皇きょうこうぐんとともにガエタ公国こうこくイタリアばん領域りょういきとりで守備しゅびしていたダットのもとに進軍しんぐんしたのである。1021ねん6月15にちにダットは捕虜ほりょとなり大袋おおふくろなかサル雄鶏おんどりヘビ一緒いっしょれられてうみ放棄ほうきされた。1022ねんにハインリヒ2せいケルンのピグリムドイツばんポポネ・ディ・ガリンツィアイタリアばん三軍さんぐんから神聖しんせいマ帝国まていこく大軍たいぐんがトローイアを攻撃こうげきした。トローイアは陥落かんらくこそしなかったもののすべてのランゴバルトけい諸侯しょこうかみきよしマ帝国まていこくられてランドルフォ4せいはドイツの監獄かんごくへとはこばれていった。かくしてランゴバルトけい貴族きぞくによる反乱はんらん時期じき終焉しゅうえんをむかえたのであった。

傭兵ようへいとしての奉仕ほうし、1022ねん–1046ねん

[編集へんしゅう]

1024ねんおそらくはライヌルフによって統率とうそつされたであろうノルマンじん傭兵ようへいは、当時とうじ、カプアにおいてランドルフォ5せいイタリアばんをランドルフォ4せい共同きょうどう包囲ほういしたグリエルモ3せいから報酬ほうしゅうたまわっていた。包囲ほういから18ヶ月かげつった1026ねんにカプアが降伏ごうぶくしたことでランドルフォ4せい復権ふっけんした。翌年よくねんにライヌルフ自身じしんがランドルフォ4せいのもとにくわわったもののみずからのおおやけてて、かつておそらくは自身じしん助言じょげんによって1027ねんにランドルフォ4せいによってナポリからわれたナポリこうセルギオ4せいイタリアばんのもとにさんじた。

1029ねんにライヌルフとセルギオ4せいはナポリをさい占領せんりょうした。1020ねん初頭しょとうにセルギオ4せいはライヌルフにたいしてノルマンじんとしては最初さいしょおおやけりょうとなるアヴェルサはくりょうイタリアばん封地ほうちとしてさづけ、さらには自身じしん姉妹しまい結婚けっこんさせている。しかし1034ねんつまであるセルギオ4せい姉妹しまいぼっするとライヌルフはランドルフォ4せいのもとに寝返ねがえった。アマトは以下いかのようにべている。

ノルマンじんたちは自身じしんにとって不利益ふりえきになるであろうランゴバルドじんによるいくつかの決定的けっていてき勝利しょうりいちたりとものぞんではいなかった。もっともいまではノルマンじんとランゴバルドじんたがいにたすっていかなる破滅はめつふせいでいる。

ライヌルフの陣営じんえい見出みいだされとくなにわれることなくむかれられたノルマンじん増援ぞうえん部隊ぶたいならびに現地げんちとうにより,ライヌルフの勢力せいりょく膨張ぼうちょうすることとなった。同地どうちではいにしえノルマンフランス語ふらんすごばんならびにノルマンじん習慣しゅうかんことなる集団しゅうだん民族みんぞくとして密接みっせつむすびつけたことが、さきのアマトによって観察かんさつされている。

1037ねん神聖しんせいローマ皇帝こうていコンラート4せいがランドルフォ4せいはいしてじかにライヌルフを「アヴェルサはく」ににんじたことでノルマンじん勢力せいりょくさら飛躍ひやくした。1038ねんにライヌルフはカプアに侵入しんにゅうして自分じぶんくにみなみイタリアで最大さいだいくにひとつに拡大かくだいさせた。

1038ねんから1040ねんにかけて、シチリアにおけるひがしマ帝国まていこくのサラセンじんたいする戦闘せんとう参加さんかさせるためにグアイマーリオ4せい・ディ・サレルノイタリアばんひきいるべつのノルマンじん一団いちだんがランゴバルド軍団ぐんだんとともに派遣はけんされた。このシチリアにおける戦闘せんとうゲオルギオス・マニアケスギリシアばん指揮しきたたかったアルタヴィラ人物じんぶつはじめて名声めいせいた。その一人ひとりであるグリエルモ1せい・ディ・アルタヴィライタリアばんシラクサ包囲ほういせんで「鉄腕てつわん」という綽名をている。

1040ねんアスコリにてカテパノであったニケフォロス・ドケアノスイタリアばん暗殺あんさつされるとノルマンじんたちあらたな指導しどうしゃ自分じぶんたちなかからえらぼうとしたもののベネヴェントこうアテヌルフ英語えいごばん,に買収ばいしゅうされてかれ指導しどうしゃとしてようくこととなった。1041ねん3月16にちオリヴェントイタリアばんヴェノーザ付近ふきんにてノルマンぐんあらたなカテパノとなったミカエル・ドケイアノスイタリアばん交渉こうしょうはしたものの失敗しっぱいわってカンエナ付近ふきんモンテ・マジョリエイタリアばんにて戦闘せんとうとなった。ミカエルはバーリからヴァラング親衛隊しんえいたい大軍たいぐんせたにもかかわらず完敗かんぱいわってそのぐんおおくが退却たいきゃくさいにオファントがわにて溺死できしした。

1041ねん9月3にち名目めいもくじょうはランゴバルドじん指導しどうしゃであるアルドゥインとアテヌルフの指揮しきにあったノルマンじんは、あらたなカテパノであるエクアウグスト・ボイアネスイタリアばんやぶってベネヴェントにて捕虜ほりょにしてかなりのかずおよぶランゴバルトじん残党ざんとう征服せいふく影響えいきょうおよぼした。同時どうじにこのときかんしてグアイマーリオ4せいはノルマンじん様々さまざま約束やくそくとともにその軍旗ぐんきえがいた。1042ねん2がつに、おそらくは見捨みすてられたとかんじたこととひがしローマがわによる買収ばいしゅうであろうか、アテヌルフはエクアウグストの釈放しゃくほうについて交渉こうしょうして身代金みのしろきんとともにひがしローマの領域りょういき逃走とうそうした。アテヌルフにわって初期しょきいくつかの勝利しょうりおさめたことのあるアルギロがあらたに指導しどうしゃとしてえらばれたものの、アルギロもそのころにはひがしローマがわ買収ばいしゅうされていたという問題もんだいかかえていた。

1042ねん9月にノルマンじんたちは、最終さいしゅうてき自分じぶんたちのなかから指導しどうしゃ選出せんしゅつした。反乱はんらん本来ほんらい、ランゴバルドじんによるものであったがその性質せいしつ指揮しきけんがノルマンじんによるものとなった。 鉄腕てつわんグリエルモ1せいが「伯爵はくしゃく」としてあらたな指導しどうしゃとして選出せんしゅつされた。グリエルモとその指導しどうしゃはグアイマーリオ4せいたいしてみずからの征服せいふくみとめてくれるよう懇願こんがんした。ノルマンじんたちメルフィ付近ふきん土地とち封地ほうちとして拝領はいりょうしてグリエルモ1せいプッリャとカランブリアこうであることを宣言せんげんした。1043ねんにグアイマーリオ4せいは、共和きょうわせいがた統治とうちされていたメルフィそのものをのぞ領域りょういきを20のはくりょうとして分割ぶんかつしてノルマンじん指導しどうしゃ恩典おんてんとしてさづけた。グリエルモ1せいはアスコリを、アスクレティンはアチェレンツァを、トリスタノイタリアばんイルシーナを、ウーゴ・トゥタボヴィイタリアばんモノーポリを、ピエトロ1せいはトラーニを、ドローゴネ・ディ・アウタヴィライタリアばんはヴェノーザを、そしていま独立どくりつしているライヌルフ・ディ・ドレンゴトはモンテ・カルガノをそれぞれった。つづいてグリエルモ1せいソレントこうグイドイタリアばんむすめでグアイマーリオ4せいめいにあたるグイダと結婚けっこんしたが、これによりノルマンじんとグアイマーリオ4せいとの同盟どうめい強化きょうかされることとなった。

統治とうち期間きかんちゅうのグリエルモ1せいとグアイマーリオ4せいは、1044ねんカラブリアへの征服せいふく開始かいしして、スクイッラーチェ付近ふきんにて巨大きょだいなストゥリドーアじょうきずいた。1045ねんグリエルモ1せいターラント付近ふきんにてアルギリスに敗北はいぼくしたことでアプリアの征服せいふくには失敗しっぱいしたもののおとうとのドローゴネはボヴィーノ征服せいふくしている。しかしながらグリエルモ1せいとともにノルマンじん傭兵ようへいとしての奉仕ほうし時代じだい完全かんぜんまくたれて、ノルマンじんによる強力きょうりょくふたつの公国こうこく台頭たいとうにすることとなった。ひとつはアヴェルサはくりょうカプア公国こうこくイタリアばんであり、もうひとつはアプリアはくりょうアプーリア公国こうこくイタリアばんである。りょう公国こうこくとも名目めいもくじょう神聖しんせいマ帝国まていこくもうてる義務ぎむっていた。

メルフィにてられたノルマンじんによる石城せきじょう同地どうちでは以前いぜんには要塞ようさいてられてはいない。のちいち区間くかんごとにたんなる長方形ちょうほうけいがたのノルマンじん守衛しゅえいする場所ばしょきずいたことから建築けんちくぶつ今日きょうでは建物たてものかたまりとなっている。

メルフィはくりょう、1046ねん–1059ねん

[編集へんしゅう]

1046ねんにドロゴーネはアプリアにはいってターラント付近ふきんにてカテパノのエウスタチオ・パラティノ英語えいごばんやぶった。一方いっぽう、そのさんおとうとであるウンフレードイタリアばんバーリにノルマンじんとの条約じょうやく締結ていけつすることをいさせた。幸運こううんにもドロゴーネの継承けいしょうたすけ、それによってみなみイタリアのにノルマンちょう樹立じゅりつさせることとなったグアイマリオは1047ねんにドロゴーネにみずからのむすめであるガイテルグリマイタリアばんあたえて結婚けっこんさせた。神聖しんせいローマ皇帝こうていハインリヒ3せいくろおうみずからに忠実ちゅうじつであるということでアヴェルサはくりょうみとめ、ドロゴーネを直接ちょくせつ家臣かしんとし、 メルフィのノルマンじんにとって最初さいしょ正当せいとう称号しょうごうである「イタリアおおやけおよびアプーリアとカラブリアのノルマンじんはく」をさづけた。ハインリヒ3せい自身じしん皇后こうごうであるアグネスがベネヴェントじんから虐待ぎゃくたいされていたことから、ドロゴーネにベネヴェント征服せいふく権限けんげんさづけてみかどかんむり代理だいりとして掌握しょうあくさせた。もっともノルマンじん1053ねんまではベネヴェントを征服せいふくすることは出来できなかった。

1048ねんにドロゴーネはコゼンツァ付近ふきんクラチ渓谷けいこくイタリアばんてカラブリアへの拡張かくちょう指揮しきった。ドロゴーネはカラブリアの征服せいふく分配ぶんぱいしてよんおとうとであるロベルト・イル・グイスカルド入口いりくち守衛しゅえいとしてのスクリバのしろさづけた。ドロゴーネは1051ねんにビザンツの陰謀いんぼう暗殺あんさつされ、みじか空位くういのちさんおとうとのウンフレードが継承けいしょうした。ドロゴーネ指導しどうのノルマンじん騎士きし反乱はんらんはローマ教皇きょうこうレオ9せい激怒げきどさせており、ウンフレートの最初さいしょ挑戦ちょうせん教皇きょうこうとの対立たいりつ処理しょりすることにあった。

チヴィターテのたたかイタリアばん戦闘せんとうあかがノルマンじんあお教皇きょうこう連合れんごうである。

1053ねん6月18にちにウンフレートは教皇きょうこう皇帝こうてい連合れんごう対抗たいこうするかたちでノルマンぐん指揮しきった。チヴィターテのたたかイタリアばんでノルマンぐん教皇きょうこうぐん壊滅かいめつさせてレオ9せい捕虜ほりょとしてベネヴェントに幽閉ゆうへいし、教皇きょうこうはそれを即座そくざあまんじてれた。ウンフレートの治世ちせいのこされたものはオーリアナルドレッチェ征服せいふくにあり、これとうみな1055ねんまでには終了しゅうりょうした。1054ねんにピエトロ1せいトラーニ付近ふきん領域りょういき継承けいしょうしたピエトロ2せいどう都市とし最終さいしゅうてきひがしローマから征服せいふくした。ウンフレートは1057ねん死去しきょしてよんおとうとのロベルト・グイスカルドが継承けいしょうすると自身じしんただちにおおやけにおけるよりたか称号しょうごうえに神聖しんせいローマ皇帝こうてい完全かんぜん忠実ちゅうじつになり、また教皇きょうこうふうしんとなった。

アヴェルサはくりょう、1049ねん–1098ねん

[編集へんしゅう]

1050年代ねんだいおよび1060年代ねんだいみなみイタリアにおけるノルマンじん勢力せいりょく中心ちゅうしんふた存在そんざいした。ひとつはウンフレート支配しはいのメルフィであり、もうひとつはドロゴーネ支配しはいのアヴェルサである。リッカルド1せい・ドロゴーネイタリアばんおそらくは暴力ぼうりょくてき手段しゅだんもってアヴェルサはくりょう1049ねん継承けいしょうするとただちにオートヴィルのライバルたち競争きょうそうするかたちでの領土りょうど拡張かくちょう政策せいさくはじめた。

リッカルド1せい当初とうしょカプアこうランドルフォ6せい英語えいごばんガエタこうアテノルフォ1せいイタリアばんサレルノこうギスルフォ2せいイタリアばんったランゴバルドけい隣人りんじんとのあいだのないあらそいをひろげた。リッカルド1せいは、かつては強大きょうだい公国こうこくであったが、サレルノ都市としそのものであるところのわずかに左側ひだりがわまで国境こっきょうせんしやった。リッカルド1せい自身じしんむすめとアテノルフォ1せい長子ちょうしとのあいだ婚約こんやくけることで平和へいわてき影響えいきょうりょく拡大かくだいはしたものの、その長子ちょうし結婚けっこんまえぬとかれ両親りょうしんからのランゴバルドのモルゲンガブ英語えいごばんもとめた。アテノルフォ1せいがこれを拒絶きょぜつするとガエタにのこされていたわずかな封土ほうどひとつであるアクイーノ1058ねん包囲ほういしてとした。リッカルド1せいのガエタ征服せいふく年代ねんだい混同こんどうされている。1058ねんから1060ねんまでの文書ぶんしょはリッカルド1せい長子ちょうしジョルダーノ1せい英語えいごばんガエタこうイタリアばんとして言及げんきゅうしているが、アテノルフォ1せい1062ねんぬまでいまだガエタこうであったことから、これらは偽造ぎぞうであるとろんじられている[13]。 アテノルフォ1せい没後ぼつごにリッカルド1せい、ジョルダーノ1せいはガエタ公国こうこく支配しはいおよぼしたはしたものの、1064ねん完全かんぜんにガエタがドロゴーネの公国こうこくれられるまで、アテノルフォ1せい相続そうぞくじんであった アテノルフォ2せい英語えいごばんみずからの臣下しんかとして統治とうちすることをゆるした。リッカルド1せい、ジョルダーノ1せい親子おやこは、大概たいがいはノルマンじん出身しゅっしんであった傀儡かいらいおおやけ任命にんめいした[14]

1057ねん病弱びょうじゃくなカプアこうぬとリッカルド1せいただちにカプア包囲ほういした。ガエタ同様どうよう、そのカプア征服せいふく年代ねんだい混同こんどうしている。パンドルフォは、1062ねん5月12にちまでカプアこうであったと記録きろくされている兄弟きょうだいランドルフォ8せい英語えいごばんからカプアを継承けいしょうした。リッカルド1せい、ジョルダーノ1せい親子おやこ1058ねんにカプアこう称号しょうごう採用さいようはしているものの表面ひょうめんじょうはランドルフォ8せいおそらくはリッカルド1せい親子おやこ下位かいのもとで統治とうちすることをゆるされており、それがすくなくとも4ねん以上いじょうおよどう都市としめてとなる。1059ねんにローマ教皇きょうこうニコラウス2せいはメルフィにて教会きょうかい会議かいぎ召集しょうしゅうし、そこでリッカルド1せいをアヴェルサはくとカプアこうとして承認しょうにんした。リッカルド1せいのち自身じしん獲得かくとくしたものへの見返みかえりとして教皇きょうこう忠誠ちゅうせいちかった。その、ドロゴーネはカプアをみずからの本拠地ほんきょちとし、ここからアヴェルサとガエタを支配しはいした。

リッカルド1せい、ジョルダーネ親子おやこみずからのあたらしいガエタとカプアの領域りょういきラティウム 方面ほうめんおよ教皇きょうこうりょう内部ないぶった北部ほくぶへと拡大かくだいさせた。1066ねんにはリッカルド1せいはローマそのもの進軍しんぐんしているものの早々そうそうかえすことを余儀よぎなくされた。しかしながら、リッカルド1せい後継こうけいしゃとしてのジョルダーネ1せい地位ちいが、リッカルド1せいこころみてこぎけた教皇きょうこうとの同盟どうめい期間きかん跡付あとづけてカプアの征服せいふく中止ちゅうしされた。しかしながら、1090ねんにジョルダーネ1せい死去しきょして、そのおさな息子むすこであるリッカルド2せい英語えいごばんとその摂政せっしょうにはカプアそのもの掌握しょうあくすることはゆるされなかった。両人りょうにんはランゴバルドけいランドーネ4せい英語えいごばんによってまちわれ、そのランドーネ4せい都市としみん支援しえんのもとで1098ねんカプア包囲ほういせん英語えいごばんでアルタヴィラ混成こんせいぐんによって奪取だっしゅされるまでカプアを支配しはいした。かくしてランゴバルドじんによるイタリア支配しはいしゃ完全かんぜん終焉しゅうえんむかえた。

アブルッツォの征服せいふく、1053ねん–1105ねん

[編集へんしゅう]

1077ねん最後さいごのランゴバルドけいのベネヴェントこうんだ。ローマ教皇きょうこう1078ねんにロベルト・グイスカルドにそのぐよう指名しめいした。しかしながら、ロベルト・グイスカルドは、以前いぜんの、とくにチヴィターテのたたかの10年間ねんかん、さらには1078ねん以降いこうにもおよぶノルマンじん征服せいふくによって構成こうせいしていたベネヴェント自体じたいおよびそのとなり縮小しゅくしょうされたも同然どうぜんであった公国こうこく1081ねん譲渡じょうとした。1080ねん6がつチェプラーノにて教皇きょうこうは、ノルマンじんによるりょうへの侵害しんがいめさせるのをこころみるために、それと同時どうじにベネヴェントとロベルト・グイスカルドの関係かんけいしゃみずからのために征服せいふくしたアブルッツォ技術ぎじゅつてき結合けつごうさせるためにベネヴェンドをロベルト・グイスカルドにふたた付与ふよした。

チヴィターテのたたかいの直後ちょくごにノルマンじんはベネヴェンド公国こうこくアドリア海あどりあかい沿岸えんがん征服せいふく開始かいしした。メルフィはくウンフレートの兄弟きょうだいであるゴッフレードクイタリアばんラリーノのランゴバルドけいはくりょう征服せいふくしてサムニウム地区ちくモッローネしろ襲撃しゅうげきした。ゴッフレード1せい息子むすこであるロベルト1せい (ロリテッロこう)イタリアばん[よう曖昧あいまい回避かいひ]はこれらの征服せいふく1061ねんロリテロはくりょうイタリアばんへとえた。それにもかかわらずロベルト1せいりょうをランゴバルドじんのアブルッツォへの拡張かくちょうつづけた。現在げんざいキエーティにあったランゴバルドけいのテアテはくりょう征服せいふくオルトーナ包囲ほういして、これがこの地区ちくでのノルマンじんによるこころみの目標もくひょうとなった。まもなくペスカーラ教皇きょうこうりょう北部ほくぶまで進撃しんげきした。1078ねんにはロベルト1せいはカプアこうジョルダーノ1せい同盟どうめいして教皇きょうこうりょうのアブルッツォを略奪りゃくだつした。1080ねん締結ていけつされたローマ教皇きょうこうグレゴリウス7せいとの条約じょうやく両人りょうにん教皇きょうこうりょう尊重そんちょうすることを強制きょうせいされた。1100ねんにロベルト1せい公国こうこくへと発展はってんしたりょうフォルトレイタリアばんえて拡大かくだいしてボヴィーノトッレマッジョーレ奪取だっしゅした。

モリーゼ征服せいふく不明瞭ふめいりょう状態じょうたいおおわれている。主要しゅよう都市としであるボヤーノはチィヴィターテのまえにことによるとマテセイタリアばんだい山塊さんかいいていたロベルト・グイスカルドの指導しどうのもとで征服せいふくされたそうである。ボヤーノはくりょうはロドルフォ・ディ・モリーゼにさづけられ、そのまごのユードはトーロサン・ジョヴァンニ・イン・ガルド征服せいふくすることで東方とうほうへと拡大かくだいし、1105ねんにカプアのはくりょうであるヴェナフロピエトラッボンダンテトリヴェント吸収きゅうしゅうすることで同時どうじ西方せいほうへも拡大かくだいしている。

シチリアの征服せいふく、1061ねん–1091ねん

[編集へんしゅう]

  中世ちゅうせいイタリア・イスラムイタリアばんシチリア・イスラムイタリアばんノルマン=アラブ=ビザンティン文化ぶんか英語えいごばん参照さんしょう

1061ねんチェラーミのたたかにて35,000にんの"サラセンじん"にたいして勝利しょうりしたルッジェーロ1せい

ノルマンじんによって征服せいふくされた当時とうじのシチリアは、だい部分ぶぶんギリシャせい教徒きょうとんでいて、サラセンじん支配しはいにおかれていた。同島どうとう元来がんらいアグラブあさ、そしてファーティマあさ支配しはいにおかれていたが、948ねんカルビあさイタリアばんがファーティマあさからしま支配しはいけん無理矢理むりやりもぎ1053ねんまでその状態じょうたいにおいた。1010ねんだい1020ねんだいイフリーキヤズィールあさによる干渉かんしょうによって連続れんぞくした継承けいしょう危機ききはじまった。弱小じゃくしょう封建ほうけん領主りょうしゅたがいに支配しはいけんめぐってあらそったことでシチリアは混乱こんらんおちいった。この混乱こんらんじょうきょうなかをシチリア征服せいふく意志いしいたロベルト・グイスカルドとそのおとうとであるルッジェーロがローマ教皇きょうこううしたてとしてめてた。このとき教皇きょうこうはロベルトにおおやけ称号しょうごうさづけ、同時どうじ内実ないじつともなわない「シチリアこう」の称号しょうごうさづけており、このことがロベルトがアラブじんによってもぎられたシチリアへ遠征えんせい着手ちゃくしゅすることをてたのである。

ロベルト、ルッジェーロ兄弟きょうだいはじめてシチリアに侵入しんにゅうしたのは1061ねん5がつであり、レッジョ・ディ・カラブリアからわたってメッシーナ海峡かいきょう支配しはいけんにぎるために戦略せんりゃくじょう必要ひつよう不可欠ふかけつメッシーナ包囲ほういしている。ルッジェーロは最初さいしょ海峡かいきょうわたってだれにもられずによるあいだ上陸じょうりくしてあさにサラセンぐんおどろかせた。それからおくれるかたちでロベルトの軍隊ぐんたい上陸じょうりくしたさいには無抵抗むていこうのままメッシーナが放棄ほうきされたことをった。ロベルトはただちにまち要塞ようさいしてイブン・アル=ハワーズの宿敵しゅくてきであった アミールイブン・ビン=ティムナスと同盟どうめいした。

それからロベルト、ルッジェーロ、そしてティムナスはティムナスに忠実ちゅうじつなままであったロメッタ経由けいゆしてしま中心ちゅうしんへと進軍しんぐんした。3にんフラッツァノとともにマニアケス平原へいげん通過つうかした。チェントゥーリペまち襲撃しゅうげきはしたものの抵抗ていこうおおきかったのではらった。パテルノー素早すばや陥落かんらくしてロベルトは自軍じぐんをシチリア中央ちゅうおうなかもっと手強てごわ要塞ようさいである現在げんざいのエンナであるカストロジョヴァンニへとれた。出撃しゅつげきした守備しゅびぐんやぶられる一方いっぽう要塞ようさいそのものちず、ふゆ到来とうらいのためロベルトはアプリアへ帰還きかんすることを余儀よぎなくされた。ロベルトはまえにシチリアにおけるノルマンじん最初さいしょしろたるサン・マルコ・ダルンツィオでの要塞ようさいきずいた。

1071ねんパレルモかぎるルッジェーロ1せい

1064ねんにロベルトはもどってはたもののカストロジョヴァンニを迂回うかいするかたち首都しゅと パレルモ.へ直進ちょくしんした。しかしながら、その野営やえいタランチュアにより放棄ほうきせざるをえず、遠征えんせい全体ぜんたい中止ちゅうしされた。1071ねんにパレルモにふくしたものの都市としのみであり、要塞ようさいちなかった。ロベルトはルッジェーロに、アプリアこう宗主そうしゅしたでのシチリアはくイタリアばん授与じゅよした。要塞ようさい1072ねん1がつちた。兄弟きょうだいあいだでのしま分割ぶんかつは、ロベルトがパレルモ、メッシーナの半分はんぶんおよヴァル・デモーネイタリアばん保持ほじし、征服せいふくされていないところもふくのこりをルッジェーロがることとなった。

1077ねんにルッジェーロは、島西しまにしのこっていた2つのサラセンじん要塞ようさいのうちのひとつであるトラーパニ包囲ほういした。ルッジェーロの私生児しせいじジョルダーノイタリアばん不意ふい出撃しゅつげきをしたことでくさべていた守備しゅび駐屯ちゅうとんぐんししおどろいてしまった。食料しょくりょう供給きょうきゅうたれたことでまちぐにわたされた。1079ねんにはタオルミーナ包囲ほういされて1081ねんにジョルダーノはロベルト・ディ・ソウルヴァルやエリアス・カルトーミとともに不意ふい突撃とつげきで、シラクサ首長しゅちょう掌握しょうあくしていたカターニア征服せいふくした。

ノルマンニ宮殿きゅうでん9世紀せいきのアラブじん宮殿きゅうでんがノルマンじんによってその統治とうちするしろえられたものであった。

ルッジェーロ自身じしん1083ねんなつにイタリア半島はんとう本土ほんど兄弟きょうだいたすけるためにシチリアをのちにしたが委任いにんしていたジョルダーノが反乱はんらんこしたためにシチリアにもどることを余儀よぎなくされ、そこでジョルダーノを服従ふくじゅうさせた。ルッジェーロは1085ねん最終さいしゅうてき組織そしきてき遠征えんせい着手ちゃくしゅすることが出来できた。同年どうねん5月22にちにルッジェーロは会場かいじょうからシラクサに接近せっきんし、都市とし北部ほくぶ15マイルのところで小規模しょうきぼ騎兵きへい分遣ぶんけんたい指揮しきした。5月25にちにルッジェーロと首長しゅちょう海軍かいぐんみなと交戦こうせんし、そこで後者こうしゃころされた。他方たほう、ジョルダーノ指揮しき軍勢ぐんぜい都市とし包囲ほうい開始かいしした。包囲ほういなつとおしてつづいたが1086ねん3がつ降伏ごうぶくし、ノートのみがサラセンの領域りょういきのこったままであった。1091ねんみじか努力どりょくのちにノートもおなじく服従ふくじゅうしてシチリア征服せいふく完全かんぜんものとなった。

みなみイタリアの征服せいふく統一とういつされた指揮しき命令めいれいのもと着手ちゃくしゅされたことから、ルッジェーロの権威けんい征服せいふくしゃたちからの挑戦ちょうせんけずにみずからの支配しはいにおいたギリシャじん、アラブじん、ランゴバルドじん、ノルマンじんふうしんおよ臣民しんみんたいする強力きょうりょく権力けんりょく維持いじした。ローマ・カトリック教会きょうかい教皇きょうこう承認しょうにんたルッジェーロによってしまおよびその教会きょうかい組織そしきした管理かんりしゃ紹介しょうかいされた。司教しきょう管区かんくが、首都しゅと大司教だいしきょう権威けんい付随ふずいさせたかたちでパレルモ、シラクサおよアグリジェント設立せつりつされた。1130ねん占領せんりょう王国おうこく昇格しょうかく、シチリアはノルマン権力けんりょく中心ちゅうしんとなった。

1091ねんにルッジェーロはマルタ上陸じょうりくしてイムディーナ城壁じょうへきめぐらせたまち征服せいふくした。同島どうとうぜいしたもののアラブじん総督そうとくがその機能きのうつづけることを許可きょかした。1127ねんにルッジェーロ2せいはイスラム教徒きょうと総督そうとく解任かいにんしてノルマンじん役人やくにんえた。ノルマンじん支配しはいのもと、ギリシャせい教徒きょうと島民とうみんであったアラブじんいく世紀せいきおよぶイスラム教徒きょうと支配しはいのもとで変形へんけいしたことなる言語げんごであるマルタ採用さいようした。

アマルフィとサレルノの征服せいふく、1073ねん–1077ねん

[編集へんしゅう]

アマルフィとサレルノがロベルト・グイスカルドのちたのは両者りょうしゃともにそのつまであるシセルガティアイタリアばん影響えいきょうのもとできた。アマルフィはおそらく彼女かのじょ交渉こうしょうによってわたされ[15]他方たほう、サレルノのほう自身じしん兄弟きょうだいであるサレルノこう代理だいりであるおっと嘆願たんがんすることをめたのちちた。アマルフィ市民しみんもノルマンじん宗主そうしゅになることをけようとこころみて、短期間たんきかんでギスルフこうのもとにはいったが、これが失敗しっぱいして9世紀せいき以来いらい歴史れきし密接みっせつむすける2つのくに両者りょうしゃともノルマンじんによる永久えいきゅうてき支配しはいかれた。

1076ねんなつまでにサレルノこうギスルフ2せい海賊かいぞく行為こうい襲撃しゅうげきによってノルマンじん十分じゅうぶんなやますことで彼等かれら刺激しげきして自身じしん破滅はめつさせることとなった。この時期じきにノルマンじんのカプアのリッカルドとロベルト・グイスカルドは共同きょうどうでサレルノを包囲ほういした。ギスルフ2せい市民しみんたいして2年間ねんかんぶん食料しょくりょうたくわえをめいじたものの、みずからの贅沢ぜいたく生活せいかつつづけるために十分じゅうぶん食料しょくりょう没収ぼっしゅうしたことから市民しみんぐにえることとなった。1076ねん12月13にちまち降伏ごうぶくしておおやけとその家臣かしん要塞ようさい後退こうたいし、その要塞ようさい1077ねん5月13にち陥落かんらくした。ギスルフの土地とち没収ぼっしゅうされてその遺品いひんうばわれたが自身じしん自由じゆうとなった。サレルノ公国こうこくは、以前いぜんグリエルモ・ディ・アルタヴィライタリアばん、ルッジェーロ、ロベルト・グイスカルドとのあらそいですでおおかれすくなかれ首都しゅとおよ周辺しゅうへん地域ちいき縮小しゅくしょうしていた。しかしながらこのまちみなみイタリアではもっと重要じゅうようであり、その占領せんりょうは15ねん王国おうこく創立そうりつには必要ひつよう不可欠ふかけつであった。

1073ねんアマルファイこうセルギオ3せい英語えいごばん後継こうけいしゃである唯一ゆいいつおさなジョヴァンニ3せい英語えいごばんのこしてぼっした。これらの不安定ふあんてい時期じきにアマルフィ民衆みんしゅうまもるための強力きょうりょく支配しはいもとめられたことから、彼等かれらおさなおおやけ追放ついほうして同年どうねんにロベルト・グイスカルドをんだ[16]。しかしながらアマルフィはノルマンじん支配しはいでは不安定ふあんていなままであった。ロベルトの後継こうけいしゃである前述ぜんじゅつのルッジェーロ・ボルサがアマルフィを支配しはいできたのは、ギスルフがサレルノこうめんじられて追放ついほうされたのち1089ねんのみであった。アマルフィ市民しみんはロベルトの後継こうけいしゃによる請求せいきゅう対抗たいこうすべく教皇きょうこうからの援助えんじょりつけた。1092ねんから1097ねんにかけてアマルフィはノルマンじんによる宗主そうしゅみとめずにビザンツ帝国ていこく援助えんじょもとめて懇願こんがんした[15]両者りょうしゃ1096ねんマリノ・セバステイタリアばん支配しはいしゃとしてえた。

ロベルトの息子むすこボエモンおとうとであるルッジェーロ1せいは1097ねんにアマルフィを攻撃こうげきするも撃退げきたいされた。この包囲ほうい最初さいしょのノルマンじんだい1かい十字軍じゅうじぐんによってはなされていった。マリノが唯一ゆいいつ敗北はいぼくしたのは何人なんにんかのアマルフィ貴族きぞくがノルマンがわについて裏切うらぎった1101ねんのちであった。1130ねんにシチリア国王こくおうルッジェーロ2せい忠誠ちゅうせい要求ようきゅうしたときにアマルフィは反乱はんらんこした。首長しゅちょうジョヴァンニ英語えいごばん陸地りくちからせてアンティオキアのゲオルギウスイタリアばん海上かいじょう封鎖ふうさして カプリとう拠点きょてん陣取じんどることで1131ねん反乱はんらん最終さいしゅうてき鎮圧ちんあつされた。

ノルマン・ひがしローマ戦争せんそう、1059ねん–1085ねん

[編集へんしゅう]

アプーリアのだい部分ぶぶんはる南方なんぽうまで維持いじし、バーリがグリエルモ1せい、ドロゴーネ兄弟きょうだいやそのアルタヴィラ面々めんめん遠征えんせいちゅう服従ふくじゅうする一方いっぽうで、カランブリアのだい部分ぶぶんはロベルト・グイスカルドが1057ねん継承けいしょうした時点じてんではひがしローマが掌握しょうあくしたままであった。カラブリアが最初さいしょ撃破げきはされたのは1040年代ねんだい初頭しょとうのグリエルモとガイマールによってであり、ドロゴーネは野心やしんてきなグイスカルドを同地どうちに1050年代ねんだい初頭しょとうえた。カランブリアにおけるロベルトの最初さいしょ実績じっせきはしかしながら封建ほうけん勢力せいりょく豪族ごうぞく略奪りゃくだつしゃとのたたかいについやされ、ギリシャけい住民じゅうみん服従ふくじゅうなに体系たいけいされなかった。

ロベルトは自身じしん伯爵はくしゃく領有りょうゆうけんかかげてじかにカランブリアへの遠征えんせい開始かいしした。1059ねん 8がつ23にちにメルフィはくりょう到達とうたつするまでに短期間たんきかん妨害ぼうがいされた、そこでロベルトはおおやけとして就任しゅうにんすると、後年こうねんにカランブリアへ帰還きかんして同地どうちではその軍勢ぐんぜいカリアーティ包囲ほういした。 こう到着とうちゃくするとまち降伏ごうぶくし、ぶしわりまえロッサーノジェラーチェ降伏ごうぶくした。 イタリア半島はんとう重要じゅうよう都市としはロベルトがふゆにアプリアに帰還きかんした時点じてんではわずかにレッジョひがしローマのにあった。アプリアにてロベルトはひがしローマの守備しゅびへい一時いちじてきにはあるにせよターラントブリンディジから移動いどうさせた。1060ねんにカランブリアに帰還きかんしたさいにはシチリアの拡張かくちょうおおいに開始かいしされた。レッジョの陥落かんらくながほねれる包囲ほういすえ獲得かくとくしたものであった。しかしながらロベルトの兄弟きょうだいのルッジェーロ1せい当座とうざしのぎにおさむじょう兵器へいき用意よういしていた。

レッジョの陥落かんらくひがしローマの守備しゅびへい同地どうちしま要塞ようさいであるシッラのがれたが早期そうきやぶれている。ルッジェーロ1せい海峡かいきょうえた小規模しょうきぼ襲撃しゅうげき撃退げきたいされ、1060ねん後半こうはんひがしローマ皇帝こうていコンスタンティノス10せいドゥーカスによってアプリアに派遣はけんされた同国どうこく大軍たいぐん存在そんざいがロベルトをもどした。カタパノイタリアばんミリアクラ英語えいごばんのもとひがしローマぐんはターラント、ブリンディジィ、オーリアオトラント奪回だっかいした。 1061ねん1がつにノルマンじん首都しゅとであるメルフィが包囲ほういされた。しかしながら5がつまでにロベルト、ルッジェーロ1せい兄弟きょうだいによってひがしローマぐん駆逐くちくされてアプーリアの平和へいわ回復かいふくされた。

みどりしめされたノルマンじんによるシチリア侵攻しんこう

トラニはくピエドロ1せい息子むすこであるゴフリードイタリアばん1063ねんにオトラントを1064ねんにターラントを 征服せいふくしてどう都市としはくりょう所有しょゆうとした。1066ねんにはぐん編成へんせいしてうみえてひがしローマりょうバルカン半島ばるかんはんとう攻撃こうげきしたが、バーリ付近ふきんで、ミカエル・マウリカス英語えいごばんひきいる最近さいきんあらたに着任ちゃくにんしたヴァラングしん衛兵えいへいによって阻止そしされた。ミカエルはブリンディジィと短期間たんきかんではあるがターラントを奪回だっかいし、かつてニケフォロス・カランテノス英語えいごばんのもとでブルガリアじんとのたたかいを経験けいけんした兵士へいしたち駐屯ちゅうとんぐんとしていた。ミカエルはイタリアのノルマンじんたいする一連いちれん成功せいこうをしたものの、それはひがしローマがこの地区ちくあたえた最後さいご意義いぎのある脅威きょういであった。ひがしローマ・カタパノりょう首都しゅとであったバーリは1068ねん8がつからノルマンじんによって包囲ほういされた。1071ねん4がつには、バーリの陥落かんらくイタリアばんによって、ひがしローマ総督そうとく最後さいごぜん哨兵しょうへい西欧せいおうから消失しょうしつした。

ランゴバルドイタリアばんテマだったアプーリアとカランブリアからのひがしローマ駆逐くちくにロベルト・グイスカルドはバルカンのひがしローマりょうやギリシャ本土ほんど攻撃こうげきねらいをさだめた。ビザンツにとって幸運こううんだったのは廃嫡はいちゃくされたプッリャはくウンフレートの息子むすこでロベルトのおいであるアベラルドイタリアばんエルマーノイタリアばん兄弟きょうだい味方みかたになったことである。兄弟きょうだいのロベルトにたいする反乱はんらんは、おなじくかれ対抗たいこうするかたちりょう英語えいごばんひがしローマの宗主そうしゅみとめていたモンテ・サンタンジェロはくエンリーコ英語えいごばん支援しえんした。

1081ねんにロベルトはバルカン半島ばるかんはんとうへの最初さいしょ拡張かくちょうし、16,000にんれてブリンディジィを出立いでたつし、1082ねんまでにケルキラとうドゥラス占領せんりょうし、さらには1081ねん10がつにはひがしローマ皇帝こうていアレクシオス1せいコムネノスデュッラキウムのたたか撃破げきはさえした。ロベルトの息子むすこであるマルコ・ボヘモンドテッサリア支配しはいし、ロベルト不在ふざいあいだの1081~82ねん征服せいふくこころみたものの最終さいしゅうてきには失敗しっぱいした。1084ねんにロベルトは帰還きかんしてケルキラとうケファロニアとう占領せんりょうすることで取戻とりもどし、1085ねん7がつ15にち同島どうとう永眠えいみんした。ケファロニアとうちいさなまちフィスカルド英語えいごばんはロベルト・グイスカルドにちなんで名付なづけられた。ボヘモンドはギリシャ征服せいふくもとめることを継続けいぞくはせずに、イタリアにもどわりに、同地どうち異母弟いぼていにあたるロベルト・スカリオおよルッジェーロ・ボルサとともに後継こうけいめぐって対立たいりつした。

ナポリの征服せいふく、1077ねん–1139 ねん

[編集へんしゅう]

公的こうてきにはひがしローマの領地りょうちであるナポリ公国こうこくイタリアばんはノルマンじん支配しはいおよばないみなみイタリアにおける最後さいごくにひとつであった。ナポリ公国こうこくは、1020年代ねんだいにセルジオ4せいがランドルフォ・ドレグノットに支援しえんもとめて以来いらい、わずかな例外れいがいのぞきアヴェルサとカプアのノルマンじん同盟どうめいしゃであった。1077ねんはじまるナポリのアルタヴィラあさ王国おうこくへの編入へんにゅう完遂かんすいするには16ねんついやした。

1074ねんなつにカプアこうリッカルドとロベルト・グイスカルドとのあいだ敵意てきいがった。ナポリこうセルジオ5せい英語えいごばん後者こうしゃ同盟どうめいしてその軍勢ぐんぜいまち中央ちゅうおう供給きょうきゅうした。セルジオのリッカルドにたいする行為こういかれくるしめた。リッカルドはローマ教皇きょうこうグレゴリウス7せい支援しえんけていたからである。6月にリッカルドはナポリを包囲ほういしたが短期たんきわった。リッカルド、ロベルト、セルジオ5せい時期じきダウフェリウス・ディ・モンテ・カッシーノから提供ていきょうされた仲介ちゅうかいつうじてグレゴリウス7せいとの交渉こうしょう開始かいしした。

1077ねんにナポリはリッカルドによって包囲ほういされ、ロベルトによって海上かいじょう封鎖ふうさされた。包囲ほういちゅう1078ねんにリッカルドがんだのちにそのによってわずかに破門はもん撤回てっかいされ、後継こうけいしゃであるジョルダーノは教皇きょうこう自身じしん権利けんりみとめさせるために包囲ほういめてこれがセルジオ5せい和解わかいさせることとなり、包囲ほうい中止ちゅうしされてロベルトの軍勢ぐんぜい四散しさんした。

1130ねん対立たいりつ教皇きょうこう アナクレトゥス2せいはルッジェーロ2せいにシチリア王位おういさづけてナポリがかれ王国おうこく封土ほうど一部いちぶであることを宣言せんげんした[17]1131ねんにルッジェーロ2せいはアマルフィ市民しみんたいして彼等かれらまち強化きょうかしろかぎ要求ようきゅうした。市民しみん拒絶きょぜつするとナポリこうセルジオ7せいイタリアばん最初さいしょ艦隊かんたいでアマルフィ市民しみん攻撃こうげきする準備じゅんびをしたが、アンティオキアのゲオルギウスがより強大きょうだいだい艦隊かんたいもってナポリのみなと海上かいじょう封鎖ふうさして、セルジオ7せいはアマルフィ市民しみん圧力あつりょくふるがってルッジェーロ2せい屈服くっぷくした。アレッサンドロ・テレジノイタリアばん年代ねんだいによると、「ローマの時代じだいよりほとんけん征服せいふくされることのなかったナポリは、報告ほうこく断片だんぺんによると、いまやルッジェーロのちからくっした」 。

1134ねんにセルジオ7せいは、カプアこうロベルト2せいイタリアばんアリーフェはくライヌルフォ2せいイタリアばん反乱はんらん支援しえんしたが、ルッジェーロ2せいじか対決たいけつすることかんしてはいくつかはけた。カプア陥落かんらくにセルジオ7せいはルッジェーロ2せい忠誠ちゅうせいちかいをおこなった。1135ねん4がつ24にちにカプアこうロベルト2せいひきいる8,000にん強化きょうかへいせたピサ艦隊かんたいはナポリに投錨とうびょうした。ナポリは、つぎの2年間ねんかんルッジェーロ2せいへの反乱はんらん中心ちゅうしんとして奉仕ほうしした。セルジオ7せい、ロベルト2せい、ライヌルフォ7せい1136ねんはるまでナポリで包囲ほういされた。このときまでおおくのひと餓死がしした。それにもかかわらず歴史れきし反乱はんらん共感きょうかんしゃであるファルコーネ・ベネヴェントクイタリアばんによるとセルジオ7せいとナポリ市民しみんは、「あくおう圧政あっせいくっするよりは餓死がししたほうがましだ」とよわみをせなかった。ナポリの海上かいじょう封鎖ふうさはセルジオ7せいとロベルト2せいがそれぞれ別個べっこ機会きかいさいにピサにおもむきルッジェーロ2せいいちじるしく不十分ふじゅうぶん努力どりょくをよりおお回復かいふくさせるのを妨害ぼうがいするにはあまりにも成功せいこうであった。神聖しんせいローマ皇帝こうていロタール3せい指揮しきする救援きゅうえんぐんがナポリ救援きゅうえんのために進行しんこうしてくると包囲ほういかれた。しかしながら翌年よくねんにロタール3せいいそいでげると、セルジオ7せい完全かんぜん赦免しゃめん見返みかえりとしてふたたびルッジェーロ2せい服従ふくじゅうしてノルマンしきでの封建ほうけんてき忠誠ちゅうせいちかいをたした。 1137ねん10月30にちリニャーノのたたかイタリアばん最後さいごのナポリこうはルッジェーロ2せいつかえてともんだ。

しかしながらリニャーノの敗北はいぼくはノルマンじんのナポリ征服せいふくへのみちひらくこととなった。セルジオ7せい後継こうけいしゃのこさずぼっして以来いらい、ナポリ貴族きぞくだれしんおおやけにつけるべきか合意ごういたっすることが出来できなかったからである。それにもかかわらず、セルジオ7せいとナポリのシチリア編入へんにゅうあいだにはそのあいだ2年間ねんかんがあった。貴族きぞく当面とうめんあいだ権力けんりょく行使こうししていたとおもわれる、このことは大概たいがい、この暫定ざんてい期間きかんがノルマンじんによる征服せいふく以にナポリが独立どくりつしていた最終さいしゅうてき目立めだった時期じきであったと推測すいそくされる[17]。このあいだ、ノルマンじん地主じぬし最初さいしょにナポリにあらわれた。ピサはルッジェーロ2せいてきであったが、ナポリとの同盟どうめい維持いじした。ことによるとピサは1139ねんまでナポリ独立どくりつささえていた。同年どうねんにルッジェーロ2せい最終さいしゅうてき公国こうこく王国おうこく吸収きゅうしゅうした。ローマ教皇きょうこうインノケンティウス2せいとナポリ貴族きぞくはルッジェーロ2せい三男さんなんアルフォンスイタリアばんおおやけとして承認しょうにんした。

階級かいきゅう制度せいど

[編集へんしゅう]
アドラノに初期しょきノルマンじんしろ

ノルマンじんによるみなみイタリア征服せいふくロマネスク様式ようしきとくノルマン建築けんちく様式ようしき注水ちゅうすい見受みうけられた。 ランゴバルドしきひがしローマしき、アラブしき構造こうぞうしろ拡張かくちょうされてあらたに建造けんぞうされた。これらのしろ現地げんち熟練じゅくれん技術ぎじゅつによって設計せっけいされ、彼等かれらノルマンてき要素ようそ明確めいかく保持ほじされていた。ラテンしきだい聖堂せいどうあらたに征服せいふくされたギリシャせい教徒きょうとないしイスラム教徒きょうと土地とちてられたが、それらのだい部分ぶぶんがロマネスク様式ようしきひがしローマしきイスラムしきのデザインを基礎きそとした影響えいきょうけているのは明白めいはくであった。どう時代じだい西欧せいおう体系たいけい比較ひかくするならば、最終さいしゅうてきにはノルマンじん行政ぎょうせい中央ちゅうおう集権しゅうけんされ、複雑ふくざつし、官僚かんりょうした。宮殿きゅうでんのような公的こうてき建物たてもの重要じゅうようまちとくにパレルモが顕著けんちょではあったが、共有きょうゆうのものであった。これらの建物たてもの建物たてものより一層いっそうシクロ=アラブ文化ぶんか影響えいきょう見受みうけられた。

ノルマンじんみなみイタリアでははやくにしろ建設けんせつ拡張かくちょう修繕しゅうぜんはじめた。それらのしろだい部分ぶぶん本来ほんらいないしランゴバルドじん以前いぜんのものを基礎きそとしていた。いくつかはひがしローマ、アラブしき基礎きそとしてはいたが。ノルマン時代じだい終焉しゅうえんまでには以前いぜん木製もくせいしろいしせいえられた。

初期しょきにノルマンじんによって征服せいふくされたアルフィのランゴバルドけいしろのちびた長方形ちょうほうけいキープとともに11世紀せいき後半こうはん増強ぞうきょうされ、カランブリアはノルマンじん階級かいきゅう英語えいごばんにより根本こんぽんてきわった最初さいしょ地区ちくとなった。1046ねんにグリエルモ鉄腕てつわんこうは、ストリドゥーダのスクイッラーチェ付近ふきん強大きょうだいしろ建設けんせつ開始かいしし、 1055ねんまでにロベルト・グイスカルドはすで以下いかの3つのしろてた。その場所ばしょは、ひがしローマの要塞ようさい跡地あとちロッサーノレーエン領地りょうちのクラチ渓谷けいこくゴゼンツァ付近ふきんサン・マルコ・アルジェンターノ通行つうこう保護ほごするきたカラブリアにあるスクリブラ[18]、そしてスカーレア海岸かいがんせんがけ(1058ねん)である。

グイスカルドはおのれのアプーリアでの伯爵はくしゃく就任しゅうにん主要しゅようしろ建築けんちくしゃであった。ガルガノイタリアばんに「巨大きょだいとう」とばれた五角形ごかっけいとうえたしろてた。のちモンテ・サンタンジェロはくエンリーコ英語えいごばんはそれほどとおくないカステルパガーノしろてた。モリーゼしゅうにノルマンじんはサンタクロスやフェランテといった自然しぜん守備しゅびされた地帯ちたいおおくの要塞ようさいてた。テッラチーナからテルモリまでの周囲しゅういがでこぼこしたせん地域ちいきではイタリアでもっと威厳いげんちたノルマンじんしろがある[19]おおくのえらばれた敷地しきちは、本来ほんらい古代こだいローマじんとその後継こうけいしゃによってさい利用りようされたサムニウム要塞ようさいであり、ノルマンじんはその要塞ようさいを「ふるしろ」を意味いみするカステルム・ヴェトゥスとんだ。おおくのモリーゼのしろかべやまみねめんするいしとを統合とうごうし、ほとんど垂直すいちょく直立ちょくりつした邸宅ていたくは、ノルマンじんすくなくともモリーゼではガリアの建築けんちくほう英語えいごばんほどこしたことをしめしている[20]

シチリアの階級かいきゅう現地げんちのギリシャけい住民じゅうみんねがいによってはじまった[21]。1060ねんにギリシャけい住民じゅうみん自分じぶんたちまもってくれるようアルンティウムしろててくれるよう要請ようせいした。ノルマンじん最初さいしょにシチリアにてたサン・マルコ・ダルンツィオ(そのはカランブリアでのアルジェンタノのグイスカルドの最初さいしょしろ由来ゆらいする)は直立ちょくりつしていた。このしろ荒廃こうはいからびている。 ペトラリア・ソプラナがチェハル付近ふきんてられ、つづく1071ねんにはトロイーナしろてられ、1073ねんには マツァーラ (いま廃墟はいきょのまま) とパテルノー (廃墟はいきょから回復かいふく)にしろてられた[21]アドラーノ (ないしアデルノ) ではノルマンじんは、その平面へいめんが11世紀せいきのノルマン様式ようしきのデザインの暗示あんじ提供ていきょうしてくれるひらたい長方形ちょうほうけいとうてた。外側そとがわ階段かいだん最初さいしょかいくちみちびき、内部ないぶたてなかあいだだいやしきあいだ英語えいごばんとさらに礼拝れいはいどう寝室しんしつけられていた[22]。シチリアのほか要塞ようさいはアラブじんものぎ、パレルモのような主要しゅよう都市としだい宮殿きゅうでんだい聖堂せいどう建築けんちく差異さいしめし、アラブじんしるしあきらかである。シチリアではアラブの芸術げいじゅつは、ランゴバルドじんみなみイタリアで影響えいきょうあたえたかがみ影響えいきょうあたえている。

出典しゅってん脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ 高山たかやまひろし中世ちゅうせいシチリア王国おうこく講談社こうだんしゃ、1999ねん、46ぺーじ
  2. ^ 高山たかやまひろし中世ちゅうせいシチリア王国おうこく講談社こうだんしゃ、1999ねん、46-49ぺーじ
  3. ^ a b Joranson, 355 and n 19.
  4. ^ Joranson, 356.
  5. ^ シャランドンもノーウィッチも、サレルノ伝承でんしょうとガルガーノ伝承でんしょうもとづき、両者りょうしゃ連結れんけつさせたひとつの物語ものがたりきょうしている。Houben, p 8 はサレルノ伝承でんしょう事実じじつとして提示ていじしている。
  6. ^ Joranson, 358.
  7. ^ シャランドンもおなじような仕方しかたでこのふたつの伝承でんしょうむすびつけている。Joranson, p367 は、かかる仮説かせつが「やくにたない」ことをあきらかにしている。
  8. ^ Joranson, 369.
  9. ^ Joranson, 371.
  10. ^ Chalandon, 52. Norwich.
  11. ^ Joranson, 371, disputes the identification of the two Rudolfs.
  12. ^ Joranson, 373. レオーネは“ルドルフス・トディネンシス”とんでいる。
  13. ^ Skinner, 156 and n32. Both documents are preserved in the Codex Cajetanus. Both have been ruled forgeries on the basis of erroneous dating clauses and the absence of Richard. Also, Jordan's reputed wife, Rapizza, appears to be make-believe.
  14. ^ Skinner, 156 and n32.
  15. ^ a b Skinner, 203.
  16. ^ Skinner, 202.
  17. ^ a b Skinner, 206–207.
  18. ^ Gravett and Nicolle, 132.
  19. ^ Gravett and Nicolle, 134, based on map.
  20. ^ Gravett and Nicolle, 135.
  21. ^ a b Gravett and Nicolle, 136.
  22. ^ Gravett and Nicolle, 137.

資料しりょう

[編集へんしゅう]
いち資料しりょう
資料しりょう
  • Bachrach, Bernard S. "On the Origins of William the Conqueror's Horse Transports." Technology and Culture, Vol. 26, No. 3. (Jul., 1985), pp. 505–531.
  • Chalandon, Ferdinand. Histoire de la domination normande en Italie et en Sicilie. Paris: 1907.
  • Loud, Graham Alexander. "How 'Norman' was the Norman Conquest of Southern Italy?" Nottingham Medieval Studies, Vol. 25 (1981), pp. 13–34.
  • Loud, Graham Alexander. "Continuity and change in Norman Italy: the Campania during the eleventh and twelfth centuries." Journal of Medieval History, Vol. 22, No. 4 (December, 1996), pp. 313–343.
  • Loud, Graham Alexander. "Coinage, Wealth and Plunder in the Age of Robert Guiscard." English Historical Review, Vol. 114, No. 458. (Sep., 1999), pp. 815–843.
  • France, John. "The Occasion of the Coming of the Normans to Italy." Journal of Medieval History, Vol. 17 (1991), pp. 185–205.
  • Gay, Jules. L'Italie méridionale et l'empire Byzantin: Livre II. Burt Franklin: New York, 1904.
  • Gravett, Christopher, and Nicolle, David. The Normans: Warrior Knights and their Castles. Osprey Publishing: Oxford, 2006.
  • Houben, Hubert (translated by Graham A. Loud and Diane Milburn). Roger II of Sicily: Ruler between East and West. Cambridge University Press, 2002.
  • Jamison, Evelyn. "The Norman Administration of Apulia and Capua, more especially under Roger II and William I". Papers of the British School at Rome, VI (1917), pp. 265-270.
  • Joranson, Einar. "The Inception of the Career of the Normans in Italy: Legend and History." Speculum, Vol. 23, No. 3. (Jul., 1948), pp. 353–396.
  • Matthew, Donald. The Norman Kingdom of Sicily. Cambridge University Press, 1992.
  • Norwich, John Julius. The Normans in the South 1016-1130. London: Longman, 1967.
  • Norwich, John Julius. The Kingdom in the Sun 1130-1194. London: Longman, 1970.
  • Skinner, Patricia. Family Power in Southern Italy: The Duchy of Gaeta and its Neighbours, 850-1139. Cambridge University Press: 1995.

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]