1154年 ねん のシチリア王国 おうこく (緑色 みどりいろ )、数 すう 十 じゅう 年 ねん に及 およ ぶノルマン人 じん の独立 どくりつ 心 しん の強 つよ い冒険 ぼうけん 的 てき な活動 かつどう によるイタリア 征服 せいふく を象徴 しょうちょう するものである。
ノルマン人 じん による南 みなみ イタリア征服 せいふく (ノルマンじんによるみなみイタリアせいふく)は、11世紀 せいき から12世紀 せいき にかけて、それまで東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく や帝国 ていこく の宗主 そうしゅ 権 けん を認 みと めたランゴバルド 諸侯 しょこう 国 こく などさまざまな勢力 せいりょく が割拠 かっきょ していた南 みなみ イタリア がノルマン人 じん の活動 かつどう によって統一 とういつ されていったことを指 さ す。
その過程 かてい はノルマン人 じん 傭兵 ようへい が南 みなみ イタリアで働 はたら き始 はじ めた11世紀 せいき 前半 ぜんはん から、12世紀 せいき 前半 ぜんはん に至 いた る百 ひゃく 年 ねん 近 ちか い期間 きかん に及 およ び、そこには多 おお くの戦闘 せんとう と、おのおの独立 どくりつ した複数 ふくすう のノルマン人 じん 勢力 せいりょく による幾多 いくた の領地 りょうち 獲得 かくとく 活動 かつどう が含 ふく まれていた。11世紀 せいき にノルマン人 じん 有力 ゆうりょく 君主 くんしゅ たちがそれぞれに獲得 かくとく した領地 りょうち は、1127年 ねん のアプーリア公 おおやけ 位 い 継承 けいしょう を皮切 かわき りに次々 つぎつぎ とシチリア伯 はく ルッジェーロ2世 せい の掌握 しょうあく するところとなり、シチリア王 おう 位 くらい に就 つ いたルッジェーロ2世 せい によってイタリア半島 はんとう 南部 なんぶ の平定 へいてい が完了 かんりょう したのは1140年 ねん のことであった。その領域 りょういき はシチリア島 とう のみならず、ベネヴェント (一時 いちじ 的 てき に占領 せんりょう したことが二 に 度 ど あったが、11世紀 せいき 半 なか ばには教皇 きょうこう 領 りょう となった)を除 のぞ いたイタリア半島 はんとう の3分 ぶん の1に及 およ ぶ南部 なんぶ 全土 ぜんど 、マルタ 諸島 しょとう や北 きた アフリカ の一部 いちぶ にまで及 およ んでいた。
この時期 じき に南 みなみ イタリアで活動 かつどう したノルマン人 じん たちは元 もと はノルマンディー公国 こうこく の住民 じゅうみん であり、新天地 しんてんち を求 もと めて故国 ここく を離 はな れ、山賊 さんぞく や傭兵 ようへい となった者 もの たちであった[1] 。かれらノルマン人 じん 移住 いじゅう 民 みん は、メッツォジョールノ の地 ち でランゴバルド系 けい や東 ひがし ローマ系 けい といった様々 さまざま な政治 せいじ 勢力 せいりょく の君主 くんしゅ や有力 ゆうりょく 貴族 きぞく に仕 つか える傭兵 ようへい となり、同地 どうち に定住 ていじゅう する機会 きかい があることをすぐに故郷 こきょう に報 しら せた。これらノルマン人 じん 戦士 せんし 集団 しゅうだん は各地 かくち で同郷 どうきょう の戦士 せんし を集 あつ めて徒党 ととう を組 く み、ついには自分 じぶん たちの封地 ほうち や国家 こっか を建国 けんこく するに至 いた った。ノルマン人 じん たちはメッツォジョールノに到着 とうちゃく して50年 ねん 以内 いない に、それぞれに一団 いちだん となって頭角 とうかく を現 あらわ し、事実 じじつ 上 じょう 独立 どくりつ した地位 ちい に成 な り上 あ がることに成功 せいこう したというわけなのである。
1066年 ねん の一 ひと つの決定的 けっていてき な戦 たたか い から数 すう 年 ねん 後 ご に達成 たっせい されたノルマン人 じん によるイングランド征服 せいふく とは異 こと なり、ノルマン人 じん による南 みなみ イタリア征服 せいふく は何 なん 十 じゅう 年間 ねんかん にも及 およ ぶ年月 としつき と多 おお くの戦闘 せんとう の産物 さんぶつ であり、決定的 けっていてき な出来事 できごと をほとんど欠 か いていた。多 おお くの土地 とち がそれぞれ別個 べっこ に獲得 かくとく ないし征服 せいふく され、これらが後年 こうねん に一 ひと つの国家 こっか としてまとまったのである。イングランド 征服 せいふく と比較 ひかく すると、南 みなみ イタリア征服 せいふく のほうは全体 ぜんたい として見 み れば非 ひ 計画 けいかく 的 てき かつ非 ひ 組織 そしき 的 てき な活動 かつどう の積 つ み重 かさ ねであり、文字通 もじどお りの征服 せいふく とは呼 よ べない部分 ぶぶん もあったものの、最終 さいしゅう 的 てき には同 おな じように全面 ぜんめん 的 てき な征服 せいふく として完了 かんりょう した。
ノルマン人 じん の南 みなみ イタリア到来 とうらい 、999年 ねん –1017年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
ノルマン人 じん 到来 とうらい 直前 ちょくぜん のイタリアの地図 ちず 。南部 なんぶ のピンク色 ぴんくいろ 部分 ぶぶん が東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう 。ノルマン人 じん は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく の南方 なんぽう 領地 りょうち (太字 ふとじ )とシチリアをも含 ふく む全 ぜん 一帯 いったい 、さらには教皇 きょうこう 領 りょう に含 ふく まれるラティウム の南 みなみ 地域 ちいき やスポレート公国 こうこく のアブルッツォ州 しゅう をも征服 せいふく した。
ノルマン人 じん が南 みなみ イタリアを訪 おとず れるようになった年代 ねんだい は明 あき らかでないが、10世紀 せいき 末 まつ よりヨーロッパでは聖地 せいち 巡礼 じゅんれい が盛 さか んになり、ノルマン人 じん の間 あいだ でもエルサレムやイタリアのモンテ・ガルガーノ (イタリア語 ご 版 ばん ) に詣 もう でる者 もの がいたと想定 そうてい される。南 みなみ イタリアでのノルマン人 じん の働 はたら きに関 かん して後 のち の年代 ねんだい 記 き に記録 きろく された最 もっと も古 ふる い事例 じれい は、1010年代 ねんだい までに起 お こったであろう二 ふた つの出来事 できごと である(後述 こうじゅつ のサレルノ伝承 でんしょう とガルガーノ伝承 でんしょう )。それらのエピソードから窺知 きち されるのは、地中海 ちちゅうかい 地方 ちほう で傭兵 ようへい の募集 ぼしゅう があるという話 はなし が巡礼 じゅんれい 者 しゃ を通 つう じて広 ひろ まり、これがノルマン人 じん 戦士 せんし を南 みなみ イタリアに向 む かわせるきっかけの一 ひと つとなったということである[2] 。
いくつかの史料 しりょう によれば、999年 ねん 頃 ころ 、聖地 せいち エルサレム からプッリャ 経由 けいゆ で帰還 きかん の途次 とじ にあったノルマン人 じん 巡礼 じゅんれい 者 しゃ の一団 いちだん がサレルノ に立 た ち寄 よ り、サレルノ公 こう (侯 ほう )グアイマーリオ3世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) の許 もと に逗留 とうりゅう したという。折 おり しもサレルノの町 まち とその周辺 しゅうへん 地域 ちいき は、遅延 ちえん している年 とし 一 いち 回 かい の貢 みつぎ 納 おさめ の支払 しはら いを要求 ようきゅう するサラセン人 じん の攻撃 こうげき を受 う けていた。グアイマーリオ3世 せい は貢 みつぎ 納金 のうきん を集 あつ めようと仕掛 しか けたが、その間 あいだ にノルマン人 じん たちは公 おおやけ とそのランゴバルド人 じん 臣民 しんみん たちの弱腰 よわごし を難 なん じ、直 ただ ちに包囲 ほうい するサラセン軍 ぐん を襲撃 しゅうげき した。これによりサラセン人 じん は敗走 はいそう し、多 おお くの戦利 せんり 品 ひん が得 え られた。これに感謝 かんしゃ したグアイマーリオなる者 もの 、宴 うたげ を開 ひら いてノルマン人 じん たちを歓待 かんたい し、かれらにこの地 ち に残 のこ って働 はたら いてくれるよう懇願 こんがん する。ノルマン人 じん はこれを断 ことわ ったものの、グアイマーリオ3世 せい からの豪華 ごうか な贈 おく り物 もの をノルマンディー にいる同胞 どうほう に送 おく り、サレルノで兵 へい として働 はたら けば褒賞 ほうしょう を得 え られるかもしれないという話 はなし を同胞 どうほう に広 ひろ めることを請 う け合 あ った。いくつかの史料 しりょう では、それだけでなく、グアイマーリオ3世 せい は戦士 せんし を獲得 かくとく するためにノルマンディーに使者 ししゃ を派遣 はけん したとまで伝 つた える。ノルマン人 じん の到来 とうらい に関 かん するこの話 はなし は「サレルノ伝承 でんしょう 」と呼 よ ばれることがある[3] 。
この「サレルノ伝承 でんしょう 」が初 はじ めて記録 きろく されたのは、1071年 ねん から1086年 ねん までの間 あいだ にモンテカッシーノのアマート (イタリア語 ご 版 ばん ) によって執筆 しっぴつ された『ノルマン人 じん の歴史 れきし 』 である。12世紀 せいき 初頭 しょとう にレオーネ・オスティエンセ (イタリア語 ご 版 ばん ) によって執筆 しっぴつ された『モンテ・カッシーノ年代 ねんだい 記 き 』の、助祭 じょさい ピエール(フランス語 ふらんすご 版 ばん ) の手 て による続編 ぞくへん では、「サレルノ伝承 でんしょう 」に関 かん する情報 じょうほう のほとんどがアマートの著作 ちょさく から借用 しゃくよう されている。17世紀 せいき のカエサル・バロニウス の著作 ちょさく である教会 きょうかい 年代 ねんだい 記 き (英語 えいご 版 ばん ) を発端 ほったん として、サレルノ伝承 でんしょう は歴史 れきし として認 みと められるようになった[4] 。サレルノ伝承 でんしょう が正確 せいかく に事実 じじつ を伝 つた えているか否 ひ かという問題 もんだい は、その後 ご の何 なに 世紀 せいき にも亘 わた って時折 ときおり 呈 てい されてきた疑問 ぎもん であったが、以降 いこう のほとんどの学者 がくしゃ は、この伝承 でんしょう に何 なん らかの修正 しゅうせい を加 くわ えた形 かたち で史実 しじつ として承認 しょうにん するようになっている[5] 。
イタリアでの最初 さいしょ のノルマン人 じん 到来 とうらい に関 かん するもう一 ひと つの歴史 れきし 上 じょう の記録 きろく も、それまでのノルマン人 じん の存在 そんざい には一切 いっさい ふれることなく主要 しゅよう な年代 ねんだい 記 き の中 なか に記 しる されている。この話 はなし は「ガルガーノ伝承 でんしょう 」と呼 よ ばれている[3] 。モンテ・ガルガーノ(モンテ・サンタンジェロ のサン・ミケーレの聖域 せいいき (イタリア語 ご 版 ばん ) )に向 む かうノルマン人 じん 巡礼 じゅんれい 者 しゃ 一 いち 行 ぎょう は、そこでランゴバルド貴族 きぞく であるバーリのメロ (イタリア語 ご 版 ばん ) と出会 であ い、アプーリア のビザンツ総督 そうとく 攻撃 こうげき に加 くわ わるよう説得 せっとく されている。これは1016年 ねん のことである。
「サレルノ伝承 でんしょう 」と同様 どうよう 、ガルガーノ物語 ものがたり についても2つの一 いち 次 じ 史料 しりょう がある。一 ひと つは1088年 ねん から1110年 ねん にかけてプッリャのグリエルモ (イタリア語 ご 版 ばん ) によって記 しる された『ロベルト・ヴィスカルディ武勲 ぶくん 詩 し 』であり、もう一 ひと つはこれより一 いち 世紀 せいき 後 ご にアレッサンドロという名 な の修道 しゅうどう 士 し がグリエルモの著作 ちょさく を基 もと に執筆 しっぴつ した『聖 せい バルトロマイ・デ・カルピネート修道院 しゅうどういん 年代 ねんだい 記 き 』である[6] 。サレルノとガルガーノ物語 ものがたり とを結 むす びつけて考 かんが える学者 がくしゃ もおり、ジョン・ジュリアス・ノーウィッチ (英語 えいご 版 ばん ) はバーリのメロとノルマン人 じん との邂逅 かいこう の話 はなし はそれ以前 いぜん にグアイマーリオによってお膳立 ぜんだ てされたものだったのではないかとさえ仮定 かてい している[7] 。バーリのメロは、東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう から追放 ついほう されてからモンテ・ガルガーノを訪 おとず れるまでの間 あいだ に、サレルノに滞在 たいざい していたことがあったとされているのである。
それ以外 いがい には、自 みずか ら進 すす んで亡命 ぼうめい してきたドレンゴト家 か (イタリア語 ご 版 ばん ) 出身 しゅっしん の兄弟 きょうだい からなるグループの話 はなし が含 ふく まれる。その兄弟 きょうだい の一人 ひとり であるオスモンド (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) (オーデリック・ヴァイタリスによる)ないしジルベール(アマートと助祭 じょさい ピエールによる)が、ノルマンディー 公 おおやけ ロベール1世 せい の統治 とうち 時代 じだい にギョーム・レポステルなる人物 じんぶつ を殺害 さつがい した。伝 つた えられるところでは、レポステルはジルベールの娘 むすめ を辱 はずかし めたことを吹聴 ふいちょう したことにより殺害 さつがい されたという。レポステル殺害 さつがい によって安全 あんぜん が脅 おびや かされることとなったドレンゴト兄弟 きょうだい は、一族 いちぞく を引 ひ き連 つ れて祖国 そこく を脱出 だっしゅつ してローマ に逃 のが れているが、兄弟 きょうだい の一人 ひとり はバーリのメロと合流 ごうりゅう する前 まえ にローマ教皇 きょうこう に謁見 えっけん している。アマートは一連 いちれん の物語 ものがたり を1027年 ねん 以降 いこう のこととしているが、教皇 きょうこう に謁見 えっけん したことに関 かん する記述 きじゅつ はない。アマートによるとジルベールの兄弟 きょうだい にはオスモンド、ライヌルフ (イタリア語 ご 版 ばん ) 、アスクレティン (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) およびルドルフ (英語 えいご 版 ばん ) (ピエールによればLudolfusではなくRudolfus)がいた。
レポステルの殺害 さつがい に関 かん しては、ロベール1世 せい の統治 とうち 下 か すなわち1027年 ねん 以降 いこう のこととされている点 てん ですべての年代 ねんだい 記 き は一致 いっち しているものの、ロベールという記述 きじゅつ は間違 まちが いであり、本来 ほんらい はリシャール、すなわち1017年 ねん に公 おおやけ であったリシャール2世 せい のことではないかと信 しん じる者 もの もいる[8] 。第 だい 一 いち 次 じ のノルマン人 じん 移住 いじゅう がドレンゴト家 か とレポステルの殺害 さつがい に何 なん らかの関係 かんけい があると仮定 かてい するならば、その年代 ねんだい はもっと古 ふる いものに書 か き換 か えねばならない。ラウル・グラベール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) による『歴史 れきし 』は、「ルドルフス」なる人物 じんぶつ がリシャール伯 はく (すなわちリシャール2世 せい )の不興 ふきょう を買 か った末 すえ にノルマンディーを去 さ ったとする[9] 。兄弟 きょうだい の中 なか で指導 しどう 者 しゃ として南 みなみ イタリアに赴 おもむ いた者 もの の名 な は資料 しりょう によって異 こと なる。オーデリックおよびジュミエージュのギヨーム (英語 えいご 版 ばん ) の著作 ちょさく 『ノルマンディー公武 こうぶ 勲 くん 詩 し (英語 えいご 版 ばん ) 』はオスモンドとし、グラベールはルドルフとする。レオーネ、アマートおよびシャバンヌのアデマール (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) はジルベールとする。南 みなみ イタリアの資料 しりょう の大半 たいはん は、1018年 ねん のカンネーの戦 たたか い (イタリア語 ご 版 ばん ) でノルマン軍団 ぐんだん を指揮 しき したのはジルベールであったとする[10] 。 仮 かり にこのルドルフがアマートの歴史 れきし に出 で てくるドレンゴト家 か のルドルフと同 どう 一人物 いちじんぶつ であったとするならば、ルドルフがカンネーの戦 たたか いの指揮 しき 官 かん であったということになる[11] 。
ノルマン人 じん のメッツォジョールノ への到来 とうらい についてのもう一 ひと つの仮説 かせつ - 近代 きんだい の仮説 かせつ - は、グラベール、アデマールおよびレオーネ(ピエールによる続編 ぞくへん に非 ひ ず)の年代 ねんだい 記 き に関 かん するものである。この3つの年代 ねんだい 記 き はすべて、リシャール2世 せい の怒 いか りから逃 のが れたルドルフに率 ひき いられた40名 めい もしくはそれより大幅 おおはば に多 おお い約 やく 250名 めい のノルマン人 じん がローマの教皇 きょうこう ベネディクトゥス8世 せい のもとに赴 おもむ いたと述 の べている。当時 とうじ 教皇 きょうこう は自 みずか らが宗主 そうしゅ 権 けん を有 ゆう するベネヴェント が東 ひがし ローマの侵略 しんりゃく を受 う けて憤激 ふんげき していたことから、東 ひがし ローマに対抗 たいこう する傭兵 ようへい を募集 ぼしゅう しているサレルノ ないしカープア に彼 かれ らを向 む かわせた。同地 どうち にてノルマン人 じん たちはベネヴェントの指導 しどう 者 しゃ であるベネヴェント公 こう ランドルフォ5世 せい (英語 えいご 版 ばん ) とカープア公 こう ランドルフォ4世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) に会 あ ったが、前述 ぜんじゅつ のサレルノ侯 こう グアイマーリオ3世 せい とバーリのメロと会 あ った可能 かのう 性 せい もある。レオーネの年代 ねんだい 記 き を基 もと にするとルドルフは、トスニのラルフと同 どう 一人物 いちじんぶつ であると推定 すいてい される[12] 。
1017年 ねん 5月での対 たい 東 ひがし ローマ戦 せん においてバーリのメロに雇 やと われた傭兵 ようへい たちを、南 みなみ イタリアでノルマン人 じん の軍事 ぐんじ 活動 かつどう が初 はじ めて確認 かくにん された事例 じれい に含 ふく めるとするならば、そのノルマン人 じん たちは1月 がつ から4月 がつ の間 あいだ にノルマンディーを発 た ったことになる。
ランゴバルト系 けい 貴族 きぞく による反乱 はんらん 1009年 ねん –1022年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1022年 ねん に神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ2世 せい による遠征 えんせい によって投獄 とうごく されるランドルフォ4世 せい ・ディ・カプア 。
1009年 ねん 5月9日 にち に東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のイタリアにおける権威 けんい (ギリシア語 ご 版 ばん ) の拠点 きょてん であったバーリ にて帝国 ていこく に対 たい する反乱 はんらん が勃発 ぼっぱつ した。 これを指導 しどう したのが現地 げんち のランゴバルト貴族 きぞく の中 なか で突出 とっしゅつ していたメロ・ディ・バリであり、反乱 はんらん は瞬 またた く間 ま にその他 た の都市 とし に広 ひろ がった。同年 どうねん の後半 こうはん ないし翌 よく 1010年 ねん にカテパノ(東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく 領 りょう 南 みなみ イタリア地区 ちく の最高 さいこう 司令 しれい 官 かん )であるヨハネス・クルクアス (カテパノ) (イタリア語 ご 版 ばん ) が戦死 せんし した。1010年 ねん 3月 がつ にその後継 こうけい 者 しゃ であったバシレイオス・メセルドス (イタリア語 ご 版 ばん ) は増援 ぞうえん 軍 ぐん を伴 ともな って上陸 じょうりく して反乱 はんらん 軍 ぐん が籠 こめ る街 まち を包囲 ほうい した。街 まち の東 ひがし ローマ系 けい 住民 じゅうみん はバシレイオスと交渉 こうしょう してランゴバルド貴族 きぞく の首領 しゅりょう メロとその義兄 ぎけい ダット・ディ・バーリ (イタリア語 ご 版 ばん ) を強制 きょうせい 的 てき に追放 ついほう した。バシレイオスは1011年 ねん 6月11日 にち に街 まち に入城 にゅうじょう して東 ひがし ローマの権威 けんい を回復 かいふく させたもののそれ以上 いじょう の行動 こうどう を起 お こすことはなく勝利 しょうり の更 さら なる追及 ついきゅう をしなかった。バシレイオスのしたことといえば、メロの息子 むすこ であるアルギロ (イタリア語 ご 版 ばん ) をコンスタンティノープル に送 おく ったくらいであった。バシレイオスは南 みなみ イタリアが平和 へいわ な状態 じょうたい を保 たも つ形 かたち で1016年 ねん 以降 いこう に没 ぼっ している。
同年 どうねん にバシレイオスの後継 こうけい 者 しゃ としてレオ・トルニコス・コントレオン (イタリア語 ご 版 ばん ) が赴任 ふにん した。バシレイオスの死去 しきょ を受 う けてメロは再 ふたた び反乱 はんらん を起 お こしたが、今回 こんかい は、ベネディクトゥス8世 せい によって送 おく り込 こ まれたか、あるいはモンテ・カルガノにて自身 じしん が(あるいはグリエルモの助言 じょげん 抜 ぬ きで)会 あ ったであろうノルマン人 じん の一団 いちだん を雇 やと っていた。ノルマン=ランゴバルド混合 こんごう 軍 ぐん に対抗 たいこう する形 かたち で、レオはレオ・パシアノス (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる軍 ぐん を派遣 はけん した。パシオナスとメロはアレヌラのフォルトレ (イタリア語 ご 版 ばん ) にて邂逅 かいこう して戦闘 せんとう は決定的 けっていてき ではなかったが(グリエルモ・ディ・プグリア)、メロの勝利 しょうり (レオネ・オスティエンス)で終 お わったらしい。この時 とき トルニコスは自 みずか らが指揮 しき を執 と っており、チヴィターテ にて自軍 じぐん を偶然 ぐうぜん にも二 に 度目 どめ の戦闘 せんとう に導 みちび くに至 いた った。この二 に 度目 どめ の戦闘 せんとう はメロの勝利 しょうり に終 お わったが、ルポ・プロトスタパ (イタリア語 ご 版 ばん ) や無名 むめい のバーリ年代 ねんだい 記 き では敗北 はいぼく と記録 きろく されている。 ヴァッカレツィアで起 お きた三 さん 度目 どめ の戦闘 せんとう は、メロの決定的 けっていてき な勝利 しょうり に終 お わった。フォルトレからトラーニ に至 いた る全域 ぜんいき が9月 にメロの手 て に落 お ち、12月 に着任 ちゃくにん したバシレイオス・ボイオアンネス (イタリア語 ご 版 ばん ) の好意 こうい によりトルニコスは自 みずか らの任務 にんむ から解放 かいほう されることとなった。
ボイアニスの要請 ようせい を受 う けてノルマン人 じん と闘 たたか うために東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のヴァリャーグ親衛隊 しんえいたい (英語 えいご 版 ばん ) がイタリアに派遣 はけん された。二 ふた つのヴァイキング 戦隊 せんたい は、かつて紀元前 きげんぜん 216年 ねん にハンニバル が勝利 しょうり を収 おさ めたカンナエ 付近 ふきん のオファント川 がわ にて激突 げきとつ し、戦闘 せんとう は東 ひがし ローマ側 がわ の決定的 けっていてき な勝利 しょうり で終 お わった。ボイアネスは、この戦 たたか いで得 え た戦果 せんか を保持 ほじ するためにアプリア平原 へいげん の入 い り口 くち の番兵 ばんぺい まで直 じか に至 いた る巨大 きょだい な要塞 ようさい をアペニン に築 きず いた。1019年 ねん に当時 とうじ はそう呼 よ ばれたトローイア にボイアネスのノルマン派遣 はけん 軍 ぐん が守備 しゅび に入 はい ったが、これはノルマン人 じん による正規 せいき の傭兵 ようへい という兆候 ちょうこう であった。
ノルマン人 じん による戦闘 せんとう による南方 なんぽう における勢力 せいりょく の交替 こうたい を受 う けて、教皇 きょうこう ベネディクトゥス8世 せい は1020年 ねん にバンベルク に赴 おもむ いて時 とき の神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ2世 せい と協議 きょうぎ した。ハインリヒ2世 せい は、直接 ちょくせつ 行動 こうどう は取 と らなかったものの翌 よく 1021年 ねん の出来事 できごと が干渉 かんしょう を決意 けつい させる。ボイアニスはランドルフォ4世 せい ・ディ・カプアと同盟 どうめい を結 むす んで教皇 きょうこう 軍 ぐん とともにガエタ公国 こうこく (イタリア語 ご 版 ばん ) の領域 りょういき の砦 とりで を守備 しゅび していたダットのもとに進軍 しんぐん したのである。1021年 ねん 6月15日 にち にダットは捕虜 ほりょ となり大袋 おおふくろ の中 なか にサル や雄鶏 おんどり やヘビ と一緒 いっしょ に入 い れられて海 うみ に放棄 ほうき された。1022年 ねん にハインリヒ2世 せい 、ケルンのピグリム (ドイツ語 ご 版 ばん ) 、ポポネ・ディ・ガリンツィア (イタリア語 ご 版 ばん ) の三軍 さんぐん から成 な る神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく の大軍 たいぐん がトローイアを攻撃 こうげき した。トローイアは陥落 かんらく こそしなかったものの全 すべ てのランゴバルト系 けい 諸侯 しょこう は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく に連 つ れ去 さ られてランドルフォ4世 せい はドイツの監獄 かんごく へと運 はこ ばれていった。かくしてランゴバルト系 けい 貴族 きぞく による反乱 はんらん の時期 じき は終焉 しゅうえん をむかえたのであった。
傭兵 ようへい としての奉仕 ほうし 、1022年 ねん –1046年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1024年 ねん に恐 おそ らくはライヌルフによって統率 とうそつ されたであろうノルマン人 じん の傭兵 ようへい は、当時 とうじ 、カプアにおいてランドルフォ5世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) をランドルフォ4世 せい と共同 きょうどう で包囲 ほうい したグリエルモ3世 せい から報酬 ほうしゅう を受 う け賜 たま わっていた。包囲 ほうい から18ヶ月 かげつ が経 た った1026年 ねん にカプアが降伏 ごうぶく したことでランドルフォ4世 せい が復権 ふっけん した。翌年 よくねん にライヌルフ自身 じしん がランドルフォ4世 せい のもとに加 くわ わったものの自 みずか らの公 おおやけ 位 い を投 な げ捨 す てて、かつて恐 おそ らくは自身 じしん の助言 じょげん によって1027年 ねん にランドルフォ4世 せい によってナポリ から追 お われたナポリ公 こう セルギオ4世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) のもとに馳 は せ参 さん じた。
1029年 ねん にライヌルフとセルギオ4世 せい はナポリを再 さい 占領 せんりょう した。1020年 ねん 初頭 しょとう にセルギオ4世 せい はライヌルフに対 たい してノルマン人 じん としては最初 さいしょ の公 おおやけ 領 りょう となるアヴェルサ伯 はく 領 りょう (イタリア語 ご 版 ばん ) を封地 ほうち として授 さづ け、更 さら には自身 じしん の姉妹 しまい と結婚 けっこん させている。しかし1034年 ねん に妻 つま であるセルギオ4世 せい の姉妹 しまい が没 ぼっ するとライヌルフはランドルフォ4世 せい のもとに寝返 ねがえ った。アマトは以下 いか のように述 の べている。
ノルマン人 じん たちは自身 じしん にとって不利益 ふりえき になるであろうランゴバルド人 じん による幾 いく つかの決定的 けっていてき な勝利 しょうり を一 いち 度 ど たりとも望 のぞ んではいなかった。もっとも今 いま ではノルマン人 じん とランゴバルド人 じん は互 たが いに助 たす け合 あ っていかなる破滅 はめつ を防 ふせ いでいる。
ライヌルフの陣営 じんえい に見出 みいだ され特 とく に何 なに も問 と われることなく迎 むか え入 い れられたノルマン人 じん の増援 ぞうえん 部隊 ぶたい 並 なら びに現地 げんち の野 の 盗 とう により,ライヌルフの勢力 せいりょく が膨張 ぼうちょう することとなった。同地 どうち では古 いにしえ ノルマン語 ご (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 並 なら びにノルマン人 じん の習慣 しゅうかん が異 こと なる集団 しゅうだん を民族 みんぞく として密接 みっせつ に結 むす びつけたことが、先 さき 出 で のアマトによって観察 かんさつ されている。
1037年 ねん に神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい コンラート4世 せい がランドルフォ4世 せい を廃 はい して直 じか にライヌルフを「アヴェルサ伯 はく 」に任 にん じたことでノルマン人 じん の勢力 せいりょく は更 さら に飛躍 ひやく した。1038年 ねん にライヌルフはカプアに侵入 しんにゅう して自分 じぶん の国 くに を南 みなみ イタリアで最大 さいだい の国 くに の一 ひと つに拡大 かくだい させた。
1038年 ねん から1040年 ねん にかけて、シチリアにおける東 ひがし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のサラセン人 じん に対 たい する戦闘 せんとう に参加 さんか させるためにグアイマーリオ4世 せい ・ディ・サレルノ (イタリア語 ご 版 ばん ) 率 ひき いる別 べつ のノルマン人 じん の一団 いちだん がランゴバルド軍団 ぐんだん とともに派遣 はけん された。このシチリアにおける戦闘 せんとう でゲオルギオス・マニアケス (ギリシア語 ご 版 ばん ) 指揮 しき 下 か で戦 たたか ったアルタヴィラ家 か の人物 じんぶつ が初 はじ めて名声 めいせい を得 え た。その一人 ひとり であるグリエルモ1世 せい ・ディ・アルタヴィラ (イタリア語 ご 版 ばん ) はシラクサ 包囲 ほうい 戦 せん で「鉄腕 てつわん 」という綽名を得 え ている。
1040年 ねん にアスコリ にてカテパノであったニケフォロス・ドケアノス (イタリア語 ご 版 ばん ) が暗殺 あんさつ されるとノルマン人 じん 達 たち は新 あら たな指導 しどう 者 しゃ を自分 じぶん 達 たち の中 なか から選 えら ぼうとしたもののベネヴェント公 こう アテヌルフ (英語 えいご 版 ばん ) ,に買収 ばいしゅう されて彼 かれ を指導 しどう 者 しゃ として擁 よう くこととなった。1041年 ねん 3月16日 にち にオリヴェント (イタリア語 ご 版 ばん ) のヴェノーザ 付近 ふきん にてノルマン軍 ぐん は新 あら たなカテパノとなったミカエル・ドケイアノス (イタリア語 ご 版 ばん ) と交渉 こうしょう はしたものの失敗 しっぱい に終 お わってカンエナ付近 ふきん のモンテ・マジョリエ (イタリア語 ご 版 ばん ) にて戦闘 せんとう となった。ミカエルはバーリからヴァラング親衛隊 しんえいたい の大軍 たいぐん を呼 よ び寄 よ せたにも係 かか わらず完敗 かんぱい に終 お わってその軍 ぐん の多 おお くが退却 たいきゃく の際 さい にオファント川 がわ にて溺死 できし した。
1041年 ねん 9月3日 にち に名目 めいもく 上 じょう はランゴバルド人 じん 指導 しどう 者 しゃ であるアルドゥインとアテヌルフの指揮 しき 下 か にあったノルマン人 じん は、新 あら たなカテパノであるエクアウグスト・ボイアネス (イタリア語 ご 版 ばん ) を破 やぶ ってベネヴェントにて捕虜 ほりょ にしてかなりの数 かず に及 およ ぶランゴバルト人 じん の残党 ざんとう が征服 せいふく に影響 えいきょう を及 およ ぼした。同時 どうじ にこの時 とき に関 かん してグアイマーリオ4世 せい はノルマン人 じん を様々 さまざま な約束 やくそく とともにその軍旗 ぐんき に描 えが いた。1042年 ねん 2月 がつ に、恐 おそ らくは見捨 みす てられたと感 かん じたことと東 ひがし ローマ側 がわ による買収 ばいしゅう であろうか、アテヌルフはエクアウグストの釈放 しゃくほう について交渉 こうしょう して身代金 みのしろきん とともに東 ひがし ローマの領域 りょういき に逃走 とうそう した。アテヌルフに代 か わって初期 しょき に幾 いく つかの勝利 しょうり を納 おさ めたことのあるアルギロが新 あら たに指導 しどう 者 しゃ として選 えら ばれたものの、アルギロもその頃 ころ には東 ひがし ローマ側 がわ に買収 ばいしゅう されていたという問題 もんだい を抱 かか えていた。
1042年 ねん 9月 にノルマン人 じん たちは、最終 さいしゅう 的 てき に自分 じぶん たちの中 なか から指導 しどう 者 しゃ を選出 せんしゅつ した。反乱 はんらん は本来 ほんらい 、ランゴバルド人 じん によるものであったがその性質 せいしつ と指揮 しき 権 けん がノルマン人 じん によるものとなった。 鉄腕 てつわん グリエルモ1世 せい が「伯爵 はくしゃく 」として新 あら たな指導 しどう 者 しゃ として選出 せんしゅつ された。グリエルモとその他 た 指導 しどう 者 しゃ はグアイマーリオ4世 せい に対 たい して自 みずか らの征服 せいふく を認 みと めてくれるよう懇願 こんがん した。ノルマン人 じん 達 たち はメルフィ 付近 ふきん の土地 とち を封地 ほうち として拝領 はいりょう してグリエルモ1世 せい はプッリャとカランブリア公 こう であることを宣言 せんげん した。1043年 ねん にグアイマーリオ4世 せい は、共和 きょうわ 制 せい 型 がた で統治 とうち されていたメルフィそのものを除 のぞ く領域 りょういき を20の伯 はく 領 りょう として分割 ぶんかつ してノルマン人 じん の指導 しどう 者 しゃ に恩典 おんてん として授 さづ けた。グリエルモ1世 せい はアスコリを、アスクレティンはアチェレンツァ を、トリスタノ (イタリア語 ご 版 ばん ) はイルシーナ を、ウーゴ・トゥタボヴィ (イタリア語 ご 版 ばん ) はモノーポリ を、ピエトロ1世 せい はトラーニを、ドローゴネ・ディ・アウタヴィラ (イタリア語 ご 版 ばん ) はヴェノーザを、そして今 いま は独立 どくりつ しているライヌルフ・ディ・ドレンゴトはモンテ・カルガノをそれぞれ受 う け取 と った。続 つづ いてグリエルモ1世 せい はソレント公 こう グイド (イタリア語 ご 版 ばん ) の娘 むすめ でグアイマーリオ4世 せい の姪 めい にあたるグイダと結婚 けっこん したが、これによりノルマン人 じん とグアイマーリオ4世 せい との同盟 どうめい が強化 きょうか されることとなった。
統治 とうち 期間 きかん 中 ちゅう のグリエルモ1世 せい とグアイマーリオ4世 せい は、1044年 ねん にカラブリア への征服 せいふく を開始 かいし して、スクイッラーチェ 付近 ふきん にて巨大 きょだい なストゥリドーア城 じょう を築 きず いた。1045年 ねん グリエルモ1世 せい がターラント 付近 ふきん にてアルギリスに敗北 はいぼく したことでアプリアの征服 せいふく には失敗 しっぱい したものの弟 おとうと のドローゴネはボヴィーノ を征服 せいふく している。しかしながらグリエルモ1世 せい の死 し とともにノルマン人 じん の傭兵 ようへい としての奉仕 ほうし 時代 じだい に完全 かんぜん に幕 まく が打 う たれて、ノルマン人 じん による強力 きょうりょく な二 ふた つの公国 こうこく の台頭 たいとう を目 め にすることとなった。一 ひと つはアヴェルサ伯 はく 領 りょう 、後 ご のカプア公国 こうこく (イタリア語 ご 版 ばん ) であり、もう一 ひと つはアプリア伯 はく 領 りょう 、後 ご のアプーリア公国 こうこく (イタリア語 ご 版 ばん ) である。両 りょう 公国 こうこく とも名目 めいもく 上 じょう は神聖 しんせい ロ ろ ーマ帝国 まていこく に申 もう し立 た てる義務 ぎむ を負 お っていた。
メルフィに建 た てられたノルマン人 じん による石城 せきじょう 、同地 どうち では以前 いぜん には要塞 ようさい は建 た てられてはいない。後 のち に一 いち 区間 くかん ごとに単 たん なる長方形 ちょうほうけい 型 がた のノルマン人 じん が守衛 しゅえい する場所 ばしょ を築 きず いたことから建築 けんちく 物 ぶつ は今日 きょう では建物 たてもの の塊 かたまり となっている。
メルフィ伯 はく 領 りょう 、1046年 ねん –1059年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1046年 ねん にドロゴーネはアプリアに入 はい ってターラント 付近 ふきん にてカテパノのエウスタチオ・パラティノ (英語 えいご 版 ばん ) を破 やぶ った。一方 いっぽう 、その三 さん 弟 おとうと であるウンフレード (イタリア語 ご 版 ばん ) はバーリ にノルマン人 じん との条約 じょうやく を締結 ていけつ することを強 し いさせた。幸運 こううん にもドロゴーネの継承 けいしょう を助 たす け、それによって南 みなみ イタリアの地 ち にノルマン朝 ちょう を樹立 じゅりつ させることとなったグアイマリオは1047年 ねん にドロゴーネに自 みずか らの娘 むすめ であるガイテルグリマ (イタリア語 ご 版 ばん ) を与 あた えて結婚 けっこん させた。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ハインリヒ3世 せい 黒 くろ 王 おう は自 みずか らに忠実 ちゅうじつ であるということでアヴェルサ伯 はく 領 りょう を認 みと め、ドロゴーネを直接 ちょくせつ の家臣 かしん とし、 メルフィのノルマン人 じん にとって最初 さいしょ の正当 せいとう な称号 しょうごう である「イタリア公 おおやけ 及 およ びアプーリアとカラブリアのノルマン人 じん 伯 はく 」を授 さづ けた。ハインリヒ3世 せい は自身 じしん の皇后 こうごう であるアグネス がベネヴェント人 じん から虐待 ぎゃくたい されていたことから、ドロゴーネにベネヴェント 征服 せいふく の権限 けんげん を授 さづ けて帝 みかど 冠 かんむり の代理 だいり として掌握 しょうあく させた。もっともノルマン人 じん は1053年 ねん まではベネヴェントを征服 せいふく することは出来 でき なかった。
1048年 ねん にドロゴーネはコゼンツァ 付近 ふきん のクラチ渓谷 けいこく (イタリア語 ご 版 ばん ) を経 へ てカラブリアへの拡張 かくちょう の指揮 しき を執 と った。ドロゴーネはカラブリアの征服 せいふく 地 ち を分配 ぶんぱい して四 よん 弟 おとうと であるロベルト・イル・グイスカルド に入口 いりくち の守衛 しゅえい としてのスクリバの城 しろ を授 さづ けた。ドロゴーネは1051年 ねん にビザンツの陰謀 いんぼう で暗殺 あんさつ され、短 みじか い空位 くうい の後 のち に三 さん 弟 おとうと のウンフレードが継承 けいしょう した。ドロゴーネ指導 しどう 下 か のノルマン人 じん 騎士 きし の反乱 はんらん はローマ教皇 きょうこう レオ9世 せい を激怒 げきど させており、ウンフレートの最初 さいしょ の挑戦 ちょうせん は教皇 きょうこう との対立 たいりつ を処理 しょり することにあった。
チヴィターテの戦 たたか い (イタリア語 ご 版 ばん ) の戦闘 せんとう 図 ず 。赤 あか がノルマン人 じん 、青 あお が教皇 きょうこう 連合 れんごう である。
1053年 ねん 6月18日 にち にウンフレートは教皇 きょうこう =皇帝 こうてい 連合 れんごう に対抗 たいこう する形 かたち でノルマン軍 ぐん の指揮 しき を執 と った。チヴィターテの戦 たたか い (イタリア語 ご 版 ばん ) でノルマン軍 ぐん は教皇 きょうこう 軍 ぐん を壊滅 かいめつ させてレオ9世 せい を捕虜 ほりょ としてベネヴェントに幽閉 ゆうへい し、教皇 きょうこう はそれを即座 そくざ に甘 あま んじて受 う け入 い れた。ウンフレートの治世 ちせい で残 のこ されたものはオーリア 、ナルド 、レッチェ の征服 せいふく にあり、これ等 とう は皆 みな 1055年 ねん までには終了 しゅうりょう した。1054年 ねん にピエトロ1世 せい のトラーニ 付近 ふきん の領域 りょういき を継承 けいしょう したピエトロ2世 せい は同 どう 都市 とし を最終 さいしゅう 的 てき に東 ひがし ローマから征服 せいふく した。ウンフレートは1057年 ねん に死去 しきょ して四 よん 弟 おとうと のロベルト・グイスカルドが継承 けいしょう すると自身 じしん は直 ただ ちに公 おおやけ 位 い におけるより高 たか い称号 しょうごう と引 ひ き換 か えに神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい に完全 かんぜん に忠実 ちゅうじつ になり、また教皇 きょうこう の封 ふう 臣 しん となった。
アヴェルサ伯 はく 領 りょう 、1049年 ねん –1098年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1050年代 ねんだい 及 およ び1060年代 ねんだい の南 みなみ イタリアにおけるノルマン人 じん 勢力 せいりょく の中心 ちゅうしん 地 ち は二 ふた つ存在 そんざい した。一 ひと つはウンフレート支配 しはい 下 か のメルフィであり、もう一 ひと つはドロゴーネ支配 しはい 下 か のアヴェルサである。リッカルド1世 せい ・ドロゴーネ (イタリア語 ご 版 ばん ) は恐 おそ らくは暴力 ぼうりょく 的 てき な手段 しゅだん で以 もっ てアヴェルサ伯 はく 領 りょう を1049年 ねん に継承 けいしょう すると直 ただ ちにオートヴィル家 か のライバル達 たち と競争 きょうそう する形 かたち での領土 りょうど の拡張 かくちょう 政策 せいさく を始 はじ めた。
リッカルド1世 せい は当初 とうしょ 、カプア公 こう ランドルフォ6世 せい (英語 えいご 版 ばん ) 、ガエタ公 こう アテノルフォ1世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) 、サレルノ公 こう ギスルフォ2世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) と言 い ったランゴバルド系 けい の隣人 りんじん との間 あいだ で絶 た え間 ま のない争 あらそ いを繰 く り広 ひろ げた。リッカルド1世 せい は、かつては強大 きょうだい な公国 こうこく であったが、サレルノ の都市 とし その物 もの であるところのわずかに左側 ひだりがわ まで国境 こっきょう 線 せん を押 お しやった。リッカルド1世 せい は自身 じしん の娘 むすめ とアテノルフォ1世 せい の長子 ちょうし との間 あいだ で婚約 こんやく を取 と り付 つ けることで平和 へいわ 的 てき に影響 えいきょう 力 りょく を拡大 かくだい はしたものの、その長子 ちょうし が結婚 けっこん 前 まえ に死 し ぬと彼 かれ の両親 りょうしん からのランゴバルドのモルゲンガブ (英語 えいご 版 ばん ) を求 もと めた。アテノルフォ1世 せい がこれを拒絶 きょぜつ するとガエタに残 のこ されていたわずかな封土 ほうど の一 ひと つであるアクイーノ を1058年 ねん に包囲 ほうい して落 お とした。リッカルド1世 せい のガエタ征服 せいふく の年代 ねんだい は混同 こんどう されている。1058年 ねん から1060年 ねん までの文書 ぶんしょ はリッカルド1世 せい の長子 ちょうし ジョルダーノ1世 せい (英語 えいご 版 ばん ) をガエタ公 こう (イタリア語 ご 版 ばん ) として言及 げんきゅう しているが、アテノルフォ1世 せい が1062年 ねん に死 し ぬまで未 いま だガエタ公 こう であったことから、これらは偽造 ぎぞう であると論 ろん じられている[13] 。 アテノルフォ1世 せい 没後 ぼつご にリッカルド1世 せい 、ジョルダーノ1世 せい はガエタ公国 こうこく に支配 しはい を及 およ ぼしたはしたものの、1064年 ねん に完全 かんぜん にガエタがドロゴーネの公国 こうこく に組 く み入 い れられるまで、アテノルフォ1世 せい の相続 そうぞく 人 じん であった アテノルフォ2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) に自 みずか らの臣下 しんか として統治 とうち することを許 ゆる した。リッカルド1世 せい 、ジョルダーノ1世 せい 親子 おやこ は、大概 たいがい はノルマン人 じん 出身 しゅっしん であった傀儡 かいらい の公 おおやけ を任命 にんめい した[14] 。
1057年 ねん に病弱 びょうじゃく なカプア公 こう が死 し ぬとリッカルド1世 せい は直 ただ ちにカプア を包囲 ほうい した。ガエタ同様 どうよう 、そのカプア征服 せいふく の年代 ねんだい は混同 こんどう している。パンドルフォは、1062年 ねん 5月12日 にち までカプア公 こう であったと記録 きろく されている兄弟 きょうだい のランドルフォ8世 せい (英語 えいご 版 ばん ) からカプアを継承 けいしょう した。リッカルド1世 せい 、ジョルダーノ1世 せい 親子 おやこ は1058年 ねん にカプア公 こう の称号 しょうごう を採用 さいよう はしているものの表面 ひょうめん 上 じょう はランドルフォ8世 せい が恐 おそ らくはリッカルド1世 せい 親子 おやこ の下位 かい のもとで統治 とうち することを許 ゆる されており、それが少 すく なくとも4年 ねん 以上 いじょう に及 およ ぶ同 どう 都市 とし の決 き めてとなる。1059年 ねん にローマ教皇 きょうこう ニコラウス2世 せい はメルフィにて教会 きょうかい 会議 かいぎ を召集 しょうしゅう し、そこでリッカルド1世 せい をアヴェルサ伯 はく とカプア公 こう として承認 しょうにん した。リッカルド1世 せい は後 のち に自身 じしん が獲得 かくとく した物 もの への見返 みかえ りとして教皇 きょうこう に忠誠 ちゅうせい を誓 ちか った。その後 ご 、ドロゴーネはカプアを自 みずか らの本拠地 ほんきょち とし、ここからアヴェルサとガエタを支配 しはい した。
リッカルド1世 せい 、ジョルダーネ親子 おやこ は自 みずか らの新 あたら しいガエタとカプアの領域 りょういき をラティウム 方面 ほうめん 及 およ び教皇 きょうこう 領 りょう 内部 ないぶ と言 い った北部 ほくぶ へと拡大 かくだい させた。1066年 ねん にはリッカルド1世 せい はローマその物 もの に進軍 しんぐん しているものの早々 そうそう に引 ひ き返 かえ すことを余儀 よぎ なくされた。しかしながら、リッカルド1世 せい の後継 こうけい 者 しゃ としてのジョルダーネ1世 せい の地位 ちい が、リッカルド1世 せい が試 こころ みてこぎ付 つ けた教皇 きょうこう との同盟 どうめい 期間 きかん を跡付 あとづ けてカプアの征服 せいふく が中止 ちゅうし された。しかしながら、1090年 ねん にジョルダーネ1世 せい は死去 しきょ して、その幼 おさな い息子 むすこ であるリッカルド2世 せい (英語 えいご 版 ばん ) とその摂政 せっしょう にはカプアその物 もの を掌握 しょうあく することは許 ゆる されなかった。両人 りょうにん はランゴバルド系 けい のランドーネ4世 せい (英語 えいご 版 ばん ) によって街 まち を追 お われ、そのランドーネ4世 せい は都市 とし 民 みん の支援 しえん のもとで1098年 ねん のカプア包囲 ほうい 戦 せん (英語 えいご 版 ばん ) でアルタヴィラ家 か の混成 こんせい 軍 ぐん によって奪取 だっしゅ されるまでカプアを支配 しはい した。かくしてランゴバルド人 じん によるイタリア支配 しはい 者 しゃ 完全 かんぜん に終焉 しゅうえん を迎 むか えた。
アブルッツォの征服 せいふく 、1053年 ねん –1105年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
1077年 ねん に最後 さいご のランゴバルド系 けい のベネヴェント公 こう が死 し んだ。ローマ教皇 きょうこう は1078年 ねん にロベルト・グイスカルドにその後 ご を継 つ ぐよう指名 しめい した。しかしながら、ロベルト・グイスカルドは、以前 いぜん の、特 とく にチヴィターテの戦 たたか い後 ご の10年間 ねんかん 、さらには1078年 ねん 以降 いこう にも及 およ ぶノルマン人 じん の征服 せいふく によって構成 こうせい 部 ぶ を成 な していたベネヴェント自体 じたい 及 およ びその隣 となり が縮小 しゅくしょう されたも同然 どうぜん であった公国 こうこく を1081年 ねん に譲渡 じょうと した。1080年 ねん 6月 がつ にチェプラーノ にて教皇 きょうこう は、ノルマン人 じん による自 じ 領 りょう への侵害 しんがい を止 と めさせるのを試 こころ みるために、それと同時 どうじ にベネヴェントとロベルト・グイスカルドの関係 かんけい 者 しゃ が自 みずか らのために征服 せいふく したアブルッツォ を技術 ぎじゅつ 的 てき に結合 けつごう させるためにベネヴェンドをロベルト・グイスカルドに再 ふたた び付与 ふよ した。
チヴィターテの戦 たたか いの直後 ちょくご にノルマン人 じん はベネヴェンド公国 こうこく のアドリア海 あどりあかい 沿岸 えんがん の征服 せいふく を開始 かいし した。メルフィ伯 はく ウンフレートの兄弟 きょうだい であるゴッフレードク (イタリア語 ご 版 ばん ) はラリーノ のランゴバルド系 けい 伯 はく 領 りょう を征服 せいふく してサムニウム 地区 ちく のモッローネ 城 しろ を襲撃 しゅうげき した。ゴッフレード1世 せい の息子 むすこ であるロベルト1世 せい (ロリテッロ公 こう ) (イタリア語 ご 版 ばん ) [要 よう 曖昧 あいまい さ回避 かいひ ] はこれらの征服 せいふく 地 ち を1061年 ねん にロリテロ伯 はく 領 りょう (イタリア語 ご 版 ばん ) へと変 か えた。それにも係 かか わらずロベルト1世 せい は自 じ 領 りょう をランゴバルド人 じん のアブルッツォへの拡張 かくちょう を続 つづ けた。現在 げんざい のキエーティ にあったランゴバルド系 けい のテアテ伯 はく 領 りょう を征服 せいふく しオルトーナ を包囲 ほうい して、これがこの地区 ちく でのノルマン人 じん による試 こころ みの目標 もくひょう となった。まもなくペスカーラ や教皇 きょうこう 領 りょう の北部 ほくぶ まで進撃 しんげき した。1078年 ねん にはロベルト1世 せい はカプア公 こう ジョルダーノ1世 せい と同盟 どうめい して教皇 きょうこう 領 りょう のアブルッツォを略奪 りゃくだつ した。1080年 ねん に締結 ていけつ されたローマ教皇 きょうこう グレゴリウス7世 せい との条約 じょうやく で両人 りょうにん は教皇 きょうこう 領 りょう を尊重 そんちょう することを強制 きょうせい された。1100年 ねん にロベルト1世 せい は公国 こうこく へと発展 はってん した自 じ 領 りょう をフォルトレ (イタリア語 ご 版 ばん ) を越 こ えて拡大 かくだい してボヴィーノ とトッレマッジョーレ を奪取 だっしゅ した。
モリーゼ の征服 せいふく は不明瞭 ふめいりょう な状態 じょうたい で覆 おお われている。主要 しゅよう な都市 とし であるボヤーノ はチィヴィターテの前 まえ にことによるとマテセ (イタリア語 ご 版 ばん ) 大 だい 山塊 さんかい を取 と り巻 ま いていたロベルト・グイスカルドの指導 しどう のもとで征服 せいふく されたそうである。ボヤーノ伯 はく 領 りょう はロドルフォ・ディ・モリーゼに授 さづ けられ、その孫 まご のユードはトーロ とサン・ジョヴァンニ・イン・ガルド を征服 せいふく することで東方 とうほう へと拡大 かくだい し、1105年 ねん にカプアの伯 はく 領 りょう であるヴェナフロ 、ピエトラッボンダンテ 、トリヴェント を吸収 きゅうしゅう することで同時 どうじ に西方 せいほう へも拡大 かくだい している。
シチリアの征服 せいふく 、1061年 ねん –1091年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
中世 ちゅうせい イタリア・イスラム史 し (イタリア語 ご 版 ばん ) 、シチリア・イスラム史 し (イタリア語 ご 版 ばん ) 、ノルマン=アラブ=ビザンティン文化 ぶんか (英語 えいご 版 ばん ) も参照 さんしょう 。
1061年 ねん のチェラーミの戦 たたか い にて35,000人 にん の"サラセン人 じん "に対 たい して勝利 しょうり したルッジェーロ1世 せい 。
ノルマン人 じん によって征服 せいふく された当時 とうじ のシチリアは、大 だい 部分 ぶぶん にギリシャ正 せい 教徒 きょうと が住 す んでいて、サラセン人 じん の支配 しはい 下 か におかれていた。同島 どうとう は元来 がんらい 、アグラブ朝 あさ 、そしてファーティマ朝 あさ の支配 しはい 下 か におかれていたが、948年 ねん にカルビ朝 あさ (イタリア語 ご 版 ばん ) がファーティマ朝 あさ から島 しま の支配 しはい 権 けん を無理矢理 むりやり もぎ取 と り1053年 ねん までその状態 じょうたい においた。1010年 ねん 代 だい と1020年 ねん 代 だい にイフリーキヤ のズィール朝 あさ による干渉 かんしょう によって連続 れんぞく した継承 けいしょう 危機 きき が始 はじ まった。弱小 じゃくしょう の封建 ほうけん 領主 りょうしゅ が互 たが いに支配 しはい 権 けん を巡 めぐ って争 あらそ ったことでシチリアは混乱 こんらん に陥 おちい った。この混乱 こんらん 状 じょう 況 きょう の中 なか をシチリア征服 せいふく の意志 いし を抱 だ いたロベルト・グイスカルドとその弟 おとうと であるルッジェーロ がローマ教皇 きょうこう を後 うし ろ盾 たて として攻 せ めて来 き た。この時 とき 、教皇 きょうこう はロベルトに公 おおやけ の称号 しょうごう を授 さづ け、同時 どうじ に内実 ないじつ を伴 ともな わない「シチリア公 こう 」の称号 しょうごう も授 さづ けており、このことがロベルトがアラブ人 じん によってもぎ取 と られたシチリアへ遠征 えんせい に着手 ちゃくしゅ することを駆 か り立 た てたのである。
ロベルト、ルッジェーロ兄弟 きょうだい が初 はじ めてシチリアに侵入 しんにゅう したのは1061年 ねん 5月 がつ であり、レッジョ・ディ・カラブリア から渡 わた って来 き て メッシーナ海峡 かいきょう の支配 しはい 権 けん を握 にぎ るために戦略 せんりゃく 上 じょう 必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ なメッシーナ を包囲 ほうい している。ルッジェーロは最初 さいしょ に海峡 かいきょう を渡 わた って誰 だれ にも見 み られずに夜 よる の間 あいだ に上陸 じょうりく して朝 あさ にサラセン軍 ぐん を驚 おどろ かせた。それから遅 おく れる形 かたち でロベルトの軍隊 ぐんたい が上陸 じょうりく した際 さい には無抵抗 むていこう のままメッシーナが放棄 ほうき されたことを知 し った。ロベルトは直 ただ ちに街 まち を要塞 ようさい 化 か してイブン・アル=ハワーズの宿敵 しゅくてき であった アミール イブン・ビン=ティムナスと同盟 どうめい した。
それからロベルト、ルッジェーロ、そしてティムナスはティムナスに忠実 ちゅうじつ なままであったロメッタ を経由 けいゆ して島 しま の中心 ちゅうしん 地 ち へと進軍 しんぐん した。3人 にん はフラッツァノ とともにマニアケス平原 へいげん を通過 つうか した。チェントゥーリペ の町 まち を襲撃 しゅうげき はしたものの抵抗 ていこう が大 おお きかったので引 ひ き払 はら った。パテルノー は素早 すばや く陥落 かんらく してロベルトは自軍 じぐん をシチリア中央 ちゅうおう の中 なか で最 もっと も手強 てごわ い要塞 ようさい である現在 げんざい のエンナであるカストロジョヴァンニ へと引 ひ き連 つ れた。出撃 しゅつげき した守備 しゅび 軍 ぐん が打 う ち破 やぶ られる一方 いっぽう で要塞 ようさい その物 もの は落 お ちず、冬 ふゆ の到来 とうらい のためロベルトはアプリアへ帰還 きかん することを余儀 よぎ なくされた。ロベルトは去 さ る前 まえ にシチリアにおけるノルマン人 じん の最初 さいしょ の城 しろ に当 あ たるサン・マルコ・ダルンツィオ での要塞 ようさい を築 きず いた。
1071年 ねん にパレルモ の鍵 かぎ を受 う け取 と るルッジェーロ1世 せい 。
1064年 ねん にロベルトは戻 もど っては来 き たもののカストロジョヴァンニを迂回 うかい する形 かたち で首都 しゅと パレルモ .へ直進 ちょくしん した。しかしながら、その野営 やえい 地 ち はタランチュア により放棄 ほうき せざるをえず、遠征 えんせい 全体 ぜんたい が中止 ちゅうし された。1071年 ねん にパレルモに復 ふく したものの都市 とし のみであり、要塞 ようさい は落 お ちなかった。ロベルトはルッジェーロに、アプリア公 こう の宗主 そうしゅ の下 した でのシチリア伯 はく (イタリア語 ご 版 ばん ) を授与 じゅよ した。要塞 ようさい は1072年 ねん 1月 がつ に落 お ちた。兄弟 きょうだい 間 あいだ での島 しま の分割 ぶんかつ は、ロベルトがパレルモ、メッシーナの半分 はんぶん 及 およ びヴァル・デモーネ (イタリア語 ご 版 ばん ) を保持 ほじ し、征服 せいふく されていないところも含 ふく む残 のこ りをルッジェーロが得 え ることとなった。
1077年 ねん にルッジェーロは、島西 しまにし 部 ぶ に残 のこ っていた2つのサラセン人 じん の要塞 ようさい のうちの一 ひと つであるトラーパニ を包囲 ほうい した。ルッジェーロの私生児 しせいじ ジョルダーノ(イタリア語 ご 版 ばん ) が不意 ふい の出撃 しゅつげき をしたことで草 くさ を食 た べていた守備 しゅび 駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん の獣 しし が驚 おどろ いてしまった。食料 しょくりょう の供給 きょうきゅう が断 た たれたことで町 まち は直 す ぐに引 ひ き渡 わた された。1079年 ねん にはタオルミーナ が包囲 ほうい されて1081年 ねん にジョルダーノはロベルト・ディ・ソウルヴァルやエリアス・カルトーミとともに他 た の不意 ふい の突撃 とつげき で、シラクサ の首長 しゅちょう が掌握 しょうあく していたカターニア を征服 せいふく した。
ノルマンニ宮殿 きゅうでん は9世紀 せいき のアラブ人 じん の宮殿 きゅうでん がノルマン人 じん によってその統治 とうち する城 しろ に変 か えられたものであった。
ルッジェーロ自身 じしん は1083年 ねん 夏 なつ にイタリア半島 はんとう 本土 ほんど の兄弟 きょうだい を助 たす けるためにシチリアを後 のち にしたが委任 いにん していたジョルダーノが反乱 はんらん を起 お こしたためにシチリアに戻 もど ることを余儀 よぎ なくされ、そこでジョルダーノを服従 ふくじゅう させた。ルッジェーロは1085年 ねん に最終 さいしゅう 的 てき に組織 そしき 的 てき な遠征 えんせい に着手 ちゃくしゅ することが出来 でき た。同年 どうねん 5月22日 にち にルッジェーロは会場 かいじょう からシラクサに接近 せっきん し、都市 とし 北部 ほくぶ 15マイルのところで小規模 しょうきぼ な騎兵 きへい の分遣 ぶんけん 隊 たい を指揮 しき した。5月25日 にち にルッジェーロと首長 しゅちょう の海軍 かいぐん が港 みなと で交戦 こうせん し、そこで後者 こうしゃ が殺 ころ された。他方 たほう 、ジョルダーノ指揮 しき 下 か の軍勢 ぐんぜい は都市 とし の包囲 ほうい を開始 かいし した。包囲 ほうい は夏 なつ を通 とお して続 つづ いたが1086年 ねん 3月 がつ に降伏 ごうぶく し、ノート のみがサラセンの領域 りょういき に残 のこ ったままであった。1091年 ねん に短 みじか い努力 どりょく の後 のち にノートも同 おな じく服従 ふくじゅう してシチリア征服 せいふく は完全 かんぜん な物 もの となった。
南 みなみ イタリアの征服 せいふく は統一 とういつ された指揮 しき 命令 めいれい のもと着手 ちゃくしゅ されたことから、ルッジェーロの権威 けんい は他 た の征服 せいふく 者 しゃ たちからの挑戦 ちょうせん を受 う けずに自 みずか らの支配 しはい 下 か においたギリシャ人 じん 、アラブ人 じん 、ランゴバルド人 じん 、ノルマン人 じん の封 ふう 臣 しん 及 およ び臣民 しんみん に対 たい する強力 きょうりょく な権力 けんりょく を維持 いじ した。ローマ・カトリック教会 きょうかい は教皇 きょうこう の承認 しょうにん を得 え たルッジェーロによって島 しま 及 およ びその教会 きょうかい が組織 そしき した管理 かんり 者 しゃ を紹介 しょうかい された。司教 しきょう 管区 かんく が、首都 しゅと 大司教 だいしきょう の権威 けんい を付随 ふずい させた形 かたち でパレルモ、シラクサ及 およ びアグリジェント に設立 せつりつ された。1130年 ねん の占領 せんりょう 地 ち の王国 おうこく 昇格 しょうかく 後 ご 、シチリアはノルマン権力 けんりょく の中心 ちゅうしん 地 ち となった。
1091年 ねん にルッジェーロはマルタ に上陸 じょうりく してイムディーナ の城壁 じょうへき を巡 めぐ らせた街 まち を征服 せいふく した。同島 どうとう に税 ぜい を課 か したもののアラブ人 じん の総督 そうとく がその機能 きのう を続 つづ けることを許可 きょか した。1127年 ねん にルッジェーロ2世 せい はイスラム教徒 きょうと の総督 そうとく を解任 かいにん してノルマン人 じん の役人 やくにん に置 お き換 か えた。ノルマン人 じん の支配 しはい のもと、ギリシャ正 せい 教徒 きょうと の島民 とうみん であったアラブ人 じん は幾 いく 世紀 せいき に及 およ ぶイスラム教徒 きょうと の支配 しはい 下 か のもとで変形 へんけい した異 こと なる言語 げんご であるマルタ語 ご を採用 さいよう した。
アマルフィとサレルノの征服 せいふく 、1073年 ねん –1077年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
アマルフィとサレルノがロベルト・グイスカルドの手 て に落 お ちたのは両者 りょうしゃ ともにその妻 つま であるシセルガティア (イタリア語 ご 版 ばん ) の影響 えいきょう のもとで起 お きた。アマルフィは恐 おそ らく彼女 かのじょ の交渉 こうしょう によって引 ひ き渡 わた され[15] 、他方 たほう 、サレルノの方 ほう は自身 じしん の兄弟 きょうだい であるサレルノ公 こう の代理 だいり である夫 おっと に嘆願 たんがん することを止 と めた後 のち に落 お ちた。アマルフィ市民 しみん もノルマン人 じん の宗主 そうしゅ 下 か になることを避 さ けようと試 こころ みて、短期間 たんきかん でギスルフ公 こう のもとに入 はい ったが、これが失敗 しっぱい して9世紀 せいき 以来 いらい 歴史 れきし 家 か が密接 みっせつ に結 むす び付 つ ける2つの国 くに は両者 りょうしゃ ともノルマン人 じん による永久 えいきゅう 的 てき な支配 しはい 下 か に置 お かれた。
1076年 ねん の夏 なつ までにサレルノ公 こう ギスルフ2世 せい は海賊 かいぞく 行為 こうい や襲撃 しゅうげき によってノルマン人 じん を十分 じゅうぶん に悩 なや ますことで彼等 かれら を刺激 しげき して自身 じしん を破滅 はめつ させることとなった。この時期 じき にノルマン人 じん のカプアのリッカルドとロベルト・グイスカルドは共同 きょうどう でサレルノを包囲 ほうい した。ギスルフ2世 せい は市民 しみん に対 たい して2年間 ねんかん 分 ぶん の食料 しょくりょう の蓄 たくわ えを命 めい じたものの、自 みずか らの贅沢 ぜいたく な生活 せいかつ を続 つづ けるために十分 じゅうぶん な食料 しょくりょう を没収 ぼっしゅう したことから市民 しみん は直 す ぐに飢 う えることとなった。1076年 ねん 12月13日 にち に町 まち は降伏 ごうぶく して公 おおやけ とその家臣 かしん は要塞 ようさい に後退 こうたい し、その要塞 ようさい は1077年 ねん 5月13日 にち に陥落 かんらく した。ギスルフの土地 とち は没収 ぼっしゅう されてその遺品 いひん は奪 うば われたが自身 じしん は自由 じゆう となった。サレルノ公国 こうこく は、以前 いぜん のグリエルモ・ディ・アルタヴィラ (イタリア語 ご 版 ばん ) 、ルッジェーロ、ロベルト・グイスカルドとの争 あらそ いで既 すで に多 おお かれ少 すく なかれ首都 しゅと 及 およ び周辺 しゅうへん 地域 ちいき が縮小 しゅくしょう していた。しかしながらこの町 まち は南 みなみ イタリアでは最 もっと も重要 じゅうよう であり、その占領 せんりょう は15年 ねん 後 ご の王国 おうこく 創立 そうりつ には必要 ひつよう 不可欠 ふかけつ であった。
1073年 ねん にアマルファイ公 こう セルギオ3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) は後継 こうけい 者 しゃ である唯一 ゆいいつ の幼 おさな いジョヴァンニ3世 せい (英語 えいご 版 ばん ) を残 のこ して没 ぼっ した。これらの不安定 ふあんてい な時期 じき にアマルフィ民衆 みんしゅう を守 まも るための強力 きょうりょく な支配 しはい が求 もと められたことから、彼等 かれら は幼 おさな い公 おおやけ を追放 ついほう して同年 どうねん にロベルト・グイスカルドを呼 よ んだ[16] 。しかしながらアマルフィはノルマン人 じん の支配 しはい 下 か では不安定 ふあんてい なままであった。ロベルトの後継 こうけい 者 しゃ である前述 ぜんじゅつ のルッジェーロ・ボルサがアマルフィを支配 しはい できたのは、ギスルフがサレルノ公 こう を免 めん じられて追放 ついほう された後 のち の1089年 ねん のみであった。アマルフィ市民 しみん はロベルトの後継 こうけい 者 しゃ による請求 せいきゅう に対抗 たいこう すべく教皇 きょうこう からの援助 えんじょ を取 と りつけた。1092年 ねん から1097年 ねん にかけてアマルフィはノルマン人 じん による宗主 そうしゅ を認 みと めずにビザンツ帝国 ていこく に援助 えんじょ を求 もと めて懇願 こんがん した[15] 。両者 りょうしゃ は1096年 ねん にマリノ・セバステ (イタリア語 ご 版 ばん ) を支配 しはい 者 しゃ として据 す えた。
ロベルトの息子 むすこ ボエモン と 弟 おとうと であるルッジェーロ1世 せい は1097年 ねん にアマルフィを攻撃 こうげき するも撃退 げきたい された。この包囲 ほうい 時 じ に最初 さいしょ のノルマン人 じん は第 だい 1回 かい 十字軍 じゅうじぐん によって引 ひ き離 はな されていった。マリノが唯一 ゆいいつ 敗北 はいぼく したのは何人 なんにん かのアマルフィ貴族 きぞく がノルマン側 がわ について裏切 うらぎ った1101年 ねん の後 のち であった。1130年 ねん にシチリア国王 こくおう ルッジェーロ2世 せい が忠誠 ちゅうせい を要求 ようきゅう した時 とき にアマルフィは反乱 はんらん を起 お こした。首長 しゅちょう ジョヴァンニ(英語 えいご 版 ばん ) は陸地 りくち から押 お し寄 よ せてアンティオキアのゲオルギウス (イタリア語 ご 版 ばん ) が海上 かいじょう 封鎖 ふうさ して カプリ島 とう を拠点 きょてん に陣取 じんど ることで1131年 ねん に反乱 はんらん は最終 さいしゅう 的 てき に鎮圧 ちんあつ された。
ノルマン・東 ひがし ローマ戦争 せんそう 、1059年 ねん –1085年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
アプーリアの大 だい 部分 ぶぶん が遥 はる か南方 なんぽう まで維持 いじ し、バーリがグリエルモ1世 せい 、ドロゴーネ兄弟 きょうだい やその他 た アルタヴィラ家 か の面々 めんめん の遠征 えんせい 中 ちゅう に服従 ふくじゅう する一方 いっぽう で、カランブリアの大 だい 部分 ぶぶん はロベルト・グイスカルドが1057年 ねん に継承 けいしょう した時点 じてん では東 ひがし ローマが掌握 しょうあく したままであった。カラブリアが最初 さいしょ に撃破 げきは されたのは1040年代 ねんだい 初頭 しょとう のグリエルモとガイマールによってであり、ドロゴーネは野心 やしん 的 てき なグイスカルドを同地 どうち に1050年代 ねんだい 初頭 しょとう に据 す えた。カランブリアにおけるロベルトの最初 さいしょ の実績 じっせき はしかしながら封建 ほうけん 勢力 せいりょく や豪族 ごうぞく 略奪 りゃくだつ 者 しゃ との闘 たたか いに費 つい やされ、ギリシャ系 けい 住民 じゅうみん の服従 ふくじゅう は何 なに も体系 たいけい 化 か されなかった。
ロベルトは自身 じしん の伯爵 はくしゃく の領有 りょうゆう 権 けん を掲 かか げて直 じか にカランブリアへの遠征 えんせい を開始 かいし した。1059年 ねん 8月 がつ 23日 にち にメルフィ伯 はく 領 りょう に到達 とうたつ するまでに短期間 たんきかん 妨害 ぼうがい された、そこでロベルトは公 おおやけ として就任 しゅうにん すると、後年 こうねん にカランブリアへ帰還 きかん して同地 どうち ではその軍勢 ぐんぜい がカリアーティ を包囲 ほうい した。 公 こう が到着 とうちゃく すると街 まち は降伏 ごうぶく し、季 き 節 ぶし の終 お わり前 まえ にロッサーノ とジェラーチェ も降伏 ごうぶく した。 イタリア半島 はんとう の重要 じゅうよう な都市 とし はロベルトが冬 ふゆ にアプリアに帰還 きかん した時点 じてん ではわずかにレッジョ が東 ひがし ローマの手 て にあった。アプリアにてロベルトは東 ひがし ローマの守備 しゅび 兵 へい を一時 いちじ 的 てき にはあるにせよターラント とブリンディジ から移動 いどう させた。1060年 ねん にカランブリアに帰還 きかん した際 さい にはシチリアの拡張 かくちょう は大 おお いに開始 かいし された。レッジョの陥落 かんらく は長 なが く骨 ほね の折 お れる包囲 ほうい の末 すえ に獲得 かくとく したものであった。しかしながらロベルトの兄弟 きょうだい のルッジェーロ1世 せい は当座 とうざ しのぎに攻 おさむ 城 じょう 兵器 へいき を用意 ようい していた。
レッジョの陥落 かんらく 後 ご に東 ひがし ローマの守備 しゅび 兵 へい は同地 どうち の島 しま の要塞 ようさい であるシッラ に逃 のが れたが早期 そうき に敗 やぶ れている。ルッジェーロ1世 せい の海峡 かいきょう を越 こ えた小規模 しょうきぼ な襲撃 しゅうげき は撃退 げきたい され、1060年 ねん 後半 こうはん に東 ひがし ローマ皇帝 こうてい コンスタンティノス10世 せい ドゥーカス によってアプリアに派遣 はけん された同国 どうこく の大軍 たいぐん の存在 そんざい がロベルトを呼 よ び戻 もど した。カタパノ (イタリア語 ご 版 ばん ) のミリアクラ (英語 えいご 版 ばん ) のもと東 ひがし ローマ軍 ぐん はターラント、ブリンディジィ、オーリア 、オトラント を奪回 だっかい した。 1061年 ねん 1月 がつ にノルマン人 じん の首都 しゅと であるメルフィが包囲 ほうい された。しかしながら5月 がつ までにロベルト、ルッジェーロ1世 せい 兄弟 きょうだい によって東 ひがし ローマ軍 ぐん は駆逐 くちく されてアプーリアの平和 へいわ は回復 かいふく された。
緑 みどり で示 しめ されたノルマン人 じん によるシチリア侵攻 しんこう 図 ず
トラニ伯 はく ピエドロ1世 せい の息子 むすこ であるゴフリード (イタリア語 ご 版 ばん ) は1063年 ねん にオトラントを1064年 ねん にターラントを 征服 せいふく して同 どう 都市 とし を自 じ 伯 はく 領 りょう の所有 しょゆう 地 ち とした。1066年 ねん には軍 ぐん を編成 へんせい して海 うみ を越 こ えて東 ひがし ローマ領 りょう バルカン半島 ばるかんはんとう を攻撃 こうげき したが、バーリ付近 ふきん で、ミカエル・マウリカス (英語 えいご 版 ばん ) 率 ひき いる最近 さいきん 新 あら たに着任 ちゃくにん したヴァラング新 しん 衛兵 えいへい によって阻止 そし された。ミカエルはブリンディジィと短期間 たんきかん ではあるがターラントを奪回 だっかい し、かつてニケフォロス・カランテノス (英語 えいご 版 ばん ) のもとでブルガリア人 じん との戦 たたか いを経験 けいけん した兵士 へいし 達 たち を駐屯 ちゅうとん 軍 ぐん として置 お いた。ミカエルはイタリアのノルマン人 じん に対 たい する一連 いちれん の成功 せいこう をしたものの、それは東 ひがし ローマがこの地区 ちく に与 あた えた最後 さいご の意義 いぎ のある脅威 きょうい であった。東 ひがし ローマ・カタパノ領 りょう の首都 しゅと であったバーリは1068年 ねん 8月 がつ からノルマン人 じん によって包囲 ほうい された。1071年 ねん 4月 がつ には、バーリの陥落 かんらく (イタリア語 ご 版 ばん ) によって、東 ひがし ローマ総督 そうとく の最後 さいご の前 ぜん 哨兵 しょうへい は西欧 せいおう から消失 しょうしつ した。
ランゴバルド (イタリア語 ご 版 ばん ) ・テマ区 く だったアプーリアとカランブリアからの東 ひがし ローマ駆逐 くちく 後 ご にロベルト・グイスカルドはバルカンの東 ひがし ローマ領 りょう やギリシャ本土 ほんど に攻撃 こうげき の狙 ねら いを定 さだ めた。ビザンツにとって幸運 こううん だったのは廃嫡 はいちゃく されたプッリャ伯 はく ウンフレートの息子 むすこ でロベルトの甥 おい であるアベラルド (イタリア語 ご 版 ばん ) とエルマーノ (イタリア語 ご 版 ばん ) の兄弟 きょうだい が味方 みかた になったことである。兄弟 きょうだい のロベルトに対 たい する反乱 はんらん は、同 おな じく彼 かれ に対抗 たいこう する形 かたち で自 じ 領 りょう (英語 えいご 版 ばん ) を東 ひがし ローマの宗主 そうしゅ 下 か に認 みと めていたモンテ・サンタンジェロ伯 はく エンリーコ (英語 えいご 版 ばん ) を支援 しえん した。
1081年 ねん にロベルトはバルカン半島 ばるかんはんとう への最初 さいしょ の拡張 かくちょう に乗 の り出 だ し、16,000人 にん を引 ひ き連 つ れてブリンディジィを出立 いでた つし、1082年 ねん までにケルキラ島 とう とドゥラス を占領 せんりょう し、さらには1081年 ねん 10月 がつ には東 ひがし ローマ皇帝 こうてい アレクシオス1世 せい コムネノス をデュッラキウムの戦 たたか い で撃破 げきは さえした。ロベルトの息子 むすこ であるマルコ・ボヘモンド はテッサリア を支配 しはい し、ロベルト不在 ふざい の間 あいだ の1081~82年 ねん に征服 せいふく を試 こころ みたものの最終 さいしゅう 的 てき には失敗 しっぱい した。1084年 ねん にロベルトは帰還 きかん してケルキラ島 とう とケファロニア島 とう を占領 せんりょう することで取戻 とりもど し、1085年 ねん 7月 がつ 15日 にち に同島 どうとう で永眠 えいみん した。ケファロニア島 とう の小 ちい さな町 まち フィスカルド (英語 えいご 版 ばん ) はロベルト・グイスカルドに因 ちな んで名付 なづ けられた。ボヘモンドはギリシャ征服 せいふく を追 お い求 もと めることを継続 けいぞく はせずに、イタリアに戻 もど る代 か わりに、同地 どうち で異母弟 いぼてい にあたるロベルト・スカリオ及 およ び ルッジェーロ・ボルサ とともに後継 こうけい を巡 めぐ って対立 たいりつ した。
ナポリの征服 せいふく 、1077年 ねん –1139 年 ねん [ 編集 へんしゅう ]
公的 こうてき には東 ひがし ローマの領地 りょうち であるナポリ公国 こうこく (イタリア語 ご 版 ばん ) はノルマン人 じん の支配 しはい が及 およ ばない南 みなみ イタリアにおける最後 さいご の国 くに の一 ひと つであった。ナポリ公国 こうこく は、1020年代 ねんだい にセルジオ4世 せい がランドルフォ・ドレグノットに支援 しえん を求 もと めて以来 いらい 、わずかな例外 れいがい を除 のぞ きアヴェルサとカプアのノルマン人 じん の同盟 どうめい 者 しゃ であった。1077年 ねん に始 はじ まるナポリのアルタヴィラ朝 あさ の王国 おうこく への編入 へんにゅう が完遂 かんすい するには16年 ねん 費 つい やした。
1074年 ねん 夏 なつ にカプア公 こう リッカルドとロベルト・グイスカルドとの間 あいだ で敵意 てきい が燃 も え上 あ がった。ナポリ公 こう セルジオ5世 せい (英語 えいご 版 ばん ) は後者 こうしゃ と同盟 どうめい してその軍勢 ぐんぜい に町 まち の中央 ちゅうおう 部 ぶ を供給 きょうきゅう した。セルジオのリッカルドに対 たい する行為 こうい が彼 かれ を苦 くる しめた。リッカルドはローマ教皇 きょうこう グレゴリウス7世 せい の支援 しえん を受 う けていたからである。6月にリッカルドはナポリを包囲 ほうい したが短期 たんき で終 お わった。リッカルド、ロベルト、セルジオ5世 せい は時期 じき にダウフェリウス・ディ・モンテ・カッシーノ から提供 ていきょう された仲介 ちゅうかい を通 つう じてグレゴリウス7世 せい との交渉 こうしょう を開始 かいし した。
1077年 ねん にナポリはリッカルドによって包囲 ほうい され、ロベルトによって海上 かいじょう 封鎖 ふうさ された。包囲 ほうい 中 ちゅう の1078年 ねん にリッカルドが死 し んだ後 のち にその死 し によってわずかに破門 はもん が撤回 てっかい され、後継 こうけい 者 しゃ であるジョルダーノは教皇 きょうこう に自身 じしん の権利 けんり を認 みと めさせるために包囲 ほうい を止 と めてこれがセルジオ5世 せい と和解 わかい させることとなり、包囲 ほうい は中止 ちゅうし されてロベルトの軍勢 ぐんぜい は四散 しさん した。
1130年 ねん に対立 たいりつ 教皇 きょうこう アナクレトゥス2世 せい はルッジェーロ2世 せい にシチリア王位 おうい を授 さづ けてナポリが彼 かれ の王国 おうこく の封土 ほうど の一部 いちぶ であることを宣言 せんげん した[17] 。 1131年 ねん にルッジェーロ2世 せい はアマルフィ市民 しみん に対 たい して彼等 かれら の町 まち の強化 きょうか と城 しろ の鍵 かぎ を要求 ようきゅう した。市民 しみん が拒絶 きょぜつ するとナポリ公 こう セルジオ7世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) は最初 さいしょ は艦隊 かんたい でアマルフィ市民 しみん を攻撃 こうげき する準備 じゅんび をしたが、アンティオキアのゲオルギウスがより強大 きょうだい な大 だい 艦隊 かんたい で以 もっ てナポリの港 みなと を海上 かいじょう 封鎖 ふうさ して、セルジオ7世 せい はアマルフィ市民 しみん の圧力 あつりょく に震 ふる え上 あ がってルッジェーロ2世 せい に屈服 くっぷく した。アレッサンドロ・テレジノ (イタリア語 ご 版 ばん ) の年代 ねんだい 記 き によると、「ローマの時代 じだい より殆 ほとん ど剣 けん で征服 せいふく されることのなかったナポリは、報告 ほうこく の断片 だんぺん によると、今 いま やルッジェーロの力 ちから に屈 くっ した」 。
1134年 ねん にセルジオ7世 せい は、カプア公 こう ロベルト2世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) とアリーフェ伯 はく ライヌルフォ2世 せい (イタリア語 ご 版 ばん ) の反乱 はんらん を支援 しえん したが、ルッジェーロ2世 せい と直 じか に対決 たいけつ すること関 かん しては幾 いく つかは避 さ けた。カプア陥落 かんらく 後 ご にセルジオ7世 せい はルッジェーロ2世 せい に忠誠 ちゅうせい の誓 ちか いを行 おこな った。1135年 ねん 4月 がつ 24日 にち にカプア公 こう ロベルト2世 せい 率 ひき いる8,000人 にん の強化 きょうか 兵 へい を載 の せたピサ 艦隊 かんたい はナポリに投錨 とうびょう した。ナポリは、次 つぎ の2年間 ねんかん ルッジェーロ2世 せい への反乱 はんらん の中心 ちゅうしん として奉仕 ほうし した。セルジオ7世 せい 、ロベルト2世 せい 、ライヌルフォ7世 せい は1136年 ねん の春 はる までナポリで包囲 ほうい された。この時 とき まで多 おお くの人 ひと が餓死 がし した。それにも係 かか わらず歴史 れきし 家 か で反乱 はんらん の共感 きょうかん 者 しゃ であるファルコーネ・ベネヴェントク (イタリア語 ご 版 ばん ) によるとセルジオ7世 せい とナポリ市民 しみん は、「悪 あく 王 おう の圧政 あっせい 下 か に屈 くっ するよりは餓死 がし した方 ほう がましだ」と弱 よわ みを見 み せなかった。ナポリの海上 かいじょう 封鎖 ふうさ はセルジオ7世 せい とロベルト2世 せい がそれぞれ別個 べっこ の機会 きかい の際 さい にピサに赴 おもむ きルッジェーロ2世 せい の著 いちじる しく不十分 ふじゅうぶん な努力 どりょく をより多 おお く回復 かいふく させるのを妨害 ぼうがい するには余 あま りにも不 ふ 成功 せいこう であった。神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい ロタール3世 せい 指揮 しき する救援 きゅうえん 軍 ぐん がナポリ救援 きゅうえん のために進行 しんこう してくると包囲 ほうい は解 と かれた。しかしながら翌年 よくねん にロタール3世 せい が急 いそ いで引 ひ き上 あ げると、セルジオ7世 せい は完全 かんぜん な赦免 しゃめん を見返 みかえ りとして再 ふたた びルッジェーロ2世 せい に服従 ふくじゅう してノルマン式 しき での封建 ほうけん 的 てき な忠誠 ちゅうせい の誓 ちか いを果 は たした。 1137年 ねん 10月30日 にち にリニャーノの戦 たたか い (イタリア語 ご 版 ばん ) で最後 さいご のナポリ公 こう はルッジェーロ2世 せい に仕 つか えて共 とも に死 し んだ。
しかしながらリニャーノの敗北 はいぼく はノルマン人 じん のナポリ征服 せいふく への道 みち を開 ひら くこととなった。セルジオ7世 せい が後継 こうけい 者 しゃ 残 のこ さず没 ぼっ して以来 いらい 、ナポリ貴族 きぞく は誰 だれ を新 しん 公 おおやけ 位 い につけるべきか合意 ごうい に達 たっ することが出来 でき なかったからである。それにも係 かか わらず、セルジオ7世 せい の死 し とナポリのシチリア編入 へんにゅう の間 あいだ にはその間 あいだ 2年間 ねんかん があった。貴族 きぞく は当面 とうめん の間 あいだ は権力 けんりょく を行使 こうし していたと思 おも われる、このことは大概 たいがい 、この暫定 ざんてい 期間 きかん がノルマン人 じん による征服 せいふく 以にナポリが独立 どくりつ していた最終 さいしゅう 的 てき に目立 めだ った時期 じき であったと推測 すいそく される[17] 。この間 あいだ 、ノルマン人 じん の地主 じぬし が最初 さいしょ にナポリに現 あらわ れた。ピサはルッジェーロ2世 せい の敵 てき であったが、ナポリとの同盟 どうめい を維持 いじ した。ことによるとピサは1139年 ねん までナポリ独立 どくりつ を支 ささ えていた。同年 どうねん にルッジェーロ2世 せい は最終 さいしゅう 的 てき に公国 こうこく を王国 おうこく へ吸収 きゅうしゅう した。ローマ教皇 きょうこう インノケンティウス2世 せい とナポリ貴族 きぞく はルッジェーロ2世 せい の三男 さんなん アルフォンス (イタリア語 ご 版 ばん ) を公 おおやけ として承認 しょうにん した。
アドラノに建 た つ初期 しょき ノルマン人 じん の城 しろ 。
ノルマン人 じん による南 みなみ イタリア征服 せいふく はロマネスク様式 ようしき 特 とく にノルマン建築 けんちく 様式 ようしき の注水 ちゅうすい で見受 みう けられた。 ランゴバルド式 しき 、東 ひがし ローマ式 しき 、アラブ式 しき 構造 こうぞう と城 しろ は拡張 かくちょう されて新 あら たに建造 けんぞう された。これらの城 しろ は現地 げんち の熟練 じゅくれん 技術 ぎじゅつ によって設計 せっけい され、彼等 かれら の非 ひ ノルマン的 てき 要素 ようそ が明確 めいかく に保持 ほじ されていた。ラテン式 しき の大 だい 聖堂 せいどう が新 あら たに征服 せいふく されたギリシャ正 せい 教徒 きょうと ないしイスラム教徒 きょうと の土地 とち に建 た てられたが、それらの大 だい 部分 ぶぶん がロマネスク様式 ようしき 且 か つ 東 ひがし ローマ式 しき とイスラム式 しき のデザインを基礎 きそ とした影響 えいきょう を受 う けているのは明白 めいはく であった。同 どう 時代 じだい の西欧 せいおう の体系 たいけい と比較 ひかく するならば、最終 さいしゅう 的 てき にはノルマン人 じん の行政 ぎょうせい は中央 ちゅうおう 集権 しゅうけん 化 か され、複雑 ふくざつ 化 か し、官僚 かんりょう 化 か した。宮殿 きゅうでん のような公的 こうてき な建物 たてもの は重要 じゅうよう な町 まち 、特 とく にパレルモが顕著 けんちょ ではあったが、共有 きょうゆう のものであった。これらの建物 たてもの は他 た の建物 たてもの より一層 いっそう シクロ=アラブ文化 ぶんか の影響 えいきょう が見受 みう けられた。
ノルマン人 じん は南 みなみ イタリアでは早 はや くに城 しろ の建設 けんせつ 、拡張 かくちょう 、修繕 しゅうぜん を始 はじ めた。それらの城 しろ の大 だい 部分 ぶぶん は本来 ほんらい ないしランゴバルド人 じん 以前 いぜん のものを基礎 きそ としていた。幾 いく つかは東 ひがし ローマ、アラブ式 しき を基礎 きそ としてはいたが。ノルマン時代 じだい の終焉 しゅうえん までには以前 いぜん の木製 もくせい の城 しろ は石 いし 製 せい に変 か えられた。
初期 しょき にノルマン人 じん によって征服 せいふく されたアルフィのランゴバルド系 けい の城 しろ は後 のち に生 い き延 の びた長方形 ちょうほうけい のキープ とともに11世紀 せいき 後半 こうはん に増強 ぞうきょう され、カランブリアはノルマン人 じん の階級 かいきゅう 化 か (英語 えいご 版 ばん ) により根本 こんぽん 的 てき に変 か わった最初 さいしょ の地区 ちく となった。1046年 ねん にグリエルモ鉄腕 てつわん 公 こう は、ストリドゥーダのスクイッラーチェ 付近 ふきん に強大 きょうだい な城 しろ の建設 けんせつ を開始 かいし し、 1055年 ねん までにロベルト・グイスカルドは既 すで に以下 いか の3つの城 しろ を建 た てた。その場所 ばしょ は、東 ひがし ローマの要塞 ようさい 跡地 あとち のロッサーノ レーエン の領地 りょうち のクラチ渓谷 けいこく 、ゴゼンツァ 付近 ふきん のサン・マルコ・アルジェンターノ の通行 つうこう を保護 ほご する北 きた カラブリアにあるスクリブラ[18] 、そしてスカーレア の海岸 かいがん 線 せん の崖 がけ (1058年 ねん )である。
グイスカルドは己 おのれ のアプーリアでの伯爵 はくしゃく 就任 しゅうにん 後 ご は主要 しゅよう な城 しろ の建築 けんちく 者 しゃ であった。ガルガノ (イタリア語 ご 版 ばん ) に「巨大 きょだい な塔 とう 」と呼 よ ばれた五角形 ごかっけい の塔 とう を添 そ えた城 しろ を建 た てた。後 のち にモンテ・サンタンジェロ伯 はく エンリーコ (英語 えいご 版 ばん ) はそれほど遠 とお くないカステルパガーノ に城 しろ を建 た てた。モリーゼ州 しゅう にノルマン人 じん はサンタクロスやフェランテといった自然 しぜん に守備 しゅび された地帯 ちたい に多 おお くの要塞 ようさい を建 た てた。テッラチーナ からテルモリ までの周囲 しゅうい がでこぼこした線 せん の地域 ちいき ではイタリアで最 もっと も威厳 いげん に満 み ちたノルマン人 じん の城 しろ がある[19] 。多 おお くの選 えら ばれた敷地 しきち は、本来 ほんらい は古代 こだい ローマ人 じん とその後継 こうけい 者 しゃ によって再 さい 利用 りよう されたサムニウム 要塞 ようさい であり、ノルマン人 じん はその要塞 ようさい を「古 ふる い城 しろ 」を意味 いみ するカステルム・ヴェトゥスと呼 よ んだ。多 おお くのモリーゼの城 しろ は壁 かべ を山 やま と峰 みね に面 めん する石 いし とを統合 とうごう し、ほとんど垂直 すいちょく に直立 ちょくりつ した邸宅 ていたく は、ノルマン人 じん が少 すく なくともモリーゼではガリアの建築 けんちく 法 ほう (英語 えいご 版 ばん ) を施 ほどこ したことを示 しめ している[20] 。
シチリアの階級 かいきゅう 化 か は現地 げんち のギリシャ系 けい 住民 じゅうみん の願 ねが いによって始 はじ まった[21] 。1060年 ねん にギリシャ系 けい 住民 じゅうみん は自分 じぶん 達 たち を守 まも ってくれるようアルンティウム に城 しろ を建 た ててくれるよう要請 ようせい した。ノルマン人 じん が最初 さいしょ にシチリアに建 た てたサン・マルコ・ダルンツィオ(その名 な はカランブリアでのアルジェンタノのグイスカルドの最初 さいしょ の城 しろ に由来 ゆらい する)は直立 ちょくりつ していた。この城 しろ は荒廃 こうはい から生 い き延 の びている。 ペトラリア・ソプラナがチェハル 付近 ふきん に建 た てられ、続 つづ く1071年 ねん にはトロイーナ に城 しろ が建 た てられ、1073年 ねん には マツァーラ (未 いま だ廃墟 はいきょ のまま) とパテルノー (廃墟 はいきょ から回復 かいふく )に城 しろ が建 た てられた[21] 。アドラーノ (ないしアデルノ) ではノルマン人 じん は、その平面 へいめん 図 ず が11世紀 せいき のノルマン様式 ようしき のデザインの暗示 あんじ を提供 ていきょう してくれる平 ひら たい長方形 ちょうほうけい の塔 とう を建 た てた。外側 そとがわ の階段 かいだん は最初 さいしょ の階 かい の入 い り口 くち に導 みちび き、内部 ないぶ は縦 たて の中 なか 間 あいだ 位 い に大 だい 邸 やしき 間 あいだ (英語 えいご 版 ばん ) とさらに礼拝 れいはい 堂 どう 、寝室 しんしつ に分 わ けられていた[22] 。シチリアの他 ほか の要塞 ようさい はアラブ人 じん の物 もの を引 ひ き継 つ ぎ、パレルモのような主要 しゅよう 都市 とし の大 だい 宮殿 きゅうでん 、大 だい 聖堂 せいどう 建築 けんちく は差異 さい を示 しめ し、アラブ人 じん の印 しるし が明 あき らかである。シチリアではアラブの芸術 げいじゅつ 家 か は、ランゴバルド人 じん が南 みなみ イタリアで影響 えいきょう を与 あた えた鏡 かがみ に影響 えいきょう を与 あた えている。
^ 高山 たかやま 博 ひろし 『中世 ちゅうせい シチリア王国 おうこく 』 講談社 こうだんしゃ 、1999年 ねん 、46頁 ぺーじ 。
^ 高山 たかやま 博 ひろし 『中世 ちゅうせい シチリア王国 おうこく 』 講談社 こうだんしゃ 、1999年 ねん 、46-49頁 ぺーじ 。
^ a b Joranson, 355 and n 19.
^ Joranson, 356.
^ シャランドンもノーウィッチも、サレルノ伝承 でんしょう とガルガーノ伝承 でんしょう に基 もと づき、両者 りょうしゃ を連結 れんけつ させた一 ひと つの物語 ものがたり を供 きょう している。Houben, p 8 はサレルノ伝承 でんしょう を事実 じじつ として提示 ていじ している。
^ Joranson, 358.
^ シャランドンも同 おな じような仕方 しかた でこの二 ふた つの伝承 でんしょう を結 むす びつけている。Joranson, p367 は、かかる仮説 かせつ が「役 やく にたない」ことを明 あき らかにしている。
^ Joranson, 369.
^ Joranson, 371.
^ Chalandon, 52. Norwich.
^ Joranson, 371, disputes the identification of the two Rudolfs.
^ Joranson, 373. レオーネは“ルドルフス・トディネンシス”と呼 よ んでいる。
^ Skinner, 156 and n32. Both documents are preserved in the Codex Cajetanus . Both have been ruled forgeries on the basis of erroneous dating clauses and the absence of Richard. Also, Jordan's reputed wife, Rapizza, appears to be make-believe.
^ Skinner, 156 and n32.
^ a b Skinner, 203.
^ Skinner, 202.
^ a b Skinner, 206–207.
^ Gravett and Nicolle, 132.
^ Gravett and Nicolle, 134, based on map.
^ Gravett and Nicolle, 135.
^ a b Gravett and Nicolle, 136.
^ Gravett and Nicolle, 137.
一 いち 次 じ 資料 しりょう
二 に 次 じ 資料 しりょう
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