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アグネス・フォン・ポワトゥー

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アグネス・フォン・ポワトゥー
Agnes von Poitou
神聖しんせいローマ皇后こうごう
シュパイアーのアウレウス(黄金おうごん写本しゃほんのハインリヒ3せいとアグネス(左右さゆう
在位ざいい 1046ねん12月25にち - 1056ねん10月5にち
戴冠たいかんしき 1046ねん12月25にち
別称べっしょうごう ローマ(ドイツ)王妃おうひ1043ねん2がつ15にち - 1056ねん10月5にち
バイエルンおんなこう

出生しゅっしょう 1025ねんころ
死去しきょ 1077ねん12月14にち
教皇きょうこうりょうローマ
埋葬まいそう 教皇きょうこうりょうサン・ピエトロだい聖堂せいどう
結婚けっこん 1043ねん11月21にち インゲルハイム
配偶はいぐうしゃ ローマ皇帝こうていハインリヒ3せい
子女しじょ アーデルハイト
ギーゼラ
マティルデ
ハインリヒ4せい
コンラート2せい
ユーディト
家名かめい ポワティエ
父親ちちおや アキテーヌこうギヨーム5せい
母親ははおや アニェス・ド・ブルゴーニュ
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アグネス・フォン・ポワトゥー

アグネス・フォン・ポワトゥードイツ: Agnes von Poitou, 1025ねんごろ - 1077ねん12月14にち)は、中世ちゅうせい西にしヨーロッパのローマ皇后こうごう。バイエルンおんなこう在位ざいい:1055ねん - 1061ねん)。ハインリヒ3せいの2番目ばんめで、ローマ皇帝こうていハインリヒ4せい母親ははおやおっと死後しご、ハインリヒ4せい摂政せっしょうつとめた。教養きょうようがあり信仰しんこうふかく、賞賛しょうさんけた[1]フランス語ふらんすごめいでは、アニェス・ダキテーヌ (Agnes d'Aquitaine)。

生涯しょうがい

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皇后こうごうとして

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アキテーヌこうギヨーム5せいとその3番目ばんめブルゴーニュはくオット=ギヨームむすめアニェスとのあいだまれた。ちちギヨームは1030ねん死去しきょし、ははアニェスはアンジューはくジョフロワ2せい再婚さいこんした。アグネスははじめはアキテーヌで、のちそと叔父おじブルゴーニュはくルノー1せいもとそだった。ブザンソン叔父おじもとにいるときに、ローマ皇帝こうていハインリヒ3せい見初みそめられ、1043ねんにハインリヒ3せい結婚けっこんした[1]1150ねん長男ちょうなんハインリヒ(皇帝こうていハインリヒ4せい)がまれ、クリュニー修道院しゅうどういんながユーグ洗礼せんれいだいちちとなったが、ユーグをハインリヒ3せいわせたのはアグネスであり、ユーグはのちカノッサの屈辱くつじょくにおいて、ハインリヒ4せい教皇きょうこうグレゴリウス7せいにとりなした人物じんぶつ一人ひとりである[2]1055ねんに、1052ねんまれた次男じなんコンラート死去しきょし、コンラートにあたえられていたバイエルンこうくらいがアグネスにあたえられた。

摂政せっしょうとして

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1056ねん、イタリアから帰国きこくしてもなくおっとハインリヒ3せい死去しきょした。ハインリヒ4せいはまだ6さいであり、教皇きょうこうウィクトル2せい庇護ひごのもとアグネスが摂政せっしょうとなった。アグネスはぜんロートリンゲンこうゴットフリート3せいにはロートリンゲンとトスカーナの領有りょうゆうけんあたえ、フランドルはくボードゥアン5せい父子ふしにエノーはくりょう領有りょうゆう安堵あんどするなど、諸侯しょこうとの関係かんけい改善かいぜんつとめた。また、空席くうせきであった司教しきょう修道院しゅうどういんちょう有能ゆうのう聖職せいしょくしゃけた。一方いっぽう、アグネスは宮廷きゅうていないではミニステリアーレ重用じゅうようしたが、このことが有力ゆうりょく貴族きぞく反感はんかんつよめることとなった[3]。アグネスは有力ゆうりょく貴族きぞくからの支持しじるため、まず1057ねんルドルフ・フォン・ラインフェルデンシュヴァーベンこうあたえた。これにたいしてハインリヒ3せいにシュヴァーベンおおやけ授与じゅよ約束やくそくされていたベルトルト・フォン・ツェーリンゲン異議いぎとなえたが、アグネスはいずれケルンテンおおやけあたえることを約束やくそくした。そして、1061ねんにはみずからのつバイエルンおおやけオットー・フォン・ノルトハイムに、空位くういとなったケルンテンこう約束やくそくどおりベルトルト・フォン・ツェーリンゲンにあたえた。この3にんおおやけのちにハインリヒ4せい対立たいりつすることになる。

引退いんたい

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一方いっぽう1061ねんとうしたアレクサンデル2せいとドイツ宮廷きゅうていした対立たいりつ教皇きょうこうホノリウス2せいあいだ教会きょうかい分裂ぶんれつ状態じょうたいにおちいり、これに嫌気いやけがさしたアグネスは政治せいじからの引退いんたいのぞむようになったが、それによって宮廷きゅうていないでの権力けんりょくあらそいが激化げきかした。そんななかで、1062ねん4がつ、ケルン大司教だいしきょうアンノ2せいはカイザースヴェルトの宮廷きゅうていちかくでハインリヒ4せいをケルンへ拉致らちした。これをきっかけにアグネスは政治せいじから引退いんたい信仰しんこう生活せいかつはいり、ピエモンテのフルツァリア修道院しゅうどういん修道しゅうどうおんなとなり[4]のちにローマへ旅立たびだった。政治せいじ実権じっけんはアンノがにぎることとなったが、すうねんにはアンノは宮廷きゅうていわれ、わってハンブルク大司教だいしきょうアーダルベルトが主導しゅどうけんにぎった。1065ねんにはハインリヒ4せい成年せいねんたっし、親政しんせい開始かいししたものの、依然いぜんとしてアーダルベルトが実権じっけんにぎっていた。しかしよく1066ねん1がつ、アーダルベルトがわれ、ふたたびアンノが権力けんりょくにぎった。同年どうねんまつにはアグネスは教皇きょうこうアレクサンデル2せいからのローマ遠征えんせい要請ようせいをハインリヒ4せいつたえるため、ドイツを訪問ほうもん[5]結果けっかてきにハインリヒはローマ遠征えんせい中止ちゅうしした。そのハインリヒ4せい本格ほんかくてき親政しんせい開始かいししたが、1073ねん教皇きょうこうについたグレゴリウス7せいとの関係かんけい悪化あっか、ザクセン貴族きぞくをはじめとする諸侯しょこうとの対立たいりつふかまるなか、1077ねん12月にアグネスはローマで死去しきょした。

子女しじょ

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ハインリヒ3せいとのあいだ以下いか子女しじょをもうけた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b ペルヌー、p. 298
  2. ^ 瀬原せばら、pp. 319-320
  3. ^ 成瀬なるせ、p. 182
  4. ^ ペルヌー、p. 300
  5. ^ 瀬原せばら、p. 302

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 成瀬なるせおさむへん世界せかい歴史れきし大系たいけい ドイツ 1』山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ、1997ねん
  • せらはら義生よしお『ドイツ中世ちゅうせい前期ぜんき歴史れきしぞう文理ぶんりかく、2012ねん
  • レジーヌ・ペルヌー『中世ちゅうせいきぬくおんなたち』白水しろみずしゃ、1988ねん
先代せんだい
コンラート2せい
バイエルンおんなこう
1055ねん - 1061ねん
次代じだい
オットー・フォン・ノルトハイム