ビスケー湾 わん (英語 えいご : Bay of Biscay , )は、北 きた 大西 おおにし 洋 ひろし の一部 いちぶ でイベリア半島 はんとう の北岸 ほくがん からフランス 西岸 せいがん に面 めん する湾 わん である。
「ビスケー湾 わん 」とは英語 えいご 表記 ひょうき (Bay of Biscay, )に由来 ゆらい している。フランス語 ふらんすご ではGolfe de Gascogne(ガスコーニュ湾 わん )、スペイン語 ご ではGolfo de Vizcaya(ビスカヤ湾 わん )と、それぞれこの湾 わん が面 めん するガスコーニュ 地方 ちほう 、ビスカヤ地方 ちほう に因 ちな んだ名 な で呼 よ ばれており、いずれもバスク地方 ちほう に関連 かんれん する地名 ちめい である。スペインではビスケー湾 わん 南部 なんぶ をカンタブリア海 うみ と呼 よ び、これはカンタブリア地方 ちほう に由来 ゆらい している。
ブレトン語 ご ではPleg-mor Gwaskogn、ガスコーニュ語 ご ではGolf de Gasconha。カンタブリクム海 うみ (Mare Cantabricum)、アキタニクス湾 わん (Sinus Aquitanicus)という古称 こしょう がある。英語 えいご ではガスコニー湾 わん (Gulf of Gascony)と呼 よ ぶこともある。フランスではこの湾 わん と大西洋 たいせいよう の海域 かいいき が区別 くべつ される。
ガリシア州 しゅう のエスタカ・デ・バレス (英語 えいご 版 ばん ) を西端 せいたん 、ピレネー=アトランティック県 けん のアドゥール川 がわ 河口 かこう を東 ひがし 端 はし として、ビスケー湾 わん の南端 なんたん 部 ぶ はスペインでカンタブリア海 うみ (Mar Cantábrico)と呼 よ ばれるが、この用語 ようご は英語 えいご では一般 いっぱん 的 てき に使用 しよう されない。紀元前 きげんぜん 1世紀 せいき にローマ人 じん によってシヌス・カンタブロルム(Sinus Cantabrorum、カンタブリア人 じん の海 うみ )と名付 なづ けられ、マレ・ガリャエクム(Mare Gallaecum、ガリシア人 じん の湾 わん )友 とも 呼 よ ばれた。中世 ちゅうせい におけるいくつかの地図 ちず では、ビスケー湾 わん はエル・マール・デル・ロス・バスコス(El Mar del los Vascos、バスク人 じん の海 うみ )として記載 きさい されている[2] 。
ビスケー湾 わん とその周辺 しゅうへん の海底 かいてい 地形 ちけい
かなり沖合 おきあい まで大陸棚 たいりくだな が広 ひろ がっており、湾内 わんない は好 こう 漁場 ぎょじょう とされる。平均 へいきん 水深 すいしん は1,744メートル、最大 さいだい 水深 すいしん は4,735メートルである[3] 。大西洋 たいせいよう の厳 きび しい天候 てんこう の影響 えいきょう 下 か にあり、特 とく に冬季 とうき にはビスケー湾 わん は大嵐 おおあらし となることがある。潮 しお 差 さ が大 おお きいことで知 し られ、最大 さいだい 12メートルに達 たっ する。フランス沿岸 えんがん 部 ぶ は砂丘 さきゅう が発達 はったつ しており良港 りょうこう に恵 めぐ まれない。
国際 こくさい 水路 すいろ 機関 きかん はビスケー湾 わん の範囲 はんい を「(ガリシア州 しゅう の)オルテガル 岬 みさき 北緯 ほくい 43度 ど 46分 ふん 西経 せいけい 7度 ど 52分 ふん / 北緯 ほくい 43.767度 ど 西経 せいけい 7.867度 ど / 43.767; -7.867 と(ブルターニュ半島 はんとう 突端 とったん 部 ぶ 南端 なんたん の)パンマール 岬 みさき 北緯 ほくい 47度 ど 48分 ふん 西経 せいけい 4度 ど 22分 ふん / 北緯 ほくい 47.800度 ど 西経 せいけい 4.367度 ど / 47.800; -4.367 を結 むす ぶ線 せん の間 あいだ 」と定義 ていぎ している[4] 。オルテガル岬 みさき とブルターニュ半島 はんとう 沖合 おきあい のウェサン島 とう までとされることもある。
海洋 かいよう 性 せい の気候 きこう で夏季 かき でもどんよりと曇 くも って涼 すず しいのが一般 いっぱん 的 てき である。晩春 ばんしゅん から初夏 しょか にかけて巨大 きょだい な霧 きり の三角形 さんかっけい がビスケー湾 わん の南西 なんせい 半分 はんぶん を覆 おお い、また霧 きり はイベリア半島 はんとう の数 すう キロメートル内陸 ないりく にまで侵入 しんにゅう する。
冬季 とうき に入 はい ると天候 てんこう が厳 きび しくなる。西 にし から頻繁 ひんぱん に低 てい 気圧 きあつ がやってきて、北側 きたがわ のイギリス諸島 しょとう に向 む かうか、イベリア半島 はんとう のエブロ川 がわ 流域 りゅういき に侵入 しんにゅう する。最終 さいしゅう 的 てき にはエブロ川 がわ 流域 りゅういき を抜 ぬ けて地中海 ちちゅうかい に達 たっ し、低 てい 気圧 きあつ は強力 きょうりょく な雷雨 らいう に生 う まれ変 か わる。この低 てい 気圧 きあつ は海上 かいじょう に悪天候 あくてんこう をもたらし、沿岸 えんがん 部 ぶ には休 やす みなく続 つづ く雨 あめ をもたらす。この雨 あめ はオルバーリョ、シリミリ、モリーナ、オルバージュ、オルピン、カラボボスなどと呼 よ ばれる。気圧 きあつ が急 きゅう 低下 ていか する時 とき にはしばしば強力 きょうりょく な暴風 ぼうふう が形成 けいせい される。
大陸棚 たいりくだな の末端 まったん 部 ぶ から反 はん 時計 とけい 回 まわ りにメキシコ湾流 わんりゅう が湾内 わんない に入 はい り、1年 ねん 中 ちゅう 穏 おだ やかな水温 すいおん を保 たも つ。
フランス
スペイン
ガロンヌ川 がわ とボルドー市街地 しがいち
ビダソア川 がわ 河口 かわくち 部 ぶ のチングディ湾 わん
ナントを流 なが れるロワール川 かわ
フランスには流域 りゅういき 面積 めんせき 100,000km2 を超 こ えるロワール川 がわ や流域 りゅういき 面積 めんせき 50,000km2 を超 こ えるガロンヌ川 がわ などの大 だい 河川 かせん があるが、スペインのビスケー湾岸 わんがん は平野 へいや に乏 とぼ しいことから大 おお きな河川 かせん が存在 そんざい しない。ビダソア川 がわ はフランス=スペイン国境 こっきょう (チングディ湾 わん )でビスケー湾 わん に注 そそ いでいる。
フランス
フランス=スペイン国境 こっきょう
スペイン
主 おも な沿岸 えんがん 都市 とし [ 編集 へんしゅう ]
沿岸 えんがん の主要 しゅよう 都市 とし
ビルバオ都市 とし 圏 けん
フランス
スペイン
かつて多 おお く生息 せいそく していたタイセイヨウセミクジラ
ビスケー湾 わん は地球 ちきゅう 上 じょう でもっとも多 おお くのイルカ・クジラ類 るい の種 たね が生息 せいそく する場所 ばしょ であり[5] 、クジラ やイルカ など多 おお くの海洋 かいよう 哺乳類 ほにゅうるい の種 たね を見 み ることができる。アカボウクジラ などのアカボウクジラ科 か が比較的 ひかくてき 頻繁 ひんぱん に観察 かんさつ されている数少 かずすく ない場所 ばしょ のひとつであり、ビスケー湾 わん はアカボウクジラ科 か にとって世界 せかい 最高 さいこう の研究 けんきゅう 地域 ちいき である。1995年 ねん 頃 ごろ からビスケー湾 わん イルカ調査 ちょうさ プログラムの研究 けんきゅう 者 しゃ は[5] 、ポーツマスとビルバオの間 あいだ を航行 こうこう するP&Oフェリーのブリッジから定期 ていき 的 てき にイルカ・クジラ類 るい の活動 かつどう を観察 かんさつ ・監 かん 視 し しているが、湾内 わんない で行 おこな われているトロール漁 りょう などがイルカ・クジラ類 るい に被害 ひがい を与 あた えているとされる[5] 。
タイセイヨウセミクジラ はもっとも絶滅 ぜつめつ の危機 きき に瀕 ひん しているクジラの種 たね である。かつては食事 しょくじ のために、またおそらく分娩 ぶんべん のためにもビスケー湾 わん にやってきたが、バスク人 じん や他 た の民族 みんぞく の捕鯨 ほげい 活動 かつどう によって1850年代 ねんだい 以前 いぜん にほとんど一掃 いっそう された。今日 きょう 、大西洋 たいせいよう 東部 とうぶ ではこの種 たね はほぼ絶滅 ぜつめつ したと考 かんが えられており、現代 げんだい ではわずかな目撃 もくげき 例 れい を除 のぞ いて、ビスケー湾 わん でのこのクジラの記録 きろく は存在 そんざい しない。わずかな事例 じれい としては、1977年 ねん に北緯 ほくい 43度 ど 00分 ふん 西経 せいけい 10度 ど 30分 ふん / 北緯 ほくい 43.000度 ど 西経 せいけい 10.500度 ど / 43.000; -10.500 で母子 ぼし と思 おぼ しきペアが確認 かくにん され[6] 、1980年 ねん 6月 がつ 初頭 しょとう に商業 しょうぎょう 船 せん から別 べつ のペアが確認 かくにん されている。1977年 ねん 9月 がつ にはガリシア州 しゅう の北緯 ほくい 43度 ど 00分 ふん 西経 せいけい 10度 ど 30分 ふん / 北緯 ほくい 43.000度 ど 西経 せいけい 10.500度 ど / 43.000; -10.500 で捕鯨 ほげい 会社 かいしゃ によって報告 ほうこく された個体 こたい がおり、さらにイベリア半島 はんとう から観察 かんさつ された別 べつ の個体 こたい も報告 ほうこく されている。
スペイン国内 こくない における最後 さいご の確実 かくじつ な目撃 もくげき 情報 じょうほう は、1993年 ねん 12月にエスタカ・デ・バレス岬 みさき で報告 ほうこく されている[7] 。
1943年 ねん のビスケー湾 わん の戦 たたか い
ビスケー湾 わん はバスク人 じん の捕鯨 ほげい 揺籃 ようらん の地 ち である。9世紀 せいき 、ヴァイキング がビスケー湾 わん 沿岸 えんがん 地域 ちいき のボルドーやバイヨンヌといった主要 しゅよう 都市 とし を支配 しはい した頃 ころ から、この地域 ちいき で小舟 こぶね と銛による集団 しゅうだん 捕鯨 ほげい が始 はじ まった。以降 いこう 、バスク人 じん は主 おも にタイセイヨウセミクジラ を漁獲 ぎょかく 、ヨーロッパ各地 かくち に鯨油 げいゆ ・鯨 くじら 肉 にく ・鯨 くじら 髭 ひげ を輸出 ゆしゅつ し、中世 ちゅうせい において商業 しょうぎょう 捕鯨 ほげい がこの地域 ちいき の基幹 きかん 産業 さんぎょう となった。14世紀 せいき 頃 ごろ にビスケー湾 わん 沿岸 えんがん での捕獲 ほかく 量 りょう が減少 げんしょう したのをうけて、バスク人 じん 漁師 りょうし たちは大西洋 たいせいよう 北西 ほくせい 部 ぶ のニューファンドランド島 とう 近海 きんかい まで進出 しんしゅつ し、1560年代 ねんだい にバスク人 じん の捕鯨 ほげい は最盛 さいせい 期 き を迎 むか えた。17世紀 せいき にオランダやイギリスなどが捕鯨 ほげい を開始 かいし すると寡占 かせん 状態 じょうたい が崩 くず れ、バスク漁業 ぎょぎょう はビスケー湾 わん を基地 きち とするタラ の漁獲 ぎょかく や塩 しお 干 ほ しの加工 かこう へと移行 いこう した。タイセイヨウセミクジラは19世紀 せいき までに個体 こたい 数 すう が激減 げきげん したため、1937年 ねん 以降 いこう には捕鯨 ほげい が禁止 きんし されている。
中世 ちゅうせい から近世 きんせい には何 なに 世紀 せいき にも渡 わた って、ビスケー湾 わん は各国 かっこく 海軍 かいぐん の交戦 こうせん 地 ち となった。1592年 ねん 、スペイン海軍 かいぐん はビスケー湾 わん の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) でイギリス海軍 かいぐん に勝利 しょうり した。1795年 ねん 6月 がつ のビスケー作戦 さくせん (英語 えいご 版 ばん ) はフランス革命 かくめい 戦争 せんそう 2年 ねん 目 め にブルターニュ海岸 かいがん 南部 なんぶ でイギリス海峡 かいきょう 艦隊 かんたい とフランス大西洋 たいせいよう 艦隊 かんたい が交 まじ えた2度 ど の戦 たたか いの総称 そうしょう である。
1918年 ねん 6月 がつ 22日 にち には、アメリカ海軍 かいぐん 装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん のカリフォルニア が沈没 ちんぼつ した[8] 。機雷 きらい に接触 せっしょく したとする説 せつ もあるが、沈没 ちんぼつ の理由 りゆう は定 さだ かではない。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん においてフランスがナチス・ドイツに降伏 ごうぶく すると、ビスケー湾 わん 沿岸 えんがん はドイツ海軍 かいぐん により基地 きち 化 か され、Uボート・ブンカー などが建設 けんせつ された。イギリスは海上 かいじょう 航路 こうろ を守 まも るため、各 かく 軍港 ぐんこう への爆 ばく 撃 げき やコマンド攻撃 こうげき 、出撃 しゅつげき ・帰港 きこう するUボートへの対 たい 潜 せん 作戦 さくせん を実施 じっし した。サン=ナゼール やロリアン、ラ・ロシェル、ボルドーといった港湾 こうわん 都市 とし のドイツ軍 ぐん 守備 しゅび 隊 たい は、フランスの大半 たいはん が連合 れんごう 国軍 こくぐん により解放 かいほう された後 のち も本国 ほんごく の降伏 ごうぶく かその直前 ちょくぜん まで抵抗 ていこう を続 つづ けた。ストーンウォール作戦 さくせん さなかの1943年 ねん 12月28日 にち 、イギリス軍 ぐん とナチス・ドイツ軍 ぐん の間 あいだ でビスケー湾 わん の戦 たたか い (英語 えいご 版 ばん ) が起 お こり、イギリス軍 ぐん の軽 けい 巡洋艦 じゅんようかん のグラスゴー とエンタープライズがナチス・ドイツ軍 ぐん の駆逐 くちく 艦隊 かんたい と戦 たたか った。
今日 きょう のビスケー湾 わん はクジラ や海鳥 うみどり の生息 せいそく 地 ち として、ホエールウォッチング やバードウォッチング がさかんに行 おこ なわれている。強 つよ い風 ふう が吹 ふ くことから、ビスケー湾 わん 沿岸 えんがん にはムンダカ やビアリッツ などサーフィン スポットが多 おお くある。フランスの外洋 がいよう ヨット レースの1つ、フィガロ・シングルハンドレース(フィガロソロ)のコースともなっている。スペインではビスケー湾岸 わんがん の各地 かくち でトライネラ のレースが行 おこな われる。クジラを観察 かんさつ するのにもっとも良 よ い海域 かいいき は大陸棚 たいりくだな を超 こ えた水深 すいしん の深 ふか い海域 かいいき であり、特 とく にビスケー湾 わん 南部 なんぶ のサンタンデール海底 かいてい 谷 たに とトレラベーガ海底 かいてい 谷 だに の上方 かみがた である。
1906年 ねん からはビスケー湾 わん 沿岸 えんがん でカキ 養殖 ようしょく が行 おこな われている。深海魚 しんかいぎょ の一種 いっしゅ であるヒゲナガホテイはビスケー湾 わん の海域 かいいき に生息 せいそく している[9] 。
スペインのヒホン やビルバオ やサンタンデール 、フランスのナント 、イギリスのポーツマス やプリマス やプール などの間 あいだ の航路 こうろ でカーフェリーが運航 うんこう されている。