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ジョホール王国おうこく

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ジョホール・スルターンこく
کسلطانن جوهر
マラッカ王国 1528ねん - 現在げんざい マレーシア
インドネシア
ジョホール・スルターン国の国旗 ジョホール・スルターン国の国章
国旗こっきくにあきら
ジョホール・スルターン国の位置
1879ねんジョホール海峡かいきょう風景ふうけいスケッチ。中国ちゅうごくしきジャンクせんえがかれている。
公用こうよう マレー
首都しゅと サヨン・ピナン(マレーシア・ジョホールしゅう)→バトゥ・サワール→タンジュン・ピナンリアウげんインドネシア)
スルタン
1528ねん - 1564ねん アラウッディン・リアヤト・シャー2せい
1623ねん - 1677ねんアブドゥル・ジャリル・シャー3せい
1722ねん - 1760ねんスライマン・バドラル・アラム・シャー
1762ねん - 1812ねんマフムード・シャー3せい
1819ねん - 1835ねんフサイン・マフムード・シャー
1862ねん - 1895ねんアブ・バカール
変遷へんせん
建国けんこく 1528ねん
マフムード・シャー2せい弑逆しいぎゃく事件じけん1699ねん
スライマンのスルタン就任しゅうにん1722ねん
シンガポール割譲かつじょう1819ねん
海峡かいきょう植民しょくみん建設けんせつ1826ねん
えいりょうマラヤ成立せいりつ1909ねん

ジョホール王国おうこく(ジョホールおうこく、英語えいご: Johor Sultanate)またはジョホール・リアウJohor-Riau)、ジョホール・リアウ・リンガJohor-Riau-Lingga)、公式こうしきにはジョホール・スルタンこく(ジョホールスルタンこく、英語えいご: Johor Sultanateマレー: کسلطانن جوهر)は、1528ねん成立せいりつしたマレまれ半島はんとう南部なんぶ本拠ほんきょとするみなと国家こっかで、マラッカ海峡かいきょうりょうきし現在げんざいマレーシアシンガポールおよびインドネシア)におよぶ海上かいじょう帝国ていこくきずいた。マラッカ王国おうこく継承けいしょうしたマレーじんによる国家こっかイスラームきょうほうじ、18世紀せいき前半ぜんはん政変せいへんて、おうみやこリアウ諸島しょとうビンタンとうげんインドネシア・リアウ諸島しょとうしゅう)にうつされた。現在げんざいのマレーシアを構成こうせいするしゅうのひとつであるジョホールしゅうとして現代げんだいにつらなる王国おうこくであり、今日きょう世襲せしゅうスルタンによって王位おうい継承けいしょうされている。

歴史れきし沿革えんかく

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ムラカ(マラッカ)の陥落かんらく

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1511ねん陥落かんらくポルトガル城塞じょうさい都市としすすんだマラッカ王国おうこくおうみやこムラカ1630ねん地図ちず

1509ねんディオゴ・ロペス・デ・セケイラひきいるポルトガル王国おうこく遠征えんせいたい海上かいじょう貿易ぼうえき繁栄はんえいするムラカ(マラッカ)にはじめて到着とうちゃくして通商つうしょう要求ようきゅう当初とうしょマラッカ王国おうこくのスルタン、マフムード・シャー1せい[よう曖昧あいまい回避かいひ]はポルトガルに交易こうえき商館しょうかん建設けんせつ許可きょかあたえた。しかし、インドにおけるポルトガル勢力せいりょくムスリム迫害はくがいきおよんでいたイスラーム商人しょうにんがマフムード・シャーにポルトガルじん排除はいじょをはたらきかけたため、王国おうこく奇襲きしゅうによりポルトガルじんやく60めい殺害さつがいした。これにたいし、ポルトガル艦隊かんたいは24にん捕虜ほりょをムラカにのこしてインドに帰還きかんした[1]

このしらせをいたポルトガルのインド総督そうとくアフォンソ・デ・アルブケルケ(アルバカーキ)は1511ねん7がつ、16せき艦隊かんたいひきいてムラカに来航らいこうし、マラッカ王国おうこくたいして捕虜ほりょ釈放しゃくほう要塞ようさい建設けんせつ用地ようち提供ていきょう、さらには賠償金ばいしょうきん支払しはらいを要求ようきゅうしたが、マラッカ王国おうこくがわ捕虜ほりょ釈放しゃくほうをのぞいたしょ条件じょうけんれに難色なんしょくしめしたため、アルブケルケのぐん上陸じょうりくしてムラカのみなと攻撃こうげきくわえた。マラッカ王国おうこく中国ちゅうごくやシャム(タイ王国おうこく)、ビルマ(ミャンマー)、さらには地中海ちちゅうかい地域ちいきより輸入ゆにゅうした火砲かほう自国じこく生産せいさんした鉄砲てっぽう応戦おうせんした[2]。マームド・シャーの軍隊ぐんたいはポルトガル船隊せんたいの15ばい兵力へいりょくゆうしていたといわれ、攻防こうぼうせん熾烈しれつをきわめた[3]。しかし、マラッカ王国おうこくへい火器かき使用しようほうについてかならずしも熟知じゅくちしておらず、性能せいのうもポルトガルのものにおとっていた[4]。また、インドのグジャラート出身しゅっしんひとびとはポルトガルに徹底てってい抗戦こうせんしたものの、国内こくないジャワ商人しょうにん当初とうしょからアルブケルケに協力きょうりょくてきで、中国ちゅうごく商人しょうにんクリンじんのなかにはポルトガルと内通ないつうした一派いっぱがあって統率とうそついていた[4][5]最終さいしゅうてき華僑かきょうがポルトガルがわについたことで勝敗しょうはいけっし、同年どうねん8がつ、ついにムラカが陥落かんらくした[3]。これがポルトガルによる「マラッカ占領せんりょう英語えいごばん」である。

この時点じてん王国おうこくがその影響えいきょうりょく行使こうししていたのは、今日きょうジョホールしゅう(マレーシア)およびリアウ諸島しょとうしゅうリアウしゅう(インドネシア)にほぼ相当そうとうし、しゅとして、マレまれ半島はんとうクランがわからリンギがわまでの地域ちいきタンジュン・トゥアン英語えいごばんげんマレーシア・ムラカしゅう)、ムアル英語えいごばん(ムアール。ジョホールしゅう)、バトゥ・パハッ英語えいごばん(ジョホールしゅう)、シンガポールプラウ・ティンギッ英語えいごばんそのマレまれ半島はんとう東海岸ひがしかいがんおき島々しまじまカリムン英語えいごばん島々しまじまビンタンとうをはじめとするリアウ諸島しょとうおよびリンガ諸島しょとう、そしてスマトラ島すまとらとうブンカリス英語えいごばんカンパル英語えいごばん(カムパル。げんインドネシア・リアウしゅう)およびシアク英語えいごばんしょ地域ちいきであった[6]。しかし、マラッカ王国おうこく直轄ちょっかつはムラカ陥落かんらくまえにあってもリンギとムアルのあいだのマレまれ半島はんとう西海岸にしかいがん内陸ないりくグノン・レダンにいたる狭小きょうしょう範囲はんいにすぎなかった[7]。その周囲しゅういにはマラッカおう家臣かしん分与ぶんよした王国おうこく属領ぞくりょうがあり、さらに、インドラギリ(イドゥラギリ。どうリアウしゅう)、ロカン、カンパル、シアクトゥンカルなどのマラッカ海峡かいきょうめんしたスマトラ島すまとらとう東岸とうがん諸国しょこく、およびマレまれ半島はんとう東岸とうがんパハンは、王国おうこくにとっては属国ぞっこくにあたっていた[7]

いずれにせよ、このようなマラッカ王国おうこく勢力せいりょくけん中核ちゅうかくとして、ムラカの政治せいじ文化ぶんか形成けいせいされており、ムラカの王族おうぞく貴族きぞく、さらにマレー母語ぼごとする地元民じもとみんマレーじんばれていた。マレーじん商人しょうにん地域ちいきからの商人しょうにんくらべてひくい、税率ぜいりつ3パーセントの税額ぜいがく商業しょうぎょう取引とりひきいとなむことができた[7]

なお、ムラカを陥落かんらくさせたあと、ポルトガルはシャムのアユタヤ王朝おうちょうやビルマのペグー王朝おうちょう使節しせつおくり、友好ゆうこう関係かんけいむすんでいる[5]

ジョホール王国おうこく成立せいりつ三角さんかく戦争せんそう

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マフムード・シャーはムラカ南方なんぽうのムアルにのがれて再起さいきをはかったが失敗しっぱいし、そこをわれてマレまれ半島はんとう東岸とうがん王国おうこく属領ぞくりょうであったパハン(げんマレーシア・パハンしゅう)にうつった。さらに海上かいじょうみんおおビンタンとうげんインドネシア・リアウ諸島しょとうしゅう)で体勢たいせいなおし、1512ねん以降いこう5かいにわたってムラカを攻略こうりゃくしたが成功せいこうしなかった[8]。それにたいし、ポルトガルは1526ねん、ビンタンとう攻撃こうげきして、ここで徹底的てっていてき略奪りゃくだつをはたらいた[8]

マラッカ海峡かいきょうのぞみなとたいポルトガル連合れんごうんだが、結局けっきょく、ポルトガルからムラカを奪還だっかんすることができず、マフムード・シャーは逃亡とうぼうさきスマトラ島すまとらとうのカンパルで失意しついのうちにった[8]。その次男じなんであったアラウッディン・リアヤト・シャー英語えいごばんは、1528ねん、マラッカ王家おうけ分流ぶんりゅうにあたるパハン王家おうけ助力じょりょくて、カンパルからマレまれ半島はんとう南端なんたんのジョホールにうつり、ジョホールがわ上流じょうりゅうプカン・トゥア王国おうこく再建さいけんした。これがジョホール王国おうこくである[8]。このとき、マフムード・シャーの長男ちょうなんムザファルはペラク王国おうこくげんマレーシア・ペラしゅう)をてている[9]

ジョホール王国おうこく政庁せいちょうはジョホールがわ河口かこうサヨン・ピナンかれた[10]王国おうこくはこのほかビンタンとう本拠ほんきょとして近隣きんりん島々しまじまへも支配しはいけんをおよぼし、カトリックこくポルトガルに対抗たいこうした[10]。ジョホール王国おうこくは、首都しゅと位置いちわったというだけで、実質じっしつてきにはマラッカ王国おうこくそのものであった[8]。ジョホールの一派いっぱはさらに、シャリーフ・カブンスワン英語えいごばん中心ちゅうしんとしてミンダナオ島みんだなおとうげんフィリピン)にムスリム国家こっかマギンダナオ王国おうこく建国けんこくした[注釈ちゅうしゃく 1]

ムラカにおけるポルトガルの占領せんりょう政策せいさくは、ムラカのみなと城塞じょうさい都市としし、市街地しがいち中心ちゅうしんおか歴代れきだいマラッカおう墓石はかいしもちいて監視かんしとうをつくり、さらに、おかいただき宮殿きゅうでんカトリック教会きょうかい改造かいぞうしたりするなど相当そうとう横暴おうぼうなものであった[11]。ジョホール王国おうこくは、スマトラ島すまとらとう北端ほくたんにあったアチェ王国おうこくオランダ後述こうじゅつ)と連合れんごうしてしばしばポルトガル制圧せいあつのムラカを攻撃こうげきした。ポルトガル勢力せいりょくは、1535ねんと1536ねんの2にわたりジョホールのプカン・トゥアを攻撃こうげきし、集落しゅうらく徹底的てっていてき破壊はかいしたが、住民じゅうみん内陸ないりく避難ひなんし、ポルトガルじん退去たいきょしたあともどって集落しゅうらく再建さいけんした[8]

アジア諸国しょこく商人しょうにん、とくにムスリム商人しょうにんはカトリックのちたムラカをしだいに忌避きひ敬遠けいえんするようになり、ムラカのみなととしての繁栄はんえい過去かこのものとなっていった[12]。ポルトガルがしたたか関税かんぜい貿易ぼうえきじょうのさまざまな制約せいやく嫌悪けんおされ、アジアの貿易ぼうえきせんはアチェ王国おうこくジャワ島じゃわとう本拠ほんきょとするバンテン王国おうこく利用りようするようになった[12]。ムラカの価値かち下落げらくさせてしまったのは、皮肉ひにくにもポルトガルじん自身じしんだったのである[3]

1606ねんのデ・ヨンゲによるオランダ艦隊かんたいのムラカへの上陸じょうりく

ムラカとアチェは、マラッカ海峡かいきょう通航つうこうするふねをめぐって直接ちょくせつ競争きょうそう相手あいてとなり、また、スマトラ島すまとらとう東岸とうがん地域ちいきへの影響えいきょうりょく行使こうしをめぐっても対立たいりつした[13]。アチェ王国おうこくは、マラッカ海峡かいきょう通商つうしょう一挙いっきょ掌握しょうあくすべくポルトガルとジョホールの双方そうほう攻撃こうげきし、ここにいたって「三角さんかく戦争せんそう」(Triangular war)としょうすべき状況じょうきょうまれた。アチェ王国おうこく1524ねんにパサイのポルトガル要塞ようさい占領せんりょうし、さらに、しばしばジョホール王国おうこく支配しはいしていたみなと艦隊かんたい派遣はけんして略奪りゃくだつをおこなった。1564ねんか65ねんにはジョホール王国おうこく当時とうじおうみやこジョホール・ラママレーばん(コタ・バトゥ)を攻撃こうげきして莫大ばくだい財宝ざいほう略奪りゃくだつし、王族おうぞくをはじめとする捕虜ほりょをアチェに連行れんこうした。アチェはジョホールに傀儡かいらいおうてたが、ジョホールはまもなくそれをはいして独立どくりつ回復かいふくした[8]

アチェ王国おうこくのスルタン、アラウッディン・アルカハル英語えいごばんはさらに、オスマン帝国ていこく最盛さいせい英主えいしゅとしてられるスレイマン1せい艦隊かんたいのマラッカ海峡かいきょう派遣はけん要請ようせいし、スレイマン1せいはこれにこたえて17せきのオスマン艦隊かんたい1569ねん派遣はけん、ムラカとジョホールを攻撃こうげきした[5]。アチェのこの台頭たいとうたいし、ポルトガルとジョホールは一時いちじ休戦きゅうせん協定きょうていむすんだが、この協定きょうてい同床異夢どうしょういむであったため短命たんめいわった。

ジョホールはふたたびポルトガル勢力せいりょくからの攻撃こうげきをうけるようになり、1587ねんにはおうがポルトガル勢力せいりょくによって破壊はかいされている[13]。しかし、ジョホール王国おうこくは、その都度つどスマトラ東岸とうがんかいして胡椒こしょう産地さんち関係かんけい保持ほじし、また、マカッサル逗留とうりゅうしたマレーじんとおしてバンダ諸島しょとうげんインドネシア。モルッカ諸島しょとう一部いちぶ)の丁字ていじナツメグ取引とりひきして国力こくりょく回復かいふくさせ、16世紀せいきまつごろには勢力せいりょく伸張しんちょうさせた[13]。そのため、アチェは一時いちじポルトガルと和解わかいしてジョホールにたいすることを余儀よぎなくされるほどであった[13]

17世紀せいき初頭しょとう、オランダ(ネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく)が東南とうなんアジアたっし、オランダひがしインド会社かいしゃ設立せつりつしてアジア貿易ぼうえき参入さんにゅうした。このとき、オランダはアジアの香料こうりょう貿易ぼうえきをめぐってポルトガルと対立たいりつしており、ポルトガルとの対抗たいこうじょう、ジョホール王国おうこく同盟どうめい相手あいてとしてえらんだ。1606ねんの5がつおよび9がつ、オランダのコルネリス・デ・ヨンゲ英語えいごばん総督そうとくとジョホールのラジャ・ボングスのあいだで2つの同盟どうめい条約じょうやく調印ちょういんされた [14]

ジョホール王国おうこく繁栄はんえい

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『スジャヤ・ムラユ』の編纂へんさんとポルトガル勢力せいりょく駆逐くちく

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『スジャヤ・ムラユ』(マラヤ年代ねんだい
ジャウィ文字もじによる年代ねんだい表紙ひょうし

マラッカ王国おうこく正統せいとう後継こうけいしゃ自認じにんするジョホールではマラッカ王国おうこく年代ねんだい編纂へんさんされ、1612ねんに『スジャヤ・ムラユマレーばん』として完成かんせいした[15]。これは、「ブンダハラ英語えいごばん」(Bendahara)としょうされるジョホール王家おうけ世襲せしゅう宰相さいしょうによってまとめられた。これにたいし、イスカンダル・ムダ英語えいごばんようするアチェ王国おうこくは、1613ねん1615ねんにジョホール王国おうこくたい攻撃こうげきくわえた。

イスカンダル・ムダはスマトラ島すまとらとうだい部分ぶぶん制圧せいあつし、一時いちじマレまれ半島はんとうのパハンも支配しはいれたが、1629ねんのムラカ遠征えんせいさい、ポルトガルとジョホールの連合れんごうによって、アチェ海軍かいぐん全滅ぜんめつきっしている[16][17]。このころ、ジョホール王家おうけは、配下はいかのトルンガヌ(げんマレーシア・トレンガヌしゅう)のおうパタニ王国おうこく女王じょおうラジャ・ウング王女おうじょとの婚姻こんいん仲介ちゅうかいしている。パタニ王国おうこく現在げんざいのタイ王国おうこくパッターニーけん)は、マレまれ半島はんとうにあったマレーじんのムスリム政権せいけん東南とうなんアジアでイスラームをほうじた国家こっかとしてはふる歴史れきしゆうしていたが、きたのシャム(アユタヤ王朝おうちょう)からの脅威きょういをかかえていた。パタニの王女おうじょラジャ・クニンとトルンガヌおうヤン・ディ・ペルタン・ムーダ・ジョホールとの婚礼こんれいおこなわれたのは1632ねんのことである。

イスカンダル・ムダが活躍かつやくしていた時期じきのジョホール王国おうこくはアチェにたい守勢しゅせいにまわらざるをえなかったが、1636ねん、イスカンダル・ムダが死去しきょすると、ジョホールはオランダひがしインド会社かいしゃ協力きょうりょくして勢力せいりょく回復かいふくをはかった[13]1641ねん、オランダ勢力せいりょくがポルトガル支配しはいのムラカを包囲ほういすると、ブンダハラ・スクダイようするジョホールはそれを援助えんじょし、ムラカのポルトガル要塞ようさい陥落かんらくさせてポルトガル勢力せいりょくをムラカより駆逐くちくした[10][13]。オランダぐんうみりくから、ブンダハラ・スクダイは陸上りくじょうからムラカを攻撃こうげきしたが、その時点じてんで、まち人口じんこうはすでに飢饉ききん感染かんせんしょうペスト)のために激減げきげんしていたといわれる[18]

このとし、ジョホールはオランダの仲介ちゅうかいによりアチェ王国おうこくとたがいをみと協定きょうていむすび、和解わかいしている[13]。アチェ王国おうこくはパハンより撤退てったいし、たびたびアチェとのあいだで覇権はけんきそったデリ王国おうこくげんインドネシア・きたスマトラしゅう)とペラク王国おうこくへのジョホール王国おうこく宗主そうしゅけん復活ふっかつさせた[19]1642ねん、ジョホールおうアブドゥル・ジャリル・シャー3せいマレーばんバトゥ・サワール新都しんと建設けんせつした[9]

全盛期ぜんせいきのジョホール王国おうこく

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17世紀せいきなかごろ、こうしてジョホール王国おうこくはオランダ勢力せいりょくやアチェ王国おうこくとも良好りょうこう関係かんけい形成けいせいしつつ、マラッカ海峡かいきょう海上かいじょうみん支援しえんのもとに全盛期ぜんせいきをむかえた。

王国おうこくは、バトゥ・サワールを中心ちゅうしんとしてマラッカ王国おうこく版図はんとをほぼ回復かいふくしてマレまれ半島はんとう南部なんぶからスマトラ島すまとらとう中部ちゅうぶにまたがる海洋かいよう帝国ていこくをきずき、国際こくさい貿易ぼうえき中心ちゅうしんとなった[8][10]。この時期じきのジョホールはとくにスマトラ東岸とうがんしょみなととのむすびつきをつよめ、カンパル(げんインドネシア・リアウしゅう)、インドラギリどうリアウしゅう)、ジャンビどうジャンビしゅう)などのみなと中部ちゅうぶスマトラの産品さんぴん搬出はんしゅつ利用りようされた[20]。スマトラの動向どうこう重視じゅうしするジョホール王国おうこくにとって、スマトラ島すまとらとう山間さんかん盆地ぼんちげんインドネシア・西にしスマトラしゅう)に本拠ほんきょミナンカバウじん王朝おうちょう権威けんい中枢ちゅうすうはとりわけ重要じゅうよう意味いみをもっていた[注釈ちゅうしゃく 2]。そのことは、ミナンカバウのパガルユン王国おうこく英語えいごばんおうとジョホールおうとのむすびつきをしめ口承こうしょう後世こうせいつたわっていることからもうかがわれる[20][注釈ちゅうしゃく 3]

オランダもまた、マラッカ海峡かいきょう秩序ちつじょ維持いじのため、ジョホールとの友好ゆうこう関係かんけいおもんじた[19]。ムラカはすでに重要じゅうようみなとではなくなっており、そのこと自体じたいはオランダひがしインド会社かいしゃにとっては不幸ふこうなできごとに相違そういなかったが、域内いきない貿易ぼうえき全体ぜんたいからみればジョホールの安定あんていこそが重要じゅうようであると判断はんだんされたのである。オランダは、ポルトガルじん追放ついほう協力きょうりょくへの代償だいしょうとしてジョホールの王族おうぞく貴族きぞくにムラカでの航行こうこう許可きょかしょう不要ふようとし、貿易ぼうえき関税かんぜい無税むぜいとした[19]。ジョホールの王侯おうこう貴族きぞくたちは交易こうえき特権とっけんかして外国がいこく商人しょうにんたちとむすび、かれらのパトロンとして交易こうえき参加さんかした[19][21]外国がいこく商人しょうにん立場たちばからすれば、ジョホールの王侯おうこう貴族きぞくむすぶことでオランダがした交易こうえきじょうのさまざまな拘束こうそくからまぬがれることができたのである[19]

ジョホールのスルタンは交易こうえき従事じゅうじしゃ必要ひつようとするすべての施設しせつ提供ていきょうした[21]。ジョホールは、スマトラ島すまとらとう胡椒こしょうきむマレまれ半島はんとうすずおも交易こうえきひんとして、外来がいらい商人しょうにんたちをきつけ、ジョホール王国おうこく自身じしんもインド綿布めんぷ購入こうにゅうするため、オランダ公認こうにんしたでインド東部とうぶベンガル地方ちほう南東なんとうコロマンデル海岸かいがん船舶せんぱく派遣はけんし、さらには中国ちゅうごく南シナ海みなみしなかい沿岸えんがん船舶せんぱく派遣はけんして交易こうえき振興しんこうつとめた。また、香辛料こうしんりょう輸入ゆにゅうするため、さかんにマカッサル王国おうこくとも交易こうえきをおこなった[19]。こうした努力どりょくにより、中国ちゅうごく南部なんぶ台湾たいわんからの商人しょうにんベトナムカンボジアシャム商人しょうにん、また、アラブじんインドじん商人しょうにんがジョホールのおう多数たすう逗留とうりゅうし、さらにポルトガルじんイギリスじんデンマークじんらも寄港きこうした[13][22]。17世紀せいき後半こうはん、ジョホールは東西とうざい中継ちゅうけい貿易ぼうえきこうとして、オランダりょうムラカをしのぐ繁栄はんえいをきずいている[19]1695ねんスコットランドアレクサンダー・ハミルトンがジョホール王国おうこくおとずれたとき、1,000家族かぞくにおよぶ中国人ちゅうごくじん職人しょくにん商人しょうにん居住きょじゅうし、アラブスーラトげんインド・グジャラートしゅう出身しゅっしん宗教しゅうきょう多数たすう活躍かつやくしていた[13]。リアウはとくに、かつてのムラカと同様どうよう、イスラーム研究けんきゅう教育きょういく中心ちゅうしんであった。特別とくべつ宗教しゅうきょうよう宿舎しゅくしゃ設置せっちされ、正統せいとう多数たすう学者がくしゃ収容しゅうようし、タリーカ(スーフィー教団きょうだん)による伝道でんどうがさかんになされた[22]

ジャンビとのこうそう

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上述じょうじゅつの「三角さんかく戦争せんそう」のあいだ、ジョホール王国おうこく内部ないぶではスマトラ南東なんとうのジャンビ王国おうこく経済けいざいてきにも政治せいじてきにも地域ちいき権力けんりょくとして台頭たいとうしてきていた。1666ねん、ジャンビは、繁栄はんえいするジョホール王国おうこく支配しはいから脱却だっきゃくしようとこころみ、このとしから1679ねんまでの13年間ねんかん両者りょうしゃ戦争せんそう状態じょうたいおちいった。この内戦ないせん直接ちょくせつ原因げんいんは、ジョホール王国おうこくとジャンビ王国おうこくのあいだでの王室おうしつあいだ結婚けっこん破約はやくになったことであった[9]。ジョホールの首都しゅとバトゥ・サワールは、戦争せんそうちゅう1673ねん、ジャンビぐんから略奪りゃくだつけている。それは2,500めいにおよぶ捕虜ほりょ黄金おうごんうばうというだい規模きぼなものであり、王国おうこくにとっておおきな災禍さいかとなった[9]王国おうこく首都しゅとは、ジャンビからの攻撃こうげき回避かいひするために頻繁ひんぱん移動いどうせざるをなかった。アブドゥル・ジャリル・シャー3せい治世ちせい1623ねん-1677ねん)はながきにおよんだが、そのあいだ王国おうこく維持いじしていくための努力どりょくとして、権力けんりょく中心ちゅうしんは、ペカン・トゥーアからジョホール・ラマ、セルユト、テナ・プテ、バトゥ・サワールそしてマカム・タヒドへと移動いどうした。

ミナンカバウじん・ブギスじんのマレー世界せかいへの参入さんにゅう

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ポルトガル、ジョホール、アチェのさんしゃ抗争こうそう終結しゅうけつし、ジョホールが域内いきない拠点きょてんとして台頭たいとうすると、マラッカ海峡かいきょうにはスマトラ島すまとらとう内陸ないりくのミナンカバウじんスラウェシとう(セレベスとうげんインドネシア)のブギスじん多数たすう参入さんにゅうしはじめた[19]。ミナンカバウのひとびとのおおくがスマトラ東岸とうがんマレまれ半島はんとう移住いじゅうし、農業のうぎょう商業しょうぎょうにたずさわり、マカッサルがオランダに占領せんりょうされた17世紀せいき後半こうはんにはブギスじん移住いじゅうはじまった[19]

ブギスじん航海こうかい技術ぎじゅつすぐれ、たか戦闘せんとう能力のうりょくゆうして傭兵ようへいとしても有能ゆうのうであった[23]。ジャンビとの戦争せんそうにおいて重要じゅうよう役割やくわりたしたのもブギスじんであった。これら新規しんき移住いじゅうしゃたちは、当時とうじ人口じんこう稠密ちゅうみつであったスマトラのしゅ要港ようこうにおいては、しばしば先住民せんじゅうみんとの軋轢あつれきんだが、比較的ひかくてき余裕よゆうのあるマレまれ半島はんとうでは出身しゅっしんごとにコミュニティ形成けいせいし、スランゴールげんマレーシア・セランゴールしゅう)、ランガットどうセランゴールしゅう)、リンギどうヌグリ・スンビランしゅう)などの各地かくちしゅうじゅう形成けいせいされて定住ていじゅうすすんだ[19]。ジョホール王国おうこくにとって、移住いじゅうしゃ存在そんざい出身しゅっしんとのあいだの交易こうえき活動かつどう促進そくしんさせ、移住いじゅうさきには農業のうぎょう鉱業こうぎょう開発かいはつになをもたらすことにもなるので、その活動かつどうみとめた[19]

17世紀せいき中葉ちゅうようから後葉こうようにかけて隆盛りゅうせいをきわめたジョホール王国おうこくであったが、王位おうい継承けいしょうをめぐる内紛ないふんやブギスじん傭兵ようへいによる政治せいじ介入かいにゅうなどによって、17世紀せいき末葉まつようから18世紀せいきにかけてはその繁栄はんえいにもしだいにかげりがみえるようになった[10]

政変せいへんとジョホール・リアウ王国おうこく

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マフムード弑逆しいぎゃく事件じけんとブギスじん

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リアウ諸島しょとうのマレーしき水上すいじょう集落しゅうらく

1699ねん、ジョホール王国おうこくのスルタンで不安定ふあんてい気質きしつぬしといわれたマフムード・シャー2せいマレーばんが、相続そうぞくじん不在ふざいのままブンダハラ(宰相さいしょう)によって殺害さつがいされ、マラッカ王家おうけおうみつるえた[20]。マフムードとは従兄弟いとこ関係かんけいにもあったブンダハラは、アブドゥル・ジャリル4せいマレーばんしょうしてクーデターこし、みずからスルタンを宣言せんげんした[20]。この事件じけんたいし、それまで王家おうけ忠誠ちゅうせいちかっていた海上かいじょうみんたちは動揺どうようし、ジョホールから離反りはんはじめた[23]しんスルタンのアブドゥル・ジャリルは、この海上かいじょうみん動揺どうようおさめるため、おう勢力せいりょく拠点きょてんであるリアウ諸島しょとううつした。これにより、アブドゥル・ジャリルは海上かいじょうみんたちを帰順きじゅんさせることにようやく成功せいこうした[23]

しかし、1717ねん、マフムードの遺児いじであることを主張しゅちょうしたラジャ・クチルがスマトラ島すまとらとうシアクげんインドネシア・リアウしゅう)にあらわれた[20]。ラジャ・クチルはこのとき、しんスルタンにたいし、みずからミナンカバウのバガルユン王家おうけ支持しじていることを強調きょうちょうしている[20]。ラジャ・クチルはアブドゥル・ジャリルを攻撃こうげきし、かれをスルタンからろし、1718ねんにジョホールのおう名乗なのった[23][注釈ちゅうしゃく 4]。アブドゥル・ジャリルは、ラジャ・クチルのもとをのがれ、マレまれ半島はんとう東岸とうがんのトルンガヌに移動いどうし、現在げんざいのパハンしゅうクランタンしゅう地元じもと首長しゅちょうらの支持しじ宮廷きゅうていかまえたが、ラジャ・クチルのはなった刺客しかくにより、1721ねん、パハンで殺害さつがいされた[20][23]

これにたいし、みなみスラウェシ出身しゅっしんのブギスじんは、きゅうブンダハラささえた。アブドゥル・ジャリルの子息しそくラジャ・スライマン(スライマン・バドラル・アラム・シャーマレーばん)はブギスじんたい同盟どうめい参戦さんせん要請ようせいし、ブギスのひとびとはそれにこたえたのである[20]。ラジャ・クチルはブギスじん猛攻もうこうのため、リアウ諸島しょとうからシアクに後退こうたいせざるをなくなった[23]傭兵ようへいとしてたか戦闘せんとう能力のうりょくをもち、航海こうかい技術ぎじゅつにすぐれたブギスじんたいし、ラジャ・クチルがわ支援しえんしたミナンカバウのひとびとは内陸ないりく河川かせんでの戦闘せんとう得意とくいとしており、海戦かいせん得意とくいではなかった[23]。なお、リアウ撤退てったいにラジャ・クチルによって建国けんこくされたシアク王国おうこく英語えいごばんは、ミナンカバウの胡椒こしょうガンビールコーヒーべいきむとう蜜蝋みつろうなど、しゅとして山林さんりん依拠いきょする物品ぶっぴん輸出ゆしゅつするみなととして19世紀せいき中葉ちゅうようまでさかえた[20][注釈ちゅうしゃく 5]

こうしてブギスじんはラジャ・クチルをリアウから追放ついほうし、ラジャ・スライマンをジョホール王国おうこくあたらしいスルタンとしてむかえた[23]。ラジャ・スライマンは、1722ねんから1760ねんまでスルタンとして君臨くんりんし、本拠ほんきょをリアウ諸島しょとうおもとうビンタンとういた[24]。それゆえ、これ以後いごのジョホール王国おうこくはしばしば「ジョホール・リアウ王国おうこく」のばれる。おうは、ビンナンとうタンジュン・ピナンかれた。このころから、ジョホール王国おうこくはしだいにスマトラ各地かくちたいする支配しはいけんうしなうようになっていった[25]。それにともない、マレまれ半島はんとう各地かくち領主りょうしゅすず採掘さいくつ輸出ゆしゅつ基盤きばんとしてしだいに勢力せいりょくゆうするようになった[25]

17世紀せいきすえごろから海産物かいさんぶつ干物ひもの中国ちゅうごくけの商品しょうひん重要じゅうようになり、中国人ちゅうごくじん商人しょうにんがリアウ・リンガ諸島しょとうブルネイ王国おうこくげんブルネイ)、スールー諸島しょとうげんフィリピン)のホロとう中心ちゅうしんとするスールー王国おうこくなどにおもむき、大々的だいだいてき集荷しゅうかするようになったため、東南とうなんアジアの群島ぐんとうでは海洋かいよう資源しげん開発かいはつはじまった[26]。しかし、海上かいじょうみん漁労ぎょろうのみでは中国人ちゅうごくじん商人しょうにん需要じゅようたすことができなかったため、各地かくち権力けんりょくしゃ商人しょうにん海上かいじょうみん自身じしんふく必要ひつよう労働ろうどうりょく調達ちょうたつするための奴隷どれいりをおこなうようになり、これは金品きんぴん略奪りゃくだつもともなったため、海賊かいぞく活動かつどうがさかんになった[26]

マレまれ半島はんとう南端なんたんおき所在しょざいし、マラッカ海峡かいきょうみなみ入口いりくちにあたるリアウ諸島しょとうおさえたジョホール・リアウ王国おうこくでは、海上かいじょうみんのみならずブギスじんが、海運かいうん商業しょうぎょう従事じゅうじしゃとして、また軍事ぐんじりょくとして重要じゅうよう役割やくわりをになった[24]。ブギスじん首領しゅりょうダエン・マレワマレーばんは、スライマンを援助えんじょした見返みかえりにふくおう(ヤン・ディプルトゥアン・ムダ)の地位ちい獲得かくとくし、代々だいだいダエン・マレワの5兄弟きょうだい子孫しそん世襲せしゅうすることとなった[23]。さらに、ブギスじん王国おうこくないにおいてマレーじん同等どうとう地位ちい保障ほしょうされ、リアウこうでの停泊ていはくぜい交易こうえき関税かんぜい免除めんじょされた[23]。リアウは、海産物かいさんぶつのほか、スマトラ島すまとらとうマレまれ半島はんとう胡椒こしょうすず、さらにビンタンとうではガンビール(ガンビールノキ)の栽培さいばいをおこなって、これらを輸出ゆしゅつした[24]。また、王国おうこく実質じっしつてきささえていたブギスじん前代ぜんだいからマレー文化ぶんか影響えいきょうつよけて熱心ねっしんなムスリムとなっており、リアウは東南とうなんアジアにおけるイスラームのセンターの1つとして繁栄はんえいした[24]

ブギスじんとオランダ勢力せいりょくこうそう

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ブギスじん主導しゅどうするジョホール・リアウ王国おうこくたいし、スルタン・スライマンの女婿じょせいでトルンガヌ王国おうこくのスルタンであったマンスールは、マレーじん王権おうけん復権ふっけんはかって反旗はんきをひるがえした[23]。スルタン・マンスールは、ダエン・マレワのあとリアウのふくおうとなったダエン・チュラクマレーばん1745ねん死去しきょし、そのおいにあたるダエン・カンボジャマレーばんふく王位おういくと、オランダにたいし、リアウからブギスじん追放ついほうするよう助力じょりょく依頼いらいした[23]。オランダは、監視かんしもうをかいくぐって香辛料こうしんりょう奴隷どれいはこんでくるブギスじん交易こうえき活動かつどう敵視てきししていた[27]。トルンガヌのマンスールは、1747ねん、オランダとのあいだで、協力きょうりょく交換こうかん条件じょうけんとして、リアウの影響えいきょうにあったシアクやスランゴールなどの土地とち関税かんぜい免除めんじょ特権とっけんをオランダに提供ていきょうするむね相互そうご協定きょうていをむすんだ[23]

これにたいし、ふくおうダエン・カンボジャは、1754ねんにリアウ諸島しょとう在住ざいじゅうのすべてのブギスじんマレまれ半島はんとうのリンギに移住いじゅうさせ、リアウの交易こうえきだい打撃だげきをあたえた[23]1755ねん、オランダ勢力せいりょくがシアク王国おうこくおやブギスのスルタンを追放ついほうした事件じけん契機けいきとして両者りょうしゃあいだ戦争せんそうはじまった[23]。ブギスぜいは、ムラカを先制せんせい攻撃こうげきして多大ただい損害そんがいをあたえたが、翌年よくねん体制たいせいなおしたオランダぐんとのたたかいにやぶれ、講和こうわおうじざるをえなくなった[23]。その結果けっかマレまれ半島はんとうのリンギ、クラン(セランゴールしゅう)、ルンバウ(ヌグリ・スンビランしゅう)のブギスじんはオランダを宗主そうしゅとしてみとめ、ジョホール国王こくおう君主くんしゅとしてあおぐことに同意どういした[23]。スルタン・マンスールはオランダにたいし、ブギスじんのさらなる追放ついほうかさねてもとめたが、当時とうじのオランダにはそのようなちからはなく、この要請ようせい却下きゃっかされた[23]

リアウ王国おうこくおうだったタンジュン・ピナン所在しょざいするふくおうラジャ・ハジのモニュメント

オランダからの助力じょりょくられなくなったマンスールがトルンガヌにもどると、マレーじん高官こうかんたちはダエン・カンボジャにブギスじんのリアウへの復帰ふっきもとめた[23]。ブギスひとなくしては、リアウの交易こうえきりたない状態じょうたいとなっていたからである[23]。スルタン・スライマンの死後しごアブドゥル・ジャリル・ムアッツァム・シャーマレーばん(1760ねん-1761ねん)とアフマド・リアヤット・シャーマレーばん(1761ねん-1762ねん)のスルタン2にん相次あいついで死去しきょしたあと、ダエン・カンボジャはスルタン・スライマンのまごで、自身じしんまごでもある幼少ようしょうのマフムードをマフムード3せいマレーばんとして王位おういけ、王国おうこく実権じっけん確実かくじつなものとした[23]

リアウ王国おうこく繁栄はんえい

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18世紀せいき中葉ちゅうよう、リアウはブギスじん海運かいうん活動かつどうささえられ、10まんにんもの人口じんこうかかえて繁栄はんえいした[23][24]。ジョホール・リアウ王国おうこくふくおう末裔まつえいラジャ・アリ・ハジ19世紀せいき著述ちょじゅつした『トゥーファト・アル・ナーフィス貴重きちょうおくもの)』によれば、リアウの人口じんこう10まんのうち半数はんすうはブギスけいひとびとであったという[23]。ブギスじんは、モルッカ諸島しょとう(マルク諸島しょとうげんインドネシア)やしょうスンダ列島れっとうげんインドネシア。バリ島ばりとうからティモールとうまで東西とうざいつらなる)などでもひろ交易こうえき活動かつどう参加さんかした[23]当時とうじオランダひがしインド会社かいしゃ交易こうえき独占どくせんこころみたモルッカの香辛料こうしんりょうをその監視かんしもうをかいくぐって購入こうにゅうし、であるスラウェシとうカリマンタンとうてマラッカ海峡かいきょういき供給きょうきゅうした[23]パレンバンげんインドネシア・みなみスマトラしゅう)やジャンピの胡椒こしょう、スランゴールのすずなどをもたらしたのもブギスじんたちであった[23]。リアウの繁栄はんえい頂点ちょうてんたっしたのは、上述じょうじゅつふくおうダエン・カンボジャの時代じだい、およびダエン・チュラクの1777ねんふくおうとなったラジャ・ハジマレーばん時代じだいであった[23]

リアウには、ブギスじん中国人ちゅうごくじんイギリスじんわたし貿易ぼうえき商人しょうにん、インドけいムスリム商人しょうにん、アラブ商人しょうにんなどが寄港きこうし、西方せいほうからはインドさん綿布めんぷアヘン武器ぶき弾薬だんやくをもたらした[23][24]。リアウ周辺しゅうへん海域かいいきはまた、たい中国ちゅうごく貿易ぼうえき輸出ゆしゅつしなとして重要じゅうよう海産物かいさんぶつゆたかであった[23]海産物かいさんぶつ漁労ぎょろう採集さいしゅうになったのは海上かいじょうみんであったが、18世紀せいき中葉ちゅうよう中国ちゅうごくからの来航らいこうせんえると中国ちゅうごく商人しょうにんとともに移住いじゅうしゃ増加ぞうかした[23]。また、18世紀せいき後半こうはんにはサイイド(「主人しゅじん」)やシャイフ(「族長ぞくちょう」)を名乗なのるアラブじん多数たすう居住きょじゅうし、イスラーム神秘しんぴ主義しゅぎ教団きょうだん活動かつどうもさかんであった[24]

なお、この時期じきにはイギリス東南とうなんアジア貿易ぼうえきした。1623ねんアンボイナ事件じけんでオランダにいちはいきっしてインド大陸たいりくイラン転進てんしんしながらも積極せっきょくてきにアジア進出しんしゅつしていった。イギリスは、18世紀せいき中葉ちゅうようのインドでのフランスとのこうそう勝利しょうりしたあと、とく東南とうなんアジア進出しんしゅつをさかんにすすめた[注釈ちゅうしゃく 6]

商業しょうぎょう時代じだい」の終焉しゅうえんとリアウ王国おうこく衰亡すいぼう

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商業しょうぎょう時代じだい」から「開発かいはつ時代じだい」へ

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17世紀せいき後半こうはんから18世紀せいき前半ぜんはんにかけて、オランダの台湾たいわんにおける根拠地こんきょちであったゼーランディアじょうてい成功せいこうによって占領せんりょうされたため、オランダが日本にっぽん清国きよくに商品しょうひんであった砂糖さとう樟脳しょうのう鹿しかがわなどを東南とうなんアジアの地域ちいきない調達ちょうたつしなければならなくなったこと、胡椒こしょう供給きょうきゅう過多かたによって胡椒こしょう価格かかく大幅おおはば下落げらくしたこと、日本にっぽんからのぎん輸入ゆにゅう途絶とだえたこと、ヨーロッパでちゃコーヒー消費しょうひ拡大かくだいし、また、キャラコブームがこったことなどによって、東南とうなんアジア、とくに諸島しょとう国際こくさい貿易ぼうえき活動かつどうおおきな変化へんかしょうじた[28]

はしてきにいえば、東南とうなんアジア海域かいいきではぎん不足ふそくもあってインドさん綿布めんぷ中国ちゅうごくさんのさまざまな商品しょうひん入手にゅうしゅすることが困難こんなんになっていったのである[28]。これにより、中継ちゅうけい貿易ぼうえきそのものが全体ぜんたいてき低迷ていめいし、以前いぜんのような利益りえき商業しょうぎょうからられなくなって、東南とうなんアジアにおける「商業しょうぎょう時代じだい」はわりをげた。それは、交易こうえききてきたジョホール王国おうこくにとって転機てんきをせまるものであった。こうした状況じょうきょう変化へんか対応たいおうする方法ほうほうとしては、輸入ゆにゅうひん国産こくさんあたらしい輸出ゆしゅつ商品しょうひん開発かいはつかんがえられる。上述じょうじゅつ海産物かいさんぶつすず開発かいはつなどはあたらしい輸出ゆしゅつ商品しょうひんをつくりだそうとする営為えいい事例じれいといえる。いずれにせよ、こののちジョホール・リアウ王国おうこくふくめた東南とうなんアジアでは開発かいはつ経済けいざい指向しこうされるようになった[28]東南とうなんアジアもまた「開発かいはつ時代じだい」をむかえたのである。

リアウ王国おうこく衰亡すいぼうえいらん戦争せんそう

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だいよんえいらん戦争せんそうにおけるフランスの提督ていとくピエール・アンドレ・ド・シュフラン介入かいにゅう(1783ねんセイロンとうおき
シュフラン提督ていとくひきいるフランス海軍かいぐんがイギリスのエドワード・ヒューズ提督ていとくいどんだことでアジアにおけるオランダの植民しょくみんがおおいにすくわれている。

1780ねんヨーロッパ大陸たいりくではだいよんえいらん戦争せんそうこり、その余波よは東南とうなんアジアにもおよんだ[27]1782ねん、オランダ勢力せいりょくがリアウに停泊ていはくしていたイギリスせん捕獲ほかくした行為こういたいし、ふくおうラジャ・ハジはいかり、オランダに抗議こうぎするとともに、ブギスじん慣習かんしゅうにしたがって支配しはいしゃまえとして没収ぼっしゅうひん半分はんぶんすことをもとめた[27]。しかし、この要求ようきゅう拒絶きょぜつされたため、ラジャ・ハジはリアウ、スランゴール、ルンバウ在住ざいじゅうのブギスじん動員どういんして戦闘せんとう準備じゅんびすすめた。オランダは1783ねんすえにリアウを先制せんせい攻撃こうげきしたもののブギスじん反撃はんげきにより敗北はいぼくし、撤兵てっぺいした[27]。ラジャ・ハジは王国おうこくぜん戦力せんりょくをオランダりょうムラカの包囲ほうい投入とうにゅうし、オランダ勢力せいりょくはそのため窮地きゅうちおちいったが、1784ねんにイギリスとの戦争せんそうわると、本国ほんごくは6せき艦隊かんたいをムラカに派遣はけん、ようやくこのなんをのがれた[27]

1784ねん8がついきおいづいたオランダはスランゴールを降伏ごうぶくさせてオランダ支配しはいみとめさせ、同年どうねん10がつにはリアウも占領せんりょうした[27]。スルタンのマフムードは、オランダの進駐軍しんちゅうぐんたいし、ブギスじん束縛そくばくから自由じゆうになったとして感謝かんしゃべ、ジョホール・リアウ王国おうこくがオランダの属国ぞっこくとなる協定きょうてい同意どういした[27]。これにより、リアウの宮廷きゅうていにはオランダじん理事りじかんおくまれ、その実質じっしつてき統治とうちしゃとなり、リアウ以外いがい場所ばしょ出生しゅっしょうしたブギスじんはリアウより追放ついほうされた[27]

ところが、スルタン・マフムードはやがてオランダじん理事りじかん監視かんし嫌悪けんおするようになり、両者りょうしゃ関係かんけい悪化あっかした[27]。マフムードは協定きょうてい違背いはいし、当時とうじマラッカ海峡かいきょういきにまで進出しんしゅつしはじめたスールー王国おうこく海洋かいようみんイラヌンじんもちいてリアウのオランダじん追放ついほうした[27]。しかし、協力きょうりょく報酬ほうしゅうをめぐる問題もんだいからイラヌンじんたちとマフムードが対立たいりつするようになり、そこへオランダの反撃はんげきがあってスルタンはパハンに逃亡とうぼうした[27]。リアウのおおくのマレーじんがパハンやトルンガヌへ、ブギスじんもスランゴールやシンタンインドネシアばんげんインドネシア・西にしカリマンタンしゅう)をはじめとするカリマンタン(ボルネオとう)などにって、リアウの繁栄はんえい終焉しゅうえんをむかえた[27]。18世紀せいきまつころの王国おうこくは、おおきくはリアウ王国おうこくとパハン王国おうこくとに分裂ぶんれつ傾向けいこうせるようになった[10]

一方いっぽうイギリスひがしインド会社かいしゃは、1786ねんにはマラッカ海峡かいきょうのぞペナンとうげんマレーシア・ペナンしゅう)を獲得かくとくしている。これは、シャム攻撃こうげきおそれたクダ王国おうこく英語えいごばんが、イギリスのフランシス・ライト英語えいごばん提案ていあんこたえて、イギリスの軍事ぐんじ援助えんじょ見返みかえりにペナンとうひがしインド会社かいしゃ賃貸ちんたいしたものである。こののち、ペナンとうは「プリンス・オブ・ウェールズとう」と改名かいめいされ、イギリスの東南とうなんアジア進出しんしゅつ拠点きょてんとなった。1791ねんにはシャムがパタニ王国おうこく侵攻しんこうしたため、クダ王国おうこく協定きょうていによりイギリスに派兵はへい要求ようきゅうしたが拒否きょひされている。イギリスの違約いやくったクダ王国おうこくは1まんにん規模きぼ大軍たいぐん動員どういんしてペナンとう奪回だっかい企図きとしたが、この計画けいかく事前じぜんにフランシス・ライトのるところとなり、クダはペナン奪回だっかい失敗しっぱいしたのみならず、しま対岸たいがん位置いちするマレまれ半島はんとうスブランプライ英語えいごばんをもうばわれ、ともに正式せいしきにイギリスへ割譲かつじょうすることとなった。

王国おうこく分裂ぶんれつとマレーの植民しょくみん

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「シンガポールのみのおや」といわれるトーマス・ラッフルズ

1804ねん、スルタン・マフムードとブギスじんふくおうラジャ・アリマレーばん盟約めいやくむすんでリアウに復帰ふっきした[27]。しかし、双方そうほう確執かくしつ解消かいしょうされることなく、まもなくスルタンはリアウをって、さらにその南方なんぽうのリンガ諸島しょとうげんインドネシア・リアウ諸島しょとうしゅう)へうつった(「ジョホール・リアウ・リンガ」)[27]

1812ねん、マフムードが2人ふたり息子むすこのこして死去しきょすると、王位おうい継承けいしょうをめぐってブギスがわふくおう)とマレーがわ(スルタン)が対立たいりつした[27]。イギリスとオランダがこれに介入かいにゅうし、マフムードの長子ちょうしフサイン(フサイン・マフムード・シャーマレーばん)はブンダハラ(宰相さいしょう)やトゥムングン(首長しゅちょう)らマレーじん高官こうかん支持しじたが、ブギスじんおとうとのラーマン(アブドゥル・ラーマン・ムアッツァム・シャーマレーばん)を擁護ようごした[29]ナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつバタヴィアもどしたオランダは従来じゅうらい制限せいげん貿易ぼうえき政策せいさくえず、それにたいし、自由じゆう貿易ぼうえき政策せいさくほうずるイギリスはオランダに対抗たいこうするため、戦略せんりゃくてきにも、交易こうえき利便りべんのうえからもマラッカ海峡かいきょうきた位置いちするペナンとうよりも海峡かいきょう南口みなみぐち付近ふきんにあらたな拠点きょてん候補こうほもとめ、リアウ在住ざいじゅうのブギスじんふくおう交渉こうしょうをもち、1818ねん8がつには、その交渉こうしょうをほぼえていた[29]。しかし、オランダはそのとしの11月にどうふくおう条約じょうやくむすび、リアウにちゅう在官ざいかん守備しゅびたい配置はいちして、ラーマンをリアウ・リンガ王国おうこく正統せいとうみとめた[29]

1819ねんイギリスひがしインド会社かいしゃ社員しゃいんトーマス・ラッフルズは、えいりょうインド初代しょだい総督そうとくとなったウォーレン・ヘースティングズの許可きょかて、ジョホールの対岸たいがんにあるしまシンガプラ(現在げんざいシンガポール)に上陸じょうりくし、リアウにあったマレー王族おうぞくフサインをまねき、ジョホールおうとして即位そくいさせた。このしま地政学ちせいがくてき重要じゅうようせいけたラッフルズは、ジョホールおうとなったフサイン・マフムードとシンガプラの首長しゅちょう(トゥムングン)であるマハーラージャ・アブドゥル・ラーマンとのあいだで協定きょうていむすび、要塞ようさい商館しょうかん建設けんせつすることを合意ごういしてジョホールおうフサインからこのしま買収ばいしゅうした[30][31]以後いごイギリスは、このしま関税かんぜいのかからない自由じゆう貿易ぼうえきこう建設けんせつし、東南とうなんアジア貿易ぼうえき拠点きょてんとした[27]。やがて、シンガポールとう全体ぜんたいがイギリスの植民しょくみんになっていった[32][注釈ちゅうしゃく 7]

シンガポールは「イギリス帝国ていこく」を構成こうせいする一大いちだい拠点きょてんとなり、リアウにわってあらたな交易こうえき拠点きょてんとして発展はってんはじめるようになった[27]。そのさい、ラッフルズが交易こうえきのパートナーとしてもっと期待きたいしたのが、ブギスじんであった[27]。ブギスじんたちは、中国ちゅうごく市場いちばけの重要じゅうよう商品しょうひんであるつばめ鼈甲べっこう(べっこう)、砂金さきん龍脳りゅうのう安息香あんそくこうなどの海産物かいさんぶつ林産物りんさんぶつ東部とうぶインドネシア各地かくちスマトラ島すまとらとう・カリマンタンとうなどからシンガポールへはこび、そこでインドさん綿布めんぷアヘン、ヨーロッパさんタバコた。蒸気じょうきせん一般いっぱんてきなものとなる19世紀せいき後半こうはんまで、東部とうぶインドネシア海域かいいきもっと活発かっぱつ交易こうえき活動かつどうになったのはブギスじんたちだったのである[27]

1824ねん、イギリスとオランダの両国りょうこくは、マラッカ海峡かいきょういきにおけるたがいの勢力せいりょく範囲はんい確定かくていさせたえいらん協約きょうやくロンドン締結ていけつし、イギリスの領有りょうゆうするスマトラ島すまとらとう西海岸にしかいがんブンクルとオランダりょうムラカを交換こうかんした。これにより、イギリスはペナン-ムラカ-シンガポールをむすぶマレまれ半島はんとう西岸せいがんしょみなと手中しゅちゅうおさめた。同時どうじに、リアウ・リンガ諸島しょとうはじめスマトラ島すまとらとうジャワ島じゃわとうはオランダの勢力せいりょくけんとなり、リアウ王国おうこくとジョホール王国おうこく分離ぶんり決定的けっていてきなものとなった[10][27]。これにともない、リアウ・リンガ王国おうこくスマトラ島すまとらとう中部ちゅうぶ付近ふきん島々しまじま、ジョホール王国おうこくマレまれ半島はんとう南部なんぶ支配しはいすることとなったが、二王におう王国おうこくないでの支配しはいけん名目めいもくてきなものにすぎず、ジョホール地方ちほうはすでにトゥムングン事実じじつじょう領土りょうどとなっていた[10][27][29]マレまれ半島はんとうがわにフサインの直轄ちょっかつすべき土地とちはすでになく、ラーマンがわはリアウ・リンガ王国おうこく体裁ていさいをかろうじて保持ほじしているという状態じょうたいであった[29]。この協約きょうやくは、見方みかたえれば、えいらん両国りょうこくによる事実じじつじょう植民しょくみん分割ぶんかつにほかならなかった。そして、マラッカ王国おうこく以来いらい歴史れきしてき一体いったいてきなものとして形成けいせいされてきたムラユ(マレー)世界せかいは、現代げんだいにおけるマレーシアとインドネシアの2国家こっかによる分断ぶんだんへとみちび起点きてんとなったのである[29]

1826ねん、イギリスはシャムとのあいだにバーニー条約じょうやく英語えいごばんむすび、ペナンとう、ムラカおよびシンガポールを一括いっかつして「海峡かいきょう植民しょくみん」としょうする植民しょくみん成立せいりつさせ、その首都しゅとをシンガポールにいた[31][注釈ちゅうしゃく 8]マレまれ半島はんとう南部なんぶでは、独立どくりつこくとしてパハンとジョホールの2王国おうこくをのこすばかりとなった[10]。そして、イギリス勢力せいりょくは、ペナン、ムラカ、シンガポールで中国ちゅうごくけの輸出ゆしゅつひん生産せいさんをおこなわせようとしたが、そのいとなみはすべて失敗しっぱいし、貿易ぼうえき中継ちゅうけい基地きちとしての機能きのうのみがのこった[32]。イギリスひがしインド会社かいしゃは、それを維持いじするために海峡かいきょう植民しょくみんをすべて自由じゆうこうとしたのである[32]

近代きんだいジョホールのちち」といわれるアブ・バカール

1833ねんにイギリスひがしインド会社かいしゃ領有りょうゆうけんイギリス国王こくおう統治とうちけんしたかれ、さらに1858ねんにはひがしインド会社かいしゃ解散かいさんにともない、海峡かいきょう植民しょくみんはイギリスの直轄ちょっかつ植民しょくみんとなった。海峡かいきょう植民しょくみん統治とうちはイギリス植民しょくみんしょうによってになわれることとなったが[31]、このあいだも、ジョホールは王国おうこくとしての独立どくりつたもった。しかし、それまで東南とうなんアジア海域かいいき参入さんにゅうした外来がいらい勢力せいりょくたいし、むしろそれを介在かいざいさせることで海域かいいきにおける固有こゆう権力けんりょく構築こうちくしてきたみなと支配しはいしゃたいし、いまやその権限けんげんきびしく制限せいげんする植民しょくみん支配しはい直接ちょくせつまれつつあったのであり、東南とうなんアジアも本格ほんかくてき帝国ていこく主義しゅぎ時代じだいをむかえたのである[27]

ジョホールバルのスルタン・アブ・バカール・モスク

一方いっぽうのリアウ・リンガ諸島しょとうにあっては、マレーけいのスルタンやブギスけいふくおうが、シンガポール開港かいこう活発かっぱつ経済けいざい活動かつどう展開てんかいした[27]群島ぐんとうしょ王国おうこく海産物かいさんぶつ生産せいさん海賊かいぞく行為こういつづくかぎり繁栄はんえいをつづけたのである[33]半面はんめん、マラッカ海峡かいきょうはさむかたちで勢力せいりょくけんさだめたえいらん両国りょうこくは、この海峡かいきょういき頻発ひんぱつする「海賊かいぞく活動かつどうなやまされた[34]。シンガポール開港かいこうとともに、海上かいじょうみんがヨーロッパせん中国ちゅうごくジャンクせんおそ海賊かいぞく行為こういはむしろ開港かいこう以前いぜんより増加ぞうかしたのである[34]。ヨーロッパじん支配しはいしゃ在来ざいらい勢力せいりょく利得りとく便益べんえき充分じゅうぶん満足まんぞくさせることができないとき、マラッカ海峡かいきょう海賊かいぞく活躍かつやくする危険きけん海域かいいきへとわっていった[27]

これについては、オランダもイギリスもともにてられる人員じんいん財源ざいげんには限界げんかいがあり、海賊かいぞく行為こうい効果こうかてき対処たいしょすることは難渋なんじゅうした[33][34]。そこで、えいらん両国りょうこくは、ジョホールのトゥムングンやリンガのマレーけいスルタン、リアウのブギスじんふくおう報奨ほうしょうきんあたえるわりに、海賊かいぞくまり強化きょうか依頼いらいし、また、とくにイギリスは奴隷どれい貿易ぼうえき根絶こんぜつはかった[34]。これは、一定いってい成果せいかをあげたものの、海賊かいぞく行為こういは、蒸気じょうきせん一般いっぱんし、武装ぶそうした小型こがた巡回じゅんかいボート普及ふきゅうする1870年代ねんだいまで活発かっぱつだった[34]海賊かいぞく活動かつどう終息しゅうそくがもたらされたのは、最終さいしゅうてきには、海賊かいぞくせん蒸気じょうきせん速度そくどいつけなくなってからのことであった[33]

1922ねんえいりょうマラヤ
あか海峡かいきょう植民しょくみんがマレー連合れんごうしゅうあお連合れんごうしゅう

1862ねん、トゥムングン出身しゅっしんで、英主えいしゅといわれたアブ・バカール英語えいごばんがジョホール王国おうこくのスルタンに即位そくいした(皇帝こうてい称号しょうごうがあたえられたのは1866ねんのことである)。マレまれ半島はんとうほかしゅう次々つぎつぎ植民しょくみんされていくなかで、アブ・バカールひきいるジョホールは国家こっか維持いじし、独自どくじ経済けいざい開発かいはつすすめて近代きんだいをあげた。アブ・バカールはシンガポールの対岸たいがんにあたるマレまれ半島はんとう南端なんたん港湾こうわん建設けんせつし、1884ねん、そのみなとジョホールバル命名めいめいされた[10]王宮おうきゅうもジョホールバルにうつされ、1894ねんには憲法けんぽう発布はっぷした[10]。アブ・バカールはこんにち「近代きんだいジョホールのちち」とばれている。

一方いっぽうみなととしては衰亡すいぼうしたリアウは、19世紀せいきにおいてもイスラーム神秘しんぴ主義しゅぎしゃつどうセンターでありつづけた[27]。マラッカ海峡かいきょうにおいてブギスじん活発かっぱつ交易こうえき参加さんかしようとするかぎり、交易こうえきしゃはイスラームをほうじてマレー社会しゃかい一員いちいんとなることが重視じゅうしされたからであった[27]

イギリスはそのマレまれ半島はんとう内部ないぶのヌグリ・スンビラン、パハン、ペラク(ペラ)、スランゴールなどスルタンりょう諸国しょこく干渉かんしょうくわえ、1896ねんにはこれら諸侯しょこうこく保護ほごこくしてクアラルンプール首都しゅととするマレー連合れんごうしゅう組織そしきさせた[35]1899ねんよりはじまったジョホールの鉄道てつどう敷設ふせつ交渉こうしょうでは、アブ・バカールの後継こうけいしゃスルタン・イブラヒムマレーばんとイギリス植民しょくみんしょう対立たいりつし、このことは、イギリスがジョホールにたい攻勢こうせいつよめる原因げんいんとなった[35]。マレー連合れんごうしゅう1909ねん、カリマンタンとうのブルネイやマレまれ半島はんとうない連合れんごうしゅうとともにシンガポール駐在ちゅうざい海峡かいきょう植民しょくみん知事ちじ管轄かんかつかれてイギリスりょうマラヤ完成かんせいし、マレまれ半島はんとう北部ほくぶのトルンガヌ、クランタン、クダプルリス連合れんごうしゅうもイギリスの支配しはいはいった[31]。ジョホールも連合れんごうしゅうであったが、ここにはイギリスのそう顧問こもんかんかれ、王国おうこく実権じっけんはイギリスじん顧問こもんにうつって、ジョホールの独立どくりつはほとんど名目めいもくてきなものとなった[10][31][35]。こうして、1909ねんにはイギリスによるマレー全土ぜんどへの支配しはいけん確立かくりつした。

一方いっぽう、ラーマンによって継承けいしょうされたのちも王国おうこく体裁ていさい維持いじしてきたリアウ・リンガ王国おうこくも、1911ねん、オランダによって廃絶はいぜつされた[29]最終さいしゅうてき今日きょうのインドネシアの原型げんけいをなすオランダりょうひがしインド完成かんせいしたのは、1910年代ねんだいのことである[35]

現代げんだいのジョホール

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ジョホールバルのスルタンの宮殿きゅうでん

イギリスの支配しはいにあっても、ジョホールは諸侯しょこうこくのひとつとして世襲せしゅうのスルタンが王位おうい継承けいしょうした。だい世界せかい大戦たいせんなか日本にっぽん大日本帝国だいにっぽんていこく)、戦後せんごふたたびイギリスの支配しはいかれ、1948ねん、イギリス保護ほごりょうマラヤ連邦れんぽう一部いちぶとなった。1957ねんにはマラヤ連邦れんぽうがイギリスより独立どくりつたし、1963ねん、シンガポールおよびイギリス植民しょくみんサラワクサバわせて立憲りっけん君主くんしゅせい連邦れんぽう国家こっか「マレーシア」となったが、そのさい、ジョホールは連邦れんぽう構成こうせいする1つのしゅう(ジョホールしゅう)となって、現在げんざいいたっている。なお、1965ねんにはマレーシアよりシンガポールが分離ぶんり独立どくりつしたが、現代げんだいのジョホールはその位置いちより、経済けいざいてき文化ぶんかてきにシンガポールとのむすびつきがもっとつよ地域ちいきとなっている。

スルタンの世襲せしゅう現在げんざいもつづいており、16世紀せいき以来いらい伝統でんとういまつたえている[10]。ジョホールしゅうのスルタンは、しゅうのスルタン同様どうようマレーシア国王こくおう候補こうほ資格しかくをもち、国王こくおう選挙せんきょけんゆうしている。なお、マレーシアの国王こくおう現在げんざい国内こくない13しゅうのうち9しゅう(ジョホールしゅうクダしゅうクランタンしゅうヌグリ・スンビランしゅうパハンしゅうペラしゅうプルリスしゅうスランゴールしゅうトレンガヌしゅう)にいるスルタンによる互選ごせん選出せんしゅつされ、任期にんき5ねんとなっている。互選ごせん建前たてまえになっているものの、実際じっさいには輪番りんばんせいちか象徴しょうちょうてき君主くんしゅである。

なお、ジョホールおき7.7海里かいり所在しょざいする無人島むじんとうペドラ・ブランカとうをめぐって、シンガポール・マレーシア両国りょうこくあいだ領土りょうど問題もんだいしょうじたことがある。しまはもともとジョホール王国おうこく領土りょうどであったが、1850年代ねんだいにイギリスが島内とうないホースバー灯台とうだい英語えいごばんて、シンガポール政府せいふ管理かんりまかせた。1965ねんのシンガポール分離ぶんり独立どくりつもシンガポールによる実効じっこう支配しはいがつづいた。紛争ふんそう発端ほったんは、1980ねん、マレーシア政府せいふしん作成さくせい地図ちずにペドラ・ブランカとう自国じこく領土りょうどとして記載きさいし、シンガポールが異議いぎ提出ていしゅつしたことにある。以後いご両国りょうこくあいだ領土りょうど問題もんだいについて協議きょうぎおこなわれてきたが、解決かいけつせず、最終さいしゅうてき国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょ(ICJ)の判断はんだんをあおいだ[36]2008ねん国際司法裁判所こくさいしほうさいばんしょはシンガポールの領有りょうゆうけんみとめた[36]。この裁判さいばん結果けっか最終さいしゅうてき左右さゆうしたのは、1953ねん9月にイギリス植民しょくみん政府せいふたいし、ジョホール王国おうこく国務こくむ長官ちょうかん代理だいりが「しま所有しょゆう主張しゅちょうしない」とつたえた書簡しょかん存在そんざい(シンガポールがわ証拠しょうこ書類しょるいとして提出ていしゅつ)であった[36]

統治とうち形態けいたい君臣くんしん関係かんけい

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ジョホール王国おうこく旧来きゅうらい統治とうち形態けいたいは、マラッカ王国おうこくのそれをいだ。もっとたか権威けんいは、スルタンとしてられる「ヤン・ディ・ペルトゥアン」(国王こくおう)の手中しゅちゅうにあり、スルタンは、スルタンへの助言じょげん任務にんむとする「マジュリス・オラング・カヤ」(富裕ふゆうしゃ評議ひょうぎかい)の補佐ほさけた。評議ひょうぎかい構成こうせいしたのは、ブンダハラ(宰相さいしょう)、トゥムングン(首長しゅちょう)、ラクサマナ(提督ていとく)、シャーバンダルみなと長官ちょうかん)、そしてスリ・ビジャ・ディラジャであった。18世紀せいきにおいては、ブンダハラはパハンにみ、ジョホールのトゥムングンはシンガポールのテロッ・ベランガにんだ。かく称号しょうごう貴族きぞくは、ジョホールのスルタンより授与じゅよされたかく権限けんげんにもとづき、それぞれ独立どくりつした地域ちいき管理かんり経営けいえいをおこなった。

ジョホール帝国ていこく分権ぶんけんされていた。それは4つの主要しゅよう封土ほうどとスルタンの領土りょうどからっていた。封土ほうどについては、ムアルとその領域りょういきはムアルのラジャ・トゥムングンの支配しはいにあり[37]、パハンはブンダハラがその執事しつじしょくつと[38]、リアウはふくおう統制とうせいにあって、げんジョホールしゅう主要しゅようとシンガポールはトゥムングンのしたにあった。それ以外いがいの「帝国ていこく」の領域りょういきはスルタンにぞくした。リアウ・リンガ王国おうこく時代じだいには、スルタン自身じしんはリンガにんだ。ラジャ・トゥムングン・ムアルをのぞくオラング・カヤ(「富裕ふゆうしゃ」)はスルタンに直接ちょくせつ上申じょうしんすることができた。ムアルにあってラジャ・トゥムングンはスルタンより独立どくりつ国家こっか君主くんしゅとして承認しょうにんされていた。

マレーじんあいだでは、王族おうぞく臣下しんか海上かいじょうみん)の関係かんけい双務そうむてき、ないし対等たいとうもの同士どうし契約けいやく関係かんけいであった[39]。すなわち、おう臣下しんか保護ほごするかぎりにおいておう忠誠ちゅうせいをつくすのであり、おう臣下しんかたいかならずしも絶対ぜったいてき支配しはいけんをもつというものではなかった[39]。しかし、その一方いっぽうで、イスラームの受容じゅようによってマレーの王権おうけん従前じゅうぜんの「デワ・ラジャ(かみおう)」の観念かんねんに「ウンマ(イスラーム共同きょうどうたい)の統治とうちしゃ」という観念かんねん付加ふかされ、しだいに「アッラー地上ちじょうにおけるかげ」として絶対ぜったいてき権威けんいをもつようになった[40]時代じだいくだるとともに従来じゅうらい双務そうむてき君臣くんしん関係かんけい国王こくおう絶対ぜったい専制せんせいてきなものに変化へんかしていったのである[39]王族おうぞく廷臣ていしんをはじめとするムスリムは、おうたいして無条件むじょうけん忠誠ちゅうせい服従ふくじゅうちかわなくてはならず、おうたいする不忠ふちゅう背信はいしん反逆はんぎゃくは「ドゥハルカ」と総称そうしょうされ、死刑しけいをもってばっせられる重罪じゅうざいかんがえられた[40]。しかし、そのなかであっても、おうは、「アディル」(正義まさよし)としょうされるおうにふさわしい資質ししつ規範きはんをもたなければならないとされ、また、王族おうぞく廷臣ていしんらによるコンセンサスと協議きょうぎによる制約せいやくけていた。王位おうい継承けいしょうふくめ、重大じゅうだい政治せいじてき案件あんけんかんしては、おう独断どくだん専行せんこうゆるされていなかった[40]。ジョホールの国内こくない政治せいじは、いちめんでは、こうしたことなる方向ほうこうせいをもつ君臣くんしん関係かんけいのせめぎいの歴史れきしともみなすことができる[39]

帝国ていこく範囲はんい

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ジョホール王国おうこくは、マラッカ王国おうこくいでおり、その支配しはいのおよぶ領域りょういき範囲はんいもまたいだ。それは、マレまれ半島はんとう南部なんぶスマトラ島すまとらとう南東なんとうであり、さらにリアウ諸島しょとうおよびこれらに付属ふぞくする島嶼とうしょにおよんだ。これらのなかには、家臣かしん封土ほうどであるパハン、ムアル、ジョホールしゅう主要しゅようそしてリアウの島々しまじまなどをふくんでいた。「帝国ていこく統治とうち中枢ちゅうすう時代じだいにより変遷へんせんしており、当初とうしょはサヨン・ピナン、そして、コタ・カラ、セルユト、ジョホール・ラマ、バトゥ・サワール、コタ・ティングリなどに首都しゅとかれたが、いずれもジョホールしゅうない、リアウ諸島しょとうそしてリンガ諸島しょとう位置いちしていた。近代きんだいジョホール王国おうこく首都しゅとは、こんにち「ジョホール・バル」のられるタンジュン・プテリにかれた。

歴代れきだいスルタン一覧いちらん

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王国おうこくだい22だいのスルタン・イブラヒム(Sultan Ibrahim ibni Sultan Abu Bakar、在位ざいい:1895ねん-1959ねん
マレーシア国王こくおうつとめたジョホールのスルタン・イスカンダル(Sultan Iskandar ibni Almarhum Sultan Ismail、在位ざいい:1981ねん-2010ねん
  1. 1511-1528: Sultan Mahmud Shah I
  2. 1528-1564: Sultan Alauddin Riayat Shah II (Raja Ali/Raja Alauddin)
  3. 1564-1579: Sultan Muzaffar Shah II (Raja Muzafar/Radin Bahar)
  4. 1579-1580: Sultan Abdul Jalil Shah I (Raja Abdul Jalil)
  5. 1581-1597: Sultan Ali Jalla Abdul Jalil Shah II (Raja Umar)
  6. 1597-1615: Sultan Alauddin Riayat Shah III (Raja Mansur)
  7. 1615-1623: Sultan Abdullah Ma'ayat Shah (Raja Mansur)
  8. 1623-1677: Sultan Abdul Jalil Shah III (Raja Bujang)
  9. 1677-1685: Sultan Ibrahim Shah (Raja Ibrahim/Putera Raja Bajau)
  10. 1685-1699: Sultan Mahmud Shah II (Raja Mahmud)
  11. 1699-1720: Sultan Abdul Jalil IV (Bendahara Paduka Raja Tun Abdul Jalil)
  12. 1718-1722: Sultan Abdul Jalil Rahmat Shah (Raja Kecil/Yang DiPertuan Johor)
  13. 1722-1760: Sultan Sulaiman Badrul Alam Shah (Raja Sulaiman/Yang DiPertuan Besar Johor-Riau)
  14. 1760-1761: Sultan Abdul Jalil Muazzam Shah
  15. 1761-1762: Sultan Ahmad Riayat Shah
  16. 1762-1812: Sultan Mahmud Shah III (Raja Mahmud)
  17. 1812-1819: Sultan Abdul Rahman Muazzam Shah (Tengku Abdul Rahman)
  18. 1819-1835: Sultan Hussain Shah (Tengku Husin/Tengku Long)
  19. 1835-1877: Sultan Ali (Tengku Ali; tetapi baginda tidak diiktiraf oleh Inggeris)
  20. 1855-1862: Raja Temenggung Tun Daeng Ibrahim (Seri Maharaja Johor)
  21. 1862-1895: Sultan Abu Bakar Daeng Ibrahim (Temenggung Che Wan Abu Bakar/Ungku Abu Bakar)
  22. 1895-1959: Sultan Ibrahim ibni Sultan Abu Bakar
  23. 1959-1981: Sultan Ismail ibni Sultan Ibrahim
  24. 1981-2010: Sultan Mahmud Iskandar Al-Haj
  25. 2010-現在げんざい: Sultan Ibrahim Ismail Ibni Sultan Mahmud Iskandar

ジョホール王国おうこく歴史れきしてき意義いぎ

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『スジャヤ・ムラユ』の記述きじゅつをもとに復元ふくげんされたマラッカ王国おうこく王宮おうきゅう

ジョホール王国おうこくは、マラッカ王国おうこく後身こうしんとして現在げんざいマレーシアにつながっている[41]

たとえば、マレー古典こてんのなかでもとく重要じゅうようなひとつとみられているのが上述じょうじゅつの『スジャヤ・ムラユ』である[15]。この歴史れきししょは、1612ねん、ジョホール王国おうこく世襲せしゅう宰相さいしょう(ブンダハラ)によって現在げんざいのようなかたちにととのえられた[15]内容ないようはマラッカ王国おうこく歴史れきしで、アレクサンドロス3せい大王だいおう)にさかのぼり、パレンバンスマトラ島すまとらとう)のシュリーヴィジャヤ王国おうこくパラメスワラ王子おうじくというおうみつる神話しんわてき記述きじゅつにはじまり、マラッカの宮廷きゅうてい中心ちゅうしんとしたマラッカ王国おうこく建国けんこくとその黄金おうごん時代じだい、そして、1511ねんのポルトガルの侵略しんりゃくによる王国おうこく滅亡めつぼうまでを叙述じょじゅつしている[15]

また、マラッカ王国おうこく時代じだいのムラカで編纂へんさんされた「ムラカ法典ほうてん」は、シャリーア(イスラームほう)と在来ざいらい慣習かんしゅうほう統合とうごうしたものであり、これはジョホール王国おうこくにもがれて東南とうなんアジアの海域かいいき世界せかいでの商業しょうぎょう規範きはんとなった[7]。この法典ほうてんはジョホール・リアウ王国おうこくのみならず、アチェ、クダ、パハン、パタニ、ポンティアナックげんインドネシア・西にしカリマンタンしゅう)、ブルネイげんブルネイ・ダルサラームこく)などのしょみなとでも採用さいようされ、さい編纂へんさんされた[27]。この法典ほうてんのなかの「海事かいじほう」はとくに、船長せんちょう乗組のりくみいん役務えきむ権限けんげんのほか積荷つみにあつかいなどの詳細しょうさい規定きていであったが[7]、これもまた、ブギスじんによってさい編成へんせいされた[27]。その結果けっか、ムラカ-ジョホールの商業しょうぎょうネットワークをとおして、売買ばいばい賃貸ちんたい委託いたく取引とりひきなどをめぐる規範きはんをそのなかにもっているイスラームのおしえが重視じゅうしされた[7]東南とうなんアジアのイスラームは、大量たいりょう移民いみん軍事ぐんじてき征服せいふくによらずして既存きそん王国おうこく全体ぜんたいおう頂点ちょうてんとしてイスラームに改宗かいしゅうしたことが特徴とくちょうてきであり、それはしょみなとをむすぶ紐帯ちゅうたい規範きはんとして機能きのうした[40]

本来ほんらい、「マレーじん」とはマラッカ王国おうこく王族おうぞく貴族きぞくおよびムラカの地元民じもとみんしていた[7]。しかし、上述じょうじゅつのように、マレー世界せかいひろがりとともに、ミナンカバウじんやブギスじん交易こうえき参入さんにゅうし、ジョホール王国おうこく国内こくない政治せいじにおいても重要じゅうよう役割やくわりをになうようになると、「マレーじん」は、その出自しゅつじよりも文化ぶんか様式ようしきにもとづいてさい定義ていぎされることがおおくなった[27]。たとえば、リアウに居住きょじゅうしたブギスじんたちは、かならずしもマレーじんとの差異さい強調きょうちょうしたわけではなかった。ブギスじんは、マレーじんとのつうこんなどをとおしてマレー文化ぶんかしたしみ、自分じぶん自身じしんをマレー社会しゃかい一員いちいんかんがえていた[27]上述じょうじゅつの『トゥーファト・アル・ナーフィス(貴重きちょうおくもの)』の著者ちょしゃふく王家おうけつらなるブギスじんのラジャ・アリ・ハジは、自著じちょのなかでヨーロッパ文明ぶんめい傾倒けいとうして伝統でんとうてきなマレー文化ぶんか軽視けいししがちなリンガ諸島しょとう在住ざいじゅうのスルタンを批判ひはんし、マレーじん支配しはいしゃるべき行動こうどうただしいマレー使用しようほううったえているほどである[27]。そしてまた、マレーじん王族おうぞくとの共存きょうぞんを『クルアーン(コーラン)』をはじめとするイスラームの教義きょうぎのなかに見出みいだそうとしたのである[27]

さらに、現在げんざいのインドネシアの国語こくごであるインドネシア、マレーシアの公用こうようのひとつであるマレー、さらにブルネイの公用こうようブルネイ・マレー(ムラユ)はともに、かつてはムラカの言語げんごであったが、東南とうなんアジアの島嶼とうしょひろ商業しょうぎょうよう共通きょうつうとしてもちいられたところから、ジャワなど多数たすうしゃ日常にちじょうをさしおいて、それぞれのくに国語こくご公用こうようとして採用さいようされたものである[41]。マレー元来がんらい、リアウ・リンガ諸島しょとう付近ふきんはなされていたオーストロネシア語族ごぞくぞくするいち言語げんごであった[7]。これがムラカ-ジョホールの交易こうえきネットワークの拡大かくだいとともにアラビアペルシアタミル、ジャワなどの語彙ごいんで発展はってんしたのである[7]。なお、16世紀せいき初頭しょとう、マラッカ海峡かいきょうにおとずれたポルトガルじんトメ・ピレス英語えいごばんの『東方とうほう諸国しょこくポルトガルばん』によれば、このときスマトラ島すまとらとう東海岸ひがしかいがんかく地域ちいきではたがいにことなる言語げんごもちいられていたにもかかわらず、ほとんどのひとがマレー会話かいわ不自由ふじゆうしなかったという[41][注釈ちゅうしゃく 9]文字もじかんしても、マレーアラビア文字もじ表記ひょうきしようとしてまれたジャウィ文字もじ(バハサ・ジャーウィー)がもちいられ、法典ほうてん布告ふこく(ウンダン・ウンダン)、交易こうえき関係かんけい通信つうしん契約けいやく文書ぶんしょ条約じょうやく外交がいこう文書ぶんしょはもとより、年代ねんだい(スジャラ)・おうみつる(スィルスィラ)・系譜けいふ宗教しゅうきょうしょ(キターブ)、物語ものがたりなどそのさまざまな著作ちょさくがなされた[7][40]。そのてんでは、いま東南とうなんアジアの各地かくち熱心ねっしん信仰しんこうされるイスラームきょうとならんで、マラッカ王国おうこく遺産いさん今日きょうつたえる重要じゅうよう役割やくわりたしたといえるのである[41]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ マギンダナオ王国おうこくさかえたミンダナオ島みんだなおとう一部いちぶは、キリスト教徒きりすときょうとおお現在げんざいのフィリピンのなかでもイスラームの信者しんじゃおお地域ちいきとなっており、フィリピンでは「イスラム教徒きょうとミンダナオ自治じち地域ちいき」(ARMM)として一定いってい自治じちみとめている。
  2. ^ ミナンカバウおう祖先そせんスマトラ島すまとらとう創成そうせいしたとひろしんじられており、みずかいせいする霊力れいりょくをもち、大地だいちべる存在そんざいとして尊崇そんすうされていた。歴代れきだいのパガルユンおうは、スマトラの「やまおう」を自認じにんし、くも支配しはいし、黄金おうごんつかさどちからをもっているととなえ、大蛇おろちせいしたとされるスマンダン・キニ家宝かほうとして相伝そうでんした。ひろしまつ(2004)p.101
  3. ^ パガルユン王国おうこくは、1347ねん建国けんこくされたミナンカバウじん王朝おうちょうパドリ戦争せんそうなか1833ねんほろんだ。
  4. ^ ラジャ・クチルは、ジョホールおうとして「アブドゥル・ジャリル・ラフメット・シャーマレーばん」を名乗なのったが、ほんこうではしんスルタンのアブドゥル・ジャリル(=アブドゥル・ジャリル4せい)とまぎらわしいので「ラジャ・クチル」の表記ひょうき統一とういつする。
  5. ^ ガンビール(ガンビールノキ)は、アカネつる植物しょくぶつ。その煮詰につめてタンニン抽出ちゅうしゅつし、くすりようとして、あるいはペテール・チューイングようもちいられた。ひろしまつ(2004)p.40
  6. ^ 18世紀せいき後葉こうようえいふつ両国りょうこくは、ヨーロッパ大陸たいりくではななねん戦争せんそう1756ねん-1763ねん)、きたアメリカ大陸あめりかたいりくではフレンチ・インディアン戦争せんそう1754ねん-1763ねん)、インド大陸たいりくではプラッシーのたたか1757ねん)をそれぞれたたかった。いずれの戦争せんそうもイギリスがわ優位ゆうい終結しゅうけつした。
  7. ^ イギリスはナポレオン戦争せんそう終結しゅうけつ占領せんりょうしたジャワ島じゃわとうをオランダに返還へんかんした。当時とうじのイギリスははじめ東南とうなんアジアに進出しんしゅつするかんがえはなかったものとみられる。しかし、ラッフルズは本国ほんごく政府せいふのこうした態度たいど不満ふまんだったため、シンガポールとう上陸じょうりく強行きょうこうしたのである。石澤いしざわ&生田いくた(1998)pp.388
  8. ^ 海峡かいきょう植民しょくみん」には、1886ねんからココス諸島しょとうクリスマスとうが、1906ねんラブアンとうがそれぞれ編入へんにゅうされている。
  9. ^ ピレス『東方とうほう諸国しょこく』には、ムラカのみなとには、カイロメッカアデンのムスリム、アビシニアじんエチオピアじん)、キルワマリンディなどアフリカ大陸たいりく東岸とうがんひとびと、ペルシャ湾ぺるしゃわん沿岸えんがんホルムズひと、ペルシャじん、ルームじんギリシャじん)などを列挙れっきょしたうえで、「62のくにからの商人しょうにんあつまり、84もの言葉ことばはなされている」としるしている。尾本おもと(2000)

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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